先日、「チェ 28歳の革命」(08年、ソダーバーグ)を見た。「チェ 39歳 別れの手紙」(31日公開)についても後日、記すつもりでいる。
初めてゲバラの顔を見たのは68年のニュース映像だった。メキシコでは五輪開催が危ぶまれるほど抗議活動が広がっていたが、デモ隊が掲げていたのがゲバラの写真だった。彼の名を知ったのは数年後である。
海外と比べ、ゲバラは日本で長らく無名だった。60年代後半、全共闘の学生たちに“革命家人気投票”を実施したら、1位は毛沢東かトロツキー、3位はレーニン、4位はローザ・ルクセンブルクという順になっただろう。
死後42年、サルトルが「20世紀で最も完璧な人間」と評したゲバラは、自由と反抗のシンボルになった。その言葉は世界中で復唱され、生きざまと死にざまに共感する者は後を絶たない。「チェ 28歳の革命」で最も感動的だったのは以下の台詞だ。
「革命家は偉大な愛によって導かれる。人間への愛。正義への愛、真実への愛……。愛のない真の革命家を想像することはできない……」
愛と革命を同じ地平で語れる者はゲバラだけだ。多くの革命は革命家自身の手で汚されてきたが、ゲバラの説得力はさまざまなエピソードが例証になり、天上へと積み上げられている。
「オーシャンズ」シリーズで知られるソダーバーグは、エンターテインメントの匠でありながら、インディーズの反骨とシニカルさを失っていない。本作では虚飾を削ぎ、仕掛けを最低限に抑えていた。闘いの日々(56~59年)と国連総会出席のためのニューヨーク来訪(64年)をカットバックすることで、ゲバラの思想と人間性を浮き彫りにしていた。
最前線で闘い、すべての人間と同じ目線で接するゲバラは、稀有な存在と考えられている。歴史に“もしも”は禁物だが、ゲバラが早い段階で斃れていたら、キューバ革命は成就しただろうか。ゲバラのようなイコンが他に現れただろうか。俺の答えは絶対、ソダーバーグも恐らく「イエス」だ。
1人のゲバラの背景に100人のゲバラがいる。いや、100人のゲバラが存在しないと1人のゲバラも生まれない。俺は歴史の真実を白土三平の作品で学んだ。時代の空気、正しい志向、集団の意志は、それらを体現する象徴を確実に生み出す。
「報道ステーション」で先日、ゲバラ来日時(59年)のエピソードが紹介された。広島を訪ね、原爆資料館で惨状を目の当たりしたゲバラは、取材した唯一の記者(中国新聞)に、「君たちはなぜアメリカの責任を追及しないのか」と洩らしたという。
帰国後、ゲバラがカストロに伝えた広島の悲劇は教科書に掲載され、次世代へと語り継がれた。キューバの若者は日本の同世代より、核兵器の恐ろしさを知っている。ゲバラの広島への愛が、アメリカの裏庭で大輪の花を咲かせたのだ。
初めてゲバラの顔を見たのは68年のニュース映像だった。メキシコでは五輪開催が危ぶまれるほど抗議活動が広がっていたが、デモ隊が掲げていたのがゲバラの写真だった。彼の名を知ったのは数年後である。
海外と比べ、ゲバラは日本で長らく無名だった。60年代後半、全共闘の学生たちに“革命家人気投票”を実施したら、1位は毛沢東かトロツキー、3位はレーニン、4位はローザ・ルクセンブルクという順になっただろう。
死後42年、サルトルが「20世紀で最も完璧な人間」と評したゲバラは、自由と反抗のシンボルになった。その言葉は世界中で復唱され、生きざまと死にざまに共感する者は後を絶たない。「チェ 28歳の革命」で最も感動的だったのは以下の台詞だ。
「革命家は偉大な愛によって導かれる。人間への愛。正義への愛、真実への愛……。愛のない真の革命家を想像することはできない……」
愛と革命を同じ地平で語れる者はゲバラだけだ。多くの革命は革命家自身の手で汚されてきたが、ゲバラの説得力はさまざまなエピソードが例証になり、天上へと積み上げられている。
「オーシャンズ」シリーズで知られるソダーバーグは、エンターテインメントの匠でありながら、インディーズの反骨とシニカルさを失っていない。本作では虚飾を削ぎ、仕掛けを最低限に抑えていた。闘いの日々(56~59年)と国連総会出席のためのニューヨーク来訪(64年)をカットバックすることで、ゲバラの思想と人間性を浮き彫りにしていた。
最前線で闘い、すべての人間と同じ目線で接するゲバラは、稀有な存在と考えられている。歴史に“もしも”は禁物だが、ゲバラが早い段階で斃れていたら、キューバ革命は成就しただろうか。ゲバラのようなイコンが他に現れただろうか。俺の答えは絶対、ソダーバーグも恐らく「イエス」だ。
1人のゲバラの背景に100人のゲバラがいる。いや、100人のゲバラが存在しないと1人のゲバラも生まれない。俺は歴史の真実を白土三平の作品で学んだ。時代の空気、正しい志向、集団の意志は、それらを体現する象徴を確実に生み出す。
「報道ステーション」で先日、ゲバラ来日時(59年)のエピソードが紹介された。広島を訪ね、原爆資料館で惨状を目の当たりしたゲバラは、取材した唯一の記者(中国新聞)に、「君たちはなぜアメリカの責任を追及しないのか」と洩らしたという。
帰国後、ゲバラがカストロに伝えた広島の悲劇は教科書に掲載され、次世代へと語り継がれた。キューバの若者は日本の同世代より、核兵器の恐ろしさを知っている。ゲバラの広島への愛が、アメリカの裏庭で大輪の花を咲かせたのだ。