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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

今年の締めは「古賀茂明講演会」&「鑑定士 顔のない依頼人」

2013-12-29 10:00:27 | カルチャー
 一昨日(28日)、紀伊國屋ホールで開催された古賀茂明氏の講演会<「原発ゼロ」のリアル>に足を運んだ。自身のメルマガを編集した「原発の倫理学」(講談社)の刊行記念イベントである。他の原発関連の講演会と異なり、客席には背広姿のサラリーマンの姿が目立っていた。

 配布された「古賀氏への質問書」に原発以外の内容が多かったこともあり、古賀氏は安倍首相の靖国参拝、特定秘密保護法について持論を展開する。長過ぎる〝枕〟に違和感を覚えた人もいたはずだが、「脱原発の思いは『原発の倫理学』で」が古賀氏の判断だったと思う。

 堅物というイメージはたちまち覆された。古賀氏はユーモアに溢れた語り口で聴衆を魅了するエンターテイナーで、反骨精神が顔を覗かせる。外務省に出向し南アフリカに赴任した80年代後半、古賀氏はANC(マンデラがリーダー)など、テロリストと報道されていた組織とも極秘に折衝する。日本では否定され、先進国では当然とされる二重外交を実践したのだ。

 マンデラの解放直後の演説に、古賀氏は衝撃を受けたという。「先立ってベルリンの壁が崩壊しました」が第一声だったからである。獄中で27年暮らしたマンデラは私憤や感情を一切語らなかった。時空の壁を易々と超え、現実を正しく把握していたマンデラの対極に位置付けたのが安倍首相である。

 官庁の体質、脱原発と護憲を軸にしたリベラル結集への思いなど示唆に富んだ内容だった。書き尽くせない部分は、「原発の倫理学」を紹介する稿で併せて記したい。

 日比谷で昨日(29日)、「鑑定士 顔のない依頼人」(13年、ジュゼッペ・トルナトーレ監督)を見た。都心の上映館は毎回ソールドアウトの状況で、人気に相応しい至高のミステリーである。前々稿に記した'13ベスト10、いやベスト3にも匹敵する作品だった。ご覧になる方の興趣を削がぬよう、手短に記したい。

 主人公のヴァージル・オールドマン(ジェフリー・ラッシュ)は超一流の鑑定士であり、同時に競売人でもある。その名が暗示するように、老いたヴァージルに女性経験がない。地下室に所蔵する膨大な絵のコレクションはすべて女性の肖像画で、ヴァージルは生身ではない女性に囲まれ、陶然とした表情を浮かべている。

 俺は鑑定や競売の仕組みは知らないが、ヴァージルは決して高潔ではない。相棒のビリー(ドナルド・サザーランド)と組み、自身が仕切る競売で巧みに利益を得ているからだ。名誉と地位、そして恐らく数十億の富を手に入れたヴァージルに、資産家令嬢のクレアから依頼が舞い込んだ。両親が遺した美術品を鑑定してほしいという。

 ヴァージルは屋敷に足を運ぶが、クレアは姿を見せない。タイトル通り〝顔のない依頼人〟なのだ。ヴァージルは鑑定に取り組みながら、あちこちに散乱しているオートマタの部品を収集し、ロバート(ジム・スタージェス)が経営する工房に持ち込んだ。ロバートはオートマタを復元しつつ、シャイな老人に恋の手ほどきをする。

 キーになる台詞は「贋作者は必ず痕跡を残す」、そして「愛までも偽装は可能」……。書けるのはここまでで、2度目、3度目の観賞後、見落としていた痕跡に気付くこともあるはずだ。細部にまで工夫が施された、知的で残酷なトリックといえるだろう。

 エンドマークの後、自らの来し方に思いを馳せた。愛だけでなく、誠実も情熱も確かに偽装不能ではない。華麗でも壮大でも悲劇的でもロマンチックでもないが、俺もまた、偽り続けてこの世を渡ってきたのだ。

 これから京都に帰り、東京には2日夜に戻る予定。この一年、書き殴りの戯言にお付き合いいただいてありがとう。よいお年をお迎えください。
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この一年を振り返る~顕在化した二つの崩壊

2013-12-26 23:33:42 | 社会、政治
 天皇は誕生日の会見で、現憲法への思いを語った。皇后も自身の誕生日、自由を尊重した五日市憲法草案に言及している。森達也も朝日のインタビューで語っていたが、現在の皇室は<護憲派のシンボル>としてリベラルの支持を得ている。日本の近現代史上、画期的な光景を我々は今、目の当たりにしているのだ。

 「報道ステーション」は天皇発言の芯を伝えていたが、NHKは安倍政権に都合の悪い部分を故意にカットし、捻じ曲げて報道した。国営放送らしく中立を放棄し、権力の道具になっている。

 きょう(26日)、普天間基地の辺野古移設が民意に反する形で決まるや、安倍首相は靖国に参拝した。米大使館は間髪入れず、「本国政府は失望している」との声明を発表する。麻生ナチス発言の時にも感じたが、日本は異質な国としてグローバルな海を漂流しつつある。

 天皇はラディカルな沖縄の地方紙を取り寄せ、県民の反基地の思いに触れている。憲法改正で天皇元首化を目論む安倍首相だが、世が世ならその言動は〝逆賊〟だ。俺の読み違いかもしれないが、「ロンリー・ハーツ・キラー」(04年)の著者である星野智幸は10年前、今日の奇妙な歪みを近似的に予感していたように思える。

 今年、二つの崩壊が顕在化した。まずは仕組みの崩壊だ。国民の過半数は脱原発を支持しているが、国会は自公に民主と推進派が圧倒的多数を占めている。特定秘密保護法も同様で、楽々と可決された。消費税が導入されるや格差は広がり、生活苦に喘ぐ国民が続出するだろう。だが、貧困層の声を吸い上げる勢力は永田町で少数だ。

 今世紀に入って南米に端を発し、欧州、そしてアメリカにまで直接民主主義を掲げる動きが波及した。日本だけでなく、選挙制度が世界中で疲弊しているとも受け取れる。民衆の声が政治にストレートに反映するという民主主義の理想を実現している国は、果たしてどれだけあるだろうか。

 辺野古移設を受け入れた仲井真知事の変節が直近の例だが、仕組み以上に壊れているのが内面だ。大震災からの復旧が進まないのに、莫大な工費と労力を要する東京五輪の開催が決まる。原発事故よる汚染水処理に効果的な手段はなく、若い層の深刻な体内被曝を指摘する報告も多い。なのに首相は、セールスマンとして原発を売って回っている。これはもう、政策という次元の話ではない。倫理と良心の欠落と捉えるべきだ。

 学校のいじめどころか、大企業と政府が一体となって労働者をいじめている。広告絡みゆえ、追い出し部屋やブラック企業を真正面から批判するマスメディアは皆無だ。安倍政権は企業が社員のクビを自由に切れるルールを策定しようとしている。リストラされた社員が死を選ぼうが、一切の痛痒を覚えない。食品偽装が最もわかりやすい例だが、儲かれば、株価が上がれば何をしても許されるという、横並びの拝金主義がはびこっている。

 クンクン嗅いでみると、ひどく臭う。と思ったら自分の腐臭だった。心身ともとっくにクチクラ化している俺に、能書きを垂れる資格がないことは重々承知の上だ。他人事のように嘆くのは無責任だから、思いを形にしようと考えている。
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「ブランカニエベス」~毒と謎が垂らされたメルヘン

2013-12-23 22:54:58 | 映画、ドラマ
 前稿の枕で、「宇都宮健児氏の再立候補を願う」と記したが、希望は現実になりそうだ。あらゆる点で安倍政権と志向が真逆な宇都宮氏は、都知事選で都民を覚醒させることは出来るだろうか。

 年末はベストテンの季節だ。まずはロックから。俺のベスト3はローカル・ネイティヴス「ハミングバード」、シガー・ロス「クェイカー」、フレーミング・リップス「テラー」だが、いずれも海外メディアでは低評価だ。あと2作挙げれば、フォールズ「ホーリー・ファイア」、アーケイド・ファイア「リフレクター」である。

 ミューズ、パティ・スミス、グリズリー・ベア、シガー・ロス、頭脳警察,フレーミング・リップスと足を運んだライブ全てに感銘を受けた。アルバムといいライブといい、'11は俺にとり、近年希に見る〝ロック豊饒の年〟だった。来年はビッフィ・クライロ、アーケイド・ファイアの来日を心待ちにしている。

 次に、今年公開された映画のベストテンを見た順に記す。

「レ・ミゼラブル」(トム・フーパ-、厳密には12年末公開)
「ライフ・オブ・パイ」(アン・リー)
「シュガーマン 奇跡に愛された男」(マリク・ベンジェルール)
「ジャンゴ 繋がれざる者」(クエンティーノ・タランティーノ)
「舟を編む」(石井裕也)
「殺人の告白」(チョン・ビョンギル)
「嘆きのピエタ」(キム・ギドク)
「標的の村」(三上智恵)
「地獄でなぜ悪い」(園子温)
「ある愛へと続く旅」(セルジオ・カストリット)

 その日の気分で選ぶ作品は変わりそうだが、「嘆きのピエタ」、「ライフ・オブ・パイ」、「ある愛へと続く旅」が不動のベスト3だ。とりわけ人間の業と深淵に迫った「嘆きのピエタ」の衝撃は、パゾリーニのレベルに達している。韓国映画の底力を改めて認識させられた。

 先日見た「ブランカニエベス」(12年、パブロ・ベルヘル監督/スペイン・フランス合作)もベストテン候補の佳作だった。モノクロの芸術映画と勘違いしていたが、ラストの10分を除けば、クリスマスシーズンに相応しいメルヘンだった。

 「ブランカニエベス」とは「白雪姫」で、同名のグリム童話をモチーフにしている。幕開けは1920年代初頭で、コロッセウムに集う観衆の視線は当代一の闘牛士、アントニオ・ビヤルタ(ダニエル・ヒメネス・カチョ)に注がれていた。そこで二つの悲劇が連鎖する。アントニオは牛の角の餌食になり、妻カルメン(マカレナ・ガルシア、2役)は産気づいて搬送されたが、娘(カルメン)を産んだ直後、絶命する。

 隠遁を余儀なくされたアントニオの後妻に、財産目当てのエンカルナ(マリベル・ベルドゥ)が収まった。祖母を亡くしたカルメンは父の元に引き取られるが、エンカルナの無慈悲な仕打ちが待ち受けていた。カルメンは継母の目をかいくぐり、父に直々、闘牛の技術と心得を教わることになる。

 細部まで計算され尽くされた映像と音楽のコラボも完璧で、緊張感が途絶えることがない。HPやポスターではエンカルナが主役扱いになっている。マリベル・ベルドゥが表現した魔性とフェロモンがスクリーンから零れ落ちていた。

 成長するにつれ、カルメンは母譲りの美貌を誇るようになる。魔法の鏡に「世界で一番美しいのは誰」と問うた原作の継母(=王妃)同様、エンカルナは嫉妬のあまり、カルメンを殺すよう軍人(愛人?)に命じる。30年代半ばといえば、スペイン内戦の時期と重なる。本作のエンディングには、時代の暗い影が反映しているのかもしれない。

 記憶を失ったカルメンを助けたのが、7人からなる小人闘牛士団だ。全国を回るうち、カルメンは記憶を取り戻し、父から受け継いだ才能を開花させていく。辿り着いたのは、父が喝采を浴びたセビリアのコロッセウムだった。

 カルメンに思いを寄せる小人の闘牛士、悪意を抱くリーダー、アクシデントを克服し牛を自由自在に操るカルメン、そしてエルカルテの毒リンゴ……。ステレオタイプの貴種流離譚に、王子になり得ないフリークスの思いが重なり、結末に至る。毒と謎が垂らされたメルヘンに、ペトロ・アルモドバルの作品に似た後味を覚える人も多いだろう。カルメンの涙をどう捉えるかは、それぞれに委ねられている。

 今年は月3~5回、映画館に足を運んだ。来年もこのペースを維持し、当ブログで紹介していきたい。
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原発に翻弄された馬と人々~「祭の馬」が映す寒々とした国の形

2013-12-20 13:21:03 | 映画、ドラマ
 猪瀬直樹都知事が昨日、辞意を表明した。検察とメディアを思いのまま操作した安倍首相は、五輪利権をゲットして悦に入っていることだろう。与党が推す後任候補には〝首相のロボット〟たちの名が挙がっているが、反貧困ネットワ-クの一員である俺は、宇都宮健児代表の再立候補を切に願っている。

 三宅洋平氏(緑の党)らと連携して前回票(100万弱)を上積みしても、当選ラインは遠いだろう。だが、クチクラ化した永田町には、<脱原発・反特定秘密保護法と護憲・反貧困・反辺野古移転>の思いを託せる議員はいない。宇都宮氏の票は希望の灯になり、燎原の火になって全国に伝わるはずだ。

 猪瀬会見と相前後して、「餃子の王将」社長射殺の一報が飛び込み、仕事先(夕刊紙)のフロアは騒がしくなった。乙に澄まして繊細な味を楽しむのも京風なら、ガサガサガツガツ貪るのも王将が代表する京都の文化で、俺が親しみを抱くのは明らかに後者だ。手慣れたプロの犯行にも思えるが、〝ブラック〟ともいわれる企業を襲った事態の推移に注目している。

 イメージフォーラムで先週末、「祭の馬」(13年、松林要樹監督)を見た。一頭のサラブレッドに焦点を当てつつ、3・11に翻弄された人々の苦難に寄り添っていた。

 前稿の枕で、「特定秘密保護法によってドキュメンタリー映画は壊滅する可能性がある」と記した。本作のパンフレットで松林監督は、インタビューに答え、以下のように語っている。

 <この法律(特定秘密保護法)の問題点は、何を「秘密」にするかフリーハンドになっている点。原発事故による被害が「秘密」に指定されれば、20㌔圏内の実情をテーマに掲げた作品は法律違反になる。「知る権利」だけでなく「表現する権利」まで制限する危険な法律だ>(論旨)

 南相馬市原町で馬たちが取り残された。事故から約1カ月、馬主の田中さんが撮影スタッフを伴って戻ってみると、餓死した馬が折り重なっている。冒頭の無残な姿に息をのんだ。田中さんは食肉用馬を扱う業者だが、1年でされる約1万頭のうち、殆どがサラブレッドだ。痩せ衰えた馬の中にミラーズクエストがいた。中央、地方(水沢)で4回走り、負かした馬は1頭だけという惨憺たる成績だった。食肉になるべく田中さんの元にやってきたが、引退から2カ月後、東日本大震災が起きる。滑稽でもあり悲しくもあるのが膨張した局部で、黴菌で神経を侵され元に戻らない。

 政府と県の微妙な対応の食い違いがあり、法の網をかいくぐった業者は事故後、管理馬の肉を流通させる。そもそも日本は〝民に手厚く〟という精神が伝統的に欠落しており、田中さんのように正直に従った業者は追いつめられていくだけだ。

 食用は不可能で、怪異な姿ゆえ乗馬用も難しい。死に至らせるのも一つの方法だが、ミラーズに晴れ舞台が用意される。タイトルにあるように「祭」即ち相馬野馬追で、準備のため北海道に放牧に出された。競走馬時代の関係者の縁もあったのではないか。牧場で群れに交じってリラックスし、野馬追で颯爽と風を裂くミラーズの姿に心が和んだ。

 利益を生まない限り死が待ち受けているのは、経済動物をめぐる冷徹な構図で、そこに愛という感情が滲むことはない。ミラーズだけでなく、サラブレッドの瞳には狂気と諦念が宿っている。〝種の宿命〟を、彼らは本能で察知しているのだ。祭の後、ミラーズは去勢され、無人の区域が終の棲みか(死に場所)になった。

 本作を見た後、有馬記念の予想というのも気が引けるが、既に召されているはずのミラーズに重なる馬を週明けから「競馬ブック」で探していた。まずは騙馬の③カレンミロティック、ミラーズの父クリスタルレコードに騎乗していた蛯名が駆る⑧ラブリーデイ、ミラーズが中央で唯一使ったレースで管理馬を走らせていた相沢厩舎の④ヴェルデグリーンをピックアップする。

 上記3頭を⑥オルフェーヴルと⑯トーセンジョーダンに絡め、少額投資で淡々と観戦するつもりが、気が変わった。昨日発売の東スポ1面で、かのアンカツ(安藤勝己氏)が、オルフェの相手にカレンとラブリーが面白いと書いている。慧眼の予想が手向け馬券とくしくも一致した。的中すれば友人を通して、引退馬協会に寄付することにしよう。
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「歌うクジラ」~村上龍が描く未来という廃墟

2013-12-17 23:53:43 | 読書
 仕事先の担当記者によると、秘密保護法によってドキュメンタリー映画は壊滅する可能性がある。「国家権力の闇を穿つ作品は紹介できない」と、メディア関係者は既に屈服しているという。〝沈黙という狂気〟は密度を増し、世間を覆いつつある。

 映画人は抗議の声を上げたが、作家たちは<温い構図>に安住しているのではないか。<石破幹事長はテロ発言を謝る必要はなかった>と「週刊新潮」が主張したように新潮社は秘密保護法賛成で、原発推進派でもある。どうして大江健三郎や高村薫は版権を引き上げないのだろう。イスラエルにおける<卵と壁>のスピーチは格好良かったが、村上春樹は日本で壁を補強する側である文藝春秋と親密で、月刊の最新号で小説を掲載している。

 星野智幸はツイッターやブログで秘密保護法への本質的な批判を展開しているが、残念ながら知名度が低い。大物で反対の意思を鮮明にしたひとりが、今回取り上げる村上龍だった。

 心身の老化は当ブログでぼやいている通りだが、「ここまできたか」と愕然とする事態に直面する。この1カ月、続けて本を放り出してしまった。フォークナーの「アブサロム・アブサロム!」と平野啓一郎の「葬送」で、精神と気力を総動員しなければ対峙出来ない重厚な壁に、俺は完璧に跳ね返された。

 「これも無理かな」と不安を抱きつつ、村上龍の「歌うクジラ」(10年、講談社)を読み始めた。上下で700㌻弱の力作だが、何とか読了できた。80年以降、日本文学を牽引したのは春樹と龍のW村上だが、俺は当時、安部公房、石川淳、開高健ら旧世代、リョサ、マルケス、プイクら南米文学に魅せられていた。以降も、カズオ・イシグロと高村は例外だが、同時代の日本人作家と縁がなかった。

 平野の「決壊」に衝撃を受け、5年前に最前線の作品を読むようになった。村上龍の作品はここ20年、一冊しか読んでいないから、語る資格はない。そのことは重々承知の上で、「歌うクジラ」の感想を記したい。

 俺は村上について、先入観を抱いていた。迸る感性、壁を破る暴力性、不良性といったイメージだが、本作の印象はまるで異なる。<文学はこうあるべき>という高邁な理想の実現に邁進する誠実な作家像が浮かんできた。

 主人公は15歳のアキラで、階層が固定し廃墟と化した100年後の日本が舞台だ。アキラは導かれるように下層階級が住む島を出る。肉体に填め込まれたチップをある者に渡し、社会を改革するという目的があった。父が遺したサーバーで管理されたデータに触れてきたアキラは様々な事象や歴史を、机上の知識として蓄積していた。

 生命実験を繰り返すうち、毒性の液体を分泌する変異した人間が生まれた。彼らはクチチュと呼ばれ、そのうちのひとりであるサブロウがアキラの最初の同行者になる。アキラとサブロウは、移民の子孫たちの一団と出会う。中国地方を拠点に勢力を保った移民たちは、反乱を起こして鎮圧された。最初は誤植かと思ったが、彼らは日本語を壊して会話する。社会から排除された敬語を旧世代の日本人のように用いるアキラ、助詞を誤用する反乱移民の子孫という設定に、アイデンティティーの差が表現されていた。

 アキラは移民の子孫アンに恋心を抱く。欲望がコントロールされ、愛という概念と切り離された社会で、アキラは両方が一致する対象としてアンを捉えている。ちなみに、未来の日本では下層階級の少年少女は特権階層の性の玩具になる。アキラもサツキという年齢不詳の女性にあてがわれていた。

 サブロウ、アンに続き、人間と猿の遺伝子を併せ持つ優秀な女性飛行士ネギダールがアキラの同行者になる。自らを「おれ」と呼ぶネギダールの佇まいを表現しているのは、センテンスが延々と続くその語り口だ。試練を潜り抜けてひとりになったアキラは宇宙へ旅立つ。待ち受けていたのは、ヨシマツと呼ばれる怪異な支配者だった。

 村上は哲学を帯びた言葉の爆弾を降り注ぐ。冗舌さに辟易し、パンチドランカーになって脳が痺れ、細部がぼやけてくる。と同時に、芯の部分が浮き彫りになってくる。それは、広大な伽藍を崩壊させる一本の梁とでもいうべきか。

 ラストに近づきながら、ある疑問を覚えていた。小説とは遡行しながら進行するのが常だ。本作ではメモリアックという装置が過去と現在を繋いでいるとはいえ、触感のする登場人物がアキラの周りから消えていき、再び現れない。消化不良を覚えていたが、最後に救いとカタルシス――俺の読み違いかもしれない――が用意されていた。

 <大切なことを理解した。ぬくもりも音も匂いもない宇宙の闇の中で、気づいた。生きる上で意味を持つのは、他人との出会いだけだ>

 傷ついたアキラが行き当たった真実を、村上はこのように記している。アナログに聞こえるが、人類史を敷衍しつつ旅を終えたアキラの独白が、胸に新鮮に響いた。

 70年代後半、「平凡パンチ」(恐らく)で、時代の寵児と並び称せられた村上龍と長谷川和彦が対談していた。村上は還暦を過ぎても良質の小説を世に問い、長谷川は「太陽を盗んだ男」(79年)以来、一本の映画を撮ることなく消えた。2人の天才が辿った道は、天の配剤と片付けるのはあまりに残酷すぎる。
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笑いに身を削った桂枝雀の生きざま

2013-12-14 23:37:28 | カルチャー
 みんなの党を離党した江田憲司衆院議員らに、維新の橋下派、民主の細野グループが合流する。護憲と脱原発を掲げるわけでもなく、俺が期待するリベラル連合と程遠い有象無象の野合といえる。

 前兆はあったが左膝内側が悲鳴を上げ、接骨院で施療を受けた。その甲斐あって一昨日(12日)、柳家小三治の独演会(銀座ブロッサム)に参加することができた。同会場で開催された「花緑と三三の2人会」のほぼ倍の観客で、その人気に陰りはない。

 10月に鈴本演芸場で見た折、俺の目(耳)にも小三治は不調と映ったが、今回は表情豊かに「青菜」と「初天神」を演じていた。間とテンポは抜群で、時を忘れて聞き惚れてしまう。ちなみに枕は「青菜」が2分ほど、「初天神」はなしと、〝枕の小三治〟にしては珍しく、予定より15分ほど早く終演する。体調を案じる声が周囲で上がっていた。

 小三治は〝遅れてきた噺家〟かもしれない。立川談志は1936年生まれ、古今亭志ん朝は38年生まれ、桂枝雀は小三治と同じく39年生まれと、同世代には綺羅星の如く才能が揃っていたが、いずれも鬼籍に入った。その中のひとりである枝雀の生きざまを、周囲の証言を織り交ぜて追った「君は桂枝雀を知っているか」(13年)がBS朝日で放映された。このドキュメンタリーを見て、枝雀の人気が桁外れだったことを再認識する。

 小米時代、枝雀は師匠である米朝の影響もあり、古典をレパートリーにする正統派だった。同時に襲名した桂福団治と、「落語とは額縁芸能で、枠内でどう個性を出すかが勝負」(要旨)と語り合っていたそうだ。ところが枝雀襲名後、大きなアクションとコミカルな表情でファンの笑いを取るようになる。最初の鬱病で死と向き合ったことを、福団治は変貌の理由に挙げていた。

 枝雀は落語界のパンクなのか。俺が親しんでいる江戸落語は〝額縁〟の中で芸を磨くのが当たり前で、異端児と呼ばれた談志も当初、枝雀に否定的だったという。「父は決して明るい人ではなかった」と息子が証言していたように、枝雀は内向的な性格だった。だから「笑顔の稽古をし、笑顔の仮面を着ける続けることを目指した」(落語作家の小佐田氏)。笑顔が芸風の変化の第一歩だった。

 枝雀は<緊張と緩和>を掲げ、実践する。変化と進化を自らに課し、時に過去の自分をも壊す。小佐田氏によると、一度受けても同じ流れを繰り返さないと決めていたらしい。笑いの性質を13に分類して噺に導入したり、綿密な構成を用意して高座に臨んだりと、理詰めで笑いを追求していた。ざこば(弟弟子)は対談で、人生について滔々と語る枝雀に「そこまで考えたらしんどいやろ」と返していた。枝雀は人生、そして笑いについて徹底的に向き合っていた。一方で、米朝ら一門の噺家や家族が紹介するエピソードの数々に噴き出してしまった。

 枝雀は奥さんや息子に意見を求め、噺に取り入れたこともあった。子供のように純粋で、上から目線と無縁に、誰の声にも耳を傾けていた。自らの高座や出演したドラマを楽しそうに見ていた枝雀について、「父は客観と主観を切り分けて自らを眺めていた」と次男が語っている。

 ざこばは大受けして戻ってきた枝雀が、「あかんかった」と洩らしたことに衝撃を受けた。本作を締めた南光(一番弟子)の言葉が印象的だった。枝雀が最後の鬱を克服して存命だったら、「すべての鎧を脱ぎ捨て、シンプルかつコンパクトな語り口の噺家になっていたのでは」(要旨)と話していた。

 ギャグとポップは創り手を蝕む……。俺は当ブログでこう記したことがある。身を削って笑いを追求した枝雀の苦悩がいかほどか、落語初級者かつ超凡人の俺に理解できるはずもない。

 最後に朝日杯の予想を。③アトムと⑭ウインフルブルームを軸に、⑧ニシノデンジャラスと⑬プレイアンドリアルを絡めた馬連と3連単を買うつもりだ。POG指名馬ハイアーレートは現在ブービー人気で、結果も似たようなものだろう。〝肉親の情〟で、上記4頭とのワイドを100円ずつ購入することにする。
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「ライヴ・アット・ローマ・オリンピック・スタジアム」~ミューズを育てた見えざる手

2013-12-11 23:51:03 | 音楽
 忌野清志郎が健在だったらと思うことがある。ファンではなかったが、脱原発や反秘密保護法の立場で、的を射たメッセージを彼なりの方法で伝えてくれたのではないか。

 アメリカに果たして、清志郎的な存在はいるだろうか。オバマ再選に涙したボブ・ディランを筆頭に、大半のミュージシャンは民主党の飼い犬になっている。反組合法への抗議から「ウォール街を占拠せよ」に至る大きなうねりがアメリカを覆った2年前、一貫して<99%>の側に身を置いて行動したのはトム・モレロ(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン)だった。

 ケニア土地自由軍の一員だったモレロの父は、後に同国の国連代表になる。テロリストから政権掌握といえば、重なるのがネルソン・マンデラだ。ちなみに当人はハーバード大首席卒業で、サパティスタの闘士であるザックとレイジを結成し、ラディカルなメッセージで世界を震撼させた。

 さて本題。映画館でも見たミューズの「ライヴ・アット・ローマ・オリンピック・スタジアム」(DVD)について記したい。史上最高のライブバンドと評する声も強いが、今回は<なぜ彼らは世界を舞う怪鳥になったのか>という点にポイントを絞りたい。

 才能の絶対値がものをいう世界でも、素材を磨く力は大きい。3rdアルバム発表直後のU2とエコー&ザ・バニーメンの来日公演(83年)を中野サンプラザで見ているが、比較が無意味なほどの差があった。エコバニはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの再来、80年代のドアーズと謳われ、聴く者を狂気に誘うパフォーマンスに神々しさを覚えていた。才能があり過ぎたエコバニだが、育まれることなく、イカロスのように失墜する。

 最初から凄まじかったエコバニのライブと対照的に、余り券をもらって見たミューズは蒼い雛だった。ミューズの1stはUKチャートの最高位が29位と、将来は明るくなかったが、彼らは強力な〝見えざる手〟に守られていた。日本風にいえば、事務所の力といったところか。

 04年のグラストンベリーでヘッドライナーに抜擢され、ベストアクトの評価を受けた。07年のロラバルーザでは、主宰者ペリー・ファレル(オルタナ界の大立者)の引きもあってヘッドライナーを務め、不毛の地だったアメリカでアリーナバンドの地位を確立する。同年、ウェンブリー・スタジアムのこけら落としに指名され、2日で16万人を動員する。ロンドン五輪では「サバイバル」が公式テーマに選ばれた。

 試練を僥倖に変えるのも実力で、ミューズのパフォーマンスは進化、深化を繰り返している。デビュー間もない頃から、分不相応と揶揄される高額の最新機器を導入していた。フェスの映像もミューズだけ自前のチームで撮影している。ツアースタッフは質量とも他のバンドを凌駕していることは明らかだ。

 ミューズは上記したレイジに絶大なるオマージュを抱いている。彼らにとって最大の栄誉は2年前、レイジの活動20周年イベントの出演を直々オファーされ、数万の聴衆の前で共演したことではないか。曲以外で政治的なメッセージを表現することを極力避けているのも、〝見えざる手〟の意志かもしれない。

 俺は「ライヴ・アット――」の曲順に注目した。「レジスタンス」(抵抗)の前にマシュー・ベラミーは「みんなの声を聞かせてくれ」とMCをかましていた。<1%>の資本家を穿つ「アニマルズ」ではスクリ-ンから抜け出た男が紙幣をばらまき、プロテストソング「ナイツ・オブ・サイドニア」へと続く。逃げ惑う若者たちの映像に繋がるのは「アップライジング」(叛乱)で、マシューは右手を突き上げてアジテーションする。そこには、〝見えざる手〟、いやバンドの思いが示されているのだろう。

 ミューズは今や、資本主義とラディカリズムのアンビバレントを内包するバンドといえる。先日、ペイトリオッツとブロンコスの全米注目の試合を録画して見た。キックオフ前、会場に流れていたのは「スプレマシー」である。そのあたりにまで〝見えざる手〟の力は及んでいるのだろうか。
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汚部屋の考現学~ようやく他力でクリーニング

2013-12-08 19:06:00 | 戯れ言
 ネルソン・マンデラ元南ア大統領が亡くなった。マンデラはANCの闘士としてアパルトヘイトに挑み、30年近い獄中生活を耐え抜いた。日本で死語になった<信念>と<矜持>を身を以って示した革命家の死に、心から哀悼の意を表したい。

 サッカーW杯の組み合わせが決まった。40年前(西ドイツ大会)、斬新なプレーに魅せられサポーターになったオランダだが、心配なのは管理とシステムを好むファンハール監督だ。〝時代遅れ〟の印象を拭えるだろうか。

 慌ただしい師走、俺もあれこれ忙しい。そのため、ブログ更新が1日遅れになった。木曜は仕事後に京都へ帰り、翌日に所用を済ませ、トンボ返りで深夜作業だ。1泊した親戚の寺では褪せていたが、昨日は六義園で紅葉のライトアップを楽しんだ。梅、桜、蛍、花火、そして頻繁に訪れる寄席……。俺の感性は年を経るごとに和製化し、柔らかくなっている。

 3・11以降、怒りと憂いで泣くことが増えた。最近では、秘密保護法の強行採決である。国会周辺での抗議には参加できなったが、闘いはこれからだ。内閣支持率低下は自公政権にとってボディーブローになる。国民の反対運動と監視の継続で、施行不能に追い込むことも可能だ。

 能天気でプラス思考の俺だが、当ブログでは世捨て人の如く嘆いている。国民と永田町とのパイプは詰まり、世界は日本を異質な国と見做すようになってきた。腐臭が漂っているこの国に、なぜ誰もメスを入れようとしないのだろう。

 答えらしきものが見えてきたのは、我が身を案じている時だ。物忘れがひどくなり、注意力が極端に落ちた。肩、右腰、左膝が痛く、長年の不摂生で内臓にもガタがきている。目を覆うのは俺の棲む汚部屋だ。

 パソコンの不調で電器屋を呼ぶため、付け焼き刃で掃除したのは2年前。以降は放置していた。世の腐敗を語る前に、まずは部屋を奇麗にしよう……。そう思ったが、どこから着手すべきか迷っていた。マンデラの1万分の1ほどの決意が湧いてこないのだ。

 汚部屋ぐらいすぐ片付くはずだが、社会となると容易ではない。政官財の原発を巡る癒着、猪瀬知事の5000万円受領で明らかになった政界のしがらみ、沖縄の声と遊離した日米関係、食材偽装が常態化した業界の仕組み……。国を覆うクチクラ化を知る元官僚の古賀茂明、天木直人氏らは警鐘を鳴らしているが、孤立を恐れず一歩踏み出す人は現れない。数十年かけた腐蝕を除くためには、気が遠くなるような時間と手間がかかるからだろう。

 奇麗好きな人は、平気で散らかす俺にイライラするらしい。俺はというと、ゴミに囲まれていると落ち着くぐらいだ。明らかな病と狎れ合ってきたが、上記した物忘れが日常生活を脅かすようになる。パティ・スミスのTシャツ、印鑑証明カードは今も見つからないまま。事ここに至り、遂に大掃除を決意した。自力ではなく、業者に頼んで……。

 見積もりにやって来た業者は、「床が見えてるやん。思ったよりましやで」とざっくばらんに関西弁で話していた。その会社のHPにアップされた〝業前の様子〟を見て、同病相憐れむではないが、少し安心する。リバウンドすると思われるだろうが、俺は「絶対、いや、当分ない」と断言する。部屋を清潔に保ち、心と体を浄め、脳をクリアにすることが、今後の人生の目標だ。

 最後に、競馬の感想を。阪神ジュベナイルFを制したのはレッドリヴェールだった。過酷な馬場で札幌2歳Sを制した同馬だが、疲労残りが伝えられ、臨戦過程を不安視する声も強かった。8㌔減もあり人気を落としたが、凄まじい勝負根性に圧倒される。

 ロードカナロアが圧勝で香港スプリントを連覇し、引退レースを飾った。スプリント界初の年度代表馬選出が確実になった。トウケイヘイローは香港カップで②着と大健闘する。キズナは有馬記念を回避したが、武豊復活を印象付ける一年だった。
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「吸血鬼」&「奇跡」~ドライヤーが描く薄明の白夜

2013-12-04 23:52:44 | 映画、ドラマ
 当ブログでは、星野智幸を頻繁に紹介している。小説の質の高さは言うまでもなく、社会と対峙し、問題意識を作品に取り込む姿勢は称賛に値する。主戦場はツイッターだが、たまに更新されるブログ(「言ってしまえばよかったのに日記」)も示唆に富んだ内容だ。最新稿(11月21日更新)では、<絶対>と<相対>をキーワードに秘密保護法を批判していた。

 教会や皇帝の<絶対的な言葉>に民衆が疑いを抱いたことが民主主義の端緒と考える星野は、以下のように述べている。

 <秘密保護法が成立すれば、秘密であると指定された中身を疑うことが許されない。秘密指定に制限がなく、期間をおいた後の公開も義務づけられていない。秘密は<相対化>されず、権力者の匙加減で闇に葬り去られ、秘密に抵触したという理由だけで罰せられる。秘密を指定する権力者は<絶対的な存在>になり、<絶対的な言葉>を以って社会を司り始める。<ルールの相対化>が根幹であるはずの民主国家に<絶対的な領域>が存在することは、民主主義の土台からの崩壊を意味する>(要旨)

 俺の理解不足や勘違いもあり得るので、関心のある方は原文を一読していただきたい。秘密保護法に警鐘を鳴らした国際ペンクラブや国連人権高等弁務官の見解も、星野と共通する点が大きい。

 さて、本題……。<絶対>と<相対>の対立軸と多少の関係はあるが、イマジカBSで録画したカール・テオドア・ドライヤーの「吸血鬼」(30年)と「奇跡」(54年)を紹介する。デンマーク現代史に疎い俺には難解で、〝映画ファン〟より岩波ホールに集う〝映画学徒〟に相応しい作品だ。ボロが出ないよう、簡潔に記したい。

 まずは「吸血鬼」から。〝怪奇おたく〟の青年が、フランスの田舎町を訪れる。静謐で繊細な音楽と実験的な映像のコラボにより、神秘的かつ妖しいムードが漂っている。吸血鬼は影絵で表現されていた。領主の娘レオーネの、天使と悪魔が同居する表情の変化を捉えたカメラ回しが秀逸だ。罪の意識、死への志向、血への欲望がモノクロームの画面に焼き付けられていた。

 吸血鬼のボスは女性で、下僕として仕える医師に重なったのが、「ドクトル・マブゼ」(22年、フリッツ・ラング監督)だ。吸血鬼という前近代的なテーマを扱いながら、表現主義、シュルレアリズムといった当時の文化潮流を反映し、進歩と未来を見据えている。

 セリフは最低限でイメージの連なりといえる「吸血鬼」と同様、1925年のデンマークを舞台にした「奇跡」にも悲劇のヒロインが登場する。モルテン・ボーエンの長男ミッケルの嫁であるインガだ。「吸血鬼」のレオーネは家族にとって〝余計者〟でもあったが、「奇跡」でその役割を担っているのは次男ヨハンネスだ。一家の太陽といっていいインガは妊娠中に倒れ、死の淵を彷徨う。一方のヨハンネスは、神学校で学ぶうち狂気の舌に舐められ、自身がキリストであるかのように振る舞っている。

 農場主であるボーエン家は明るくて前向きな、そして仕立て屋のペーター家は戒律に厳しい宗派を、それぞれ信じている。家長には長年の確執があり、経済的な格差も存在する。プロテスタントとカトリックに置き換えて見ていたが、復習してみると単純な構図ではないらしい。信仰の<絶対的な差>が横たわる両家に、ロミオとジュリエットがいた。ボーエン家の三男アナスとペーター家の娘アンネは愛し合っている。結婚の了承を求めて訪ねてきたボーエンをペーターは拒絶し、インガの病を「信仰心が足らないから」と言い放つ。

 無神論者の長男、一家の信仰の浅さをなじる次男、恋により対立する宗派に取り込まれそうな三男……。頼りにしていたインガが倒れ、モルテンは絶望の底で神に赦しを請う。牧師や医師は<科学を覆すような奇跡は起きない>と断言するが、奇跡的に快復を見たはずのインガの容体が急変する……。

 インガの告別式に複数の奇跡が起きる。モーデンとペーターは和解し、失踪していたヨハンネスが正気に戻って現れ、キリストのような奇跡を起こす。一見ハッピーエンドだが、俺はエンドマークの後のストーリーに思いを馳せた。世間はインガをどう見るだろう。禍々しい存在(≒魔女)として、畏れや忌避の対象になっても不思議ではない。本作が1925年以降のデンマーク史――とりわけナチスドイツとの関わり――を反映していることも想像に難くない。

 薄明の白夜の如きドライヤーの世界に魅せられた。両作は抽象的なテーマを追求しているが、優れたホームドラマでもある。レオーネとヨハンケスも家族によって守られたことは、不幸な生い立ちの監督自身の願望といえるだろう。俺は先月までドライヤーの名前を聞いたことがなかった。死ぬまでに知り得るのは、広大な世界でせいぜい1㍉四方でしかないと改めて実感する。


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涙目のモリッシー~「25ライブ」で愛を告白

2013-12-01 19:02:16 | 音楽
 石破茂自民党幹事長が、狼の本性を現す。特定秘密保護法に反対するデモ(議員会館周辺)について、<大音量の抗議はテロと変わらない>(要旨)と自身のブログに記した。権力の暴力は許されるが、国民の抵抗はテロと見做す……。これが悪法を主導する側の本音なのだ。

 「ロッキンオン」HPで渋谷陽一氏のブログ「社長はつらいよ」を読むのが楽しみだ。秘密保護法に疑義を呈する同氏は、<ロックは積極的に社会に問いかけるべき>という信念を持っており、反原発フェスを主催している。

 同誌HPで頻繁に登場するのがモリッシーだ。最近ではベストセラー1位を獲得した自伝、ルー・リードとのツーショットなど、常に話題を提供している。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンなどラディカルを除いて民主党ベッタリの米ロッカーと対照的に、反骨精神に溢れるモリッシーは英国の政治や王室を抵抗者の視点でぶった斬る。

 先月末に発売されたDVD「モリッシー25ライブ」を購入した。ステイプルズセンターで大観衆を前に演奏した翌日、ハリウッドハイスクールで行われたプレミアムギグを収録した作品で、日本語訳付きの国内盤でモリッシーの世界を堪能する。

 1984年春、バンド名を冠したスミスの1stアルバムに針を落とした。スローテンポの♯1「リール・アラウンド・ザ・ファウンテイン」が流れた瞬間、部屋の空気が変わる。同作は俺にとっての麻薬になり、レコードが擦り切れるまで〝スミスワールド〟に浸った。<20年ぶりの衝撃=ビートルズ以来>の国内盤の帯は大げさではなく、スミスはNME誌で<20世紀で最も影響力のあるバンド>に選ばれた。

 80年代は現在と異なり、スミスのライブ映像に触れることはなかった。モリッシーのパフォーマンスを初めて見たのはWOWOWがオンエアしたロンドンでのライブである。少年少女がステージに上がり、恭しくモリッシーに触れて感極まった表情を浮かべていた。驚いたのは「ライブ・イン・ダラス」(93年)で、お行儀のいい英国ファンと異なり、乱暴なアメリカンキッズは大勢でステージに突進し、公演が打ち切られてジ・エンドだ。

 モリッシーは神性を帯びた存在で、接近することがファンにとって救いと赦しになる。経緯を知らず本作を見た人は、カルトの集会をイメージするかもしれない。一つのバンドにこだわらないスキゾの俺は違和感を覚える点もあるが、「スミス&モリッシー絶対」のパラノは多い。だからこそ、スミス解散時(87年)、ファンの後追い自殺が社会現象になったのだ。

 本作にも収録されているが、俺にとってソロ以降のツインピークスは「モンスターが生まれる11月」と「エブリデイ・イズ・ライク・サンデー」だ。「モンスター――」は自身を<誰にも愛されない社会的不適応者>と称したモリッシーにとって解放の曲であり、「エブリデイ――」はジュリアン・バーンズが「終わりの感覚」で取り上げている。棘ある知性を言葉に込めるモリッシーは、英国を代表する作家のお気に入りに違いない。

 「ロッキンオン」HPにアップされている粉川しのさんのレビュー(「モリッシーの求愛」)は秀逸だった。崇められ、求められているモリッシーだが、本作では「アイ・ラブ・ユー」を繰り返す。その目は終始、潤んでいるように思えた。

 スミス時代の曲も演奏されるが、「ミート・イズ・マーダー」と並ぶハイライトは、アンコールの「心に茨を持つ少年」で9歳の少年を抱えるシーンだ。中盤に伏線があり、計算ずくの可能性もあるが、歴史的名演に彩りを添える。終演後、あるファンは「エルビスやシナトラの最高のショーとともに語り継がれるだろう」と洩らしていた。

 「モンスター――」の最後で、醜い少年(=モリッシー)は街に出る。導いたのはジョニー・マーだが、二人は数年後に訣別する。ロック史に残る〝男たちの悲恋〟だが、神話復活を願う動きがある。コーチェラの主催者は毎年、スミス再結成を持ち掛け、モリッシーがやんわり断るのがお約束になっている。

 溝を埋めるのは困難と思えるモリッシーとマーだが、希望が生じてきた。キャメロン英国首相が「スミスの大ファン」と広言するや、両者は軌を一にして忌憚なき攻撃を開始した。日本でいえば安倍首相が「辺見庸の愛読者」と告白するようなミスマッチで、英国では失笑の対象になった。

 モリッシーだけでなく、マーもまた「ハウ・スーン・イズ・ナウ」などスミス時代の曲をセットリストに載せている。意外にうまいのに驚いた。世界中のロックファンは、モリッシーとマーの再会を心から願っている。
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