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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「思秋期」~胸を打つ再生と共生の物語

2012-10-31 23:48:47 | 映画、ドラマ
 交通機関で人身事故が相次いでいる。迷惑至極と憤りつつ、自殺者の苦悩を自らに重ねる人も多いはずだ。既得権益に守られた1%による1%のための政治が進行し、この世を覆う殺伐と閉塞は、俺の心にも浸潤している。

 新宿で先日、俺の心情と妙に重なる映画を見た。世界中の映画祭で栄誉に輝いたパディ・コンシダインの長編デビュー作「思秋期」(英、11年)である。舞台はリーズで、主人公のジョセフ(ピーター・ミュラン)はアイリッシュの中年男だ。絶望と怨嗟を身に纏ったジョセフは冒頭、怒りに任せて愚かな過ちを犯してしまう。ネタバレは避けるが、愛犬家にはお薦めできない作品だ。

 「フローズン・リバー」、「ウィンターズ・ボーン」(ともに米)と本作には共通点がある。背景にあるのは格差と貧困で、ジョセフは失業手当で暮らしながら、酒と賭けに溺れている。学生の街として知られるリーズだが、鈍色でくすんだ感じがする。ジョセフはきっと、プレミア転落後も停滞しているリーズ・ユナイテッドに賭けて大損しているに相違ない。

 とことんデスパレートしていくかと思いきや、〝ボーイ・ミーツ・ガール〟ならぬ、くたびれたオッサンとオバチャンが出会う。ジョセフは駆け込んだチャリティーショップで出会った店長のハンナ(オリヴィア・ゴールドマン)に、荒んだ心を癒やされるようになる。

 失意に沈んだ男に手を差し伸べる母性に溢れた慎ましい女性とくれば、カウリスマキの世界を思い出す。だが、「敗者の三部作」に登場する気弱な男たちと比べ、ジョセフは野性的だ。ハンナは果たして、ジョセフを飼い慣らせるだろうか……。そんな疑問が生じた時、ハンナの傷口から血がドボドボ流れ始める。二人の立ち位置が変わったのだ。

 「思秋期」は<人生の半ばを過ぎ、過去を振り返る時期>という意味で用いられている。まさに、ジョセフとハンナの現在に当てはまる。俺は妻を真剣に愛しただろうか……。亡くなった妻を思い、自問自答するジョセフは、ハンナの側に踏み込めないでいる。

 一方のハンナは、結婚という牢獄で心身とも酷い仕打ちに耐える日々を過ごしている。キリストを信じ、ジョセフにも、そして死の床に伏すジョセフの友人にも神の恩寵を説くハンナに、神は優しくない。店の棚に置かれたキリストの絵に、ハンナが物を投げつけるシーンが印象的だ。夫ジェームズ(エディ・マーサン)は外面の良さで評判のいい成功者だが、悪魔の素顔をハンナにだけに曝すサディストだった。

 暴力に怯えるのはハンナだけではない。ジョセフの数少ない話し相手であるサム少年もまた、義父のDVに苦しんでいる。ラストに向けて急アクセルが踏まれ、ストーリーは一気に加速する。ハンナとジョセフは法的な<罪と罰>を超え、再生の道を手繰り寄せた。情熱に身を任せる「思春期」は遥か彼方で、俺もまた、ソフトランディングと共生を目指す「思秋期」もしくは「思冬期」を彷徨っている。「思秋期」は挫折をたっぷり味わった中高年層が共感する〝R40〟ムービーといえるだろう。

 ラストに射す一条の光に心が和み、帰宅してHPで原題を調べると、“Tyrannosaur”……。ジョセフが小さなことにこだわらない妻を「ティラノサウルス」と呼んでいたことから付けられたのだろうが、登場人物もまさにタイトルそのものだ。ジェームズは醜く獰猛、ジョセフとハンナは愛に渇き愛に狂う孤独な恐竜なのだから……。

 別稿で記した「忌中」(車谷長吉)、今稿の「思秋期」、そして読み始めたばかりの「母の遺産~新聞小説」(水村美苗)と、死、再生、老いを見つめる作品に触れている。俺の中で何かが兆しているようだ。
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「シンセミア」~神話の領域に到達した神町の物語

2012-10-28 22:51:14 | 読書
 「本の虫になろう」のポスターが目に付く。子供たちに向けたACジャパンのキャンペーンだ。間違っちゃいないが、しっくりこない。<本の虫>になった子供は不幸な大人になることが多い。自分の中の物差しが世間と異なることを知り、生き辛さを覚えるからだ。大抵の<本の虫>は原発利権と結びつくACジャパンの胡散臭さに気付いている。<読書は世間との疎隔を生む>が俺の経験からの結論だ。

 ネットの普及に伴い、<本の虫>は絶滅品種だ。とりわけ純文学に人気がないことは、弱小ブロガーの俺が数字で実感している。島田雅彦、平野啓一郎、星野智幸、中村文則らの小説をテーマに据えたら、アクセス数は確実に減る。関心を持って彼らの名を検索する人が少ないからだ。

 かく言う俺も、日本文学の最先端に親しむようになったのは3年前の春のこと。仕事先で開催される書評掲載本のバザーで購入した平野啓一郎の「決壊」をとば口に、煌めく才能群に触れてきた。現状で〝21世紀の頂点〟と断言できるのが、読了したばかりの「シンセミア」(03年、朝日文庫)だ。阿部和重は「ピストルズ」(09年)に続く2作目になる。

 饒舌で実験的な1000㌻超(全4巻)に、小説のあらゆる要素が詰め込まれていた。舞台の山形県東根市神町(じんまち)は実在の町で、阿部の故郷でもある。風光明媚な果樹園の町という。上記2作と「グランド・フィナーレ」(05年)を併せ〝神町3部作〟と位置付けられている。阿部自身は「すべてフィクション」と話しているが、虚実を巧みに織り交ぜる手法に辻原登との共通点が窺えた。海軍航空隊の基地から、米軍の神町キャンプを経て自衛隊駐屯地へ……。この史実を背景に魑魅魍魎が蠢いている。

 00年7月初旬から中旬にかけ、産廃施設反対派の自殺、説明不能の交通事故、老人の失踪と事件が続いた。台風がもたらした洪水を経て、8月末までの2カ月弱に町の実相が浮き彫りになる。様々な出来事とカットバックで暴かれる神町のおぞましい歴史は、巨大なジグソーパズルの欠片の数々だ。読者が息を殺して立ち尽くす眼前で、作者は手際よくピースを填め込んでいく。〝カタストロフィーいう名の完成図〟にカタルシスと希望を覚えた。

 日本的な情念、目に見えない支配への恐怖、米軍駐留で浸透したエゴイズム、UFOの頻繁な目撃による超常現象への畏怖、ITへの傾斜……。幾つもの風潮とムードが絡まった神町には、懺悔を要する連中が雁首を並べている。倒錯、暴力への志向、利権への欲望、薬物依存、盗撮、憑依……。あらゆる悪徳が蔓延る神町はソドムとゴモラの如くで、洪水は神の怒りのメタファーとも受け取れる。

 主な登場人物は優に50人を超える。複数の主観で語られる濃密な物語を読み進むうち、記憶の底から湧いてくるものを感じた。まずは、石川淳の「狂風記」である。石川淳の方法論について、<個々の内面や葛藤を超越した虚構を設定し、運命の糸に操られる独楽として人間を描いている>と別稿で記した。「シンセミア」もまた、<聖と俗>、<寓話とご都合主義>の境界から神話の領域へと飛翔している。

 さらに挙げれば、ロバート・アルトマンの諸作品で、中でもカタスロフィーに収束した「ショート・カッツ」(94年)にイメージが重なる。阿部は若い頃、映画監督を目指していたというから、アルトマンの群像劇にインスパイアされた可能性もある。重層的で緻密な「シンセミア」に、<神は細部に宿る>という言葉を送りたい。

 主人公を挙げるなら、パン屋を経営する田宮家3代目の博徳だ。アメリカによるパン食導入の恩恵もあり、田宮家は町を牛耳る黒幕の一員になった。博徳と他のならず者ファミリー3代目との距離、妻和歌子との隙間が、疾走する物語の回転軸になっている。夫妻が別々に渋谷で体験する大惨事は、その後に日本で起きた数々の事件の予兆といえるだろう。妹彩香の前に本物?と偽の作者が登場するのはサービス精神ゆえと思っていたら、阿部の実家がパン屋という情報をネットで得た。本当だろうか。

 憤りと無力感が募るニュースが相次いでいる。いっそ初老の<本の虫>になり、世間をシャットアウトして豊饒な物語世界に避難しようか……。そんなことを思う今日この頃である。
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橋下VS朝日、競馬etc~秋の雑感あれこれ

2012-10-25 23:55:34 | 戯れ言
 ホウレンソウ、サラダ菜に続き、俺は今、タマネギに凝っている。帰省中にこのことを話した義弟も偶然、〝オニオンブラザーズ〟の一員だった。タマネギは血をサラサラにする効能ありというが、今さら数十年分の腐臭を放つ血を浄めても意味がないことは承知している。献血を申し出ても拒否されるかもしれない。

 車谷長吉の短編集「忌中」については別稿に記した。収録作「三笠山」の主人公(田彦)は菊花賞(96年)で枠連①⑧に50万つぎ込むも3分で夢は潰え、一家心中の宿命から逃れられなかった。〝田彦の弔い合戦〟を試みた俺は、ゴールドシップ(1枠)、スカイディグニティ(8枠)、ユウキソルジャー(96年勝ち馬ダンスインザダークの甥)を軸に馬券を買う。そのまま1~3着だから、博才のない俺には予想など無意味ということか。枠順が確定した天皇賞では、POG指名馬の④フェノーメノが連を外すことはないだろう。

 米倉弘昌経団連会長が泊原発再稼働を強硬に主張している。冬の電力不足は<人命>に関わるというロジックにあきれ果てた。米倉氏の出身母体(住友化学)は、原発企業ゼネラル・エレクトリックと提携している。米倉氏にとって原発再稼働は<社命>なのだ。この国を牛耳るのは、倫理や世界観と無縁のエゴイストたちである。

 そんな経団連のお偉方が、日中の軋轢に頭を抱えている。中国でトヨタ、日産、ホンダが落としたシェアを欧米車に奪われているからだ。2年前の「NHKスペシャル」である専門家が、<遠からず日本VS米中が自動車業界のトレンドになる。米中タッグは日本車の駆逐を目指すだろう>と過激な見通しを語っていた。経過はともあれ、その予言は現実になろうとしている。

 尖閣問題の火付け役になった石原都知事は、国政に転じるために今日辞職した。平沼氏らとともに保守派を糾合するという。石原氏は後任として猪瀬直樹副知事の名を挙げている。支持率回復に向け<原発ゼロ>を再度唱えた維新と石原新党は、果たして連携できるのだろうか。

 一昨日(23日)、「これ、どう思う」と整理記者のYさんに声を掛けられた。これとは<橋下VS朝日>の記事である。キョトンとしていると「100周遅れてる」と笑われ、言われた通り「週刊朝日」10月26日号をコピーした。俺がブログで何度も取り上げている佐野眞一氏と週刊朝日取材班による「ハシシタ 奴の本性」第1回連載である。帰省中に事件が起きていたようだ。

 学生時代、<日韓・狭山・三里塚>は政治参加の必修科目で、俺もデモや集会に足を運んだ。日韓と狭山はそれぞれ朝鮮人差別、差別と切り離せず、<自らの内なる差別意識>を突き付けられる重い課題だった。厳しい経験を重ねたこともあり、差別については鋭敏であるという自負がある。年を経て感性が鈍った可能性は否定できないが、俺は件の記事に問題を感じなかった。

 「週刊文春」や「週刊新潮」はかつて橋下氏が被差別出身であると報じているし、本人も知事当選後、解放同盟の集会で明らかにしている。今回に限り騒動が起きた背景を、俺はまだ掴めていない。外野の声も騒がしく、上記の猪瀬氏も反佐野の論陣を張っている。大将(石原氏)の3・11直後の「天罰発言」を佐野氏に徹底的に批判された意趣返しと取れぬこともない。

 歴史(縦軸)、同時代(横軸)を俯瞰の眼で把握する佐野氏は、立花隆氏とツインピークスを形成するノンフィクション界の巨人だ。立花氏がアウトボクサーなら、佐野氏は情念のインファイターとして対象にクリンチし、丸裸にする。佐野氏の取材を了承した時点で覚悟していたはずだが、ペン先は想定以上に尖っていて、橋下氏の傷口を抉ったのだろう。書き下ろしの「ハシシタ――」出版を狙っているのは、最近の論調からして、文藝春秋と新潮社か。

 「人権侵害とは思いませんでした」と伝えると、Yさんはホッとした表情を浮かべた。演劇評論家で反原発活動家でもあるYさんにはリベラル、ラディカルの知人が多いが、<橋下VS朝日>では四面楚歌状態らしい。俺のような頼りない〝同志〟でも、「自分が間違ってるのか」という疑念を打ち消すのに少しは役立ったようである。

 ともあれ、〝100周遅れ〟を指摘されてからまだ2日、準備も勉強も不足している。いずれ稿を改め、語る者の内面をも抉る差別について記したい。

 話は急に軟らかくなるが、日本シリーズが今週末に始まる。菅野を巡る因縁、27勝分のプラス(ホールトンと杉内)、18勝分のマイナス(ダルビッシュ)と、巨人と日本ハムの対決は興味深い。今年もこの時期になってようやくチャンネルを野球に合わせるが、熱心なファンのように奥深い感動を得ることは出来ないだろう。日本シリーズに一喜一憂した少年時代が懐かしい。
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「希望の国」~エンドマークの彼方に光は射すか?

2012-10-22 22:36:55 | 映画、ドラマ
 封切り日(20日)、新宿で「希望の国」(12年)を見た。過激で過剰な映画を撮り続ける園子温監督の最新作である。「冷たい熱帯魚」(11年)、「恋の罪」(同)、「ヒミズ」(12年)、そして「希望の国」とこの2年、スクリーンで接する4作目の子温ワールドだ。「ヒミズ」は3・11を受けシナリオを大幅に書き換えたが、「希望の国」は原発そのものをテーマに据えている。

 本作は欧州全域でも公開される。合成写真を作成して「フクシマの影響」と川島を揶揄したローラン・キュリエもぜひ観賞し、感想を番組内で語ってほしい。<原発を国是とする自由の国フランス>という矛盾の一端が、川島の件で垣間見えた。

 「週刊金曜日」最新号は<原発報道の正体>と題し、反原発側が置かれる厳しい状況を特集していた。その一環として、園のインタビューも掲載されている。本作は資金集めに難儀したが、英国と台湾の製作会社が援助の手を差し伸べた。「なぜ原発の映画を撮ったのか」と問う国内メディアに閉口した園は、「目の前で原発が爆発したんだから、(他の監督が)撮らない方が変」と怒りをぶちまけていた。

 封切り直後でもあり、感想と背景を中心に記したい。本作の舞台は、福島の記憶が風化した数年後の長島県だ。大地震が起き、倒壊した原発から20㌔の地点で黄色のテープが貼られる。小野家は避難を免れたが、隣の鈴木家はバスで小学校に送られた。

 本作はロケ地でもある気仙沼で先行上映された。帰省時にその模様をテレビで見たが、「タイトルと内容がマッチしていない」、「ラストが悲しすぎる」と感想を述べる観客もいた。逆説もしくはアイロニー、それとも滅びの美学?……。俺もまだ、園の意図を理解出来ていない。

 「希望の国」に重なったのは「誰も知らない」(是枝裕和、04年)だ。ともに喪失、寂寥、絶望が色濃く、見終えた後も、残像と続編が心のスクリーンに映し出される稀有な作品だ。<この〝現実〟を目の当たりにした以上、あなたも変わらざるを得ない>……。園は見た者が自分なりの答えを見つけることを願っているに違いない。

 大上段に振りかざすのではなく、本作は家族の視点から、原発と国家の在り様を問いかけている。酪農を営む小野家は父泰彦(夏八木勲)、母智恵子(大谷直子)、長男洋一(村上淳)とその妻いずみ(神楽坂恵)の4人から成る。智恵子は認知症で、10分後には自分の言葉も忘れている。園の<繰り返しの美学>は本作でも貫かれ、智恵子の口癖「帰ろうよ」が主音になっていた。泰彦の「杭はいつでも、どこにでも打たれる」の台詞も心に響いた。

 園監督作には暴走キャラが往々にして登場するが、本作は抑え気味だ。放射能の恐怖を説く泰彦も、「生きものの記録」(黒澤明、55年)の喜一よりはるかに理性的だ。妊娠を知って防護服を纏ういずみも、「KOTOKO」(塚本晋也、11年)の琴子ほど壊れていない。いずみの言動は世間に嘲笑されるが、チェルノブイリのその後を狭い日本に敷衍すれば、見える景色も変わってくる。沈黙と無為は形を変えた狂気の表現で、いずみの対応こそ正常の証しというように……。

 園は被災地を舞台に至上の愛を描いていた。盆踊りの思い出に誘われ立ち入り禁止地域を童女のように彷徨う智恵子、雪の中で彼女を見つけおんぶする泰彦……。分かち難い愛に結ばれた老夫婦にとり、ラストは救いと思えてくる。ミツル(清水優)とヨーコ(梶原ひかり)が瓦解した海辺を歩くシーンも印象的だ。神々しいほど美しい廃墟に、タルコフスキーや晩年の黒澤の映像が甦った。

 「希望の国」には国への批判、反原発への思いが込められていたが、<家族と愛を描いた映画>としても記憶に残る作品だ。エンドマークの彼方、洋一といずみが、そしてわたしやあなたが、光を見いだす日は来るのだろうか。
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「忌中」~車谷長吉が描く破滅と救済

2012-10-19 13:12:42 | 読書
 「相棒~シーズン11」が始まった。杉下右京(水谷豊)と甲斐享(成宮寛貴)の新コンビは30歳差。杉下は甲斐の反抗的なところを楽しんでいる。警察庁NO・2で息子と折り合いが悪い甲斐の父(石坂浩二)が、小野田官房長(岸部一徳)の後継キャラだ。「相棒」は今後、〝2人の父〟を軸に展開するだろう。

 若松孝二監督が亡くなった。時代のパトスに敏感で、革命家の足立正生を世に出し、「愛のコリーダ」(大島渚)をプロデュースするなど、ノンポリを自任しながら常に反体制の側に身を置いた。船戸与一とも親交が深く、「海燕ホテル・ブルー」を映画化する。音楽を担当したのは、若松監督を尊敬してやまないジム・オルーク(元ソニック・ユース)だ。個性と才能で絆を紡いだ偉才の死を、心から悼みたい。

 荒戸源次郎もまた〝若松磁界〟の住人だ。代表作「赤目四十八瀧心中未遂」の原作者である車谷長吉は、別稿(10月5日)に取り上げた辻原登と同じ1945年生まれである。史実さえ虚構と思わせる辻原、リアル過ぎて親族から責められた車谷……。両者の方法論は真逆だが、車谷は04年、とある事情で私小説作家廃業を宣言する。帰省中に読んだ「忌中」(03年、文春文庫)は車谷にとり、最後の私小説集といえるだろう。

 <過去、そして現在と未来……。帰省中、絆について思いを巡らせた。老い、孤独、死は俺にも確実に迫っている>と前稿を締めた。単純な俺のこと、「忌中」にどっぷり浸かっていたからだ。水原紫苑さん(歌人)の解説にも感銘を受けた。<変死、横死、一家心中、夫婦心中――彼らの魂に捧げる狂哭の短篇集>の評は、「忌中」の本質を鋭く抉っている。

 水原さんが書かれた通り、車谷は純愛小説の匠でもある。「萬蔵の場合」(81年)の感想を別稿(07年5月)で以下のように記した。

 <詩的なイメージに彩られた本作は、ケシのように毒々しく、薔薇のように危険で、カタクリのように儚い。男女の深淵を描いた小説は数あれど、「萬蔵の場合」が白眉と確信した>……。ちなみに、俺が「萬蔵の場合」とともに恋愛小説のピークに挙げるのは夏目漱石の「それから」だ。

 収録作について、感想を記したい。「古墳の話」の冒頭、主人公(嘉一≒車谷)が死刑肯定論を延々と展開する。嘉一は10代の頃、初恋の少女を失う。佳奈子が強姦されて殺され、古墳でのデートは実現しなかった。犯人だけでなく死刑反対の国会議員にも、嘉一は怨嗟と憤怒をぶつけている。佳奈子追悼の小説を書くと誓ったものの果たせずにいた嘉一は、39年後に約束の場所を訪れ、往時の彼女の面影をなぞりながら祝詞を読む。その目に泪が溢れていた。

 「神の花嫁」は収録作中で唯一、死者が登場しない。主人公(生島≒車谷)は美貌と清らかな魂を併せ持つ茉莉子に心を奪われるが、彼女が結婚したのは別の男だった。壊れた生島は少女人形を抱いて寝るようになる。だが、本当に死んだのは――精神的な意味だが――俗物を選んで汚れていく茉莉子の方だと、生島は感じている。

 「鹽壺の匙」補遺は、親族の反対を押し切って書いた小説の後日談だ。代用教員を務めていた叔父は、純粋さとユーモア、型破りな教育方針で子供たちに慕われたが、失意に耐え切れず自ら命を絶つ。かつての教え子たちが目を輝かせて語る在りし日の叔父の姿に、作者は<さながら壺井栄「二十四の瞳」の現実版>と綴っていた。

 「三笠山」は一家心中の物語だ。京大医学部に合格しながら家庭の事情で入学を断念した田彦は、紆余曲折を経て蘆江と結ばれる。本作が典型だが、男女の情愛をこまやかに描くのも車谷の真骨頂だ。バブル崩壊で資金繰りに苦しむ現在と過去がカットバックし、悲劇が浮き彫りになる。心を揺さぶられたが、ツッコミたくなる点もあった。

 田彦は借金をチャラにするため菊花賞に50万円つぎ込むが、馬券は紙屑になり、一家の運命は決する。田彦が駅売店で「競馬エイト」を選ぶ場面は事実に反していた。名前の挙がった9紙の中に関西で購入できない新聞があり、逆に関西で高シェアを誇る「競馬ニホン」は含まれていない。リアルを追求する車谷だからこそ、関東と関西の専門紙事情にまで配慮してほしかった。

 「飾磨」は語られない心情とストーリーが行間で息を潜める、ミステリアスな構造になっている。朝美、姉、義兄との三角関係、朝美が亡き夫に抱く罪の意識がオブラートに包まれ描かれている。何かに導かれるように夫の墓を訪ねた朝美は、骨壺を抱くようにとぐろを巻く蛇を目の当たりにする。心中未遂の決着は、1年後の蛇に託された。「飾磨」の性的な生々しさは「キャタピラー」に通じるところがある。若松監督がインスパイアされていても不思議ではない。

 表題作「忌中」には,初老の男(修司)の非運と狂おしい愛が描かれている。辻原の「マノンの肉体」では主人公が発病した膠原病に、修司の妻(二三子)が苦しんでいる。死を望む妻の願いに応えた修司は、人生のピリオドに向け計画的に放蕩の日々を送る。細々と記される年金と借金の額、園まりの復帰が私小説の格好の道具立てになっていた。タイトルの意味が明かされるラストは爽快で、二つの愛に生きて死んだ修司が妬ましくなる。

 崩壊への道程を綴りながらも、車谷の筆致は乾いていて、読むことで救われた気分になる。「忌中」に刺激された俺は、良からぬ妄想に耽っている。破滅という名の終着駅で人生を降りるのも悪くないと……。
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妹不在の亀岡で~絆に思いを巡らせる

2012-10-16 14:06:48 | 戯れ言
 丸谷才一氏が亡くなった。小説は「たった一人の反乱」と「裏声で歌へ君が代」しか読んでいないが、氏との出会いは翻訳家としてだった。河野一郎氏との共訳「長距離走者の孤独」は俺にとって文学事始めで、アラン・シリトーの作品を読み耽るきっかけになった。シリトーは英国労働者階級のシニカルさ、閉塞感、反骨精神を表現した作家で、ザ・フーやブラーなどUKロックバンドの心情に重なる部分が大きい。ともあれ、作家、翻訳家だけでなく、正しい日本語を追究した老大家の冥福を心から祈りたい。

 本稿は亀岡のネットカフェから更新している。妹亡き後、法事以外で初めての帰省となった。俺が妹と接するのは、多くて年に15日ほどだった。メールや電話のやりとりは頻繁だったにせよ、不在を肌で感じるのは今回が初めてで、母や義弟の喪失感の大きさとは比べるべくもない。

 妹は京大病院に入院中、「わたしはまるでモルモット」とこぼしていた。検査の連続も病状悪化の原因がつかめず、生死の境をさ迷ったことは以前、当ブログに記した通りだ。山中伸弥教授のノーベル賞受賞の報に接した時、最初に思ったのは、妹のデータを研究に生かし、難病治癒に繋げてほしいということ。同じ京大なら、俺の希望も的外れといえないのではないか。

 俺が最近、口ずさんでいるのは猫の「僕のエピローグ」(1975年)と、斉藤和義の「雨宿り」(2011年)だ。「僕のエピローグ」の<白い雲がポッカリ、心の中に浮かんでる>、「雨宿り」の<神様は忙しくて、連れてく人を間違えている>の歌詞は、母、義弟、俺の心情と重なっている。上記2曲と併せ、俺の脳裏でマニック・ストリート・プリーチャーズの「エヴリシング・マスト・ゴー」が鳴り響いている。学校英語的にいうと前向きなタイトルに思えるが、改めて歌詞を読むと、〝すべては消え去ってしまう〟という感傷の方が濃い。

 一本の梁を抜くと崩壊する巨大な建造物が、かつて存在したという。妹の死はまさにその梁で、周りに変化の兆しが現れている。母は孤独がつらく、ポン太を義弟に託し、ケアハウスに入るプランを練っている。帰る場所がなくなる俺は母の翻意を望んでいるが、流れには逆らえない。<晩年は京都で>が既成事実になっていたが、東京砂漠にうずもれる可能性も出てきた。だが、築30年であちこちガタがきた実家は老いた母に広すぎる。今さら新築も難しく、ケアハウス入りは妥当な結論かもしれない。

 帰省中、母が入居を希望しているケアハウスを見学した。そこは特養ホームを併せ持つ規模が大きい施設だった。担当者に説明を聞き、申込書や自己診断書を渡される。そこで三流の校閲者である俺は、間違いを発見した。他者に対して<①拒否的、②普通、③強調的>の選択肢があったが、③は明らかに協調的が正解だ。仕事で見落としたら笑われるが、その施設では十数年、誤ったまま記載されていたという。指摘すると、妙に尊敬された。

 京都で昨日、56歳の誕生日を迎えた。<ヒエラルヒーや秩序と遠いところで、ひっそり自由に生きる>という、20代前半に立てた人生の目標を、俺は達成したようだ。俺は善根と縁がなく、自分勝手で組織と折り合えないタイプだ。得意なのは空想や屁理屈で、通常の社会生活さえ心もとなく、たびたび齟齬を来す。偏差値が50近くなのは現在の仕事だけである。

 世知辛い世の中、能力や人格は俺より遥かに秀でているのに、辛酸を舐めている知人が多い。俺は周囲の恩情、寛容によって生かされている。父が付けた俺の名前は、姓名判断では理想形だという。父は生前、俺が示した悲惨な結果に愕然としていた。俺は鼻で嗤っていたが、今では心から父に感謝している。

 過去、そして現在と未来……。帰省中、絆について思いを巡らせた。老い、孤独、死は俺にも確実に迫っている。
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「ザ・セカンド・ロウ」~ミューズのエネルギーは混沌と矛盾

2012-10-13 11:01:14 | 音楽
 今回は発売されたばかりのミューズ6thアルバム「ザ・セカンド・ロウ」について記したい。タイトル(邦訳=熱力学第二法則)を冠した♯12、♯13のラスト2曲に、「エネルギー問題」のテーマが凝縮されている。

 エネルギーといえば当ブログで、ロックを<再生エネルギー的>と<原発的>に分類したことがある。前稿のダーティー・プロジェクターズは前者に属し、ミューズは今や後者の代表格だ。ラディカルさと<原発的>の同居に、ミューズの特殊さが表れている。混沌と矛盾を糧に飛翔するミューズは、<止揚>を実践するバンドといえる。言動はというと、決して真面目ではない。フロントマンのマシュー・ベラミーには虚言癖がある。

 「次のアルバムでは政治や社会は取り上げず、パーソナルな曲でまとめたい」と語っていたが、完成品は大きく異なる。♯1「スプレマシー」、♯3「パニック・ステーション」、ウォール街の牛耳る<1%>を獣に例えた♯7「アニマルズ」は、21世紀型管理社会に警鐘を鳴らした前作「レジスタンス」の延長線上にある。「テーマのダウンサイジングに伴い、ツアーの規模を縮小する」と語っていたが、これも事実と異なる。ピンク・フロイド並みの巨大なセットで世界を回るという。

 昨夏、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの20周年イベントに招かれ共演したことが、翻意のきっかけか。尊敬するザックやトム・モレロに「期待してるよ」なんて声を掛けられたら、気合が入っても不思議はない。前言を忘れたマシューはインタビューで、現実から目を背けるトップバンドに疑義を呈していた。ちなみに日本では、ミューズのメッセージ性について語られることは殆どない。

 ロンドン蜂起の予言ともいえる「アップライジング(叛乱)」で客をアジる。と思えば、ロンドン五輪公式テーマソングの♯5「サバイバル」を閉会式で演奏した。混沌と矛盾はサウンド面でも顕著だ。メタリック、クラシカル、21世紀のプログレと様々に評されるミューズだが、今回はダブステップへの接近が話題になった。ちなみに、コールドプレイのクリス・マーティンは♯2「マッドネス」を「ミューズのベストソング」と絶賛している。褒め殺しとの穿った見方もあるが……。

 マシューは「作曲権をクリスに譲る」と語っていたが、これも出任せだった。新作発売に合わせて公表されたエピソードも興味深い。クリスはアルコール依存症に苦しんでいたが、ドムがコメントした通り「ライブでは完璧にベースを弾く」。だから、ファンは気付かなかった。「作曲権」発言は依存症を克服したクリスへのご褒美だったのかはともかく、新作でクリスは、作曲とリードボーカルを2曲担当している。うまいというより奇麗な声で、今後はマシューとのツインボーカルがバンドの強みになるかもしれない。

 ミューズは先日、NME選定の<史上最高のライブアクト>の栄誉に輝いた。雛の頃から応援していた俺は、肉親の情ゆえ彼らに甘いが、ストーンズやフーといったロック草創期の伝説より上とは思わない。デヴィッド・ボウイやクラッシュのように、人生を変える衝撃を与えたなんてとても言えないが、<平均点の高さ>ならピカイチだ。Youtubeのコメント欄で目立つのは、「ミューズのライブは“as usual”に素晴らしい」との書き込みだ。

 新作は聴くより見る方が早かった。「クロスビート」誌に酷評されていたし、発売日をぶつけてきたキラーズから逃げた。自信がないのかと訝り、Youtubeで試運転ライブ(ITUNEフェス)を恐る恐る見た。オーバープロデュースで失くした芯をカバーしているのではないか……。そんな風に危惧していたが、想像よりいい。最近の2作よりクオリティーが高く、煌めきは感じないが、丁寧に作られたアルバムという印象だ。初期のリリシズムの復活を感じさせる曲もある。

 チャートアクションも全英1位、全米2位と前作並み。日本で5位という数字には驚いた。2nd「オリジン・オブ・シンメトリー」の曲は'11レディングで封印と伝えられていたが、ITUNEフェスやパリのライブではセットリストに含まれていた。サービス精神旺盛な彼らがファンの好む曲を演奏しないはずはない。真意が伝わらずに流れた噂というべきか。

 ミューズは来年1月、来日する。クリエイティヴマンの会員先行予約が中止になったが、会場変更などで仕切り直しになるという。混沌と矛盾をクリアしてきたミューズだが、越えられない壁が聳えている。それは年齢だ。初めて見た時、20歳そこそこだった彼らも、今や30代半ばのオッサンだ。瞬発力と体力の衰えをどう克服するのか、チケットが取れたらこの目で確認したい。

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進化とともに失うもの~ダーティー・プロジェクターズに感じたこと

2012-10-11 21:12:25 | 音楽
 村上春樹が本命視されたノーベル文学賞を逃し、莫言が高行健に続く中国人2人目のノーベル賞作家になる。不思議なことに日本の多くのメディアは、天安門事件で亡命した高行健を中国人にカウントしていない。仕事先の夕刊紙はどうだろう。

 3・11など起きなかったかのように原発を推進する日本の政官財には、倫理観や世界観は必要ない。アメリカの操り人形であれば事足りることからだ。五十路半ばでナショナリズムに目覚め、反米的言辞を書き散らかしているが、共感できそうな本を見つけた。「戦後史の正体」(孫崎享著)である。

 NFLとWWEに親しむ俺の感性は、<1%>に搾取されている<99%>に限りなく近い。ロックだってここ数年、US勢に注目してきた。ザ・ナショナル、ローカル・ネイティヴスのライブに感銘を受けたし、一番見たいバンドはグリズリー・ベアとアーケード・ファイアだ。とりわけ贔屓にしているダーティー・プロジェクターズのライブを先日(9日)、渋谷O―EASTで見た。

 オープニングアクトのダスティン・ウォングが40分ほど超絶のギターパフォーマンスを披露した後、主役が登場し、新作「スイング・ロー・マゼラン」のタイトル曲でショーが始まった。新作から10曲、前作「ビッテ・オルカ」から4曲、ビョークの客演が話題になったミニアルバム「マウント・ウィッテンベルク・オルカ」から1曲というセットリストである。

 楽曲のレベルは言うまでもなく、バンドアンサンブルも素晴らしい。旬のバンドが見せつけた煌めきに、「ロッキンオン」を含め既に絶賛の嵐だが、会場の中で恐らく俺だけが醒めていた。ひねくれ者と言われたら返す言葉もないが、理由を以下に記したい。

 整理番号が30番台だったので、2階バルコニー席を確保できた。小さな箱だし、弱ったジジイにとって、ステージの全景が眺められる特等席である。だが、ひしめき合う平面ではなく、高い所から見下ろすと、感じるより考えてしまう。

 2年前の3月、CLUBQUATTROで度肝を抜かれ、4カ月後に豪雨のフジロックで彼らと再会する。自由で圧倒的なパフォーマンスにオルタナティヴの精神を実感したのだが、今回は印象が違った。フロントマンのデイヴ・ロングストレスは別格にしても、バンドの序列が窺えた。2年前には気付かなかっただけかもしれないが、アンバー・コフマンは明らかに女王様的な位置付けで、ステージでもデイヴと何度も目配せしていた。2人の女性陣はハーモニーとアクションで盛り上げていたが、リズム隊の男2人は目立たなかった。

 前回より15分短くなり、演奏時間が75分というのにも不満が残った。そういや、お約束のメンバー紹介もなかった。HPでチェックすると、アメリカツアーでも曲数と順番は似通っている。フェス仕様のセットリストというべきか。ソリッドに厚みを増した点は評価できるが、成長に不可欠な遊びの精神、混沌、ズレが消え、<普通のロックバンド>の枠内に収まってしまった感が強い。

 俺が乗り切れなかった最大の理由は、ダーティー・プロジェクターズに過剰な期待をかけていたからか。彼らは2年前、プリミティヴ、ノスタルジック、牧歌的、祝祭的なムードを醸していた。ビョークとの共演を糧に妖しさを纏い、<ロックを超える何か>に脱皮することを今も願っている。タイプは違うが、フレーミング・リップスのように……。

 彼らはまだ進行形だ。<枠内>で頂点を極めた後、<ボーダレス>を志向する旅に出るかもしれない。俺はその頃、ロックとまだ付き合っているのだろうか。
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小三治、凱旋門賞、クラシコetc~頂点の芸と戦いを満喫した3連休

2012-10-08 21:13:18 | 戯れ言
 チャベス大統領4選、山中伸弥京大教授にノーベル医学賞とニュースが相次いだ3連休、録画番組を消化し、頂点の芸と戦いを満喫した。まずはドイツの脱原発を特集した「ワールドWaveトゥナイト」(5日放映)から。2000年に本格的に始まったドイツの再生エネルギー活用の試みは、他国の追随を許さない技術革新と雇用拡大をもたらした。

 国とタッグを組むシーメンス社CEOは「3・11を受け、我々の責務を果たすためには技術革新が必要。エネルギー効率の可視化とコントロールに向け、消費者と連携し、新たな供給システムを構築したい」(要旨)と語っていた。当たり前に思える言葉を日本の政官財はどう受け取るのだろう。

 ネットで王座戦第4局(4日未明終局)をチェックした。渡辺竜王に昨年、王座戦20連覇を阻まれた羽生だが、3勝1敗で雪辱を果たし3冠に復帰した。第4局は千日手指し直しになり、終局は深夜2時すぎの激闘である。渡辺が優位に立った千日手局122手目、羽生の鬼手が出た。渡辺は自身のブログで「すごい手(6六銀)があるものです」と衝撃を率直に伝えている。

 天才の魂の削り合いに驚嘆した後、鈴本演芸場に足を運ぶ。お目当ては知人が贔屓にする柳家小三治だ。TBSチャンネルの「落語研究会」で予習し、枕の長さに気付く。〝枕の小三治〟の異名を取り、枕だけ集めたCDが発売されているという。

 上野広小路駅を出た途端、目が点になる。開場45分前なのに長蛇の列ができていたからだ。殆どが小三治ファンらしく、「次は1時間半前に来なくちゃ」なんて会話も聞こえてきた。主任(トリ)を務めた小三治は短めの枕でたっぷり笑わせた後、本題に入る。演目は人情噺「甲府い」で、見事なサゲがあった。飄々とした小三治も年末で73歳、少し噛んだところもあったが、すべてを納得させる芸の深みと個性が魅力なのだろう。

 次々登場する匠の芸に感嘆の連続だったが、代演で高座に上がった春風亭百栄の不思議キャラに魅せられた。噺の達人は同一線上の遥か彼方といった感じだが、紙切りの林家二楽の芸は異次元の魔法に思える。客からの「太平洋」のリクエストに応え、自虐的な語りで笑わせながらハサミを走らせる。「太平洋ひとりぼっち」にインスパイアされた見事な完成品に陶然としてしまった。

 深夜は凱旋門賞だ。オルフェーヴルは展開のアヤで2着と栄冠を逃す。実力馬数頭が回避したとはいえ、1番人気に推され、正攻法でレースに挑む。日本の軽い芝で頂点を極め、10秒以上遅いロンシャンの重い芝(2400㍍=2分37秒68)で実力を見せつけたオルフェーヴルに、<世界の壁>なんて言ったら嗤われる。

 オルフェの母系には在来の血が流れ、俺が好きだったリマンドの名も系譜に含まれている。日本伝統の血脈が欧州で開花するというのも興味深い。父ステイゴールドは国内でGⅠに勝てなかったが、ナカヤマフェスタに続き、産駒2頭が凱旋門2着馬になった。引き継がれる狂気が、大舞台での爆発を導いているのかもしれない。

 バルセロナ対レアル・マドリードでは、メッシとクリスティアーノ・ロナウドが2ゴールずつ決める。千両役者が煌めきを見せつけたファンタスチックな痛み分けだった。前半17分14秒、カンプ・ノウが騒然とした。カタルーニャ独立支持派が歴史を踏まえ、メッセージを唱和したからだ。スポーツと政治が無縁ではないことを、世界中にアピールしたクラシコだった。

 トム・ブレイディ率いるペイトリオッツと、ペイトン・マニング率いるブロンコスが対決した。同じチームで12シーズン目を迎えたブレイディと、深甚なケガによる引退の危機を克服して移籍したマニング……。21対31で熟年QB対決に敗れたマニングだが、アウエーと戦術の熟練度を勘案すれば、悲観する結果ではない。後半の追い上げにペイトン・マジックの一端を見た。

 ブレイディに分が悪いペイトンだが、仇を取って余りあるのが〝賢兄愚弟〟の典型といわれた弟イーライ(ニューヨーク・ジャイアンツQB)だ。イーライは絶対的不利といわれたスーパーボウルで、ペイトリオッツを2度も下している。マニング兄弟とブレイディが織り成すドラマにピリオドが打たれる日も遠くないはずだ。

 充実した3連休の後は、ダーティー・プロジェクターズのライブが控えている。感想は次稿で記す予定だ。
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「マノンの肉体」~魔物が築いた空中楼閣

2012-10-05 14:00:02 | 読書
 政治家は嘘をつく。野田首相は「近いうちに解散」との約束を破ったが、内閣支持率は上昇中だ。政治に倫理を持ち込むのが悪い癖といわれた日本人だが、「正直なんて糞食らえ」と開き直ったか、あるいは「嘘も方便」と達観したのか。

 俺もまた、頻繁に嘘をつく。言い訳になるが、理由の一つは健忘症だ。30代前半の頃、ある女性と渋谷のドイツ料理店で食事する約束をした……らしい。当日、すっかり忘れて別の店に向かおうとした俺の顔を、彼女のバッグが直撃する。ウンコ座りのチーマーが吹っ飛んだ眼鏡を拾い、にやけた表情で渡してくれた。

 もう一つの理由は、夢と妄想の現実との混濁だ。上記とほぼ同時期、20年以上も前のことだが、俺は同窓生に<うちの高校が共学になる>と伝えた。メディアの隅っこにぶら下がっていた俺の言葉を彼は信じたが、数カ月後、怒りの電話が掛かってきた。一片の真実もない虚構をいかに事実に育てたのか、俺自身も覚えていない。

 酔生夢死状態で日々を過ごす俺にピッタリなのが辻原登の小説だ。先日、「マノンの肉体」(講談社文庫)を読了する。辻原ワールド3冊目で、傑作と評される作品群は未読のまま。待ち構えている衝撃と驚嘆を想像するだけでワクワクする。

 別稿で辻原との出会いを<魔物との邂逅>と評したが、虚実の皮膜で空中楼閣を築き上げる手管に、本作でも瞠目させられた。解説の藤沢周氏の言葉を借りれば、辻原の作品は<自己をめぐる探偵小説>であり、<どのような想像力の地下茎が(辻原の)言語宇宙に張り巡らされているのか茫然としてしまう>……。

 収録された3作のうち、ラストの「戸外の紫」は俺の理解を超えたシュールで不条理な逃避行だ。映像的な小説で、故神代辰巳が撮れば、スクリーンから官能が零れ落ちる作品になるだろう。今稿では「片瀬江ノ島」、表題作「マノンの肉体」について感想を記したい。ともに時空を超えた虚実の糸に織り成され、読み進めるうち、自分の立ち位置が怪しくなってくる。日本にもマジックリアリズムの使い手がいることを辻原は証明した。

 私(主人公)と橘夫人との出会いが起点になる「片瀬江ノ島」では、ラフカディオ・ハーンが江ノ島を行脚した1890年、「浮草」(小津安二郎)が公開された1954年、そして本作発表時の1994年の三つの時間がシンクロする。橘夫人が語る亡夫は謎に満ちており、まるで諜報員か山師だ。リアルなのは「浮草」のストーリーだけで、橘一家の物語と意識的に重ねられている。

 タイムスリップした私は理髪店の窓越し、鏡に映る坊主頭の少年を見る。私は<なぜ(私が)坊主頭の少年に変じたのか>と訝っているが、これはポーズだ。1945年生まれの辻原は59年当時、14歳の少年である。ミヒャエル・エンデの「鏡の中の鏡―迷宮―」を想起させる鮮やかな仕掛けといえるだろう。

 人間の多面性を掘り下げる辻原は、「マノンの肉体」の冒頭、私(主人公)の二面性を突き付けてくる。冷徹に社員のクビを切る総務部長にして、文学愛好家という矛盾は、会社を辞した後、病になって私を襲う。

 <膠原病は、敵の抗原が外ではなく体内にあるのだ。(中略)抗原も自己、抗体も自己。自分の敵は自分という次第。このからだは、自分を守るどころか、自分で自分を破壊しようとしている>……。

 当ブログの数少ない読者は、膠原病が妹の命を奪ったことをご存じのはずだ。苦しみを見せなかった妹の気丈さに思いを馳せつつ、上記の一文に本作を解く鍵が秘められていることに気付く。

 読書を禁じられた私は、美術を学ぶ娘に「マノン・レスコー」の朗読を頼む。「ファム・ファタール」が最初に登場する同作に、多くの表現者がインスパイアされた。まず浮かぶのは「情婦マノン」(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー)、「ベルリン」(ルー・リード)だ。

 私は次第に惑い始める。男を狂わせる美女という設定なのに、作者プレヴォーはマノンの容姿について、髪や目の色さえ記していない。主人公のデ・グリューはマノンの数々の裏切りと不行跡、そして腐乱死体を見届けてアメリカから帰国し、ルノンクール侯爵に思い出を語る。この構成を踏まえた私は、<マノンに肉体がないのではない。死体があるのだ>という結論に至る。

 家庭が崩壊する中、私は故郷和歌山で起きた事件に惹きつけられる。二人の男の死は心中だったのか、それとも毒殺だったのか、作者は調書や証言を組み立て〝事実の貌〟を繕っていく。孤独と死の予感に衝き動かされた私は、廃墟と化した現場を訪れる。本作をリアルタイム(1994年)で読んでいたら、俺は4年後、背筋が寒くなるほどの恐怖を覚えたに違いない。ラストで仄めかされた<鼻をつくこぼれた蜜(毒)のにおい、何かうごめく気配>が、虚から実に転じる。世間を震撼させたカレー事件が起きたのは和歌山だった。

 本作読了後、ある作家が無性に読みたくなった。辻原と同年生まれで、方法論は真逆の車谷長吉である。今月中旬には帰省するので、亀岡で「忌中」を読むことにしよう。
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