酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「碁盤斬り」~草彅剛の完璧な演技に圧倒された

2024-05-31 21:58:48 | 映画、ドラマ
 名人戦を防衛した藤井聡太八冠は叡王戦第4局で伊藤匠七段を破り、2勝2敗のタイに戻した。王位戦の挑戦者に渡辺明九段が名乗りを上げ、棋聖戦では山崎隆之八段が待ち受けている。八冠防衛ロードは決して平たんではない。

 囲碁は旦那衆、将棋は庶民が好むといわれていた。ちなみに超庶民の俺は囲碁を全く解さない。資金力も日本棋院が将棋連盟を上回っていたがこの10年、将棋界は藤井という天才の出現で多くの企業がタイトル戦のスポンサーに名乗りを上げた。対照的に、部数減が止まらない新聞各社頼りの囲碁界は厳しい状況に追い込まれている。

 江戸時代を背景に囲碁を題材にした映画「碁盤斬り」(2024年、白石和彌監督)を見た。ベースは古典落語の「柳田格之進」で、本作で脚本を担当した加藤正人がノベライズ版「碁盤斬り」を発表している。主人公の柳田格之進(草彅剛)は汚名を着せられて彦根藩を追われ、娘のお絹(清原果那)と江戸の貧乏長屋で暮らしている。生計の糧である篆刻つながりで遊廓女将のお庚(小泉今日子)に用立ててもらった格之進は、碁会所で賭け碁を打つ。相手は骨董屋主人の萬屋源兵衛(國村隼)だった。矜持を保って碁を打つ格之進は、源兵衛に勝ちを譲った。

 後日、萬屋前で旗本が難癖をつけていた時、たまたま居合わせた格之進が店の窮地を救う。藩で進物方を務めていた格之進は骨董品に精通しており、旗本の言い掛かりを退けるのはたやすいことだった。お礼に訪ねてきた源兵衛と格之進は、互いを認め合う碁仲間になる。〝守銭奴〟と罵られていた源兵衛だが、格之進との出会いで生き方を変え、顧客優先の方針で店は大繁盛する。手代の弥吉(中川大志)とお絹のラブストーリーも微笑ましかった。

 順風満帆に進むと思った刹那、物語は暗転する。萬屋の離れで格之進と源兵衛が碁を打っているさなか、店に届けられた50両が紛失する。格之進が疑われたのは当然の成り行きだ。さらに、彦根藩藩主の梶木左門(奥野瑛太)が格之進を訪ね、疑いが晴れたことを伝える。掛け軸を盗んだ柴田兵庫(斎藤工)は出奔後、賭け碁で全国を回っているという。兵庫は格之進の妻に懸想して、死に追いやった敵であった。

 お絹に切腹を止められた格之進は、お庚に大晦日という日限で50両を借り、兵庫を討つために旅に出る。返せなければお絹は店に出るという条件だ。「文七元結」を彷彿させる人情話と復讐譚が絡み合うドラスチックな展開に息をのむ。後半に登場する賭け碁の元締(市村正親)の佇まいや殺陣の迫力は、数多の時代劇や任侠映画を生み出した太秦東映撮影所の伝統を感じた。

 俺が草彅の存在を知ったのは「『ぷっ』すま」で、ユースケ・サンタマリアとざっくばらんかつ自然体に番組を進める様子に、若手お笑い芸人かと勘違いしていた。草彅はその後、多くの映画、舞台、テレビドラマで活躍し、今や日本を代表する俳優との評価を勝ち取った。特に記憶に残っているのは映画「ミッドナイトスワン」とドラマ「ペパロンチーノ」(NHK)である。本作の白石監督、市村のみならず、つかこうへいや高倉健も天才ぶりを絶賛していた。シーンごとの表情の変化だけでも見る価値は十分あると思う。

 本作は様々な切り口で見ることが可能だが、<人は変わり得る>がメインテーマだと感じた。謹厳実直で自分にも他者にも厳しい格之進は武士時代、同僚たちを追放してきた。だが、源兵衛と碁を打つうち、自分を顧みるようになった。他者への仕打ちが正しかったのか、別の選択肢はなかったのかと……。格之進は藩を出た後に苦難の道を歩む者たちに手を差し伸べるため、江戸を出た。

 春風亭一之輔は自身がパーソナリティーを務めるラジオ番組に草彅を招き、意気投合した。草彅一人のために「柳田格之進」を演じる約束をする。2人の天才の間にどのようなケミストリーが生じるのだろうか。
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「フリアとシナリオライター」~リョサが仕掛けるスラップスティックコメディー

2024-05-27 22:24:01 | 読書
 前稿でダービーを予想した。4頭挙げ、⑮ジャスティンミラノ、⑬シンエンペラーは2、3着だったが、勝った⑤ダノンデサイルは全くのノーマークだった。同馬は皐月賞をゲートイン直前に回避した。輪乗りの段階で横山典騎手が違和感を察知したからである。安田翔伍師とスタッフは翌日、打撲痛の症状を確認し、ダービーに向けて調教を積み、栄冠に輝いた。

 横山典は〝感性の騎手〟と評される。56歳で3度目のダービー制覇で、検量室ではトップジョッキーである息子の和生、武史と抱き合っていた。一方で安田翔伍師の父は名伯楽(GⅠ・14勝)の安田隆行前調教師である。騎手時代はトウカイテイオーでダービーを制しているが、調教師としてのダービー制覇の夢を息子が叶えたことになる。競馬は〝ブラッドスポーツ〟であるが、関わる人たちも血と絆で紡がれている。

 さて、本題……。入り口は太宰治だったが、読書に親しむようになってから四十数年が経つ。最も感銘を覚えた作家を一人挙げるなら、マリオ・バルガス=リョサになる。今回は読了したばかりの「フリアとシナリオライター」(1977年、野谷文昭訳/河出文庫)を紹介する。<全体小説=取り巻く現実とともに人間を総合的に表現する>を掲げるリョサは、複数の視点で1950年代のリマを描き出している。

 リョサの作品の多くは重層的でシリアスだが、自伝的作品である本作はポップな色調でユーモアに溢れている。18歳のマリオが32歳で離婚歴のある叔母のフリアと恋仲になる。結婚に至るドタバタと並行して描かれているのは、マリオが勤める系列ラジオ局に招かれる天才脚本家ペドロ・カマーチョとの交遊だ。キーワードはボリビアで、フリアもペドロもともに当地からリマにやってくる。ペドロのアルゼンチン人への嫌悪、キューバ革命への過渡期も描かれていた。

 作家志望で短編を書きためているマリオは、ストイックに魅力的なシナリオを生み出すペドロに驚嘆して惹きつけられ、理想的な作家像を重ねていく。リマの地図を参考に、様々な情報をシナリオにぶち込むマリオに狂いの兆候が表れてくる。登場人物やストーリーが錯綜して収拾がつかなくなるのだ。煌めいた才能が廃人に転落した様子はラストに描かれていた。

 550㌻を超える長編ながらリョサにしては読みやすいと感じてページを繰るうち、俺もまた混乱を覚えるようになった。「アンデスのリトゥーマ」、「ささやかな英雄」の主人公である警察官のリトゥーマ軍曹は本作にも繰り返し登場する。マリオに加え、リマのスキャンダルや事件を俯瞰の目で観察する冷徹な語り手がいて、さらに作家として成功したリョサ自身も冒頭とラストで語り手に加わっている。ペドロが提示する脚本は<劇中劇>の様相を呈していき、虚実が入れ子構造を形作るさなか、現実はカタストロフィーを迎える。

 解説の斉藤荘馬氏は本作に自らの青春時代を重ねて綴っていた。リョサの入門編にはもってこいのスラップスティックコメディーだが、それでも様々な仕掛けが講じられた作品だ。リョサは歴史に造詣が深く、リアリズムを追求する作家と評される。平易に思える本作だが、メタフィクションやマジックリアリズムの要素も濃い。俺が囓っているのは巨大な蜃気楼の端っこに過ぎないことを実感させられた。
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初夏の雑感あれこれ~日本ダービー、MLBの若きモンスターたち、藤井聡太を継ぐ者

2024-05-23 21:44:33 | 独り言
 日本ダービーの枠順が決まった。競馬歴45年の俺にも、ダービーには様々な思い出がある。初めて馬券を取ったのは1982年で、バンブーアトラス-ワカテンザンの枠連は2800円だった。勤め人時代に参加していたPOGは指名馬4頭という小規模なものだったが、97年のダービー馬サニーブライアンは皐月賞を勝ったにもかかわらずフロック視され7番人気で、シルクジャスティスとの馬連は4860円だった。

 フリーになってメンバーになったPOGはレートが高く、気合が入った。2012年のダービーはディープブリランテ-フェノーメノの指名馬ワンツーという最高の結末で、19年に2番手追走から逃げ切ったロジャーバローズも記憶に新しい。欲というより愛を覚えていたのは17年に3着に敗れたアドミラブルだった。9月に喘鳴症で9着に惨敗したが、5カ月半ぶりに復活して3連勝し、1番人気に推される。競馬サークル内の空気も〝確勝〟だっただけに、レース後の落胆は大きかった。

 今はPOGと関係ないし、少額しか賭けないから、冷静に楽しむことが出来る。皐月賞馬の⑮ジャスティンミラノを中心視せざるを得ないが、相手は⑧アーバンシックと⑬シンエンペラーを考えている。応援するのはアドミラブルで無念の涙を流し、来年に定年を控える音無師が送り出す⑩サンライズジパングだ。シンエンペラーとサンライズジパングは重厚な欧州血統で、スピード決着にどう対応するか注目したい。

 MLBを観戦する機会が増えた。大谷、山本が牽引するドジャーズはポストシーズンを見据えているし、七色の変化球を駆使するダルビッシュの進化には目を瞠る。通用しないと決めつけていた今永のMLB仕様の変身には驚いたし、菊池と鈴木も頑張っている。日本人以外に若きモンスターたちを見つけた。NFLにもモンスターは多いが、システムに縛られている感がある。以下の3人は解き放たれたフィジカルエリートだ。

 レッズのエリー・デラクルーズ(22)はホームラン王と100盗塁を狙える強肩の内野手だ。オリオールズのガナー・ヘンダーソン(22)は内野ならどこでもこなせるユーティリティープレーヤーで、今季すでに16ホーマーを記録している。パイレーツのポール・スキーンズ(21)はフォーシームの平均球速が160㌔の剛腕ルーキーで先日、6回無安打11三振で初勝利を挙げた。数年後、彼らはどこまで進化しているのだろう。

 おととい(21日)行われた竜王戦6組決勝は注目の対局だった。藤本渚五段は18歳の最年少棋士、対する山下数毅三段は15歳の奨励会員で、三段リーグで次点1回を獲得している。この対局で勝てば次点1回が与えられるので、2回で4段昇段となりプロ入りが確定するのだ。両者は研究仲間でもあり、手の内は知り尽くしている。山下優勢の場面もあったが、最後は藤本が貫禄を見せた。

 藤井聡太八冠からタイトルを奪う者は誰かと聞かれたら、将棋ファンはまず叡王戦で藤井をカド番に追い詰めている伊藤匠七段(22)を、次に藤本と山下を挙げるだろう。ポイントになるのは若さだ。三段リーグには44人がひしめき、年間でプロになれるのは4人という狭き門である。天才たちは練習将棋で切磋琢磨し、AIを導入して最先端の戦法を研究している。四段昇級を果たした棋士が涙ぐむのもわかる気がする。
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「穴」~リアルな描写が織り成すフレンチ・ノワールの神髄

2024-05-19 23:12:54 | 映画、ドラマ
 将棋の名人戦第4局が別府市で行われ、先手の豊島将之九段が藤井聡太名人(八冠)を破って一矢を報いた。研究していた手順で初日にリードを奪ったが、2日目の夕方には五分の形勢になる。通常なら藤井の終盤力に屈するところだが、豊島は最善の応手で勝利を引き寄せた。豊島の醒めた闘志を感じさせた熱戦だった。

 中学生になって、映画館に足を運ぶようになった。といってもロードショーではなく、二番館での2本立てで、ホームグラウンドは祇園会館だった。「007」シリーズ、少し背伸びしてアメリカン・ニューシネマ、そしてフレンチ・ノワールにカテゴライズされるチャールズ・ブロンソンやアラン・ドロンの主演作を、タイムラグを経て観賞していた。

 ケイズシネマで開催された「フィルム・ノワール映画祭」では15本が上映されたが、〝フィルム〟ではなく〝フレンチ〟特集の感がある。最終日(17日)に「穴」(1960年、ジャック・ベッケル監督)を見た。20年ぶりの再会である。そもそもアメリカ発祥の<ノワール映画>の定義は難しく、ビリー・ワイルダーや黒澤明の作品まで含める批評家もいる。定義を談じても意味がなく、見方ひとつで変わると捉えた方がよさそうだ。

 本作は1947年、パリのサンテ刑務所で起きた脱獄事件がベースになっている。原作者のジョゼ・ジョヴァンニだけでなく冒頭に登場するジャン・ケロディも実行犯で、リーダー格のロランを演じていた。監房の一室にはロラン以外にジェオ(ミシェル・コンスタンタン)、マニュ(フィリップ・ルノワ)、ボスラン(レイモンド・ムーニエ)が収監されていた。4人は軽作業を隠れみのに脱獄の準備を進めていた。

 そこに新参者が加わる。いかにも育ちが良さそうなガスパール(マーク・ミシェル)で、狡猾な所長の覚えもいい。もみ合っているうちに妻を撃ってしまい、計画殺人未遂の容疑で逮捕された。義妹ニコールとの浮気が妻を硬化させ、訴えを取り下げる気配はない。ガスパルは当初、余計者扱いだったが、信頼を得て同志になる。

 実行犯が製作に参加しているから、床や壁に穴をあける作業の描写は実にリアルで、ロランとマニュが刑務所地下を徘徊する場面は緊迫感とユーモアに溢れていた。5人を追うカメラワークも秀逸で、モノクロ画面が各自の心情を浮き彫りにしている。不思議に感じたのは、脱獄後の展望が描かれていないことだ。戦後の混乱期ゆえ、出てしまえば何とかなるという楽観的な空気もあったのかもしれない。本作は脱獄を巡る葛藤劇、心理劇とみることも出来る。

 順風満帆な人生を踏み外し、将来への希望をなくしたガスパルに変化が訪れる。配管工(囚人)の窃盗に対し、同室の4人は刑務官の計らいで制裁を許される。生きてきた外の世界と異なるルールに戸惑ったガスパルは、所長に呼ばれて妻が訴えを取り下げ、遠からず釈放されることを告げられる。脱獄決行の夜、監房前に刑務官が集結する。「僕じゃない」と叫ぶガスパルに、ロランは「哀れなやつ」と吐き捨てる。裏切りの真実は闇の中だ。本作で驚いたのはフランスの監獄の自由度の高さと、囚人たちのファッションセンスだった。

 ベッケルは「現金に手を出すな」で知られるが、夭折の画家モジリアーニを描いた「モンパルナスの灯」の監督でもある。色調が異なる傑作を世に問うたベッケルの実力に感嘆するしかない。
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「マイ・シスター、シリアルキラー」~連続殺人犯は無垢な美女

2024-05-15 21:00:35 | 読書
 グレタ・トゥーンベリさんが逮捕された。自国スウェーデンで開催された「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」決勝大会にイスラエル代表が参加したことに抗議し、<ジェノサイドをやめろ>といったパレスチナへの連帯を示すプラカードを掲げて会場を取り囲んだ数千人の中にトゥーンベリさんもいた。

 欧州や全米各地の大学で大規模なデモが行われているが、前稿末にも記したように、<反ユダヤ主義>ではなく、自由と民主主義、反戦を訴えるリベラリズムに基づいている。反貧困、ジェンダー、気候正義、反ジェノサイトなど複数のカテゴリーが人々を紡いでいくインターセクショナリティー(交差性)をトゥーンベリさん体現しているのだ。

 「マイ・シスター、シリアルキラー」(オインカン・ブレイスウェイト著、粟飯原文子訳/ハヤカワ・ポケット・ミステリ)を読了した。ミステリーやサスペンスは面白いのはわかっているから、<読書は修行>が染みついている俺は読まないようにしているのだが、紀伊國屋で目に留まった本作を購入した。

 作者はナイジェリア出身の女性だ。文学賞を受賞した時期を考えると、30歳直前に本作を発表したようだ。ポップかつスタイリッシュな記述で短い章で紡がれており、200㌻弱を一気読みしてしまった。舞台はナイジェリア最大の都市ラゴスで、コレデ、アヨオラの姉妹が主人公だ。語り手のコレデは大きな病院の看護師長に任命されるが、優秀さは病院だけでなく、妹の殺人の後始末にも発揮される。タイトル通り、アヨオラはシリアルキラー、即ち連続殺人犯なのだ。

 本作はミステリーにカテゴライズされるが、謎解きの要素はない。冒頭でコレデがアヨオラのSOSで駆けつけると、恋人フェミの死体が転がっていた。コレデは部屋を完璧に清掃し、死体を遺棄した。3度目のことである。姉妹のキャラクターは対照的で、コレデは平凡でまじめな性格、アヨオラは圧倒的な美貌で周りの男を夢中にさせる。

 共依存はなぜ成立したのか、物語がカットバックしながら仄めかされる。ナイジェリアの現状や宗教についてはわからないが、独裁者の父が、14歳のアヨオラの嫁ぎ先を勝手に決めたことへの反発で、姉妹は〝共犯関係〟になる。そのメタファーはナイフで、アヨオラが凶器として用いることになる。

 通常のミステリーだと鑑識や監視カメラが大活躍するが、本作では警官でさえ、アヨオラの魅力にノックアウトされて殺人を見抜けない。ブラックジョークとしか言いようがないが、最大の理由はアヨオラが贖罪の思いを持ち合わせていないことだ。コンデは医師のタデに思いを寄せていたが、予感通り妹に奪われ、刃傷沙汰を引き起こす。さらに、アヨオラとドバイを訪れたビジネスマンが不審死を遂げた。

 上記したように語り手はコンデだが、ストーリーを回転させる聞き手がいた。昏睡状態のムフタールで、コンデは鬱憤や不安を吐き出すように語り掛ける。彼女の行為に効果があったかはともかく、ムフタールは意識を回復する。昏睡状態での記憶が姉妹を有罪にすることはあり得ず、ムフタールはコンデに謝意を伝えて退院した。〝共犯関係〟継続を予感させるラストも皮肉が効いていた。

 俺の知人に、男たちの心を引き裂いていく女性がいた。近づいてくる男たちと恋人関係になりながら、2、3カ月経たないうちに別れていく。アヨオラのように命は奪っていないが、心を殺していたのかもしれない。幸か不幸か、俺は恋愛の対象ではなかった。
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「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」~激動の時代に翻弄されて

2024-05-11 21:11:31 | 映画、ドラマ
 当ブログでは映画を数多く紹介してきた。邦画なら時代背景をある程度は把握しているので戸惑うことはないが、海外の作品だと〝?〟を重ねながら観賞することもしばしばだ。そんな時は復習が必要で、ネットであれこれ検索して学び、何となく理解した気になる。古希が近づいてきているが、齢を重ねるとは、俺にとって自分の無知を実感することと同義だ。

 新宿シネマカリテで先日、「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」(2023年、マルコ・ベロッキオ監督)を見た。本作はヨーロッパを震撼させた実話をベースに、イタリア、フランス、ドイツの3国が共同で製作した。1858年、イタリア・ボローニャのユダヤ人街で7歳の少年エドガルド(少年期=エネア・サラ、青年期=レオナルド・マルテ-ゼ)が異端審問所警察に連れ去られる。教皇ピウス9世(パオロ・ピエロボン)と枢機卿の命令だった。

 拉致には根拠があった。かつてモルターラ家で働いていたカトリック教徒の家政婦は病弱だったエドガルドの身を案じ、命を永らえさせるため洗礼を行った。そのことが教会に伝わった以上、教皇は無視するわけにはいかない。教会法において<非キリスト教徒にはキリスト教徒を育てる権限はない。誰に授けられたとしても洗礼を受けた者はクリスチャンとみなされる>と定められている。エドガルドの父モモロ(ファウスト・ルッソ・アレジ)と母マリアンナ(バルバラ・ロンキ)は伝手を頼って面会にこぎ着けるが、連れ戻すことは出来なかった。

 信仰の問題は一見、日本人とは無関係に思えるが、天皇教から解放されたのは70年前のこと。比叡山の僧侶たち、一向一揆、島原の乱を経て、仏教は幕藩体制に飼い慣らされた。日本人には本作のキーワードになっている<洗礼>を理解するのは難しいと思う。併せて当時のイタリアは統一に向けて激動期にあった。保守派のカトリック教会は、国民国家を目指す民衆やプロテスタントに押されて劣勢だった。ロスチャイルド家を筆頭にしたユダヤコネクションや進歩派のメディアはエドガルド解放を訴えたが、外圧がピウス9世を頑なにした。

 マリアンナが訪れた寄宿舎では面会が終わったと思えた刹那、エドガルドは母にしがみついてユダヤの祈りを捧げていることを打ち明けた。日々の修行で心境に変化の兆しが表れる。磔刑されたキリストの絵に感化されたエドガルドが手首と足首の釘を外すや、自由になったキリストが教会を出ていく幻を見る。葛藤がくすぶっていたことは、召されたピウス9世の遺体を移送する途中が明らかになる。抗議に押し寄せた民衆に呼応し、「こんな教皇なんて川に流してしまえ」と叫ぶのだ。

 迷いはその時点で消え、エドガルドは市民軍のリーダーだった兄と対峙し、臨終の席で母に洗礼を施そうとして親族の顰蹙を買う。その後は聖職者の道を全うした。ベロッキオ監督は社会の矛盾を追求したパゾリーニに認められていた。シリアスで重厚なトーンで進行するが、ユーモアも織り込まれている。ピウス教皇が見る夢に笑ってしまう。アメリカのユダヤ系劇団は、教皇が割礼されるというストーリーの芝居を上演して話題をさらった。教皇自身もその夢を見てうなされるのだ。

 世界で今、イスラエルへの批判が高まっているが、自由と民主主義、反戦を掲げるリベラリズムに基づくもので、本作と重ねるのは無理がある。信じることの意味を見る者に問いかける作品だった。
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「自転車泥棒」~歴史の断面に喪失感を刻んだ台湾の小説

2024-05-07 21:59:24 | 読書
 第10回憲法大集会(3日、有明防災公園)に足を運んだ。開会前、グリーンズジャパンの街宣を行ったが、参加者は〝同志〟ゆえ配布物を次々に受け取ってくれる。法律違反の裏金議員の多くは、戦前回帰の改憲を志向する安倍派所属だ。武器輸出の制限が緩和され、自衛隊を米軍の指揮下に組み入れる動きが顕著になった今だからこそ、憲法9条の存在意義は高まっている。

 日本がアジアを侵攻していた時代も描かれていた台湾の小説を読んだ。呉明益著「自転車泥棒」(2015年、天野健太郎訳/文春文庫)である。呉は環境活動家であり、チョウの生態に詳しいことは本作にも生かされている。大学教授でもある呉は文献や史料を駆使し、様々なカルチャー、歴史の断面を本作にちりばめている。小説を書く意味についての自問自答も興味深い。

 時空を行きつ戻りつ疾走し、虚実の狭間を彷徨う複層的かつ多面的な実験小説だ。語り手は8人いるが、主人公(ぼく)は1992年に解体された台北にある住居兼商業施設<中華商場>生まれで、父は背広を扱う仕立屋を営んでいた。自転車とともに消えた父への思いから、ぼくは自転車マニアになった。各章のつなぎとして自転車についてのノートが挿入され、イラストは作者自身が担当している。

 ぼくの家族史の起点は、日本統治時代の初期にあたる1905年だ。明治38年と日本の元号を併記していたことから明らかだが、日本との密接な関係が本作に刻印されていた。ぼくは自転車の行方を追って多くの人と出会う。通ったカフェは、三島由紀夫の小説にちなんで「鏡子の家」と名付けられていた。後半では高齢の日本人女性、静子と交流することになる。〝台湾人は親日的〟という先入観があり、文化的結びつきの強さは本作にも描かれているが、戦争が影を落としている以上、日本軍による虐殺も冷徹に綴られている。

 ある語り手は日本軍として戦い、ある語り手は連合軍の一員だった。ともにぼくが自転車捜しをする過程で知り合った知人の父である。マレー半島やラオスでの戦闘で英国軍を追い詰めた銀輪部隊の存在を本作で知る。銀輪部隊は自転車で行軍して機動力を発揮した。ジャングルにおける戦闘が過酷であることは言うまでもないが、本作は詩的かつ繊細に綴っている。作者の自然、そして生きるもの全ての敬意が滲んでいる。ゾウは輸送手段だったが、語り手が愛情を注いだゾウは数奇な運命を辿り、台北の動物園に行き着く。

 放射線状に拡散した物語はぼくの家族の絆で終息する。ぼくの父を含め、時代に翻弄された者について<みな、なにか尖ったとげのようなものが体に刺さっているような気がしてならない。時間をかけて、必死になってそれを抜いているのだが、最後の一本のところになると、また押し込んでしまう>と記していた。

 〝とげ〟とは恐らく〝歴史〟なのだろう。ぼくだけでなく、登場人物は何かを探し続けている。根底にあるのは叫びたいような喪失感だ。台湾の小説を読むのは初めてだったが、呉の力量に感嘆した。

 自転車といえば、頭に浮かぶのが「にっぽん縦断 こころ旅」(NHK)だ。火野正平が自転車に乗って視聴者の思い出の場所を訪ねる紀行番組で、何かが起こるわけでもないまったりした旅に心を癒やされている。火野の飾らないキャラとアドリブが魅力で放送回数は1000を超えたが、火野の腰痛で春のツアーは延期になった。名優も74歳……。頑張れと言うのは酷かもしれない。
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「死刑台のメロディ」~スクリーンで融合するパトスと叙情

2024-05-02 21:21:13 | 映画、ドラマ
 新宿武蔵野館で「死刑台のメロディ 4Kリマスター版」(1971年、ジュリアーノ・モンタルド監督)を見た。イタリアとフランスの合作である。監督よりも作曲家に重きを置いた企画で、<エンリコ・モリコーネ>特選上映と銘打たれ、「ラ・カリファ」と併せて公開されている。

 「死刑台のメロディ」は史実に基づいている。1920年、マサチューセッツ州ブレイツリー市で製靴工場が襲われ、2人が殺され1万6000㌦が奪われる強盗殺人事件が起きた。冒頭のモノクロ画面で、イタリア人街が警察隊の襲撃を受ける。マカロニウエスタンの空気を感じたが、モンタルドが西部劇を撮影したことはない。

 ロシア革命直後、全米でも労働者の抗議が広まっていた。核をなしていたのはアナキストで、パーマー司法長官の左翼に対する徹底的な弾圧はマッカーシズムの先駆けといわれている。移民への差別もあり、捜査陣の網にかかったのが、イタリアからの移民であるバルトロメオ・ヴァンゼッティ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)とニコラ・サッコ(リカルド・クッチョーラ)だった。拘束時、拳銃を不法に所持していたことが心証を悪くした。興味深かったのは英語版の〝ラディカル〟が字幕で〝アナキスト〟になっていた点で、その辺の事情はわからない。

 裁判の過程で証言の曖昧さが浮き彫りになる。最初に結論ありきで、パーマーの意を呈したカッツマン検事(シリル・キューザック)とサイヤー判事(ジェフリー・キーン)はムア弁護士(ミロ・オーシャ)が突き付ける矛盾に取り合わない。証言を撤回しようとした者は暴力にさらされる。直情径行のムアはカッツマンとサイヤーに対し、「あなたたちはKKKと変わらない差別主義者だ」とぶちまけるが、仕組まれた法廷で旗色が悪くなるだけだ。陪審員は短い協議時間でヴァンゼッティとサッコに死刑を求刑する。

 法廷の内と外では空気が真逆だった。ムアと彼を引き継いだトンプソン弁護士(ウィリアム・プリンス)の尽力もあり、ヴァンゼッティとサッコの当日のアリバイ、真犯人の存在が明らかになる展開に、イタリア特有のネオレアリズモの伝統が窺えた。真実が伝わると全米だけでなくロンドンでも<ヴァンゼッティとサッコを無罪に>を掲げた大規模なデモが行われた。

 冤罪事件であれば、2人は解放されたはずだが、両被告が公判で自らアナキストと公言し、資本主義独裁国家アメリカへのメッセージを訴えたことで構図が変わった。体制を問う裁判になった以上、権力側は死刑執行に向け一歩も譲らない。ヴァンゼッティとサッコにも変化の兆しが表れた。無実を主張するヴァンゼッティは無実を主張し、精神に異常を来したサッコは癒えた後、諦念と絶望から沈黙を続ける。サッコを演じたクッチョーラは複雑な心境を演じ切ったことで、カンヌ映画祭最優秀男優賞に輝いた。

 モリコーネが作曲した主題歌と挿入歌に歌詞を付けて歌ったのは、反骨のフォーク歌手ジョーン・バエズだ。両者のコラボこそ、パトスと叙情の煌びやかな融合だった。「忍者武芸帳」(67年、大島渚監督)での影丸の印象的な台詞が重なった。

 <大切なのは勝ち負けではなく、目的に向かって近づくことだ。俺が死んでも志を継ぐ者が必ず現れる。多くの人が平等で幸せに暮らせる日が来るまで、敗れても敗れても闘い続ける。100年先か、1000年先か、そんな日は必ず来る>

 影丸、そしてヴァンゼッティとサッコの思いは現在、いかほどのリアリティーを持つのだろう。世の中の構造はさほど変わっていないのではないか。
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