羽生棋聖が2連勝と、永世竜王(計7期)に向け好スタートを切った。66手目の△7七桂から少しずつ優位を築いたというのが解説陣の見解である。08年には3連敗から羽生をうっちゃったように、渡辺の竜王戦における強さは定評がある。不調気味とはいえ、このまま引き下がるとは思えない。
帰省中は南丹市の親類宅に泊まり、母の暮らすケアハウスを訪ねる日々だ。母に聞かされる縁者の近況に、暗い気持ちになる。叔母が亡くなり、奥さんを亡くしたばかりの従兄はがんを宣告された。母自身、90歳にして初めて肩痛に悩まされている。
前稿で「子規と漱石~友情が育んだ写実の近代」を紹介したが、肝と感じたのは子規の死に様と漱石との友情だ。子規は1888年、21歳の時に喀血し、結核との闘いが始まった。2人の兄を結核で亡くした漱石にとって、子規の病は他人事ではなかった。
同年生まれの子規と漱石は東大予備門(後の一高)の同窓で、寄席通いという共通の趣味で親しくなる。三遊亭圓朝の高座を一緒に見たかもしれない。互いの才能に敬意を抱いた両者の友情は揺らぐことがなかった。手段は手紙で、長文のやりとりに相手への思いが滲んでいる。漱石が自殺の誘惑に駆られた時、とどまるよう説得したのは子規だった。
結び目はもちろん文学で、漱石は子規が生への希望とプライドを維持出来るよう門下生になる。多くの俳句、そして漢詩を子規に送り、添削されて返ってきた。子規が認めた作品を主宰する雑誌に掲載されることもあった。「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」は、子規の友人が創刊した「ホトトギス」で発表された。
漱石は近代文学の父になったが、その名誉を分かち合うべき子規は1902年、34歳で召された。余命を自覚していた子規は、俳句、短歌、散文を遺しつつ、改革者としての役割に軸足を置かざるを得なかった。とりわけ感銘を覚えたのは、自身の死に様を日々、メディアに発表したことである。子規は優れた文学者であると同時に、ジャーナリストでもあった。漱石はロンドンからの手紙が遅れたことが、子規の死期を早めたと悔いている。
希に見る固い絆と熱い友情に心が潤み、俺自身の青春を振り返ってみた。若い頃の俺の理想の生き方は長屋の素浪人で、〝小志〟は半ば達成したともいえる。反体制という〝気分〟も当時と同じだが、大きな違いは日本という国への信頼だ。
勤勉で誠実、和を貴ぶ日本人が形成する社会は大きく歪むことはない……、そんな確信は潰えてしまった。メディアを騒がせている神戸製鋼だけでなく一連の企業不祥事、年金問題や原発事故の政官財の対応に、正義、良心、矜持といった言葉が死語になりつつあることを感じる。
学生時代、光州事件が起き、抗議するデモに参加した。その時のスローガン<韓国に民主主義を>の前提は、<日本は自由な民主国家>である。日本が民主国家であることに、俺は疑問を抱いていなかったのだ。あれから40年弱、政治の劣化は夥しい。安倍首相の国家私物化が看過されるなど、<日本が民主国家ではない>ことは隠し切れなくなった。
当ブログでも何度か言及したが、いしいひさいちの慧眼に驚嘆せざるを得ない。いしいは40年前、日本の現在を見据えていた。<何事も正確に処理する勤勉な日本人は数十年後、行き当たりばったりのギャンブラーになっている>……。4コマ漫画で予言した通り、今の日本は政治も経済も投機的に運営されている。
底冷えする京都で、ミーコ(親類宅の飼い猫)と戯れながら、40年前にタイムスリップしていた。俺はこの間、野球→ラグビー→欧州サッカー→NFLと関心ある球技が変わった。ところが今、最も気になるのは横浜ベイスターズの結果だ。日本シリーズは3連敗だが、第2、3戦はあと一歩、風が吹かなかった。
思想信条は変わらないが、フェイバリットスポーツは子規が愛した野球に〝先祖返りした。ちなみに応援するチームは京都にいた頃は巨人、上京してからは広島→近鉄→横浜と転々としている。100歳まで生きて、還暦の頃を振り返るのは不可能だ。冷酷な国家が無駄飯食いを許容するはずもないのだから……。
帰省中は南丹市の親類宅に泊まり、母の暮らすケアハウスを訪ねる日々だ。母に聞かされる縁者の近況に、暗い気持ちになる。叔母が亡くなり、奥さんを亡くしたばかりの従兄はがんを宣告された。母自身、90歳にして初めて肩痛に悩まされている。
前稿で「子規と漱石~友情が育んだ写実の近代」を紹介したが、肝と感じたのは子規の死に様と漱石との友情だ。子規は1888年、21歳の時に喀血し、結核との闘いが始まった。2人の兄を結核で亡くした漱石にとって、子規の病は他人事ではなかった。
同年生まれの子規と漱石は東大予備門(後の一高)の同窓で、寄席通いという共通の趣味で親しくなる。三遊亭圓朝の高座を一緒に見たかもしれない。互いの才能に敬意を抱いた両者の友情は揺らぐことがなかった。手段は手紙で、長文のやりとりに相手への思いが滲んでいる。漱石が自殺の誘惑に駆られた時、とどまるよう説得したのは子規だった。
結び目はもちろん文学で、漱石は子規が生への希望とプライドを維持出来るよう門下生になる。多くの俳句、そして漢詩を子規に送り、添削されて返ってきた。子規が認めた作品を主宰する雑誌に掲載されることもあった。「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」は、子規の友人が創刊した「ホトトギス」で発表された。
漱石は近代文学の父になったが、その名誉を分かち合うべき子規は1902年、34歳で召された。余命を自覚していた子規は、俳句、短歌、散文を遺しつつ、改革者としての役割に軸足を置かざるを得なかった。とりわけ感銘を覚えたのは、自身の死に様を日々、メディアに発表したことである。子規は優れた文学者であると同時に、ジャーナリストでもあった。漱石はロンドンからの手紙が遅れたことが、子規の死期を早めたと悔いている。
希に見る固い絆と熱い友情に心が潤み、俺自身の青春を振り返ってみた。若い頃の俺の理想の生き方は長屋の素浪人で、〝小志〟は半ば達成したともいえる。反体制という〝気分〟も当時と同じだが、大きな違いは日本という国への信頼だ。
勤勉で誠実、和を貴ぶ日本人が形成する社会は大きく歪むことはない……、そんな確信は潰えてしまった。メディアを騒がせている神戸製鋼だけでなく一連の企業不祥事、年金問題や原発事故の政官財の対応に、正義、良心、矜持といった言葉が死語になりつつあることを感じる。
学生時代、光州事件が起き、抗議するデモに参加した。その時のスローガン<韓国に民主主義を>の前提は、<日本は自由な民主国家>である。日本が民主国家であることに、俺は疑問を抱いていなかったのだ。あれから40年弱、政治の劣化は夥しい。安倍首相の国家私物化が看過されるなど、<日本が民主国家ではない>ことは隠し切れなくなった。
当ブログでも何度か言及したが、いしいひさいちの慧眼に驚嘆せざるを得ない。いしいは40年前、日本の現在を見据えていた。<何事も正確に処理する勤勉な日本人は数十年後、行き当たりばったりのギャンブラーになっている>……。4コマ漫画で予言した通り、今の日本は政治も経済も投機的に運営されている。
底冷えする京都で、ミーコ(親類宅の飼い猫)と戯れながら、40年前にタイムスリップしていた。俺はこの間、野球→ラグビー→欧州サッカー→NFLと関心ある球技が変わった。ところが今、最も気になるのは横浜ベイスターズの結果だ。日本シリーズは3連敗だが、第2、3戦はあと一歩、風が吹かなかった。
思想信条は変わらないが、フェイバリットスポーツは子規が愛した野球に〝先祖返りした。ちなみに応援するチームは京都にいた頃は巨人、上京してからは広島→近鉄→横浜と転々としている。100歳まで生きて、還暦の頃を振り返るのは不可能だ。冷酷な国家が無駄飯食いを許容するはずもないのだから……。