酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

人間交差点を訪れて~たまTSUKIで刺激を受ける

2015-08-29 13:47:57 | カルチャー
 安倍昭恵さんと布袋寅泰との交遊をとやかく言うつもりはない。メディア管理に長けている官邸がなぜ首相夫人の不倫報道をお目こぼししたのか、そっちの方が気になる。武藤貴也議員の性的趣向が明らかになった。彼にはこの際、性的マイノリティーや弱者の側に立つコペルニクス的転回を勧めたい。

 無能、怠慢、我がまま……。こんな形容詞を体現する俺が東京砂漠を今も這い回っていられるのは、偏差値50をクリアできる唯一の仕事(新聞の校閲)を30年前、奇跡的に発見したからだ。退社後、商業印刷の校正に従事するや、上記の三つに加え集中力のなさを露呈し、自然淘汰される。校閲と校正とは別物なのである。救いを求めて反貧困ネットワークの会員になった直後、縁あって夕刊紙校閲の仕事を得た。

 反貧困ネットワーク主催のシンポジウム(2年前)で、無名の男が隅っこに座っていた。ディスカッションが始まるや、眠そうな男が、「朝生」等に出演する議員たちを自分の側に引き寄せ、丸め込んでいく。その男、高坂勝さん(緑の党前共同代表)に感嘆したことが、緑の党入会のひとつのきっかけになった。

 高坂さんは党の活動から退き〝幽霊会員〟になっていたが、先月末の臨時党大会でトークセッションに参加した。その場で軽く挨拶した俺は先日、夕刊紙の若手記者を伴って、高坂さん経営のバー(通称たまTSUKI)に足を運んだ。2度目の訪問である。俺は最近、梨元リポーター並みの突撃スタイルだ。残された時間はきっと短い(58歳)。わかり合えると直感したら、距離を無遠慮に縮めていく。高坂さんは幸いにも寛容な人だった。

 俺は生まれて初めて夢らしきものを見つけた。別稿にも記したが<人と人を紡ぎたい>……。糸は文化と意識で、高坂さんからヒントを引き出せるのではと、迷惑かもしれないが思い込んでいる。今回はバーの印象と著書「減速して自由に生きる~ダウンシフターズ」(筑摩文庫)の感想を併せて簡潔に記したい。

 実は、俺が語るまでもない。<高坂勝>で検索したら、ブログに加え、多くのインタビュー記事やトーク映像に触れることが出来る。何事においても重要なのは〝一次資料〟で、俺の屁でもない〝二次資料〟はパスしてもらっていい。

 バーはまさに〝人間交差点〟で、高坂さんはコンダクターだった。食の問題に取り組む女子大生、ブックレビューを大手新聞に寄稿している研究者、そして同行した記者を、高坂さん自らが紹介し結んでいく。先日講演した日本財団の関係者も来店していた。立ち位置は真逆のはずだが、高坂さんに敵と味方という発想はない。「三宅洋平とチャランケ精神を共有してますね」とぶつけたら、本人も同意していた。

 誰もが高坂さんと話すためにやってくるのだから、独占するわけにもいかない。早めに辞したが、3点ほど話を振ってみた。<貧困になりがちな政治の言葉>、<直接民主主義と議会制民主主義を繋ぐ回路>、<社会だけでなく自身の生き方を変える意味>である。普遍かつ不変のテーマで、継続して考えていきたい。俺が最重要課題と考える格差と貧困について、個々の生き方(後輪)から変え、前輪(政治)にパワーを伝えていくべきと、実践を踏まえて語っていた。

 話題になるのがシールズだ。シールズと人脈が重なる高坂さん、頻繁に取材している記者……。両者の思いは期せずして一致した。「こいつ、なかなかやるな」と記者のビビッドさに、あらためて感心する。衝撃的なメッセージも、いずれ消費され干からびてしまう。<イマジネーションとリアリティーを加味し、言葉を更新いくべき>……。これが俺を含めた3人の共通認識だ。彼らの突破力と表現力に頼るだけでなく、世代を超えたフォローが必要で、〝それぞれ自分の拠点で闘うこと〟と言い換えることができるだろう。

 「どこでディベート術を学んだのですか」と尋ねると、「飲み屋のオヤジとして身につけました」との答えが返ってきた。妙に納得したのだが、高坂さんは経験を基に、借り物ではない論理を蓄積している。だから誰しも説得力を感じ、バーを訪れるのだ。ダウンシフターになったり、会社を辞めて自立したり、農業や居酒屋を始めたりと、高坂さんに触発されて生き方を変えた人は多い。

 著書で高坂さんは、20代の懊悩を曝け出している。大手企業を辞めた理由も「現実逃避の意味が大きかった」(論旨)と記されていた。日本と世界を回り、再出発の道を探る。パレスチナを訪れた際の印象も興味深かった。高坂さんの30歳の夢は、くしくもアラカンの俺と同じで、<人と人を紡ぎたい>だった。

 意識的に論理と知識を排した著書に、示唆深い言葉がちりばめられている。<5%が意識を変えれば、社会は自ずと変わっていく>(趣旨)もそのひとつで、再訪した時に問うてみたい。アラカンになっても煩悩と物欲まみれの俺だが、〝人間交差点〟に通って刺激を受け、少しでも澱みを濾過できればと考えている。俺が親近感を覚えたのは、高坂さんの著書における自虐的、偽悪的な語り口だった。

 明日は国会前の集会に参加する。<10万人が集まれば何かが変わる>と意気込む人も多いが、へそ曲がりの俺は、<20万人以上が集まった反原発集会で何が変わっただろうか>と考えてしまう。高坂さんに問うた、問えなかったテーマを、集会中に反芻するつもりでいる。
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「火花」に感じた又吉直樹の志

2015-08-25 23:57:36 | 読書
 ハードな週末だった。土曜は葛西臨海公園で開催された「鳥類園ナイトウォッチング」に、知人に誘われ参加する。夜にバードウオッチなんてロマンチックと誤解していた。前半はツバメやサギが幅を利かしていたが、闇が濃くなるにつれ、コウモリ(哺乳類)、そしてカニや昆虫たちに主役を譲っていく。オニグモがアブラゼミを捕食するシーンに、虫嫌いの俺でさえ愛と神々しさを覚えた。

 日曜のNHK将棋トーナメントは凄まじい結末だった。放送終了10分前まで井上9段が優位を保っていたが、糸谷竜王の139手目(6七角打ち)で形勢が一気に逆転する。人生においても劇的な分岐点はあるはずで、俺を含め多くの人が気付かぬまま、生を終えていくのだろう。鈍は得ともいえるけれど……。

 将棋の余韻が去らぬまま、「みんなの広報スクール」(緑の党主催)に足を運んだ。ファシリエーターの中園順子さん(コピーライター)を筆頭に、会員以外の方も多く参加されていた。第6弾にして初めて参加したのはテーマ「メディアの使い方」に関心があったからだ。闖入者、異物というべき俺を温かく(勝手な思い込み?)迎えてくれた皆さんに感謝したい。

 中園さんは沖縄在住で、<戦後70年、私は誤りたい。>のサイトの広報担当だ。記者会見の模様は沖縄の地方紙、毎日新聞に取り上げられ、動画サイトにもアップされている。草の根的ムーヴメントは地道に広がっていくだろう。大手代理店で仕事をしてきた中園さんは自民党のネット管理、メディア懐柔についても詳しく、参考になる点が多々あった。

 「文藝春秋」に掲載された芥川賞受賞作、又吉直樹の「火花」を読んだ。単行本と同誌を合わせ優に300万人以上が読んだ、いや、読み始めたと思うが、読了率はいかほどだろう。又吉が推奨してきた作家――古井由吉、町田康、中村文則ら――の読者はマックス10万人ほどで、21世紀の純文学は黄金期といえるのに、商売として成立しづらい。授賞の意図を勘繰る向きもある。

 又吉は的確な批評により、文学に関心のない人と作家を繋ぐ媒体の役割を果たしてきた。純文学の鋳型に填め込んだ嫌いはあるが、「火花」は受賞に相応しい高いレベルの作品だと思う。ちなみに俺は選評を含め、一切の批評を読まずに本作を読んだ。唯一の例外は、和田アキ子の「純文学とは思えない」という辛口、いやピンボケの意見だった。

 舞台は漫才界で、主人公は20歳のスパークスの徳永だ。熱海の花火大会で共演した4歳上の神谷を「師匠」と呼ぶことになる。ちなみに俺は、多くの芸人が覇を競うコンテストの類は見たことがない、寄席で接するホームラン、ホンキートンク、ロケット団の漫才は笑えるが、又吉らデジタル世代とは戦場が別かもしれない。

 本作に感じたのは、笑いを追求する漫才が、ポップ志向のロックに似ていることだ。フライアン・ウィルソン、シド・バレットをはじめ、精神を病んだロッカーは枚挙にいとまない。ポップの毒に脳髄を侵されたというべきで、パンク以降、ネオアコースティックに分類されたバンドの数々も、最初の2枚で煌めきが失せてしまった。漫才師も同様で、宙を舞う笑いの毒を必死に手繰り寄せているのではないか。

 ベースがある落語でさえ陥穽に落ち、自ら命を絶ったり壊れたりする噺家も多い。記憶に残るのが「鬼の詩」(75年、村野鐵太郎監督)で、明治末期の実在の落語家をモデルに、桂馬喬の凄まじい芸への執念が描かれている。又吉は同作を観賞したことはあるだろうか。

 神谷は全身漫才師で、舞台だけでなく日々の一分一秒、常に毒を吐こうともがいている。神谷と徳永の会話は奇矯だが斬新で、徳永は距離を覚えつつ、神谷と多くの時間を過ごしている。超然としている神谷は袋小路にハマり、妥協も辞さない徳永はそこそこの成功を手にする。だが、徳永の神谷への畏敬の念は揺らがない。

 肝というべき徳永の独白を以下に記す。

 <神谷さんが相手にしているのは世間ではない。いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。その世界は孤独かもしれないけれど、その寂寥は自分を鼓舞もしてくれるだろう。僕は、結局、世間というものを剥がせなかった。本当の地獄というのは、孤独の中ではなく、世間の中にこそある。神谷さんは、それを知らないのだ>

 ザ・フーの「四重人格」を映画化した傑作「さらば青春の光」で、「ハレ」と「ケ」の境界を行き来したジミーは、バイクを断崖から突き落とすことで正気を保つ。徳永が選んだ道だが、神谷は逸脱して狂い、馬喬の境地へと突き進む。痛切なラストが心に響いた。

 上記したように、俺は又吉を含め、そのパフォーマンスに接したことがないか、芸人たちに敬意を抱いている。彼らのマージャンの力量を知るからで、打ち筋に感嘆することしばしばだ。お笑いとは天才、異才がひしめく世界なのだろう。
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「レッドカーペット」~肩の凝らない清涼剤

2015-08-22 13:18:56 | 映画、ドラマ
 仕事先の夕刊紙によれば、戦争法案反対の署名(1300人以上)を集めた創価大教員への陰湿な嫌がらせが始まっている。平和を願う人たちを〝仏敵〟と攻撃する組織について、別稿(7月18日)で以下のように記した。

 <公明党の組織形態が民主主義と対極にあることは、かつての言論弾圧事件からも明らかだ。非民主主義的体質において自民党=公明党で、独裁を目指す首相にとって公明党は最良のパートナー>……。残念ながら、俺の指摘は的を射ていたようだ。

 中1男女殺害に関わったとされる容疑者が逮捕された。俺がこの間、気になっていたのは、監視カメラへの〝好感度〟である。歌舞伎町に数十台が設置された時、人権侵害と抗議する声が上がった。空気を変えるのに貢献したのは、「相棒」をはじめとする刑事ドラマではないか。監視カメラの分析が解決に至るシーンに、視聴者も影響(洗脳?)されている。

 権力による秘密保護法の拡大解釈は可能だ。川内原発で早速、トラブルが起きたが、<反原発など国家の意志に反する運動を探る>という口実で、特定の集団や個人の隠し撮りも合法になった。シールズを撮影する公安が非難されているが、日本は前世紀から管理国家である。江沢民中国主席が大隈講堂で講演した際(1998年)、早大当局は参加者名簿を公安に流した。この件は氷山の一角と見るべきだろう。

 ロディ・パイパーの訃報を「RAW」(Jスポーツ)で知る。主演作「ゼイリブ」(88年、ジョン・カーペンター監督)で存在感を見せつけたロディだが、本業はレスラーだった。希代のアイデアマンで、気概、反骨、情熱を体現した男の死を心から悼みたい。

 さて、本題。シネマート新宿で先日、「レッドカーペット」(14年、パク・ボムズ監督)を見た。シネマートといえば韓国映画の常設館で、原罪と心の闇に迫る文芸作、ハリウッドを凌駕するアクション、ヒューマンドラマや群像劇と上映作が何であれ、2割程度(70人前後)の入りだ。営業不足は否めないが、パンフレットを見て愕然とする。脇役が表紙を飾り、扱いも大きいからだ。<韓流アイドルで女性客を釣る>という戦略は時代遅れで、根本的に間違っている。

 〝釣られた〟女性たちが9割以上を占めた。開場を待つ俺の横、観賞を終えた女性グループが感想を話していた。ネタバレもあったが、歯の浮くようなハッピーエンドを想定していたので怒りを覚えなかった。

 前稿に記した通り、桃月庵白酒の旬の芸でさえ導眠剤にする俺だから、ぬるい序盤にウトウトしたのも仕方がない。本作の<ボーイ・ミーツ・ガール>はなかなかモダンだった。ポルノ映画監督のジョンウ(ジョン・ゲサン)が帰宅すると、若い美女が部屋にいる。暴漢扱いで、警察に連行された。

 ウンス(コ・ジュニ)はスペイン帰りで、ネットの住宅詐欺に引っ掛かった。2人は当分の間、部屋をシェアすることになる。ウンスは一世を風靡した子役で、芸能界復帰を目指しオーディションを受ける。恋に落ちた2人だが、引き裂かれる運命にあった。

 ジョンウの父親は息子に高圧的で、スタッフ間で「俺の方が年上」という会話が交わされていたように、韓国社会には儒教が浸透している。ポルノ映画に関わることは〝恥〟と見做され、男尊女卑の傾向が日本同様、強い韓国で、女優たちは偏見に晒されている。

 才能に溢れたジョンウは脱出を試みる。ポルノ映画で修業した日本の監督に例えれば、相米慎二、森田芳光、根岸吉太郎、滝田洋二郎といったところか。立ちはだかるのは映画界の仕組みで、事務所は安定した興収を得るため、ジョンウをポルノ界業界に留め置こうとする。シナリオを盗用されるなど散々の日々だが、一方のウンスはスターに返り咲いていた。

 ジョンウに転機が訪れた。仲間とともに独立し、自身のシナリオを低予算で映画化する。ヘタレの優男にしか見えないジョンウだが、ここ一番で矜持と侠気を示し、出入り前のヤクザのボスのように眦を決する。道は一気に広がり、冒頭の夢が現実になった。

 本作は肩の凝らないコメディーで、糖分たっぷりの清涼剤だった。ハッピーエンドを楽しみたい若いカップルにお薦めだが、中高年の独身男には? 自身の不遇と真逆の展開に、「こんなにうまくいくはずがない」と独りごちること請け合いだ。

 朝鮮半島が緊迫している。緊張がビジネスに直結する軍需産業と、その意を受けた米中の思惑が背景にあるのだろう。北朝鮮の兵器はボロいが、個々の兵士は強靭で、韓国映画にもイケメンの若い工作員が頻繁に登場する。対する韓国サイドは大抵、やさぐれたおっさんだ。<韓国=渋い大人、北朝鮮=蒼い青年>というイメージが暗黙のうちに成立しているのだろうか。
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夏バテ極致のお盆雑感~落語、是枝、反原発etc

2015-08-18 23:22:21 | 独り言
 クーラーが不調で、水分の過剰摂取。眠りは浅く、夜な夜な悪夢にうなされる。典型的な夏バテ状態だ。15日はサマー・ソニックでマニック・ストリート・プリーチャーズの「ホーリー・バイブル」再現ライブを見るつもりだったが、タイムテーブルをチェックして断念した。演奏終了が最後で、帰宅は日付が変わる頃になるからだ。

 16日は「柳家小三治一門会」(めぐろパーシモンホール)に足を運んだ。禽太夫の「蜘蛛駕籠」、はん治の「ろくろ首」に続き、花島世津子のダイナミックで華やかな奇術に瞠目する。小三治の円熟した話芸(「茶の湯」)に聞き惚れた。

 17日は勤め人時代の後輩で、今も週2回、一緒に仕事をしているT君と「桃月庵白酒独演会」(紀伊國屋ホール)に向かう。旬の勢いがバチバチ弾けていたが、T君は「喧嘩長屋」、俺は「千両みかん」でウトウトし、揃ってキリッとしていたのは3題目の「お化け長屋」だった。

 年齢層が高いこともあり、落語会での居眠り率は極めて高い。T君によると、落語は読経とリズムが近く、気持ちが安んじてしまうからだという。「どうぞ楽にして下さい」が噺家の基本スタンスだが、鷹揚さを装っているに相違ない。立川談志は船を漕ぐ客を叱りつけたという。ちなみに、小三治も白酒も高校野球を枕にしていた。清宮とオコエは今や、国民注視のヒーローなのだろう。

 広島、長崎への原爆投下、そして敗戦と記念日が続くこの時季は、あれこれ捻り出してきたが、今年は戦争や憲法について考える時間が2カ月以上も続いている。「もういいか」とやり過ごすつもりだったが、HDDを整理しているうち、今年4月に録画した「シリーズ憲法~第9条・戦争放棄『忘却』」(06年、是枝裕和監督)を〝発見〟した。録画したことさえ「忘却」していて、あやうく消去するところだった。

 示唆に富む内容なので、改めて(来年の憲法記念日あたり?)に記したいが、多くの人(もちろん俺も)が「忘却」していた事実を是枝は抉っていた。小泉首相は自衛隊のイラク派遣に際して憲法前文を都合のいいように引用し、「憲法の精神、理念に合致する行動に自衛隊も活躍してもらいたい」と結んだ。是枝は番組後のインタビューで、<憲法を捻じ曲げた小泉の暴挙は衝撃的だった。憲法が政治家を縛るというコンセンサスが失われた瞬間で、今(安倍政権)に受け継がれている>(趣旨)と語っている。

 <政治運動の盛り上がりに不可欠な要素はエモーション、イマジネーション、そしてリアリティー>……。誰の名言? いや、俺の思い付きだ。戦争法案反対運動には全てが含まれている。夫の戦死後、苦難に耐えて子供を育て上げた老女の「戦争は絶対にダメです」の言葉に、人々の心は激しく揺さぶられる。若者が自身の、そして母親が子供の未来として、想像力で戦争を語ることが更なる結集を生み、<安倍政権を倒せ>のリアリティーが増してくる。

 一方で反原発はどうか。「DAYS JAPAN」や広瀬隆氏の著書、心ある医師たちのリポートを読めば、多くの子供の肉体は、戦争法案が成立して日本の派兵が日常になったとしても、戦地に赴く前、体内被曝に蝕まれている可能性もある。川内原発と桜島噴火の関連もそうだが、もはやイマジネーションの領域ではなく、あまりに重いリアリティーが間近に迫っている。戦争法案反対と反原発が両輪となって運動が広がっていくことを願っている。

 上記の「シリーズ憲法」で、森達也監督の企画「天皇制」はボツになったという。この10年、天皇の立ち位置が大きく変わった。保守派のシンボルだった皇室だが、戦没者追悼式での天皇の言葉からも明らかなように、今や安倍首相のストッパーになっている。国会前に集結する人々の多くは、天皇に親しみを抱いているのではないか。一方で右派メディアには天皇の政治的発言を諌める論調も目立ってきた。

 安倍首相の本音は<日本のアメリカ化>と考えているから、政権と皇室の乖離にはさほど驚かない。だが、コペルニクス的転回が進行していることは確実だ。事態はどのように進行するのか見守っていきたい。
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WPF、ニール・ヤング、そして遠藤ミチロウ~音楽で闘う者たち

2015-08-15 20:24:25 | 音楽
 安倍首相の70年談話(14日)は継ぎはぎだらけで、玉虫色の内容だった。沖縄でのヘリ墜落事故は、米軍特殊部隊と自衛隊の共同演習中に起きたとみる軍事専門家もいる。現実は戦争法案の彼方に進んでおり、明らかに首相の談話と乖離している。

 先日(12日)、渋谷・ハチ公前で開催された「WORLD PEACE FESTIVAL」(WPF)に参加した。俺は大場プロデューサーが場を離れる時、会場整理――といってもロープを持っているだけ――を担当した。棒立ちの俺の横、隣でロープを持つ美女が音楽に合わせて軽やかにステップを踏んでいた。

 東京新聞は1面、朝日新聞も社会面でWPFを取り上げていた。オープニングを飾ったROOT SOULのソリッドな演奏に、フジロック'10で見たジャガ・ジャシストを思い出す。出演者はそれぞれアピールしていたが、言葉で政治を語る難しさを実感する。政治家さえ稚拙な人が目に付くのだから、ミュージシャンにとっても容易ではない。その点で三宅洋平は傑出していた。

 自身、山本太郎参院議員、シールズの3者を意図的に離反させようと蠢く者がいると、三宅は切り出した。彼らをまとめて「極左」に分類する〝ネット右翼〟ではなく、合体を警戒する一部左翼を指している。言葉に接したこともないのに三宅をこき下ろし、山本を〝キワモノ〟と決めつけ、シールズの背後関係を仄めかす論調も気になる。チャランケを実践する三宅は「小さな差を乗り越えないと、権力に勝てない」と大同団結を呼びかけた。

 三宅は川内原発前で抗議を終えてやって来た。演奏の合間に、反原発と生き方との関わりを語る。戦争法案反対の盛り上がりと対照的に、フェイドアウトしつつある反原発の思いを込め、「川内原発再稼働反対」とシュプレヒコールを叫ぶ。そして今日(15日)、火山性地震が頻発している桜島の噴火警戒レベルが4に引き上げられた。

 外国人観光客がロープ内に入ってきて体を揺らしていた。三宅の持ち時間、アベックから「誰ですか」と尋ねられ、「三宅洋平といって」と説明しようとしたら、2人は雑踏へ遠ざかっていく。手を挙げて呼び止めても無視されてしまった。それはともかく、ささやかな試みが、うねりになっていくことを願っている。

 ニール・ヤングの「ザ・モンサント・イヤーズ」と遠藤ミチロウの「FUKUSHIMA」が最近の愛聴盤だ。多作ぶりがギネス級のニール・ヤングだが、「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」、「ハーヴェスト」、パール・ジャムが参加した「ミラー・ボール」ほか2、3枚しか聴いていない。そんな俺が本作に関心を持ったのは、「デモクラシー・ナウ!」等で大きく扱われていたからだ。本作は遺伝子組み換え食品を世界に流通させるモンサントを告発し、併せてスターバックスやウォルマートも攻撃している。

 ウィリー・ネルソンの息子たちのユニット「プロミス・オブ・ザ・リアル」との共演で、フォーク色、カントリー色の濃いアルバムだが、♯4「ビッグ・ボックス」のようにクレイジー・ホース時代を彷彿させる曲もあった。長年のファンは、ノスタルジックな気分に浸ることだろう。

 欧米のロックスターのメッセージ性といっても、米民主党、英労働党の掌で踊っているアーティストが大半で、資本主義の構造そのものに刃を向ける著名アーティストは極めて少数だ。ニールはこれまで、穀物メジャーによって没落を余儀なくされたアメリカの農民たちを支援し、環境問題や反核にも取り組んできた。カナダ人であること、商業的成功に拘る必要がないことも、反骨を保てる理由ではないか。

 上記の大場さんがプロデュースする「オルタナミーティング7」でPANTAと共演する遠藤ミチロウの「FUKUSHIMA」を、予習のため購入した。スターリンも聴いたことがない俺にとって〝ミチロウ初体験〟となった本作は、3・11以降、書きためた故郷福島への思いを詰め込んだ弾き語り集である。

 猥雑、途轍もないエネルギー、情念、怒り、誌的なイメージの煌めき、絶望、叙情、再生への夢、刹那的、詞の遊び、祝祭、自虐と露悪、喪失感、贖罪、鎮魂の思い……。これらが混然一体となったアルバムでとりわけ心に響いたのは、♯3「NAMIE(浪江)」、♯6「ワルツ」(友川かずき作)、♯8「俺の周りは」、♯11「放射能の海」、♯12「冬のシャボン玉」あたりか。聴き込むうち、脳裏のスクリーンに希望という名の蜃気楼がよぎった。

 既視感ならぬ既聴感を覚え、記憶の迷路を彷徨ううち、答えを見つけた。それは既読感というべきで、町田康の「告白」を読み終えた時の感覚と極めて近い。ミチロウと町田が共有するパンクスピリットが、分野を超えて無上の花を咲かせたのだろう。

 ニール・ヤングは69歳、そして妹の命を奪った膠原病と闘っている遠藤ミチロウは64歳……。気高い生き様に触れた以上、10月で59歳になる俺も老け込むわけにはいかない。無駄? に磨いた感性と蓄積した知性を、形にする手段はあるだろうか。
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川内原発再起動の日、「東京が壊滅する日」を読了する

2015-08-11 23:50:00 | 読書
 先日のNHK杯将棋トーナメントで、北浜健介8段が羽生善治名人(4冠)を破った。北浜の粘り強く鋭い指し手は称賛に値するが、将棋ファンが感銘を覚えたのは羽生の〝負け方〟である。屋敷伸之9段が解説していたように、羽生には負けを回避する確実な手段があった。

 将棋には千日手というルールがある。同一局面が盤面に4回現れると引き分けになり、先後を入れ替えて指し直しになる。状況を把握しつつ負けを選んだ羽生に、第一人者の矜持と美学を感じる。政界なら第一人者は安倍首相だが。敬意を抱く要素を全く見いだせない。

 「安倍政権を倒すぞ」、「戦争法案を廃案に追い込むぞ」……。俺も拳を突き上げてきたが、実現の可能性はある。抗議する方もされる側も人間だからだ。辺野古工事の一時停止、70周年談話へのお詫び追加は姑息とはいえ、支持率低下とともに安倍首相の人間らしい弱さが窺えるようになった。それでも川内原発は再稼働し、俺は広瀬隆氏の最新刊「東京が壊滅する日~フクシマと日本の運命」(ダイヤモンド社)を読了した。

 本書は福島だけでなく、都内においても進行中の体内被曝についてデータを提示している。広瀬氏は後段で各国の核実験、原発事故が及ぼした深刻な被害を取り上げ、<原爆と原発は双子の悪魔>と記していた。その言葉に重なったのが、総選挙直後の柳家小三治独演会だ。小三治はファシズムに警鐘を鳴らした後、「原発ではなく原爆発電所だと思っている>と語りかけると、客席から拍手が起きた。

 再稼働は狂気の沙汰で、菅官房長官、田中原子力規制委員長の発言に背筋が凍る。両者の言い分を合成すれば<100%安全ではないが、事故が起きたら国が前面に立って処理する>……。地震大国の日本で福島の悲劇が再現される可能性は極めて大きい。良心と倫理に照らし、採算を考慮しても再稼働と輸出はありえないと考えるのが当然だ。

 なぜ、そうならないのか。俺は3年前の夏を思い出していた。共産党志位委員長や社民党福島党首(当時)が「野田政権を倒すぞ!」と能天気にシュプレヒコールしていたが、結果として安倍政権が生まれた。政治家と対照的に、湯川れい子さんはウランマフィアの強大な壁を指摘していた。

 原爆と原発という双子の悪魔を作り出し、守っているのは、姿は人間だが、その実、人間ではない。本作はまさに「悪魔事典」で、無数の人間が放射能に蝕まれ、塗炭の苦しみにもがいても気に留めない悪魔たちが登場する。ロスチャイルドを軸にしたウランマフィアに国連、IAEA、WHOといった機関が牛耳られている。核実験で体内被曝した人たちの声を封殺し、体内被曝を「実験と関係なし」と公表するのだ。米、ロシア(旧ソ連)、フランス、イギリス、中国……。常任理事国の利害は一致しているから、悪魔は世界を闊歩出来る。これは武器輸出と全く同じ構図だ。

 アメリカでは抗議運動が起き、核実験が行われた地域でがん、白血病などが通常では考えられない確率で発症した事実が公表された。では、政府はどう対応したか。棄民国家アメリカは、悪魔の利害第一に自国の民衆を切り捨てる。イラク戦争で用いた劣化ウラン弾に被爆した自軍の兵士たちさえ、補償を一切受けていない。

 広島と長崎の被爆者はAECによって人体実験のモルモットにされた。被爆国で原発を主導したのは中曽根康弘元首相、正力松太郎初代原子力委員長(読売新聞社主)、茅誠司東大総長らだが、連合国に免責された七三一部隊の面々も加わっている。原発村の入会条件は、<人の心を捨てること>なのか。

 戦争法案反対運動が盛り上がりを見せているが、根底にあるのは想像力だ。自らが戦地に赴く可能性がある若者、子供を案じる母親たちが声を上げたことが大きかった。だが、想像力を発揮する要素があまりに小さく、体内被曝の深刻な数字が表れ始めた<悪魔との闘い>は停滞気味だ。ヒューマニズムや良心と無縁で、獣性剥き出しの悪魔の壁を壊す言葉は見つかるだろうか。

 本書は読了する本ではない。反原発の側に立つ者、ジャーナリズムに携わる者が折に触れて手を伸ばす〝常備本〟になるべきだ。広瀬氏の他の著書にも同様の価値がある。 

 明日は渋谷・ハチ公前で午後6時から「WORLD PEACE FESTIVAL」が開催される。各自の持ち時間は少ないが、沖野修也、川内帰りの三宅洋平らがステージに立つ。スピーカーとしてシールズが登場するという噂もある。想定外のアクシデントが心配だが、役立たずの俺も会場整理の一翼を担う予定だ。
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高校野球は軍隊に近い?~日本的メンタリティーの悪しき伝統

2015-08-08 21:05:28 | 戯れ言
 世の中で落語といえば「笑点」のことらしく、誰が桂歌丸を継いで司会者になるかメディアは喧しい。俺は先月、三遊亭白鳥がトリを務める鈴本演芸場に足を運んだ。数十人の列に興味を持ったおばさん2人が看板を繁々と眺め、「知らない人ばっかり」と言って踵を返す。その夜は白鳥以外、橘家文左衛門、三遊亭天どん、柳家三三、春風亭一之輔といった錚々たる面々が名を連ねていた。

 「笑点」に出演する落語家しか知らない人たちが、寄席やホールで至芸に触れる可能性は低い。両者を繋ぐ接点がないからで、人間国宝の柳家小三治でさえ世間的に無名なのだ。似たような課題を俺も抱えている。緑の党に入会して1年半、多様性とアイデンティティーの尊重、環境第一と脱原発、脱成長と循環型社会etc……。掲げる理想は残念ながら、殆ど外で知られていない。

 ならば、意思を持って伝えるしかないと決意する。映画、文学、ロックに長年親しみ、感性を磨いてきた(つもり?)の俺は格好の目標を見つけ、視界が一気に広がった。それは<人と人を文化の糸で紡ぐこと>で、ブログに昨日、コメントしてくれた高坂勝さんはキーパーソンである。

 夏の甲子園が始まった。第1回(1915年)から100周年でもあり、メディアの扱いも大きい。野球以外のスポーツが存在しなかったような〝一色ムード〟は、<集団化>を好む日本人らしい。1930年代、高校(当時は中学)スポーツで野球と匹敵する人気を誇っていたのはラグビ-で、戦死した山中貞雄(映画監督、享年28歳)は中国でも試合の結果を気にしていた。

 「幻の甲子園~戦争に埋もれた球児たちの夏」(BS朝日)は秀逸なドキュメンタリーだった。大会史に残されていないが1942年8月、全国中等学校体育大会(今でいうインターハイ)の一環で、16校が甲子園に集結する。朝日新聞主催ではなく、軍部と文部省が統括していた。選手は「選士」と呼ばれ、打者は危険球をよけてはならず、ケガや体調不良による交代は禁止と、突撃精神が前面に掲げられた。

 本作ではベスト4に残った徳島商(優勝)、平安中(準優勝=現龍谷大平安)、海草中(現向陽高)、広島商の過去と現在に迫っている。出場した選手が語る仲間への鎮魂の思い、原爆など戦災の悲惨さ、そして反戦の誓い……。メッセージは声高に叫ばれないが、見終えた時、安倍政権の愚かさが浮き彫りになってくる。

 興味深かったのは台北工のエピソードだ。6月にミッドウェー海戦で敗れ、戦況は早くもアメリカに傾いていた。台湾と日本を航行する船の安全が保障されるはずはなく、命懸けの甲子園出場だった。<後方支援だから危険は小さい>と語る安倍首相の言葉は明らかな嘘である。米軍は戦時中、非戦闘員を運ぶ輸送船を多く沈めたし、イラクなどに派遣された自衛隊員は兵站担当部隊のシビアな状況を証言している。

 本作は<悪夢の時代に翻弄された高校球児たち>という前提だが、へそ曲がりの俺は穿った見方をしてしまう。高校野球のメンタリティーは極めて軍隊に近いのではないかと……。頻繁に報じられているように、名門校では現在も不条理、非合理が罷り通り、いじめや暴力が横行している。国民の多くは酷いことが起きていることを承知しながら、<汗と涙と友情>の偽装ドラマを受け入れているのだ。

 「フルメタル・ジャケット」(87年、キューブリック監督)、「半島を出よ」(06年、村上龍)、そして韓国映画の数々に描かれているように、軍隊における訓練はまさにしごきで、理不尽と服従を受け入れることが求められる。高校野球とは軍隊の基礎工程といっていい。自衛隊員の自殺者が公表されているだけで50人を超えることに、戦争と乖離した現在日本の土壌が窺える。

 高校野球だけが純粋であるはずもない。シーズンが深まればプロ野球選手も、何十億も稼いでいるMLB選手だって必死の形相でプレーしている。若いから純粋というのは、人々が自分につく嘘の類だ。自身を振り返っても、10代、20代の頃の恋は欲望に衝き動かされていた。アラカンの今の方がよっぽど純粋である。

 高校野球の最大の問題点は、よどんだ顔をした監督たちだ。奇麗事を言っているが、自らの支配欲と功名心のために選手たちを利用している。選手がプロに入る際、礼金を要求する輩もいるというからもっての外だ。高校野球は日本社会の負の部分を写す鏡にもなっている。

 かく言う俺は勤め人だった20年、高校野球と不純に交遊してきた。複数のトトカルチョに毎年参加したが、何と全敗。高校野球の純粋?な女神が俺に微笑まなかったのは当然だろう。ちなみに、学校愛、会社愛、愛国心に甚だしく欠ける俺だが、郷土愛だけは人並みだ。高校野球に限らず京都のチーム(今夏は鳥羽)を応援してしまう。

 日本人の美徳といっていい和の精神、思いやり、自己犠牲、協調性も高校野球にちりばめられている。だが、悲しいことに、それらは常に権力者に利用され、支配の便法になってきた。
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「共犯」~二つの孤独がショートする瑞々しい青春映画

2015-08-04 23:33:31 | 映画、ドラマ
 物忘れがひどい俺だが、4年前のことは覚えている。メディアは原発稼働停止による電力不足を伝え、節電を呼びかけていた。ところが炎暑が続く今夏、「夜間も冷房を」と論調は大きく変わっている。民主党政権、電力会社、官庁、メディアは<共犯>関係にあったのだ。原発不要が明らかになったのに、自公政権は川内原発再稼働を進めている。

 大学生のシールズに続き、高校生がティーンズソウルを立ち上げ、数千人が渋谷で戦争法案反対を訴えた。肝に銘じるべきは、高揚に溺れることなく声なき声を紡ぐこと。虚しい〝祭りの後〟はもうご免だ。アラカンの俺は自らの拠点で具体的な課題に取り組むことにする。時間と空間は共有しなくても、若者たちと地殻変動を企む<共犯>者でありたい。

 武藤衆院議員がシールズについて、「戦争に行きたくないだけの利己的な考えに基づいている」とツイッターに記した。「マスコミを懲らしめろ発言」といい、戦争法案をめぐって「法的安定性は必要ない」と語った磯崎総理補佐官といい、安倍首相の<共犯>者にはロクでもない連中が揃っている。いや、考え方がロクでもないから、ロクでもない連中が引き寄せられるのだろうか。

 WWEが人種差別発言を理由に、HPからホーガン関連のデータを削除した。俺はビンス・マクマホンとホーガンに<共犯>のにおいを感じている。ビンスの親友、ドナルド・トランプは公の場で差別意識を剥き出しにしながら共和党指名レースで健闘している。多人種で構成されるWWEがホーガンにペナルティーを科したのは、「君を支持するわけにはいかない」というトランプへのシグナルではないか。

 年金機構の情報漏洩は中国(軍の関与も?)のハッカーによるものという。一方で、米政府挙げての日本盗聴がウィキリークスによって暴露されたが、宗主国が属州をチェックするのは当然というムードが漂っている。ちなみに戦争法案とは、戦場で<主犯―従犯>関係だった日米が、晴れて? <共犯>関係になることだ。

 枕は長くなったが、新宿で先週末、台湾映画「共犯」(14年、チャン・ロージー監督)を見た。舞台は高校で、登場人物の表情や感性、街の風景、学校生活など日本と共通点が大きい。脚本そのまま日本でリメークすることも十分可能だ。いずれ、DVDやテレビでご覧になる方も多いはずなので、ストーリーの紹介は最小限に記したい。

 日本の高校生は平均5時間超、スマホを利用しているという。台湾も同様で、本作にはフェイスブック、ツイッターに興じる高校生が描かれている。フェイスブックは開店休業状態(友達6人)、ツイッターやLINEは未経験の俺は、「シールズやティーンズソウルはSNSから生まれた」といわれても、「そんなもんか」と思ってしまう。

 主人公は高校2年の少年3人だ。いじめを受けているホアン、不良のイエ、秀才のリンは、1学年上の女子生徒シャーが斃れている路地近くを、わずかのタイムラグで通る。シャーは自宅マンション(5階)から飛び降り、自ら命を絶った。

 同じ学校に通っていても棲息場所が異なり、言葉を交わすこともなかった3人だが、カウンセリングを一緒に受けるうちに親しくなる。シャーはなぜ死を選んだのか、誰が、あるいは何が原因なのか、彼女について調べ始めた。シャーの葬儀に参列した3人は、同級生がいないことに驚き、母親から友達がいないことを知らされる。

 調査の中心になったのはホアンで、演じたウー・チエンホーは二宮和也に似ている。3人はシャー宅に忍び込み、身辺をあれこれ探る。やがて、唯一の友もしくは敵である同級生の存在が浮かび上がる。彼女を反省させようとしてある計画が実行されるが、その直後、新たな悲劇が起こった。

 物語が進むにつれ、3人の個性の違いが際立ってくる。イエには勇気と侠気があり、守るものが多いリンは臆病で小心だ。本作の回転軸はシャーとホアンの絶望的な弧独といえる。シャーは死を選び、ホアンは忘却を恐れた。二つの孤独を繋いだのは「異邦人」(カミュ)で、隠された日記が哀しい真相を明らかにする。

 SNS上で増殖するデマや悪意は、自らを守るための方便から生まれるケースが多い。本作は現代的なテーマを背景に、不変で普遍の青春期の痛みをブレンドした瑞々しい青春ドラマだった。エンドロールで流れたflumpoolの「孤獨」も作品の内容にマッチしている。

 日本ではティーンズソウルが脚光を浴びているが、台湾の高校生は以前から熱心に政治に関わってきた。教科書における<中国史観>の押し付けに抗議し、高校生が教育部(日本の文科省)前で座り込みを行った。台湾には中国、そして日本にはアメリカ……。両国民の目前に巨大な壁が聳えている。
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「三冠小説集」~シュールな笙野ワールドに惑う

2015-08-01 13:47:24 | 読書
 十進法のアナログ人間である俺は、二進法を求められる政治には不向きである。〝政治の季節〟は当分続くが、まっとうなシュプレヒコールに大声で唱和できないことは、以前にも記した。

 多様性とアイデンティティーを尊重し、循環型社会を目指す緑の党には感覚が近い会員が多く、居心地がいい。前稿で紹介した高坂勝氏、「丸腰国家」を著した足立力也氏、そして〝親戚筋〟の三宅洋平氏もチャランケ(徹底的に話し合って対立を克服する=アイヌ語)の精神を軸に据えている。

 「安倍政権を倒すぞ!」の先が見えてきた。読売新聞でも不支持が上回り、創価学会員が反戦争法案のデモに参加するようになったが、それでも安倍首相は鬼教師(アメリカ)に課された夏休みの宿題を提出するだろう。問題はその後で、<戦争法案成立を花道に首相退陣>が永田町で囁かれているという。首相が納得するかは疑問で、立場が近い橋下徹氏とタッグを組む可能性もあるだろう。

 石破茂地方創生相、野田聖子衆院議員らのポスト安倍候補に、親中派(利権絡み)の二階俊博総務会長、小泉進次郎衆院議員が絡む底の浅い政局論がメディアを賑わし、格好の目くらましになる。60年安保改定後に池田内閣が成立し、〝安保闘争の顔〟だった浅沼社会党委員長がテロに斃れたにもかかわらず、総選挙で自民党は議席を増やした。同じことが繰り返されないか心配している。

 笙野頼子の「三冠小説集」(河出文庫)を読了した。地位を確立した3作からなる短編集で、「タイムスリップ・コンビナート」(94年、芥川賞)、「二百回忌」(92年、三島賞)、「なにもしていない」(91年、野間文芸新人賞)と、発表年次に逆行する順で収録されている。情況に合わせて脳内を二進法に変換していた俺にとって、実に手ごわい入門編だった。

 笙野は同年(1956年)生まれだが、存在を知ったのは先日のこと。紀伊國屋でブックハンティングをしていると、「未闘病記――膠原病、『混合性結合組織病の』」のタイトルが飛び込んできた。膠原病といえば、亡き妹が闘っていた難病である。まずは旧作からと手にしたのが「三冠小説集」である。

 大雑把な感想は<俺の理解を超えた異次元に構築された物語群>……。カフカ、安部公房の初期の作品に接した時の印象に近く、物語は時空を行き来し、現実と虚構、妄想、幻想が混淆する。作品はどこにも進まず、どこにも漂着しない。リアリティーが希薄でイメージの連なりが、閉ざされた環でとめどもなく飛躍、派生する。

 自称アヴァンポップ作家で、フィリップ・K・ディック、カート・ヴォネカットの系譜らしいが、両者に縁のない俺には「何のこっちゃ」だ。ようやくペースを掴んだ「なにもしてない」の感想を記したい。

 主人公は部屋にこもり、出歩くこともめったにない。ひたすらワープロに向かって小説を書いているが、評価は芳しくなく、30代半ばなのに親の仕送りで暮らしている。「なにもしてない」主人公は作者の投影といっていい。

 反則かもしれないが、<膠原病>というプリズムを重ねたら景色は変わってくる。湿疹を放置した主人公は、症状が悪化すると、自分が植物に変身中であるかのような錯覚に陥る。作者が膠原病を発症した時の辛い経験がベースになっているはずで、妹も病名が判明するまで、体中に起きた説明不明の異変に苦しんでいた。

 妹は結婚し、複数のコミュニティーで多くの人と交遊した。葬儀で数十人が号泣するシーンに衝撃を受けたが、笙野作品の主人公のように孤独が常態になっても不思議はなかった。闘う作家と評される笙野は、「なにもしてない」当時、疎外感が憎悪のレベルまで増幅していた。犯罪と無縁の純文学なのに、夥しい「殺」の文字がちりばめられている。

 後半に皇室関連の記述が多く表れる。「神道左翼」の政治性を押し出した作品にもいずれ出会うことになるだろう。違和感と共感に満ちた発見で、俺は新たな格闘相手を見つけたようだ。

 近くの蕎麦屋に入ったら、又吉直樹がテレビで、大学生に薦める小説として町田康の「告白」を挙げていた。町田は石川淳のレベルに達する可能性を秘めており、「告白」は石川の「荒魂」に迫る作品だ。又吉は1950~70年代に匹敵する21世紀の豊饒な日本文学を正しく評価している。俺は若い頃、福永武彦を貪り読んだ。それゆえ息子に距離を置いていたが、俯瞰で世界を見据える池澤夏樹はを超えている。

 俺は若い人に小説を勧めない。思考は十進法になり、単純化、分類が求められる時代にそぐわないからだ。小説が社会への違和感、抵抗感を育む毒であることを、自身の体験から保証する。毒の常習者になり、甘美な幻想に溺れるヒトは絶滅危惧種になりつつあるが……。
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