酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

カルトという普遍性

2006-07-31 01:00:49 | 社会、政治
 「摂理」というカルトの実態が明らかになった。教祖の鄭容疑者は統一教会(=勝共連合)出身である。統一教会といえば、ダミー団体の集会(今年5月)に安倍晋三官房長官が祝電を送ったことが報道されたばかりだ。

 統一教会には様々な思い出がある。高校時代、学校中がひっくり返る大騒動が起きた。関東の大学に進学した卒業生たちが、まとめて統一教会に入信する。家族や先生が慌てて脱会を勧めたが、不首尾に終わった。俺も浪人時代、先輩に勧誘されたが、オリエンテーションに参加しなかった。余談になるが、予備校で親しかったO君は、後に宗教団体を興した。今や出版社という趣だが、当時のO君はオプティミズムに溢れた快活な好青年だった。

 進学した東京の私大では、原理研(統一教会の下部組織)がキャンパスを闊歩していた。大学当局、自治会、原理研が巧妙に棲み分け、共存共栄を図っていたのである。現状を打破せんと、統一教会と癒着した総長(当時)を糾弾する運動が起きる。俺も隅っこで参加したが、木っ端微塵に粉砕されてしまった。

 カルト視されていた統一教会だが、次第に政界に根を張り巡らせていく。故安倍晋太郎氏とは友好関係を保っており、30人以上の国会議員が統一教会員を秘書として採用していた(99年)。そういやO君の団体も故三塚博氏を支持していた。<福田派⇒安倍派⇒三塚派⇒森派>と続く清和会は、宗教団体と縁が深いようである。

 反共の砦を自任してきた統一教会だが90年代以降、金王朝と手を結び北朝鮮に進出するなど、複雑な貌を見せ始める。<思想(反共)より血(民族)>が文鮮明教祖の論理かもしれない。莫大な資産を有し、次期首相とも近い統一教会は、カルトどころか日本の権力構造の一翼を担う組織といえるだろう。

 「若くて優秀な者が何ゆえカルトに」……。「摂理」の件でも同じような論調が繰り返されている。統一教会も70年代、多くの東大生を集めたし、オウムも高学歴者の集団だった。明晰で論理的な人ほどカルトに染まりやすい。<内と外>、<味方と敵>、<正と邪>、<救済と破滅>……。カルトの教義は殆んど二元論に基づいている。俺みたいなファジーを好む人間はカルトに向かないようだ。

 年配のコメンテーターは「若者には免疫がない」と眉を顰めるが、過去を忘れてはいけない。敗戦までの日本は<天皇教>に洗脳されており、当時のナチスドイツ、現在の北朝鮮やイスラエル同様、<カルト国家>と映ったはずだ。「悪霊」に描かれた数人単位から国家単位に至るまで、カルトを求めるエネルギーは時空を超えて充満している。

 <外の正義>を超える<内の正義>に導かれて罪を犯すサラリーマンは、<会社カルト>の囚われ人だ。有名な高校野球の監督たちも大概、<カルトの親玉>の匂いを漂わせている。アイデンティーとは自立的ではなく、承認する集団が存在するからこそ成立する。だからこそ人は、<内向きの集団>を求めてしまうのだ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富田メモの波紋~皇室はリベラルの象徴か?

2006-07-29 00:37:05 | 社会、政治
 昭和天皇の靖国参拝をめぐる発言(88年)が明らかになった。富田宮内庁長官(当時)のメモが、あちこちで波紋を広げている。

 <東京裁判=まやかし>を主張する保守派論客は総じて歯切れ悪い。勝者が敗者を断罪する戦争裁判は<虚構の正義>に基づいており、<A級戦犯>なぞ存在しないという彼らの論理に、真実がないわけではない。だが、<儀式としての東京裁判>否定は、日米関係への懐疑に繋がる。反米意識の高揚は保守派が避けたい流れだろう。

 同じA級戦犯なのに、東条英機は刑場の露と消え、岸信介は首相になった。岸が「自らの作品」と豪語した満州国もまた、<虚構の正義>の上に成立した。満州国を理想郷に成長させることを夢見た岸は、日中戦争拡大を望まなかった。一方の東条は、徹底した中国侵略を押し通す。佐野眞一氏は東条の主張の背景として麻薬利権を指摘していた(別稿「満州の深い闇」=05年10月4日)。両者の運命を分かったものは<罪の重さ>だったのではないか。

 30年前は<保守派=皇室支持者≒自民党支持者>の図式が成立していた。<皇室>というリトマス紙を無化したのは石原慎太郎氏である。選民意識が強い石原氏が皇室崇拝者でないことは当然だろう。小泉首相に至っては、保守派なのかさえ判然としない。「村山談話」以上に日本の侵略に踏み込んだコメントを繰り返しているし、<東京裁判の正当性>を全面的に認めている。復古調の教育基本法改正に反対だから、国会を延長しなかったという推測もあった。富田メモ報道後の「一人ひとり発言」にも、皇室に特段の思いを抱かぬ首相らしさが窺えた。

 欧米では<昭和天皇は明晰な頭脳と権力で戦争を主導した>という論考が主流だが、国内では違う。朝日新聞は先日、戦争放棄をマッカーサーに訴えたのは昭和天皇だったと伝えた。昭和天皇を一貫した平和主義者とする<美化>が、意識的に進められているようだ。一方で現天皇は、言動からして<平和憲法の申し子>だと思う。「日本中の学校に日の丸を掲げ、君が代を斉唱させるのが私の仕事です」と得意げに述べた米長邦雄氏を、「強制はよろしくない」とたしなめた園遊会での出来事が記憶に新しい。

 今回の件で靖国参拝派の安倍官房長官(岸の孫)は困惑しているが、自民党内の参拝慎重派や野党サイドは勢いづいている、保守派のシンボルだった皇室が、今や護憲派やリベラルの象徴として担がれつつある。時の流れに驚くしかない。

 そろそろ「朝生」が始まる。早朝から仕事なので録画になるが、姜尚中氏、鈴木邦男氏らがどのような議論を展開するのか楽しみだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「クロウ 飛翔伝説」

2006-07-27 00:11:19 | 映画、ドラマ
 先日WOWOWで放映された「クロウ」(94年)は、俺にとって掛け替えのない作品だ。12年ぶりに見て、湿度の高い感情が思い出とともに滲んできた。

 エリックを演じたブランドン・リーはブルース・リーの忘れ形見だが、撮影中の発砲事故で帰らぬ人となる(享年28歳)。リー父子の宿命と業に、思いを馳せざるをえない。CGを駆使して作品は完成する。ミステリアスな現実と悲劇的なストーリーがシンクロし、ブランドンの熱演にあらためて胸が疼いた。

 結婚式前日、ロックスターのエリックは恋人シェリーとともに惨殺される。当局と闇組織が組んだ地上げ絡みの事件だった。1年後、カラス(クロウ)に導かれ、エリックは甦る。正義より邪悪、秩序より混沌、光より影、正統より異端が支配する異空間で、復習譚は進行する。チープさとおどろおどろしさは、アメコミ原作の典型的パターンだ。

 細部へのこだわりが過ぎる映像は、PVを繋ぎ合わせたような印象を受ける。全編ダークな色調で統一されており、明かりを消さないと<こちら側>に留まり、<向こう側>に入り込めない。どこまでも闇が似合う作品なのだ。

 敵役ダラーを演じたのは、マリリン・マンソン似のマイケル・ウィンコットだ。禁断の愛に溺れ、眼球に執着する男という設定である。とぼけた黒人警官もいい味だし、語り部の少女サラもキュートだが、物語の肝になっているのは、タイトル通りカラスである。黄泉と現世を繋ぐ聖なる存在で、エリックの力の源として描かれている。

 ポストパンク、オルタナ、グランジ、ヒップホップ、インダストリアルと、<アンチ・メーンストリーム>を貫きながらオーバーグラウンドにのし上がったアーティストが楽曲を提供している。アルバム未収録曲も多く、ロックファンにとって極めて価値の高いサントラだ。

 キュアーの「バーン」は鳥肌ものだし、ストーン・テンプル・パイロッツ、ナイン・インチ・ネイルズ、レイジ・アゲンイスト・マシーン、ロリンズ・バンド、ジーザス&メリーチェインと錚々たる顔ぶれが並ぶ。ちなみにサントラは「クロウ 死闘伝説」と銘打たれ、映画のタイトルと違っている。

 秀逸なラストから清澄なエンディングテーマ「イット・キャント・レイン・オール・ザ・タイム」が流れる。崇高で永久の愛が高らかに謳われ、負の感情が昇華される。映画を見終え、俺の荒んだ心にもロマンチシズムとリリシズムが結露した。俺はまだまだ蒼いのかもしれない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビンスの禁じ手は奏功するか?

2006-07-24 18:12:56 | スポーツ
 ケーブルテレビでWWF(現WWE)の面白さに気付いたのは、90年代後半だった。当時、対抗団体WCWはテッド・ターナーの資金で、プロレス界の<ヤンキース+レアルマドリード>と化していた。ブレット・ハートまで常識破りの年俸(10億円)でWCWに引き抜かれる。結果としてWCWの「ナイトロ」は、東映のオールスター時代劇のように冗漫なドラマになってしまった。

 楽天イーグルス状態だったWWEはアティテュード路線を掲げ、同じ東映でも実録ヤクザ映画を志向した。ビンス・マクマホン(代表)とオースチンとの抗争を軸に据え、DXが呼び覚ます異様な高揚感を武器に反転攻勢に打って出る。ロックら新鋭が次々に登場し、瞬く間にホーガンもフレアーもnwoもぶっ飛ばした。

 ターナーのギブアップでWWEは独り勝ちしたが、昨年あたりからクチクラ化が顕著になってきた。新手を生み出せないビンスは、二つの禁じ手を提示した。DX再結成とECW復活である。

 DXといっても、第1期のショーン・マイケルズ(HBK)とHHHのユニットだ。オースチンが担った<反ビンス>の役割を溌剌と演じているが、10年前の説得力は感じられない。当時のWWEはWCWに追い詰められていた。HBKにはブレットという目の上のタンコブがいた。HHHは成り上がりをDXに賭けていた。強大な壁があったからこそ、第1~2期DXが体現した秩序崩壊と風俗紊乱はリアルだったが、今の2人は未来の殿堂入り選手である、真に渇いた若手を加えないと、単なる派閥抗争に堕すだろう。

 PPVを経てレギュラー化したECWには失望感を拭えない。旧ECWの素晴らしさは別稿(05年2月6日)に記した通りだが、抜き身の刀のような凄みをと美学を漂わせていた選手たちに、往年の冴えはない。<過激であること>と<過激を演じること>の違いは決定的に大きい。ビンスの掌で踊る新ECWは、遠からず目の肥えた旧来のファンに愛想を尽かされるだろう。

 そもそもWWEは、ECWのエッセンスを早くから吸収していた。98年「サバイバーシリーズ」で、ミック・フォーリーはアンダーテイカーに5㍍の金網から突き落とされ、失神する。折れた歯が皮膚に刺さっていたが、試合を続けた。エッジ&クリスチャン対ハーディボーイズの名勝負の数々も、肉の軋みが聞こえてくる質の高いエクストリームだった。何を今さらECWと言いたくなる。

 などと文句を垂れながら、RAW、スマックダウン、復活ECWの週3回のレギュラー番組と、年に十数回のPPVを見続けている。<ケミストリー再び>を期待しているからだが、恋と同様、出会った頃のときめきが甦る可能性は低い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大雨被害に思うこと

2006-07-22 10:22:34 | 戯れ言
 ここ数日、干天の慈雨ならぬ仕事の豪雨に見舞われた。

 一段落し、3日分のニュースを早送りで見る。「天皇と靖国」……、そのうちブログに書こう。「イスラエルの空爆激化」……前稿で記した。「パロマ事故」……、誰が隠していたのだろう。「福田氏が総裁選不出馬」……、代わりに加藤紘一氏が出ればいいのに。「秋田の鬼母」……、この国では父性と母性が死語になる日も近い。「日本サッカーの日本化」……、オシムの名言がいきなり出た。

 最大のニュースは大雨による被害だ。避難所で怯える被災者、その様子をテレビで眺める都会生活者……。大雨は天災ではなく人災という。都会暮らしで環境に無頓着な俺など、<地球温暖化>の主犯格だ。理不尽で罪深い構造に、俺もまた組み込まれている。

 長野の被害は甚大だった。財政再建に尽力する田中知事が<バラまき派>に追い詰められることは間違いない。小泉政権下で<公共事業=悪>が定着したが、大金投下は必ずしも地域活性化に繋がらない。山古志村で住民が半世紀前に掘った旧トンネルは、新潟県中越地震でも無事だった。一方で、田中元首相の号令下、ゼネコンを動員して造られた新トンネルはもろくも崩壊している(別稿=05年1月13日)。

 地方の疲弊ばかり強調されるが、年金破綻や福祉切り捨てで、都市の未来も暗い。そういや「日本の貧困率は先進国2位」なんてニュースもあった。俺も十分貢献している。朽ち果てる場所は都市スラムの片隅になるだろう。

 時間が割けず、書き殴ってしまった。当分「雑感ブログ」が続くかもしれない。俺はもともと怠け者で、「晩年モード」までプログラミングしている。暇大好きのキリギリスだが、冬が来るのを多少なりとも先延ばしせねばならぬ。繁忙期が過ぎるまで、無様なアリでいることにしよう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新版パレスチナ」を読む

2006-07-19 01:10:11 | 読書
 小泉首相はサミットに向かう前、イラエルに立ち寄った。「共存共栄」を強調したが、イスラエルのレバノン空爆で色褪せてしまった。

 激化する中東情勢について、メディアは客観報道に徹している。果たして信じていいのだろうか? 紀伊國屋で恰好の入門書を見つけた。広河隆一著「新版パレスチナ」(岩波新書)である。広河氏といえばチェルノブイリやパレスチナを切り口に、世界の本質に迫る反骨のフォトジャーナリストだ。「デイズ・ジャパン」発行人でもある。

 広河氏は67年、イスラエルのキブツ(コミューン)に入った。世界から集った若者と果樹園で働き、ヘブライ語を学んだが、第3次中東戦争が始まるや、氏の中で<正義の天秤>が傾き始める。イスラエルは瞬く間に、<邪>に転落していったのだ。

 ユダヤ人の悲劇については、今さら説明するまでもない。だが、イスラエル政府は民族のトラウマや被害者意識を反転させ、鋭い刃をパレスチナ人に突きつけている。本書を読む限り、イスラエルのパレスチナ人に対する行いは、ジェノサイド、アパルトヘイトと変わらない。最新のニュースによると、イスラエルは9000人以上のパレスチナ人を拘束しているが、その手法は忌むべきゲシュタボを想起させる。

 本書で最もショックを受けたのは、イスラエルの子供たちが、パレスチナ人を虫けらのように感じていることだ。ヒトラーユーゲントの少年が、ユダヤ人抹殺に疑問を抱かなかったのと同じ構図である。<母親がユダヤ人で、自らがユダヤ教徒であること>……。このアイデンティティーに立脚した<ユダヤ原理主義>が、イスラエルを突き動かしている。

 かつて多数のパレスチナ人と少数のユダヤ人が共存していたが、イギリスの二枚舌外交で軋轢が生じる。イスラエルは建国後、パレスチナ人の土地や財産を収奪していった。自爆テロは憎しみの昇華だが、テロリストと書き立てられるハマスは、互助組織として民衆に根付いている。PLOの対抗組織としてハマスを育成したのは、他ならぬイスラエル政府だと、広河氏は指摘している。

 先日、スカパーで「キロメートル・ゼロ」(05年)を見た。イラン―イラク戦争、フセインによるクルド人虐殺を背景に、苦難の道を歩む家族の姿か描かれている。亡命先でバグダッド陥落のニュースを知り、主人公(アコ)が妻とともに歓喜する場面がラストシーンだ。

 アコの義父の言葉――「われら(クルド人)の過去は哀しく、現在は悲惨そのもの。幸いにも未来はない」――も印象的だった。ブッシュ大統領は「戦争屋」だが、イラク国内のクルド人にとって「解放者」だったことは紛れもない事実だ。

 パレスチナ、クルド、そして石油利権……。底知れぬ憎しみとエゴが渦巻く中東こそ、世界を回転させる基軸になっている。ファジーや玉虫色を好む俺だが、客観報道のまやかしに騙されぬ明確な視点を持ちたい。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニートな深海魚

2006-07-17 06:51:26 | 戯れ言
 月に数日、海洋誌で校正を担当している。魚たちの共生と巧まざるユーモア、海中の神秘と予定調和に触れ、心が洗われることしばしばだ。

 俺が魚なら棲息地は海底だ。若い頃はニート先駆者で、まともなバイトは素行不良や無断欠勤で次々クビになった。夜の地下鉄駅清掃、新薬被験者、ヌードモデル引率など、ディープでアングラな仕事が性に合っていた。

 猫と一日500円で暮らしながら小説を書いていた。<100万貯めた青年が世間と交流を絶ち、金が尽きたところで自殺する>という、現実に近いストーリーである。願望の一部は二十数年後に現実になる。周囲の証言によると、当時の俺は真っ暗だったらしい。

 バイトと勘違いして求人に応募した会社で、パブリックイメージが一変した。能天気、ルーズ、三枚目という秘めたる資質が爆発し、キャラクターとして認知された。奇人変人の集団というと語弊はあるが、個性豊かな職場は、俺のような社会的不適応者にも寛容だった。

 不格好な深海魚が急上昇し、短いヒレで波を切る躁状態が20年続いたが、光を浴びるにも限度がある。退社後は時間をかけて沈み、湿度と温度に見合う定位置に戻った。底にいるからこそ、見えてくることもある。相対的にしか生きられない人間の哀しさを実感できるし、情けが身に染みることもしばしばだ。

 「俺はニートだ」と宣言できる若者が羨ましくもある。当時の俺に、自分を的確に表す言葉がなかったからだ。今や200万人を超える一大勢力という。「ニート党」でも結成すれば、参院で議席を獲得できるかもしれない。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホワット・イズ・エルヴィス?

2006-07-15 16:48:21 | 音楽
 小泉首相は訪米時、会見場でニヤつきながら「ラブ・ミー・テンダー」を歌っていた。「勘弁してくれ」が大抵の日本人の感想ではなかったろうか。

 エルヴィス・プレスリーは俺にとって、マイナスイメージの塊だった。洋楽に興味を持ち始めた頃(60年代後半)には影も形もなかったし、エンターテイナーとして復活した後も、時代錯誤の印象を拭えなかった。

 先日スカパーで、42年の生涯を追ったドキュメンタリー「ジス・イズ・エルヴィス」が放映された。見終えてようやく、二つのエルヴィス像が結ばれた。第一は<白人解放者>、第二は<ショービジネスの悲劇の体現者>である。

 ケネディ兄弟、キング牧師、ムハマド・アリ、ボブ・ディラン、チャーリー・パーカー、チャールズ・ミンガス……。彼らは理性の力で公民権運動を主導する。黒人ミュージシャンの演奏を聞いて育ったエルヴィスもまた、体に組み込まれたリズムを武器に、無意識にドアを叩いていた。

 差別が根強い南部で、黒人のように歌い踊るハンサムな白人青年は、社会の構造を覆しかねない爆弾だった。腰の動きが黒人的という理由で、テレビは下半身を映さなかった。エルヴィスは危険な野生児だったが、次第に牙を抜かれていく。2年間の軍隊生活の後、ロクでもない映画に多数出演する。ビートルズの前に影は薄くなったとはいえ、名誉と富は絶大だった。<神話>の世界で悠々自適を楽しんでもよかったが、復活の誘いが掛かる。ロックと反体制が結び付いていた60年代後半、痺れを切らした保守派がエルヴィスを担ぎ出したとされている。

 70年代、エルヴィスは破壊し尽くされた。ツアーの連続で夫婦間にヒビが入り、精神的に不安定になる。死の3週間前(77年7月)、「マイ・ウェイ」さえカードなしに歌えなかった。性欲、食欲、睡眠を全て薬によって調節されていたという証言もある。政治的立場は異なるアリとエルヴィスだが、ともにショービジネスの悲劇を体現した。

 ビートルズがエルヴィス邸を訪ねた日(65年8月)、ジョンとの間に決定的な亀裂が生じたというのが<定説>になっている。エルヴィスのベトナム戦争肯定発言にジョンが噛み付いたとされるが、チョムスキーらの書物を読む限り、極めて怪しい。リベラルなボストンでさえ、反戦運動が起きたのは66年以降だ。恋人(後の妻プリシラ)の父が軍隊時代の上官である以上、エルヴィスが戦争反対を唱えるはずはない。だが、ビートルズにしたって、女王陛下から勲章をもらったばかりの<優等生>だ。エルヴィスの政治性を批判できる立場ではなかったと思う。

 エルヴィスのジョンへの憎悪は収まらず、後にFBIへの讒言、盗聴要請といった不幸な形に現れる。飼い慣らされた自身と比べ、セルフイメージを確立したビートルズへの嫉妬もあったのかもしれない。

 「ジス・イズ・エルヴィス」でエルヴィスの素顔と功績を知ることが出来た。悲劇性と無垢なイメージゆえ、世紀を超えても多くのファンの心をつかんでいるのだろう。我らが首相も、その中の一人なのだが……。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サスペンスドラマの未来は?

2006-07-13 02:33:53 | 映画、ドラマ
 退社(04年末)からこの2月まで、フクロウ生活が続いた。テレ朝の再放送帯(午後2~5時)に目覚め、朝昼兼用の飯を食う。おかずとして画面を眺めつつ、<21世紀はサスペンス受難の時代>と実感した。

 「CSI科学捜査班」でグリッソム主任は、「推理はするな。証拠がすべてだ」と言い切る。現場に残された汗一滴で犯人が判明してしまうからだ。関係者を集めての推理ショーも昔の話。携帯電話、インターネット、セキュリティー(防犯カメラなど)の普及も、サスペンスの成立を困難にしている要因だ。

 A社長が殺された。無関係に思える秘書で愛人のC子は、A社長によって自殺に追い込まれた男の娘だった……。過去に遡って動機に辿り着くのはサスペンスの常套手段だ。秘書ならともかく、妻のケースも少なくない。「それぐらい早く気付けよ」と言いたくもなる。

 犯罪の頻発地帯かと思えるほど、京都を舞台にしたドラマが多い。太秦に撮影所があり、ノウハウを熟知したスタッフが揃っているからだろう、警察ものでは<刑事=安月給>が相場になっているが、「非国民」(森巣博)などを読む限り、事情は異なる。警官は高給取りで、天下り先も用意されているようだ。

 <視聴率30%を誇る国民的人気シリーズ>などと銘打たれた欧州産ミステリーをスカパーで何本も見たが、ピンと来ないことが多かった。アメリカ産エンターテインメントに馴れた日本人は、重厚だがスピード感に乏しいドラマを受け付けないのかもしれない。

 サスペンス初体験はNHKの「人形佐七捕物帳」(65年、松方弘樹主演)だった。内容は覚えていないが、鮮やかさと恐怖が記憶の片隅に残っている。その後、「刑事コロンボ」、「シャーロック・ホームズ」(グラナダTV版)と続き、今は「CSI科学捜査班」、「相棒」、「名探偵モンク」が必須アイテムだ。

 先週、テレビ東京で放映された「追いつめる」(森詠原作)は、サスペンスとしては?だが見応えはあった。犯罪者カップルの深淵に老刑事の心の闇が重なり、やるせないラストも胸を打った。謎解きのタネが尽き、科学捜査も進歩した現在、サスペンスが生き残るには、<奥のある人間ドラマ>と<綿密なキャラ設定>を追求するしかないだろう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祭りの後

2006-07-11 00:34:54 | スポーツ
 イタリアがPK戦の末、W杯を制した。<祭り>の後の虚脱感と言いたいところだが、俺の熱はとっくに冷めていた。オランダが早々に散ったからである。

 ジダンが頭突きをかました頃、俺は仕事を終え、四谷近辺を歩いていた。低空飛行のハトから、何かがポツンと腕に落ちてくる。糞と気付き、ティッシュで拭った。“F××K”である。ハトといえばフランスと縁が深い。「時間差ライブ」ではイタリアを応援することにした。前半7分のPKにア然としたが、結果オーライだった。

 齢を重ねて性根がヒネたせいか、今大会が<祭り>に相応しい内容だったかと問われると、「ノー」と答えてしまう。セリエA仕様の守備重視の試合が多く、想像力と創造力が組織に封じられた感が強い。制約が多い代表チームに、バルセロナのマジックやチェルシーの躍動感を期待するのは無理筋かもしれない。

 優勝したイタリアだが、国民は<祭り>の余韻に浸れない。八百長に連座した複数のトップチームが降格を免れないからだ。イタリアは24年前のV時にも<政財界=法王庁=マフィア>の構造汚職に苦しんでいた。<闇の手>が社会を攪拌するのが、イタリアの宿業なのだろう。

 ロナウジーニョの不完全燃焼は残念だった。ブラジルがロナウジーニョのチ-ムになるのは、次回の南ア大会かもしれない。オランダは案の定だった。ライカールト監督で臨んだ00年欧州選手権準決勝、オランダはイタリア相手にシュートの雨を降らせた(PK2度失敗)。「奇跡的」に敗れたが、ライカールトの美学はバルセロナで花開く。システムの呪縛を解き、オランダ代表に爆発力をもたらすのはライカールトしかいない。

 日本人にとっても苦い<祭り>だった。ジーコの<中田英=宮本>ラインへの傾斜を心配していたが、いかんせん彼我の実力差が大き過ぎた。<個の総和≒チーム力>が前提なのに、<世界標準プレーヤー>が中村俊輔一人では、厳しい結果は当然といえる。

 俺は肩凝りで接骨院に通っている。若き療法士のK君は熱烈な日本サポーターで、オシム監督に大きな期待を寄せている。「日本は当分駄目だろ。若手もいないし、オーストラリアもアジア地区だし」と言うと、反論が返ってきた。「前線にパスを出せるDF陣を選ぶことを第一に、荒療治でメンバーを入れ替えたら、南ア大会に絶対出場できます」と、4年後の<祭り>に向けて熱く語ってくれた。

 俺にとっての次の<祭り>は9月のNFL開幕だ。NFLがW杯より優れている点は、レフェリングへの信頼度の高さである。PKの判断ミスぐらい、オフィシャルがその時点でチェックすべきではないか。そう考えるのも、俺のスポーツ観がアメリカナイズされているせいだろうけど。

 俺の人生、<祭り>の後の虚しさと、後の<祭り>の繰り返しだったような気がしてきた。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする