酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「盤上のアルファ」~下降と上昇が綾なす糸

2011-10-29 21:56:33 | 読書
 帰京後、ゴキブリも寄り付かないゴミ部屋を片付けた。可燃と不燃のゴミは合わせて10袋(45㍑)になり、古紙やペットボトルも大量に出した。普通程度の汚部屋に電器屋さんを迎えたのだが、加療のためパソコンは入院(メーカーで調査)という診断が下った。自業自得とはいえ、今後2週間は家でパソコンを使えない。

 ネットカフェでブログを更新する日が続く。時間も限られているので、内容が薄くなる上、誤字脱字も甚だしくなる。「本当に校閲者」と訝る声が出ても仕方ない。戯言シリーズは打ち止めに、今回は「盤上のアルファ」(塩田武士著、講談社)について記したい。読了後、2週間ほど経っているため細かい部分は忘れているが、逆に全体像がロングのアングルで浮き上がってきた。

 2人の男の交流が物語を進行させる。秋葉隼介は地方紙記者で、作者の経験を反映している。俺自身、寒風吹きすさぶメディアの片隅に棲息しており、秋葉の人間像や思考法に共感できる点も多かった。秋葉は社会部から文化部に異動を命じられたことで、自らの内なる下降志向に気付く。肩肘張って闊歩するより、社会の底から世を穿つことに生きがいを見いだした。

 一方の真田信繁は尼崎生まれで、貧困と家庭崩壊にもがいてきた。真田にとって将棋だけが自己表現の手段であり、救いだった。真田の将棋は〝妖刀〟とプロを恐れさせた真剣師の小池重明を彷彿させる。異形の男はいったん踏み外した道を這い上がっていく。本作が映画化されたら、監督の力量次第で「幻の光」、「赤目四十八瀧心中未遂」と並ぶ〝尼崎三部作〟に数えられるだろう。秋葉と真田は将棋という狂おしいゲームを結び目に友情を育んだ。下降と上昇が綾なす糸が、二人を意外な結末に導いていく。

 名人戦、竜王戦の中継、NHK杯トーナメントは欠かさず見ている俺だが、将棋を理解しているわけではなく、棋士の個性を楽しんでいる。俺にとって<今年の一言>はNHK杯で解説を担当した森内名人によって発せられた。森内は藤井9段の差し手に「凡人には思いつかない」と素直な感想を洩らす。時の名人でありながら自らを〝凡人〟と評する森内の謙虚さと奥深さに、羽生に先んじて永世名人位を獲得した理由の一端を見た。

 男たちのドラマにページを繰る指は止まらなかったが、予想に反してミステリーではない。伏線は張られていたが、読み取るには無理がある。本作には狼の夢やイメージが繰り返し挿入されていた。真田は幼い頃、「狼の群れのボスは雄であれ雌であれ、アルファと呼ばれる」と図書館員に教わる。本作で〝アルファ〟といえば静しかいない。ネタバレ覚悟でいえば、真の主人公は秋葉でも真田でもなく、静だと思う。

 俺の経験からすれば、アウトサイダー、社会的不適応者、確率が低い夢に身を賭す男に惚れる女はいない。その点でいえば「盤上のアルファ」は、冴えない男たち(俺もそのひとりだが)にとって<愛の寓話>に思えてくる。含みのある結末であり、女流棋士の加織と秋葉に焦点を当てた続編に期待したい。

 お告げのおかげで低配当の秋華賞と菊花賞を当てた。別に自慢にならない。天皇賞は⑧ペルーサ、⑪ローズキングダムの2頭軸の3連単を購入するつもりでいる。相手候補の筆頭は⑦ダークシャドウで、⑦⑧⑪の馬連ボックスも買ってみたい。

 実は今回もお告げはあった。昨日(28日)夕方から未明にかけ競馬面の作業に従事したが、夢の中で直し漏れを思い出し、職場に電話した。「大丈夫、直しましたよ」と言われホッとしたのだが、該当するのが天皇賞の④⑱。手を広げるつもりはないので、馬連のみ付け加えることにする。





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この7カ月に起きたこと~京都雑感その二

2011-10-26 22:39:44 | 戯れ言
 木枯らし1号が吹いた東京に戻ってきた。パソコンが故障中なので、代々木のネットカフェで更新している。

 実家で猫のポン太とグータラ度を競うつもりだったが、伯母が亡くなり、慌ただしい帰省となった。<気が利かず礼儀に無頓着>というパブリックイメージが定着しているから、はとこ姉弟と与太話していても咎められない。不謹慎に映る俺だが、お世話になった伯母の死に、神妙かつ哀悼の念が去来していた。途中下車と脱線を繰り返した伯母の人生は、波瀾万丈とまでいわないが、決して平坦ではなかった。越えられぬ恩讐ゆえ、参列しなかった親族もいる。

 男女の機会不均等が明らかだった時代、気丈で頑固、見識とプライドを誇る「男勝り」(不快表現としてメディアは使わない)の伯母は生きづらかったに違いない。昨年のGWにケアハウスに訪ねた時も、政治からスポーツまで、あれこれ俺に意見を求めてきた。同時に「鳥が見えるやろ、1羽、2羽」と実在しない鳥を数える姿に心が痛んだ。享年92歳。万が一、俺がその年まで生き永らえても、年金制度はとっくに崩壊していて、人生の最期に地獄を味わうはずだ。

 3・11以降、3度目の帰省だったが、前2回と比べて今回は弛緩したムードに包まれていた。3・11直後に法事で帰省した時、俺は死を強く意識していた。生き残ったのは偶然で、震源が数十㌔ずれていれば、東京が津波に襲われた……。首都圏の住民はこんな危機感を共有していた。GWの2度目の帰省の頃にも、スーパーやコンビニの品薄状態は続いていた。米、食パン、各種ペットボトル、納豆、豆腐、おむつ、トイレットパーパーが店内から消え、メディアはこぞって買い占めを諌めていた。

 福島原発の事故を経て、推進派だった研究者や識者が自戒を込めて<転向>を宣言し、東京新聞と週刊現代が旗幟鮮明に<反原発>の論陣を張る。政府、東電、記者クラブの権威は失墜し、放射能汚染の危険性を長年説いてきた小出裕章氏ら良心的な学者やジャーナリストの声に、多くの人が耳を傾けるようになった。弱小ブロガーの俺だが、<棄民>や<大本営発表>という表現を、受け売りでなく先んじる形でブログに記したという自負はある。だが、俺も世間に流され、弛緩していった。

 チェルノブイリがもたらした悲劇を敷衍すれば、福島だけでなく日本中で若い世代が甲状腺がんや白血病に苦しむだろう。だが、安全情報を垂れ流した枝野氏は官房長官から原発を管轄する通産相に横滑りし、山下氏は朝日新聞から賞をもらった。ご両人は<原発複合体>の〝パシリ〟に過ぎないが、正義に反する事態がまかり通っている。3・11は日本再生のスタートラインで、新しいテーゼが掲げられることを期待していたが、7カ月後の今、日本は逆コースに舵を切った。

 初心はどこへやら、民主党政権は基地問題、TPPとアメリカ隷従の度を強めている。霞が関依存も自民党時代と何も変わらない。資本主義は崖っ縁で、貧困と格差は広まる一方なのに、受け皿になるべき社会主義政党が日本に存在しない。絶望的な状況だが、俺は3・11に覚えた悲嘆と高揚を引きずっていきたい。

 ネットサーフィンで数日分の情報を収集し、当稿を書き殴っていたら、3時間パックの終了タイムが迫ってきた。今週末にパソコンが直れば部屋で更新できるが、その前に掃除をしなくてはならない……。これがなかなか骨である。




 




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老いについて感じたこと~京都雑感その一

2011-10-23 14:58:02 | 戯れ言
 亀岡のネットカフェで当稿を更新している。秋華賞では父だったが、昨夜は菊花賞でも夢のお告げがあった。仕事先で右隣に座るO君が、刷り上ったばかりのA版をパラパラめくっていた。俺の担当面を見ながら怪訝な表情を浮かべ、「菊花賞3着ってトーセンラーですよね」と俺に尋ねる。「そうだよ」と返すと、「トーセンレーヴになってますよ」と紙面を指さした。「ギエー」と叫ぶ自分の声で目が覚めた。

 「また来たか」とひとりごち、今回もトーセンラーを買い目に加えることにした。1枠1番というのも秋華賞のキョウワジャンヌと同じである。ちなみにO君は、現在の校閲者に求められる<効率>と<状況判断>を2年のキャリアで身に付けた優秀な青年だ。O君の進歩に最も貢献したのは、何を隠そう、この俺である。反面教師が間近にいることほど好ましい環境はない。彼は俺の与太話や失敗談にも、苦笑しながら耳を傾けてくれる。

 O君は28歳だが、彼の世代が70歳前後になった時、日本はどんな形をしているのか想像すると、暗澹たる気分になる。パソコンを自業自得で壊した後、情報収集やブログ更新のため新宿と代々木のネットカフェに足を運んだ。予想通りネットカフェ難民がいて、ドア下の部分から脱いだスニーカーやヒールがのぞいていた。店によって値段は異なるが7時間滞在で2000円、トイレとシャワー付きで、ソフトドリンク飲み放題、新聞、雑誌、ネットで情報はゲットできるから、お得な設定である。俺が遭遇したのは20~30代とおぼしき男女だったが、彼らを内側に組み込むには、この国は老い過ぎているのかもしれない。深刻な被害を受けた方には申し訳ないが、3・11を新たな出発と捉える向きもあった。ところがこの7カ月、対米隷属、霞が関主導の流れは変わらず、原発推進派が息を吹く返している。

 クチクラ化し、新陳代謝の術を失くすのは老いの症状だ。まさにそれは、俺自身が抱えている問題でもある。俺はどうやら、国と同じペースで棺桶に近づいている。帰省すれば、周りは老いに溢れている。築30年の実家は傾き、時に雨漏りがする。母は死後の計画を練っており、基本になる部分は俺と妹に伝えている。気丈だった伯母は朦朧としたまま病院のベッドに身を横たえ、文化人として名を馳せた叔父はこの10年、一言も発しないまま看護を受けている。死地から甦った妹は俺より物忘れがひどく、義弟は町内の運動会で肉離れになった。猫のポン太も人間でいえば中年になり、目の端に邪さを滲ませている。

 昨日、妹夫婦とともにカラオケに行った。老後ならぬ〝老前〟の3人組ゆえ、歌う曲は黴臭い。俺の場合、聴くのは洋楽ロック、歌えるのは演歌や1970年代のニューミュージックという矛盾を抱えている。驚いたのはDAMの曲揃えで、21世紀の新しい曲は当然として、頭脳警察まで3曲リストに入っている。東京に戻ったらCDで練習し、次の機会に披露したくなった。POGドラフト後の打ち上げの時(4カ月前)にも感じたのだが、俺はマイクを持つと心が揺れてしまう。吉田拓郎の「舞姫」、猫の「僕のエピローグ」、イエローモンキーの「天国旅行」のように愛と死を突き詰めた曲を歌うと、心が一瞬のうちに濡れて、声がかすんでしまうのだ。このメンタリティーも、老いと無縁ではないと思う。

 ザ・フーやミューズも10曲以上リストに載っていたが、俺には敷居が高い。代わりに泉谷しげるの「国旗はためく下に」を歌ったが、35年後の現在にも当てはまる歌詞の先見性に衝撃を受けた。<こんな国、出ちまえ>という泉谷のアジテーションにも聞こえる。今の日本に必要なのは、頭脳警察や泉谷のように、刺さるメッセージを伝えるアーティストたちだと思う。

 読書にいそしむはずが、実家ではポン太と競うように、ゴロゴロ、ダラダラしている。まさに、酔生夢死状態だ。これも一種の<永眠へのリハーサル>かもしれない。


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天罰もプラス思考で~ネットなしで生きていける?

2011-10-20 18:58:51 | 戯れ言
 代々木のネットカフェで当稿を更新している。「どうして代々木で」と訝る方もいるかもしれない。自虐、偽悪、露悪がウリの俺には隠しておけない経緯を、以下に記す。

 俺はもうスケベではない。かつてはそうだったが、50代半ばになって枯れてしまった。とはいえ野次馬根性は衰えず、ネットサーフィン中に地雷を踏んでしまった。アダルトサイトで2度クリックした結果、会員登録済みを告知する画像が、<96時間以内に入金を>というメッセージとともにデスクトップに張り付いてしまったのだ。

 メールアドレスや個人情報が流出したわけではない。この手の業者は警察の監視を恐れて半年ほどで店じまいするから、画像もいずれ消える。職場や家族共有のパソコンならアウトだが、俺の場合、実害はない。

 だが、鬱陶しいこと甚だしい。ネットで検索し、消去方法を記したサイトを幾つも発見する。その通り実行したつもりだったが、画像は消えない。試行錯誤を繰り返すこと3時間、期待ゼロで再起動したら、件の画像が消えているではないか。満足感に浸ったのもつかの間、ネットに接続できず、ワードまで使えない。パソコンが壊れてしまったのだ。自業自得の天罰である。

 俺は重度のネット依存症だ。ニュース、各種イベント、CDや本の発売日、映画上映日時、テレビ番組表、将棋の棋譜、競馬出走表とあらゆる情報をネットに頼っている。PCだけでメールをやりとりしている友人もいるし、方向音痴の俺にはプリントアウトした地図が必需品だ。ブログ更新もPC抜きでありえない。事態に呆然としたが、時間が経つうち、たいしたことでもないと思えてくる。俺は究極のプラス思考で世を渡っているからだ。

 当のPCを購入した近くの電器屋に来週末、修理に来てもらうことにした。明日から1週間ほど京都の実家に帰省し、読書の秋を満喫するつもりでいる。東京に戻ってから旧に復せば事足りるだろう。訪問者のおかげで、汚部屋を掃除する機会に恵まれた。これこそ天罰の副産物である。

 俺が苦手なものは四つある。女性、ギャンブル、酒に機械だ。最初の二つは代理を立てるわけにもいかないが、酒は飲まなければいい。機械についてはこれまで、配線からPCの立ち上げまで必ず業者や知人に頼ってきた。今回もそうすれば事態は悪化せずに済んだが、反省しても手遅れだ。

 今回を含めあと3回、ネットカフェからの更新になる。料金のことも考えると駄文が短くなるから、読者の皆さんには幸いだろう。

 最後に、枠順が確定したばかりの菊花賞の予想を。⑰フレールジャック=福永に期待する。自ら〝マーク屋〟と命名した池添が3冠ジョッキーなるのを、エリート意識の強い福永が座視するはずがない。共倒れ覚悟で何らかの手を打ってくるだろう。血統研究家はディープインパクトを、重厚な欧州の血を受け継ぐステイヤーと見なしている。その点でも、産駒フレールには注目だ。

 
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「明りを灯す人」~ノスタルジックなキルギスの叙事詩

2011-10-18 00:32:03 | 映画、ドラマ
 先週木曜、競馬で初めて正夢を見た。亡き父が出てきて――正確には声だけだが――「キョウワジャンヌが来るで」と階下で母に薦めていた。仕事先でお告げについて話したが、笑われただけだった。俺はジャンヌから馬連で4点流し、まずまずの配当をゲットする。

 数ある逆夢の中でも強烈なのが、1985年6月の札幌日経賞である。<ギャロップダイナが勝って枠連⑧⑧>の夢を信じ、ウインズ後楽園で数千円分の馬券を握りしめていたが、ゲートが開いた瞬間、ギャロップが落馬して紙切れになる。見限った同馬は4カ月後の天皇賞で、シンボリルドルフにトンコロを食らわせた。

 前振りと馬で繋がる映画を「イメージフォーラム」(渋谷)で見た。「明りを灯す人」(10年)の舞台は遊牧民の文化が受け継がれたキルギスの山村だ。アクタン・アリム・クバトが監督、脚本、主演の3役を務めている。

 主人公は「明り屋さん」と村人に親しまれる電気工だ。少年のような純粋さ、信念を貫く頑固さ、権力者への卑屈さを、目の演技で巧みに表現していた。貧しい者のためにメーターを細工する彼は、お上にすれば “The Light Thief“(明り泥棒=原題のサブタイトル)だ。夫を連行する警官に、「本物の犯罪者を捕まえて」と妻のベルメットが訴えていた。

 テレビ画面の集会やデモの様子から、キルギスが政治的混乱に陥っていることが窺える。政権が変わっても独裁は継続され、ウズベキスタンへの越境者も多いという。汚職も深刻で、国も地方もベルメットが言う<本物の犯罪者>に支配されている。

 娘4人の父である明り屋は男の子を切に望んでいる。長老会議に女性の姿はなく、イスラム教国特有の男性優位社会か思いきや、現在の大統領は女性だ。明り屋夫妻の屈託ない会話からも、宗教を超えたキルギス独特の風土が窺える。

 伝統か発展か、共同体か個か、和か効率か、倫理か利潤か……。この対立項は世界共通だが、本作では前者をエセン村長、後者を国会議員候補ベグザットが体現している。明り屋は村長と強い絆で結ばれているが、ベグザットの姻戚にあたるマンスールとは親友だ。

 村長の死後、ベグザットと組んだ明り屋は、電気不足に苦しむ村を救うため、谷間を風力発電機で埋め尽くすという夢を持っていた。金の匂いにつられたベグザットは、明り屋のプランを実現するため中国人の投資家を村に招く。

 エコノミックかつエロチックな〝醜い日本人〟がアジアを闊歩したのは昔の話で、今その席を占めるのは中国人だ。宴席でキルギス人の誇りが汚されるのを黙視できず、明り屋は奔馬の如く怒りを爆発させた。

 小泉八雲が描いた自然への畏怖と憧れが主音になった本作に、ノスタルジーを覚える日本人も多いだろう。壮大な叙事詩に織り込まれた神秘的なカットの数々が、明り屋の心的風景を表していた。

 俺は明り屋のように純粋でも頑固でもない。人々を幸せにしたいという夢もなく、身を賭す勇気も持ち合わせていない。「誰の心にも明りを灯せないのは当然かな」と本作を見終えた後、ため息をついた。
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誕生日は新宿で~「東京を占拠せよ!」に感じたこと

2011-10-15 22:00:44 | 社会、政治
 ライオンズ(NFL)の快進撃が全米中で話題になっている。08年は16戦全敗、09年は2勝14敗とドアマット状態が続いたチームが今季、5連勝と好スタートを切った。MLBでもライオンズがチャンピオンシップ進出と、自動車の街デトロイトはにわかに活気づいている。

 軌を一にして、ビッグ3が復活の狼煙を上げた。その業績アップの割を食ったのがトヨタ、ホンダの日本勢である。ひねくれ者は<見えざる手>の動きを疑ってしまう。<1%のアメリカ>は51番目の州(日本)の富を掠め取り、危機を乗り越えてきたのだから……。

 そんな俺だが、<99%のアメリカ>には親近感を覚えている。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのトム・モレロが、ニューヨークの集会で弾き語りを披露した。10年以上前のことだが、マイケル・ムーアと組んで当地でアンチ金融業界のPV撮影を敢行したレイジは、<ウォール街を占拠せよ!>の先駆け的存在である。

 きょう15日、俺は55歳になった。成熟とは無縁で、高校生の頃と蒼さは変わらない。肉体が衰えた分、純粋になった気もするが、それはきっと錯覚だろう。推定余命は15年、世知辛くなったこの世で、ソフトランディングは難しそうだ。

 父は30年前、55歳だった。当時の55歳は安定した老後が保証されていたが、現在は暗転している。厚生年金支給年齢の引き上げ(68~70歳)が現実になれば、止まり木を失くした日本人は、死ぬまで羽を休められない。奴隷制が21世紀に甦った。

 大震災以降、「どうして日本をこんな国にしてしまったのか」という悔恨に苛まれている。転向した全共闘世代、その姿勢を引き継いだ俺たち(1950年代生まれ)が、この国から<抵抗の力学>を奪ってしまった。だが、希望の光が射し始めている。反原発と反貧困のムーブメントが、世代を超えて浸透しつつあるからだ。

 俺は「反貧困ネットワーク」の会員だが、活動といえば年数回のカンパのみだ。日本の貧困率は今やアメリカと変わらず、自殺者によって頻繁に電車が止まる東京では、地獄の扉は既に開いている。座視するわけにいかないと決意した。

 15日、<東京を占拠せよ!>をスローガンに掲げた集会やデモが幾つか企画され、俺は柏木公園(西新宿)に足を運んだ。参加者は200人前後だったが、今回はあくまで起点である。語られたメッセージに俺はデジャヴを覚えていた。

 70年代後半、<日韓―狭山―三里塚>を同時に闘うのが当たり前だったように、反貧困もまた、単一の課題ではない。反原発、ホームレス支援、反差別、排外主義の克服、反グローバリズムに基づく国際連帯etc……。通底するすべての課題に取り組むべきと発言者は呼び掛けていた。

 そこには真実しかなく、一分の誤りもないが、俺は熱い空気から遮断され、孤立と疎外を味わっていた。それは恐らく〝階級的違和感〟のせいだろう。将来はともかく俺は〝恵まれた非正規労働者〟で、日常的な活動にも携わっていない。あの場ではアウトサイダーだったのだ。

 デモ出発直前、主催者は<東京から革命を!>とアジテーションし、<パレスチナと連帯するぞ>と続けた。メッセージは完全に正しいが、共に拳を突き上げる資格が俺にないことを悟る。自らの誠実さを守るべく、デモに参加しないで家路に就いた。

 別稿(3月25日)で尾崎豊の「卒業」になぞらえ、以下のように記した。

 <日本人は〝仕組まれた自由〟に馴らされ、コントロールされている。俺もまた〝かよわき子羊〟ゆえ、石を投げる勇気はないが、窓が割れたことぐらい伝えられる。当ブログも一つの手段だ>……

 自らを活動家ではなく傍観者と規定する姿勢は、卑怯の謗りを逃れない。それでも俺は、読者の誰かが触発されることを願って、<石を投げる者>の勇気と覚悟を伝えていきたい。それが俺にとっての誠実さなのだから……。
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ビョーク&PJ~<境界線の音>を奏でる魔女の輝き

2011-10-13 01:46:40 | 音楽
 ニューヨーク発の<反資本主義デモ>が英国にも波及した。貧困と格差は是正されるべきだが、ロックを育てる養分であることは証明済みだ。パンクもグランジもヒップホップも、喘ぎと抵抗を母に産声を上げ、世界を揺さぶった。

 妙に静かなアジアの片隅で、俺もまた変化の兆しを心待ちしている。とはいえ体力の衰えは甚だしく、部屋で<境界線の音>に浸る日々だ。今回はビョークの新作「バイオフィリア」と、PJハーヴェイのブートDVD「ライブ・アット・オリンピア」について記したい。

 この2人には共通点が幾つかある。PJは91年、ビョークはシュガーキューブスを経て93年とデビュー時期が近い。ともに衝撃的にシーンに現れ、40代になった今も新鮮さを失わない。ロックの常識を超えた魔女といえるだろう。ビョークは政治的な発言で、PJはスキャンダラスな行動で世を騒がせたが、ピュアで潔癖な佇まいは変わらない。

 エスニックなムードも両者共通だ。ビョークを最初に見た時、「日本人?」と俺は目をパチクリさせた。外見だけでなく、ビョークの日本に対するこだわりはウィキペディアにも詳述されている。一方のPJは、アラブもしくはロマのDNAを受け継いでいるのではないか。

 そんな2人が今年、<境界線の音>を志向するアルバムを発表した。PJの「レット・イングランド・シェイク」を聴いた時点で'11ベストアルバムは決まりと思ったが、「バイオフィリア」も匹敵する傑作だ。ビョークは二の矢も用意している。俺一押しのNY派、ダーティー・プロジェクターズとのコラボ「マウンテン・ウィッテンベルク・オルカ」が来月ようやく日の目を見るのだ。

 寡作といえるビュークは、革新性を義務付けられている。その点では、<ある時代の前衛は次世代のメーンストリームになる>の格言を地で行ったトーキング・ヘッズに近いが、ビョークは評価だけでなく売れること、フェスでヘッドライナーを務めることも求められている。プレッシャーと闘いながら常に期待を超えるビョークの才能には驚くしかない。

 「バイオフィリア」は<自然+テクノロジー+音楽の融合>と銘打たれているが、宣伝文句はどうでもいい。憂いに満ちたダウナーなトーンが心地よく、ビョークの静謐な叫びが心を打つ。ピーター・ハミルがMIDIオペレーターと制作した「アンド・クロース・アズ・ディス」(87年)に重なる本作は、テクノロジーが時に、情念を浮き彫りにすることを教えてくれる。肉声によって境界線を超えたビョークは、俺を異次元に誘ってくれた。
 
 一方のPJハーヴェイはデビュー当時、〝傷だらけの痛い女〟がウリだった。NME誌の表紙をトップレスで飾るなど、エキセントリックで赤裸々だったPJだが、20年後の今、自然体でシーンのトップを走っている。

 オリンピア公演のオープニングで、PJはハープを手にステージに立つ。先入観なしだと、長い黒髪を束ねたPJはワールドミュージックの歌姫に見えるだろう。アジアや中近東の雑踏から聞こえてきそうなアコースティックで祝祭的な音を、おじさんバンドと体を揺らしながら奏でていく。彼女の中で煮えたぎっていた混沌は坩堝で昇華されたのか、水蒸気のような清浄さが会場を包んでいた。

 PJが来日しても、会場は1000人前後のキャパだろう。チケットが取れたら、2階席でまったりライブを楽しみたい。

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「響かせあおう 死刑廃止の声2011」に参加して

2011-10-10 03:08:23 | 社会、政治
 一昨日(8日)、世界死刑廃止デー企画「響かせあおう 死刑廃止の声2011」(牛込箪笥区民ホール)に、大学時代の先輩Kさん(出版社勤務)とともに足を運んだ。

 二つの問いを抱えて集会に臨んだ。第一は、<日本人はなぜ死刑に固執するのか>である。欧州ではベラルーシ以外が死刑を廃止し、米国でも16州が執行停止状態にある。憲法9条を守る〝優しい日本人〟だが、80%以上が死刑制度存置を支持し、裁判員制度導入後、死刑求刑は8例に及んだ。辺見庸氏の講演に触れ、答えを導く微かな光が彼方に射すのを覚えた。

 第二は、<3・11と死刑の関連>だ。ヤツコ米原子力規制委委員長の言葉を借りるまでもなく、福島原発事故は明らかな人災だ。ならば、原発を推進した政官財の複合体、事故後に「放射能は大丈夫」を繰り返した枝野前官房長官は、何らかの罪に問われるべきだろう。

 ところが枝野氏は経産相に横滑りし、野田首相は外遊中に原発再稼働を示唆した。九電社長は辞意を撤回し、青森では民主党が原発推進の先頭に立っている。<罪を悔いて反省し、償い購うという人間的な道筋を失くした国に死刑を宣告する資格はない>というのが、集会に参加した上での結論である。

 5時間に及ぶ長丁場は、「死刑はそれでも必要なのか――3・11の奈落からかんがえる」と題された辺見庸氏の講演、死刑囚(86人)の声を伝える報告会、大道寺幸子基金に寄せられた死刑囚の作品(文芸、絵画など)の合評会の3部構成だったが、悪い予感は的中する。辺見氏の講演が終わるや、会の趣旨を理解していない多くの人が席を立つ。辺見氏がそのことを知れば憤りを覚えるはずだ。

 進行とは異なるが、2部⇒3部⇒1部の順で記していく。まずは死刑囚の肉声から。直筆がスクリーンに写し出され、要諦が朗読される。執行への怯え、死刑制度への疑義、諦念、慟哭、環境改善の要求など様々な声が伝えられたが、冤罪を主張する者の多さに驚かされた。俺の胸に染みたのは井上嘉浩死刑囚の一文で、少年時代と現在をカエルの鳴き声で繋ぎ、オウム入信の経緯や悔悛の情が淡々と綴られていた。

 第3部では基金選考委員を務める太田昌国、加賀乙彦、北川フラム、池田浩士、川村湊、坂上香の各氏に香山リカ氏がゲストとして加わり、死刑囚の作品を合評した。制限された条件で創作されたことを考慮しつつも、<表現者>として高いレベルを求める厳しい言葉が相次いだ。評価が高かったのは北村孝紘死刑囚のテルテル坊主に絞首刑を重ねた絵画で、グサリと心に刺さってくる。

 話は逸れるが、選考委員のひとりである池田氏の著書「闇の文化史」(80年)は、俺にとって物事を測る基準となった。この集会をきっかけに、西洋近現代史、哲学、天皇制、死刑と多岐にわたる〝反骨の知識人〟の著書を読みたくなった。

 辺見氏の90分の講演については、自分なりに消化したものを簡潔に記したい。3・11は辺見氏にとって<神話的破壊>であり、表現する術を失くした<内面の初期化>だった。恩師の記憶を辿り、あたかも旧に復することが可能であるかのような<ナショナルヒストリー>を排し、「個として思い、葛藤せよ」と訴える。

 日本人は3・11以前に既にリアリティーを失い、複製と幻影を追っていたのではないかと辺見氏は語る。時間的連続性は失われ、倫理観と産業的構造が壊れた現在の日本は、〝板戸一枚下は地獄〟状態だ。内部被曝は福島のみならず全国の若い世代を苦しめ、貧困と格差はより激しい形で表れるだろう。

 <夥しい死と喪失が進行し、明日にでも崩壊する社会で死刑判決を下すことは、英明だろうか、それとも愚劣だろうか>と辺見氏は問う。愚劣な行為(死刑)を支えているのは、<死を生に織り込む>日本人のセンチメント(情緒)と指摘する。

 俺も齢を重ねるにつれこのセンチメントが濃くなっているが、辺見氏が問題にするのは政治利用だ。民衆の命など一顧だにせぬ棄民国家は、<戦争や災害による死=神聖>と位置付け、<汚らわしいと存在=死刑囚>を対置する。第3部で香山氏は、<善と悪>、<白と黒>に物事を峻別する<社会病理=スピリッティング>がメディアに蔓延していると語っていた。俺は両氏の言葉に通底するものを感じた。

 辺見氏は堀田善衛の「方丈記私記」を引用し、<流れに身を任せてきた日本人は、意識的に歴史をつくってこなかった>とペシミスティックに論じていた。だからこそ、死は生の中枢に据えられ、諦念と恬淡が美徳とされる。3・11以降、俺はカズオ・イシグロの小説に違和感を覚えたが、辺見氏の言葉で腑に落ちた。

 辺見氏は講演の最後に、交流のある大道寺将司死刑囚が震災後に詠んだ句<くらやみの いんえいきざむ はつぼたる>を紹介する。同死刑囚の句集「鴉の目」については別稿(07年3月17日の稿)に記した。辺見氏は同死刑囚を<日本語の最高の表現者>と絶賛している。

 同死刑囚は40年近く蛍を見ていない。幻の蛍は放射能に汚された福島を舞っていたのだろうか。それは、絶望の、いや、希望の徴だったのか。想像力を掻き立てる句である。「思うこととは即ち生きていること。こんな人を殺していいのだろうか」と辺見氏は言葉を結んだ。

 俺が辺見氏から得た最大の教訓は<アイ・スタンド・アローン>だ。孤立しようが、底が浅いと嗤われようが、俺は思い、感じたことをこのブログに記している。それが俺にとって、生きている証明なのだから……。


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「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」~ポップで味わい深い物語

2011-10-07 01:14:44 | 読書
 「響かせ合おう死刑廃止の声2011」(8日)に向け、死刑について思いを巡らせている。先日オンエアされた「死刑基準」(WOWOW)は、考えるヒントとなるドラマだった。死刑廃止運動の先頭に立つ大伴弁護士(小澤征悦)を悲劇が襲う。身重の妻を殺され、自ら関わった裁判の関係者が逮捕されたのだ。

 理念と感情の狭間で苦悩する大伴、恩師や友人との葛藤、どんでん返しの法廷劇、俗情と結託するメディア……。見どころ満載だったが、肝になっていたのは身を賭した検事と老刑事が暴く<絶対悪=警察&検察>だった。死刑とは、冤罪を作り出す構造の上に成立している。

 読書の秋、ポップで味わい深い小説に出合った。作者ジュノ・ディアスの半生とシンクロした「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」(新潮社)である。北米文学の精緻なドラマツルギーと南米文学のマジックリアリズムの融合によって、ケミストリーが爆発した。

 主人公のオスカーはドミニカ系アメリカ人だが、<恋に生きる奔放なドミニカン>のステレオタイプと対極に位置する。いや、恋愛体質ではあるけれど、100㌔は優に超える体形と不器用さが災いして恋人ができない。完璧なオタクといえるオスカーは、現実と非現実の混濁した境界線を彷徨っている。

 本作と色調が近いのは、エコー&ザ・バニーメンの「キリング・ムーン」が扉を開ける「トニー・ダーコ」(01年)だ。「オスカー・ワオ――」では主人公と姉ロラを含め、登場人物の多くはUKニューウェーヴの信奉者だ。ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、スージー&ザ・バンシーズ、スミス、そしてキュアーへのオマージュが行間に滲んでいる。

 ストーリーは時空を超えドミニカとアメリカを行き来するが、第三の核は日本だ。SF、コミック、アニメ、ロールプレイングゲームに溺れるオスカーにとって、日本は聖地なのだ。「AKIRA」と映画「復活の日」(小松左京原作)について繰り返し言及される。

 自嘲的なユーモアがちりばめられた斬新な物語は、複層的な構成によって深みを増していく。姉ロラ、大学寮のルームメートであるユニオールの主観で、客観的なオスカー像が炙り出される。時代は遡り、ドミニカ近現代史の悲劇に曝されたオスカー一族の来し方が、母ベリ、祖母ラ・インカらの視点で語られる。縦軸と横軸に据えることで、オスカーの滑稽でユニークな個性がリアリティーを持つ。

 歴史に育まれたドミニカ人のアメリカ、プエルトリコ、キューバとの距離感も興味深かった。当地の呪術的な風土、野球への愛着、人々の気質、文化的背景を知ることが出来たのも収穫である。

 社会的不適応者、いじめられっ子、引きこもり、異形、落伍者……。これらすべてを兼ね備えるオスカーは、タイトル通り短く凄まじい人生の幕を閉じる。傷と痛みを知るからこそ包容力と寛容さを身に付けた年上の女性と出会い、誇り高きドミニカ人として恋に死ぬ。

 俺は54年をダラダラ過ごしてきた。余命は恐らく15年足らず……。オスカーのように人生の最後、素敵な恋に落ちてみたいが、この願いは夢で終わりそうだ。


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凱旋門賞とラスベガス~聖地で明暗分けた日本勢

2011-10-04 00:52:41 | スポーツ
 「ウォール街を占拠せよ」のスローガンがニューヨークから全米各地に波及している。この春、<闘う市民>を掲げて反組合法ムーブメントの中心にいたマイケル・ムーアだが、「金持ちは駄目」とデモ参加を断られたという。

 背景にあるのは深刻な格差と貧困だ。資本主義独裁国家にも階級意識が浸透しつつあるが、間口を狭めてはいけない。チョムスキーやムーアら〝ラディカルなブルジョワ層〟の影響力を利用することで、運動の裾野は広がっていくのだから……。

<追記>最初は断られたムーアだが合流したようだ。ムーアといえば、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンと組んでウォール街で撮影した過激なPVでも知られている。

 世の中は騒々しいが、大半のアメリカ人は政治よりスポーツに夢中になっているはずだ。旧聞に属するが、ア・リーグ東地区のフィナーレは劇的だった。同率2位のレッドソックスはサヨナラ負け。一方のレイズは同時間帯にヤンキースと戦い、0対7から延長12回サヨナラ勝ちでプレーオフに進出した。

 「ロックアウトの影響でファンダメンタル(底力)が試されるシーズンになる」とのアナリストの予想に反し、NFLは下剋上の様相を呈している。ドアマット状態が続くライオンズとビルズが3連勝で地区首位に立った。レイダース、ブラウンズ、タイタンズ、レッドスキンズ、49ersら下馬評の低いチームも好スタートを切り、序盤から目が離せない。

 日本時間2日、2頭のサラブレッドと1人のボクサーが聖地でスポットライトを浴びた。ナカヤマフェスタとヒルノダムールはロンシャン競馬場で凱旋門賞に、西岡利晃(帝拳)はラスベガスでWBCスーパーバンタム級防衛戦に挑む。ヒルノは10着、フェスタは11着に敗れたが、西岡は3―0の判定でV7を達成した。明暗くっきりの結果である。

 凱旋門賞の走破タイムは2分24秒49のレコードで、昨年より10秒以上速かった。主催者は昨年覇者ワークフォース陣営の「水をまけ」という要求をのんだものの、効果はなく硬い馬場でのレースになる。この時点でフェスタの苦戦は予想できたが、ワークフォースも12着に終わる。斤量を勘案すると3歳優勢は明らかで、今年のコンディションでオルフェーヴルが出走したら、上位に食い込めたはずだ。

 <スピード勝負なら牝馬>は世界共通なのか、1~3着を独占した。1着デインドリームは社台の吉田照哉代表が所有権の半分を買い、3着スノーフェアリーは昨年のエリザベス女王杯馬である。揃ってジャパンCに参戦してほしいが、最近の流れだと香港ヴァーズになってしまうのか。

 日本選手がMGMグランドのメーンイベントで闘うだけでも歴史的快挙だが、対戦相手は世界に名を轟かすラファエル・マルケスだ。2階級制覇を成し遂げたマルケスは、バスケスとの壮絶な4戦で生ける伝説になっている。海外の専門誌は西岡をクラスNO・1に評価しているが、本場で強打者相手となると勝手は違い、乱戦に巻き込まれてしまうのでは……。試合前、そんな不安がよぎった。

 予想に反し、将棋の駒組みのように緻密に間合いを測る序盤になった。ほぐれてくるや、西岡のパンチによってマルケスの圧力が落ちていく。後半は一方的にペースを握り、マルケスを封じ込んだ。スピードキングと称される西岡だが、ディフェンスの確かさこそ世界王者の条件であることを思い知らされた。

 挫折が転落に繋がるケースが多いボクシング界では異例だが、西岡は4度の挑戦失敗(引き分け2回)を糧に、35歳の現在も進化を続けている。優秀なスタッフと国際的ネットワークを誇る帝拳の力によるところも大きいと思う。

 分野を問わず、才能に溢れ志が高い者は<場>を正しく選ぶこと……。これこそ西岡が与えてくれる最大の教訓ではないか。




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