酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「血盟団事件」に描かれた<情念と怒りのネットワーク>

2013-09-29 21:07:40 | 読書
 仕事先のN君は、世界を旅して見聞を広めている。今回の休暇で訪れたロシアは、安倍政権下の日本と空気が似ていたという。一見自由だが、「体制批判は許さない」がプーチン政権のスタンスだ。N君は<国民を監視する見えざる目>の存在を痛いほど感じた。

 アンチ安倍派は、「ファシズム」、「戦前回帰」といった慣用句を用いて批判するが、縦軸と横軸を広げ、俯瞰の視線で眺めないと政権の本質は掴めないのではないか。メディアの貧困な表現とは対照的に、N君の直感は刺激的で新鮮だった。

 星野智幸がブログで絶賛していた中島岳志著「血盟団事件」(13年、文藝春秋刊)を読了した。昭和初期のテロに迫った本書に、星野は「間もなく訪れる近未来を先取りして読んでいるような気分になった」という。「ロンリー・ハーツ・キラー」(04年)を書き上げる際、星野は血盟団関連の史料に当たった。「ロンリー――」で世の中のムードを変える青年の名は、血盟団の指導者、井上日召から取られている。

 当ブログで<日本の反体制史で最も本質的な運動を展開した時期は1930年前後>と繰り返し記した。80年前、<格差と貧困>に喘いだ民衆は生活実感に根差した闘いを繰り広げる。頻発した労働者や農民による争議は死を覚悟したガチンコ勝負だったが、創意、パンク精神、ユーモアに溢れていた。

 本書の前半で、井上日召の精神遍歴が記される。労働争議に関わったり、中国で革命に携わったりと波瀾万丈で、諜報活動の一翼を担ったこともあった。流浪の日々、絶対的な精神の核を追求した井上は法華経と出合い、人生観、宇宙観、国家間の合一を掲げる。啓蒙活動と宗教的修養を重視した井上だが、資本主義への憎悪は次第に高まり、<部分的な改良や、なにかでは(人々は)到底救はれない>と考えるに至った。

 地縁で繋がる青年たちだけでなく、エリートの帝大生、海軍将校が井上の元に結集する過程はドラマチックだ。彼らは農民や労働者を窮状から救いたいという正義感、国を壊した政党や財閥への怒りを共有していた。「天皇と東大」(立花隆著)にも記されていたが、右翼青年の多くは左翼を、国の歪みを正す同志と見做していた。

 井上を宗教家として慕う若者は、<革命とは哀れむべき人、悲しむべき人に、思い遣り、情を含めていくこと>と考えていた。井上自身、<革命は、大慈悲のある者だけが行ずる資格を持つ菩薩行>と語り、テロ決行を迫る青年将校を惑わせていたが、情勢は逼迫する。他のグループも様々な動きを見せる中、「一人一殺」に舵を切った。

 本作に登場する著名右翼の人物像も興味深い。井上とその周辺の目に、大川周明は権力亡者、西田税は風見鶏、安岡正篤(細木数子のパトロン)は空虚なインテリと映っていた。農本主義者の権藤成卿には一定の敬意を払っており、支援も受けていた。本書とは離れるが、北一輝と井上を対比してみる。

 井上にとって天皇は絶対的で、「一人一殺」は君側の奸を排除し、天皇と民衆が直で結びつく有効な手段だった。一方の北は大逆事件に連座する可能性もあった反皇室主義者で、天皇を木偶として利用し、革命成就後の廃位を視野に入れていた。井上は捨て石としての破壊(テロ)を、北はクーデターとその後の建設を志向する。井上は海軍、北は陸軍に強いパイプを築いていた。

 井上と北のいずれが国家にとって危険であったかは、事件後の処遇で明らかだ。井上は無期懲役で入獄するが8年後に特赦となり、近衛首相のブレーンのひとりになる。四元義隆のように戦後も黒幕として影響力を保持した血盟団のメンバーも少なくない。一方の北は2・26事件後、直接的な関与を示す証拠はなかったものの、理論的指導者として銃殺された。

 本書に描かれているのは、濾過するような純化であり、男たちの絆だった。<血盟団事件は、煩悶からの解放と理想社会の誕生を夢見て決行された宗教的供犠だったのである>と筆者は結んでいる。貧困と格差が進行する現在の日本に、権力に抵抗する軸はない。俺が危惧するのは80年前のように<情念と怒りのネットワーク>が形成され、暴力の形を取って噴出することだ。
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「クロスビート」休刊に寄せて~アートに点数は必要か

2013-09-26 23:39:20 | 独り言
 楽天が初優勝した。M対象のロッテ戦と合わせ、ドラマチックな流れになった。斉藤隆、田中と繋ぐ辺り、星野監督の〝魅せる気配り〟が窺える。俺はアンチ星野で、巨人は大嫌いだが、日本シリーズで対戦すれば楽天を応援する。

 一度も見ていないから論じようがないが、「半沢直樹」が凄まじい視聴率を記録した。ここ数年、役所広司、阿部寛と邦画界を引っ張ってきた堺雅人のブレークには喜んでいる。

 発足から10カ月、安倍政権の支持率は今も60%を超えている。朝刊各紙が安倍政権を評価(10点満点、以下同様)すれば、読売と産経は9、朝日は8、毎日と東京は5~6といったところか。俺の主な判定基準が<格差と貧困>、<原発>、<管理と自由>である以上、安倍政権の現状を危惧している。

 評価はあくまで個人的なもので、普遍性を持つのは難しい。錚々たる論者が揃う「週刊文春」の映画コーナーは、園子温作品に低い点数をつけてきた。特異な才能が権威から叩かれる例を挙げたらきりがない。

 ロックの分野で点数化と格闘してきた「クロスビート」が今月発行号をもって休刊した。1988年夏、LAで歴史的な事件が起きた。ヘビメタのトップバンドが集結した野外フェス当日、指呼の距離で開催されたデペッシュ・モードの単独公演(ローズボウル)は3倍強のファンを動員する。ロック界の潮目は変わり、軌を一にして創刊された「クロスビート」は、パンク、ニューウェーヴの流れを汲むバンドを誌面の軸に据える。豊富な情報量がウリで、視覚的には「ロッキンオン」を圧倒していた。

 アルバムの点数化に違和感を覚えるようになり、立ち読みで済ますようになる。「ローリング・ストーン」や「NME」といった米英の老舗誌は、点数化で権威を高めてきたが、歴史を検証すると、信用に値しないことは明らかだ。

 「ローリング・ストーン」がUKパンク、ウエストコーストパンクをリアルタイムでいかに低評価したかを示す資料がある。権威が革新的な才能を見落とすのは仕方ないが、問題は過去の隠蔽と歴史の捏造だ。パンクの精神を受け継いだバンドがロックの主流になるや論調を変える。権威維持のため、「聴くべきアルバム100枚」とかいった無意味な特集を繰り返し組んでいる。ちなみに「ローリング・ストーン」に目の敵にされ、跳ね返してきたのがミューズだ。

 NMEは今年、ダフト・パンクの「ランダム・アクセス・メモリーズ」とアークティック・モンキーズの「AM」に「10」を与えた。ダフト・パンクには納得したが、後半ダレたアクモンの方は「10」に値する作品とは思えなかった。アラン・シリトーの影響を受けたシニカルな歌詞を加味した「10」かもしれない。ローカル・ネイティヴス、シガー・ロス、ザ・ナショナル、フレーミング・リップスと愛聴盤が続々と発売されたが、NMEはすべて「8」評価だった。

 「クロスビート」の点数に納得したこともあれば、疑問を抱いたこともあった。オアシスの3枚目以降、レディオヘッドの4枚目以降も高点数で、信じて購入し愕然としたこともある。レーベルやアーティストとの関係もあり、業界で生き抜くためにはおもねらざるを得なかったのだろう。安倍政権と組んだマスメディアのマインドコントロールと比べたら許せる範囲だ。

 最終号のアルバムレビュー欄で、アクモンの新作が紹介されていた。点数は何と「6」。ちなみにNMEで「4」と酷評されていたキングス・オブ・レオンの新作は「8」……。この2枚に限れば「クロスビート」の方がNMEよりまっとうだと思う。

 点数化により、自分を神と錯覚できるかもしれない。まあ、俺など神どころか、「2」程度の人間だ。対象が何であれ、点数化なんて荷が重いことを自覚している。
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「パシフィック・リム」~メルトダウンが地球を救う?

2013-09-23 23:46:15 | 映画、ドラマ
 この3連休は、泊まりがけで初秋の横浜を満喫した。野球観戦と中華街はともに13年ぶりである。スタジアムの一塁側内野席はほぼ満席と、ベイスターズファンの熱い思いを感じた。8対1とスコア的には楽勝だが、中日の凡ミス連続に助けられた結果といえる。〝キレ老人〟高木監督は試合後、怒りで顔を真っ赤にしていたらしい。

 記憶に残ったのがAKSBの可愛らしさだ。開始時(午後2時)は夏がぶり返したような陽気で、ビールが飛ぶように売れていた。A(アサヒ)、K(キリン)、S(サッポロ)の売り子たちは美形揃いで、それぞれにファンがついている。前と横のおじさんは決まった子から毎回買い、親しげに会話を交わしていた。

 空気が変わったといえば中華街も同様で、食べ放題、バイキングを謳う店が目についた。混雑を避け朝11時前に訪れたが、行列が出来ている店もあった。水餃子、涼菜盛り合わせ、豚肉とニンニクの芽炒めにライスを付けて2人で4000円弱……。これで満腹になるのだからコストパフォーマンスは高い。店を出たら近辺は人でごった返していた。日中友好に揺らぎがないことを実感する。

 新宿で先日、「パシフィック・リム」(13年、ギレルモ・デル・トロ監督)を見た。「ライフ・オブ・パイ」に次ぐ2度目の3D体験で、細部まで意匠が凝らされた映像に魅了された。遠くない未来、太平洋の底から次々に現れた怪獣により、地球は破滅寸前に追い込まれる。国境を超えて結成された防衛軍は決死の覚悟で立ち向かうが、進化を重ねる怪獣の前に劣勢になる……というのが大雑把なストーリーだ。いずれご覧になる方も多いと思うので、背景について記したい。

 日本発信の<オタク>は既に国際語になっている。代表格はタランティーノだが、ピューリッツアー賞受賞作「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」(ジュノ・ディアズ著)の主人公に、本作のデル・トロ監督が重なった。オタク青年のオスカーは「AKIRA」の大ファン、デル・トロは「童夢」の映画化企画と、ともに大友克洋に絶大なる敬意を抱いている。

 俺は「パシフィック・リム」にハリウッド映画を超えるスケールと奥行きを感じた。ホラー、ファンタジー、アニメと幅広いジャンルに監督、製作、脚本として関わってきたデル・トロだが、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、ペドロ・アルモドバルといった鬼才とも交流がある。デル・トロはオタクの情熱、芸術性、俯瞰の目を併せ持つ監督といえるだろう。

 頭脳と肉体、科学と魂、光と闇が繰り返し対比される本作のキーワードを挙げれば<絆>、<オマージュ>、そして<日本>だ。まずは<絆>から。

 主人公ローリー(チャーリー・ハイム)は怪獣撃退マシン、イェーガーのパイロットだ。任務中に亡くした兄ヤンシーへの思いがストーリーの軸になっている。イェーガーに乗り組む2人は互いの脳を繋ぎ、知性と感性を共有する。ローリーにとって兄の死は、臨死体験として記憶の底に蓄積されている。

 森マコ(菊地凛子)は防衛軍ペントコスト司令官(イドリス・エルバ)の養女で、副官的存在だ。オタクの典型といえる技術者ニュートンと同僚ハーマンは、恩讐を超えて力を合わせる。キャスティングでいえばハンニバル・チャウ役のロン・パールマンとデル・トロの絆だ。「ロスト・チルドレン」で世界を瞠目させたパールマンは、本作でも桁外れの存在感を示していた。かくのごとく、様々な絆が本作を織り成す糸になっている。

 次は<オマージュ>だ。エンドロールの最後に、レイ・ハリーハウセンと本多猪四郎への献辞が捧げられていた。2人のモンスターマスターがいなければ、この作品は生まれなかった。特撮、CG、特殊メイクを多くの映画、そして関係者から学んだデル・トロにとり、本作に恩返しの集大成になっている。繰り返し現れる近未来的廃墟は、アメコミから学んだに違いない。

 最後は<日本>だ。怪獣は劇中「カイジュウ」で、マコとペントコストの日本語の会話が挿入されている。全編がゲーム感覚で進み、漢字が幾つものシーンにちりばめられていた。何より見逃せないのが、日本独特の自己犠牲の精神が称揚されている点だ。マコを演じた菊地のメイクは、欧米人から見たエキゾチックな日本人女性そのものだが、デル・トロは外見だけでなく、内面をもきっちり理解している。既に死語かもしれないが、恥じらいと慎み深さがマコの美徳として描かれていた。その結果、本作のラストシーンは前々稿で記した「タイピスト!」とは好対照といえる。

 地球を救うのはメルトダウン? 防衛軍といっても実質は米軍の単独行動? ツッコミを入れたくなる部分もあるが、本作は傑作エンターテインメントと断言できる。怪獣を操る存在(異星人?)がにおわされていたが、明らかになっていない。「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」には被爆によって生まれた怪獣が登場していた。続編「パシフィック・リムⅡ」では、放射能をまき散らす怪獣が、原発のように地球を危機に陥れるのではないかと、勝手に想像している。
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志の輔、三三、志智~テレビ桟敷で話芸に親しむ

2013-09-20 15:01:25 | カルチャー
 「ロッキンオン」のHPで、目が点になる記事を発見した。トム・ヨークはツアー中、「クリープ」をせがむファンに「ファッキン・クリープを演るつもりはない」と言い放ったという。〝工学〟に逃げ込んだ現在のレディオヘッドに多くのファンは満足せず、等身大だった頃の曲に愛着を抱いている。

 ミック・ジャガーは70歳になっても腰をクネクネさせて「サティスファクション」を歌い、2歳下のピート・タウンゼントは右手をグルグル回しながらギターを叩いている。ニール・ヤングやキュアーはファンの期待に応えて一晩で40曲以上も演奏し、モリッシーは老いてもキッズをステージに上げる。

 表現は異なるが〝お客様は神様〟を実践するビッグネームたちと一線を画して〝上から目線〟を貫くレディヘは、裸の王様になりつつある。フェスの映像を見てもカメラは客の反応を捉えない。盛り下がって絵にならないからだろう。俺が最も創造的なバンドと評価するのはトーキング・ヘッズだが、デビッド・バーンは含羞の笑みを浮かべながらダンスしていた。ロックは深刻な表情と無縁なジャンルと断言していい。

 トム・ヨークと真逆に、鋭い視線をアンテナに客席の反応を探っているのが落語家だ。感触を瞬時に分析し、噺の重点、アドリブの内容をシフトチェンジする。枕の反応で演目を変更することさえあるという。落語家はファンと真摯に向き合い、格闘している。結果として新陳代謝が進み、寄席に客が帰ってきた。今回は映像で楽しんだ落語家について記したい。

 まずは、立川志の輔から。鈴本演芸場や末広亭に足を運ぶようになってから1年半ほど経つが、立川流に遭遇することはなかった。様々な経緯があって立川流は定席に出演できず、高座はホールに限定されている。俺が唯一、立川流の噺家を見たのは、紀伊國屋寄席での志らくで、その時の演目は古典の「死神」だった。

 志らくの兄弟子に当たる志の輔は、パルコ劇場での連続公演で知られている。今春分を収録した番組(WOWOW)を改めて見た。放映されたのは新作の「質屋暦」と古典の「百年目」である。俺は新作に〝世相を織り交ぜテンポ重視〟といった先入観を抱いていたが、明治初期の太陽暦への切り替えを題材にした「質屋暦」は、熟成期間を経た古典のコクと艶を併せ持つ内容だった。

 談志の天才ぶりは語り尽くされている。古典で師匠の域に近づくのは難しいと考えたのか、志の輔は身を削って幾つもの新作を創り上げた。もちろん、古典での技量も素晴らしく、聞かせどころ満載の人情噺「百年目」を表情豊かに演じ切っていた。努力の人というのが、今のところの志の輔の印象である。

 次は主流派の落語協会に所属する柳家三三(さんざ)だ。チケットぴあのお気に入りに「落語」と「寄席」を登録しているが、三三の独演会の情報が毎週のように送られてくる。その人気には驚くばかりで、WOWOWの新企画「W亭」のトップバッターに選ばれたのも当然だ。

 「落語的女子力」のテーマに沿った演目は「宮戸川」「三枚起請」「締め込み」だった。年間500席といわれる高座で身に付けた間合い、切れ味、凄み、色気が画面から伝わってくる。視線の先にあるには偉大な師匠の小三治だろうが、芸風の近い古今亭文菊が後ろから追いかけている。切磋琢磨して落語界を牽引していくはずだ。

 祝日だった今週月曜、昼寝から覚めてチャンネルを回していたら、「日本の話芸」(NHK・Eテレ)が始まった。演者は初めて見る笑福亭仁智で、演目は「クメさんトメさん」だ。軽妙洒脱な語り口に客席は爆笑の渦で、俺も時を経つのを忘れて聞き惚れていた。

 新作といっても志の輔とは異なり、ボケと老人問題をテーマにざっくばらんに語っている。自らを落とすという関西の流儀に乗り、仁智は自虐たっぷりの枕からキャッチーな話題を織り交ぜていた。上方では関東のように階級はなく、東京のように寄席が落語中心に回っているわけでもない。厳しい環境下で精進を重ねる上方落語の底力を思い知らされた。

 落語界と異なり、クチクラ化して腐臭が漂うのが日本の政界だ。失格の烙印を押された安倍首相と麻生副総理がゾンビのようにセットで復活し、消費税増税と法人減税を導入する予定という。間近に迫る地獄を、国民はなぜか心待ちしている。
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「タイピスト!」~時代を映すポップなエンターテインメント

2013-09-17 23:32:15 | 映画、ドラマ
 第1次政権時、安倍首相をバッシングしていたメディアだが、景色は7年後に一変し、今や安倍翼賛会を形成している。この変化に貢献した世耕弘成副官房長官が、民主党の林久美子参院議員と再婚した。権力中枢と野党議員の組み合わせを訝る向きも多いが、そもそも民主党って野党だろうか。野田前首相は原発再稼働、消費税増税、TPP参加、弱者切り捨てと、政権交代の地均しをした。この結婚を機に、民主党は党を挙げて自民党に合流したらどうか。

 凱旋門賞の前哨戦3鞍が15日、ロンシャン競馬場で行われ、キズナがニエル賞、オルフェーヴルがフォワ賞を制した。本番がジャパンデーになる公算大だが、ドイツ最強馬ノヴェリストとともに、ヴェルメイユ賞を楽勝したパリっ娘トレヴが立ちはだかる。今年の凱旋門賞は日仏対決でヒートアップし、仏メディアはトレヴをジャンヌ・ダルクに譬え愛国心を煽るだろう。

 有楽町で先日、フランス映画「タイピスト!」(12年、レジス・ロワンサル監督)を見た。「アーティスト!」のスタッフが結集し、細部まで趣向が施されていた。1959年のフランス地方都市を舞台にしたポップなエンターテインメントだが、そこは奥深いフランス映画、当時の閉塞状況と、アメリカへの複雑な思いが作品の背景になっている。

 ルイ(ロマン・デュリス)は家業を継いで保険会社を経営している……といっても、社員は彼1人。秘書に応募してきたのがローズ(デボラ・フランソワ)だ。1週間の試用期間終了後、ルイはクビを宣言する。ショックを受けたローズに、ルイは本採用の条件を挙げた。タイプライター早打ち大会に優勝することである。

 そんな大会が実際にあって、世間を熱狂させていたなんて作り事かもしれないが、ストーリーが進むにつれヒートアップし、リアリティーを増していく。ローズに10本指打ちを体得させるため、爪とキーボードに同じ色を塗る。文章予測力を高めるため、「ボヴァリー夫人」などを教材に選んでいた。ランニングやマッサージも、もちろん欠かせない。スピードアップのためピアノ特訓を思いついたルイは、かつての恋人マリー(ベレニス・ベジャ)に教師を依頼する。

 ルイはレジスタンスとしてナチスドイツと闘い、マリーの夫ボブはノルマンディーに上陸したアメリカ兵だった。優柔不断なルイは、結果としてマリーをボブに奪われたが、その辺りの経緯をどうやらボブは知らない。ルイの心情に重なるのは「死刑台のエレベーター」(58年)のジュリアンで、挫折感とやるせなさがくすぶっている。世界を闊歩するアメリカと植民地を失っていくフランス、能天気なアメリカ人と屈折したフランス人……。ルイとボブは何事も賭けの対象にする親友同士だが、両者のキャラは当時の米仏に置き換えることができる。

 やさぐれ中年のルイは政治活動だけでなく、ボクシングなどスポーツを経験している。その割に煮え切らないルイにとって、ローズは種火を焔に変えるきっかけになった。鬼コーチと若き女性アスリートによるスポ根ドラマといった趣もあり、全身全霊を込めてタイプを打つシーンは鬼気迫るものがある。気持ちを一つに突進するから、年の差を超えた恋も生まれる。

 ローズ役のデボラ・フランソワは、いかようにも変わり得るオルタナティヴな素材だ。マリー役のベレニス・ベジャは「アーティスト」で一途な新進女優を演じたが、本作では年相応のフェロモンをまきちらす。対照的なふたりの魅力がスクリーンではじけていた。

 ノルマンディー生まれのローズは、意趣返しのように頂上決戦の地アメリカに上陸する。愛の力が凱歌を上げる予定調和的なハッピーエンドに、老いた心身は癒やされ、痺れた。

 園子温の最新作「地獄でなぜ悪い」がトロント映画祭「ミッドナイト・マッドネス部門」で最高位の「ピープルズチョイス賞」を受賞した。「ミッドナイト・マッドネス」とはある意味、園監督にピッタリの言葉だ。邦画2トップを形成する園の「地獄で――」と是枝裕和の「そして父になる」の公開が月末に迫ってきた。映画の秋を楽しむことにする。
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「ロンリー・ハーツ・キラー」~作者の解読に如くはなし

2013-09-14 17:12:00 | 読書
 伏見稲荷で撮影した自身の全裸写真をツイッターに投稿した早大生だけでなく、似たような振る舞いで顰蹙を買う若者が続出している。一連の事件を受け、「なぜ非常識な行動をネットで公開するのか」、「彼らに罪の意識はあるのか」という問題提起がメディアを賑わせている。

 「雅子妃はなぜバッシングされるのか」、そして「島田雅彦と星野智幸はなぜ芥川賞を取れなかったのか」……。一見無関係な事象だが、俺の目には同根と映る。現在の皇室は、自民党の憲法改正案と相容れないリベラルさを保っている。そこに不安を抱く保守派が、最も攻撃しやすい対象(雅子妃)を選んで揺さぶっているのではないか。

 島田は雅子妃を想起させる女性を、「無限カノン三部作」のヒロインに据えた。心を洗われたい人にはうってつけの至高の恋愛小説だ。今回紹介する星野の「ロンリー・ハーツ・キラー」(04年、中央公論新社)にも雅子妃のパブリックイメージ(=生き辛い)に近いキャラが、新オカミとして登場する。文藝春秋が〝不敬小説〟の書き手に芥川賞を授与するはずはないだろう。

 「俺俺」に衝撃を受け、遡行する形で星野の作品を読んでいる。俺は星野を<アイデンティティーの浸潤を追求する作家>と評してきたが、本作は<内向きのアイデンティティー>の危険性を提示した近未来小説だ。

 壮年の若オカミが急逝する。オカミ≒御上=天皇という図式だが、思いを自由かつ効率的に発信して耳目を集める若オカミは、小泉元首相に重なる部分がある。若オカミに共感を抱く若者たちがショックのあまり引きこもりになった現象は、<カミ隠し>と呼ばれるようになった。葬儀の日、中国から飛来する夥しい量の黄砂が、棺と桜並木を黄色に染める。現在も続く日中関係の亀裂が背景として描かれていた。ちなみに若オカミの後を継ぐのは妹である新オカミだ。

 主人公は20代半ばの4人の男女だ。井上といろはは、互いにカメラを据えて相互撮影に興じることもあるビデオアーティストで、冒頭に記した若者たちほど赤裸々ではないが、自身のHPでプライベートを公開することもある。井上は<カミ隠し>と無縁だったが、カメラを通して見た世界の空虚を、自身の内面の反映と感じるようになる。いろはの恋人ミコト(通称ミコ)は、いろはの懸命な看病もあり、<カミ隠し>から社会復帰する。初対面で衝突した井上とミコだが、言葉を交わすうち感応していく。

 本作は井上「静かの海」⇒いろは「心中時代」⇒モクレン「昇天峠」の手記で構成されている。第1部のタイトルは三島由紀夫の「豊饒の海」を意識して付けられたのだろう。情動やパトスに衝き動かされた言動は美学の領域だが、星野はあえて論理化を試みている。

 井上は<この世こそあの世、あなたも死になさい、誰かと二人で>と手記を結び、ミコと心中する。井上の〝遺書〟は危険文書として取り締まりの対象になるが、一度保存されたデータが消滅することはなく、心中事件が続出するようになる。独り残されたいろはとその友人モクレンは、節々で先鋭化にブレーキを掛けようとする。

 無差別無理心中が頻発するようになると、社会に異様な緊張感が漂い、「他者を信じるな」がキーワードになる。悪意なく接近した友人を殺害し、正当防衛を主張して無罪を勝ち取った男は、第3部で岸首相として再登場する。治安強化を主張して権力の座に就いた岸は、民主主義否定の政策を着々と実行していく。岸という名に安倍首相を連想してしまうが、星野は10年後の日本を予測していたのかもしれない。

 モクレンの庇護の下、いろはが隠遁する昇天峠はその名の通り、生者と死者が戯れる場所なのか。いろはは泉のほとりで井上とミコと言葉を交わし、ラストでは公務を離れた新オカミが、兄の若オカミとともに姿を現す。ミステリアスなエンディングだった。

 謎ばかりが残ったので、書くのを先延ばしするつもりだったが、思わぬ援軍を発見した。ツイッター派でブログをめったに更新しない星野が、先月アップした記事(8月19日付)で本作に言及していた。作者の解読に如くはなしである。

 <私が「ロンリー・ハーツ・キラー」で考えたのは、先鋭化、純化に歯止めをかけるために「男たちの絆」を放棄すること、だった。女性が平和主義者だと言いたいのではなく、「純」=一様になっていくことが、危うさを高めるということである>……。

 なるほど……。男の井上とミコ、女のいろはとモクレンの志向と感性は明らかに異なっていた。本作を書くため、星野は血盟団について調べたという。星野が絶賛していた「血盟団事件」(中島岳志著)を、本作を消化するためにも購入することにした。
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「悪いやつら」~ペーソスに満ちた裏社会版ホームドラマ

2013-09-11 23:17:37 | 映画、ドラマ
 日本で今、最も信用がない東京電力にダメ出しされたのが、IOC総会における安倍首相の<汚染水ブロック>発言だ。ところが、多くのメディアが安倍演説を〝逆転を呼ぶホームラン〟と称えたことで、東電のトーンも低くなる。この国では、権力者の〝大きな嘘〟は好まれるものらしい。

 開催地決定直前の6日、韓国政府は福島など8県の水産物輸入を全面禁止すると発表した。アジア各国、オセアニア、北米へと波及する可能性もあり、極めて深刻な状況だ。放射能が福島原発から流出したとの〝科学的根拠〟が示されれば、海外からの損害賠償請求は想像を絶する額になるだろう。俺はかなりの楽観論者だが、被災地のシビアな現状を合わせて考えると、五輪決定に狂喜する人の気持ちがわからない。

 新宿シネマートで先日、「悪いやつら」(12年、ユン・ジョンヒン監督)を見た。人間の深淵に錨を下ろす韓国映画は多いが、本作は肩が凝らないエンターテインメントだ。元税関職員のチェ・イクヒョン(チェ・ミンシク)と組長のチェ・ヒョンベ(ハ・ジョンウ)が釜山の裏社会で上り詰める過程を描いた作品で、韓国版「グッドフェローズ」が売りだが、泥臭いトーンと薫りは日本のヤクザ映画に近い。

 血飛沫が上がり、切断された手足が転がる日本のヤクザ映画に比べ、暴力シーンは抑え気味だ。日本の俳優に似た容貌とキャラを持つ男たちが次々に登場し、観賞中はデジャヴの連続だった。役得で入手した覚醒剤が、イクヒョンの飛躍(=堕落)のきっかけになった。「韓国人は30年以上も日本の支配で苦しんだ。奴らをシャブ中にしたって構わない」というイクヒョンの台詞に、日本に対する韓国人の感情が窺える。

 イクヒョンがブツを日本に流すために選んだのがヒョンベの組だった。韓国の特殊な事情が本作のキーになっている。四半世紀も前のこと、韓国通の知人は「金大中は大統領になれない」と断言していた。予想は外れたが、確たる理由はあった。金は大統領選で、出身地(全羅南道)で80%以上の票を得たが、他では伸び悩んでいた。日本からは<独裁VS民主主義>に見えたが、地域間の確執の大きさを知人は力説していた。

 本作では韓国における血縁と地縁の意味が、余すところなく描かれている。やさぐれ公務員のイクヒョン、売り出し中の極道ヒョンベ……。力関係は明白なのに、同じ一族、といってもせいぜい五親等(?)ぐらいなのに、年上のイクヒョンは当然のように兄貴風を吹かす。ちなみに、血縁と地縁が効力を発揮するのは裏社会だけではない。部長検事(同じく姓はチェ)は家族に接するように悪党に便宜を図る。悪知恵が働くイクヒョンは、盧泰愚大統領の「ヤクザ組織撲滅宣言」をも逆手に取ってしまう。

 自らの才覚が組織を育てたと自負しているが、イクヒョンに手兵はいない。「俺が兄貴」という思いに駆られたイクヒョンの卑劣さは清々しいほどで、タイトルはむしろ、「悪いやつ(=イクヒョン)」の方が相応しい。ラストは予定調和的で、名士にのし上がったイクヒョンを待ち受けていたのは裏社会の掟だった。

 「チェイサー」の連続殺人犯、「哀しき獣」の追いつめられた殺人請負人、「ベルリン・ファイル」の超人的な北朝鮮諜報員……。本作のハ・ジョンウは冷酷な極道という設定だが、実像は信頼していた兄貴に裏切られるほど人間的だ。一方のチェ・ミンシクは石塚英彦をスリムにした感じで、言動はユーモラスだが、爆発すると手がつけられない。本作は兄弟の情と相克を描いたペーソスに満ちた〝裏社会版ホームドラマ〟といえるだろう。

 韓国人には、狡いイクヒョンが日本、一本気なヒョンベが韓国に重なったりして……。勝者はいずれか、意外に意見が分かれるかもしれない。
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初秋のスポーツ雑感~五輪、NFL、WWE、そしてボー・ジャクソン

2013-09-08 21:03:24 | スポーツ
 東京が2020年夏季五輪開催地に決定した。IOC総会で「原発事故による汚染水も健康被害も全く問題ない」(趣旨)と演説した安倍首相に愕然とした俺は、きっと非国民なのだろう。五輪開催に向け、<倫理や良心より金>の獣の論理が幅を利かし、ゼネコンや投資家の懐は温かくなる。メディアは「欲しがりません、五輪までは」と〝五輪ファシズム〟の音頭を取るはずだ。

 仕事先でチェックした記事に、日本の体力不足が記されていた。東日本大震災の被災3県の復興工事の21%で入札が行われなかった。人員不足よる人件費高騰で、請け負っても利益が挙がらないと判断した業者が多かったからだという。政官財挙げての五輪優先で、被災地の希望が放置されることは確実だ。トルコやブラジルでは<スポーツイベントより生活>を掲げた大規模なデモが起きたが、日本人は怒りの声を上げないだろう。自由の木は既に枯れているからだ。

 NFLが5日(日本時間6日)、開幕した。オープニングゲームでブロンコスが王者レイヴンズを49対27で破り、昨季ディジョナルプレーオフの雪辱を果たした。「反米的主張を繰り返すおまえが、最もアメリカ的で好戦的なNFLを好むのは矛盾している」と言われたら返す言葉もないが、面白いから仕方ない。

 麻雀に例えれば、NFLは「われ目でポン」に赤牌を加えたような超インフレルールで、運の要素が濃い。49ersで開幕ロースター入りにあと一歩まで迫った河口正史氏の言葉を借りれば、<サラリーキャップなど社会主義の徹底>により、NFLでは戦力均等が保たれている。だからこそ、アナリストの予想を超える大番狂わせが続出するのだ。

 俺は数試合見てから、そのシーズンのひいきチームを決める。好みは4季前のセインツのように、攻守ともギャンブル性の強いプレーを展開するチームだ。今季の注目はモバイルQBを擁するレッドスキンズ、シーホークス、49ersあたりか。シーズンの帰趨を決するのはモメンタムとケミストリーで、内紛や確執がチームを団結させるケースも多々ある。

 WWEのPPV「サマースラム」を3週間のタイムラグで見た。ハイライトになったのは、CMパンクとブロック・レズナーとのノーDQマッチである。NCAA王者、WWE王者、UFC王者を経験したレズナーを2度タップ寸前に追い込むなど、パンクの健闘が光った。さすがWWEというべきか、互いの面子を潰さず、落としどころを見つけるのがうまいと改めて感心させられた。

 パンクとともにトップスターにのし上がったダニエル・ブライアンと比べ、〝ボーイスカウト隊長〟といったキャラを与えられているシナが哀れに思えてきた。翌日のRAWで肘の手術のため長期欠場を発表したシナに、客席から「イエス、イエス」の歓迎のチャントが起きる。慈善活動、米軍関連のイベントで団体の顔として先頭に立たされているシナは、〝いい子〟を演じるしかない。女性と子供からの声援を掻き消すような男性の罵声は、本人にどう響いているのだろう。復帰後にはヒールターンしたらどうか。

 ボー・ジャクソンのドキュメンタリー(Jスポーツ)を見た。ボーは1980年代、MLBとNFLで活躍し、いずれもオールスターに出場した。MLBは5年、NFLは4年と実働期間は短かったが、記録より記憶に残るアスリートといえるだろう。

 高校時代は三段跳び、走り幅跳び、棒高跳びで才能を発揮し、大学では野球とアメフトで大活躍した。誰しもNFLに進むと考えていたが、バッカニアーズのスカウト活動がNCAAの規定に抵触したこともあり、MLBのロイヤルズを選ぶ。翌年、NFLのレイダースと契約し、4~9月はMLB(外野手)、10~1月はNFL(RB)でプレーする。

 いずれで能力を発揮したかといえばNFLで、ラン平均獲得ヤードではリーグトップ級の数字を残している。NFLは準備のスポーツといわれるが、キャンプを経ずシーズン中盤に合流して走りまくる姿はまさに超人だ。野球の方は粗削りで進歩の余地は十分だったが、長打力と守備でファンを瞠目させた。イチローの好守備が人類最高クラスなら、ボーは神の領域かエイリアンといったところで、映像に溜息しか出てこない。

 ボー自身、「練習は必要なかった」と公言しており、汗と涙、チームの規律と無縁の存在だった。実像は謙虚で温和だったというボーに、悲劇が訪れた。筋力が強過ぎるがゆえ、NFLでプレー中、股関節脱臼を発症したのだ。人工関節を埋め込まれ、地獄のトレーニングに励んでMLBに復帰したが、かつての輝きは失せていた。

 ケガがなければ、20世紀最高のアスリートとして認知されたはずだが、一瞬の煌めきは人々の記憶のスクリーンに焼き付けられている。二刀流といってもスケールは劣るが、大谷翔平の今後に注目したい。
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「虐殺器官」~夭折した作家の衝撃のデビュー作

2013-09-05 23:53:34 | 読書
 俺の過去には悔いの杭が無数に聳えている。振り返れば恥多き人生だが、この世には自省や羞恥と無縁の人、いや、国が存在する。〝世界最大のテロ国家〟アメリカだ。化学兵器使用を理由にシリア侵攻を計画しているが、1988年を思い出してほしい。イラン・イラク戦争のさなか、サダム・フセインは化学兵器で数千人のクルド人を虐殺したが、イラクの後ろ盾だったアメリカは黙認した。

 アメリカは原爆だけでなく、湾岸戦争とイラク侵攻で〝第二の核兵器〟劣化ウラン弾を用いた。帰還した多くの米兵は深刻な健康被害を訴えたが、政府は自国民にも冷淡だ。米軍がゲーム感覚でイラク民間人を殺す映像は記憶に新しい。買収された画面で、大悪党が性懲りもなく正義を語っている。

 いつも悪しざまに罵って申し訳ないが、米軍のテロ部隊員を主人公に据えたSFを読了した。伊藤計劃のデビュー作「虐殺器官」(07年、ハヤカワ文庫)である。伊藤は2年後、肺がんで召された。享年34歳である。夭折を惜しむ声は海外でも強く、遺作になった「ハーモニー」はフィリップ・K・ディック特別賞を受賞している。

 「虐殺器官」は小松左京賞の最終候補に残ったが、当の小松がダメ出ししたというエピソードは知っていた。確かに本作の前提になっている<言葉による洗脳と誘導>は「巨人の星」の魔送球みたいで、リアリティーに欠ける部分はあるだろう。でも、それだけで自らの名を冠した賞に値しないと断じた巨匠の狭量さが哀しい。

 全編を覆うのは死の匂いだ。解説によれば、「虐殺器官」が世に出た頃、伊藤の病状は悪化していたという。生の目盛りが限られていた伊藤は、本作の1稿を10日ほどで書いた。作品の舞台は凄まじい殺戮が常態化した近未来で、サラエボへの核投下、インドとパキスタンの核戦争により、ヒロシマとナガサキは記憶の彼方に葬られている。

 母の生命維持装置を外すことに同意したぼく(情報部隊シェパード大尉)は、母を殺したという悔恨に囚われている。母は頻繁に夢の中に現れ、ぼくと会話する。子供の頃、母の視線に自分への愛を感じていたぼくだが、後半で残酷な事実を示される。

 米軍は圧倒的な戦力を誇り、ぼくも不敗のエリートだったが、強力な敵が立ちはだかる。世界中で虐殺をコーディネートする同国人ジョン・ポールだ。妻子をサラエボへの核投下で失ったジョンは、言葉の力で夥しい流血をもたらす。有力議員と手を携えるジョンには<9・11のような直接攻撃を避けるため、各地で殺し合いを演出することはアメリカにとってプラス>という大義名分がある。仲間とともにジョン暗殺を命じられるぼくは、アメリカ特有のダブルスタンダードに翻弄され、失敗を重ねる。

 ジョンは言葉で潜在意識を刺激し、憎しみを呼び覚ます。一方でぼくは、少年時代から言葉に強い執着を抱いていた。<言葉とは人と人の間に漂う関係性の網ではなく、人を規定し拘束する実体>と感じるぼくとジョンは、仮想の父子関係であり、立場を超えた同志でもある。さらに、ルツィアを巡り時差のある三角関係を形成していた。

 伊藤には時間がなかったから、考えていること、感じていることをすべて作品にちりばめようとしている。本作では言語学、哲学、進化論、都市論、宗教学、ゲーム理論が縦横無尽に語られるが、決してペタンティックではなく、ストーリーと分かち難く結び付いていた。ルツィアと出会ったのがプラハであり、カフカが繰り返し登場する。

 下敷きになっているのは「ゴトーを待ちながら」(ペケット)と「地獄の黙示録」(コッポラ)だ。肝というべきジョンとぼくの対話は、ドストエフスキーを彷彿させる。命令による殺戮を繰り返すうち、狭義と広義の罪の狭間で葛藤することになったぼくの心理描写にも心を打たれた。ラストのカタストロフィーに共感を覚えた俺の心は、歪み病んでいるのだろうか。

 織り込まれた警句や断想の中で瞠目したのは、愛国心と民主主義の関係だ。ジョンはぼくとの会話の中で<一般市民が愛国心を抱いて戦場に行く動機になったのは、民主主義が誕生した後だ。生存の適応として相容れないはずの愛他精神と殺人衝動が、矛盾を奇妙に解消した>(要旨)と述べている。伊藤のオリジナルではない可能性はあるが、示唆に富んだ考察だと思う。

 自称純文学ファンの俺は、本作に強い感銘を受けた。伊藤があと10年生きていたら、SFのジャンルを超え、日本最高の作家として記憶されたのではないか。夭折が残念でならない。
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「死刑と新しいファシズム」~辺見庸の言葉に触発されて

2013-09-02 23:34:20 | カルチャー
 テレビ関係者が視聴率に一喜一憂するように、弱小ブロガーもアクセス数が気になる。数字に捉われず勝手気ままに書くことに決めているが、ある疑問が頭をもたげてきた。ブログを更新するや、運営サイドによるキーワード一覧がページ下に記される。直近の2カ月分をチェックしてみると、なぜか<原発>、<汚染水>、<安倍首相>、<麻生>、<ナチス>といった言葉が予め省かれていることに気付いた。

 7月25日に辺見庸著「青い花」の感想を綴った。その稿のキーワード一覧には、文中に記した<原発事故>、<死刑>、<ファシズム>はなく、肝心の<辺見庸>さえリストアップされていない。奇妙なことに前稿では、ロックファンにさえ浸透しているとはいえない<フォールズ>がキーワードの先頭に載っている。これも進行中の情報管理の一環なのだろうか。

 一昨日(31日)、「死刑と新しいファシズム~戦後最大の危機に抗して」と題された辺見庸の講演会(四谷区民ホール)に足を運んだ。キャパは小さいが(450人)、開場15分前にはフロアが聴衆でごった返す盛況ぶりで、20代、30代が多く詰め掛け、平均年齢が一気に下がっていた。

 俺は当初、レジュメを書くつもりでいたが、悪筆ゆえノートの字が自分でも判読できない。辺見にしたって、誰かが自身の言葉をなぞることなど無意味と思っているはずだ。普段考え感じていることをベースに、辺見に触発された部分をブレンドして記したい。

 辺見は<知と理で語る人>との偏見を抱いている方もいるかもしれない。だが、詩集「生首」(10年)、「眼の海」(11年)が最高の栄誉に輝いたように、現在の辺見は情念と感性を軸に据えて思考している。冒頭で提示した緑色のウマオイ(バッタ目)が全体を貫くイメージになり、続けて自身の経験を紹介した。大道寺将司死刑囚から届いた黒塗りの手紙である。

 一行詩大賞を受賞した大道寺は。辺見を通して主催者に自薦句を伝えることにした。拘置所サイドが塗り潰した部分が大道寺の句であることは間違いない。なぜだ……。辺見は自問する。この件のみならず、不可解で理解不能なことが増えてきたと述懐し、真実に行き当たるには直観(感)、勘、想像力をフル回転するしかないと語る。

 上記したブログの検索ワードもそうだが、説明不能の出来事が続いていることを俺も感じている。上杉隆氏が「日本は海洋テロ国家として世界から告発される」と警鐘を鳴らしたのは2011年4月上旬だった。あれから2年、汚染水問題がようやく報道されるようになり、福島原発事故は人類最悪の局面にあることが明らかになる。俺のような独り者はさておき、子供がいる方がどうして原発再稼働を謳う自民党に投票したのか、さっぱりわからない。

 麻生副総理の「ナチス発言」や石破幹事長の「軍事法廷での厳罰発言」は咎められるどころか、支持の声の方が大きかった。秘密保全法案にメディアは弱腰で、君が代や日の丸を従来通り捉えた教科書が神奈川で不採択になった。日々明らかになる骨抜きと歪曲の連続を、辺見は<クーデター>と評していた。

 安倍首相は戦前回帰というより、<9・11>以降、顕著になったアメリカの監視強化の流れを日本に輸入しようとしている。深刻なのは<新しいファシズム>を許容する空気が蔓延していることだ。当ブログで<沈黙という狂気>、<自由からの逃走>と表現してきたが、辺見は遥かに深い洞察で社会を抉っていた。言わずもがなのことだけど……。

 日本人が失ったのは普遍的な感情であり、個の自立だと辺見は言う。刑務官は大道寺の悔恨の情、深刻な病状を知っている。受賞の報に「良かったな」と声を掛けたりするささやかな交流は、時に外国映画で描かれているが、日本ではありえない。死刑囚は日本において、〝人間ではなく、人間でありたいと願ってはいけない存在〟と認識されているからだ。

 人間的感情が失われたのは拘置所だけではない。メディアは学校のいじめを問題視するが、一流企業の陰湿ないじめは見過ごされている。彼らの人倫にもとる犯罪に対し、人々は怒りを沈黙の中に呑み込んでいる。<空無>が覆う世の中で、人々は<われわれ>や<みんな>の三人称に身を潜めている。

 辺見は詩人としての想像力で、<死刑と天皇制は同一の環に位置する>と仮説を立てる。拘置所と宮中という対極に思える場所に共通する空気は、日本人の神経細胞に組み込まれた沈黙、昏さ、タブーへの恐怖という。それこそが<日本の予めのファシズム>の底にあると辺見は論を展開したが、俺は未消化状態だ。いずれ発刊される著書を熟読し、咀嚼した上で当ブログに記したいと思う。

 選挙の結果を見る限り、多くの日本人は気持ちを高ぶらせている。憂える者にとって、辺見のいう長く孤独な<負け戦>が続くだろう。俺にとって当ブログは〝不善を成さぬためのストッパー〟であり、遺書代わりでもあるが、俺もまた<負け戦>の端っこに連なりたいと思う。

 反原発、護憲を訴えてきた宮崎駿監督が引退を発表した。辺見同様、この国の現状を強く憂える宮崎氏が<負け戦>に加わることで、戦況が好転するのではないか。そんな淡い期待を抱いている。


 <追記>運営者が更新直後に示した当稿の検索ワードは<宮崎駿監督>、<自由からの逃走>、そしてまたしても<フォールズ>……。俺は作為と情報操作を感じるが、果たして。ちなみに、書いた当人だけでなく、ブログのタイトルをクリックすれば誰でも検索ワードをチェックできます。
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