酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

ハードな週末PART2~「チェルノブイリ30年」&「アニマルハッピー」

2016-04-28 12:07:28 | 社会、政治
 週末から今週にかけ、イベントが相次いだ。アラカンになると、人並みに仕事をしているだけで疲労がたまる。週半ばで既にヘロヘロ状態だ。

 23日は「チェルノブイリ30年・福島5年救援キャンペーン~小出裕章講演会&チャリティーコンサート」(練馬文化センター)に赴いた。チェルノブイリ子ども基金と未来の福島こども基金の共催で、広河隆一氏(DAYS JAPAN元編集長)が発起人であるチェルノブイリと福島関連の保養施設運営にそれぞれ関わっている。冒頭で、両代表から現状報告があった。

 続いて吉原りえ(フルート)と新垣隆(ピアノ)のチャリティーコンサートが催される。メンデルスゾーンの「春の歌」やドビュッシーの「月の光」といった名曲に加え、ユーモアのセンス抜群の吉原、ゴーストの件で有名になった天然ボケの新垣の2人のやりとりにも心が和んだ。

 休憩後、小出裕章氏が壇上に現れる。事故直後、福島原発で起きていたことを明示し、<東京どころか日本が地図から消えても不思議ではなかった>と語る。チェルノブイリで起きた被曝、健康被害が福島で起こり得ること――既に進行中だが――を、数字を挙げて説明していた。福島では、ウクライナやベラルーシの立ち入り禁止区域以上に汚染された場所で、人々は以前のまま暮らしている。

 原子炉を管理していた小出氏の言葉には説得力はある。3・11直後の講演会で小出氏は、「私たちが無力だったため、原発を止められなかった」と頭を下げた。自身、そして聴衆の多くを占める中高年層は、原発をストップできなかった罪を共有している。だが、何の責任もない子供の肉体は、今も放射能に蝕まれているのだ。<この酷い現実から目を背けず、子供たちを守らなければならない>と、いつもに増して熱いトーンで小出氏は語っていた。

 チェルノブイリ30年の当日(26日)は「第9回オルタナミーティング~講談とチンドンが世界を変える!?」(オルタナプロジェクト主催、阿佐ケ谷ロフト)に足を運ぶ。3月26日の反原発集会ではブースを出店し、イベント告知と物販に協力した。ジンタらムータのライブ、神田香織の講談、神田と木田節子さんのトークセッションの3部構成だった。

 ジンタらムータはオルタナミーティング2度目の登場で、前回は大工哲弘(沖縄民謡)との共演だった。クラリネットと打楽器の編成だが、他のプロジェクトと並行して活動しており、当夜も2人がサポートしていた。ジンタらムータは雑食性、無国籍風で、漂浪するロマの楽団を彷彿させる。クラシック、タンゴ、民謡などをごった煮し、憂愁と笑いに溢れた音楽を紡いでいる。吉原りえと新垣隆のコラボとジャンルが異なるが、ジンタらムータとは共通点がある。メッセージを掲げつつ、音楽本来の楽しさが前面に出ていることだ。

 神田の一席は、チェルノブイリ被災者の証言集でノーベル文学賞を受賞したアレクシエービッチ(ベラルーシ)の原作をアレンジした「チェルノブイリの祈り」だ。事故直後、発電所に招集された消防士とその妻が軸で、放射能の恐ろしさが伝わってくる。反原発を訴える演目だが、それ以上に夫妻の互いへの思いが胸を打つ。生と死の境界で現出した〝至上の愛〟の物語だ。俺は神田にパティ・スミスを重ねていた。ともに俺よりも年上だが、意志と表現への希求で神々しく輝いている。

 木田さんの言葉が心に響く。小出氏が憂慮したことが周辺に起き、アピール訴えようとした木田さんに有形無形の圧力がかかる。政府や自治体、そして「放射能は子供たちの疾患とは無関係」とうそぶく七三一部隊の系譜に連なる悪魔たちだ。日本人特有の集団化、お上への従順さも壁になって、木田さんの前に立ちはだかる。拳を握り締めている人は多いのに、かき消され気味であることは否めない。両イベントに参加した人たちを微力ながらも繋げていけたら……。俺はそんな風に考えている。

 24日にはアニマルハッピー!連続講座第1回「動物福祉・生物多様性とは?」(高井戸会議室)に参加した。苦手な分野だが、俺は話したがり屋だ。的外れの質問をしたことを悔やんでいる。テーマは食や環境の問題にも連なる。世界を変える前に自分を変えるという姿勢が窺える参加者の多くは、菜食主義者であったり気候変動の問題に関わったりしている。彼らの目に、いい加減な俺はどう映るのだろう。

 生物多様性という言葉を知ったのは、別稿で記した「脱成長ミーティング」の際だった。「脱成長」そして「生物多様性」……。自分の無知を日々実感する俺だが、新たな視点を知り、学ぶことができた。感性が鈍りつつある俺だが、刺激してくれる仲間が数多くいる。


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「東京自叙伝」~文学の万華鏡に魅せられる

2016-04-24 20:43:46 | 読書
 シガー・ロスがヘッドライナーを務めるフジロック初日に、ビッフィ・クライロもラインアップされた。心はそよいだが、日帰りは厳しいので諦めた。ロック界では、プリンスの急死が話題を独占している。「ロッキング・オン」などメディアで神格化される一方、ブラックカルチャーに詳しい友人は、〝スモーキー・ロビンソンの焼き直し〟と辛辣な評価を下していた。一枚もアルバムを聴いてないので何とも言えないが、早過ぎる異才の死を悼みたい。

 WWEについて頻繁に記していたが、今年に入って縁を切った。日本でPPVは「WWEネットワーク」のみの視聴になり、「ロウ」と「スマックダウン」は放映時間短縮……。海外でもネットでファンを拡大したいというWWEの本音に嫌気が差した。本国アメリカでは視聴率が降下しているが、「WWEネットワーク」の加入者増でカバー出来ているはずだ。新日本で活躍したAJスタイルズは移籍後3カ月で、早くも王座戦線に絡んでいる。

 そのWWEからも訃報が。DXのメンバーとして一世を風靡した女性レスラーのチャイナが亡くなった。ギャレットやジェリコら男性トップクラスと好勝負を演じた勇姿が甦る。テッド・ターナーの莫大な資金を背景にしたWCWに追い詰められたWWEを、チャイナはオースチンらとともに支え、反転攻勢に繋げた。〝世界9番目の不思議〟の冥福を祈りたい。

 「東京自叙伝」(14年、奥泉光/集英社)を読了した。ページを繰りながら、以前読んだ小説が脳裏で交錯する。「オーランドー」(ヴァージニア・ウルフ)、「ひらめ」(ギュンター・グラス)、「狂風記」(石川淳)、「告白」(町田康)、「俺俺」(星野智幸)、そして虚実のあわいを行き来する辻原登の作品だ。メタフィクション、マジックリアリズムの手法も導入した「東京自叙伝」は、<文学の万華鏡>といっていい。

 起点は1845年で、東日本大震災直後に幕が下りる。柿崎幸緒、榊春彦、曽根大吾、友成光宏、戸部みどり、郷原聖士と、6人の「私」がストーリーを紡いでいく。輪廻転生と思いきや、上記のうち複数が同時に生存していることもある。私の周囲には無限の私(蛹状態)が蠢くが、必ずしも人間とは限らない。それぞれの私は自らが東京の地霊で群れを成す鼠が常態と認識するようになる。

 私には柿崎以前の東京の光景が脳裏に刻まれ、縄文期の無明の闇にまで溯る。地震時の高揚は鼠の私から、火への執着は八百屋お七から記憶を受け継いだ。6人は主体が変わっても東京を徘徊する。東京を愛するが故、崩壊を夢想するというアンビバレンツに引き裂かれているのだ。柿崎の因業が後の私に降りかかるなど、6人は時空を超えた輪に閉じ込められている。〝宿命の予定調和〟というべき連鎖が遠心力を生み、えもいわれぬパワーが行間に漲っている。

 平将門の意識をとどめる柿崎、そして榊、曽根、友成は表と裏から日本社会を攪乱する。榊は陸軍参謀として戦争を領導し、曽根は戦後の新宿アンダーワールドで頭角を現す。かつて〝遅れてきた戦争作家〟と評した奥泉は、本作でも国家レベルのみならず、ヤクザの抗争を鮮やかに描いている。

 奥泉をインスパイアしたのは福島原発事故だ。4人目の私である友成は裏方、プロデューサーとして様々なイベントに関わるが、正力松太郎と協力して原発事業を推進する。友成の因果に縛られた6人目の郷原は〝原発ジプシー〟として事故当時、福島で働いていた。帰京後、東京崩壊の甘美な白日夢に耽り、日本人の特性ともいえる<鼠のような無意識での集団化>を体感する。5人目の私は唯一の女性で、バブルとその崩壊を体験する戸部みどりだ。彼女の目を通じ、日本人の拝金主義、定見なき無責任な社会が描かれていく。

 友成は正力だけでなく、力道山ら歴史上の人物と友誼を結び、金閣寺放火犯や浅沼稲次郎刺殺犯などと交遊する。同時に私は、「吾輩は猫である」の主人公からジョン・レノンにまで拡散していく。デスパレードしていく過程で、戸部と郷原は同時代に起きた凶悪事件の犯人に、私を感じている。

 2000年以降に発表された小説で「彗星の佳人」、「美しい魂」、「エトロフの恋」から成る「無限カノン三部作」(島田雅彦)、「シンセミア」(阿部和重)をツインピークスと考えていた。縦軸(時間)、横軸(同時代性)で日本を捉えた「東京自叙伝」も、上記2作に匹敵する傑作だ。奥泉独特の毒とユーモアもたっぷりペイストされている。
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ハードな週末~「プロジェクションマッピング」&「脱成長ミーティング」

2016-04-21 19:14:29 | カルチャー
 米大統領選の民主党予備選でサンダース候補がニューヨークで完敗した。撤退の時機かもしれないが、闘いは終わりではない。〝アメリカの3・11〟というべき反組合法の抗議活動で主導的な役割を果たした10代、20代の若者が、これまでサンダースを支えてきた。アメリカの国の形を根底から変えるのは日本並みに難しいが、サンダースと支持者の思いが結実する日はきっと来る。

 「忍者武芸帳」(1967年、大島渚)の主人公(影丸)の台詞を繰り返し紹介してきた。即ち<大切なのは勝ち負けではなく、目的に向かって近づくことだ。俺が死んでも志を継ぐ者が必ず現れる。多くの人が平等で幸せに暮らせる日が来るまで、敗れても敗れても闘い続ける。100年先か、1000年先か、そんな日は必ず来る>……。

 高邁な志は、弾圧されても必ず受け継がれ、いずれ花実を咲かせる。事実M、欧米、そして台湾や香港でも変革の兆しが表れている。俺もまた、無数の影丸が身を賭して守ってきた日本の地下水脈の番人になりたい……。なんて力んでみたが、ハードな日々に息も絶え絶えだ。先週末は知人に誘われ白河に足を運び、小峰城、南湖公園で散りゆく桜を楽しんだ。夕方からは冷え込む中、「福島プロジェクションマッピング2016 はるか~白河花かがり」を観賞する。事前申し込み制で、2日で4000人が集うイベントになった。

 観光客として東北を訪ねるのは3度目だが、電車とバスは本数が少なく、車での移動が前提になっている。タイムロスを避けるため、タクシーを使うケースが増えてしまうが、〝お金を落とす〟ことも復興の一助と考えている。年内にもう一度、東北を旅したい。候補のひとつは昨秋、駅近くしか回れなかった石巻だ。ついでにフェリーで猫の島(田代島)に足を延ばすというプランも考えている。

 1泊して昼過ぎに東京に戻り、「脱成長ミーティング」(ピープルズプラン研究所)に参加した。10回目にして初めての参加である。発起人は友人でもある高坂勝さんで、今回は「脱成長論を歴史的に振り返る」というテーマだった。報告者である古沢広祐氏(国学院大教授)によれば、「成長の限界」(ローマクラブ編、72年)と初期マルクスの疎外論が脱成長を育んだという。

 「成長の限界」には亡き友の思い出と重なっている。高校2年の時、秀才の友は同書に感銘を受け将来を決めた。<通産省に入ってエネルギー政策の舵取りをする>という夢を叶え、小泉元首相から一目置かれたほどだが、志半ばで病に斃れた。対照的にダラダラ怠け街道を歩んだ俺は還暦直前、導かれるように脱成長にたどり着く。不思議な縁を覚えた。

 古沢氏の話は理解が及ばぬ点も多々あったが、ふやけた脳も次第にほぐれていく。脱成長は切り口が多く、様々な箇所から囓っているのが現状だ。研究者、環境保護や気候変動、食の問題に携わる活動家らが、それぞれがの問題意識をベースに語り合う後半、場の空気が和んでいく。古沢氏も理論と現実の兼ね合いを柔らかく示し、ピケティやスティグリッツに頻繁に言及された。

 高坂さんは緑の党前代表でもある。<多様性を認め、循環可能なシステムを志向する>という党が拠って立つ理念は、言い換えれば脱成長となる。グローバリズムは価値と文化の均一化(モノカルチャー)を推し進めたが、脱成長は調和とオルタナティブを模索する。議論の中で、GDP、GNPの呪縛から解放され、豊かさの新たな指標を提示する必要性を感じた。

 初参加ということもあり、発言を求められた俺は<ここ数年、最も関心を抱いてきたのは格差と貧困で、脱成長とどこかで繋がっている気がする。パチンとショートしたとまで言わないけど、ヒントを得ることができた>と話した。他の参加者も若者が置かれているシビアな現状に警鐘を鳴らしていた。

 脱成長は生き方そのものにも関わってくるテーマだが、古沢氏が指摘された通り、主体の問題にこだわり過ぎると宗教に近づく危険性もある。今週末は<動物との共生>を学ぶ基礎講座に参加する。生物多様性もまた、脱成長と不可分であることを今回知った。生きるとは、自分の無知を知ることだ。遅きに失したとはいえ、少し謙虚に、そして勤勉になった。

 囲碁の井山名人が7冠を達成し、「熊本の人たちを少しでも勇気づけられたら」と会見で語っていた。才能ある人はジャンルを問わず、被災者に希望を与えることができる。東日本大震災時にも感じたが、俺のような無能な人間は何を成せばいいのだろう。仕事をなげうって現地に赴くのが無理なら義援金しかない。最も効果的な方法を探っている。
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コンピューターは美学と矜持を壊す?~唯一の希望は麻雀か

2016-04-17 19:56:45 | カルチャー
 14日夜、録画しておいたチャンピオンズリーグ(CL)準々決勝、バルセロナ対Aマドリードの2ndレグを見た。バルサが0対2(トータル2対3)で敗れ、ベスト4進出を逃す。先月末時点で3冠(CL、リーガ、国王杯)の可能性大だったが、縁あるヨハン・クライフの死後、急ブレーキを踏む。リストに載っていたメッシが精彩を欠いており、パナマ文書の余波かもしれない。

 試合を見た後、読書する。ページを繰るうち眠くなり、朝刊で熊本地震を知った。亡くなられた方の冥福を祈ると同時に、被災地の一日も早い復興を願っている。すぐさま原発が心配になったが、<阿蘇山や桜島の火山活動と今回の地震は無関係で、川内原発への影響はない>が公式見解だった。<今回の地震及び余震が火山活動を誘発する可能性がある>との地震学者のコメントに説得力を感じたら、阿蘇山で火山活動が観測された。

 桃田と田児は断罪されたが、地震列島日本で国民の生命を脅かす原発再稼働こそ、邪悪かつ違法なギャンブルだ。別稿(12年1月12日)で紹介した「春を恨んだりしない」(11年)で池澤夏樹は、<災害と復興がこの国の歴史の主軸ではなかったか>と指摘していた。日本史≒地震史で、災害は無常観と美意識を育み、国民は政府の無策まで天災として受け入れるようになった。
 
 日本人の美意識といえば、太宰治が「源実朝」に託した<滅びの美学>、寺山修司が競馬評論に織り交ぜた<敗北の美学>を思い出す。だが、美しく負けることの素晴らしさを説いたのは上記のクライフだ。岡田武史、北澤豪との対談を収録したWOWOW製作の追悼番組で、<トータルフットボールの原点は仲間を助けたいという愛>と語っていた。

 クライフは自身が異端児であることを自覚していたからこそ、要職に就かず美学と哲学を貫いた。そもそもスポーツは人間を陶冶するものではない。清原しかり、プラティニしかり……。自身と対峙するゴルフという競技に幻想を抱くファンも多いが、タイガー・ウッズは聖人と程遠いし、日本のトッププロも悪いマナーを指摘されてきた。

 ならば、勝負事はどうか。川端康成が「名人」で描いた囲碁の本因坊秀哉は実にチャイルディッシュな老人だった。将棋の山崎隆之叡王は名人戦移行問題が世間を騒がせた頃、NHK杯の解説で青野照市九段を「将棋界に珍しい人格者」と紹介し、司会の千葉涼子四段を慌てさせていた。クライフの言を借りれば、<勝つことへの執着、勝たねばという強迫観念>が、人格を歪めるということか。

 コンピューターが囲碁界、将棋界を震撼させている。伊田篤史十段に敗れて7冠制覇が持ち越しになった井山裕太名人は、史上最強の声もある李九段が人工知能に敗れたことに大きなショックを受けていた。将棋界では、かつて7冠を独占した羽生善治4冠が名人戦第1局で佐藤天彦八段を下したが、上記の山崎叡王とPONANZA(最強コンピューター)が相まみえた電王戦第1局にもファンの目が注がれた。結果は山崎の負けだった。

 亡き父は定石無視の囲碁好きで、将棋の方も定跡に囚われない無手勝流だった。父は<囲碁は宇宙旅行、将棋はスポーツ>と評していた。囲碁は19×19=361、将棋は9×9=81でマス目が4倍違う。囲碁でコンピューターが人間に勝つには時間がかかるというのが定説だった。将棋界では既に、コンピューターとうまく付き合うことが強くなるための条件になっている。美学と矜持は世の中だけでなく、文化としての将棋でも死語になりつつあるのだろう。

 チェス、将棋、囲碁の順番で、人間はコンピューターの軍門に下った。<知・理・利>をベースに勝利を目指す以上、必然の結末だったといえる。だが、落胆するのは早い。最後の関門が残されている。それは麻雀だ。熟練のプロは感性や直観を重視し闘牌する。自身の方法論に殉じることもあるし、流れが悪ければ局を捨てる。ギャンブルとしての要素も強い。

 美学と矜持を備えた小島武夫、灘麻太郎と、コンピューターが2対2で局を囲んだらどうなるか。情報量はイーブンで、コンピューターは自らの手の内と対戦者の切り牌で読み合う。例えば将棋だと、タイトル戦でも50手まで類似形が過去に数十局あるケースが多い。定跡が確立しているからだが、麻雀だと配牌から初手で何を切るか、打ち手によって大きく異なる。確率が低い字牌の地獄待ち、引っかけの嵌張待ちが三面待ちに勝つケースも頻繁で、優秀であるほどコンピューターは戸惑うのではないか。

 昨日は白河に向かい、東京には昼に戻ってきた。熊本では地震が続き、被害はさらに拡大している。川内原発の稼働を停止し、汚れた金が環流する東京五輪も中止して、東北と熊本の復興に回すべきだ。
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「あまくない砂糖の話」~資本主義の矛盾を突く激辛ドキュメンタリー

2016-04-13 23:02:06 | 映画、ドラマ
 別稿(3月29日)で記したが、3月26日に開催された「原発のない未来へ! 全国大集会」(代々木公園)にスタッフとして参加した。オルタナミーティングVo9「チェルノブイリ事故から30年 3・11から5年~講談とチンドンが世界を変える!?」(4月26日)の告知が目的で、ブースは大盛況だった。10日付東京新聞東京版に大きく取り上げられ、あす14日は朝日新聞にも関連記事が掲載される。

 パナマ文書が世界を震撼させている。リストに名が載っていたアイスランドのグンロイグソン首相が辞任したが、抗議の声はイギリスでも起きている。両親がタックスヘイブンで得た富を贈与されたキャメロン首相の弁明は情緒的だったが、キャメロン労働党党首は鋭く切り込んでいた。「報道ステーション」の邦訳を以下に記す。

 <保護者は子供に食事を与えるために、食糧配給所に列を作っている。障害者は手当を失い、高齢者ケアは切られ削減された。生活水準は低下している。税金を払いたがらない大金持ちにいいようにされてなければ、避けられたことだ>……。

 アメリカで地殻変動を起こしたサンダース、別稿(4月2日)で記したピケティ、英労働党最左派のコービンは同じ視座に立っている。世界共時性から取り残された日本に必要なのは、永田町の狭い地図から政治を解き放つことだ。そのための方策を模索中だが、いい案が浮かばない。

 前稿で紹介した「光りの墓」に続き、イメージフォーラムで「あまくない砂糖の話」(15年、デイモン・ガモー)を見た。オーストラリアでは史上最高の動員記録をマークしたドキュメンタリーである。

 食を巡って自らを実験台にした作品といえば、本作にも影響を与えた「スーパーサイズ・ミー」(米、モーガン・フローリック監督・主演)だ。スパーロックは一日3食、マクドナルドを30日食べ続けたが、「あまくない――」ではガモー(人気俳優でもある)がティースプーン40杯分の砂糖を60日にわたって摂り続ける。

 「スーパーサイズ・ミー」と比べたら、「あまくない――」の試みは常識の範疇だ。大抵の人は気付かないうちにティースプーン40杯の糖分を摂取しているが、殊の外、効いたのはガモーが節制を続けてきたからだ。加工食品の80%に砂糖が含まれており、ガモーは果汁ジュースや朝食用シリアルを俎上に載せる。アメリカで健康食品と見做されているスムージーは、1本でスプーン34杯分の砂糖が含まれている。

 予告編を見て、マイルドな味付けを予想していた。CGやガモーの演技はユーモアに溢れているが、〝あまくない〟どころか激辛の作品だ。ガモーの摂取カロリーは標準の2300㌍以下の日もあったが、体重はどんどん増え、あらゆる数値が悪化する。ガモーが教えてくれたのは、真にチェックすべきはカロリーではなくカロリー源であることだ。

 健康に害を与えるのは脂肪か、それとも糖分か……。第2次大戦後、〝豊穣の国〟アメリカで論争が起きたが、糖分が勝利し、脂肪が悪役と定まる。この結果、私たちはカロリー量という陥穽に落ちてしまった。決着の過程で大企業が研究者を買収していたことを、本作は示唆している。

 食の問題を語る際の必読書は、別稿(14年10月1日)で紹介した「ファストフードは世界を食いつくす」(エリック・シュローサー著、草思社文庫)だ。同書はアメリカの背筋が凍るような実態が詳らかにされている。多くの州で可決された「農産物名誉毀損法」は、<科学的根拠なしに農産物を批判してはいけない>という大企業を守る奇妙な法律だ、サルモネラ菌によって年に50万人以上が食中毒を発症し、300人以上が死ぬが、〝加害者〟は制裁を受けない。

 「あまくない砂糖の話」でも、行政、大企業、研究者の癒着を示している。実験を継続しながら、ガモーはアポロジニの居住地に向かう。当地でもコカ・コーラやマクドナルドが浸透し、健康的な食生活が破壊された。そこで1970年代、「マイ・ウイル」というプロジェクトが立ち上がり、糖分摂取にブレーキが掛かる。この動きを潰したのが、企業の圧力を受け入れた行政である。

 ガモーはアメリカに渡り、マウンテンデューが支配するケンタッキー州の街を訪ねた。そこではマウンテンデューが常食になっており、ペットボトルを一日数本飲み続けた17歳の少年の歯は糖分に溶かされていた。砂糖を切り口に、本作は格差と貧困、情報操作と洗脳、資本主義の冷酷さに切り込んでいた。

 本作にも描かれていたように、糖分は麻薬同様、人々を常習に導く。俺も30代、砂糖漬けになっていた。休日などファンタオレンジやスプライトのペットボトルをがぶ飲みし、あずきアイスを箱食いしていた。ガモーがたった60日間で実感したが、心身の影響は甚大だった。でも、後悔はしていない。〝怠惰な10年間〟を経たからこそ、還暦前の今、未消費気力が残っている。
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「光りの墓」~夢の中の夢に甦る原風景

2016-04-10 00:06:07 | 映画、ドラマ
 「デモクラシーNOW!」のHPを日々、チェックしている。ノーマ・チョムスキー、ナオミ・クライン、マイケル・ムーア、ジョセフ・スティグリッツ、パティ・スミスらが登場するアメリカのリベラル&左派の拠点で、大統領選ではもちろんバーニー・サンダースを推している。同サイトで見つけたパナマ文書関連の記事を2本、以下に紹介する。

 アイスランドのグンロイグソン首相が辞任したが、海賊党いう面白い名の党が、議会前の抗議集会を主導した。全人口が30万強のアイスランドで2万人が参加したという。アメリカとパナマの「自由貿易協定」(2011年締結)をヒラリー・クリントンは支持した。一方のサンダースは当時、<同協定の目的は富裕層や企業の脱税を後押しするもので、労働者の利益には全く繋がらない>(論旨)と反対の声を上げていた。サンダースは真の革命家である。

 真面目と程遠い俺は、何事にも寛容だ。バドミントンの桃田賢斗、田児賢一の違法カジノ店通いに目くじら立てる気はないが、賭け金の額に驚いた。桃田と同世代の若者は総じて金がない。メディアによれば、地方出身で東京の私大に通う学生の生活費は一日850円で、25年前の3分の1という。政治集会で若者を見かけないが、本屋、CDショップ、映画館でも同様だ。貧困は知的好奇心を摘む凶器といっていい。

 先週末は三遊亭白鳥と柳家三三の「両極端の会」(紀伊國屋ホール)、先日は春風亭一之輔と古今亭文菊の「二人会」(日本橋公会堂)に足を運んだ。旬の噺家たちの才気に魅了されたが、中高年層が集う落語会は睡眠率が極めて高く、俺も時々ウトウトする。映画はどうかというと、イメージフォーラムで見た「光りの墓」(2015年、タイ)で、現実と幻の境界を彷徨った……。なんて格好つけたが、要するに睡魔と闘っていた。

 テーマは眠りと夢だから、睡眠導入剤みたいな映画だ。舞台はアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の生まれ故郷コーンケンである。主な登場人物はジェン(ジェンシラー・ポンパット・ワイドナー)、ケン(ジャリンバッタラー・ルアンラム)、イット(バンロッブ・ロームノーイ)の3人だ。ジェンは自分が通った小学校が改築された病院で、看護師として働くようになる。心理療法士の役割を担うケンは読心術、憑依能力を持つ巫女のような存在だ。眠り病に罹った兵士たちが収容されているが、イットもそのひとりだ。

 軍事独裁政権に反対するアピチャッポンの作品は、タイで公開されない。正しくは、検閲に抗議する監督に公開する意志がないというべきか。軍のトラックが病院前に止まっていたり、ジェンが「FBIにスカウトされた」と自慢したケンを「政府のスパイでしょう」と詰ったりするシーンに、背景にある政治的状況が窺える。

 時間の経過が鮮やかな病室で、ベッドごとに設置された細長い環にカラフルな光が流れる。イットを看護するジェンは、話しかけながらイットの体を拭いてやる。「トーク・トゥ・ハー」(02年、アルモドバル監督)を彷彿させるシーンで、本作には官能的な煌めきが溢れていた。ジェンはどこにでもいる中年女性で、目覚めたイットは「おばさん」と呼ぶ。ジェンにとってイットは母性だけでなく、仄かな恋情を託す対象なのだろう。イットがノートに書きためた謎めいた内容が、時空を超えた世界への扉になっている。

 覚醒した――本当に覚めたかは捉え方によるだろうが――イットとジェンは街に出る。映画館でイットは、再び眠りに落ちてしまった。人工的な都会の光景が織り込まれ、ジェンとイットは距離を取りつつ、夜と朝の狭間に佇む。荒廃したスペースからジェンが夫(元米兵)に電話するシーンが印象的だった。

 現実と幻想が入り組んだ同作の撮影を担当したのは、メキシコ人のディエゴ・ガルシアだ。本作は、アピチャッポンのスピリチュアルな志向と中南米のマジックリアリズムが溶け合った精華といえるだろう。ポップな曲がダウナーなシーンに流れるなど、〝逆説の美学〟を用いる音楽も斬新だった。

 ジェンとともに川辺に赴いたイットは眠りに落ちる。偶然出会ったケンとジェンが宮殿跡を散策するシーンが、本作のハイライトになっている。<過酷な現実から逃れるため、兵士たちは眠りから覚めない>が表の理屈だが、<兵士たちは今も地下の闇で戦う王たちに精気を奪われている>と話すケンは、次第にイットの意識に成り代わる。両者を優しく包むのは精霊たちだ。事故の傷が残るジェンの剥き出しの右脚にケン(=イット)が口づけするシーンがエロチックだった。
 
 謎と衝撃が残るラストで現実に引き戻されたが、夢の中で夢を見ていた2時間だった。俺自身の原風景がスクリーンと混淆し、温かなミルクに浸されているような癒やしを覚えた。イメージフォーラムは「牡蠣工場」に続き本作が2回目だったが。6月までにあと数回、足を運ぶ予定だ。
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スポーツはアートたり得るか~クライフの遺志を継ぐ者たち

2016-04-06 00:28:03 | スポーツ
 前稿で紹介した「新・資本論」で、ピケティはタックスヘイブンの制限に言及していた。3日、政治家など140人以上が脱税目的で取引を行っていたことが明らかになった。その中に、民主主義度で世界トップクラスのアイスランド・グンロイグソン首相の名があった。人口30万人強の小国も、グローバリズムの濁流にのまれてしまったのだろうか。

 週末は中野通り、新宿中央公園と近場で桜を楽しんだ。数年来、無常観と死生観に桜を重ねてきたが、今回はマイナス面から記してみる。「同期の桜」が象徴的だが、<国(大義)のために散る>ことを称揚した軍歌は多い。特攻隊や人間魚雷だけでなく、<散華して英霊になり靖国で会う>ことが了解事項になっている。

 この思考回路と一致するのが、イスラム教徒過激派だ。自爆した当人の名は通りなどに冠され、遺族に恩恵が施される。テルアビブ空港乱射事件(1972年)の影響は絶大で、唯一生き残った岡本公三もアラブ社会で英雄になった。イスラム国、そして北朝鮮の現在を溯れば、戦前の大日本帝国に行き着く。

 ヨハン・クライフへの哀悼を込め、<スポーツはアートたりうるか>が今回のテーマだ。先週末、フィギュアで羽生結弦、テニスで錦織圭、ゴルフで宮里藍と日本勢が健闘した。いずれにも関心はないが、俺が好むボクシングやジャンプを含め、個人競技ならアートを表現する機会は多いはずだ、だが、団結と効率が求められる集団競技は難しい。

 例外はもちろんある。NBAにはめくるめく瞬間がしばしば訪れるし、時間を止めた王貞治のホームランも美しかった。ペイトン・マニングのパスは、戦争に擬せられるNFLを一瞬、アートの異空間にワープさせた。だが、頂点というべきはバルセロナが志向するスタイルだ。先週末、カンプノウで行われたクラシコはクライフ追悼試合だった。

 1974年のW杯でオランダ代表のプレーを見て衝撃を受けた。クライフを中心とした美しく攻撃的なサッカーに魅了され、オランダがW杯を制するまでサポーターになることを決めた。アヤックスからバルセロナに移籍していたクライフは、フランコ独裁下のスペインで自由の象徴になっていた。74年2月、敵地サンチャゴ・ベルナベウでレアル・マドリードを5対0で粉砕したクラシコは、永遠に語り継がれるだろう。

 クラシコに合わせてWOWOWで放映された「BARCA DREAMS~FCバルセロナの真実」(2015年)で、クライフのわがままな一面を知ることができた。革命児ゆえ自己主張が強く、勤勉とは程遠い。最初のシーズンで輝いたものの、翌年以降は精彩を欠き、4年後に退団する。監督として再びバルセロナの地を踏んだ時、真の尊敬を勝ち取った。サッカーに創造性と想像力を導入し、美しく勝ち続けた。クライフの方法論は現在に受け継がれている。

 クラシコは意外な結末だった。10万弱の地元ファンの熱烈な声援を受け、イレブンの表情は硬かった。クライフを称える人文字、大型ビジョンに映し出される在りし日の煌めき、試合前の黙祷……。勝ち点差は10で、敵地のクラシコで4対2と圧倒している。今季のバルサは負けなしで、引き分け以上は確実のはずが、逆の目が出た。

 74年のW杯決勝を思い出す。ドイツ人、そしてドイツに賭けた人以外は、オランダを応援したが、美しい革命は成就しなかった。1点先制後、2点を奪われ逆転負けは今回のクラシコと同じだった。後半30分以降はガス欠したのか、レアルに圧倒される。クライフのあの世で「俺と似たようなことをやっちまったな」と苦笑いしているに違いない。

 「あれだけいい選手を集めたら、勝つのは当たり前」という声もある。だが、「BARCA DREAMS――」で記者が語っていたように、バルサの試合は見る者を陶然とさせる。スポーツがアートであることを長年にわたって証明しているのだ。なでしこジャパンは「バルサのようだ」と絶賛され、高校選手権出場の多くのチームの多くは「バルサみたいになりたい」と夢を語る。バルサはカタロニアやサッカー選手に限らず、自由を志向する全ての人々の象徴になった。

 クラシコの敗北で、流れは変わるかもしれない。メッシはタックスヘイブンのリストに載っていたし、バルサ史上最強のチームを創り上げたと誰もが認めるペップことグアルディオラ率いるバイエルンが、CLで行く手に立ちはだかるはずだ。

 羽生善治名人に佐藤天彦八段が挑む将棋名人戦が始まり、山崎隆之八段が最強コンピューターに挑む電王戦第1戦は9、10日に行われる。知性と理性で戦われる将棋だが、アートとしての伝統を守ってほしいと心から願っている。
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ピケティの「新・資本論」~論理を支える情念と憤怒

2016-04-02 22:58:46 | 読書
 古舘伊知郎が一昨日、「報道ステーション」を降板した。<メディアは権力をチェックすべき>との姿勢を守った古舘は、自民党から蛇蝎の如く嫌われた。「ジャーナリストではない」と斬り捨てる人もいるが、現在の日本でジャーナリズムに値するメディアがどれほどあるだろう。最後の出演で古舘は、今後に支障を来すことを覚悟の上で、脱原発の思いを吐露した。

 憤怒が込み上げ、仕事に集中出来ないことがある。先日、初校を担当した面で、<「パソナ」の子会社「日本雇用創出機構」が、大手製薬会社の冷酷なリストラを主導している>との記事が掲載されていた。パソナ会長の竹中平蔵氏は、小泉純一郎元首相とタッグを組み格差社会を進行させた。アベノミクスの生みの親といっていい。

 ノーベル経済学賞受賞者のスティグリッツ、クルーグマン両教授が「金融経済分析会合」で消費税増税に異を唱えた。前者はアメリカのリベラル&左派が結集する「デモクラシーNOW!」の常連、後者も新自由主義を一貫して批判してきた。結論は当然だが、官邸はスティグリッツの提言をひた隠しにする。クルーグマンは日本政府とのやりとりをツイッターで公開した。本質的な提言を示したのに、増税延期のためだけにつまみ食いされた2人は、あきれ果てたに違いない。

 サンダースが大統領選予備選で3連勝したが、3大ネットワークやCNNは「ヒラリーで決まり」の論調を崩さない。「シッコ」(マイケル・ムーア監督、07年)が背景を理解するための一助となる。アメリカの劣悪な医療&保険制度を抉ったドキュメンタリーは、国境を越えてカナダの医療機関に通院する人々を追っていた。<カナダの病院は社会主義的で低レベル>と、企業メディアは嘘を垂れ流していた。

 アメリカの支配層にとってサンダースは、トランプ以上に看過できない存在だ。社会主義を標榜するサンダース、そして彼の支持者は、アメリカの国の成り立ちを根本から覆す可能性があり、ヒラリーの金城湯池だった黒人、ヒスパニック層にも浸透しつつある。カリフォルニアやニューヨークの結果に注目している。

 長い枕は、すべて本題に繋がっている。トマ・ピケティの「新・資本論」(日経BP社)を読了した。タイトルから理論書と思う方もいるだろうが、さにあらず。フランスの日刊紙リベラシオンに2004年から11年にかけて掲載された時評をピックアップしたものだ。本書ではスティグリッツとクルーグマンについて言及し、とりわけ後者を絶賛していた。ピケティが「金融経済分析会合」に招かれていれば、同様の見解を提示したに違いない。

 ページを繰るうち、ピケティの立ち位置が浮き彫りになる。タックヘイブン規制と法人税アップを繰り返し主張し、新自由主義者のサルコジ前大統領、顧問だったアタリを酷評していた。アタリは「21世紀の歴史」でAIGとシティ・グループを称揚したが、リーマン・ショックで評価が急落する。<アタリ-サルコジ>はそのまま<竹中-小泉>に重なる。

 サルコジを破ったオランド大統領には、「可愛さ余って憎さ百倍」というか、鋭い刃を突き付けている。フランス人が信じる公平、公正、平等の価値観から逸脱するオランドは、社会党の名に相応しくないと考えているのだろう。ピケティは「報道ステーション」に出演した際、<格差と貧困の拡大が民主主義の基盤を揺るがせ、排外主義の蔓延と好戦的なムードを醸成する>と語っていた。ピケティがサンダースを応援していることは間違いない。

 本書はフランス、EU圏が主な分析の対象だが、俺が日本で感じていることが、世界共通の課題であることを知った。例えばメディアへの不信……。リベラル&左派に支持されているリベラシオンにも買収の魔の手が伸びる。フランスのメディアの問題点を幾つか指摘していたが、ピケティが原発や3・11に言及した論考がなかったのが残念だった。

 ピケティは<民間は金持ちで政府は借金まみれ>と題された51章で、日本を評している。書き出しは「日本の現状は摩訶不思議で理解不能」で、政府債務残高がGDP2年分に達する非常事態を、なぜ深刻に捉えないのだろうと心底驚いている。ピケティは「(富裕な)民間部門に重く課税するしかない」と結論付け、遠からず債務危機に近づくと警告していた。

 経済の仕組みを理解していない俺が何を書いても的外れになるだろう。だが、ピケティは倫理、矜持、正義を重視し、国会議員や行政機関に噛みついていた。〝論理の人〟ピケティのベースにあるのは情念と憤怒ではないか。だからこそ、全世界の人を惹きつけるのだろう。本書でピケティの秘密の扉を開いた気がした。
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