酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

マイケミ、ポンティアックス、PJハーヴェイetc……~衝動買いした新譜たち

2011-02-26 06:54:09 | 音楽
 〝現役ロックファン復帰元年〟だった昨年は、CDを大量に買い集めたが、自らの体温と浸透圧に即した音に収斂していく。行き着いた先は、アーケイド・ファイア、ダーティー・プロジェクターズ、グリズリー・ベア、ローカル・ネイティヴスといった手作り感に溢れるバンドたちである。彼らに共通するのは、ハーモニーを重視して祝祭的ムードを醸し出している点だ。
 
 方向が定まると手当たり次第は修正され、音楽誌をチェックすることもなくなった。先週のこと、映画が始まるまでの時間つぶしで、今年初めてタワレコに足を運んだが、CDを5枚、衝動買いしてしまう。今回はそれぞれの感想を簡単に記すことにする。

 キングス・オブ・レオンの5th「カム・アラウンド・サンダウン」はルーツミュージックの泥臭さ、グランジ的な激しさと脱力感、ニューウェーヴの繊細さを混淆させた〝王道ロック〟を響かせている。ケイレブの声質とバンドとしてのパフォーマンスが、〝ニルヴァーナ・チルドレン〟として人気を博したブッシュに似ていると感じるのは俺だけだろうか。

 マイ・ケミカル・ロマンスの4th「デンジャー・デイズ」の実験性とペタンチックな手触りは、前作「ザ・ブラック・パレード」の延長線上だった。〝力んだ音〟が流行に合わないのか、売れ行きは芳しくないという。ポップの毒は、バンドを崩壊に追いやることもある。マンサンほど狂おしさや陶酔感は覚えないが、マイケミも志のさがあだになり、袋小路に迷い込まないか心配だ。

 浅井健一が昨年、ブランキー・ジェット・シティ時代の盟友である照井利幸、有松益男(元バック・ドロップ・ボム)と新ユニットを立ち上げた。ネイティブアメリカンの蜂起にちなんだポンティアックスというバンド名に、〝反米ナショナリスト〟浅井の心意気が窺える。1st「ギャラクシー・ヘッド・ミーティング」に想定外の衝撃を受けた。

 とりわけ心に響いたのは♯1「アメリカ」、♯5「SHINJUKU」、♯7「STOOGES」、♯12「PINK BLUE」だ。ソリッドでストイック、ダウナーで研ぎ澄まされたロックンロールの刃と、シュールなイメージを重ねた歌詞がマッチしている。46歳にして進化と深化を見せつけた浅井は、〝世界標準のロックモンスター〟といえるだろう。

 モグワイの新作「ハードコア・ウィル・ネヴァー・ダイ・バット・ユー・ウィル」を、デビュー作から通して聴いた(計7枚)が、まだ勘所をつかめない。トランジスタラジオから流れるビートルズの〝目くるめく3分間〟がロックライフのスタートだった俺にとって、ポストロックは敷居が高いジャンルなのだろう。読書のBGMとしては最適だけど……。

 現時点で早くも個人的な'11ベストアルバムが決定した。アーティストとしての成熟を感じさせるPJハーヴェイの「レット・イングランド・シェイク」だ。デビュー当時(91年)の彼女は、痛々しいほど赤裸々でエキセントリックだった。変化の兆しが表れたのは「ストーリーズ・フロム・ザ・シティー、ストーリーズ・フロム・ザ・シー」(00年)で、抑揚が効いた深みのある作品に仕上がっていた。

 デジタル機器で人工的に牽引されるバンドが目立つ中、PJは自然体で飛躍し、ロックを俯瞰で眺める高みに到達した。「レット・イングランド・シェイク」では民族音楽を取り入れ、中近東の雑踏で流れているようなエキゾチックなメロディーを口ずさんでいる。漂泊者の哀感と解放感を味わえる本作と志向性が重なるのは、グリズリー・ベアの「ヴェッカーティメスト」だ。

 次にタワレコに足を運ぶのは1カ月後。いい年して恥ずかしいが、グリーン・デイの激安ライブ盤(CD+DVDで3200円!)を買うためだ。余分なお金を持たないで行くことにしよう。

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「ソーシャル・ネットワーク」~創設者がインプットしたモンスターのDNA

2011-02-23 00:36:51 | 映画、ドラマ
 イスラム圏で独裁政権が相次いで揺らいでいる。チュニジアでは国外でオンエアされた焼身自殺の映像が端緒になった。青年の憤りに共感した若者がフェイスブックにアップし、軌を一にしてウィキリークスが権力者の腐敗を公開する。抵抗は燎原の火のように広がり、国境を越えて燃え盛っている。

 ミクシィに毛が生えた程度と誤解していたが、フェイスブックは異次元のツールで、各自が数千人に向け情報や意見を発信できるようだ。旬というべき「ソーシャル・ネットワーク」(10年)を新宿で見た。

 監督は「セブン」、「ファイト・クラブ」、「ベンジャミン・バトン~数奇な人生」で感銘を受けたデヴィッド・フィンチャーだ。本作ではハーバード大で2004年に産声を上げたフェイスブックの創設者、マーク・ザッカーバーグの素顔に迫っている。トレント・レズナーが担当したサントラも、本作の奥行きを深めていた。

 共同創設者でありながら追放されたエドゥアルド、アイデアを盗まれたと憤慨するウィンクルボス兄弟、マークに接近して共同経営者になるショーン・パーカー……。マーク以外も本名のままで、同世代の俳優が演じている。フィクションというより、血が滴るフレッシュな真実と受け止めたのは俺だけではないだろう。

 エドゥアルドが制作に協力したこともあり、マークは幼児性丸出しの天才オタクで、狡猾かつ冷淡な人間として描かれている。喧嘩を売られた格好だが、マークは静観する道を選んだ。「ファッション以外は全部デタラメ」が当人の本作に対する感想だ。

 時系列を切り刻み、現在と過去をフラッシュバックして再構成しているが、演出と脚本の妙で違和感は全く覚えない。肉体が接触しない「ファイト・クラブ」というのが全体の印象だ。現在に設定されているのは示談交渉の席で、原告はエドゥアルドとウィンクルボス兄弟、被告はもちろんマークだ。回想の形で再現されるハーバードでの学生生活が興味深かった。

 ウィンクルボス兄弟は富(父は大金持ち)、ルックス、明晰な頭脳を併せ持つボート部員だ。北京五輪では6位に入賞している。ナルシシズムと自信が漂う兄弟に、マークは本能的な反感を抱いていたはずだ。エドゥアルドは選ばれし者だけが集うクラブの入会を許され悦に入っていた。マークにとってエリート意識や権威は嘲笑の対象で、両者との間に亀裂が生じるのは時間の問題だったといえる。

 フェイスブックは質量とも、創設者の意図を超えるモンスターに成長した。その理由は、マークがグローバルな普遍性を追求していたことだと思う。<大衆的なツール>だったからこそ5億人のユーザーを獲得し、レジスタンスの武器として成立したのだろう。

 インターネット全般、ブログ、ツイッター、フェイスブック、そして来るべき何かにしても、形式やツールは人間を成長させない。革命、恋愛、時間潰し、軋轢、犯罪と、自らの器に見合った答えを用意するだけだ。日本のユーザーはどのようにフェイスブックと接しているのか興味がある。

 俺も試してみようか……。写真入りに躊躇するし、プラスの宣伝文句が思い浮かばない。理想の異性という項目があったら、<万事最低の俺を許容するだけの包容力ある女性>と書くだろう。


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「半分のぼった黄色い太陽」が抉る<無知の罪>と<無為の罪>

2011-02-20 03:32:08 | 読書
 人生のレースが第4コーナーに差し掛かった今、ゴール(死)の先を考えることが多くなった。不信心の俺だが、生前の言動を償うためにも死後の世界は必要だと思う。過剰さ、冷淡さ、優柔不断、不寛容、虚言etc……。人生の局面で様々な過ちを犯してきたが、さらなる罪状をある小説が教えてくれた。それは<無知の罪>と呼ぶべきものである。 

 ビアフラ戦争(1967~70年)を描いた「半分のぼった黄色い太陽」(河出書房新社)を読了した。2段組みで500㌻弱の長編は、俺の心をカラフルに染めてくれた。ナイジェリア出身のチママンダ・ンゴズィ・アディーチュは本作により07年、史上最年少の30歳でオレンジ賞(英語圏の女性作家が対象)を受賞する。

 10代前半だった俺は、ビアフラの飢餓を伝える写真に衝撃を受けた記憶がある。それから四半世紀、W杯の常連になったナイジェリア代表について、「チームにまとまりがないからベスト16止まり」などと御託を並べていた。無知ゆえ、ビアフラの悲劇とナイジェリアが結び付かなかったからである。「半分のぼった黄色い太陽」を読み、最低限の歴史的背景を知った。

 ナイジェリアは民族間、地域間の対立が絶えない国である。本作の舞台である南部は石油の生産地で、交易の要衝だ。大半を占めるイボ族はキリスト教徒で、教育水準が高く、優秀な人材を国中に送り込んでいた。他地域のイスラム教徒の目にイボ族は、〝西欧かぶれ〟〝強欲〟と映る。長年の軋轢が虐殺の形で現れるや、南部はビアフラ建国を宣言する。

 本作の主な登場人物は、オランナとカイネネの双子姉妹、オランナの夫オデニボ、カイネネの婚約者リチャード、オランナとオデニボに仕えるウグウの5人だ。それぞれの主観を交錯させ、重厚でドラマチックな物語が紡がれていく。

 双子姉妹は富裕層の出身で、政財界や軍に太いパイプを持つ。火の手を逃れ海外に避難することも可能だったが、自由とプライドを守るためビアフラにとどまった。オデニボはラディカルな大学教授で、その住まいは戦争が起きるまで、インテリが集うサロンだった。そこでは公民権運動、西洋諸国の悪行だけでなく、文化全般もリアルタイムで俎上に載せられた。

 つらい出来事に次々と襲われても、オランナとオデニボに対するウグウの思慕と献身は変わらず、上下関係を超えた絆を築いていく。英語を習得したウグワは、サロンでの議論から多くを吸収するだけでなく、生き抜くための覚悟と手管を身に付けた。

 英国人のリチャードは、帰る場所がある傍観者として物語に登場する。カイネネと愛を育み、起きていることを巨視的に把握するうち、ビアフラ戦争はリチャードの中で〝われわれの闘い〟に転じていく。戦後に発表するルポルタージュのタイトルは、<私たちが死んだとき世界は沈黙していた>に定まった。

 兵糧攻めに屈したビアフラの悲惨な状況が、後半部分で詳述される。男たちが戦争で汚れ、崩れていくのと対照的に、オランナとカイネネはリーダーとして飢えと闘い、斃れた者を弔う。姉妹の気高さが浮き彫りにするのは、<私たちが死んだとき沈黙していた世界の醜さ>だ。

 ビアフラ戦争に英国、アメリカ、フランス、ソ連、中国がどのようにかかわり、なぜ飢餓を座視したのか……。作者は本質的な問題が現在も解決していないことを、行間に滲ませている。<私たちの真の敵はグローバリズムという悪魔>だと……。

 ロックスターやハリウッド俳優が行う慈善にも意味はあるが、アフリカ救済の唯一の手段は、グローバリズムをストップさせる広範なレジスタンスだ。そうと知りつつ日常に埋没するのは、<無知の罪>より遥かに重い<無為の罪>に相当する。俺が地獄の業火に焼かれるのは確実で、急に長生きしたくなってきた。

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「ウッドストックがやってくる!」~ロックが一番幸せだった頃

2011-02-17 01:22:25 | 映画、ドラマ
 エミネムとレディー・ガガは聴いたことがないので、試しに実物を見てみようと「グラミー賞授賞式」を録画した。早回しで眺めるうち、想定外の場面に遭遇する。ミューズが「アップライジング」を演奏し、歌詞に即した〝抵抗と弾圧〟のパフォーマンスが数十人規模で繰り広げられていた。ミューズは「レジスタンス」で最優秀ロックアルバム賞を受賞する。

 更なる驚きが待っていた。アーケイド・ファイアの「ザ・サバーブス」が最高の栄誉である最優秀アルバム賞を受賞する。俺は同作を'10ベストアルバムの2位に挙げていた(昨年12月17日の稿)。保守的なグラミーと意見の一致を見る日が来るとは思わなかった。斜陽が叫ばれるロック業界だが、水面下で地殻変動が起きているようだ。

 「ウッドストックがやってくる!」(09年、アン・リー監督)を先週末、渋谷で見た。ロック史に燦然と輝くイベントが開催に至る背景を描いた作品である。

 話は逸れるが、60年安保、公民権運動、ベルリンの壁崩壊といった歴史的事件では、無数の人々の意志や感情がうねりになって臨界点をクリアした。ウッドストックもまた、水源を異にする流れを収斂した大洪水で、堰き止めることは不可能だった。音楽ファンだけでなく、政治活動家、薬物常用者、放浪者らが国中から集まって意思表示する。

 実現のきっかけになったのは、小さな町で商工会会長を務めるエリオットだ。恋人が去った傷心を癒やすため、町興しに没頭していたエリオットは、ウッドストック開催が暗礁に乗り上げたことを知り、天啓に打たれたかのように事務局に電話した。

 視察に訪れた主催者代表のマイケルは牧場へ足を運び、オーナーと交渉に入る。ゴーサインが出るや、エリオットの両親が経営するモーテル「エル・グレコ」が前線基地になる。反発した地元住民による中傷の落書き通り、エリオットは〝ゲイのユダヤ人〟である。

 エリオットの母ソニアは、被害者意識を加害に転化させた現在のイスラエルに重なる攻撃的な性格で、控えめな父ジェイクと対照的だ。画家を志したエリオットだが、30歳を超えても家族に縛られ、家業を手伝っている。小心で誠実なエリオットが記者会見の席で失言し、混乱の原因をつくる経緯も面白い。

 ゲイの元海兵隊員ヴィルマら参集した個性的な面々にインスパイアされ、エリオットに変化の兆しが訪れる。ベトナム帰還兵の親友ビリーと泥まみれになったり、トリップを体験したり、衆人環視のさなか男性とキスしたり……。演奏シーンは一切映らないが、ロックが希求する自立、自由、反抗、解放、プライド、情熱がふんだんに盛り込まれた青春映画だった。

 30年後に開催されたウッドストック'99の模様を収めたドキュメンタリーに、年月による変化を覚えた。殺伐とした雰囲気でフェスは進行し、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンやレッド・ホット・チリ・ペッパーズの演奏中には暴動寸前になっていた。

 <大きな問題がないのに、どうしてここまで不満を爆発させるのか>と制作サイドは疑問を呈していたが、全くの的外れだ。レーガン、父ブッシュ、クリントンの3代の大統領が推進した経済政策で中産階級と農民は没落し、地方は疲弊していた。閉塞した格差社会にアメリカの若者が喘ぐ状況は現在も変わらない。

 混沌としていた69年には平和という共通の目的があり、自分たちで社会を変えるという意志もあった。ロックに希望と幻想を重ねられた時代だったが、本作のラストで〝祭りの後〟が暗示されている。マイケルがエリオットに予告したオルタモントで起きた悲劇は、映画「ギミー・シェルター」に描かれた通りだ。ウッドストックとは、覚める直前の、至福の夢だったのか……。
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「苦役列車」~曝け出すことによって到達する魂の浄化

2011-02-14 00:31:41 | 読書
 芥川賞受賞作が掲載された文藝春秋を購入した。〝美女と野獣〟の受賞者が話題になっているが、今回は〝野獣〟こと西村賢太の「苦役列車」について記したい。

 芥川賞の歴史をネットで確認してみると、不思議なことにあれこれ気付く。太宰治と三島由紀夫は受賞していないし、松本清張は直木賞ではなく芥川賞作家だ。新人登用が目的というが、阿部和重は「シンセミア」で評価を確立してから受賞した。

 池澤夏樹、平野啓一郎、中村文則は受賞しているが、星野智幸は選に漏れている。島田雅彦が5度も受賞を逃したのはミステリーとしか言いようがない。八百長とはいわないが、情実や商魂に左右されていることは十分窺える。今回の西村の受賞も、〝総下流化〟の世の流れに沿っていると思う。
 
 「苦役列車」は濃密な表現、物語性、イマジネーションとは無縁の赤裸々な私小説だ。舞台はバブル前夜(1985年)の東京で、主人公の貫多は作者の等身大の反映だ。中学卒業から4年、貫多は日雇い労働者として<中世の奴隷に課せられたような作業>に従事している。2日続けて働くことは稀で、なけなしの金を酒と風俗に回し、安い家賃(1万5000円)も滞納気味だ。

 社交性に欠ける貫多だが、同い年の専門学校生、日下部と親しくなる。賃料6万円のワンルームに住む日下部は、貫多にとって生きる手段の肉体労働を、人生経験の一つと見做している。風俗通いの貫多は〝性のプロレタリアート〟だが、日下部は大学生の美奈子と付き合っている。ネオアカかぶれの日下部と美奈子の会話についていけず、<階級を超えた愛と友情は成立しない>という〝真実〟に気付いた貫多は、酒席で醜態をさらしてしまう。

 貫多の女性に対する嫌悪が気になった。年上の風俗嬢だけでなく、美奈子や2カ月ほど付き合った少女についても、侮蔑と憎悪を込めて描写している。それが欲望と愛を峻別する10代特有の潔癖さゆえなのか、環境によって生じたものなのか、あるいは自己嫌悪の裏返しなのかは、他の作品を読まなければわからない。

 西村の父が起こした強盗と婦女暴行事件についても、事実として作中に記されている。貫多は自らのDNAに組み込まれた忌むべき資質を恐れているのだ。傷害事件で2度起訴された現実の西村、暴力への衝動を抑え切れず仕事先で出入り禁止を言い渡された貫多……。俺も多少は露悪的、偽悪的な人間だが、とことん曝け出す西村の潔さに圧倒された。

 失恋、挫折、トラウマ、軋轢、罪の意識……。人は蹉跌を背負って生きている。青春時代、目を潤ませて語り明かし、癒やしと救いを覚えた経験は誰にもあるだろう。友も恋人も保護者もいない西村だが、心の師である藤澤清造との出会いは大きかった。書くことが西村にとり、魂を浄化させる唯一になる。

 私小説から出発した車谷長吉は、「赤目四十八瀧心中未遂」や「萬蔵の場合」など〝私〟を超える作品を発表したが、西村はあくまで〝私〟に執着して書き続けるだろう。自らを切り売りする血で、茨の道を赤く染めながら……。


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「海炭市叙景」~函館を紡ぐ五色の哀糸

2011-02-11 03:29:31 | 映画、ドラマ
 「ワンダフルライフ」(是枝裕和監督、99年)を見た人は誰しも、<生涯で最高の思い出>を探したくなる。俺にとってその場面とは、あの夏、ふたりで過ごした黄昏の函館山だ。

 夕陽から吸い取られた朱が、色を薄めて暗いキャンバスに滴り落ち、やがて蛍の大群がたぎったような夜景が現れる。光と闇、自然と人工が織り成すイリュージョンに至福を覚えたのも束の間、絆は魔法のように砕けてしまった。

 切なさが詰まった〝ソウルタウン〟函館を舞台にした「海炭市叙景」(佐藤泰志原作、熊切和嘉監督/10年)を見た。函館出身の佐藤は1990年、自ら命を絶ったが、友人や地元有志の呼びかけによって遺作の映画化が実現する。09年に置き換えたこともあって、地方の崩壊、無縁社会、児童虐待など現在の日本が抱えるテーマも織り込まれている。

 選ばれた五つのエピソードの時系を繋ぐのはテレビ画面だ。造船所閉鎖を巡る争議の経緯が、頻繁にニュース映像として挿入され、見る側は同時進行であることを再認識する。ジム・オルーク(元ソニック・ユース)の情感を抑えた音楽も、淡々とした流れとヒリヒリしたタッチに即していた。

 軸になっているのは、幼い頃の記憶が幻想的にちりばめられた「まだ若い廃墟」だ。争議の当事者で解雇された颯太(竹原ピストル)と帆波(谷村美月)の兄妹は、年越しそばを食べた後、函館山へ向かう。俺自身の記憶と重なり、初日の出を見る兄妹の幸せを切に願ったが、ラストで暗転する。

 「まだ若い廃墟」を執筆中、佐藤がタナトスに揺さぶられていたことは想像に難くない。<待った。ただひたすら兄の下山を待ち続けた。まるでそれが、わたしの人生の唯一の目的のように>……。観賞後、紀伊国屋で冒頭部分を立ち読みし、涙腺が緩みそうになる。ベンチに蹲る帆波の痛ましい姿が忘れられない。

 「ネコを抱いた婆さん」に起用された中里あきに、プロの演技者を超えたリアリティーが滲んでいた。父と息子の普遍的な葛藤を描いた「裸足」には、佐藤自身の投影が窺える。デラシネの俺にも、家族の崩壊を描いた「黒い森」と「裂けた爪」に心が軋んだ。

 沈黙、狂い、葛藤、暴力に苛まれた家族の再生が、ラストで暗示されている。「黒い森」の夫婦、「裂けた爪」の父子が、「裸足」に登場する父が運転する路面電車に乗り合わせている。彼らもまた、函館山で初日の出を見るのだろうか。

 <「ノルウェイの森」はつまらなかったけど、「海炭市叙景」には感動した。佐藤泰志は初めて村上春樹に勝ったんだ>……。

 知人が面白いことを言っていた。佐藤は芥川賞(5度)など各種文学賞の候補に挙がりながら受賞はならず、悲運のレッテルが貼られている。本作が再評価のきっかけになればいいと思う。
 
 異国情緒、文化の薫り、おいしい魚に函館競馬場……。〝ソウルタウン〟と言いつつ、俺はこれまで旅行者の目で函館を眺めてきた。「海炭市叙景」では秋から冬の厳しい気候を背景に、生活者の視点で街が描かれている。新たな発見を求めて、もう一度訪ねたくなった。
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「ブラッド・メリディアン」が照らすアメリカの原風景

2011-02-08 00:33:08 | 読書
 二つの戦いの結果が出た。ダブル首長選とスーパーボウルである。

 小沢叩きで支持率アップを狙う姑息さ、マニフェストを次々撤回して居直る厚顔ぶり……。菅内閣への失望が愛知の反乱に繋がった。一億総下流化、地方の疲弊に歯止めを掛けるのが火急の課題だが、民主党も自民党も〝社会主義的処方箋〟を用意できない。となれば、河村名古屋市長と橋下大阪府知事が救世主? ホンマかいな……。どん底の状況に暗澹たる思いだ。

 例年と異なりスーパーボウルはサラリと流すが、結果には満足している。スティーラーズの追撃を振り切ったパッカーズは、第6シード(10勝6敗)でポストシーズンに滑り込んだが、プレーオフ突入後、メリハリの利いた攻守で快進撃を続ける。昨季のセインツ同様、最もエキサイティングなチームが戴冠した。

 コーマック・マッカーシーの「ブラッド・メリディアン」(早川書房)を読了し、〝戦争シミュレーション〟NFLに熱狂するアメリカ人の原風景に触れた気分になった。舞台は1840年代後半、アメリカとメキシコの定まらぬ境界線である。ゴールドラッシュが重なり、アメリカは領土拡張にひた走っていた。14歳の少年は生き残るため、インディアンの賞金首を狙う〝皆殺し軍団〟に身を投じる。

 混沌としたモノクロームに少しずつ色彩が加わり、次第にカラフルな景色が開けてくる……。これぞ文学に親しむ愉悦だが、和訳すれば「血の子午線」となる本作は様子が異なる。加わる色彩は、夥しく流される血、暴虐を覆うために燃え盛る火の赤のみだ。

 以下に、本作の本質に迫った箇所を紹介する。

 <(前略)各自は本来別個の人間だが集団になるとそれまでとは違った存在になりその合同の魂のなかには推し量りがたい茫漠たる空間があるからでありその空間には古い地図の空白のまま残されている場所のように怪物が棲んでいて不確かな風以外に既知の世界に属するものは何もないからだ>

 「読点を省略するな」と叱られそうだが、原文のままである。前衛的手法を駆使するマッカーシーの翻訳を手掛けてきた黒原敏行氏は、作者の意図を汲み、<合同の魂のなかに存在する茫漠たる空間>を表現するため、異例と思える手法を用いたに違いない。

 逃亡奴隷、賞金稼ぎ、金鉱探索者、脱獄囚、家畜泥棒、偽牧師といったならず者が欲望と狂気に身を委ね、大義や理想など糞食らえと、ゲームに興じるかのように殺戮を繰り返す。まるで、ベトナムでの米軍のように……。少年は息を潜め、<空白の古い地図>に自らの筆で書き込んでいく。それは暴力と荒みが昇華した人間性の欠片だった。

 存在感が際立っていたのが、「人間は戦争をするからこそ高貴なのだ」と語る通称判事だ。無毛で巨体の異形の男は、自然科学、森羅万象、哲学、サバイバル術とあらゆる分野に精通している。まさに<茫漠たる空間を支配する怪物>で、世俗とも自由に往来する。少年と判事の交流と確執も本作の主題のひとつに違いない。
 
 前作「ザ・ロード」、「血と暴力の国」(邦題「ノーカントリー」)に続き、「ブラッド・メリディアン」も映画化に向け準備が進行中という。小説を読み終えた時点では、荒涼たるモノクロームの迷路に閉じ込められたままだが、カラフルなスクリーンに解き放たれる日を心待ちにしている。



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多民族国家ドイツを映す「ソウル・キッチン」

2011-02-05 06:14:02 | 映画、ドラマ
 スポーツ界は明暗くっきりだ。<暗>はもちろん大相撲で、八百長疑惑で土俵際に追い詰められている。この世の中、政治を筆頭に八百長が蔓延しているが、最たるものは記者クラブ制度だ。〝衝撃の事実〟を初めて知ったかのようなポーズを装い、相撲協会を糾弾するメディアに愕然とする。

 <明>はサッカー界で、インテルに移籍した長友など日本人選手の評価はうなぎ上りだ。ブンデスリーガ(2部を含む)には香川、岡崎、長谷部、内田ら8人が在籍している。外国人が全人口の9%弱を占めるドイツは、<厳格と勤勉>から<柔軟性と包容力>にイメージを変えつつあるが、その一翼を担っているのが若き巨匠ファティ・アキンだ。

 渋谷で先日、アキンの最新作「ソウル・キッチン」(09年)を見た。舞台はドイツで最も国際色豊かなハンブルクである。味わい深いヒューマンコメディーに彩りを添えるのは、ソウルを中心にパンク、ハウス、テクノと幅広い分野の音楽だ。

 自らのルーツ(トルコ)にこだわった作品で評価を高めたアキンだが、今回の主人公はギリシャ系移民のジノス・カザンザキス(アダム・ボウスドウコス)だ。ロッカー風のジノスは安食堂「ソウル・キッチン」の経営者かつ腕の悪いシェフである。

 登場人物の大半は移民だ。仮釈放中のジノスの兄イリアスはもちろん、「ソウル・キッチン」倉庫に居候する老ソクラテスもギリシャ人だ。店員のルッツとルチアはトルコもしく中近東出身、一流シェフのシェインは放浪癖からしてロマかもしれない。療法士のアンナにはオリエントの薫りが漂っている。

 ジノスの恋人ナディーンは名家出身のジャーナリストだ。ゲルマン系に見えるが、彼女の祖母の顔立ちは奇妙なことに、孫よりジノスに近い。新恋人が中国人という設定も、全体の流れに沿っている。

 シェインの活躍とショータイムで「ソウル・キッチン」が繁盛する展開に、「バグダット・カフェ」や「バベットの晩餐会」が重なった。好事魔多しというべきか、ストーリーは暗転する。女を取られ、店は失い、歩けないほど腰が痛い……。どん底に突き落とされたジノスだが、おとなしく運命を受け入れるほどヤワじゃない。

 ジノスを筆頭に、登場人物は愛すべき欠点を抱えているが、魂が折れることはない。享楽的で自由を求め、ユーモアを忘れず前向きに生きている。彼らの強さを育んだのは、異なる価値観との衝突と融和だと思う。

 俺は当ブログで、移民の積極的受け入れを主張してきた。人口が半減したらナショナリズムも糞もない。移民受け入れによる混乱は若者を鍛え、結果として国を強くするというのが、〝非ナショナリスト〟の持論だ。〝老小国〟として醜く滅ぶというのも、ある種の美学かもしれないが……。
 
 <食べること=生きること>と言いたげに、「ソウル・キッチン」ではレシピが幾つか紹介されている。「何が一番食べたい」と若者に聞いたら、「焼き肉」、「中華」、「ハンバーガー」なんて答えが上位を占めそうだ。日本の<ソウル>は風前の灯なのか。



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ローカル・ネイティヴス~神が宿ったパフォーマンスに酔う

2011-02-02 01:25:25 | 音楽
 上杉隆氏らが〝先進国標準〟のオープンなジャーナリズムを志向する「自由報道協会」を設立した。<記者会見の開放を実践してきた政治家>として小沢一郎氏が初回の記念会見に選ばれた。小沢氏は記者クラブ(大手メディア)と対照的な評価をフリージャーナリストから得ている。

 アメリカ迎合のエジプト独裁政権が揺らいでいる。<アメリカ=イスラエル>を悪の枢軸と見做す俺には好ましい変化だ。フェースブック、ツイッター、動画サイトが抵抗の軸になった<ソーシャルネットワーク革命>で、〝ご臨終メディア〟(森巣博、森達也共著のタイトル)に洗脳されたこの国より進んでいるかもしれない。

 幻想的なブロンド・レッドヘッドのライブ(1月24日)から1週間、余韻が冷めぬままクラブ・クアトロ(渋谷)でローカル・ネイティヴスに圧倒された。フジロックのホワイトステージでも異彩を放っていたが、キャパ数百の閉じられた空間で濃密なエネルギーを放射し、開放と凝縮を同時に表現していた。

 オープニングアクトのアントラーズも、「4ADナイト」のディアハンター、フレーミング・リップスと共演したMEW同様、メロディーとビートを結合させた優れたバンドだが、神が宿ったローカル・ネイティヴスの前では色褪せてしまう。彼らのパフォーマンスはアルバム1枚の段階として奇跡的なレベルに達している。

 彼らと重なるのは、同じ会場で体感したダーティー・プロジェクターズだ。その時の感想を以下に。

 <プリミティヴ、ノスタルジック、牧歌的、祝祭的なパフォーマンスを支えるのは、デイヴと女性3人のボーカル隊だ。バリエーションに富んだ組み合わせで、曲ごとのコンセプトの違いを浮き彫りにしていく。(中略)ダーティ-・プロジェクターズは、加工と手作り、卓越したテクニックとアマチュア精神というアンビバレンツを自然体で調和させていた>(昨年3月19日の稿)

 ダーティー・プロジェクターズがNYなら、ローカル・ネイティヴスはLAと活動拠点は異なるが、ライブの質といい印象といい、志向するものは同じだと思う。

 ローカル・ネイティヴスは担当楽器や立ち位置を曲によって頻繁に変え、ツインドラムの時は重厚なビートで五感に働きかけてくる。NY派と共通するのは〝声の復権〟で、リードを取るのは2人だが、4人のハーモニーが牧歌的、祝祭的なムードを醸し出している。

 静と動のメリハリがはっきりし、淀みと無駄が一切ない。轟音とメロディーを融合させ、表情豊かな曲をコンパクトにまとめている。ロックの良質なDNAと未来形を感じた。終演後、物販に協力する姿にも感心した。ロックは文化であると同時にエンターテインメントで、俺の中で<サービス精神>がバンドを測る大きな物差しになっている。

 彼らぐらいのキャリアだと、大抵は書きためた新曲で客のリアクションを試すものだが、今回のライブで演奏されたのは1st「ゴリラ・マナー」の12曲のみである。これが唯一感じた不安点だった。

 ブロンド・レッドヘッドについて〝独り占めしたい宝物〟と記したが、ローカル・ネイティヴスはダーティー・プロジェクターズとともに、ヘッドライナーとしてフジロックのグリーンステージに立つ日が来ることを願っている。夢が実現した時、俺は確実に還暦を迎えているだろう。棺桶の中だったりして……。


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