王座戦第3局は藤井聡太七冠が永瀬拓矢王座を破り、2勝1敗と八冠制覇に王手をかけた。永瀬は後手ながら主導権を奪い、差を広げていく。終盤でAIの評価値が95と永瀬に傾いた時、事件が起きた。藤井の▲2一飛に△3一歩と底歩を打てば勝ちは揺るがなかったが、4一飛と打ったことで評価値は藤井に振れた。
囲碁将棋チャンネルで郷田真隆九段は「人間である以上、秒読みでエアポケットに落ちることはある」と解説していた。タイトル戦史上まれに見る大逆転が起きたが、精神的にタフな永瀬は落胆を押し隠し、藤井は研究パートナーを気遣って普段以上に謙虚な口ぶりだった。注目の第4局は来月11日に京都で行われる。
来月15日に67歳になる。布団の中で来し方を振り返ると、目が冴えて眠れなくなることがしばしばで、消しゴムで消し去りたい愚行だらけの煩悩多き人生だ。そんな俺と違い、淡々と生きた男の半生を綴った小説「ある一生」(浅井晶子訳、新潮クレストブックス)を読了した。作者のローベルト・ゼーターラーはオーストリア出身で、2014年に刊行された本作はドイツ語圏で大ベストセラーになり、世界各国で高い評価を得た。
ゼーターラーは作家デビュー以前、俳優や脚本家として脚光を浴びてきた。対照的に本作の主人公アンドレアス・エッガーは、日の当たらない場所で79年の一生を終えた孤独な男である。冒頭でエッガーは山の中、ヤギハネスと呼ばれるヤギ飼いと出会う。ケガをしていたヤギハネスを救助したが、「死っていうのは、氷の女なんだよ」という謎めいた言葉を残して姿を消した。
時は遡行し、エッガーの少年時代が描かれる。私生児として親戚宅で過ごしたエッガーは奴隷のように扱われた。暴力的な農場主に鞭打たれ、体罰で片足が不自由になるが逞しく成長し、農場を去った。無口だが生活全般に通じ、村人から重宝され、自然と馴染んで山の呼吸に感応する。エッガーは29歳の時、宿屋で働くマリーという女性に恋をした。マリーのうなじには20㌢ほどの傷痕がある。心身に痛みを持つ二人は互いを癒やすように寄り添った。
エッガーは安定した収入を得るため、ロープウエーを敷設する会社に就職する。そこで得難い人々と知り合った。ひとりはエッガーの足に不安を覚えながらも雇った部長で、時間の持つ絶対的な力を説いた後、「それぞれの瞬間だけは、ひとつたりとも奪うことはできない」と付け加えた。その言葉の意味をエッガーが理解したのは死の直前だった。
もうひとりは会社の古株トーマス・マトルで、エッガーに人生や死の意味を教えてくれた。エッガーはマリーへの愛を伝えるため、マトルの協力で山肌に<君に、マリー>の燃える文字を浮き上がらせる。大文字焼きみたいなものだろう。本作が映画化されたらハイライトになるシーンで、〝脚本家〟ゼーターラーの面目躍如といえるだろう。ロープウエー敷設で大きな役割を果たしたエッガーは<自分が大きなものの一部になった>ように感じた。
人生でただひとり愛したマリーと過ごした日々は長くは続かなかった。雪崩で彼女を失い、足の具合も悪くなって肉体労働は厳しくなったが、部長はエッガーに点検作業へのシフトチェンジを伝える。村にもファシズムの波が押し寄せ、エッガーは北方戦線に送られた。山岳地帯で戦闘に加わることはなかったが、捕虜として8年もの間、収容所で労働に従事する。山の過酷な環境で暮らしてきたことで、生き延びることが出来た。亡きマリーに書いた手紙に心を揺さぶられた。
解放後、村に戻ったエッガーは〝天職〟を見つけた。山で迷った老夫婦を助けたことがきっかけで、観光ガイドを思いつく。山の生態を知り尽くしたエッガーは、無口ながらツアー客の信頼を得ていく。臨時の女教師アンナとの交友もあったが、エッガーは召されるまでマリーへの思いを貫いた。
ヤギハネスとの思わぬ再会は、死の扉だったかもしれない。エッガーは周りと自分を比べることなく、来し方を肯定的に捉えていた。孤独と絶望を置き去りにしながら地に足を着け、歩くようにして人生を終えていく。俺が召される時、どのような一瞬が脳裏に煌めくのだろう。
囲碁将棋チャンネルで郷田真隆九段は「人間である以上、秒読みでエアポケットに落ちることはある」と解説していた。タイトル戦史上まれに見る大逆転が起きたが、精神的にタフな永瀬は落胆を押し隠し、藤井は研究パートナーを気遣って普段以上に謙虚な口ぶりだった。注目の第4局は来月11日に京都で行われる。
来月15日に67歳になる。布団の中で来し方を振り返ると、目が冴えて眠れなくなることがしばしばで、消しゴムで消し去りたい愚行だらけの煩悩多き人生だ。そんな俺と違い、淡々と生きた男の半生を綴った小説「ある一生」(浅井晶子訳、新潮クレストブックス)を読了した。作者のローベルト・ゼーターラーはオーストリア出身で、2014年に刊行された本作はドイツ語圏で大ベストセラーになり、世界各国で高い評価を得た。
ゼーターラーは作家デビュー以前、俳優や脚本家として脚光を浴びてきた。対照的に本作の主人公アンドレアス・エッガーは、日の当たらない場所で79年の一生を終えた孤独な男である。冒頭でエッガーは山の中、ヤギハネスと呼ばれるヤギ飼いと出会う。ケガをしていたヤギハネスを救助したが、「死っていうのは、氷の女なんだよ」という謎めいた言葉を残して姿を消した。
時は遡行し、エッガーの少年時代が描かれる。私生児として親戚宅で過ごしたエッガーは奴隷のように扱われた。暴力的な農場主に鞭打たれ、体罰で片足が不自由になるが逞しく成長し、農場を去った。無口だが生活全般に通じ、村人から重宝され、自然と馴染んで山の呼吸に感応する。エッガーは29歳の時、宿屋で働くマリーという女性に恋をした。マリーのうなじには20㌢ほどの傷痕がある。心身に痛みを持つ二人は互いを癒やすように寄り添った。
エッガーは安定した収入を得るため、ロープウエーを敷設する会社に就職する。そこで得難い人々と知り合った。ひとりはエッガーの足に不安を覚えながらも雇った部長で、時間の持つ絶対的な力を説いた後、「それぞれの瞬間だけは、ひとつたりとも奪うことはできない」と付け加えた。その言葉の意味をエッガーが理解したのは死の直前だった。
もうひとりは会社の古株トーマス・マトルで、エッガーに人生や死の意味を教えてくれた。エッガーはマリーへの愛を伝えるため、マトルの協力で山肌に<君に、マリー>の燃える文字を浮き上がらせる。大文字焼きみたいなものだろう。本作が映画化されたらハイライトになるシーンで、〝脚本家〟ゼーターラーの面目躍如といえるだろう。ロープウエー敷設で大きな役割を果たしたエッガーは<自分が大きなものの一部になった>ように感じた。
人生でただひとり愛したマリーと過ごした日々は長くは続かなかった。雪崩で彼女を失い、足の具合も悪くなって肉体労働は厳しくなったが、部長はエッガーに点検作業へのシフトチェンジを伝える。村にもファシズムの波が押し寄せ、エッガーは北方戦線に送られた。山岳地帯で戦闘に加わることはなかったが、捕虜として8年もの間、収容所で労働に従事する。山の過酷な環境で暮らしてきたことで、生き延びることが出来た。亡きマリーに書いた手紙に心を揺さぶられた。
解放後、村に戻ったエッガーは〝天職〟を見つけた。山で迷った老夫婦を助けたことがきっかけで、観光ガイドを思いつく。山の生態を知り尽くしたエッガーは、無口ながらツアー客の信頼を得ていく。臨時の女教師アンナとの交友もあったが、エッガーは召されるまでマリーへの思いを貫いた。
ヤギハネスとの思わぬ再会は、死の扉だったかもしれない。エッガーは周りと自分を比べることなく、来し方を肯定的に捉えていた。孤独と絶望を置き去りにしながら地に足を着け、歩くようにして人生を終えていく。俺が召される時、どのような一瞬が脳裏に煌めくのだろう。