酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「キッズ・オールライト」~変わった家族の普遍的な物語

2011-05-31 00:52:39 | 映画、ドラマ
 G8で「アラブの春」を支援する付帯決議が採択された。上から目線の先進国の思惑とは別に、エジプトで民主化の成果が表れる。パレスチナとの連帯を訴える民衆の声に押され、ガザとの境界が開放されたのだ。

 原発マフィアの操り人形であるオバマ大統領は、<自然エネルギーへの移行>を打ち出した菅首相のパフォーマンスを苦々しく思ったはずだ。脱原発は恐らく基地問題と底で繋がっている。自由、民主主義、独立への道程に立ちはだかるのは、アメリカという巨大な壁だ。

 チャンピオンズリーグ決勝にカタルシスを覚えた。バルセロナは見る者を陶然とさせつつ、マンチェスターUの堅固な守備を食い破る。リスクと背中合わせの美学を追求し続けたからこそ、儚さと煌めきをリアルな強さに織り込めた。バルサはアートの領域に踏み入れた奇跡のチームになった。

 さて、本題。ここ数年、斬新な家族の形を表現する小説や映画に触れてきたが、「キッズ・オールライト」(10年、リサ・チョロデンコ)もその範疇に含まれる。全編に女性監督ならではの感性がちりばめられていた。

 ニック(アネット・ベニング)とジュールス(ジュリアン・ムーア)のレズビアンカップル、同一の精子提供者によって生を享けたニックの娘ジョニ(ミア・ワシコウスカ)、ジュールスの息子レイザー(ジョシュ・ハッチャーソン)……。この4人家族は自由が横溢するカリフォルニアの街に、違和感なく溶け込んでいる。

 だが、一家が本当に自由かというと、そうともいえない。医者として家族の大黒柱であるニックは、収入に比例して支配的に振る舞う〝父〟かつ〝夫〟で、ドロップアウトしたジュールスは常に人生を模索中だ。その個性は子供たちにも引き継がれ、可憐なジョニは大学進学を控える優等生で、レイザーは不良とツルむなど危うい側面もある。

 姉弟がDNA上の父親ポール(マーク・ラファロ)をたやすく見つけたことで、一家にさざ波が生じた。ポールはヒッピーに通じる自由人でありながら、オーガニック農場とレストランを経営する成功者だ。ジョニとレイザーにとって、ポールは父というより目線の高さが近い友であり、ニックとジュールにとって房事の供であるゲイビデオから抜け出てきたようなマッチョマンである。

 レズカップルとか人工授精とか、設定は変わっているが、ストーリーは極めて予定調和的だ。同じくアメリカ発の「ブルーバレンタイン」(5月19日の稿)と対照的で、年齢が高めの仮面夫婦や隙間カップルにお薦めのホームドラマである。

 「ブルーバレンタイン」はNY派のグルズリー・ベアがサウンドトラックを担当していたが、本作も音楽映画の要素が濃い。ジョニやレイザーの青春の風景にはヴァンパイア・ウィークエンドやMGMTがマッチし、親たちがメーンのシーンではデヴィッド・ボウイやボブ・ディランが流れる。世代を音楽で際立たせる手法も見事だ。

 原題の「ザ・キッズ・アー・オールライト」はフーの曲で、彼らのドキュメンタリーフィルムのタイトルでもある。耳を澄ましていたが、いずれのシーンでも使われなかったようだ。本作の聞かせどころは、ニックがそれまで毛嫌いしていたポールと意気投合し、ジョニ・ミッチェルの曲をハモる場面だ。「ストレート(異性愛者)でジョニを聴く女性は珍しかった」という台詞が興味深かった。ニックが娘にジョニと名付けた理由も明かされる。

 軋轢が生じても、そっと紡がれる。本作にはそんな普遍的で不変な家族の姿が、ユーモアとペーソスで味付けされていた。一見すると心温まる結末だが、腑に落ちない部分もある。ポールって、そんなに悪いことした? あの一家、妙に潔癖過ぎない? 

 ヒール扱いされたポールに同情したのは、ルックスは完敗だが、俺自身と資質が似ているからかもしれない。いかなる構成であれ、家族は時に排他的で不寛容になる。まあ、それは必ずしも家族だけとは限らないけれど……。その点も本作から得た教訓だった。





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30年後にダービーは~原発事故は競馬も殺す?

2011-05-28 06:11:52 | 競馬
 米軍によるイラク市民虐殺、中国によるチベット弾圧、北朝鮮の圧政……。日本人は映像を通して他国の非人道的振る舞いを眺めてきたが、3月11日以降、立ち位置が変わった。世界は今、日本政府の冷酷さに眉を顰めている。

 子供は1㍉シーベルト、大人なら5㍉シーベルトが許容値なのに、文科省は福島県の保育園、小中学校の校庭における放射線量の上限を年間20㍉シーベルトに定めた。<国家による殺人>の撤回を求める母親たちの試みを、藍原寛子さん(医療ジャーナリスト)が「ニュースの深層」(朝日ニュースター)でリポートしていた。

 福島の子供たちを疎開させるプロジェクトを立ち上げ、母親たちと文科省で抗議運動を行った山本太郎は、ドラマ降板の憂目を見る。朝日新聞の世論調査で脱原発派が過半数を超えたとはいえ、半世紀以上かけて構築された<秘密主義、棄民、言論弾圧を前提に成立する暴力装置=原発>の頑丈さを、山本の身に起きたことが示している。

 政治に求められるのはリアリズムだ。全国的なネットワークを立ち上げて<政官財=メディア=闇世界>の構造を揺さぶらなければ、恐らく何も変わらない。代表は小出裕章氏が最適で、スポンサーはもちろん孫正義氏だ。推進派から転向した学者や文化人にも門戸を開けばいい。

 ……などと真面目に書いてはいるが、妄想好きで不埒な俺の本質は何も変わっちゃいない。競馬にも相変わらず時間とお金を割いているが、POGドラフト(6月中旬)の準備を進めるうち、悪い予感が頭をもたげてきた。

 30年後、日本ダービーは開催されているだろうか……。関東の拠点である美浦トレセンは茨城県にある。人為的につくられた繊細な壊れ物であるサラブレッドは、牧草や水を大量に摂取するから、体内被曝の危険性は極めて高いはずだ。

 楽しめるうちが花と出馬表を眺めていると、気分が一層滅入ってくる。18頭のうち16頭がサンデーサイレンス(SS)系種牡馬の産駒で、残りの2頭も母系はSSだ。社台グループを自動車業界に例えれば、<トヨタ+日産+ホンダ+マツダ>のメガ企業で、あとは下請け、孫請けといった状況といえる。

 早田牧場はとっくに倒産し、西山牧場は08年にダーレー・ジャパンに売却され、メジロ牧場は先日解散した。シンボリ牧場にかつての輝きはなく、ラフィアンとコスモを率いる岡田繁幸氏も数年前、「サンデーサイレンスとアグネスタキオンは世界トップクラスの種牡馬」と白旗を掲げていた。

 〝外れ者〟を自任する俺ゆえ、任侠映画の鶴田浩二や高倉健を気取って「やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり」と啖呵を切りたいところだが、そうはいかない。〝SS系をリストに並べる〟というPOGの原則を踏み外すと、目を覆うような結果が待っているからだ。

 今回のダービーには指名馬コティリオンが出走する。もちろんSS系(父ディープインパクト)で、チャンス十分と踏んでいたが、雨予報で諦めた。枠(⑨番)はいいが、切れ味勝負の同馬は不良馬場で馬群に沈むだろう。馬券は雨に強そうな⑰ユニバーサルバンク、⑦ベルシャザールを絡めて買って高配当を狙いたい。

 競馬といえばWIN5が話題だ。中穴党の俺は4~8番人気を絡めて馬券を買う傾向が強い。1億円はともかく、1000万円前後の配当ならそのうち取れるのではと射幸心を煽られている。今は低額出費に抑えているが、そのうちタガが外れそうで怖い。


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偶然と必然が織り成す糸~「ミスター・ノーバディ」が示した愛の重み

2011-05-25 00:55:50 | 映画、ドラマ
 偶然とは必然のパターンに過ぎない……。このことこそ東日本大地震の最大の教訓ではないか。震源地が東京に100㌔寄っていたら、さらに西で浜岡原発を直撃していたら……。「私は偶然生き延びた」というのが、俺を含め静岡以東で暮らす人々の実感だが、必然としての放射能汚染が身近に迫っている。

 天災、事故、戦争といったドラスティックな事象に限らず、個々の人生には偶然と必然の糸が絡まっている。あの時、別のサークルのドアをノックしていたら? 別の求人に応募していたら? 信じられないような出会いがなければ? 気持ちをストレートに形にしていたら? 俺の中にも数えきれないほどの岐路があり、何となく下した(やり過ごした)選択の結果、冴えなくも平穏な日々に至っている。

 渋谷で先日、人生をパラレルに描いた「ミスター・ノーバディ」(09年)を見た。監督は「トト・ザ・ヒーロー」(91年)で鮮烈な印象を受けたジャコ・ヴァン・ドルマルだ。時間潰しで入った近くのルノアールで爆睡してしまい、席に着いた瞬間、本編上映というドタバタだった。

 舞台は2092年のとある病院……。永遠の命を得た人類が、地球上で最後の死を目撃する。衆人環視の下、この世を去るのは118歳のニモ(ジャレット・レト)だ。老人たちが内臓移植用の豚を抱えて腰掛けるシーンに、脳内の回路がプシューンと音を立て、眠気が一遍に吹っ飛んだ。

 映像とショートしたのはベルナール・ウェルベルの「われらの父の父」である。フランスの鬼才ウェルベルは、科学、文学、哲学を繋ぐエンターテインメントを数多く発表してきた。人間と豚の内臓の互換性に着目した「われら――」を読んだからこそ、ドルマルは冒頭のシーンを挿入したのだろう。知的で実験的、ポップだが情緒的……。ウェルベルと重なるトーンが心地よく、スクリーンに引き込まれていく。

 バッハ、サティ、オーティス・レディング、ピクシーズ、ユーリズミックスらジャンルを超えたサントラが彩りを添えていた。エリース(サラ・ポーリー)が「ロックバルーンは99」(ネーナ)に合わせて踊る痛々しいシーンが、映像と音楽の最高のコラボだった。
 
 病室で直撃するジャーナリストに、ニモが人生を振り返るという設定だ。ニモはそもそも記憶が定かではないし、時折意識が混濁する。不死と引き換えに愛(セックスを含め)を奪われた聞き手に、ニモはサービス精神旺盛に語り続ける。

 離婚した両親のいずれと暮らしたのか、3人の女性とどのように関わったのか……。10以上も示されたパラレルワールドに、聞き手は混乱するしかない。「トト・ザ・ヒーロー」を彷彿させるエピソードも織り込まれていた。

 YAHOO!の観客レビューは3・5(25日現在)と意外に低い。「散漫」「懲りすぎ」「何も言ってない」との評には、俺はくみさない。ニモの選択がラストに示されているからだ。ニモは狂気と背中合わせの純粋な愛を貫いた。そのことが自らの心身を痛めつけたとしても……。

 最後に訃報を。長門裕之さんが亡くなった。同郷の名優の死を心から悼みたい。晩年で記憶に残るのは「相棒」で演じた外交官だが、今村昌平監督の初期作品「にあんちゃん」と「豚と軍艦」で映画史に大きな足跡を刻んでいる。この2作の追悼放映を切に願っている。





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「神の火」(文庫版)再読~情念に根差した〝禁断の書〟

2011-05-22 04:38:20 | 読書
 与謝野馨経済財政特命相が20日、「福島原発は神の仕業」と発言した。仕事中は見出しだけチェックし、真意を以下のように推測した。<自然をコントロールできると錯覚した人間の傲慢さが、神の逆鱗に触れた>と……。帰宅後、薄ら寒い中身に愕然とする。

 「(神の仕業ゆえ)東電に賠償責任を負わせるのは不当」と言葉を続けた与謝野氏は元原子力発電社員で、〝原発推進派2トップ〟である中曽根康弘元首相、読売新聞と深い関係を築いてきた。自らを正当化し、仲間を弁護する氏の冷酷な目に、放射能汚染の危機にさらされた子供たちの姿は映っていない。

 〝神〟繋がりになったが、今回は大幅な加筆修正を経て文庫化された高村薫著「神の火」(上下、新潮文庫/95年4月発刊)について記したい。核武装を進める北朝鮮を巡る諜報戦をテーマに据えたポリティカルサスペンスである。

 <純粋な理論と人間の良心を信じた原発の存在が、現実世界の悪意と暴力の前でどれほど矛盾に満ちているかを、見つめるべきだ>……。

 この部分こそ、現代に甦ったプロメテウスが「神の火」を解き放つ本作の肝といえるだろう。「レディ・ジョーカー」(97年)までの高村の小説は、ラディカルやアウトロー、一度でも革命の夢を追った者にとって至高のカタルシスだが、本作はその傾向が最も強い。主人公(島田)はラスト近くで、以下のような言葉を吐き出す。

 <築いてきたものは全部、カムフラージュだ。何ひとつほんとうには築くことが出来ないから、仮のものを築いて叩き潰す。彼(日野)も僕もそういう人生を生きてきた>……。高村もまた、テロリストの心情に寄り添って小説を書いてきたが、文庫版発刊直前に起きた阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が転換点になる。

 物語は京阪神と〝原発銀座〟若狭湾沖を舞台に、4カ月のスパンで展開する。魅力的に描かれているのは、起伏と陰翳をもたらす淀川沿いの十三だ。異様なパワーに満ちた街を徘徊する登場人物を紹介する。

□島田浩二…30代後半。ロシア人宣教師と母との不倫によって生まれた碧眼の主人公。現在は科学書籍輸入販売を手掛ける「木村商会」社員。日本原子力研究所(原研)時代は優秀な技術者であり、旧ソ連への情報提供者だった
□日野章介…島田と幼馴染みのアウトロー。辿った道筋は異なるが再会後に交わり、島田との強い絆が復活する。感性と野性に溢れた男
□高塚良…島田と日野に〝遺言〟を託した日本名を持つ儚げなロシア生まれの青年。チェルノブイリの被曝者で、汚濁に身を置いても清々しさを保つ
□江口彰彦…島田を諜報の世界に引き入れた旧ソ連ネットワークの大立者。洗練された所作、幅広い教養を誇る
□柳瀬兄妹…兄裕司は北朝鮮からウラン濃縮技術を持ち帰った技術者。日野の妻だった妹の律子は、薬物によって北朝鮮にコントロールされる
□諜報員たち…CIAのハロルド、旧ソ連外交官のボリスは、ともに仮面の下に人間らしさを滲ませている。良が交流する「ぷらとん」3人組も重要な役割を担う
□小坂雅彦…原研時代の島田の後輩。不器用で真面目な音海原発主任技術者
□山村勝則…北朝鮮と関係が深い野党政治家

 彼らが織り成す込み入ったストーリーは、やがて一本の糸に収斂していく。タマネギの皮を剥ぐような諜報の世界に身を置く者たちは、敵対しつつ無常観を共有するようになる。決行時に存命していなかった者を含め、上記全員が同じ幻を見たプロメテウスの共犯者といえるだろう。

 木村商会で島田の同僚である川端美奈子は、魅力的な子持ちの若き未亡人だ。再読なのにロマンチックなエピソードに期待してしまったが、男女の機微を断ち切るところがいかにも高村らしい。彼女の小説に登場する男たちは、任侠映画の鶴田浩二や高倉健のように押しなべてストイックだ。主人公の名前が鶴田と1字違いであることに、作意はあるのだろうか。

 本作を色濃く覆うのはチェルノブイリの影だ。島田は原研時代、同僚たちと<半径30㌔以内の住人しか避難させなかったことは、ソ連政府の判断ミス>との結論を出していた。これが20年前の〝常識〟なら、福島原発事故に対する政府の対応に改めて憤りを覚えざるをえない。<二酸化炭素排出規制=原発推進派の後ろ盾>という欺瞞の構図に既に言及していた高村の慧眼には驚くばかりである。

 「神の火」はストーリーを離れ、危険な領域に読者を導く。1960年代から70年代、原発建設ラッシュになった日本海沿岸では、反対派を監視する公安関係者のみならず、米ソ、北朝鮮など世界中の諜報機関が角を突き合わせていた。〝スパイ大通り〟でなぜ北朝鮮による拉致が頻発したのだろう。<拉致と原発は闇で繋がっている>という俺の妄想は、本作を読む限り的外れとは思えない。

 <国民の選んだ政治家が、外国から金貰って言うなりになっている国がどこにある。労働団体も社会主義政党も同じ。(中略)日本人が自分の国と意識するに足る主権を持ってこなかったのは、全部日本人の責任だ>……。

 諜報戦を仕切ってきた江口は、戦後日本を上記のように総括する。不毛の構図が今も変わらないことは、菅内閣の迷走ぶりからも明らかだ。高村は常に俯瞰で日本の、そして世界の構造を眺めている。

 ドラスティックな〝禁断の書〟のラスト近くで、島田と日野は音海原発に近い入江に水仙の球根を幾つか埋めた。日野は「おい、お前さん、人間の代わりに、時代をしっかり見るんやで」と水仙に声を掛ける。

 このシーンに感銘を受けた俺を、ヒューマニズムに欠けると感じる方がいても不思議はない。それは構わないが、現在の日本にはマトモを装った悪魔たち――放射能汚染の危険性を隠蔽する政府、厚労省、文科省、メディア、学者たち――が闊歩している。彼らにこそ怒りの切っ先を向けてほしい。



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「ブルーバレンタイン」~愛という名の冷却装置

2011-05-19 00:52:11 | 映画、ドラマ
 福島原発では1号機、2号機だけでなく、MOX燃料を用いる3号機も既にメルトダウンしていたという。次々に明らかになる真実にパンチドランカー状態に陥り、感覚が麻痺しつつある。

 正気を保つため、敵を見据えることにした。菅首相と枝野官房長官ら隠蔽に終始する政府、東電防衛のため議員会館を駆けずり回る民主党の電力総連系議員、一部を除いて鎖に繋がれたままのメディア、放射能恐怖症が何より危険と説く山下俊一教授(福島県アドバイザー)……。

 反原発派を恫喝する暴力団員と比べたら、彼らは紳士然としている。だが、正邪を判別する眼鏡を掛けたら、彼らの首の上に乗っているのが蛇の頭であることに気付くだろう。原発という構造は人間を悪魔に変え、この国の自由を破壊してきた。

 さて、本題。新宿で先日、「ブルーバレンタイン」(10年、デレク・シアンフランセ監督)を見た。ディーン(ライアン・ゴスリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)が結ばれる過程と、関係が修復不能になった現在を、鮮やかなコントラストで描いている。

 サントラを担当したのは、俺が当ブログで絶賛しているNY派のグリズリー・ベアだ。ときめき、歓喜、揺らぎ、絶望を静謐なアンサンブルで表現して彩りを添えている。ディーンが着ていたのはモグワイの「ザ・ホーク・イズ・ハウリング」のジャケットをプリントしたトレーナーだ。監督の音楽への造詣の深さが窺える作品である。

 愛は壊れ物であり、時が経てば冷めるか、もしくは腐ってしまう。ディーンとシンディの一人娘フランキーは、両親の隙間に敏感で、愛犬の失踪を崩壊の予兆と捉え脅えていた。<芽生え⇒結実⇒軋轢⇒別れ>を時系列で追っていたら平凡な映画だったかもしれないが、〝視覚表現の天才〟が刻んだ時間を紡ぐことで、ロマンチックかつ残酷な〝普遍的な愛の形〟が浮き彫りにされる。

 内田裕也・樹木希林夫妻の例を挙げるまでもなく、男女の関係は100組あれば100通りのバリエーションがある。監督は色調も手法も異なる無数の〝愛の絵〟に通底するものを、ディーンとシンディが過ごした数年間を通して抉り出した。

 全編に〝女性の生理〟が息づいているのは、監督が離婚寸前だった奥さんと共に脚本を共に書き、仲直りしたからではないか。ディーンは監督自身の投影で、才能を認められながらも仕事がなく、金策に追われた時期もあった。

 老人ホームの一室を魅力的にデコレートしたり、ギターと歌がうまかったり……。ユーモア、優しさ、才能に満ちたディーンは、ドラマチックにシンディと結ばれる。ディーンのギターに合わせてシンディがおちゃめに踊る路地裏のシーンに、多くの観客は自らが経験した〝愛の光芒〟を重ねたはずだ。

 ボヘミアンの自由さを滲ませていたディーンは、家族第一の生活で次第に精彩を欠いていく。一方のシンディは前向きにキャリアアップする元医学生だ。二人の志向の違いは埋めがたいギャップになるが、上記した〝女性の生理〟からくる嫌悪感も描かれていた。自己犠牲を発揮したディーンにとって、あまりに悲痛なラストといえるだろう。

 本作の手触りに中学生の頃、京都で見た「卒業」(67年)を思い出した。ダスティン・ホフマンが新婦を強奪して駆け出すシーンに、「サウンド・オブ・サイレンス」(サイモン&ガーファンクル)が重なる。♪古い友である暗闇よ、君と話す時がやってきた……で始まる曲は、人間の奥深い孤独を表現していた。乗り込んだバスに席を占めるのは老人ばかりで、二人の表情は次第に虚ろになっていく。

 愛ってこんなに暗いものか……。「卒業」で沈んだガキはその後、福永武彦を耽読する。あれから40年、膨らんだ<恋愛ペシミズム>を引きずったまま、棺桶に入ることになりそうだ。
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大地震から2カ月~<欺瞞の相対性>克服と民主主義への道筋は

2011-05-16 00:31:39 | 社会、政治
 東日本大地震から2カ月以上が経過した。現在感じていることを記すことにする。まとまりを欠くこと、原発に偏ってしまうことはご容赦願いたい。

 若者に囲まれて新宿や渋谷を歩いていると、寂寥感が込み上げてくる。白河の関が国境線かと思える被災地の光景が脳裏をよぎるが、生きるために仕事をする身に出来ることは、贖罪としての寄付ぐらいだ。

 <俺みたいな〝東京砂漠のゴキブリ〟はどんな死に方をしても構わないが、未来を担う子供たちは放射能から守らなければならない>……。当ブログでこんな風に記してきたが、この表現の底に猛毒が潜んでいることを辺見庸が教えてくれた。「瓦礫の中から言葉を」(NHK教育)で、辺見は以下のように語っている。

 <ホスピスにいる私の母は「死にたい」と言う。でも、それは違う。老人、病人、失業者、障害者ら非生産的と目されている者こそ、生きなければならない>(論旨)……。

 人間を生産性や価値(民族)によってカテゴライズした典型例はナチスドイツだが、日本のアジア侵略も〝優れた我々が劣った輩を導く〟という差別意識に支えられていた。この〝欺瞞の相対性〟が世紀を超えて生き延びていたことに愕然とする。<日米両政府がモンゴルを候補地に廃棄物処理施設建設を協議>のニュースに、石井細菌部隊が重なった。

 莫大な時間と金を消費する核燃料リサイクルが頓挫した今、日本だけでも毎年数万㌧の廃棄物が蓄積される。都会は駄目だけど、田舎なら……。日本(アメリカ)は駄目だけど、外国なら……。広島と長崎の被爆者をモルモットにした日米<棄民>政府は、人道上許されない計画を実行に移そうとしている。俺が恐れているのは、福島の事故を経てもなお、日本人があっさり受け入れてしまうことだ。

 〝欺瞞の相対性〟は今も付け入る隙を狙っている。放射能汚染が確実に国境を超える以上、「がんばれ、日本」に埋没するのではなく、各自がグローバルな視点で人間の尊厳について考える時機に来ている。

 上杉隆、平野啓一郎らが絶賛するツイッターでは、原発に関する様々な真実、集会やデモの予定など桁違いの情報が迅速にアップされているらしい。「計画停電は原発維持のための政府の目くらまし」と話した時、失笑する者もいたが、俺の直感はその時既にツイッターでは常識で、1カ月後には仕事先の夕刊紙にも掲載されていた。

 〝意識が高い者のツール〟としてツイッターは十分機能しているが、毒まんじゅう(原発マネー)を食った朝日や毎日は、「浜岡原発を止めることで深刻な電力不足が起きる」と垂れ流し、世論を誘導している。このギャップを埋める術はあるだろうか。

 原発事故の賠償問題が議論されているが、菅内閣はJALと異なり、東電と株主に優しい対応を考えているようだ。政府が主犯で、東電が共犯である以上、ズブズブになる可能性は大きいが、4兆円という数字の根拠さえ明確ではない。〝刑事上の罪〟だけでなく、〝民事上の過ち〟も深刻だ。仕分け作業が再開されるなら、暴力団の資金源にもなっている原発関連団体のダーティーな金の流れを詳らかにする必要がある。

 原発が日本において巨大な暴力装置であり、憲法に保障された言論の自由の侵害することで成立したことも検証されるべきだ。小出裕章氏らへの尾行や盗聴、反対派住民に対する脅し、メディアのおける言論封殺などを明らかにすることも、脱原発への道筋といえる。

 手前みそになるが、俺は早い時期(3月16日)に<オルタナティヴにフレキシブルに~脱原発は地方分権から>をテーマに掲げていた。統一型、集中型の構造では原発依存から脱却できない。風土と気候に適した地産地消型エネルギーを志向する動きは、民主主義の醸成にもプラスになると思う。




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獲物に魔女に速足の狐たち~エコな音に浸る日々

2011-05-13 03:35:30 | 音楽
 起きてテレビをつけると、〝効果的な節電〟とか〝冷房抜きの暑さ対策〟なんてコーナーで、方法があれこれ紹介されている。毒まんじゅうを喰らった朝日の朝刊には、「電力不足」の文字が狡い貌で躍っていた。

 寝惚けた脳から警戒警報が発令される。東電と中電が示したデータに基づき、小出裕章氏や広瀬隆氏らは<原発抜きでも電力は大丈夫>との結論を導き出している。政府、東電、保険会社と組んで子羊(国民)を洗脳するメディアに苛立ちを覚えつつ、「俺の方が間違ってるのか」とモヤモヤしてきた。

 職場で整理記者Yさんに見せてもらった東京新聞が、恰好の消化剤になる。<節電PRは原発維持への脅し?>といった見出しなど、政府と東電に厳しい論調だ。さすがは日本で最も早く<二酸化炭素地球温暖化説=原発推進派の命綱>に疑義を呈した東京新聞だけのことはある。

 さて、本題。最近買ったアルバム3枚の感想を記したい。いずれもメッセージを前面に掲げるわけではないが、<脱原発>に共通するオルタナティヴな方法論を志向している。

 まずはジェイミーとアリソンからなるキルズの「ブラッド・プレッシャーズ」から。男女1人ずつの構成はホワイト・ストライプスを彷彿とさせる。虚飾を排したストイックさが両者の共通点だが、キルズの方がメロディアスだ。

 クオリティーの高い曲が並ぶ中、無国籍風の♯2“Satellite”、変調とボーカルの掛け合いが鮮やかな♯5“Wild Charms”、ダウナーなメロディーと硬質のビートがマッチした♯6“DNA”、イントロとサビに懐かしさを覚える♯7“Baby Says”、シンプルな失恋ソング♯8“The Last Goodbye”が印象に残った。

 聴き込むうち既視感ならぬ〝既聴感〟を覚え、スージー&ザ・バンシーズの「スルー・ザ・ルッキング・グラス」(87年)に辿り着く。スージーとアリソンの声質と歌い方に共通点を覚えるのは俺だけだろうか。

 NYのローファイ女性トリオ、ヴィヴィアン・ガールズの「シェア・ザ・ジョイ」を聴いた人は、レインコーツや少年ナイフを思い出すはずだ。6日間で録音され、パブリシティーに金を掛けず市場に出す……。曲のレベルも高いが、エコな姿勢こそ本作の肝かもしれない。読書しながら聴いていると、音は次第に希薄になるが、37分経った時、霧雨の潤いが心をしっとり濡らしていた。

 フリート・フォクシーズの「ヘルプレスネス・ブルース」を簡潔に表現すれば、<境界線を彷徨うアコースティックな音>となる。ダーティー・プロジェクターズ、グリズリー・ベア、ローカル・ネイティヴスと志向性は同じで、民族音楽からフォークまであらゆるジャンルを取り込み、<聴く人の遠い記憶に働きかけるような重層的ハーモニー>(岡村詩野さんのライナーノーツから)で祝祭的ムードを醸している。音の記憶の坩堝からカラフルな煙が立ち込めるのを覚えるアルバムだ。

 最後に、残念なニュースを。1カ月後のPOGドラフトに向け準備を始めようとした矢先、内田博幸騎手が落馬して頸椎を骨折し、長期離脱を余儀なくされる。東西調教師から素質馬の騎乗依頼が引きも切らない内田の不在は、POG参加者にとっても悩みの種だが、そんなことはさておき、一日も早い復帰を待ちたい。



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エッジ、モウリーニョ、羽生、そしてパッキャオ~岐路に立つ王者たち

2011-05-10 00:41:05 | スポーツ
 先週末(7日)、「ミスター・ノーバディ」を見るため渋谷に出たが、開演30分前にソールドアウト。ブロガーにとって、ネタが消えるのは実につらい。代案に頭をひねりながら駅へ向かう途中、反原発デモに遭遇した。

 飛び入りしようと思ったが、心情的支援にとどめる。俺の背中で「頑張れ」と野太い声で叫んでいたのは、誰からも見捨てられたホームレスのおっさんだった。1万5000人(主催者発表)が参加したデモには若者が目立ち、思い思いの方法で意思を表明していた。

 急速に萎んだ反核ムーブメント(80年代)の二の舞いを俺は恐れている。〝政治運動という非日常〟が日常化し、尖鋭化していく過程で、櫛の歯が欠けるように参加者は減っていった。メディアを使って<電力不足=原発は必要>を喧伝していけば反原発の流れは止まると政財官はタカを括っているはずだが、現在は当時と状況が大きく違う。放射能汚染が実体を伴って身近に迫っているからだ。

 さて、本題。枕とは全く関係なく、<岐路に立つ王者たち>のテーマでスポーツについて記したい。まずは訃報から。

 80年代から90年代にかけ、最もキャラが立っていたゴルファーといえるセベ・バレステロスが亡くなった。サッカー代表チームの戦いぶりや「カタロニア讃歌」から抱いていた〝スペイン人は淡泊〟というイメージを、セベは完全に覆してくれた。執念が生んだミラクルの数々で世界に衝撃を与えた〝情熱の男〟の死を心から悼みたい。

 WWEのエッジが王者のまま引退した。頸椎の状態が思わしくなく、腕の痺れが取れないという。WCWに断崖絶壁に追い詰められたWWEは90年代後半、生き残りを懸けECWのラディカリズムを導入する。ハードコアを体現したのがエッジ&クリスチャンとハーディー・ボーイズだ。

 5㍍の高さからダイブしたり、鉄製のイスで殴られたり、ハシゴで顔を突かれたり……。高度で危険なシナリオを実践する彼らに身が軋んだが、当人たちの肉体もボロボロになる。この10年はエッジにとり、後遺症と闘い続けた日々だった。個性的な風貌と豊かな表現力を誇るエッジに、ハリウッドが触手を伸ばすことは確実だ。

 ジョゼ・モウリーニョ(レアル・マドリード監督)を初めて見た時、闘将かつ知将のジョン・グルーデン(NFL)とイメージが重なった。悪童的振る舞いで物議を醸す〝グルーデン2世〟は瞬く間に本家を超え、数々のタイトルを手中にする。悪名を轟かすモウリーニョだが、戦術家、モチベーターとして選手から絶大な支持を得ている。東日本大地震被災者に60万ユーロ(約7000万円)を送るという善行でも話題になった。

 就任1年目でレアルに国王杯をもたらしたモウリーリョだが、安閑としていられない。自ら「欠点は全くない」と言い切る〝世界一の監督〟だが、来季もリーガ制覇を逃せば、その称号を8歳若いグアルディオラ(バルセロナ)に譲ることになりかねない。背水の陣で臨むモウリーニョは自らを慕うチェルシー時代の教え子、ドログバとランパードを誘っているという。

 将棋をスポーツ感覚で見ているので同列で論じるが、羽生善治名人が森内俊之9段に3連敗し、名人失冠が確実になった。最近の羽生は前掛かりで、成熟を拒否して攻勢に出ているように思えてならない。他の棋士ならともかく、渡辺明竜王や森内9段は〝若さ〟を逃さず、強烈なカウンターパンチを繰り出してくる。

 会社なら30代までの経験が40代以降に評価されるが、将棋界は景色が異なる。閃き、柔軟性、想像力に勝る30代までが指し盛りで、40代以降は余程の実力者でない限り、若手の踏み台にされてしまうのだ。40代に突入した羽生は〝永遠の若さ〟を得るため、試行錯誤しているのかもしれない。

 〝拳聖〟ヘンリー・アームストロングに匹敵する評価を得ているマニー・パッキャオがシェーン・モズリーに圧勝し、ボクシングの常識(階級制)を覆す奇跡の旅を続行中だ。ナチュラルなウエルター級(66・7㌔)のモズリーが、ライトフライ級(49㌔)でプロデビューしたパッキャオを恐れて腰が引けていた。

 最強のライバルたちをことごとく倒し、6階級(実質10階級)を制したアジアの怪物に、岐路とか黄昏は無縁に思える。パッキャオの敵は〝勝者の憂鬱〟であり、モチベーションの低下ではないか。肉を斬らせて骨を断つ覚悟を決めた若きハードパンチャーが、世紀の番狂わせを演じる日が来るかもしれない。

 今回は俺とは無縁の勝者についてあれこれ記した。勝者に至る不断の努力、勝者たることの快楽は知る由もないが、〝敗者の和み〟に浸る心地よさは十分に味わっている。
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「人質の朗読会」~極限状況で相寄る魂

2011-05-07 02:01:41 | 読書
 ビンラディン容疑者殺害で、オバマ大統領の支持率が急上昇した。憎しみの連鎖は増幅するばかりなのに、熱狂する国民の姿に、アメリカ民主主義の幼さを実感した。

 菅首相が浜岡原発全原子炉停止を中部電力に要請する。地震の可能性を考えれば当然の判断だが、政府は原発が壊した言論の自由、交付金依存の脆弱で醜悪な構図を直視し、地方自治再建に向けた道標を示すべきだ……と書いてネットで記事を確認し、愕然とする。防潮堤ができるまでの期間限定というから、全く無意味である。前々稿に記したように、田中三彦氏は揺れそのものが原発に大きな打撃を与えたと主張している。ほんの数時間だが、菅首相に騙された俺がアホだった。

 将棋界の保護者だった団鬼六氏の冥福を、心から祈りたい。官能小説を読んでいない俺にとり、最高傑作は「真剣師小池重明」(幻冬舎アウトロー文庫)だ。小池の盾であり続けた団氏は、手ひどい裏切りに何度も遭いながら、才能を惜しんで赦してきた。魅力に溢れる男の破滅を描いた同作は、壮絶な愛の物語でもある。

 さて、本題。肌寒かった亀岡で小川洋子著「人質の朗読会」(中央公論新社)を読んだ。八本の淡色の糸で織られ、爽やかな余韻が去らない物語である。小川作品を読むのは初めてだったが、映画「博士の愛した数式」(06年、小泉堯史監督)には感銘を受けた。深津絵里に胸キュンになったことも大きかったけど……。

 「人質の朗読会」は極限状況で企図された試みだ。南米でゲリラに囚われた八人の日本人が、自らの人生を振り返り、印象的な出来事を作文にして朗読する。人質の間だけでなく、言葉を理解できない犯人グループにも和みが浸潤していく気配を伝えるのは、語り部である特殊部隊隊員だ。

 盗聴によって状況を探る彼は、本好きの祖母に連なる思い出から、日本語に親しみを覚えている。朗読に聞き入りながら、以下のように独白する。

 <このまま朗読会がいつまでも続いたらいいのに。そうすれば人質たちはずっと安全でいられるのに。時に私は本来の任務とは矛盾する願いにとらわれ、自分でも戸惑うことがあった>……

 記憶に残る場面を選ぶという点では、「ワンダフルライフ」(99年、是枝裕和監督)と似ているが、死が間近に迫った状況ゆえ、カラフルで華やいだ瞬間は思い浮かばない。川面に落ちた雨は、交わらぬ弧を描いた刹那、沈んでいく。そんな距離感で相寄る魂に紡がれた物語が、八夜にわたって朗読される。透き通った作者の眼差しに心が潤む八幅の水彩画だった。

 俺が最も心に染みたのは、隣人と少年のひとときの交流を描いた第五夜「コンソメスープ名人」だが、読む者それぞれの温度と湿度によって、琴線に触れるエピソードは違ってくるはずだ。作者の遊び心を感じたのは、シュールで寓意に満ちた第三夜「B談話室」だ。

 「B談話室」の主人公は作家で、校閲者だった時期の思い出を語っている。校閲の本質、校閲者の宿命を小川ほど鮮やかに記した作家はいない。校閲という仕事について知りたい方は、本作の76㌻を立ち読みしてほしい。三流の校閲者たる俺は、記述と程遠いことを重々承知しているが……。

 読了後、まず頭に浮かんだのは、避難所で暮らす人々だ。朗読会ではないにせよ、自らの思い出や記憶を語り合っている被災者も多いだろう。互いの言葉に感応して心を癒やすことこそ、希望への第一歩だと思う。


コメント (2)
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原発は自由を殺す~憲法記念日に考えたこと

2011-05-04 13:29:23 | 社会、政治
 ビンラディン容疑者が殺されたが、憎悪と復讐の連鎖にピリオドが打たれたわけではない。<世界最凶のテロ国家>が行動を改めない限り、一人のテロリスト、一つのグループが葬られても、抗う者は後を絶たないだろう。〝正義〟を掲げて侵攻したり、他国の政府をCIAを使って揺さぶったり、大量の武器を輸出したり……。アメリカの愚行を挙げればきりがないが、テロは軍事面にとどまらない。グローバリズムという経済テロで第一次産業が破壊された途上国では、夥しい貧困と飢餓が進行している。

 憲法記念日の昨日(3日)、憲法についてあれこれ考えた。憲法といえば議論の中心は9条で、俺は当ブログで<9条=死刑=自殺>は同じ文脈で考えるべきと主張してきた。それはともかく、憲法9条はかつて侵略したアジアのみならず、100%に近い国々から高く評価されている。唯一の例外はアメリカで、ニクソン副大統領(後の大統領)が「9条なんて捨ててしまえ」と国会で演説したのを皮切りに、有形無形の圧力を掛けてきた。さすが<世界最凶のテロ国家>である。

 ほぼ同時期、CIA、正力松太郎(読売社主)とともに原発推進に踏み出したのが、改憲派のトップランナーでもある中曽根康弘元首相だった。福島原発事故以降、放射能の恐ろしさと同時に、<自由を殺す>原発の構造が明るみに出始めた。亀岡のネットカフェで更新中の当稿は、前稿に書き切れなかった問題点を補足する形で記したい。

 第11回「終焉に向かう原子力」集会(29日)の講演者とパネリストは、逆風の中でも自らの主張を曲げなかった。小出裕章氏ら〝熊取6人衆〟が受けた弾圧は「週刊現代」に詳しく報じられた。生方卓氏もまた、冷や飯組といえるだろう。伊藤実氏は原発利権に絡む暴力団の恫喝を経験し、内藤新吾氏は〝頑張り過ぎて〟異動を命じられた。広瀬隆氏は自らを「放映禁止物体」と表現して笑いを取っていた。

 保守本流の3世議員、河野太郎氏でさえ、反原発派ゆえ国会で発言を封じられてきた。俺は頻繁に<原発=秘密主義、棄民、言論弾圧を前提に成立する暴力装置>と書いてきたが、日本に関しては完全に当てはまる。国是である原発に反対する者に言論の自由はないし、メディアは電事連の圧力を恐れて自主規制する。ここ数日の例を挙げれば、田中好子さんの追悼番組として最高傑作「黒い雨」を放映する予定の地上波は皆無だ。放射能の規制値引き上げに抗議して辞任した小佐古内閣官房参与だが、肝心の部分の音声を消した局もあったという。

 弾圧された反対派と対照的に、原発推進派の学者は莫大な研究費を与えられ、ビートたけしら著名人も甘い汁を吸ってきた。「週刊金曜日」によれば、原発慎重派の選挙応援に行く予定だったアントニオ猪木にストップを掛けた電事連は、見返りに1億円支払ったという。長いものにまかれたおかげで、猪木は電事連と関係が深いACジャパンのCMに出演している。養老孟司、弘兼憲史,茂木健一郎の各氏は撤回しないだろうが、たけしなら「無知ゆえ原発を賛美したけど、福島の事故で目が覚めた。黒澤さんやタルコフスキーに倣って、放射能の恐ろしさを描いた映画を作る」と転向するかもしれない。

 伊藤氏と内藤氏は「終焉に――」で、浜岡原発周辺で起きている事態を報告していた。交付金というアメが当たり前になった住民に〝タカリ体質〟が生まれ、あえて反対する者はいなくなる。旅行コースに原発が含まれているだけで、住民に数十万円が渡されるというから驚きだ。一方で、異を唱える者は村八分状態になり、職場にも居づらくなる。利権と結びついた暴力団が反対派に脅しをかけても、警察は見て見ぬふりという。「暴力の街」(山本薩夫監督)や「黒い罠」(オーソン・ウェルズ監督)に描かれた圧政が進行し、のどかな田園地帯に麻薬や売春が蔓延した。浜岡だけでなく全国の原発周辺で同様のことが起きている。

 文庫版「神の火」(95年、高村薫)再読中に気付いたが、「二酸化炭素地球温暖化説」はゴア以前から原発マフィアのツールとして、世界で用いられていたようだ。国内においても、上記の地方のみならず、自民党、民主党、創価学会、労働組合、暴力団も電事連に餌付けされ、正体不明の外郭団体に莫大な税金が流れ込む仕組みになっている。

 「終焉――」では時間が押せ押せで、あえて発言を控えられた生方卓氏だが、小冊子の「原発は嘘で動いている」の項で、原発の欺瞞を箇条書きでまとめていた。<原発は構造的暴力であって平和とは相容れない>、<海水温を上昇させる原発は、海水に溶けたに二酸化炭素を蒸発させる>、<事故が起きた時や廃棄物管理に莫大な費用がかかる原発は高コストエネルギー>、<原発はテロや戦争のターゲットになる>、<原発抜きでエネルギー供給が可能であることは、東電や中電のデータからも明らか>etc……。

 原発は何より、憲法の根幹というべき<言論の自由>を殺してきた。いや、今も殺している。アメリカの赤狩りは原子力産業とスタートラインが同じだったが、日本の原発産業を主導したのはCIAだった。「日本は自由な国」と信じてきた人々は、ようやく真実に気付きつつある。

 
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