酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「花筐」~時代に警鐘を鳴らすレクイエム

2018-01-28 22:00:15 | 映画、ドラマ
 先週末は「よってたかって新春らくご18」(昼の部、よみうりホール)に足を運んだ。超満員の盛況で、春風亭一之輔「千早ふる」→立川談笑「片棒・改め」春風亭百栄「キッス研究会」→柳家喬太郞「文七元結」の順で高座は進む。一之輔の弾けっぷりとテンポ、百栄の脱力感、枕なしの気合で挑んだ喬太郞と聞き応え十分だったが、今回のハイライトは談笑だった。

 立川流とは志らく以外、縁がないので、談笑を見るのは初めてだった。「片棒」は吝嗇がテーマだが、枕だけでなく師匠の談志が繰り返し登場する。談志の財テクと吝嗇は落語界では有名らしい。三遊亭圓生も同様で、気難しさを含めて柳家小三治が枕にしていたのを聞いたことがある。〝権威へのくすぐり〟は健全さの証左だ。

 「花筐/HANAGATAMI」(2017年、大林宣彦監督)を有楽町スバル座で観賞した。ブログでこの間、記してきたように体調不調だった。映像美と監督の意図が織り込まれた長尺(3時間弱)の作品に、俺の心身は堪えられるだろうか……。そんな不安が消えて25日に見る。

 本作を理解できたか自信はない。最大の理由は、大林が〝彼方の巨匠〟であること。大林を映画館で見るのは3作目で、ビデオ、DVD、TVを合わせても2桁にいっていない。クランクイン直前、がんを宣告された大林は、本作を遺作と位置付けている。原作は檀一雄で、太平洋戦争開戦前夜の若者たちを描いた青春群像劇である。

 デビュー作として企画した「花筐」を40年後の今、なぜ撮るのか……。昨秋、ETV特集で放映された「青春は戦争の消耗品ではない~映画監督 大林宣彦の遺言」に監督の危機感が明かされていた。<敗戦(軍国)少年が戦争を描くことが過去、未来に対する責務>と肝に銘じ、戦争出来る国になった日本の現状に疑義を呈している。座視してきたという悔恨を隠さず、<現在の空気に怯えた方がいい>と繰り返し語っていた。

 仕事先の夕刊紙記者によると、映画の現場は厳しい状況に直面している。安倍政権を忖度し、政治性を前面に出す作品に出演することに消極的な俳優が少なくないという。「花筐」が逆風の中で公開されたことは想像に難くない。東京での封切りは終了し、これから全国を回る。興趣を削がぬよう感想を簡単に記すことにする。

 舞台は旧制高校で、唐津の行事がストーリーに大きな役割を果たしている。俊彦(窪塚俊介)、鵜飼(満島真之介)、吉良(長塚圭史)、阿蘇(柄本時生)の4人が10代後半の青年を演じている。窪塚は撮影時35歳、満島と柄本は27歳、長塚に至っては40歳……。実年齢と役柄のギャップは大きいが、監督の意図を理解し、表現するにはキャリアを積んだ俳優たちが必要だったのだろう。

 俊介は若者の天真爛漫さ、鵜飼は一本気、吉良は哲学や思想を語る知性、阿蘇は道化を演じる小心な若者をそれぞれ演じている。バンカラな硬派の集まりは、美那(矢作穂香)、あきね(山崎紘菜)、千歳(門脇麦)らとの交流で空気が変わってくる。魅力的だったのは美那の義姉圭子を演じた常盤貴子だ。ちなみに常盤は、長塚の妻である。

 シュールかつ煌びやかな作品世界は、絢爛たる万華鏡に迷い込んだ如くだ。映像、照明、音楽と、一つ一つのシーンに贅が尽くされている。そこに「青春は戦争の消耗品ではない」といった台詞がちりばめられていたが、全体として感じたのは壮大なレクイエムであることだ。厭戦や抵抗だけでなく、がんと闘う監督自身、そして日本人が普遍的に抱く死生観が織り込まれていた。

 表現者はそれぞれの手段で社会に訴える。大林はいずれ遠い過去になってしまう今、崇高な意志を示した。消化し切れていないが、映像の断片、俳優たちの表情、台詞の切れ端を記憶の中で拾い集め、再構成していきたい。
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真冬の雑感あれこれ~西部邁さんの死、旧友との再会、「幸せの経済学」etc

2018-01-24 18:33:24 | 独り言
 頻繁に顔を合わせる知人と菌をキャッチボールしている感じで、外せない用事をこなしているうち、風邪がぶり返してしまった。気力がようやく戻ってきたので、久しぶりにブログを更新する。真冬の雑感をあれこれ記したい。

 部屋にいる時はずっと布団の中で、熱に浮かされ断続的に夢を見ていた。杉下右京に成り代わって事件を解決なんて夢もあった。中年女性が自殺し、その調査を依頼された俺(右京)は、彼女の心情が綴られた日記を発見する。「あなたは手を下していないが、実質的な殺人者です」と〝犯人〟を問い詰めようとした刹那、目が覚めた。

 西部邁氏が亡くなった。〝粘着質の右派〟というイメージは、佐高信氏とのトーク番組「学問のすゝめ」(朝日ニュースター)を見て変化した。左派の佐高氏と右派の西部氏……。対極に位置する両者が激論を交わすといった想像とは真逆で、相手を尊重しながら楽しそうに、思想、本、映画など多岐にわたるテーマを論じ合っていた。

 同番組で、一つの理論に則り縛られることを絶対的に忌避するという西部氏の立脚点に気付く。西部氏は反米という保守としての矜持を保っていた。「唐牛伝」(佐野眞一著)を読んだことで、西部氏への好感度が決定的にアップする。全学連委員長として60年安保の象徴として語り継がれる唐牛健太郎はその後、流転し零落する。同郷(北海道)出身の西部氏は、最期まで唐牛を支え続けた。〝情の人〟西部氏の冥福を祈りたい。

 先日、短い時間だったが、大学時代の旧友と一席設けた。先輩のKさんと同期のU君である。今回は富山在住のU君の上京に合わせたものである。Kさんはブログの読者で、出版関係の組合で様々な課題に取り組んできた。そのKさんは、緑の党が関わる供託金問題について、全く知らなかったと言う。残念ながら、社会的に認知されていないのが現状だ。

 U君の上京の目的はナッシング・バット・ジーヴズを見るためだった。司書を経て、地元の大学で講師を務めるU君は、夏フェスに参戦するなど音楽通である。ナッシング--は初めて知ったバンド名だが、ミューズとどこか似ているらしい。U君は教室で「東京でバンドを見てきた」なんて話し、「先生、若い!」なんて女子学生を感心させたかもしれない。

 先週末は第25回ソシアルシネマクラブすぎなみ上映会「幸せの経済学」に参加した。ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ監督は語り手も兼ねている。<反グローバリズム>を主張した作品だが、〝反〟だけではなく地に足を着けた方向性――地産地消、自然との調和、持続可能な社会を繋ぐローカリゼーションを掲げ、世界の根底からの変化に期待を寄せていた。

 ゲストは高坂勝さん(緑の党元共同代表)である。映画の内容に即し、自身の生き方を踏まえ、ユーモアと自嘲を交えたトークに、ソールドアウトの客席は笑いに包まれた。もし、緑の党に入会していなかったらと想像すると、暗澹たる気分になる。高坂さん、そして映画会主宰の大場亮さん、武器輸出反対ネットワーク(NAJAT)代表の杉原浩司さんら、顔を合わせればすぐに距離を詰められる仲間は枚挙にいとまない。俺は下流老人予備軍だが、<孤独>という重い病からは自由であるようだ。

 旧聞に属するが、クランベリーズのドロレス・オリオーダンが亡くなった。享年46、早過ぎる歌姫の死を惜しみたい。訃報に触れ、クランベリーズファンの女性を思い出した。歌が上手で、カラオケで「ゾンビ」に聞き惚れたこともあったが、ここ数年会っていない。連絡を取るような無粋な真似はしないが、今、どこで、どのように生きているのだろう。
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「あゝ、荒野」~宿命と情念に彩られた神話

2018-01-19 00:45:47 | 映画、ドラマ
 今年の笑い初めは「新春若手花形落語会」(13日、練馬文化センター大ホール)だった。前座、林家あずみの三味線漫談を挟み、神田松之丞「那須与一扇の的」→春風亭一之輔「明烏」→桃月庵白酒「芝浜」と続く。人気者が3人揃い、1400のキャパはぎっしり埋まっていた。「俺が一番ウケてやる」との意識がケミストリーを生む。時間に余裕があれば寄席を回りたいが、今回もホール落語の緊張感に痺れてしまった。今年も手練れの芸を楽しみたい。

 正月興行で高座を二つも三つも掛け持ちし、疲労困憊のはずだがったが、圧倒的なNO・1作品、あゝ、荒野」(岸善幸監督)を見逃していた。1部と2部に分けて10月に公開され、直後にDVDが発売される。俺が見たのは間を置かずオンエアされた日本映画専門チャンネルで、5時間以上の完全版だった。

 原作は寺山修司で、舞台は2021年の新宿だ。愛着ある俺のホームグラウンドで、徒歩数分の新宿中央公園が主人公のランニングコースになっている。天井桟敷風の街頭パフォーマンス、競馬、そして様々な言葉と、濃密な寺山ワールドに、日本の現状が重なる。奨学金を返納出来ない学生に介護と徴兵を選択させる「社会奉仕プログラム法」が強行採決され、後半に進むにつれ、若者たち抗議の声が広がっていく。

3・11の傷痕、派遣された自衛隊員を含めほっ自殺者の増加、格差と貧困の拡大、自衛隊派遣、蔓延する暴力、家族の崩壊が織り込まれている。バルガス・リョサが掲げる「全体小説=小説は社会の構造を内包するべき」ならぬ「全体映画趣に、製作サイドの高い志が窺えた。冒頭は新宿で、ラストは国会前で発が起きるのも暗示的だ、
 
 W主人公は新の片隅にあるジムに入門し、新宿新次とバリカン健二のリングネームでデビューする。才能溢れる新次を菅田将暉、鈍臭い健二をヤン・イクチュンが演じる。会長の片目(ユースケ・サンタマリア)と織り成す三角形は「あしたのジョー」のジョー、西、丹下と重なるが、「あゝ、荒野」は「あしたのジョー」の連載が始まる2年前に発表されている。

 ライト級という設定ゆえ、菅田は増量を、ヤンは減量を余儀なくされた。20代前半の菅田はともかく、40代のヤンにとって過酷な撮影だったに相違ない。半年余り指導を受け、技術的にも肉体的にもリアリティーに溢れていた。体を張っていたのは2人だけではない。木村多江以外の女優陣、木下あかり、今野杏南、河井青葉は惜しげもなく裸体を晒していた。若手からベテランまで脇役陣も本作を支えていた。

 本作のトーンに一番近いのは、ヤン・イクチュンが監督・主演を務め、世界中の映画祭で絶賛された「息もできない」(09年)だ。同作は俺にとって21世紀ベストワンで、登場人物の情念と宿命の糸が織り込まれていた。本作のラストでは屹立した孤独が浮き彫りになる。

 書きたいことはいっぱいあるが、ワードの不調でこれ以上は厳しい。赤字、おかしな点を修正して再度アップした。
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民主主義への第一歩~供託金違憲訴訟裁判を傍聴して

2018-01-14 17:44:55 | 社会、政治
 マッカーシズムの背景には、原子力産業推進に不可欠な情報統制と反ユダヤ主義があった。70年後の現在、「デモクラシーNOW!」など米独立系メディアは、トランプ政権下で進行する民主主義の破壊、マッカーシズムと逆ベクトルの親ユダヤ主義に基づく言論弾圧に警鐘を鳴らしている。

 「パレスチナの正義を求める学生の会」の承認が却下されたため、フォーダム大自治会は言論の自由を求めて大学当局を提訴した。レディオヘッドのイスラエル公演を批判したロジャー・ウォーターズの北米ツア-が妨害を受けたが、その根拠は議会で審議中のイスラエル批判禁止法案だ。<イスラエルに対するボイコット・投資引き揚げ・制裁措置に刑事罰を科す>という内容である。

 トランプの二元論は、結果として自由を志向する側の絆を強めた。「チェルノブイリの祈り」でノーベル文学賞を授与されたベトラーナ・アレクシエービッチ、パレスチナ弾圧を発信するアミラ・ハス記者は来日した際、ともに沖縄、福島、広島を訪ねて交流している。

 宇都宮健児氏が原告弁護団団長を務める供託金違憲裁判の第6回裁判(東京地裁)を傍聴した。被告(政府)側の弁護人は声も小さく、説得力を感じない。違憲訴訟は門前払いが当たり前だが、今件は傍聴者も多く、朝日新聞や東京新聞も取り上げた。ニュートラルかつ丁寧に法廷を運営する裁判官に、弁護団は期待を寄せている。

 現在日本の最大の課題は<民主主義の破壊>と<格差と貧困の拡大>だと当ブログで記してきた。この国では、意見を述べることへの忌避感が広がっている。根底にあるのは選挙制度で、OECDに加盟する35国で唯一、巨額の供託金(国政選挙で選挙区300万円、比例区600万円)を課している。22国で供託金はなく、他の13国の大半も20万円以下だ。

 この制度は1925年、治安維持法とセットで成立した普通選挙法を継承している。弱者の代表が国政に打って出る機会は予め閉ざされているのだ。閉廷後、弁護士会館で開かれた報告会で、自身の経験を踏まえたアピールがあった。都知事選に立候補した高橋尚吾氏は「供託金は思想信条ではなく、自由と民主主義の根幹に関わるテーマ」と強調していた。

 「地方選でも障害者が出るのは無理」と、かつて立候補を断念した障害者が訴えていた。安倍政権の弱者への冷酷な仕打ちを批判するメディアはなぜ、供託金に言及しないのだろう。〝永田町の地図〟の上っ面を眺めているうち、本質を見据える能力を失ったのだ。広島で長年、供託金問題に取り組んできた中村氏は、「今の日本は平安時代と同じ。安倍一族や小泉一族は現在の貴族」と話していた。

 安倍内閣の6割は世襲議員だ。よほど想像力に溢れていない限り、弱者のための政策を掲げるのは不可能といえる。供託金違憲を勝ち取ることが、自由の気風が社会に蔓延し、公正で平等な社会が実現するための第一歩だと確信している。専門的にいうと、違憲と違法にギャップがあるという。違憲と判断されながら定数が遅々として変わらないのもその辺りか。

 今回の公判で弁護側は、アイルランドにおける違憲判決を提示した。十数万円の供託金が2001年に不要になったが、政府側の御用学者は「供託金がなくなったら有象無象が立候補し、選挙が混乱する」と主張したものの一蹴された。日本の保守派も好みそうな論理である。次回公判では被告側の請求もあり、01年以降のアイルランドの選挙事情について原告側が資料を提出する。

 一部メディアは取り上げたものの、供託金問題は認知されていない。だが、反原発集会のブースでも、反応は極めてよい。自由と民主主義に価値を置く人々は、供託金問題の重要さを理解してくれる。海外メディアに供託金問題を取り上げてもらうのも有効な方法だ。東京五輪に向けて〝グローバルスタンダート〟を気にする政権にもプレッシャーを与えることが出来るだろう。先進国に暮らす人々の目に、日本の供託金は狂気の沙汰に映るだろう。

 供託金問題に加えて、日本社会を根底から変えるテーマは「脱成長・脱GDP」だ。株が上がろうが、99・9%の国民には無関係だ。貴族から政治を取り戻すため、微力ながらも関わっていきたい。
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「名刺ゲーム」は次世代テレビへの一里塚?

2018-01-10 20:22:15 | 映画、ドラマ
 今年の映画初めは「キングスマン: ゴールデン・サークル」(17年、マシュー・ヴォーン監督)だった。本題の据えるつもりだったが、エンターテインメントゆえ、あれこれ書く意味はない。興趣を削がぬよう、紹介は最低限にとどめたい。

 同作は「キングスマン」(15年)の続編で前作同様、エグジー(タロン・エガートン)とハリー(コリン・ファース)の絆が軸になっている。アメコミの猥雑さと荒唐無稽、製作国イギリスのアイロニーやブラックユーモアが織り交ぜられ、緊張が途切れなかった140分だった。

 フリーハンドの諜報機関であるキングスマンは「ゴールデン・サークル」に壊滅寸前に追い込まれ、アメリカの「ステイツマン」と協力する。ゴールデン・サークルのボス、ポピーを演じたジュリアン・ムーアの妖しいサイコパスぶりも本作の魅力だ。対照的に、アメリカ大統領は取るに足らない小物扱いされていた。

 マーリン(マーク・ストロング)が最期に歌う「カントリー・ロード」、暴れ回るエルトン・ジョン本人、そしてグラストンベリー・フェスがストーリーの進行に大きな役割を果たすなど、音楽の使い方も印象的だった。結末からして第3作はなさそうだが、果たして……。

 2日夜にオンエアされた「新春TV放談」(NHK総合)は興味深い内容だった。〝テレビの未来〟がテーマで、ドラマについての議論に、「名刺ゲーム」(WOWOW、全4回)が重なる。「新春――」では地上波の限界が俎上に載せられ、縛りのないWOWOWドラマが高評価されていた。その先にあるのはネットドラマで、出演していた藤田晋氏(AbemaTV社長)は年内に3本、制作を用意していると話していた。

 帰省中、従兄一家、叔母、親戚たちと語らった。当たり障りない話題といえばドラマで、「相棒」と「ドクターX」は世代や性別問わず人気だが、俺より年長者は「やすらぎの郷」を絶賛していた。一方で、従妹の次男(情報関連企業エンジニア)はテレビと無縁の生活だ。ネットゲームに興じているから、ドラマと無縁とは言い切れないが。

 「名刺ゲーム」の主人公は、地上波で高視聴率を叩き出すクイズ番組の神田プロデューサー(堤真一)だ。神田は冒頭、金網内で目覚める。起爆装置付きの首輪を嵌められ、娘の美奈(大友花恋)も同じ姿で囚われていた。謎の男X(岡田将生)は、床に散らばる名刺を3人の男女に返すよう命じる。間違えたら自分と娘の首が吹っ飛ぶから、神田にとって命懸けのゲームだった。

 原作者が放送作家の鈴木おさむゆえリアリティーがある。神田とX以外に重要な役割を果たすのが片山ディレクター(田口トモロウ)で、格差社会であるメディアの現実が背景に描かれていた。神田が上り詰める過程で歪んでいく様子が、娘の目線で描かれている。資質もあるが、〝視聴率至上主義〟の構造が神田の傲りを引き出したともいえるだろう。

 神田の荒びはある意味、普遍的だ。あなたの周りにも、「万が一、こいつが出世したら堪らない」と思える人はいるだろう。<上・下>でしか人を測れず、自省や謙虚と無縁の〝ミニ神田〟たちだ。スタッフとの打ち合わせで「こんな企画出すなんて、スポンサーのこと考えているのか」と神田が罵倒するシーンがあった。メディアにとって広告代理店の意向は絶対的である。

 WOWOWドラマが秀逸なのは縛りがないからで、その延長線上にネットテレビを据える識者も多い。だが、<縛りがない≒責任がない>は、昨今のフェイクニュースからも明らかだ。「名刺ゲーム」の鮮やかなどんでん返しは、そのまま人権やプライバシーの侵害に抵触する。

 表現の形式が何であれ、メディアが資本と権力に抗うのが困難であることは、3・11後を思い起こせば明らかだ。見捨てられたかに思えたテレビや新聞は、力を増して国民を誘導している。10~30代のネット世代が安倍政権を支持しているという現実を見据えなければならない。
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「夜の公園」~孤独の影が織り成す五角形

2018-01-06 20:06:48 | 読書
 星野仙一さんが亡くなった。早過ぎる死を悼みたい。最も印象的なエピソードは1973年10月21日の阪神戦。勝利投手になった星野さんはアンチ巨人を広言しており。「打ちやすい球を投げたのに何でや」とぼやいていた。今なら片八百長と物議を醸すだろう。阪神は翌日、甲子園で巨人に0対9と惨敗して優勝を逃し、怒ったファンがグラウンドになだれ込んだ。

 星野さんにとって最高の瞬間は、楽天監督として巨人を倒した2013年の日本シリーズに違いない。ちなみに阿部和重・伊坂幸太郎共作「キャプテンサンダーボルト」(14年)は、13年シーズンの田中将大の無失点記録とシンクロしながら物語は進行する。野球小説としても秀逸な作品だ。

 熟女に惚れられて困っている……といっても人間ではない。従兄宅の飼い猫ミーコ(三毛、推定15歳)のことだ。猫は人ではなく、家につくという。俺が従兄宅に寄宿するのは年に最大12日。昼前から夕方まで母の暮らすケアハウスで過ごし、晩飯は敷地内(寺)にある叔母宅で従兄一家とともに取る。正月やGWは訪ねてきた親類とともに団欒を楽しむ。

 共有する時間は限られているのに、ミーコは尻尾を立てて駆け寄ってくる。喉をゴロゴロ鳴らして体をすり寄せ、離れようとしない様子に従兄は呆れ、「東京に連れていけ」と言う。惚れられることに慣れていない俺にとって、唯一とはいわないが、極めて希な経験といえる。

 今年の読書初めは「夜の公園」(06年、川上弘美/中公文庫)だった。川上が同年発表した「真鶴」のテーマは他者との距離感、現実と仮想の混濁、生死の淡い境界だった。ページを繰りながら覚えた苦味を洗い流す鮮やかさを感じたが、「夜の公園」は風味が違った。甘過ぎるチューインガムを噛むうち苦味が広がり、しこりになって胃に残っている。

 主人公のリリは30代半ばのしなやかな女性だ。結婚して3年、夫の幸夫を愛していないことに思い至る、リリが夜ごと寝室から抜け出し徘徊する公園には、マウンテンバイクを駆る青年の姿があった。フリーターの暁である。スーパーマーケットで暁に声を掛けられたリリは、そのまま部屋に行き、恋人になる。

 川上の繊細な筆致は、読む者の記憶の扉をこじ開ける。孤独とは、愛とは……。俺もまた本質的な問いの答えを探しながら円環に閉じ込められていた。幸夫の不倫相手は、10代の頃からのリリの親友だった春名である。春名は女子高の英語教師で、教え子のえりなと沙耶に、かつてのリリと春名が投影されていた。

 リリが光を吸収する透き通る白なら、春名は光を放射するカラフルな女性だ。春名には幸夫以外にも恋人がいて、暁の兄である悟もそのひとりだ。通俗的な恋愛小説、いや不倫小説の趣さえあるが、登場人物が形成する五角形は、次第に孤独の影に覆われ、沈んでいく。

 俺の恋愛観に多大な影響を与えた作品を挙げれば、夏目漱石の「こころ」、ドストエフスキーの「罪と罰」、そして福永武彦の「草の花」だ。再読した「こころ」を当ブログで酷評したが、「罪と罰」には青春期を上回る感銘を覚えた。描かれた<救いとカタルシス>は、〝21世紀のドストエフスキー〟中村文則の小説にも共通する。

 中村の作品では〝あらかじめ失っている〟いびつな欠片の男女が寄り添う。だが「夜の公園」の5人はジグソーパズルから零れ、愛する過程で失っていく。予定調和を好む俺には。リリと暁が奇跡的に結ばれなかった結末が悲しかった。一方で自らを五角形から解き放った春名の決意に驚かされる。二人の覚悟は対照的だった。

 女流作家が描く恋愛や性へのこだわりに瞠目させられることが多い。還暦を過ぎても俺はまだ〝恋愛学校1年生〟で、女性について何もわかっていないことを本作で認識させられた。作者はリリなのか、春名なのか、両者を併せ持っているのかなんて、些末なことに思いを馳せてしまう。川上の小説はまだ3作目。読み込んでいくうち、川上の実像に迫れるだろうか。
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年末年始の雑感あれこれ

2018-01-03 13:30:10 | 独り言
 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今回は年末年始の雑感を簡潔に記したい。まずは反省を。大晦日にアップした「希望のかなた」の稿で、監督の名前を数カ所、間違えていた。俺の生業は一応、校閲だ。仕事の能力も推して知るべし、か。

 元日夜から2日朝にかけての初夢は締まらない内容だった。野外イベントに参加した俺は、トイレのボックスにジャケットを忘れた(と思い込んでいた)が、場所を思い出せない。端から端までトイレを捜しても見つからず、疲れ果てて目が覚めた。

 年末年始は例年通り従兄宅に泊まり、母が暮らすケアハウスに通う日々だった。従兄宅では若者との会話が弾んだ。外科医である従兄の長男に「ドクターX」の感想を尋ねると、<大学病院を巡る構図はオーバーだけど、手術に関してはポイントを突いている>と評価していた。

 医療現場でもAI導入は進んでいるが、東京の情報関連企業でエンジニアを務める従妹の次男に、AIの未来を尋ねた。彼がテレビを見るのは帰省時のみ。新聞も取っていない。周りもそうだという。同じセクションの12人のうち外国人は10人で、会社の公用語は英語だ。年齢も30以上違うし、アナログとデジタル。エイリアンと感じたが、お互いさまだ。

 舟券を買うことはこれまでもこれからもないが、大晦日のクイーンズクライマックスに見入ってしまった。出場選手のひとり、自然体の44歳、〝艇界のタカラジェンヌ〟海野ゆかりの佇まいに魅せられたからである。麻雀や将棋だけでなく、チャーミングな女性が勝負の世界で鎬を削っているようだ。

 「相棒」元日スペシャル「サクラ」も満足いく出来栄えだった。俺はかねて、杉下右京(水谷豊)の説く正義に否定的だったが、今回は少し違った。首相の国家私物化を司法・警察が忖度する現状、法の下の正義は汚れ切っている。杉下は法を超える正義を振りかざす権力中枢を断罪し、柔らかく未成熟であっても人間としての正義に夢を託した。「相棒」にバージョンアップの気配を覚えた。

 箱根駅伝は青学大が余裕で4連覇を決めた。駅伝通の知人に〝あけおめメール〟を送ったら、「来年以降は東洋、早稲田」と返信があった。東洋は1年生が多く、早稲田は有望な長距離選手が続々入学するという、情報源はよくわからないが……。

 〝一年の計は元旦にあり〟という。今年の目標の第一は<ダウンサイズ・節約>だ。下流老人予備軍たる俺は、生活を切り詰めないと将来は限りなく暗い。野放図に生きてきたから、メスを入れる部分はいくらでもある。

 第二の目標は社会復帰だ。この間、〝文化的政治活動〟に軸足を置いてきたが、老い先短い今、沈黙は罪と考えている。ドキュメンタリー映画「ダムネーション」で、あるダムバスターの言葉が心に刺さった。即ち<行動なき感傷は魂を殺す>……。一寸の虫にも五分の魂というが、まず供託金違憲訴訟(宇都宮健児原告側弁護団長)に取り組みたい。今年最初の公判は10日にある。

 遺書代わり、ボケ防止の備忘録であるブログだが、最低限の発信ツールとしても使っていきたい。
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