酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「国家、人間 あるいは狂気についてのノート」~辺見庸が抉る正気と狂気のあわい

2013-03-30 14:22:04 | 読書
 中野通りで先日、ウオーキング花見と洒落てみたが、以前の濃密さは感じなかった。梶井基次郎や坂口安吾の小説、井上陽水やイエロー・モンキーの曲に、桜は狂気の象徴として描かれていたが、東日本大震災後、空気は変わる。狂気は既に社会に蔓延し、正気を駆逐する勢いだ。

 なんて偉そうに書いてみたが、狂いつつあるのは、社会ではなく俺の方かもしれない。淡々と伝えられるニュースに違和感を覚える〝孤独な狂者〟の拠りどころは、2月に発刊された辺見庸の「国家、人間 あるいは狂気についてのノート」である。

 メーンに据えられた鵜飼哲との対談を読み解くためのテキストとして、既出の評論、詩文集「生首」と「眼の海」からの抜粋に書き下ろしを加え、再構成する形を採っている。テーマは多岐にわたるが、咀嚼できていない辺見の言葉を書き散らすのは無意味だ。当稿では自分の経験や感覚に照らす形で、狂気について記すことにする。

 まずは、俺が<社会の狂気>と捉える事例を、以下に挙げてみる。

 5月に映画「俺俺」が公開されるが、原作者の星野智幸は情況に最もビビッドな表現者だ。昨年の総選挙直後、星野は右傾化に警鐘を鳴らした。<これからは〝密告〟と〝狩り〟がはびこるだろう。自分の苦痛を行き渡らせたい衝動だ>というツィートは案の定〝狩り〟の対象になったが、もう一つの危惧も現実になる。小野市で成立した「生活保護通報条例」に賛成した議員たち(16人中15人)の正気を疑った。ネットでは既に主流になっている密告と相互監視が、いずれ社会の基調になる可能性が高い。

 「放射能は大丈夫」を繰り返した山下俊一氏の言動に狂いを見るのは少数派だ。山下氏は福島原発事故直後、民主党が承認する形で県放射能アドバイザーに就任し、その夏には「朝日がん大賞」を受賞している。山下氏は政権と朝日新聞から<正気>のお墨付きを得た。ならば、映画「希望の国」の主人公のように放射能に怯える者は<狂人>ということになる。

 仕事先の夕刊紙の株面に、俺は時々狂いを見る。「原発輸出は実績のある日本にとってビジネスチャンス」と説く記事に、「実績って、福島?」とツッコミたくなる。「リストラを進める企業の株を買え」と<1%>に与する経済評論家は主張している。いずれ地獄を見るのにアベノミクスに沸く<99%>は、果たして正気を保っているのだろうか。

 辺見は鵜飼との対談で、早大で講師を務めた時の体験を語っている。最初の授業の日、「構内での反社会的活動を禁ずる」と書かれた看板に迎えられ、<僕に言っているのか>と感じたという。辺見が最大の敬意を払う表現者は、三菱重工爆破と昭和天皇暗殺未遂で起訴された死刑囚の俳人、大道寺将司だ。辺見は自らの<反社会性>を十分に自覚している。

 「なぜガザ住民は封鎖・大量殺害されるのか」と題された緊急報告会(明大)に足を運んだ時、俺は大学の不気味さに気付いた(08年3月の稿)。カルトの施設名のような「リバティータワー」の壁に、「宗教団体、悪徳商法、政治セクトは親しみやすい仮面で近づいてきます。不審に思ったら学生課に一報を」と記されていた。

 早大の看板、明大のビラを当然と受け止める人こそ、<正気>なのだろう。辺見と俺が共有した違和感が<狂いの証し>なら、むしろ光栄だ。辺見は学生相手に熱心に語りかけたが、言葉はまるで響かなかった。「水の透視画法」で<コーティングされた狂気が、あたかも正気ぶって、とうにここにやってきている>(要旨)と記しているが、大学という〝仮想の温室〟で辺見が見たのは〝コーティングされた狂気〟だったに相違ない。

 第3章「口中の闇あるいは罪と恥辱について」で、石井部隊を俎上に載せていた。<しごく正気の殺戮>の過程で、医師やスタッフは<ルーティンをこなすときの沈着、平静、恬然とした空気>を失わず、誰も自らの狂気を自覚していない。俺はその場面に、教室でのいじめや大企業の追い出し部屋の光景を重ねてしまう。

 辺見は本作で、正気と狂気のあわいに立つ自身の現状を明かしている。今年1月に発表した小説「青い花」を<狂者の譫言>と評し、<狂気がどんなものなのかわからなくなった現在を、狂者の錯乱した暗視界の奥から視かえす>と結んでいた。辺見の情念と憤怒のベクトルは自らの内を抉った後、血が付着した切っ先を外に向ける。だからこそ、比類なき説得力を誇っているのだ。

 狂気は沈黙の中で胚胎し、含み笑いや目配せの形で滲み出る……。俺は狂気にこんなイメージを抱いている。従順な小羊の群れが囲い込まれ、いずれ柵に火が放たれる。人々を正気に戻すのは、KYと疎んじられる空気を読めない、いや、空気を読まない者たちだ。壁を壊す突破者は登場するだろうか。
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「ザ・マスター」~欧風テイストのコクと手触り

2013-03-27 23:46:56 | 映画、ドラマ
 日本代表はアウエーでヨルダンに敗れ、W杯出場決定はならなかった。辛辣なメディアもあるが、ピッチに魔物が棲むことを知るサッカー通は総じて冷静だ。フリット率いるオランダ、カントナ率いるフランスもかつて、格下チームに苦杯を喫して本大会出場を逃している。段違いの得点力を持たない以上、日本チームに何が起きても驚くことはない。

 統制や情報管理といえば北朝鮮や中国を連想するが、真綿で首を絞めるような洗脳、マインドコントロールは先進国の得意技だ。アメリカのテレビ局は、隣国カナダの優れた医療保険制度を<社会主義的で劣悪>と国民に信じ込ませた。<3・11>後に日本で何が起きたかは、皆さんがご存じの通りである。

 安倍首相は前任時、若い記者にまで見下されていた。現在の高支持率は、〝日本のゲッベルス〟世耕弘成氏率いるメディア担当チームが仕掛けたイメージ戦略のおかげと揶揄する声もある。そもそもメディアは、政財界の玩具なのだ。<1%>が潤うアベノミクスに、<99%>まで浮き浮きしているから不思議で仕方ない。

 新宿で先週、「ザ・マスター」(ポール・トーマス・アンダーソン監督、12年/米)を見た。モデルはトム・クルーズやベックなど著名な俳優や歌手を会員に抱える「サイエントロジー」だ。洗脳とマインドコントールがテーマという先入観に囚われていたが、見終えた印象は〝ヒューマンドラマ〟である。

 製作サイドが意図的に説明を省き、見る側に委ねた部分もある。ネット上では「訳がわからず眠くなった」といった感想も書き込まれていたが、俺は珍しくクリアで、〝カット部分〟を想像しつつストーリーを追っていた。ネタバレもあるので、見る予定のある方は飛ばし読みしてほしい。

 主人公のフレディ(ホアキン・フェニックス)は太平洋戦争終結後、軍の施設で心身の不調を訴えていた。ポートレートカメラマンとして社会復帰したが、暴力的資質と深酒が相俟って転落していく。セーフティーネットはマスターことランカスター・トッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)とその信者たちが集う船だった。教団名はザ・コーズである。

 マスターとフレディは、威厳のある父と自分を抑え切れない未熟な息子という図式だ。マスターはフレディに暗示をかけるが、両者を結び付けるのは儀式ではない。フレディの手による密造酒?をうまそうに飲み干すマスターは、支配者というイメージから遠かった。側近になったフレディに嫉妬を覚えたのか、マスターの妻スー(エイミー・アダムス)が横槍を入れてくる。

 マスターは感情を制御できないフレディの更生に手を尽くす。やがて、父子の相克から微妙な三角関係へと軸は移行し、フェニックス、ホフマン、アダムスの3人の演技合戦は見どころ十分だ。フレディは内なる荒野を彷徨うアメリカ人の一類型で、飼い慣らせない野生を秘めている。荒涼とした砂漠、オートバイを駆ってマスターの元を去るシーンが印象的だった。

 ロンドンで再会した時、フレディは老け、マスターは若返ったように見えた。成長期に必要だったフレディの荒々しさも、成功を収めた教団には無用となる。マスターは前世からの不変の友情をフレディに語り、二人は対等の関係で決別する。

 終戦直後のカウンセリングでは、フレディの脳内はピンク色だったが、ニューヨークでの美女との経緯に、性的不能が仄めかされていた。少女とのプラトニックラブに引きずられていたが、ラストではどこにでもいるような熟女に癒やされている。教団内を含め女性たちとの関係にも、フレディの心象が表現されているはずだ。

 不思議な手触りにロマンチックな彩りを添えたのが、ジョニー・グリーンウッド(レディオヘッド)によるロマンチックなサントラで、フレディの激情と孤独にマッチしていた。もう一度見たら、感想も変わってくるだろう。コクのある欧風テイストの作品だった。
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「シュガーマン 奇跡に愛された男」~高貴な生き様に魂を揺さぶられて

2013-03-24 22:41:01 | 映画、ドラマ
 堀潤アナがNHKを退局し、ネットでの情報発信を目指すという。東日本大震災以降、ツイッターで再稼働を批判し、アメリカ留学中に福島原発事故をテーマに据えたドキュメンタリーを製作するなど、堀アナは反原発の旗幟を鮮明にしていた。茨の道を選んだ気概を称えたい。

 デヴィッド・ボウイの10年ぶりの新作「ザ・ネクスト・デイ」が音楽界の話題を独占している。前衛性、芸術性とポップを融合させたボウイはロック史上、最も影響力のあるアーティストだが、既に66歳。さほど期待していなかったが、時代に媚びず、自分を貫いたアルバムに仕上がっている。聴く者を異世界に誘う魔力は健在だった。

 ボウイのセールス(初登場2位)をチェックしたついでにビルボード200を眺めていたら、思わぬ発見があった。1970年に発表されたロドリゲスの1stアルバム「コールドファクト」が121位(最高78位、チャートイン12週)、「シュガーマン 奇跡に愛された男」(12年、マリク・ベンジェルール監督)のサントラが164位(同76位、同13週)にランクインしている。

 有楽町で先日、「シュガーマン――」を見た。才能を絶賛されたロドリゲスだが全く売れず、無名のまま73年、シーンから消える。本作は忘れ去られたシンガーの実像に迫ったドキュメンタリーで、アカデミー賞など世界の映画祭を席巻した。

 アメリカ人は誰もロドリゲスを知らないが、南アフリカではエルヴィス・プレスリーやローリング・ストーンズを超える存在であることが冒頭で示された。これって、壮大なドッキリカメラ? 騙されんぞ……。身構えた俺に、真実が次々に突き付けられる。ある女性がロドリゲスのアルバムを携えて南アに暮らす恋人を訪れたのが、〝伝来〟のきっかけらしい。

 音楽は時に世相とリンクする。「風に吹かれて」(ボブ・ディラン)は公民権運動のテーマ曲になった。「アカシアの雨がやむとき」(西田佐知子)は作詞者(水木かおる)の意図を超え、安保闘争敗北後の虚脱感を共有する者のアンセムになる。ロドリゲスの曲は、南アで両方の役割を果たしていた。

 70年代の南アはアパルトヘイトが徹底し、黒人だけでなく異を唱える白人も弾圧の対象になった。閉塞感と挫折感に苛まれた改革派の白人層に、ロドリゲスの曲は浸透していく。当局はレコードを傷つけ〝危険な曲〟を聴けないよう処置したが、カセットテープで行き渡ったロドリゲスの曲は80年代以降、反アパルトヘイトのシンボルになった。

 観賞後、映画館でサントラを購入した。70年代前半の傑作、ニール・ヤングの「ハーヴェスト」、ジェームス・テイラーの「スイート・ベイビー・ジェイムス」、ジョニ・ミッチェルの「ブルー」と聴き比べたが、メロディーもメッセージ性も遜色ない。「ボブ・ディランを重くした感じ」という音楽関係者の評は的を射ており、ジャンキー、失業者、娼婦、スラムの住人、ベトナムで犬死にする兵士、失恋男が詞に登場する。ロドリゲスは〝奇跡的に売れなかった歌手〟といえるだろう。

 南アでは<ロドリゲスはステージで自殺した>と信じられていた。90年代後半、熱烈なファンのレコード店経営者とジャーナリストが、ロドリゲスの現在を探るためHPを立ち上げる。万策尽きた頃、突破口が開く。「父はデトロイトで生きてます」と実の娘の書き込みがあったのだ。

 この辺りから、客席で鼻をすする音が漏れ始める。俺もまた、ハンカチで頬を拭っていた。涙の成分は、ロドリゲスの高貴さだ。スタッフが訪れたのは90年代後半だが、自分が南アで支持されているなんて露知らぬロドリゲスは、デビュー前から現在まで一貫して建設現場や工場で働いている。労働者であることに誇りを持っており、知人は「最もハードな仕事を率先してこなしてきた」と証言していた。<99%>のために市長選に立候補するなど、社会とも積極的に関わっている。

 ロドリゲスは公演のため南アを訪れる。大騒動は予想通りだったが、驚かされたのは自然体だ。酒場で観客に背を向けて歌っていたように、シャイなロドリゲスは歌手時代、プロモーションが嫌いだった。フェイドアウトして四半世紀、数千人が埋め尽くすアリーナが本来の居場所であるかのように、ロドリゲスは堂々と振る舞っていた。

 ロドリゲスがパティ・スミスのようにギター一本抱えて、ニューヨークに移住していたら、果たして成功しただろうか……。こんな想像をしてみたが、答えは「ノー」だ。ヒスパニックのブルーカラーは、良くも悪くもNYのスノッブな雰囲気に馴染めなかっただろう。

 「今日はありがとう。おまえも俺にありがとうを言って、それが終わったら忘れよう。捨てちまえ」……。サントラはロドリゲスの台詞で締められている。まさに本物のパンクだ。南アでの30回の公演はすべてソールドアウトだったが、収益は仲間や家族に贈られた。金銭に無頓着なロドリゲスは今も以前と同じように働き、質素に暮らしている。高貴な生き様に魂を揺さぶられる奇跡の作品は、個人的に'13ベストワン候補だ。

 
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「静かな大地」~池澤夏樹が描く壮大な滅び

2013-03-21 22:37:49 | 読書
 18日付の毎日新聞で<ヘイトスピーチ>なる存在を知った。東京で開催された外国人排斥を訴えるデモで、過激な文言が飛び交ったという。アメリカには隷属、アジア諸国には居丈高、中間はなしという二進法的思考が、この国を席巻している。

 俺はといえばファジーが大好きで、十進法的思考が満載の落語にハマっている。先日も紀伊國屋寄席で柳亭市馬、五街道雲助ら手練れの芸を堪能した。最大の発見は真打ちに昇進したばかりの古今亭文菊だ。いずれ落語界を背負って立つ予感がする。

 二進法的思考が蔓延する理由のひとつは、日本人の文学離れではないか。文学の後味は、割り切れなさやもどかしさだ。読み終えたばかりの「静かな大地」(池澤夏樹、04年/朝日文庫)もまた、様々な感情を心の底から呼び覚ます作品だった。池澤については既に数回、当ブログで紹介している。父福永武彦の小説は〝思春期のバイブル〟だったが、息子の作品は〝黄昏時の友〟になりつつある。

 世界文学全集(河出書房新社)の責任編集を担当した池澤は、<文学の世界標準>を把握している。「マシアス・ギリの失脚」(93年)にはアップダイクの影響が窺えた。「花を運ぶ妹」(00年)は辺見庸のいう<視差>――内と外から日本を捉える――を踏まえた作品といえる。「すばらしい新世界」(00年)では自然と文明を見据え、脱原発を明確に打ち出していた。

 池澤は冒頭の<ヘイトスピーチ>と対極の<緩やかなアイデンティティー>を志向している。アイヌの少年ジンを主人公に据えた「氷山の南」(12年)では、<人種や宗教といった独自性を止揚する試み>がシンディバード号で展開する。「氷山の南」は「静かな大地」の延長線上に位置する作品といえるだろう。

 「静かな大地」の語り部は宗方由良という女性だ。武士だった宗方家は明治維新後、淡路島から北海道に移住する。開拓とは体のいい大義名分で、実質は棄民だ。由良の父志郎と伯父の三郎も幼い頃、家族とともに静内にやってくる。父に繰り返し聞かされた伯父の生き様に感銘を覚えた由良は、独自の取材を重ね「宗方三郎伝」を書き始めた。

 三郎は和人とアイヌの垣根を全く感じていなかった。「氷山の南」のジンのように、アイヌは感応力に秀でている。三郎は<自然と調和すること=大人になる>という価値観を共有し、オシアンクルやシトナと交流する。札幌の農学校で外国人教師から農業の先端技術、共同作業の精神を学んだ三郎は、静内で農園と牧場の経営に着手した。

 バッタの大群の襲来など想定外の試練に挫けそうになるが、三郎は自身の才覚とアイヌの経験で難局を切り抜ける。だが、三郎の真の敵は自然ではなく、和人の偏見と明治政府の方針だった。アイヌは〝化外の民〟と見做され、政府は男女を分断して血を根絶やしにするジェノサイドを推し進める。アイヌ名は奪われ、オシアンクルは秋山五郎、シトナは音江兼作が戸籍名になった。

 1938年に「宗方三郎伝」が完成するという設定に、池澤の意図を感じた。日本政府は翌年、朝鮮半島で創氏改名を断行し、アイヌへの過酷な対応はアジア全域に拡大していく。池澤は「花を運ぶ妹」で、「覚えている日本語は人間の尊厳を否定する罵倒だけ」(要旨)と戦時を知るインドネシア人に語らせていた。

 名馬の生産者として軍からも一目置かれるようになった宗方牧場に、魔の手が伸びる。日本を私物化した薩長閥で最も悪名高いのが黒田清隆で、その配下が牧場乗っ取りを企む。最後までアイヌの側に立つ覚悟を決めていた三郎だが、個人的な不幸もあり、壊れ、狂い始める。いや、和人の差別意識と嫉妬、国家の狂気と見境のない欲望が、三郎を壊し、狂わせたのだ。緩やかに進行する滅びに、目が潤むのを抑え切れなかった。涙の成分は罪の意識と恥の意識だが、それがどこから湧いてきたのか自分でもわからない。

 <アイヌは言葉の民>と本作に繰り返し記されている。差異を克服するため議論を重ね、決まったことには従うという姿勢は、二進法的思考と真逆だ。自然と対話し、生きとし生けるものを貴び、調和する……。俺がこれまで<日本的>と思い込んでいた柔らかな感性は、実は<アイヌ的>だったのかもしれない。

 読了後、積読本からアイヌをテーマに据えた「蝦夷地別件」全3巻(船戸与一、新潮文庫)をピックアップする。併せて、池澤が巻頭で「タイトルの借用をお許しくださった」と謝意を述べている花崎皐平の著作を購入した。ともに年内に読むつもりでいる。
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「ある海辺の詩人」~記憶に残る水彩画集

2013-03-18 23:40:02 | 映画、ドラマ
 ゲバラは来日時、広島の原爆資料館と原爆病院を訪れ、「これほど酷い目に遭いながら。日本人はなぜアメリカの言いなりになっているのか」と気色ばんだ。ナショナリズムの根幹に関わる問いかけである。ゲバラは当然として、中南米では反米感情が根強い。かのマラドーナもアルゼンチンで開催された反米集会で壇上に立ち、ベネズエラのチャベス大統領とともに10万余の歓呼に応えていた。

 WBC3連覇はならなかったが、日本代表は持てる力を発揮したと思う。ドミニカ共和国とプエルトリコはV候補アメリカを相次いで破り、決勝トーナメントに進出した。両国選手と応援団はアメリカ戦の勝利直後、優勝したかのように歓喜を爆発させていた。プエルトリコは米自治領、ドミニカは親米政権だが、民衆レベルではアメリカへの対抗意識は強い。アメリカの敗因はその点に尽きるのではないか。

 銀座で先週末、「ある海辺の詩人――小さなヴェニスで――」(11年、アンドレア・セグレ監督)を見た。舞台は〝小さなヴェニス〟キオッジャで、酒場で働く中国人女性と老漁師との交流が描かれている。キオッジャは中世の名残をとどめる鄙びた漁港で、シーンの連なりは水彩画集の趣がある。

 シュン・リーは一人息子を福州に残してイタリアにやって来た。手際よく店を仕切る彼女だが、借金(渡航費)を返さなければ、息子とイタリアで暮らせない。一方のビーパはチトー死後、旧ユーゴを出た移民である。故郷喪失以外に、二人には共通点があった。それは詩である。

 川はすべて海へ降りていく 満たせぬままに吹く風は冷たくも 心を温め 小さな花のように あなたを微笑ます

 屈原の詩を口ずさむシュン・リーは、故郷への思いと息子への愛を心に秘めている。彼女が生まれた福州では、屈原を偲ぶ祭りで川に灯明を流していた。代わりにロウソクを海辺に浮かべる彼女の横にビーパが佇み、互いの孤独を包むように寄り添う。ビーパが詩人と呼ばれているのは、韻を踏んだり語呂合わせをしたりで、当意即妙に言葉を紡ぐからだ。

 屈原は失意の底で入水自殺した、その亡骸が魚に食べられないよう、ある漁師が海に握り飯を投げ入れたという故事が、本作に色濃く反映されている。シュン・リーはビーパに、漁師である父、屈原の亡骸を守った漁師を重ねている。父、屈原、ビーパがイメージの円環で一つになった。

 水村美苗はニューヨークを舞台にした「私小説」で超えられない人種の壁を描いていたが、イタリアでも同じかもしれない。シュン・リーとビーパの親密さに、仲間の偏見が顔を覗かせる。彼女の背後に組織(マフィア)の影が見え隠れするから尚更だ。孤独な中高年である常連たちは、その女性が誰であれ、特定の仲間と親しくすることは許さないという嫉妬を覚えていたのだろう。

 淡い糸で織り成された本作で、シュン・リーと相部屋の娘が存在感を増していく。海辺でひとり太極拳の型を練習し、シュン・リーをマッサージして心身の疲れを癒やす。キオッジャ港を海と潟に分け、哲学者風の言葉で将来を暗示していた。謎めいた彼女の行動が、ストーリーの回転軸になる。

 厳かで煌びやかな祭礼がラストに執り行われた。東洋と西洋、一瞬と永遠、様々な感情が溶け合って昇華する。二つの孤独は焔になって、シュン・リーに未来を標す。奇跡の出会いに心が和む佳作だった。
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「魔女と呼ばれた少女」~ミスティックな再生の物語

2013-03-15 14:27:04 | 映画、ドラマ
 安倍首相は今夕、TPP交渉参加を表明する。保守派の怒りを緩和するためか、「極東裁判は勝者による断罪」とナショナリスト色を打ち出した。中国は早速反論したが、オバマ大統領もあきれているに相違ない。保守派の筆頭格といえば、アベノミクスで大儲けしたと報じられている稲田特命担当相で、野党時代は反TPPの急先鋒として社民党や共産党とも連携していた。時期が時期だけに一連の記事は、稲田氏ら反TPP派封じの一環かもしれない。

 白竜の1stアルバム「光州City」(81年)のCDを探していたが、廃盤になっているようだ。「♪この街を楽しそうに歩く君たちは、笑いながら誰かを殺している」(要旨)という収録曲の歌詞に強い感銘を受けた。隣国で夥しい血が流れてもやり過ごせる鈍感さ、想像力の欠落は30年後、日本社会を内側から蝕んでいる。

 学校や会社のいじめの底に流れるのは、他人の痛みへの鈍感さだ。西田譲衆院議員(日本維新の会)の「低線量セシウムは人体や農地に無害。被曝の影響は取るに足らない」発言に、想像力の絶望的な欠落を覚える。共感と想像力を増幅させ、知性と感性のボーダレスを実現するはずだったインターネットは悲しいかな、思考のタコツボ化、権力への従属を促進するツールになっている。

 原発事故による体内被曝、復興が進まぬ被災地に思いを馳せない日本人にとって、アフリカの現状など別の星の出来事かもしれない。内乱が続くコンゴを背景に描いた「魔女と呼ばれた少女」(ギム・グエン、12年/カナダ)を先日、新宿で見た。アカデミー賞外国語映画賞候補になるなど前評判の高い作品だったが、シネマート新宿は相変わらずガラガラだった。

 「ライフ・オブ・パイ」の稿にも記したが、アジア系の監督が作品に魂を吹き込み、ファンタジックな彩りを添えている。ギエンの父はベトナム人だ。家族からベトナム近現代史を教わったことが、本作を撮るきっかけになったのではないか。アフリカ人の死生観が日本人に近いことも、本作から窺えた。根っ子にある情念は、まさに「雨月物語」や小泉八雲に繋がっている。

 反政府軍に誘拐された12歳のコモナは、親殺しを強いられたことで死者と交感する力を身に付け、魔女として軍内で優遇される。心を通わせたのはマジシャンと呼ばれる少年兵だ。逃避行は悲しい結末を迎えるが、本作には瑞々しさとユーモアも織り交ぜられていた。白い雄鶏を捧げることが、求婚を受け入れるコモナの条件だったが、大人たちは探し回るマジシャンに「見つかるはずがない」と笑う。鶏の品種が日本と異なる当地では、牡の三毛猫同様、極めて稀な存在なのだろう。

 貧しい地域にも武器が行き渡っていることは、「アルマジロ」(10年)にも描かれていた。主たる武器輸出国は理事国だから、国連なんて怪しいものである。内乱が常態のアフリカで、農業と自然は破壊されている。鉱産物は多国籍企業に簒奪され、富を盗まれた国民は飢餓に曝されている。エイズなど疾病で多くの命が奪われているが、製薬メジャーは安価の薬が流入することを妨害している。アフリカは貧しいのではない。グローバリズムに蹂躙され、作為的に貧困状態に留め置かれているのだ。

 本作は望まぬ妊娠に直面したコモナが、生まれてくる子供に語りかけるという設定になっている。悲運に打ちのめされても未来を見据えるコモナの気高さに心を揺さぶられた。<笑いながら誰かを殺している>という白竜の問い掛けが、本作観賞後、甦ってくる。慈善(偽善?)でアフリカに水滴を垂らすのは金満ロッカーに任せておけばいいが、奔流をもたらすためには反グローバリズムに立脚した革命しかない。だが、この30年、構造はあまりに強固になり、世界中で格差を拡大している。

 ラストの弔いの儀式に、コモナの再生への意志が込められていた。コモナが交感する死後の世界が実在すればいいのに……。敬虔さの欠片もない俺でさえ、そんな妄想に耽ってしまう。仮に存在すれば、俺は審問官(閻魔様?)の前で簡単に自供する。飽食と無為で多くの人を死に至らしめた罪で、鞭打ち100年ぐらいの罰を受けるだろう。多国籍企業のトップなど飢餓1000年でも足りないぐらいだが、「地獄の沙汰も金次第」なんて諺もある。富で抜け道が見つけるかもしれない。
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<3・11>から2年~真の敵は我が内にあり?

2013-03-12 23:35:54 | 社会、政治
 「ロッキング・オン」のHPを頻繁に訪れる。新譜レビュー、ライブ評、最新ニュースをチェックするだけではない。渋谷陽一氏はブログ「社長はつらいよ」で体内被曝の深刻さなどを繰り返し取り上げ、<3・11>の風化に警鐘を鳴らしている。「NO NUKEフェス」を主催するなど、ロッキング・オンは抵抗の手段としてのロックに希望を見いだしている。

 <3・11>から2年、被災地に春は遠いのに、<1%>はアベノミクスで浮ついている。安倍首相をはじめ閣僚たちは、株高で大儲けしているという。リストラは円安とともに、株高の大きな要因だ。自らの血を吸う内閣を、庶民は支持している。

 ある時期まで、いや、今でも俺は<3・11>を限定的に用いてしまう。体内被曝で亡くなる人が莫大な数に上ると予測され、<3・11>はいずれ福島原発事故と同義語になるだろう。だが、昨年5月末の妹の死で、感じ方が少し変わった。一人の死が、母を、義弟を、俺を、そして周りの人たちを打ちのめしたが、同じ事態が途方もない規模であの日、東北を襲う。個々の死の重さを妹に教えられた。

 喪失感や寂寥感に耐えて暮らす被災地の人々に思いを馳せ、先週末は<反原発>に特化した集会には参加せず、「原発の今後を国民投票で決めよう」という趣旨の手作り感があるイベントを選んだ。約200人で新宿駅周辺をデモ行進したが、集合場所でフリー時代の先輩、MさんとNさんと再会する。ラディカルな論陣を張られているMさん、金曜夜の官邸前抗議は皆勤というNさんは、日比谷での集会&デモ⇒新宿⇒国会前のスケジュールだったのだろう。解散地点にお二人の姿はなかった。

 短時間での終了を目論む警察の配慮なのか、一車線が開放されていた。デモ隊を突っ切って横断歩道を渡る若い女性、バスの窓から罵声を浴びせる青年のように苛立ちと嫌悪感を表す者もいた、通行人の大半は安倍内閣支持で、原発の今後に無関心なのかもしれない。

 <3・11>直後、俺は当ブログで怒りをぶちまけていた。最初の敵はメディアで、「なぜ真実を伝えないのか」と振り上げた拳は、元の位置に収まる。映画「シッコ」(マイケル・ムーア)に描かれたように、アメリカの3大ネットワークは隣国カナダの整った医療保険制度を「社会主義的で劣っている」と繰り返し報じている。中国や北朝鮮のみならず、先進国でもメディアは国民を洗脳するツールなのだ。

 となれば、政官財、研究者、暴力団が一体となった<原子力村>が次なる敵になる。古賀茂明氏が<原発こそ公務員改革の本丸>と語っていたように、利権と既得権益が絡む壁が聳えている。民主党政権末期、さらに巨大な影の実体に気付かされた。湯川れい子さんは昨年7月20日の官邸前抗議行動で、アメリカやウランをめぐるコネクションの恐ろしさを指摘していた。

 湯川さんと前後して、福島党首ら社民党議員、志位委員長ら共産党議員が「野田政権を打倒するぞ」とシュプレヒコールを上げていた。<想像力とリアリズムの欠落>に愕然としたことは、翌日の稿に記した通りである。悪い予感は5カ月後、現実になる。野田政権が倒れた後、原発推進を明言する安倍政権が成立した。

 中身を吟味せず<脱原発>と口にしてしまうが、稼働中は2基のみで、5月5日から2カ月弱は原発ゼロだった。いま問われているのは、原発を廃炉に向けてソフトランディングし、<原発というシステム>から脱却する道筋を示すことだと思う。宇都宮健児氏が都知事選で獲得した100万票弱、山本太郎氏が東京8区で石原伸晃氏相手に獲得した7万票余は希望を灯してくれたが、<脱・反原発>を訴える側は統一チームを作れなかった。
 
 マイケル・ムーアは「民主主義国家において、すべての市民は活動家でなければならない」と語っている。大江健三郎氏よりポジティブかつアクティブに市民を捉えるムーアの言葉に説得力を覚えるが、俺はといえば、脱原発を小さな声で叫ぶ怠惰な市民だった。敵は我が内にあり……。まず責めるべきは自分自身であったのか。

 小出裕章氏が常々強調する<一人一人の意志>はこの間、醸成されつつある。左右を超えて<脱原発>で協調する動きも胎動している。それらを繋ぐ柔軟なリーダーが登場すれば、この国もきっと変わる。プラス思考の俺は、そう信じている。
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「薬指の標本」~小川洋子が切り取る虚実のあわい

2013-03-09 14:33:35 | 読書
 立ち位置の違いは克服不能で、政治や社会について穏やかに語り合える人は見つからないものだ。学生時代の友人を除いて唯一の例外といえるのは、当ブログに頻繁に登場する職場の先輩Yさん(演劇評論家)だ。原発、パレスチナだけでなく、「佐野眞一騒動」では差別についても考え方が近いことを知った。ちなみに俺とは、猫好きの〝同志〟でもある。

 ご覧になっていないと思うが、Yさんは「デモクラシーNOW!」に強い共感を覚えるだろう。昨年6月、「デモクラシーNOW!」はTPP草案をリークした。「デモクラシーNOW!」と「TPP」で検索し、20分弱の動画「TPPは貿易協定の衣を着た企業による世界支配の道具」(翻訳付き)で中身を確認してほしい。交渉参加に前のめりの安倍首相にとって、〝ナショナリスト〟は都合のいい仮面だったようだ。

 仕事は人並み以下だが、火曜はグリズリー・ベアのライブ、木曜は麻雀とプライベートでは忙しい日々を過ごしている。合間を縫って小川洋子の初期の作品「薬指の標本」(新潮文庫)を読んだ。表題作に加え、「六角形の小部屋」が収録されている。ともに主人公は若い女性で、他の作品同様、虚実のあわいが鮮やかに切り取られていた。

 「薬指の標本」の主人公は、サイダー工場で左手薬指の先をほんのわずか失い、標本室で働くようになる。重なるのは「最果てアーケード」に登場する店の数々で、風変わりな人々が品を運んでくる。経営者兼技術者の弟子丸氏が標本を作製するが、完成品を見るために再訪する者はいない。標本化は来し方と決別するための手段なのだ。

 入室が許されない部屋、弟子丸氏の靴フェチ、消えた女性客と事務員たち……。ファンタジーは少しずつ、酷薄なメルヘンにトーンを変えていく。彼女はついに禁断のドアを開けた。ミステリアスな結末に、俺は<薬指以外の彼女の肉体>に思いを馳せる。しめやかで狂おしく、弧絶した愛の形を追求した作品だった。本作にインスパイアされた可能性もあるが、「遮光」(中村文則)の主人公は恋人の遺体から切り取った小指を瓶詰めにして持ち歩いていた。

 「六角形の小部屋」の主人公は病院で働く事務員だ。婚約発表直前、恋人の医師と別れてしまう。彼の優しさと気配りが許せなくなったのだ。スポーツクラブでミドリさんと知り合ったことで、彼女もあるドアの前に辿り着く。その先にある世界は何だろう。眩いほどの光? もしくは闇に塗り込まれた迷路? 

 ミドリさんは平凡で控えめな女性だが、その正体は定住しないジプシーで、息子とともに日本中を放浪して小部屋を設置する。木戸銭を取って提供するのは<自分との対話スペース>だ。ミドリさんの忠告を聞かず常連になった主人公は、ある種の譫妄、記憶障害に陥ってしまう。暗黙のルールを破ったことが部屋移動のきっかけとなり、彼女は現実に引き戻された。

 俺のような妄想家、夢想家は、頻繁に<虚>と<実>が混濁する。夢で見たことを現実と思い込んで語ったことも何度かあったぐらいだ。若い頃から痴呆状態で、行く末が思いやられる。

 小川の作品には、校閲についての深い考察が記されている。「ミーナの行進」で主人公の伯母は、誤植探しで孤独を癒やしていた。「人質の朗読会」の語り手のひとりは、校閲者だった頃の思い出を語っている。三流の校閲者である俺は、小川に親近感と敬意を併せて抱いている。

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グリズリー・ベアatリキッドルーム~灰色熊が運ぶ春の風

2013-03-06 23:13:31 | 音楽
 ベネズエラのチャベス大統領が亡くなった。思い出すのは10年ほど前、NHKで放映された「チャベス政権 クーデターの裏側」である。CIA、メディア、資本家によるクーデターで政権を追われるが、民衆の支持を受けて軍部が寝返り、チェベスが大統領府に凱旋する。その一部始終をアイルランドのクルーが撮影したドキュメンタリーで、憲法の精神を高らかに謳うチェベスの演説に感銘を受けた。

 <石油やガスがもたらす利益を国民(とりわけ貧困層)に還元する>……。このチャベスの方針で、富の吸い上げが困難になったアメリカは揺さぶりを掛けてくる。チャベスは権力保持に固執するようになり、反米を前面に押し出す。欧米メディアは〝独裁者チャベス〟の負の側面を強調して報じるだろう。反グローバリズムに立脚すると、チャベスは巨悪(アメリカや多国籍企業)に抵抗するための必要悪と映る。盟友マラドーナは涙に暮れているに違いない。

 さて、本題。リキッドルーム(恵比寿)で昨日、グリズリー・ベアを見た。09年暮れにロックの旅を再び始めてから、CDで湿度と温度の近さを覚えたバンドのライブに足を運んだが、グリズリー・ベアで最後のピースが埋まった気がする。キャパ800人はぎっしり埋まり、高齢ベスト5に入る俺は、年相応にゆったり後方でライブを楽しんだ。

 年を取ると体感するというより、理屈っぽく考えてしまう。スタート時点ではグリズリー・ベア同様、米インディーシーンを代表するバンドと比べていた。ダーティー・プロジェクターズの牧歌的かつ祝祭的なムード、ローカル・ネイティヴスの開放感とダイナミズム、ザ・ナショナルが壮大なスケールのロックアンセム、ブロンド・レッドヘッドの濃密な狂おしさ……。グリズリー・ベアのライブを一言で表現すると自然体となるが、翌日になっても余韻が去らない。

 ビートルズの「シー・ラブス・ユー」でポップの魔法にかかった俺には、音楽を測る物差しがある。それは<トランジスタラジオに耐えること>だ。スタジオで加工し尽くすのが最近のはやりだが、グリズリー・ベアは違う。街角のラジオから流れていても、立ち止まって聴き入ってしまうほど芯のある楽曲はビートとハーモニーで膨張し、会場全体に染み渡る。俺はノスタルジックな気分になり、心の中で溶けた何かが浸潤し、乾いた体を揺らしていた。

 バンド名は凶暴な灰色熊だが、奏でる音は春の訪れを告げる暖かな風だ。理性で臨んだはずのライブだが、翌日になっても音の渦は霊気のように俺を包んでいる。これぞまさに体感だ。抒情的、刹那的、メランコリックと形容する言葉はいくらあっても足りないが、ベースにあるのはクオリティーの高さだ。珠玉のメロディーに彩られた曲はライブで輪郭がくっきりし、カラフルな表情を浮かべていた。

 ソングライティングで彼らに匹敵するバンドを挙げれば、ローカル・ネイティヴスだ。春の宵、本の友を探している方にはグリズリー・ベアの「シールズ」、ローカル・ネイティヴスの「ハミング・バード」を薦めたい。柔らかな音が想像力を増幅させ、読書の質が深まることを保証する。

 リキッドルームには悪い思い出が二つあった。一つは方向音痴で道に迷い、ロックンロール・ジプシーズのライブに遅刻したこと。二つ目は肩入れしていたクーパー・テンプル・クロースの解散ライブになったことだ。良質なアルバムを作り続けたクーパーズはまさに悲劇のバンドで、暗すぎるフロントマンを案じる声が当夜のファンから上がっていた。

 幸い、グリズリー・ベアには煮詰まる心配はなさそうだ。次作ではビルボードで5位前後に入り(最新作は7位)、日本でも知名度が上がって渋谷AX(キャパ1500)ぐらいで演奏するだろう。世界のロックを牽引するインディーズの雄だが、現在の年収は600万円台。金銭的な成功には無頓着で、自由と創造性を追求するのがニューヨークの空気なのだろう。

 フジロックは無理だが、サマーソニックに行く可能性はある。グリズリー・ベア以外に上記の米インディーバンド、UKならビッフィ・クライロがラインアップされることが条件だ。アーケイド・ファイアはアルバム製作中で、来日は難しそうだ。
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鮨と将棋~週末に<日本的の今>を考える

2013-03-03 22:50:59 | カルチャー
 週末はスポーツイベントが花盛りだった。関心のないWBCだが、ブラジルにリードされているとネットで知り、早速チャンネルを合わせる。日本は8回に逆転したが、韓国はオランダに0対5と完敗していた。アジア2強がサッカー大国に苦しめられた形だが、大局的に見れば喜ばしい事態だ。野球の浸透ぶりがアピールできれば、五輪復帰の道も開けるからだ。

 国王杯に続き、クラシコでもバルセロナがレアル・マドリードに敗れた。全冠制覇の勢いは失せ、変調を修正できない。チャンピオンリーグも敗退が濃厚だ。あれほどのチームでも監督不在が響くものなのだろう。プレミアではマンチェスターUが香川のハットトリックでノリッジを下した。「香川を軸に」という声に、ザッケローニはどう反応するのだろう。

 齢を重ねるごとに、<日本的>について考える機会が増えたが、明確な基準がないことに気付く。例えば、巷では愛国者と見做されている安倍首相……。「中国とは穏便に」とオバマ大統領に釘を刺され、TPP、普天間、原発では民の声よりアメリカの意向に沿う<本籍ワシントン>ぶりが露骨になってきた。今回の訪米では、日本の首相として例を見ないほど冷遇されたという。いっそ浅野内匠頭みたいに切れてほしかったが、〝州知事〟にプライドは必要ないようだ。

 先週末、<日本的>を考える二つのヒントに接した。まずは映画「二郎は鮨の夢を見る」(11年、デヴィッド・ゲルブ監督)だ。銀座「すきやばし次郎」にカメラを据えたドキュメンタリーで、85歳の前店主、小野二郎の職人芸に迫っている。料理評論家の山本益博がコメンテーターを務めていた。

 鮨を握る二郎は、「95%の作業が終わった後、見栄えがいい5%で目立たせてもらっている」と笑っていたが、残りの95%にも、二郎の経験と薫陶が行き届いている。客の利き腕や好みを瞬時に見抜き、シャリの量や鮨の置き場所を判断する二郎に、落語家の鋭い目が重なった。客を観察し演目のポイントを決める落語家と鮨職人は、分野は違えど匠の技を発揮している。<鮨をアートの領域に高めた男>と評される二郎は、自らの稼業を誇らしげに「水商売」と言う。味のあるコメントである。

 二郎は逆らえないカリスマに相違ないが、厳しく摂生に努め、あらゆる工程で模範を示す〝鮨の世界の本田宗一郎〟だ。家族と縁薄く悪ガキだった二郎だが、長男(本店店主)と次男(六本木店主)を自らの下で修業させ、一人前にした。求道者は得てして孤独だが、いじめが横行する世の中、二郎の周囲には温かい空気が流れている。ラストで見せた笑みが印象的だった。

 弟子のひとりは、味覚、器用さ、芸術的なセンスを持ち合わせていないと、一流の鮨職人にはなれないと話していた。才能の絶対値が問われるのが将棋指しである。「将棋界で一番長い日」をスカパー!で堪能した。名人への挑戦者を決めるA級順位戦最終局(全5局、将棋会館)の完全中継だ。

 囲碁、麻雀にも通じる先崎8段は、「将棋ほど終盤がドラティックなゲームはない」と語る。取った駒を使えるというルールが、展開を激しく、そして複雑にしている。江戸時代以降、お上は忠誠だの従順だの儒教的倫理を強制したが、そもそも日本の武士は来日した宣教師が絶句するほど利に敏く、平気で主君や仲間を裏切った。俺など、義や信仰に殉じた門徒やキリシタンに武士道の原像を見てしまう。

 勝って挑戦権を獲得した羽生3冠は大盤解説会場で今期を振り返る。唯一負けた三浦8段戦について「翌日に勝ち筋を発見したけど、遅すぎました」と会場の笑いを誘っていた。羽生に敗れた橋本8段は棋界の暗黙のルール(=感情を面に出さない)に縛られない棋士だ。A級1期での陥落はショックだろうが、再度昇級を狙ってほしい。

 興味の的はあと一人の降級者になる。勝てば残留が決まる谷川9段だが、屋敷9段の柔軟な差し回しに形勢を損ねた。下位クラスで足踏みしていた屋敷だが、39歳でA級に昇級してからは目を瞠る充実ぶりだ。「将棋より競艇に時間をかけている」と広言していた屋敷も、今では三浦が研究仲間だ。〝感覚派とガリ勉〟のコラボの今後が楽しみである。

 永世名人(谷川)の陥落が次第に現実味を帯びてくる。米長永世棋聖の死で連盟会長に就任した谷川にとって、陥落は順位戦引退に直結する。降級候補の高橋9段が三浦を相手に優勢を築いていたから尚更だが、高橋は決定機を掴めず、無念の投了になった。高橋は若き日、完敗の悔しさで感想戦を拒み、降りしきる雨の中、歩いて自宅に帰った。一方の三浦も、大先輩の加藤9段とエアコンの温度を巡り丁々発止を演じたことがある。勝っても挑戦ならずの三浦、負けて陥落が決まった高橋……。重い空気の感想戦に、両者の愚直で武骨な心持ちが窺えた。

 佐藤王将と深浦9段との一局は、序盤に見どころが多かった。正統派だった佐藤だが、今や定跡に縛られない無手勝流だ。奔放で感覚重視の指し手の佐藤に重なるのは、老いて作風を変えた石川淳だ。失敗作も自由の代償で、佐藤もB1陥落を経験した。王将失冠は目前だが、創意が実を結び、名人復位の日が来ることを願っている。

 ハイライトは渡辺竜王と郷田棋王の対局だった。夕食休憩中、郷田はただひとり盤の前に座っていた。盤面を見ると、自玉の横に敵の銀が威張っている。素人目にも絶体絶命だ。相手は棋界一の合理主義者といわれる渡辺だが、郷田は猛攻をしのぎ、玉は包囲網から逃れた。マジックを見ている気分である。最終盤で解説を担当した森内名人も感嘆する大逆転劇だった。感想戦で笑みを浮かべて言葉を交わす渡辺は、只者ではない。真一文字にスパッと斬られたことで、将棋の奥深さを知った喜びを味わっていたのだろうか。

 これからも<日本的>を学ぶ機会は増えそうだ。今月は紀伊國屋寄席、来月は柳家小三治の独演会が楽しみだ。梅は不発だったが、月末には桜が咲きそろう。今年は中野通りに足を運ぶ予定だ。
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