酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

京都雑感~子規と漱石PART2、そして青春時代の回想

2017-10-31 23:08:46 | 独り言
 羽生棋聖が2連勝と、永世竜王(計7期)に向け好スタートを切った。66手目の△7七桂から少しずつ優位を築いたというのが解説陣の見解である。08年には3連敗から羽生をうっちゃったように、渡辺の竜王戦における強さは定評がある。不調気味とはいえ、このまま引き下がるとは思えない。

 帰省中は南丹市の親類宅に泊まり、母の暮らすケアハウスを訪ねる日々だ。母に聞かされる縁者の近況に、暗い気持ちになる。叔母が亡くなり、奥さんを亡くしたばかりの従兄はがんを宣告された。母自身、90歳にして初めて肩痛に悩まされている。

 前稿で「子規と漱石~友情が育んだ写実の近代」を紹介したが、肝と感じたのは子規の死に様と漱石との友情だ。子規は1888年、21歳の時に喀血し、結核との闘いが始まった。2人の兄を結核で亡くした漱石にとって、子規の病は他人事ではなかった。

 同年生まれの子規と漱石は東大予備門(後の一高)の同窓で、寄席通いという共通の趣味で親しくなる。三遊亭圓朝の高座を一緒に見たかもしれない。互いの才能に敬意を抱いた両者の友情は揺らぐことがなかった。手段は手紙で、長文のやりとりに相手への思いが滲んでいる。漱石が自殺の誘惑に駆られた時、とどまるよう説得したのは子規だった。

 結び目はもちろん文学で、漱石は子規が生への希望とプライドを維持出来るよう門下生になる。多くの俳句、そして漢詩を子規に送り、添削されて返ってきた。子規が認めた作品を主宰する雑誌に掲載されることもあった。「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」は、子規の友人が創刊した「ホトトギス」で発表された。

 漱石は近代文学の父になったが、その名誉を分かち合うべき子規は1902年、34歳で召された。余命を自覚していた子規は、俳句、短歌、散文を遺しつつ、改革者としての役割に軸足を置かざるを得なかった。とりわけ感銘を覚えたのは、自身の死に様を日々、メディアに発表したことである。子規は優れた文学者であると同時に、ジャーナリストでもあった。漱石はロンドンからの手紙が遅れたことが、子規の死期を早めたと悔いている。

 希に見る固い絆と熱い友情に心が潤み、俺自身の青春を振り返ってみた。若い頃の俺の理想の生き方は長屋の素浪人で、〝小志〟は半ば達成したともいえる。反体制という〝気分〟も当時と同じだが、大きな違いは日本という国への信頼だ。

 勤勉で誠実、和を貴ぶ日本人が形成する社会は大きく歪むことはない……、そんな確信は潰えてしまった。メディアを騒がせている神戸製鋼だけでなく一連の企業不祥事、年金問題や原発事故の政官財の対応に、正義、良心、矜持といった言葉が死語になりつつあることを感じる。

 学生時代、光州事件が起き、抗議するデモに参加した。その時のスローガン<韓国に民主主義を>の前提は、<日本は自由な民主国家>である。日本が民主国家であることに、俺は疑問を抱いていなかったのだ。あれから40年弱、政治の劣化は夥しい。安倍首相の国家私物化が看過されるなど、<日本が民主国家ではない>ことは隠し切れなくなった。

 当ブログでも何度か言及したが、いしいひさいちの慧眼に驚嘆せざるを得ない。いしいは40年前、日本の現在を見据えていた。<何事も正確に処理する勤勉な日本人は数十年後、行き当たりばったりのギャンブラーになっている>……。4コマ漫画で予言した通り、今の日本は政治も経済も投機的に運営されている。

 底冷えする京都で、ミーコ(親類宅の飼い猫)と戯れながら、40年前にタイムスリップしていた。俺はこの間、野球→ラグビー→欧州サッカー→NFLと関心ある球技が変わった。ところが今、最も気になるのは横浜ベイスターズの結果だ。日本シリーズは3連敗だが、第2、3戦はあと一歩、風が吹かなかった。

 思想信条は変わらないが、フェイバリットスポーツは子規が愛した野球に〝先祖返りした。ちなみに応援するチームは京都にいた頃は巨人、上京してからは広島→近鉄→横浜と転々としている。100歳まで生きて、還暦の頃を振り返るのは不可能だ。冷酷な国家が無駄飯食いを許容するはずもないのだから……。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松山城、道後温泉、そして子規博物館~文化薫る街を堪能した

2017-10-28 23:28:34 | カルチャー
 今週は24日から2泊3日で松山旅行、今日28日から帰省と移動が続いた。南丹市の親類宅で今、遅れ気味のブログを更新している。今回は好天に恵まれ、快適な松山旅行について簡潔に記したい。
  
 地理が苦手なこともあり、前知識はなきに等しかったが、人口50万の松山市は活気漲る地方都市だった。市電が走り、至る所で夏目漱石と松岡子規にちなんだデザインや造形と出合う。幅広い年齢層の観光客が、ウイークデーにもかかわらず訪ねていた。いかにもベタだが、〝必修科目〟というべき松山城と道後温泉に足を運んだ。

 松山城の築城に着手したのは関ケ原で戦功を上げた加藤嘉明である。戦いに精通していた武将ゆえ、〝戦時の砦〟として細部にまで意匠が施されていたが、時代は〝平時〟に変わりつつあった。加藤は会津に移封されるが、左遷ではなく禄高増の栄転とみる専門家も多い。たびたび放火や失火に見舞われるなど、松山城は悲劇に彩られている。俳諧をバックアップした藩主もいて、子規らを生んだ土壌は江戸時代に育まれていたようだ。

 からくり時計から土産物、そして旅館従業員の服装に至るまで、道後温泉郷は「坊っちゃん」色が濃い一角だった。それも受け狙いのあざとさではなく、文化と歴史が自然に染み込んでいるのを感じる。蕎麦屋の前の招き猫?がゴロリと横になるや自動ドアが開き、スッと中に入っていくシーンには驚いた。旅行のハイライトは、道後公園内にある「子規記念博物館」だった。子規と漱石の生誕150年を記念してリニューアルオープンされた常設展示室も併せて鑑賞した。

 「子規と漱石~友情が育んだ写実の近代」(小森陽一著、集英社新書)を旅の供として持参した。同書の内容と展示物と併せ、子規の生涯が俺の中で大きく膨らんできた。自身の不明を恥じるべきだが、俺は子規について何も知らなかった。近代文学史に詳しい方、俳句を嗜む方は、同書や展示物に深い感銘を覚えるはずである。

 松山で育った子規は自由民権運動に触発され、政治家を志したことがあった。大学を中退して編集に携わった雑誌「日本」は、その名から受ける印象とは逆に、明治政府から睨まれる言論活動を続けていた。子規が価値を置いたのは<デモクラティック>で、民主主義の精神を文学活動においても実践する。

 漱石の「吾輩は猫である」には知識人が集まって談論風発といったシーンがあるが、その原型は子規主導の下、俊英が集まって互いの作品を批評する<デモクラティック>なサークルにあったのではないか。漱石もまた、その一員であった。情熱が迸る子規の求心力は絶大で、碧梧桐、虚子といった俳人、伊藤左千夫、長塚節ら歌人に影響を与えていく。散文における革新にも寄与した。

 「子規と漱石――」に記される精緻な分析は、俳句や短歌の門外漢の理解を超えている点が多い。子規は<写実>という観点で芭蕉より蕪村を高く評価し、さらに虚子や碧梧桐の句を進化と捉える。<写実>というとあるがままと理解しがちだが、そうではない。助詞ひとつで主観と客観の交錯、時間差を表現することが可能だと子規は強調している。

 <デモクラティック>という点で子規の心を惹きつけたのが野球だった。複数の句で詠うなど、野球の貢献に功あった子規は没後100年、野球の殿堂入りを果たしたが、遅きに失した感がある。喀血する前、子規は捕手として試合に出ていた。野球は病魔に蝕まれた子規の夢だったのだろう。漱石との友情、闘病生活については次稿に記すことにする。

 急激に眠くなったが、最後に天皇賞の予想を。古馬の激突となると、自ずと好悪の感情に流されてしまう。買いたいと思う馬は⑩ミッキーロケット、⑫ステファノスだ。この2頭に絡めた馬券で楽しみたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

泥沼の選挙、そして台風一過の夜、ささやかな灯が

2017-10-24 01:21:01 | 社会、政治
 週末には様々な戦いが繰り広げられた。1冠にまで追い詰められた羽生棋聖が渡辺竜王を下し、好スタートを切る。村田諒太は完勝で疑惑の判定負けの雪辱を果たした。菊花賞でマイネルヴンシュが④着と健闘したが、もう一頭のPOG指名馬トリコロールブルーは惨敗する。衆院選は想定通り、最悪の結末となった。

 前稿で「きれぎれ」を紹介した。町田康の作品に滲んでいるのは、<悪行には必ず報いがある。神仏が赦すはずがない>という日本人独特の罪悪感だ。小池都知事と懐刀の若狭勝氏は傲りの「排除発言」で天罰を被ったが、国家を私物化した安倍首相は裁きを逃れ、<森友・加計>込みで支持されたと居直るだろう。日本人の恥の意識や矜持は、安倍夫妻によってケ汚されてしまった。

 <民主主義の死>を叫ぶ声もあるが、日本はこれまで民主国家であったことはなかった。その根拠は、治安維持法と抱き合わせで成立した普選法そのままの制限選挙にある。社会主義政党の進出を避けるため、普選法では2000円(公務員の初年度年俸の2倍)が供託金として設定され、GHQのメスは入らなかった。

 国政選挙で政党要件を満たすためには、選挙区と比例区で合わせて10人以上が立候補することが必要で、それぞれ300万円、600万円の供託金が課せられる。〝エセ民主国家〟で暮らす〝自称民主主義者〟は頬被りしているが、日本の供託金は先進国のスタンダードと懸け離れている。

 OECD加盟の35カ国のうち、22カ国で供託金はゼロだ。日本以外に供託金を課する国は12あるが、大半が日本円換算で10万円以下。韓国は145万円と高いが、日本より基準は緩く救済措置もある。格差が広がり、貧困が拡大する現在、持たざる者は選挙に出られない。弱者切り捨ては、制度上の欠陥をそのまま反映している。

 民主主義の成立条件を満たそうと、俺が属する緑の党グリーンズジャパンは現在、宇都宮健児氏が団長を務める供託金違憲訴訟を闘っている。国も国際標準逸脱について明確な理由を提示出来ず、裁判には希望が持てる。供託金ゼロ(あるいは先進国並みに大幅な減額)が、弱者の声を政治に反映し、<強者は何をやっても許される>という閉塞感を打開するための第一歩になるだろう。

 投開票日の翌日(23日)、第18回オルタナミーティング「神田香織 松元ヒロ 平成世直し二人会」(座・高円寺2)が開催された。初めて見る松元は「憲法くん」、4度目になる神田は「哀しみの母子像~米軍ジェット墜落から40年」を演じる。福島瑞穂議員も詰めかけていた。俺は(オルタナプロジェクト)の一員として、広報と運営に微力ながら協力した。

 松元の芸はスタンドアップコメディーに分類されている。アメリカが本家で、際どいネタで社会を風刺するコメディアンを指すケースが多く、ダスティン・ホフマンが演じたレニー・ブルースもそのひとりかもしれない。松元はパントマイマーとしての素養を生かし、奇妙なポーズを取りながら次々に毒を吐く。絶対にテレビでオンエア出来ないネタと自虐的な語り口に、三遊亭白鳥が重なった。

 神田は女性、とりわけ母の哀しみに照準を合わせた作品を演じ続けている。「チェルノブイリの祈り」、「福島の祈り~ある母子避難者の声」は当ブログで紹介したが、今回の演目にもキリキリ心を抉られた。1977年9月、横浜区緑区で起きた米軍機墜落事件で2児を亡くした母の視点で、神田は切々と訴える。終演後、ステージに並んだ神田と松元はオスプレイを含め沖縄に言及し、日米を巡る構図が、憲法改悪を軸に深刻化していることを語っていた。

 松元と神田は、共演は初めてだが、30年以上も前からの知り合いだという。ともに俺より少し年上だが、共通するのは横暴な権力への怒り、そして虐げられし者への共感、そして信念である。だからこそ情熱を保ち、新境地にチャレンジ出来るのだ。気骨ある熟練芸は台風一過の夜、選挙結果に暗澹たる気分を抱いている聴衆の心に、希望の光を灯してくれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「きれぎれ」~町田康のアナーキーなナイフで切り刻まれた

2017-10-21 20:00:03 | 読書
 メディアは大学の研究室や調査機関と協力して情勢分析を進めているから、開票速報は最近、出口調査の結果が開示される番組冒頭でジ・エンドだ。とはいえ、EU離脱を巡る英国の国民投票と米大統領選の結末はドラスティックだったし、都議選でも想定外の突風が吹いた。

 台風接近の明日はどうなるだろう。下馬評は自公圧勝だが、安倍政権支持と不支持率は拮抗している。俺はかねて枝野氏を否定的に論じてきたが、事ここに至った以上、立憲民主党を軸にした勢力が議席を増やし、自公、維新、希望の暴走を食い止めてくれることを願っている。

 大番狂わせの期待といえば、まず菊花賞だ。捕らぬ狸の皮算用というべきだが、ダービー終了時、数頭のPOG指名馬が菊花賞に出走すると確信していた。ところが大将格アドミラブルがリタイアするなど思い通りにいかず、ゲートイン出来たのは⑤トリコロールブルーと⑥マイネルヴンシュの2頭のみだ。ともにステイゴールド産駒で、渋った馬場も有利に働く。両馬に②ウインガナドル、⑩ベストアプローチを絡めた馬連、ワイド、3連複を買ってレースを楽しみたい。

 いしいしんじの「悪声」を前々稿で紹介した。読了後、条件反射のように手に取ったのは町田康の芥川賞受賞作「きれぎれ」(文春文庫)である。タイトルは他の町田作品に見られるように落語のオチに近い。町田作品を選んだのは〝導き〟があったからだろう。「悪声」を石川淳の「荒魂」を重ねたが、俺は町田の「告白」と「宿屋めぐり」を、<21世紀の日本文学が到達した高みで、石川淳の「狂風記」彷彿させる土着的パワーに溢れている>と別稿で評した。

 石川淳以外の〝導き〟はダウナーな気分だ。人はパッとしない時、より冴えない者を見つけて安心しようとする。町田康、いや、町田ワールドの住人たちの偽悪的で自虐的な独白には親近感を覚えている。「きれぎれ」の主人公(俺、時々僕)も救い難い放蕩息子だった。

 主人公は画家を志しているが、努力は一切しない。幼児性剥き出しの言動で嘲笑の対象になっている。画家として認められた吉原と、家業の実権を握る叔父に生理的反感を抱いているが、反抗は空振りで、相手にかすり傷ひとつ残せない。他のレビューをネットで読んだが、俺が気になったのに、誰も言及していない点が一つあった。それは女性観だ。

 本作には対照的な二人の女性が登場する。良家の娘で見合い相手の新田富子、ランパブで働くサトエだ。キャラはパブリックイメージ通りだが、興味深いのは、主人公の主観で美醜が入れ違うことである。容貌もパッとせず退屈と感じた富子の前で、主人公は突飛な言動を繰り返し、意図通り破談になった。ところが、後に吉原と結婚した富子は美人という評判で、主人公も恋い焦がれるようになる。

 一方のサトエは、結婚するやたちまち醜くなり、ゴミ屋敷と化した部屋でモグラのように棲息している。二人の姿は主人公の心象風景の反映だろうか……なんて考えていたが、パンクロッカー町田の作品を〝常識的〟に理解するのは不可能なのだろう。ロックや歌謡曲、落語や漫才のリズム、河内音頭、日本の古典、哲学、フランス文学といった幅広い語彙を坩堝で攪拌したのが町田ワールドなのだ。

 併録作「人生の壁」は最初、「きれぎれ」の後日談かと思ったが、読むうちに混乱していく。脳が働き過ぎて廃人に至る強脳病に罹った男、頭蓋骨を透明にした男など、主人公と取り巻きがクレージーに暴れ回る。パラレルワールド、ヴァーチャルリアリティーでポップに下降する様は、悪夢や妄想といったレベルを超越したアヴァンギャルドの極致といえる。

 より冴えない者を見つけて安心しようとした俺は、アナーキーなナイフで切り刻まれた。読了後、全身から血が噴き出す感覚が、妙に心地良かった。町田は「告白」や「宿屋めぐり」に匹敵する重厚な作品を発表しているようだ。次回は長編を読むことにする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脱成長は変革の軸になり得るか~緑のシンポジウムで感じたこと

2017-10-17 22:59:25 | 社会、政治
 一昨日(15日)、61歳の誕生日を迎えた。心身ともに衰えを実感する日々だが、還暦を過ぎても変わらないのは〝感心癖〟である。いしいしんじを前稿で激賞したが、AXNミステリーで放映された「夜の訪問者」(15年、BBC制作)にも深い感銘を覚えた。原作はJ・B・プリーストリーが1945年に発表した戯曲で、舞台は約100年前の英国だ。

 衣料工場で財を成したバーリング家で、娘の婚約を祝う宴が催されていた。一息ついた頃、グールと名乗る警部が現れ、エヴァという若い女性の自殺を告げる。警部は残された彼女の日記を基に、夫妻、娘と婚約者、息子がそれぞれ彼女の人生に関わっていたことを詳らかにする。グールが屋敷を辞した後も状況は二転三転し、緊張が途切れない秀逸なミステリーだった。

 暴かれるのは、健気なエヴァの生き様と対照的なブルジョア一家の醜さだ。バーリング家の人々、とりわけ富と権力で〝事実〟を隠蔽しようとする夫、偽善的な妻はそのまま安倍首相夫妻の写し絵だ。「エヴァのように、正しく生きようと試みながら報われない人々は無数に存在する。あなたたちはエヴァの死に責任を負っていることを忘れずに生きてほしい」……。このグールの言葉は、格差と貧困が進行する現在の日本をも穿っている。

 先週末(14日)、緑の党グリーンズジャパン主催のシンポジウム「時代はゼロ成長か」(文京区民センター)に参加した。水野和夫法大教授(元三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミスト)の基調講演を畑山敏夫佐賀大教授が補充し、中山均新潟市議(緑の党共同代表)が鼎談に加わる流れだった。

 <脱成長>はグローバリズム、新自由主義、アベノミクスへの対抗軸になり得るか……。この議論の叩き台として、当シンポジウムは準備された。井手英策慶大教授をブレーンに据えた前原民進党代表は、公正な分配を前面に掲げる予定だったが、希望を巡るゴタゴタで選挙戦のテーマから消えたのは残念である。

 ベストセラー「資本主義の終焉と歴史の危機」は未読だが、水野氏はレジュメに則りながら、人類史を見据えつつ様々な学説に言及される。<グローバリゼーションとは、資本蓄積のための条件を再構築し、経済的エリートの権力を回復するための政治的プロジェクト>というデビッド・ハーベイの定義が、講演のベースになっていた。

 水野氏は現在の日本、そして世界を俯瞰の目で眺めている。食料の10~20%が日々廃棄され、莫大な土地(九州以上の面積)で地主が行方不明になっている日本は、既に資本蓄積の必要がない社会であり、いまだに<より遠く、より速く、より合理的に>を志向するアベノミクスを〝近代への逆噴射〟と斬り捨てていた。

 体制の内側から経済を分析してきた水野氏は、「この20年、あらゆる試みは失敗しており、成長は不可能」と断言していた。背景にあるのは少子高齢化で、21世紀の日本は<より近く、よりゆっくり、より寛容に>を志向すべきと述べていた。

 経済は門外漢の俺だが、グローバリズムに対置する理念として、ローカリゼーション、地産地消、分散型社会、ミニマリズムを据えるべきとブログに記してきた。説得力の差は絶大だが、日本は寛容と調和、公正と平等に根差した社会を目指すべきと論じる水野氏に、俺は敬意とシンパシーを抱いた。

 水野氏は日本とドイツのゼロ金利を肯定的に捉えていた。政官財が揃って成長は無理と考えていることが、ゼロ金利の形になって表れていると話されていた。質疑応答を含め、語り口が穏やかな水野氏と好対照に、緑の党の一員である畑山氏は熱かった。国際政治学者でフランス緑の党についての著書もある畑山氏は、脱成長をベースにグリーンズジャパンが提言すべき政策を具体的に挙げる。

 自治体の長を多く輩出し政権に加わったことがあるドイツ、一定の力を保持するフランスで、緑の党は再分配、質的成長論を掲げている。ドイツでは環境政策、労働時間削減、ジェンダー機会均等などで具体的な成果を挙げてきた。日本でも〝ミドリノミクス〟を示す必要性を訴えた。

 鼎談で進行役を務めた中山氏は、緑の党会員である佐々木寛新潟国際情報大教授とともにオール新潟の格になっている。佐々木氏の「市民政治のそだてかた」(大月書店)は仕事先の夕刊紙にも取り上げられていた。党の政策担当者である中山氏が、佐々木、畑山両教授と連携を密に議論を進めていることが窺えた。

 選挙の結果に恐らく愕然とするだろう。でも、まだ表に出てこない緑的な蠢きが芽吹いていることは感じている。波紋がうねりになり、変革が現実になる日が来ることを願っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「悪声」~リミットレスに疾走する神話

2017-10-13 12:02:19 | 読書
 前稿を<二人の中村(文則&PANTA=本名・治雄)に魅せられた1週間だった>と締めたが、もう一人の中村が光芒を放つ。中村太地六段が羽生善治2冠を破り王座を獲得した。堅牢だった羽生城も20代の精鋭に切り崩され、残るは棋聖のみである。さすがに47歳、鬼神の如き強さは影を潜めた羽生だが、史上最強棋士であることは言を俟たない。

 右脳と左脳を連結させ、閃きと論理で小宇宙を形成する羽生は、詩人、作家、哲学者、科学者らを瞠目させてきた。現在はAIと人間の関係を追究した成果を著すなど、棋士を超えたフィールドで活躍している。羽生は竜王戦(20日開幕)で渡辺明に挑む。昨年の経緯――渡辺が主導した三浦弘行九段の挑戦権剥奪――もあり、ファンは羽生を応援するだろう。

 青春時代に小説を読み漁った同世代の旧友や知人は大抵、日本文学の現状に疎い。俺も「最盛期(1945~85年)のレベルに達している作家はいない」と決めつけていた。09年4月、仕事先の本のバザーで平野啓一郎の「決壊」を手にして、思い込みは〝決壊〟し、その後は発見の連続で今日に至っている。

 池澤夏樹(福永武彦の息子)は父を超えている。初代〝日本のドストエスキー〟高橋和巳ほど身を削らないが、2代目の中村文則は濃密で広大な闇を構築し、ラストにカタルシスを用意している。<大江健三郎より島田雅彦の方が上>との松岡正剛の評に納得した記憶がある。上記に加え、星野智幸、奥泉光、阿部和重、辻原登、多和田葉子(ノーベル賞候補とも)、町田康、和の感性が色濃いカズオ・イシグロらが、豊饒な日本文学を形成している。

 「決壊」を発見したバザーで2年前、いしいしんじの「悪声」(文藝春秋)を購入した。積読状態だったが、急に気になり手に取った。いしいは賞と縁がなく、「悪声」を含め三島由紀夫賞に6回ノミネートされながら受賞を逃した。無名な作家の無名な作品を読み始めたつもりが、途轍もない小説に出合ったという予感を冒頭で覚え、読み進めるうち確信に変わった。舞台が郷里の京都という点も惹かれた理由だ。

 主人公の「なにか」は荒寺のコケの上で泣いていた。赤ん坊の頃から養父母の家と荒寺を行き来するなど、人間以上の〝なにか〟を秘めている。その才能は歌で発揮され、聴く者を恍惚とさせ、始原、無明の闇にまで誘う。「なにか」はいつしか「オニくん」と呼ばれるようになった。

 老眼で読むスピードが落ちた分、一語一語を吟味して脳内に刷り込んでいった。「うち」と「そと」が混在し、時空を往来する物語に溺れていった。本作のキーワードは<音楽>、<流浪>、そして<水>で、帯の<一切のリミッターを外して書き下ろした問題作>に偽りない。マジックリアリズム、虚実のあわいに成立する辻原登の作品群、そして、石川淳の「荒魂」に重なった。

 荒寺に住み着いた寺さん、双子で音楽家のタマ、その娘あお、「なにか」の養父……。「悪声」の登場人物は自由を希求し、形や制度を超越する。「なにか」の内側に横溢する土着的パワーは「荒魂」の主人公、佐太そのものだ。初めて読むいしいの作品だったが、石川淳という下敷きがあったため、理解したつもりになっている。見当違いである可能性は否めないが……。

 ハイライトは方舟教会ライブだ。神々が軒を連ねる〝聖地〟生駒山で、タマは数百人の前でパフォーマンスした。「なにか」もステージに引き寄せられた。タマのサックスは聴く者の心に入り込み、愛した者、亡くし者と過ごした時間に旅立たせる。やがて個の記憶は集束し、時空の奔流に沈んでいくのだ。霊験あらたかというが、この場面を読み終えた夜の夢に、亡き父と妹が現れた。

 内面や葛藤を超越した虚構で、「なにか」は独楽のように転がり、その声は愛と引き換えに禍々しい「悪声」に転じる。石川淳は<きもちといふ不潔なもの>と表現していたが、コケで始まり、コケで終わる「悪声」も感情の彼方の不可視の宿命が通底していた。物語から神話に飛翔する希有の小説を発見できことは、俺にとって宿命だったのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「クリスタルナハト」~30年後を見据えたPANTAの慧眼

2017-10-09 22:48:22 | 音楽
 政治を語る言葉は大抵、薄汚れているが、煌いているものも稀にある。6日付朝日新聞朝刊に中村文則が寄稿した総選挙を巡る論考は、この国の現状を鋭く抉っていた。<選挙はあなたに興味を持っている>から始まる結びの部分に説得力があった。

 最も深く日本を洞察していると見做しているのは星野智幸だが、中村もその域に迫りつつある。二人の作家が追求するテーマは<共生と寛容>で、中村は同稿でも、とりわけネット空間で顕著な<社会のタコ壺化>を憂えていた。ドストエフスキーのテーマを21世紀の現在の日本に甦らせたと評される中村は近年、社会への問いかけを強めている。今回の論考については新作「R帝国」を紹介する際に併せて記したい。

 1970年以降、PANTAは日本を冷徹に見据えてきた。奥泉光は「ビビビ・ビ・バップ」(今年9月21日の稿)で、60年代の狂熱の東京をヴァーチャルに再現していた。作中、花園神社で「銃をとれ!」を演奏していた頭脳警察こそ、パンクロックの先駆けである。PANTA&HAL時代の「マラッカ」と「1980X」はサウンド、コンセプト、予見性で世界最先端に位置していた。

 PANTA&HALの3作目として準備を進められていたが頓挫し、個人名義で発表されたのが「クリスタルナハト(水晶の夜)」(87年)で、発売30周年記念ライブ(7日、Zher the ZOO Yoyogi)に足を運んだ。菊池琢己(ギター)、JIGEN(ベース)、小柳“CHERRY”昌法(ドラム)、今給黎博美(キーボード)のラインアップで、分厚くシャープなロックショーが展開する。ちなみに菊池はアルバム制作に関わっていた。

 マレーネ・ディートリッヒの「リリー・マルレーン」でメンバーが現れ、「クリスタルナハト」を曲順通り演奏する。長めのMCで、各曲の作意、解題がPANTA自身によって示された。タイトルは1938年11月に起きた事件にちなんでいる。ナチスはドイツ全土でユダヤ人が経営する商店やシナゴークを襲撃した。900人以上が殺されたという。砕けたガラスの破片を水晶にたとえ、同夜は〝クリスタルナハト〟と呼ばれるようになった。

 テーマは深くて重いが、予習としてアルバムを繰り返し聴いているうちに抱いた解放感はライブ後、さらに広がった。惨劇が起きた1938年、アルバムが完成した1987年、そして閉塞感に覆われた2017年……。「当時と状況は何も変わっていないのでは」というMCに、俺だけでなく集まった人々は共感していた。同作は今こそ聴かれるべき作品なのだ。

 ソールドアウトの大盛況で、20~30代と思しき姿もあったが、客層の中心はやはり中高年層だった。第1部が1時間強、第2部が約50分、第3部(アンコール)が20分ほどで、開演前から3時間40分以上も立ちっ放し。還暦の俺より10歳は年上に見える方もいて、「倒れそうになったら知らせてください。酸素ボンベはあります」と呼び掛けるPANTA(67歳)も息を切らしていた。

 知人の仲介で反原発集会に〝PANTA隊〟の一員として参加した際、当人と話す機会があった。一期一会と考え、不躾に質問する俺に自然体で答えてくれる。人格と知性に感嘆させられた。「代表作は何ですか」という問いの答えは「クリスタルナハト」だった。構想数年の同作に思いが込められているのだろう。制作中、スタジオに書物や資料が山積みされ、〝学習〟しながら録音したとMCで振り返っていた。

 「メール・ド゙・グラス」の冒頭に、♪ヤバーナ(日本人)のニュースは聞いたかい シノワ(中国)で途絶えたままでいるが……という歌詞がある。水晶の夜の前年、南京大虐殺が始まった。PANTAは同曲を演奏する前後、「日本人が誰も歌っていない南京、重慶、関東大震災(における朝鮮人虐殺)について、いつか曲にしたい。発禁にならなければいいけど」と話していた。

 「クリスタルナハト」の曲を他のライブで演奏する際、「私はイスラエル支持者ではない。パレスチナ弾圧は現代のジェノサイド」とMCしていた。重信房子詩に曲を乗せた「オリーブの樹の下」は大傑作で、パレスチナ解放のために闘った女性活動家に捧げた「ライラのバラード」も収録されている。

 第2部以降、「赤軍兵士の歌」、「マーラーズ・パーラー」、「スカンジナビア」「アゲイン&アゲイン」、「フローライン」など俺にとってのレア曲が多く含まれており、PANTAワールドの間口の広さと奥行きを改めて感じさせられた。

 上記の中村文則は短編集「A」(14年)で、日本軍による中国での虐殺、従軍慰安婦をテーマにした作品を書いている。「日本人が誰も歌っていない――」のPANTAのMCと重なった。PANTAの本名は中村治雄で、二人の中村に魅せられた1週間だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「サーミの血」~アイデンティティーと自由の狭間を問う

2017-10-05 22:52:24 | 映画、ドラマ
 カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞の報に、感慨に浸っている。長崎で生まれ、5歳時に両親と渡英したイシグロの作品は、英文学の白眉であると同時に、矜持、感応、諦念、もののあはれ、恥の意識といった和の情念に彩られた日本文学の精華なのだ。

 代表作「わたしを離さないで」について、<不条理と非情な仕組みを粛々と宿命的に受け入れる登場人物に違和感を覚える>(論旨)と記した。3・11以降の日本人の沈黙と重なったからである。日本人のDNA、そして英国の気風……。イシグロが引き裂かれた<アイデンティティーと自由のアンビバレンツ>に重なる映画を新宿武蔵野館で見た。「サーミの血」(16年、アマンダ・シェーネル監督)である。

 舞台のスウェーデンに加え、ノルウェーとデンマークが製作に携わっている。本作は世界中の映画祭で絶賛され、30歳のシェーネルは世界が最も注目する新鋭映像作家だ。サーミの血を継いでいることが本作を撮るきっかけになったという。主人公を演じた2人もサーミである。

 本作で「ラップランド人」(蔑称)と呼ばれるサーミは古来、トナカイの放牧を生業にする遊牧民で、現在はスウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ロシアで暮らしている。<定着しないこと>と<主要な生産様式から排除されていること>が差別を生むのは万国共通で、本作には〝人権国家〟スウェーデンの知られざる裏面が描かれていた。

 エレ・マリャは10代半ばで自由を求め、サーミのコミュニティーを出た。きっかけは恋である。サーミ名を捨て、クリスティ-ナとして都会の荒波に放り込まれる。妹の葬儀に参列するため数十年ぶりに故郷に帰ったエレ・マリャは、親族と打ち解けられない。残った者、去った者の溝は深いのだ。21世紀から1930年代、そしてラストは21世紀に戻る。ラストで明かされる姉妹の絆に余韻は去らない。

 苦難の歴史を生き抜いたサーミと重なるのがアイヌだ。アイヌは明治政府によって言葉、名前、職業を奪われ<旧土人>と規定された。江戸幕府による弾圧は「蝦夷地別件」(船戸与一)、明治政府の暴虐は「静かな大地」(池澤夏樹)に詳述されている。この国の酷い貌を知る上でも必読の小説だ。

 本作でも歌われるサーミの伝統歌唱「ヨイク」とアイヌの叙事詩「ユーカラ」に通底するものを感じる。サーミとアイヌは現在、文化的交流を続けているという。サーミへの差別が、日本のように法制化に至ったかは不明だが、学校でサーミ語は禁止されていた。エレ・マリャは寄宿舎で屈辱的な仕打ちを受ける。サーミを人類学的にチェックするため派遣された研究者の前で、裸になることを余儀なくされるのだ。〝土人的〟扱いと差別は社会に蔓延していた。

 成績優秀だったエレ・マリャだが、高校進学の道を閉ざされていた。優しく接してきた女教師でさえ、「サーミは文明社会に対応出来ない。あなたには仕事(トナカイの放牧)が待っている」と言い放つ。反抗的になったエレ・マリャの前で、教師は〝理解者〟の仮面を脱ぎ捨て、〝支配者〟の素顔をのぞかせた。

 伝統と風習を守る温かいコミュニティー、個として生きる都会……。エレ・マリャが選んだのは後者だった。サーミほど極端ではないにせよ、俺も大学進学時、選択を迫られて後者を選んだ。だが、齢を重ねるにつれ〝里心〟が疼いてくる。とどまるか、あるいは越えるか、特殊な状況を背景にした本作は、誰しもが直面する青春の壁を描いた秀作だった。

 <連帯と共感>を生むと期待されたインターネットだが、現実は真逆で<分断のツール>になっている。本作を見る限り、21世紀のスウェーデンでもサーミへの差別が根強い。自由と民主主義を型通りに語るだけでは、人々の心から偏見を消し去ることは出来ない。ミャンマーにおけるロヒンギャ虐殺など、暗澹たる気持ちにさせられる事件が続いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スポーツと政治~NFLが突き付けるもの

2017-10-01 16:39:48 | 独り言
 〝プチ安倍〟こと小池都知事を繰り返し批判してきたが、民進党リベラル派の希望の党公認を却下した決断には感謝している。民進リベラル+共産+社民+市民連合が旗幟鮮明に団結し、タカ派の潰し合いに割って入る可能性が出てきたからだ。小池氏、その威を借る若狭勝、細野豪志両議員の傲慢な物言いは、既に有権者の反感を招いている。

 政局の動きは腐臭が漂うが、今回は政治を背景にあれこれ雑感を記したい。

 旧聞に属するが先週末、バドミントンの試合(ダイハツ・ヨネックスジャパンオープン準決勝)を初めて観戦した。招待券をゲットした知人にお供したのだが、ある光景が未消化のまま発酵している。スポーツ会場にはチャントをリードする人がいるが、東京体育館にもいた。

 韓国VSデンマークだった男子シングルスは、リーダーに主導され、応援はデンマーク選手一辺倒になる。混合ダブルスはマレーシアVS中国だったが、マレーシアに声援が偏っていた。嫌韓、嫌中感情の反映とも訝ったが、明確な答えは出ていない。スポーツは確実に政治と近接している。 

 最近、スポーツを観戦する感覚で麻雀番組を楽しんでいる。とりわけ注目しているのは「麻雀最強戦」(優勝賞金300万円)で、ネットでライブ中継された後、インタバルを経てテレ朝チャンネルで放映されている。緊迫感に満ちた一発勝負の連続で、昨年度の決勝はスポーツ名場面を凌駕するドラマチックな展開だった。

 ダークホースの近藤千雄(協会)が、〝最強最速〟多井隆晴(RMU)を南4局で逆転し、最強位を獲得した。両者は人目を憚らず涙を流し、解説陣にも波及する。素晴らしい敗者は多井だけでなく、勝又健志(連盟)、角谷ユウスケ(協会)は終局時、ともに四暗刻一向聴で、奇跡に向け牙を研いでいた。

 番組冒頭で歴代最強位が紹介される。2011年に連覇を達成した板川和俊を検索したら、多くの記事がヒットした。連盟に所属していた板川は、森山現会長の打ち筋を批判した咎で追放されたという。上記の角谷は他団体所属であるにもかかわらず、タイトル戦決勝での打ち回し(主催者、他の3人は了承済み)に森山から横やりが入り、謝罪を強要された。

 すべて信じるほど初心ではないが、〝事実〟に触れた以上、〝痩せ蛙(他団体の雀士)〟に肩入れしようと思った矢先、角谷の「MONDO杯」出場を知る。放映するMONDOTVは連盟と縁が深い。<連盟所属雀士と同卓させない>とのお達しが沙汰やみになった裏に、政治が動いたはずだ。

 全米で今、NFLが耳目を集めている。発端は昨年8月の〝たった一人の叛乱〟である。49ersのQBコリン・キャパニックは「差別がまかり通る国に敬意を払えない」と表明し、国歌斉唱時の起立を拒否した。さざ波が広がったのは今年2月。ペイトリオッツはオーナー、ヘッドコーチ、QBがトランプ大統領と親交が深いが、スーパーボウル制覇後、恒例のホワイトハウス表敬訪問を数人の選手が拒否した。

 警察による黒人への暴力、トランプの差別的な姿勢に、不起立の輪が広がっていく。保守的なダラスを本拠地にするカウボーイズの選手たちが試合前、手を取り合って跪くシーンが印象的だった。選手に侮蔑的発言を繰り返すトランプのツイッターに各チームのオーナーが反発し、グッデル・コミッショナーは「意思表示する選手たちを誇りに思う」と語った。

 FAになったキャパニックと契約するチームは現れず、不起立を支持する声は少数だが、大統領に相応しくないトランプの罵詈雑言が、世論を微妙に変えつつある。サポートするのはエディ・ヴェダーら骨のあるロッカーたちで、次々にステージで跪き、NFL選手たちへの連帯を訴えている。

 俺はNFLに〝偏見〟を抱いていた。アメフトは戦争に擬せられたゲームで、時に選手を兵士に重ねていた。だが彼らは、意志を持つ市民だった。昨今の政局で暗澹たる気分にさせられるのは、NFLの選手たちのように、孤立を恐れず矜持を守る者が永田町で見つからないからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする