酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

瑞々しいガイドブック~「聖書男」でアメリカ発見の旅

2012-01-30 22:15:01 | 読書
 アメリカについてあれこれ記してきた。俺の立ち位置は、「デモクラシーNOW!」に頻繁に登場するノーマ・チョムスキー、ナオミ・クライン、マイケル・ムーア、パティ・スミスら<反グローバリズム>派に近い。巨大な果実を左から齧っているが、芯まで届いた実感はない。「聖書男」(阪急コミュニケーションズ)はそんな俺にとり、アメリカ発見のための瑞々しいガイドブックだった。

 著者のA・J・ジェイコブズはアラフォーのニューヨーカーで、知的ユダヤ人の典型だ。その素顔は家族思い、民主党支持のリベラルである。「名探偵モンク」を彷彿させる潔癖症には十分笑えたが、全て聖書の教えに則ったものだ。<聖書の教えを忠実に守った1年間>を綴ったのが本書で、自身が実験台になる手法に、映画「スーパーサイズ・ミー」のモーガン・スパーロックを思い出した。

 A・Jは旧約聖書=8カ月、新約聖書=4カ月のタイムテーブルを設定する。新旧とも聖書に無縁の俺だが、シャープな切り口とユーモアたっぷりの語り口に引き込まれていった。旧約聖書はユダヤ教徒にとって唯一の正典だが、キリスト教徒は新約に重心を置きつつ旧約も読む。イスラムの教典にも旧約の一部が取り入れられている。

 本作の肝というべきは、A・Jのエルサレム訪問だ。正統派ユダヤ教徒、フランシスコ修道士、ムスリムがごく自然に行き交う光景に、<驚愕すると同時に、深い孤独感を味わった>と記している。1年間の〝修行〟を通じて身に付けたのは、敬虔さ、寛容さ、感謝の念だった。A・Jは後半で、宗教間の軋轢を煽るキリスト教福音主義派に疑義を呈していた。

 あくまで本書を通してだが、旧約聖書は神話、警句、掟、人生訓の集合体で、新約聖書はキリストの言行録といった印象が残った。本書の帯に「アメリカ人の55%は聖書の記述を真に受けている」というニューズウイークの世論調査の結果が記されていた。事実、進化論を教えない学校は多く、天地創造の記述から地球の歴史は1万年足らずとする〝学説〟が幅を利かせている。折しも大統領選の共和党候補選びがスタートしているが、アメリカは偏った字句解釈が政治にも影響を与える<キリスト教原理主義国家>だ。有力視されている中道派のロムニー氏は、キリスト教右派からの攻勢にさらされている。

 福音派はすべて保守と決めつけていたが、リベラルが存在することを本書で知った。A・Jもシンパシーを抱く「レッドレタークリスチャン」は、金儲けを肯定するどころか実践している右派と対極に位置し、ボノ(U2)も名誉会員という。「レッド――」の主張は、俺が当ブログで繰り返し称賛している映画「奇跡の丘」(パゾリーニ)と同一だ。少数派ではあるが、清貧と富の分配を説くキリストの教えを忠実に伝えている。

 本書を通じて理解できたのは、どの章、どの字句を重視するかで聖書の読み方が変わってくるということ。ファンダメンタリストは穏健派を、自らが守りたいものをピックアップしている<カフェテリア宗教>となじっている。だが、<勇ましいキリスト>を説くファンダメンタリストも、困窮者への慈悲深いキリストの言葉を意識的に無視している。聖書自体が矛盾を孕んでいる以上、<カフェテリア宗教>こそ理想の在り方ではないか……。A・Jの意外な結論に、ファジーな俺は納得した。

 A・Jはあらゆる場所に赴き、意見を異にする人にも教えを請うている。アーミッシュと交流し、ユダヤ教徒のパーティーで恍惚を覚え、蛇使いの教団を訪ねた。好奇心を揺さぶる記述も多い。アダムとイヴの逸話に登場するのはリンゴではなくオレンジだとか、「姦淫するなかれ」(モーゼの十戒)の対象は人妻限定だとか……。ちなみに旧約聖書に描かれる男尊女卑については、恐妻家のA・Jは冷ややかである。

 本書に繰り返し現れるのは虚言、悪口への戒めだ。A・Jも頻繁に反省している。俺も今日、つまらぬ言葉を仕事先でこっそり吐いてしまった。「神様、お赦しを」と懺悔したところで、聞き入れてくれる神はいない。本書を読んで、そんな自分が惨めで孤独に思えてきた。


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「哀しき獣」~血と呻きに彩られたクライムムービー

2012-01-27 03:51:27 | 映画、ドラマ
 前稿冒頭で小島貞博調教師の自殺について触れた。競馬界を取り巻く状況は記した通りだが、小島貞師の苦悩には個別の事情も加わっていたに相違ない。上滑りの論調を反省しつつ、あらためて冥福を祈りたい。

 悲報あれば、朗報も。内田博幸騎手が「即死の可能性もあった」(当人談)落馬事故を乗り越え、8カ月ぶりにターフで勇姿を見せる。復帰は大歓迎だが、POG指名馬ディープブリランテ騎乗の噂に、複雑な気分になった。「岩田とのコンビでダービーへ」が、俺だけでなくブリランテファンの正直な気持ちではないだろうか。

 テオ・アンゲロブロス監督が亡くなった。30年前に見た「旅芸人の記録」は衝撃的だった。縦横無尽に動く長回しのカメラが群衆を追う。俺は客席から向こう側に移り、歴史の証言者になった感覚に陥った。全ての作品で、一つ一つのカットがフリューゲルさながらの構図を持ち、壮大な叙事詩を築いていく。アンゲロブロスは時を超えたギリシャ悲劇の語り部でもあった。巨匠の死を悼みたい。

 新宿シネマートで昨夕、「哀しき獣」(10年、原題「黄海」)を見た。カップルには不適、血に弱い人にはNG、空腹時と満腹時は避けるべし……。1㌧を優に超える血でスクリーンはどす黒く染まり、BGMは刃が人を抉る音と呻き声だ。前稿に記したナ・ホンジン監督の前作「チェイサー」で対峙したハ・ジョンウとキム・ユンソクが、本作でも闇を駆け抜ける。

 <21世紀に甦ったシェイクスピア>と絶賛された「息もできない」を筆頭に、韓国映画は情念、叫び、恨、原罪、根源的な悪が坩堝で煮えたぎっている。韓流ドラマやK―POPとは別世界だ。背景には日本による支配、南北分断、独裁政権と光州事件の傷痕、格差が挙げられるが、「哀しき獣」の起点は中国の延辺朝鮮族自治州だ。

 タクシー運転手のグナム(ハ・ジョンウ)は莫大な借金に追われ、妻に逃げられた。麻雀でカモにされ、同僚には殴られ放題のグナムは、闇社会を仕切るミョン(キム・ユンソク)に借金帳消しを持ち掛けられる。条件は韓国での殺人だ。ミョンのお膳立てで密航したグナムは、ソウルでターゲットのスンヒョン教授を見張りながら、失踪した妻の行方を追う。

 殺人が不首尾に終わり、グナムがミョンに追われる展開を予想したが、ストーリーは複雑怪奇な方向に進行する。ミョンとソウルを牛耳るテウォンに軋轢が生じ、警察は失態を重ねる。事情が掴めないまま複数の敵に追われるグナムは、土地勘のないソウルを猛然と走り、冬山を越え、乱闘を機知で切り抜け、カーチェースで本領を発揮する。グナムは某国の特殊部隊の一員だった……なんてオチはない。内なる獣性を呼び覚まされたグナムは、疾走しながら考える。血なまぐさい殺戮の仕掛け人は誰なのかと……。行き着いたのは天使の貌をした悪魔だった。

 グナムの妻、教授の妻、テウォンの愛人、身元不明の死体……。登場する女たちに曖昧な印象しか残らなかったのは、俺の目が節穴だから? それとも監督の意図? ラストで黄海に捨てられる遺骨、エンドロール途中の謎めいた駅のシーンに余韻が去らない。

 緊張が途切れない作品だが、20人前後(330席)という寂しい入りだった。シネマート新宿は「痛み」と「超能力者」(ともに韓国映画)も上映する予定だが、経営が成り立つのか心配になってきた。


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「チェイサー」&「愛のむきだし」~予習として見た衝撃作

2012-01-24 21:19:11 | 映画、ドラマ
 小島貞博調教師が亡くなった。厩舎経営に行き詰まった末の自殺という。冥福を心から祈りたい。格差が著しい競馬界で、小島師同様の苦悩を味わっている関係者は少なくないはずだ。小島貞師は騎手時代、師匠の故戸山師、兄弟子の鶴留師と強い絆で結ばれ、それぞれの管理馬(ミホノブルボン、タヤスツヨシ)でダービーを制した。世紀が変わるや義理人情は廃れ、市場原理が競馬界を闊歩している。

 POGに興じる俺に、酷薄な現状を憂うる資格はない。栄華を極める社台軍団の血統馬(サンデーサイレンス系)をいかにチョイスするかが、POGの肝なのだ。<やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり>なんて心持ちで臨んだら、自分がやせ蛙になってしまう。競馬は今やロマン、夢、奇跡、ときめきと無縁のマネーゲームなのだろう。ならば、ギャンブルとして接するしかない。

 「哀しき獣」(ナ・ホンジン)、「ヒミズ」(園子温)を近いうちに映画館で見る予定で、先週末はそれぞれの監督の旧作を録画で観賞する。「チェイサー」(08年)と「愛のむきだし」(09年)の感想を以下に記したい。

 韓国映画には時折、悪魔が現れる。「殺人の追憶」、「母なる証明」(ともにポン・ジュノ監督)が典型だが、現実の事件を基に製作された「チェイサー」の連続殺人犯ヨンミン(ハ・ジョンウ)も悪魔そのものだ。ヨンミンと対峙するのが、元刑事でデリヘル経営者のジュンホ(キム・ユンソク)だ。

 管理する女性たちが次々に消え、ミジンまで失踪する。犯罪の匂いを嗅ぎつけたジュンホは早い段階でヨンミンに接近し、追跡を開始する。暗い過去を秘めたジュンホ、昏い欲望に衝き動かされたヨンミン……。二人は闇の中、心の闇を燐光のように発しながら、夜の街を駆け抜ける。

 根源的な悪に迫り、残酷なシーンも多い。警察組織の硬直も描かれていたが、「アジョシ」を彷彿させるジュンホとミジンの娘の交流が救いだった。ラストのソウルの夜景に、微かな希望が灯っていた。

 「愛のむきだし」にはノックアウトを食らった。4時間弱の長編は荒唐無稽で破綻だらけだが、パワフルでかつ壮大だ。公開時、映画館で見ていたらと悔やんでしまう。テクニカルな面でいうと、3作目にして園監督の<繰り返しの美学>に気付いた。

 「冷たい熱帯魚」の村田(でんでん)、「恋の罪」の美津子(冨樫真)が園監督作に現れる悪魔の化身だが、「愛のむきだし」ではコイケ(安藤サクラ)がその役割を担っていた。主人公のユウ(西島隆弘)、義妹になるヨーコ(満島ひかり)、上記のコイケはそれぞれ屈曲し、殺伐とした青春を送っている。

 神とは、愛とは、欲望とは、罪とは、罰とは……。奥深いテーマと向き合わざるを得ない3人が宿命的に同じ坩堝に放り込まれ、業火に身を焦がす。ヨーコが新約聖書の一節を諳んじるシーン、ラストでユウたちが背負う十字架、不良たちの乱闘、盗撮、AVといったチープな味付け……。神聖さと俗っぽさが混ざり合う作品のイメージを簡潔に表現すれば、ユウが流した<血のように純粋な涙>だ。

 クライマックスでは、タイトル通り愛がむきだしになる。狂うほどのユウの思いは果たしてヨーコに通じるのか……。ふたりの安息の地は現世に存在するのか……。喉に手を突っ込まれ、心をわし掴みされた本作に、「ヒミズ」への期待が高まるばかりだ。ゆらゆら帝国の主題歌「空洞です」も映像にマッチしていた。既に解散したバンドらしいが、CDを買いたくなった。


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真冬の雑感~ダルビッシュ、センター試験、将棋etc

2012-01-21 22:00:00 | 戯れ言
 ここ数日、不眠症気味で熱っぽく、用事もあれこれ立て込んだ。読書は進まず映画観賞も次週に延期した結果、ネタ枯れになる。今回は雑感をまとめて記したい。

 俺の部屋の洗濯機は外置きで、人間以上に寒さに弱い。12月から2月にかけ、脱水に至らず止まるケースが度々だ。土日は雨予想なのでコインランドリーに行った。洗濯終了後、乾燥機を使おうと思ったら、5台すべてが塞がっている。うち2台は、俺が洗濯を始めた時から停止していた。

 ファジーでアバウトな俺だが、時間にだけは神経質だ。15分ほど経って苛々がピークに達した頃、20代半ばとおぼしき女性が入ってきた。件の2台から順次取り出し、几帳面に畳んでバッグに納め、「すみません」もなく出ていった。俺は一応、55歳の大人だ。「コインランドリーは公共の施設だから、1時間半も放置すれば他の人が迷惑する」と諭すべきだったが、相手も立派な大人である。

 彼女が来るのが数分遅かったら、腹を括った俺が乾燥機のドアを開けるシーンを目撃したかもしれない。「キャー!」と叫んだ彼女が銭湯に駆け込んだら……。冤罪とはこんな風に作られる。俺のウリは偽悪的ポーズだ。下着泥棒の濡れ衣を着せられても、「やっぱり」と思う者がいるかもしれない。

 ダルビッシュのレンジャーズ入りが決まった。代理人が会見で職業倫理の高さを称賛していたが、彼ほどイメージがアップした選手も珍しい。肉体と技術だけでなく、チャリティー活動は既にアメリカのトップ選手並みだ。東日本大震災被災者への5000万円寄付は善根のほんの一部で、基金を複数立ち上げるなど、25歳にして社会に大きく貢献している。

 ダルビッシュは父から信仰を受け継いでいるはずだ。自らを律し、戒め、困った状況にある人々に思いを馳せるムスリムの精神が、職業倫理と社会貢献に繋がっていると思う。イスラム教と日本文化によって育まれたダルビッシュが、複層国家アメリカで飛躍する可能性は高い。

 ダルビッシュと真逆に、イメージダウンが否めないのは日本だ。最近の例ならセンター試験の混乱だ。日本はある時期までの俺にとり、<もろもろ問題はあるが、正確さと堅実さでは世界でトップクラスの国>だった。そんな日本像はずさんな年金管理でガタがきて、福島原発事故でクラッシュする。

 「何かおかしい」と感じたのは、札幌で開催された1990年のアジア冬季大会だった。韓国国歌をモンゴル国歌、北朝鮮国歌と2度にわたって取り違えるなど、失態が相次いだ。既にあの頃、ヒビが入っていたのかもしれない。無名時代(70年代)のいしいひさいち氏は、<日本人は21世紀、正確さと堅実さを放棄し、ギャンブルに興じるかのように物事を処理している>という内容を4コマ漫画の連作で提示していた。いしい氏の慧眼に感嘆せざるをえない。

 とはいえ、日本人は堅いばかりではない。世界の大都市に点在する<○○タウン>は、得てして閉鎖的なコミュニティーだ。ところが東京の〝コリアタウン〟大久保には老若男女の日本人が押し寄せ、買い物や食事を楽しんでいる。日本が置かれた厳しい現実を乗り越えるためには、<正確・堅実・勤勉>から<融通無碍・開放的>にシフトチェンジすべきかもしれない。

 融通無碍の典型というべき米長邦雄将棋連盟会長が、「ボンクラーズ」に苦杯をなめた。5年前に渡辺竜王が人工知能「ボナンザ」に勝利を収めたが、コンピューターはこの間、長足の進歩を遂げている。米長会長はタイトル獲得19期(うち名人1期)を誇る大棋士だが、9年前に現役を引退している。最強の電脳相手に分が悪かったようだ。

 チェスではコンピューター優位が確立しているが、将棋でもタイトル保持者が敗れる日が迫っている。ちなみに戦国時代、契約社会の欧州から来日した宣教師は、日本の武士がいとも簡単に、それも繰り返し寝返る様子を見て驚いたという。取った駒を使える将棋の特性も、日本の伝統に沿うものだ。

 最近は真理追究型の秀才が増えているが、米長会長の全盛期、対局場は時に鉄火場だった。軋轢が盤面に表れるケースも頻繁で、勝敗より美学にこだわる棋士も多かった。棋士が電脳に勝てなくなっても、ドラマであり文化でもある将棋をアナログ的に楽しんでいきたい。

 他にも書きたいことがあるが、この辺でやめておこう。不眠症もようやく解消し、今夜は熟睡できそうだ。


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タコツボ社会へ導く門番~グーグルってやっぱり怖い!

2012-01-18 23:48:43 | 社会、政治
 昨17日、阪神淡路大震災の犠牲者を追悼する集いが兵庫県各地で開かれた。俺は17年前、東京から被災地を他人事のように眺める、冷血の〝人間もどき〟だった。死との距離が縮まることで少しでも優しくなれるなら、年を取るのも悪くない。それが3・11の教訓のひとつだった。

 NFLではカンファレンスファイナル出場チームが決まった。NFCのディビジョナル・プレーオフは余韻が冷めぬ番狂わせで、49ersとジャイアンツが勝ち上がる。いずれかがペイトリオッツを破り、スーパーボウルを制することを願っている。

 今夜は勤め人時代の仲間の新年会だった。笑いが絶えず、楽しい時は瞬く間に過ぎる。主催者のOGが入社した時、俺は新人研修の一コマを担当した。「神々の指紋」(グラハム・ハンコック著)を読了したばかりだったので、「2012年に地球の地軸がずれ、文明は終焉する。それまで精いっぱい生きてくれ」と切り出した。「こんな人が先輩!」と呆れさせたはずだが、彼女は覚えていなかった。真面目な話、富士山の積雪が少ないのは噴火の前触れと危惧する声が上がっている。杞憂に終わることを祈るしかない。

 さて、本題……。今回はネタ探しに往生した。「パール・ジャム20」(WOWOWで放映)を用意していたが、ディスクにダビングする際、何らかの不具合で消してしまう。泥縄としか言いようがないが、ネットをめぐる雑感を記したい。 

 小川法相が死刑執行を示唆した。〝世論〟を知るためネットサーフィンしたが、共感のコメントに溢れるブログやツイッターに、俺のような反対派が少数であることを再認識する。死刑の賛否だけでなく日中関係、憲法改正、原発の是非と持論がネットで公開されているが、意見を闘わせるという本来の機能は果たされず、無数のタコツボが存在しているように思える。この構図は世界共通で、排他性と閉鎖性はネットの普及によって増幅した。

 かつて立花隆氏はインターネットの未来に希望を抱き、上杉隆氏や平野啓一郎氏は今、ツイッターを最高のツールと推奨している。正論かもしれないが、個を確立した3人だからこそ正しく用いることができるのだ。俺を含め世の凡人は、情報の海に溺れるか、仲間が棲息するタコツボに籠もるかしかない。

 別稿(10年7月3日)で、岸博幸氏(慶大大学院教授)のグーグルに関する意見を紹介した。小泉政権で安全保障を担当した岸氏は、<皆殺しの発想>を仮面で隠しながら自由を説くグーグルに批判的だった。イーライ・パリサー氏(市民団体リーダー)も「デモクラシーNOW!」でグーグルに警鐘を鳴らしていた。

 初期グーグルのアルゴリズムは民主的で、ベストの情報に導くことが売りだったが、現在(アメリカだけ?)では当初と様相が大きく異なる。友人2人が「エジプト」を検索したとしよう。過去のクリック傾向で思想信条が丸裸にされた結果、画面は別の貌になる。政治的関心の強い人が所有するパソコンにはデモの情報、ノンポリの方には観光案内が上位にリンクされるという。情報の宇宙への入り口は、既に門番によって規制されている。

 グーグルはパソコンの設置箇所、通信環境、アクセス傾向、メールの内容などを集積し、個人データをプロファイルして画面をカスタマイズする。それだけでも誘導だが、グーグルは企業のみならず国家機関と連携している可能性が指摘されている。岸氏が危険を強調する裏に、話せない事実が存在するのではないか。

 パリサー氏がこの問題に取り組むきっかけになったのは、フェイスブックでの体験だった。リベラルもしくはラディカルのパリサー氏は、幅広い意見を聞こうと保守派の友人をつくった。ところがフェイスブック管理者(コンピューター)はパリサー氏の「いいね」傾向から<友人に適さない>と判断し、保守派をリストから自動削除したのだ。

 人間は自ら生み出した電脳という怪物に、心を読まれ操作されている。この構図は、マルクスが提示した<疎外>の21世紀型かもしれない。終末論、シニシズムが蔓延する理由もわかるような気がする。




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死と生の穏やかな調和~「永遠の僕たち」に息づく日本的な死生観

2012-01-15 19:38:52 | 映画、ドラマ
 井戸兵庫県知事が「画面が汚い」と酷評した「平清盛」の初回を見た。居合わせた友人がチャンネルを合わせたものだが、ギラギラ、ザラザラした画面に、俺は知事と異なりパワーを感じた。

 俺が大河ドラマを見ていたのは第3作「太閤記」(1965年)から第12作「勝海舟」(74年)まで。それ以降は縁がなかったが、38年ぶりに初回を見て、豪華なキャスティングに驚いた。春やすこ・けいこに〝おむすび〟と揶揄されていた松田聖子の下膨れの顔が、祇園女御役に妙にハマっていた。

 日比谷で先日、「永遠の僕たち」(米、11年)を見た。監督は「エレファント」で衝撃を与えたガス・ヴァン・サントである。55歳の単独観賞者の感想を以下に記したい。

 <ボーイ・ミーツ・ガール>は青春映画のお約束だが、本作のスタートは葬式だ。ヘンリー・ホッパー(故デニス・ホッパーの息子)が演じるイーノックの趣味は、見知らぬ人の葬式に参列すること。両親を亡くした交通事故で自らも臨死を体験したイーノックは、ハイスクールに通わず叔母宅に引きこもっている。唯一の友は、若くして命を散らした特攻隊員ヒロシ(加瀬亮)の幽霊だ。

 イーノックは少年の葬式で、余命いくばくもないアナベル(ミア・ワシコウスキ)と出会う。2人の絆はダーウィンで深まった。アナベルはダーウィンを尊敬し、イーノックは鳥についてオタク的知識を持っている。ハロウィーンの夜、森の精に導かれるようにイーノックとアナベルは結ばれる。2人は特攻隊員とゲイシャガールに扮していた。

 「愛と死をみつめて」や「ある愛の詩」など似たような設定の作品と比べ、本作には愁嘆場がなく、死への畏れも希薄に映る。アナベルの死期が迫っても、2人は死のシチュエーションを寸劇にして演じていた。イーノックにとって死は遠い世界ではなく、往来自由な境界線の向こうにあることは、ラストシーンの笑顔が示している。

 カップルを見守るヒロシの最期も明らかになる。日本の四季折々や原爆投下のシーンに、愛する人に綴った手紙の朗読が被せられていた。ヒロシはダーウィンにちなみ、ビーグル号の船長のいでたちでアナベルを死の世界に迎える。日本独特の死生観が息づき、一瞬と永遠が重なる清々しいファンタジーだった。

 本作の魅力は細部にも行き渡っていた。様々な服装を纏ったイーノックとアナベルのお洒落なスナップが、スクリーンに焼き付けられていく。地面に横たわる2人の輪郭をイーノックがチョークでなぞり、ストップモーションになるシーンが印象的だった。「永遠の僕たち」のタイトルを象徴するカットだと思う。

 ビートルズの「ツー・オブ・アス」など、既視感ならぬ〝既聴感〟を覚えるフォーク色の濃いサントラにノスタルジックな気分になり、「若い頃、こんなピュアな恋、したっけ」と自問自答していた。前稿で記した池澤夏樹の父、福永武彦の作品を耽読し、ロマンチックな恋に憧れたこともあったが、純水も俺という濁った器に移すと澱んでしまう。あれもこれも<愛という名の欲望>だったのかと苦い思いが込み上げてきた。

 館内はガラガラだった。10代の恋を描いた作品だが、若者に浸透していないのだろう。本作にホロリとくるのは、死を意識した中高年の方かもしれない。


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「春を恨んだりはしない」~鎮魂歌の彼方に灯る希望

2012-01-12 22:00:14 | 読書
 澤穂希がFIFA年間MVPに選ばれた。ライカールトやダーヴィッツを彷彿させるダイナモとしてピッチを駆け回る澤の受賞は当然だと思う。垢抜けたチームメートと対照的に、澤はセピア色のニュースフィルムから抜け出たような顔立ちだ。ノスタルジーと和みを感じさせるのも、人気の一つの理由かもしれない。

 吉本隆明氏のインタビュー「反原発で猿になる」(週刊新潮新年号掲載)が物議を醸している。齧った程度の俺の吉本像は<凡人が言葉に表せない感覚や思いをピンポイントで表現する日本語の使い手>だが、娘のばななさんが弁明しているように、〝知の巨人〟はボケてしまったのだろうか。

 池澤夏樹著「春を恨んだりはしない~震災をめぐって考えたこと」(中央公論新社)を読んだ。池澤は3・11以降、被災地に足を運び、見聞したことを柔らかい感性、奥深い洞察、物理の知識で研いだ。潤いと鋭さを併せ持つ鎮魂歌に心を揺さぶられる。

 「あの頃はよく泣いた」と池澤は第1章<まえがき、あるいは死者たち>で記しているが、俺にとっても2011年は涙に暮れた一年だった。とはいえ俺は、優しい人間ではない。阪神大震災時、東京から被災地を他人事のように眺め、親族の死や病気にも冷淡だった。だが、16年の年月が感性を変える。背後に忍び寄る死の影に気付いてようやく、俺は人間らしい感情を持てるようになった。

 個々の死が風化し、数に換算されていくことに、池澤は違和感を覚えた。それぞれの尊い死に迫るため、多くの被災者の肉声に接した池澤は、「どうして自分がこんな目に」という恨み言と一切出合わなかった。池澤は自然の冷酷さ受け入れてきた日本人、東北人の来し方に思いを馳せ、 <災害と復興がこの国の歴史の主軸ではなかったか>と綴っている。災害は日本人独特の無常観、死生観、美意識、諦念を育んだが、マイナス面もある。日本人は戦争や政府の無策まで天災として受け入れるようになったのだ。

 第7章<昔、原発というものがあった>の冒頭で、「地震と津波は天災だが原発は人災」と池澤は記している。大学で物理を学んだ(埼玉大理工学部中退)池澤は、1990年前後から原発に疑義を呈してきた。別稿(11年4月15日)で紹介した「すばらしき新世界」(00年)は自然と進歩、家族の絆、価値観の転換といった3・11以降の日本に即したテーマを紡いだ作品だ。

 「すばらしい新世界」で興味深いのは、主人公が所属する部署で2030年の日本のエネルギー事情がテーマになった場面だ。「原発はほとんど消滅」という共通認識は、「春を――」で示された「再生可能エネルギー導入ポテンシャル調査報告書」(11年、環境省)と距離が近い。<政官財が一体となって原発を推進>などと当ブログで記してきたが、経産省と環境省では志向性が異なるようだ。

 「春を――」で池澤は、感性ではなく技術論で原子力を否定する。最大のネックは、他の研究者言及しているように万年単位の放射能の管理だ。絶対安全の器がないことを、<すべての物質を溶かす溶媒>というSFのパラドックスを用いて説明していた。人災としての福島原発事故がもたらした悲劇を、池澤は第1章で以下のように記している。

 <撒き散らされた放射能の微粒子は身辺のどこかに潜んで、やがて誰かの身体に癌を引き起こす。(中略)この社会は死の因子を散布された。放射性物質はどこかでじっと待っている>……。

 主音はペシミスティックだが、池澤は希望を捨てない。池澤は崇高な志を持つ人々と出会い、行政とボランティアが垣根を越える場面に遭遇した。そして、3・11が<集中と高密度と効率追求ばかりを求めない分散型の文明への一つの促しになることを期待している>と結んでいる。

 池澤は次作のテーマに3・11を据えるはずだ。「すばらしい新世界」、「光の指で触れよ」に次ぐ第3部になることを期待している。


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「ユスフ」3部作~夢と現の迷路でトルコ映画を楽しむ

2012-01-09 20:30:14 | 映画、ドラマ
 正月スポーツが一段落した。大学ラグビーでは天理が準優勝、準々決勝で同志社が終盤まで帝京をリードするなど関西の復権が著しく、来季以降が楽しみになってきた。正月競馬は惨敗続きで、お年玉どころかいつも通りJRAに寄付している。

 NFLのワイルドカード・プレーオフは想定内の結果だったが、カレッジでは番狂わせが起きた。フイエスタボウルでスタンフォード大がオーバータイムの末、オクラホマ州立大に敗れる。イージーミスを繰り返したスタンフォードのキッカーを追う残酷なカメラアングルに胸が痛んだ。シーズンを締めくくるBCSチャンピオンシップ(日本時間10日、LSU対アラバマ大)が楽しみだ。

 仕事先の先輩のブログで知ったが、とんでもない事態が進行中だ。4号機の使用済み核燃料プールが危機的状況に陥り、小出裕章氏は講演で、外出時のマスク着用、建屋倒壊時の速やかな関東以西への移動を強く勧めている。正月ボケ(実は万年ボケ)は吹っ飛んだが、俺もどうやら、政府とメディアに催眠剤を飲まされていたようだ。

 さて、本題。巨匠の作品が時に催眠剤になることもある。俺に効いたのはフェリーニだった。20代の頃、「8 1/2」と「女の都」の2本立てにある女性と足を運んだ。明かりが灯って爆睡から覚めた時、彼女は蔑みの一瞥をくれ、出口へスタスタ消えていく。それっきりで、片思いもジ・エンドになる。

 早稲田松竹で先週末、久しぶりに睡魔と闘った。「卵」(07年)、「ミルク」(08年)、「蜂蜜」(10年)の「ユスフ」3部作(トルコ、セミフ・カブランオール監督)である。第1部「卵」で母の死を知った詩人ユスフは帰郷し、神秘的な風景をバックに、心の旅は過去へと遡る。「蜂蜜」でようやく、希薄だった父が像を結んだ。

 背景はすべて21世紀だ。「卵」(中年期)、「ミルク」(青年期)には携帯電話が登場し、「蜂蜜」(少年期)の舞台は09年である。奇妙な時間の流れとともにユスフの内面の核が明かされ、靄がクリアになる過程で、俺の眠気も覚めていく。夢と現を彷徨う3部作は、ミステリーの風味も備えていた。

 南方熊楠、柳田国男が追究し、小泉八雲が憧れた日本人の死生観、無常観、宗教観はデジタル世代にも継承されているが、トルコも同様なのだろう。独特の風土や感性に根差した「ユスフ」3部作を、理解しようと試みてはいけない。宮沢賢治ファンは<夢の中で夢を見るように読めばいい>と語っていたが、そのアドバイスは「ユスフ」3部作にも当てはまる。酔生夢死の観賞法は、結果的に正しかったようだ。

 第2部のタイトルでもあるミルクが、全体を結ぶイメージになっていた。「卵」には牛乳配達の少年が登場し、「ミルク」の主人公は自身が牛乳を配達している。「蜂蜜」のユスフ少年にとって牛乳嫌いの克服が、自立のスタートになる。「卵」ではスランプに陥った詩人、「ミルク」は煌めきを見せ始めた新鋭の詩人が主人公で、「蜂蜜」では少年が言葉に目覚める経緯が描かれていた。

 ユスフ少年は失語症で、周囲とコミュニケーションを取れない。校庭で遊ぶクラスメートをひとり教室から眺め、初恋の少女の詩の朗読に聞き惚れている。ユスフは柔らかく鋭い感性を教室の外で磨いた。森に仕掛けた籠から蜂蜜を採集する父と行動をともにしながら自然と親しんでいく。強い絆で結ばれていた父を捜しに、ユスフは森に入った。闇に佇む少年に、「卵」と「ミルク」の主人公の孤独が重なった。

 謎のまま終わったシーンも数多い。「卵」の冒頭、古書店に現れるグラマーな女性は何かのメタファーかもしれない。たびたび昏倒するユスフは夢(幻想)で獣に襲われ、ラストの雷鳴に繋がる。「ミルク」で繰り返し現れる蛇、ラストの巨大なナマズは、ユスフの神聖な父への思い、母の裏切りとその再婚相手(駅長)への憎しみの徴とも受け取れる。<理解しようと試みてはいけない>と記した割に屁理屈をこねてしまうのが俺の悲しい性だ。

 3作はともに人工的な音を排し、自然をそのままサントラとして重ねている。風の音、木々の揺らぎ、鳥の鳴き声、獣の咆哮のような雷鳴、虫の羽音、蜜蜂の囁きが自然への畏れと共生を呼び覚ましてくれた。映画館から一歩踏み出した外には、人工を極めた装置から排出された放射能が舞っていたのか。

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小川洋子の清澄な世界~濾し取られた言葉に心洗われ

2012-01-06 03:15:19 | 読書
 元日に「芸能人格付けチェック」を見た。まじまじとAKB48(ノースリーブス)を眺めたのは初めてだったが、選挙だの入れ替えだのと大騒ぎしている割に、普通の女の子だったので驚いた。音感チェックは番組の恒例だが、<バイオリンの名器は安価な現代ものと音に変わりなし>の報道で次回以降、種目から外れるかもしれない。

 年末年始は小川洋子の「ブラフマンの埋葬」(講談社文庫)と「ミーナの行進」(中公文庫)を続けて読んだ。映画「博士の愛した数式」は見たが、小説そのものは昨年発表された「人質の朗読会」に続き、2、3作目となる。

 自分のブログを読み返すと、底意が芥のようにプカプカ浮かんでいるのに気付く。内面が汚れているから仕方ないが、小川さんの言葉は対照的で、深山の泉から湧き出る純水のように澄んでいる。濾過装置をいかにしてしつらえたのだろう。

 まずは「ブラフマンの埋葬」から。山あいの村にある「創作者の家」には、様々な分野のアーティストが集ってくる。管理人の僕の元に、奇妙な生き物が転がり込んできた。犬、猫、リス、狸、それとも小型アザラシ? 碑文彫刻師により、「ブラフマン」(サンスクリッド語で謎)と名付けられる。

 名の通り謎めいたブラフマンは粗相を繰り返しながら、僕と仲良くなっていく。彫刻師と一緒に見事な泳ぎっぷりに見とれているが、2人以外にとっては不気味な存在だ。とりわけ女性に評判が悪く、雑貨屋の娘とレース編み作家は、嫌悪と拒絶を隠さない。ブラフマンを可愛がる僕まで、人間性を疑われてしまう。

 泉泥棒の登場から穏やかな日常にヒビが入り、僕とブラフマンのひと夏の友情は終わりを迎える。ブラフマンを僕の孤独、時間との遮断のメタファーと受け取ることも可能だが、俺の中で重なったのは宮沢賢治の世界だ。

 「ミーナの行進」の主人公、朋子は1959年生まれで、作者より3学年上という設定だ。岡山育ちの朋子は父を亡くし、母は洋裁を生活の糧にするため、東京の専門学校で学ぶことになる。72年4月から翌年3月までの1年間、芦屋の伯母宅に預けられた朋子は、夢を形にした豪邸で、1歳下の従妹ミーナと多くの時間を過ごす。

 共に暮らすのは飲料メーカー経営者の伯父、伯母、ミーナ、暗い記憶を秘めるユダヤ系ドイツ人のローザおばあさん、使用人の米田さん、コビトカバのポチ子、そして運転手の小林さんだ。朋子とミーナだけでなく、ローザおばあさんと米田さんも、双子姉妹のような絆で結ばれている。タイトルの「ミーナの行進」は、小林さんが引くポチ子の背に乗ってミーナが小学校に通う光景を指したものだ。

 物語の背景になった1970年前後、この国で何が起きていたのだろう。傷痍軍人は街角から消え、戦争の爪痕は塗り潰された。高度成長と引き換えに、家族や地域から個という砂粒が零れ始める。そんな時期、日常の万般に通じた米田さんは、豪邸でビーズの糸の役割を果たしていた。

 俯瞰なら幸せな家族も、問題を幾つか抱えている。最大の悩みはミーナの健康だが、夫婦の亀裂が空気を蝕んでいた。伯父には別宅があり、伯母は自分の殻にこもっている。「人質の朗読会」に校閲者が登場するが、「ミーナの行進」で伯母は、誤植探しで孤独を癒やしていた。作者は校閲という仕事に価値を見いだしているようで、俺みたいな三流の校閲者は恥じ入るしかない。

 川端康成の死をきっかけに文学に目覚めたミーナの代理で図書館に通ううち、朋子は司書に恋心を抱く。一方のミーナの初恋は、自社の飲料を週1回運んでくる青年だ。朋子と司書は本、ミーナと青年はマッチ箱で繋がっていた。ミーナは火を愛でる姫君で、一瞬に燃え尽きる儚さに病弱な自分を重ねていた。2人の少女が揃って夢中になったのがミュンヘン五輪の男子バレーボールで、偶然にも本作を読了した翌日、監督を務めた松平康隆さんの訃報を知る。

 「ミーナの行進」は家族の親和性と緩やかな崩壊を描いた作品といえるだろう。後日談として阪神大震災についても記されている。俺ぐらいの年になると未来は限られているから、過去が持つ意味が大きくなる。セピア色に褪せ、深く沈んだ記憶が、ふとしたきっかけで熱を帯び滲み出てくる。これからも小川ワールドに触れ、郷愁と安らぎで乾いた心を潤したい。


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笑う門には福来る~落語に親しんだ新年

2012-01-03 20:53:38 | 戯れ言
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 年末年始はテレビの討論や回顧、新聞や雑誌の'12展望に幾つか触れ、一層ペシミスティックになった。プラス思考で能天気な俺の資質にマッチしたのが、「NHKスペシャル~目指せ!ニッポン復活」(元日)だった。番組で取り上げられた銘建工業(岡山県真庭市)は、木質構成材の製造過程で生じる屑を加工して燃料(ペレット)を作り、地元で効果を挙げている。
 
 「朝まで生テレビ!」で原発推進派の奈良林直氏(北大教授)は、「欧州型の原子炉は安全」と語っていたが、アメリカ型に倣わざるを得ない構造を指摘する声が上がっていた。電力は原発に限らず巨大な仕組みで供給されるが、銘建工業と真庭市による<エネルギーのリサイクルと地産地消>は、地域の自立とグローバリズムの克服、そして脱原発に繋がるはずだ。

 ジャーナリスト休業直前、「朝生」に出演した上杉隆氏はタブーを破って空気を凍らせていた。「作業員だけで数人の死者を出した東電になぜ、司直の手は入らないのか」という国民の疑問を代弁する発言は、この国では許されない。上杉氏は年明けから福島に拠点を移して活動するという。充電と蓄積を経た後の復活を待ちたい。

 「NHKスペシャル」の裏番組だった「相棒」元日スペシャル「ピエロ」は録画で見た。「相棒」が政治や社会を扱うと突っ込みどころ満載になるが、今回は格差と貧困をベースに、犯人(斎藤工)の屈折した心情を無理なく織り込んでいた。杉下右京(水谷豊)のお約束の激情に、勧善懲悪が建前の地上波の限界を感じる。

 笑う門には福来るという。〝巧まざるユーモア〟を発揮して笑われることが大得意の俺だが、元日と2日は落語に親しんだ。スカパーで録画しておいた金原亭馬生と三遊亭圓生の名演、「落語娘」(08年、中原俊監督)を続けて見る。  

 馬生は古今亭志ん生の長男で、志ん朝の兄に当たる。長女は池波志乃だ。落語初心者の俺に馬生は父、弟、娘と比べて馴染みが薄かったが、巧みな語り口に引き込まれていく。10代の頃、宇都宮から東京まで歩いた経験を枕で語っていたが、父の志ん生が満州に渡っていた時期に当たる。一家の貧窮ぶりが窺えた。

 聞き惚れたものの初笑いとはいかなかった。演目の「鰍沢」は人情噺というより、一種のサスペンスだったからである。心中で死に切れなかった遊女、身延山参詣の途中に迷い人になった男の再会が、悲しい事件の呼び水になり、山中での追跡劇になる。声色と目の動きを使って演じる名人芸に感嘆した。

 圓生の「掛取万歳」が俺にとっての初笑いになる。枕の部分で、「借金取りという〝鳥〟に取りにこられたことは随分ある」と話していた。貧乏といえば志ん生の専売特許と思っていたが、並び称される圓生もまた、金策に追われた時期があったようだ。茫洋とした馬生と対照的に、圓生の鋭い眼光が印象的だった。

 「掛取万歳」では八五郎が、狂歌、喧嘩、義太夫、芝居、三河万歳と借金取りの趣味を逆手に取って撃退していく。常に論争の中心に位置していた圓生にとって、相手をやり込める「掛取万歳」は十八番かもしれない。会場では笑いの渦が次々に起きていた。

 圓生と馬生は30年以上前に召されている。今後も桂文楽など戦後の名人たちの高座が放映予定だ。貴重な文化遺産を後世に伝えるTBSチャンネルに敬意を表したい。

 最後に「落語娘」について。三々亭平佐(津川雅彦)と三松家柿江(益岡徹)は対照的な噺家だ。バンダナを巻き気ままに生きる平佐は志ん生や談志を彷彿させ、古典に打ち込む柿江のモデルは圓生に違いない。三々亭香須美(ミムラ)は柿江に入門を断られて平佐に弟子入りした経緯もあり、いまだ柿江に尊敬の念を抱いている。

 平佐は香須美にソープランドのツケを払わせるような師匠だが、見捨てることが出来ない。そんな平佐がテレビ局の美人プロデューサーに一世一代の大勝負を持ち掛けられ、呪いの籠もった禁断噺「緋扇長屋」に命懸けで挑戦することになる……。

 ほのぼのとしたストーリー、落語家たちが監修した楽屋の様子やしきたり、事細かに描かれた「緋扇長屋」の設定など、落語ファン必見の映画といえるだろう。芸達者の津川や益岡は当然として、主役を務めたミムラの「寿限無」や「景清」も聞き応え十分だった。

 2012年は希望と笑いと、そして愛に満ちた年にしたいと願っている。とはいえ、三つ目はかなり難しそうだ。


コメント (2)
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