酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「また会う日まで」~ちりばめられた池澤夏樹の思い

2023-07-27 13:53:40 | 読書
 森村誠一さんが亡くなった。731部隊の真実に迫った「悪魔の飽食」に衝撃を受けたが、小説は読んだ記憶がない。佐藤純彌監督による「人間の証明」と「野生の証明」は素晴らしい映画だったが、「棟居刑事シリーズ」、「終着駅シリーズ」など森村誠一原作と銘打たれたドラマに人間の本質への洞察の深さを感じた。反戦平和の思いを作品に託した作家の冥福を祈りたい。

 池澤夏樹著「また会う日まで」(朝日新聞出版)を読了した。700㌻以上の長編だがゆったりとした叙述に基づく歴史小説で、キリスト教徒、海軍軍人、天文学者の三つの貌を併せ持った秋吉利雄を主人公に据えている。折に触れて綴られる秋吉の心の内が〝巨視の人〟である作者自身と重なるのは当然で、秋吉は池澤の大伯父にあたる。多くの親族が登場するが、そのうちのひとりが池澤の父である福永武彦だ。

 凝縮や濃密とは対極にあるが、池澤ワールドの精華がちりばめられている。まずは穏やかな語り口だ。池澤が脱原発を早い段階から訴えてきたことは「すばらしい新世界」に示されている。「カデナ」には沖縄への強い愛着が描かれているが、池澤は表立って政治的な発言はしない。「作家は政治的な意見を作品の中で語り尽くすべき」と考えているのだろう。

 海軍少将にまで上り詰めた軍人でありながらキリスト教徒……。天皇を現人神と奉りながら、イエスの御心に忠誠を尽くすという矛盾に直面しながら精神のバランスを保てたのは、科学者であったからだ。池澤は「科学する心」で<科学とは五感をもって自然に向き合う姿勢>と記していた。秋吉は戦闘艦で指揮するのではなく、海図制作、海洋測量、天体観測を担当する水路部を束ねる軍人で、いずれ敵になる可能性がある他国とも連携する必要があった。

 最も記憶に残るのは、日食観測のため東カロリン群島のローソップ島へ向かうエピソードだ。秋吉は現地での観測を統括する立場にあった。300人ほどの住民はキリスト教徒で、秋吉は親近感を覚えていた。池澤は緩やかなアイデンティティーと多様性を重視している。アイヌの少年ジンを主人公に据えた「氷山の南」では、人種や宗教による独自性を止揚する試みが描かれていた。ローソップ島での出来事は秋吉にとって忘れ難い思い出になる。

 2人の妻も秋吉に大きな影響を与える。結婚10年で召されたチヨ、再婚相手のヨ子(よね)とは信仰で強く結ばれていた。女性が学ぶこと、自由に発言することに世間は抵抗を感じていたが、そんな時代にチヨもヨ子もしっかり自己主張しながら秋吉と向き合っていた。ヨ子がアメリカで暮らしていた頃、フランクリン・ルーズベルト大統領夫人のエレノアと交友があったというエピソードも描かれている。

 秋吉は戦後、公職追放処分を受ける。肺に疾患を抱えていたが、息子と訪れた後楽園球場でずぶ濡れになっても待避せず、結果的に自死を選ぶ。戦闘には関与しておらず、政治とも距離を取っていたが、海軍少将として多くの国民を死に至らしめた責任を逃れることは出来ない。神に仕える身であるがゆえ、葛藤と懊悩を抱えていた。沈む軍艦と運命をともにした友、戦争に至る過程を書き記そうとしながら不審な死を遂げた友……。親友たちの最期も秋吉を死に誘った。

 日本の近現代史を背景に描いた小説だが、現代に警鐘を鳴らしている。欺瞞に満ちた政府、流されやすい国民という構図は変わらず、戦争の記憶が薄れた日本は好戦的なムードに溢れている。戦前回帰を目論む保守派の抵抗で、女性の地位は極めて低い。そして、環境破壊だ。「苦海浄土」を自ら選定した世界十大小説に挙げるなど、池澤は石牟礼道子の理解者として知られている。40度以上の炎暑で世界は壊れつつある。「また会う日まで」は俯瞰の目で現在の世界を見据えた小説だった。
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「告白、あるいは完璧な弁護」~人間の深淵に迫る凍えた迷路

2023-07-22 16:33:47 | 映画、ドラマ
 電車の中の風景が大きく変わった。20年前、座っている人の多くは新聞、雑誌、本を読んでいたが現在、殆どの人はスマホを手にしている。人々の思考が単純化されたことを象徴する言葉が<炎上>だ。想像力を失った人たちが匿名性に隠れ、事実と異なる思い込み(幻想)に基づき他者を攻撃する。

 読書の習慣が廃れたことで、リテラシー(正しく理解して表現する力)の欠落が蔓延している。泉谷しげるは映画「軍旗はためく下に」(深作欣二監督)にインスパイアされ1973年に「国旗はためく下」を発表した。日本軍の蛮行への怒りを背景に、同調圧力に弱く、たやすく集団化してしまう日本人を批判した曲を、〝自らへの応援歌〟と勘違いした安倍元首相支持者がいたという。

 「告白、あるいは完璧な弁護」(2022年、ユン・ジョンソク監督)をシネマート新宿で見た。今年に入ってスクリーンで韓国映画に接するのは「不思議の国の数学者」に次いで2作目になる。WOWOWでは「犯罪都市」第1作、藤井道人監督によって今年リメークされた「最後まで行く」を見た。タイプは異なるが、それぞれ韓国映画の底力を感じさせる作品だった。

 「告白、あるいは完璧な弁護」はスペイン映画「インビジブル・ゲスト 悪魔の証明」(17年)のリメークである。サスペンス用語として用いられる<ツイスト>は予想外の展開、ひねり、どんでん返しを指すが、本作はまさに<ツイスト>の連続で、カットバックしたシーンで主観が変われば、真実も時に真逆になる。

 作品を紹介する前にガラガラだった館内について。評判に違わぬ傑作だったのに、キャパ330でともに観賞したのは10人弱だった。新宿で映画を見るケースが多いが、こんなケースは稀だ。以前にも感じたことはあるが、シネマート新宿は営業が不得手なのかもしれない。

 さて、本作の紹介を。冒頭でIT企業社長ユ・ミンホ(ソ・ジソブ)が釈放される。不倫相手のキム・セヒ(ナナ)がホテルの密室で殺害された事件の第一容疑者で、疑いが晴れたわけではない。別荘にこもったミンホを訪ねたのは敏腕弁護士のヤン・シネ(キム・ユンジン)だ。韓国を代表する男女トップ俳優が見せる虚々実々の駆け引きに加え、二つの相反するキャラクターを表現したナナの存在感が光っていた。

 本作に引き込まれた理由のひとつは極寒のロケ地かもしれない。ミンホの別荘は豪雪地帯で、シネも難儀して着いた。暗く寒々とした光景と登場人物が抱える闇が相乗効果になって、物語の奥行きを広げていく。ミンホとセヒが別荘からソウルに向かう脇道で起きたアクシデントで、青年が行方不明になる。殺人事件と失踪事件が並行して走る回転軸になってストーリーを穿っていくのだ。

 時間が行きつ戻りつし、主要な登場人物は異なる主観でキャラが変わる。ミンホもシネも<信用出来ない語り部>で、終盤でその実体が明かされる。スリル満点のジェットコースターに振り落とされないようにしがみついていた2時間弱だった。酷暑だったので汗まみれ状態で館内に入ったので、冷房が効き過ぎて芯まで冷えた。クライマックスの氷が張った湖のシーンに、心まで凍るのを覚えた。自信を持ってお薦め出来る秀逸なサスペンスだった。
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PANTAさん追悼~流転し続けた自由な魂

2023-07-17 18:55:33 | 音楽
 PANTAさんが亡くなって10日経った。遅きに失した感はあるが、思い出を記すことにする。初めて会ったのは11年前。仕事先の整理記者Yさんに誘われ「PANTA隊」の一員として反原発集会に参加する。PANTAさんに驚かされたのは優しさと気配りだ。カリスマ然とは無縁で、様々な問いをぶつけた俺に丁寧に返してくれた。

 「『裸にされた街』が一番好きです」と伝えたが、思わぬアンサーがあった。10日ほど後、「アコースティックライブ」に足を運ぶ。アンコールが終わった時、PANTAさんと目が合った(気がした)。すると、「裸にされた街」のイントロが流れたではないか。俺は痛く感動した。代表作を尋ねると、答えは「クリスタルナハト(水晶の夜)」だった。同曲収録曲を演奏する際、「俺はもちろんイスラエル支持ではない。今のイスラエルはパレスチナに対するジェノサイド国家」と前置きしていたのを思い出す。

 クリスタルナハトとは、ユダヤ人が経営する商店やシナゴークをナチスが襲撃し、900人以上が殺された夜を指す。「30周年ライブ」に足を運んだが、記憶に残っているのは「メール・ド゙・グラス」を歌うシーンだ。♪ヤバーナ(日本人)のニュースは聞いたかい シノワ(中国)で途絶えたままでいるが……という歌詞がある。水晶の夜の前年、南京大虐殺が始まった。PANTAさんはMCで、「日本人が誰も歌っていない南京、重慶、関東大震災(における朝鮮人虐殺)について、いつか曲にしたい」と話していた。

 菊池琢己とのプロジェクト「響」による「オリーブの樹の下で」(2007年)も傑作だった。重信房子さんの裁判を傍聴し、往復書簡で交流を深めたPANTAさんは、彼女の詩に曲を付けたアルバムを発表する。女性革命家ライラ・ハリッド(パレスチナ評議会議員)を歌った「ライラのバラード」や「七月のムスターファ」などライブのハイライトになった曲も多い。ライラは来日した際、重信さんの支持者に寄せたメッセージで、<彼女を裁くことは、抑圧された人々の連帯行為を裁くことであり、更に正義を、解放闘争の戦士を裁くこと>(概略)と記していた。

 PANTAさんは数々の名盤を発表している。頭脳警察を<パンクの魁>と捉えることも出来るが、アシッドフォークに分類する論者もいる。ギターとパーカッションの編成はT・レックスそのもので、PANTA&HALの「マラッカ」にマーク・ボラン追悼の「極楽鳥」が収録されている。グラムロックへのオマージュが強い。

 1980年3月に発表された「1980X」をニューウェーヴ的と評するのは事実誤認だ。キュアーの2ndアルバム「セブンティーン・セコンズ」は80年8月、エコー&ザ・バニーメンの1st「クロコダイルズ」は同年7月、ニュー・オーダーの1st「ムーヴメント」は81年11月……。ニューウェーヴの主要バンドが形を整える前に、UK勢に先行してニューウェーヴ的な音を奏でていた。

 PANTAさんの創造性は世紀が変わっても衰えることはなかった。上記した「オリーブの樹の下で」は2007年で、12年には頭脳警察名義で画期的なアルバム「狂った一頁」を発表する。同名の映画(1926年、衣笠貞之助監督/川端康成原作)に感銘を受け、ライブ形式でサントラを制作した。日本的な情念に根差した詩を、変調を繰り返す分厚いサウンドに塗り込めている。闇を舞う言霊と音霊を捉えたようなアルバムだった。

 「乱破」(19年)はPANTAさんが楽曲を提供した芝居「揺れる大地」と連動した濃密なアルバムだった。反骨精神と知性に和のテイスト、自嘲とユーモアが織り込まれ、50年来の盟友TOSHIとのコンビネーションも完璧だった。芝居も見たが、終演後、出口近くで歓談していたPANTAさんに挨拶すると、「フェイスブック、やってる? 繋がろうよ」と言われ、帰宅して友達申請する。俺のことを覚えてくれていたのだ。

 PANTAさんは時代を牽引した同志たちへの思いをMCで語っていた。遠藤ミチロウもそのひとりで、2度のジョイントライブが記憶に残っている。ともに1950年生まれで、山形大学園祭実行委員会のメンバーだったミチロウが頭脳警察を呼んだことが出会いのきっかけだった。ミチロウも4年前に召されている。

 PANTAさんは一部で〝裏ジュリー〟と呼ばれていたらしい(自称?)。沢田研二に提供した「月の刃」を歌う際、「反原発や護憲を訴えるジュリーにお株を奪われ、裏PANTAになった気分」と笑いを誘っていた。40年以上前、帰省した俺は伯母宅を訪れた。伯母は当時60歳前後で、〝元祖イケメン好き〟だった。俺が「ニューイヤーロックフェス」にチャンネルを合わせると、偶然にもPANTA&HALが演奏していた。伯母の第一声、「この人、鼻筋通ってえらい二枚目やな」には正直驚いた。

 PANTAさんについて、多く語り継がれていくことだろう。幸運にも素顔に接することが出来た俺にとって、PANTAさんは角張ったパブリックイメージではなく、しなやかで優しい人だった。50周年ライブの際、HPでリクエストを募ったところ、1位に輝いたのは「万物流転」である。ファンはPANTAさんの自由な魂を知っていたのだ。
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「断捨離パラダイス」~喪失の哀しみがごみ屋敷を生む?

2023-07-12 13:55:45 | 映画、ドラマ
 PANTAさんが亡くなった。享年73。話し込んだのは一度だけだったが、至福の時間は心に刻まれている。日本の音楽シーンに変革をもたらしたロッカーの冥福を祈りたい。次稿で思い出を綴るつもりだ。

 訃報に触れるたび、皮膚が剥がれるような痛みを覚える。断捨離は<不要な物を断ち、物への執着を捨てること>だが、66歳にもなると、時を共有した人々が召され、記憶の箱から物事が消えている。断捨離≒終活といえなくもない。新宿武蔵野館で先日、「断捨離パラダイス」(2023年、萱野孝幸監督)を見た。全編福岡ロケで2週間限定公開とインディーズ色が濃い作品だった。6篇からなるオムニバス形式のヒューマンコメディーである。

 第1篇と第6篇は主人公の白高律稀(篠田諒)に照準を定めている。律稀は有望なピアニストだったが、原因不明の手の痺れでキャリアを断たれてしまう。恋人にも去られ、追い詰められた律稀は、たまたま手にしたビラを見て、清掃業者「断捨離パラダイス」で働くことになる。全くの異業種で務まるはずがなさそうだが、社長の市木(北山雅康)は適当そうに見えながら慧眼の持ち主だ。律稀の資質、いや絶望の深さを見抜き採用する。

 最初の現場で嘔吐するなど前途多難な律稀だが、市木だけでなく温かなスタッフにフォローされ、ごみ屋敷清掃の手順を掴んでいく。第2篇の舞台はシングルマザーの青原明日華(中村祐美子)の汚部屋だ。元AV女優という設定で、息子のネグレクトを心配した担任教師の岸田万莉子(武藤十夢)の家庭訪問に備えて清掃を依頼する。万莉子の部屋は第5篇の舞台だった。

 明日華と万莉子は一見、対照的なキャラだ。水商売に従事している明日華はだらしなく、熱心な教師の万莉子は世間体を保っているが、通じ合う部分が大きいのは第6篇でも窺える。律稀は業後、「息子さんに見られないよう、DVDは処分した方がいいのでは」と明日華に話したが首を振った。負のイメージがあるAVだが、明日華にとって〝存在証明〟だったのだろう。出演しなくなったことによる喪失感がごみ部屋の理由だったのか。

 万莉子の部屋で作業中、律稀は恋人が贈った指輪を見つける。万莉子の目をのぞき込んだが、そばにいる恋人を意識して首を横に振ったので、律稀は指輪をごみの中に投げた。〝まじめでつまらない婚約者〟の未来の喪失が、万莉子の脳内にインプットされていたのかもしれない。第3篇に登場するヴォン・デ・グスマン(関岡マーク)はフィリピン出身の優秀な介護士だが、母の死以来、片付けをしなくなる。喪失の哀しみがいかに人を苦しめ、整理整頓への意志を奪うのかわかった気がした。

 多くの時間を割いていたのが第4篇だ。ローカル局の報道番組でも取り上げられるゴミ屋敷の住人、金田繁男を演じるのは泉谷しげるである。通学路であるため、見回りしている万莉子が取材に対し、無難なコメントを残しているのが楽しかった。喪失の哀しみという点で、繁男は妻を亡くし、息子とも疎遠になっている。ごみの中にお宝(盗品?)が埋もれているらしく、欲に目がくらんだドタバタも演じられていた。

 コミカルだけど、どこか人生の本質を突いている。そして、登場人物のさりげない言葉やしぐさに自分を重ねてしまう。そんな優しい作品だった。俺もまた断捨離出来ず、本、CD、映画のパンフレットがたまった部屋で暮らしている。明日華にとってAVは〝存在証明〟だったが、俺にとって本、CD、映画は自身を形作ってくれた欠片たちだ。処分することは自分を棄てるのと同義なのだ。
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「オルガ」~心を打つ至高の愛

2023-07-08 18:54:47 | 読書
 王位戦第1局は藤井聡太7冠が挑戦者の佐々木大地七段を破り、防衛に向け幸先良いスタートを切った。佐々木は後手ながら意表を突く研究手で1日目から優位を築く。2日目の午前中は五分に戻り、その後は藤井の手厚い指し手に投了に追い込まれたが、棋聖戦、王位戦を通しての佐々木の頑張りは評価に値する。A級順位戦初戦で渡辺明九段を破った佐々木勇気八段とともに、棋界の旬は<佐々木>だ。

 66歳の今、無職ゆえ、部屋でゴロゴロしながら来し方を振り返っている。失敗だらけの人生で記憶から消し去りたいことが多過ぎる。恋愛についても、自身の過去の、いや現在の未熟さが恥ずかしくなり、目が冴えて眠れなくなることもある。心をクリーンアップしようと、ベルンハルト・シュリンク著「オルガ」(新潮クレスト・ブックス)を選んだ。シュリンクは「朗読者」(1995年発表)で世界的な作家になった。同作はナチス時代の闇が描かれていたが、「オルガ」も19世紀末から1970年代に至るドイツ現代史と不可分に結び着いている。

 本作は3部構成だ。現ポーランド領で生まれ、スラブ系の名を持つオルガと幼馴染みのヘルベルトとの愛、少年アイクとの交流、そして聴力を失ったオルガと雇主の息子フェルディナンドの物語が第1部で綴られる。全編を貫いているのはオルガの価値観だ。貧しい労働者階級出身のオルガは<女性は学ぶ必要はない>という当時の風潮に逆らい教師になる。一方でヘルベルトはユンカー(東部ドイツの地主貴族)の息子だから、2人の間に壁があった。

 〝鉄血宰相〟ビスマルクの影響を受けドイツの膨張主義を支持していたヘルベルトは、幼い頃から<無限>を志向していた。草原を走り回っていた少年は旅行家、探検家になる。ささやかで手触りがある日常に価値を見いだすオルガ、夢想家で世界の極限を彷徨うヘルベルト……。両者を遮るのは身分の違いだけでなかった。

 オルガは一貫してリベラルで、ドイツの拡大主義に異を唱えて、戦後も社会民主党支持者だった。ヘルベルト、そして後半で素性が明らかになるが、アイクもナチスに入党する。オルガは男たちの熱狂を冷めた目で見ていた。ヘルベルトは第1次世界大戦初期にアフリカ戦線に送られたが、その後は北極に向かい、行方不明になった。

 オルガは第2次大戦後、耳が聞こえなくなったが、読唇術を身につけ、裁縫の仕事と年金で生計を立てる。第2部ではフェルディナンドと親しくなったオルガが、自身の半生を伝える経緯が記される。ヘルベルトやアイクと異なり、フェルディナンドは考え方が近い〝孫〟的な存在だった。オルガは1971年に至るまでヘルベルトに手紙を書き続けた。返事は一通も来ず、捜索は戦前に打ち切られていた。投函され局留の山に埋もれている手紙の収集に力を尽くしたのがフェルディナンドで、退職後に欧州を飛び回った。

 第3部ではオルガの手紙が掲載されている。<愛>についての小説や映画に数多く触れてきたが、その温度や湿度、深さと浅さを測ってきた。最近ではスキャンダラスな愛が報じられているが、俺には他人の愛を語る資格はない。届かないことを覚悟の上で書かれたオルガの手紙に、涙腺が崩壊するのを止められなかった。俺は<愛>に利己的な手触りを求めてきたのだろう。だから、至高の愛には届かなかった。

 死を間近にしたオルガのドラスチックな行動に衝撃を覚えた。作者はビスマルクこそをドイツ近現代史の負を象徴する人物とみているのだろう。社会を射程に入れて愛を描く志の高さを感じた。
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「怪物」~<普通>の先にあるものは

2023-07-03 22:33:17 | 映画、ドラマ
 前稿で沢田研二(ジュリー)のバースデーライブの感想を記した。昨日も同じくWOWOWで「ジュリー祭り」(2008年、東京ドーム)がオンエアされていたが、驚いたのは下山淳だ。ルースターズ、ロックンロール・ジプシーズ、泉谷しげるwithルーザーのライブで何度も接してきた下山とジュリーはミスマッチに思えたが、1998年から10年余りギタリストとしてツアーに参加していたと知る。実力をジュリーにも買われていたのだろう。

 併せて紹介した「土を喰らう十二ヵ月」と共通点がある「怪物」(2023年、是枝裕和監督)を新宿で見た。「土を喰らう――」は山里、「怪物」は諏訪湖周辺とともに長野県がロケ地だ。「土を喰らう――」ではジュリーが枯れた演技で自然に溶け込んでいたが、「怪物」では妻の田中裕子が〝モンスター女優〟ぶりを発揮し、作品に深みと凄みをペイストしていた。

 ドキュメンタリー作家時代を含め、多くの是枝作品に接してきたが、「怪物」は衝撃と弛緩を俺にもたらした。だから、ブログをアップするのが遅れた。普段なら記憶の底に刻まれた台詞やシーンを再構成して理解、いや、感想に至るのだが、「怪物」は違った。残された様々な謎に惑い迷う。道具なしでロッククライミングに挑むのに似ていた。

 「怪物」は3部構成で映画「羅生門」方式を取っている。冒頭はベランダから眺める火事のシーンで、第1部はシングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)の主観で描かれる。小学5年生の湊(黒川想矢)を車で捜しにいった早織は廃線跡のトンネルで見つける。「怪物、だーれだ」と呼び掛けていた湊の視線の先、光が点滅していた。湊は乗り込んだ車から飛び降りる。

 車内の会話で母は<お父さんのように普通であること>を強調する。本作の後景にあるのは<普通>だ。カンヌ国際映画祭で脚本賞に加え、LGBTQをテーマにしたクィア・パルム賞を受賞したという前情報とタイトルで、俺は<カップル>と<怪物>探しをしながら見ていた。何が<普通>は時代によって変わるが、日本は性的マイノリティーが生き辛い社会だ。ちなみに湊は、母が<普通>と見做す父が不倫旅行中の事故で亡くなったことを知っている。

 「おまえの脳は豚の脳と入れ替えられた」……。担任の保利(永山瑛太)が湊にこう言ったと息子に聞かされた早織は学校に赴き、伏見校長(田中裕子)を含めた教員たちに抗議する。煮え切らない態度に怒りを爆発させた早織が数日後に保利を問い詰めると、息子がイジメの加害者だと告げられる。該当する星川依里(柊木陽太)宅を訪ねると、依里は保利による湊への暴力を仄めかした。

 保利を糾弾する保護者会のシーンで第1部は終わり、時間を遡行して保利の主観で第2部が始まる。火事で騒々しい街を保利は恋人の広奈(高畑充希)と歩いている。第1部では異常さを垣間見せた保利だが、教室での言動から熱心に生徒と接する教師であることがわかる。なぜ冤罪で離職しなければならない状況に追い詰められたのかが描かれていた。

 放火や猫殺しを巡る謎に加え、校長の孫を轢いた犯人についても、状況証拠から推察されるが明らかにされない。放火については校長の目の前でチャッカマンを落とした依里が怪しいが、火事の規模を考えると断定出来ない。湊との会話で孫を轢いたと受け取れる校長だが、罪を被ったとみられる夫に面会に行った際のやりとりが奇妙だった。無数の人間がSNS上で<正論>めいたものを作り上げる作業こそが<怪物>といえないこともない。

 是枝はかねて坂元裕二をリスペクトし、ともに映画を製作したいと考えていた。その精華というべき「怪物」は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」へのオマージュだ。第3部は湊の主観で描かれ、秘密基地である車両での依里との会話に、無垢な感情が表れている。靴を隠された依里のために自分の片方の靴を差しだし、2人でケンケンするように帰宅するシーンも印象的だ。ちなみに、追い詰められて学校で飛び降り自殺を試みた保利もまた、片方しか履いていなかった。依里の作文に秘められたメッセージの意味を知ったのは、出版社に誤植を伝えるのが趣味という保利だからこそといえた。

 台風の夜、湊は依里の家に行き、湯船でぐったりしていた依里とともに秘密基地に向かう。なぜか校長が雨に濡れて湖を眺めていたが、本作関連の書籍を読んだ知人によると、カットされた部分で校長は重要な役割を果たしているらしい。湊と依里は翌朝、晴れ渡った草原を駆けている。道を閉ざしていた柵は消えていた。2人は生きていたのか、死後の世界なのか……。是枝と坂元は見る側に答えを委ねている。

 坂本龍一が担当したテーマ曲も心に染みたし、不思議な存在感を湛える同級生の少女も魅力的だった。校長が湊に言う「誰にでも手に入らないものは幸せではなく、誰にでも手に入るものが幸せ」は逆説的だが、是枝は脚本の冒頭、<世界は、生まれ変われるか>と記し、撮影に臨んだ。豚の脳とは同性愛を指した依里の父(中村獅童)の造語だった。多様性に価値を置く国に変わることを願ってやまない。
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