酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「クリエイション・ストーリーズ」~瞬間最大風速を追い続けた旋風児の着地点

2022-10-29 11:50:14 | 映画、ドラマ
 前々稿の冒頭、菊花賞を予想した。名前を挙げた3頭のうち、⑭アスクビクターモア、④ボルドフュージュで1、2着したが、まぐれ当たりだ。天皇賞秋で上位人気が予想される馬たちは、それぞれローテや血統に不安を抱えている。ならば、札幌記念の敗戦で甘く見られそうな③パンサラッサを狙いたい。むろん自信はないし、直線に入ってズルズル後退のシーンが目に浮かぶ。

 「三遊亭白鳥 柳家三三 二人会」(北とぴあ)に足を運んだ。「両極端の会」と同じ趣向の別ブランドである。古典を継承し本寸法(正統派)と評される三三が白鳥作の新作を演じ、一方の白鳥が古典を披露するのが〝お約束〟だ。演目は三三が「腹ペコ綺談」、白鳥が「しじみ売り」で、ともにレアな演し物で、巧みの技に聞き入った。敬意と友情が滲む両者のオープニングとエンディングのトークも笑いを誘っていた。

 英国の新首相にスナク氏が就任した。若さ、明晰な頭脳、インド系であることに耳目が集まっているが、総資産1200億円の新首相に生活苦に喘ぐ国民の気持ちがわかるのかと危惧する声が上がっている。英国といえば新宿シネマカリテで、ロック界に衝撃を与え、後に政治にもコミットしたアラン・マッギーの生き様を描いた「クリエイション・ストーリーズ」(2021年、ニック・モラン監督)を見た。

 製作総指揮を担当したダニー・ボイルだけでなく、本作には「トレインスポッティング」チームが関わっている。ボイルといえば映画界きってのロック通で、「127時間」のハイライトシーンでシガー・ロスの「フェスティバル」を用いており、演出を担当したロンドン五輪の開閉開式もロック色が濃い内容だった。

 時代背景が近いのは、同じくシネマカリテで観賞した「C.R.A.Z.Y」だ。同作のザック、「クリエイション――」のアラン・マッギーは、カナダと英国、創作と実在と背景は異なっているが、ともに1960年生まれでデヴィッド・ボウイの影響を受けた。さらに10代の頃から父との確執を抱えていた。本作では青年時代のアランをレオ・フラナガンが、中年以降をユエン・ブレムナーがそれぞれ演じていた。

 <僕らは、どんなバンドよりも異常だった>……。これが本作のキャッチコピーで、アランだけでなく、レーベル創設メンバーは奔放な青春を謳歌していた。アランは<反抗>が全てでパンクバンドも結成するが、薬物依存を抱えていた。嵐の時代が終わると、アランはバンド発掘するなど裏方に回る。

 俺のように1980年以降、UKロックに浸った者にとって、クリエイションは神々しい響きを放っていた。インディーズレーベルではラフ・トレード、4AD、ミュートも多くのロッカーを輩出したが、最も売れたのがクリエイションで、CD棚にも20組ほどのアーティストの作品が並んでいる。

 プライマル・スクリーム、ティーンエイジ・ファンクラブなどがレーベルに貢献したが、〝神格化〟に至ったのはオアシスとの邂逅だ。グラスゴーで母の葬儀に参列したアランは最終電車に乗り遅れ、ロンドンに戻れなかった。仕方なく訪れたクラブにブッキングされていたのがオアシスで、当時は未契約の〝その他大勢〟の無名バンドに過ぎなかった。

 オアシスの空前絶後の成功はビートルズ以来だったが、ネブワースでのライブを頂点にバンドもアランも下降の一手をたどる。ロックとはそもそも瞬間最大風速で微分係数だ。レーベル運営に行き詰まるのは必然の成り行きで、薬物依存と闘うことになる。天才的な感覚で〝ロックの大統領〟と評された旋風児は本作の後半で、常識人の一面を見せていた。

 上記した「C.R.A.Z.Y」でもザックと父の和解が描かれていたが、「クリエイション――」でも父と相寄ることになる。「男らしく、まっとうに生きろ」とアランに迫った父は労働党支持者だった。政治には無関心そうなアランは、作品中で語られるアナキズムやフェミニズムについての議論には冷淡だったアランだが、90年代半ばから労働党に肩入れし、オアシスまで巻き込んでブレア首相誕生に寄与した。

 ワイルドサイドを歩き続けたアランが父の日、父を訪れるシーンに感銘を覚えた。はみ出すこと、反抗を自らに課して疾走してきたアランの着地点が興味深かった。俺は66歳になっても〝10代の荒野〟をトボトボ歩いている。BGMはクリエイションが送り出したバンドたちだ。
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「死刑について」~平野啓一郎の死刑を巡る精神史

2022-10-25 21:51:04 | 読書
 惰性で刑事ドラマを見ているが、警察に拭い難い反感を抱いているリベラル、左派の知人にはそんな話をしない。呆れられるに決まっているからだ。描かれる事件の殆どは殺人で、犯人かどうかはともかく、「大事な人を奪っておいて死刑にもならず、娑婆に出てくるなんて許せない」なんて台詞が流れると、死刑反対派の俺は複雑な気分になる。

 一方で俺は、<戦争法に反対する人が、なぜ死刑を肯定するのか>と疑問を呈してきた。実際、リベラルや左派の多くが死刑存置派だ。俺の死刑反対の礎になっているのは辺見庸と森達也で、両者の著書や講演については当ブログで何度も紹介してきた。辺見は<人間=時間的連続性で、その連続性を絶つのが死刑制度。死刑こそ国家暴力の母型。戦争というスペクタクルの最小単位の顕示>とし、死刑と戦争を同一の視座で捉えていた。

 森達也は<被害者家族の気持ちを考えろ>の厳罰を求める世論に、<当事者ではないのに、なぜ正義を振りかざせるのか>と問い返し、<自分の想像など遺族の悲しみに絶対及ばない>ことを自覚しなければ言葉は空虚になると記していた。辺見と森に加え、死刑について考えるテキストを読了する。「死刑について」(2022年、平野啓一郎著/岩波書店)だ。

 平野が2度の講演会の内容に加筆修正して発刊された。柔らかな切り口で、作家デビュー前から現在まで、死刑存置派から廃止派に変化した経緯を明かしている。平野は京大法学部時代、死刑反対派の級友(女性)と議論したことがあった。当時、存置派だった平野は、彼女が三人称の死を勉強した通りに語っていると感じた。

 死刑を語る俺の言葉は、理論武装しただけの薄っぺらなもので、<国際標準>という物差しを頻繁に用いる。死刑存置だけでなく選挙制度、冤罪を生む警察の取り調べ、代用監獄・刑務所・入管の前近代的な仕組みと、日本の現状は先進国と程遠い。EU加入の条件は死刑廃止で、平野はフランスに1年間滞在した際、死刑について疑問を抱いた。小泉政権以降、<自己責任論>が死刑存置とリンクしているのではないかと考え始める。

 平野は<なぜ人を殺してはいけないのか>と自問する過程で、基本的人権を重視する憲法を学び、同時に作家として被害者(家族を含め)に焦点を定めた小説「決壊」を発表する。同作のために平野は冤罪を生みやすい捜査の実態を調査し、被害者家族、メディア、法曹関係者を取材する。書き上げた後、<死刑制度はあるべきではない>と確信し、主人公の兄に語らせた。

 辺見は3・11以後、<夥しい死と喪失が進行し、明日にでも崩壊する社会で死刑判決を下すことは、英明だろうか>と問い、死刑を支えているのは、<死を生に織り込む>日本人のセンチメント(情緒)と指摘した。その点では平野も同様で、メディアは勧善懲悪の空気に乗り、現政権は時に死刑執行を政治日程に組み込んで世間の<厳罰主義=死刑肯定>を味方につけている。

 平野は被害者に寄り添うだけでなく、加害者を生んだ劣悪な生育環境に目を向ける。格差が拡大し、社会は分断されている。行政は果たして、弱者に対して正しく対応しているのか。平野は犯罪を生む理由に<根本的な解決を怠る行政と立法の不作為>と<人権教育の失敗>を挙げていた。死刑制度が殺人の抑止力になっているというのは事実に反しており、<死刑になりたい>が動機になった事件の数々を平野は挙げている。

 被害者感情と死刑を同一線上で論じることは誤っているが、死刑廃止を訴えるなら森達也の著書のタイトル「『自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか』と叫ぶ人に訊きたい」に自分なりの答えを出すことが必要だ。平野はハンナ・アーレントの言葉を示し、憎しみに終止符を打つには、「罰」を超えた「ゆるし」が意味を持つと強調する。

 死刑復活を掲げる極右の台頭で状況は変わっているかもしれないが、廃止決定直前の死刑支持率はイギリス81%、フランス62%、フィリピン80%だった。リーダーの政治判断で廃止されたことになる。制度的な問題だけでなく、社会に渦巻く憎しみから優しさを軸に据えた共同体に日本を変えていくべきと平野は結論付けた。その思いを記した小説「ある男」の映画版は来月公開される。感想はブログに記したい。
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「川っぺりムコリッタ」~荻上直子の柔らかな世界観に浸る

2022-10-21 20:47:01 | 映画、ドラマ
 前稿の冒頭で<引きこもり生活のリズムをつくっているのは読書と映画>と記したが、競馬も年金生活者に相応しい少額投資で、ギャンブルというより予想を楽しんでいる。あさっての菊花賞は俺が最も好きなレースだが、伏兵が多くて的中は難しそうだ。⑭アスクビクターモアを軸に、相手は④ボルドフュージュ、⑬ディナースタあたりを考えているが、当たりそうもない。

 新宿ピカデリーで「川っぺりムコリッタ」(荻上直子監督)を見た。昨秋に公開予定だったが、コロナ禍で1年延びた。原作・脚本も兼ねており、まさに荻上ワールド満開だ。作品に触れるのは3作目で、ブログに紹介するのは「トイレット」以来になる。荻上といえば、生と死の淡いはざま、新しい家族の形、人を結ぶおいしい料理を描く映像作家というイメージを抱いていた。「川っぺり――」にも荻上の世界観が色濃く反映されている。

 舞台は富山県の川べりの街だ。主人公の山田(松山ケンイチ)は水産工場でイカをさばく作業に従事している。〝一日一日の平凡な積み重ね〟を説く社長の沢田(緒形直人)の紹介で築50年のハイツムコリッタに入居した。大家は夫を数年前に亡くしたシングルマザーの詩織(満島ひかり)で、娘のカヨコと暮らしている。

 他者を避けている山田に絡んでくるのが隣人の島田(ムロツヨシ)だ。給湯器が壊れたので風呂を使わせてほしいと闖入し、「一人で食べるより二人で食べる方がおいしい」の口癖で、ご飯まで一緒に食べるようになる。山田の特技は米をおいしく炊くことだった。イカの塩辛と味噌汁に、島田が菜園で作った野菜がおかずに加わった。

 島田は断捨離を徹底し、必要最低限の物だけで生活するミニマリストだ。家賃を滞納している溝口(吉岡秀隆)は墓石の訪問販売員で息子の洋一と暮らしている。はみだし者が肩を寄せ合って暮らす……どころか、山田は2年前に亡くなった岡本さんと言葉を交わした。<友達でも家族でもない。でも孤独ではない>が本作のキャッチフレーズだが、緩く温かいコミュニティーには死者までも含まれている。

 山田は生き別れて顔も覚えていない父の死を伝えられ、担当者の堤下(柄本佑)に父が自殺だったことを知らされる。役所から引き取った遺骨が壺の中で光ることを不気味に感じた山田は川に流そうとする。思いとどまったのは島田の幼馴染みで僧侶のガンちゃん(黑田大輔)に目撃されたからだ。本作のキーになっているのは骨だ。

 詩織が夫の遺骨を口に含み、全身をなぞるシーンに「仁義の墓場」を思い出す。主人公の石川力夫(渡哲也)が妻の遺骨を囓るシーンは、ヤクザ映画の極北と評される傑作に相応しかった。だが、「川っぺり――」には柔らかい癒やしを覚えた。タイトル、そしてハイツに冠されたムコリッタは仏教用語で<一日の30分の1=48分>を指す。生と死の境界にあるささやかな幸せがスクリーンから零れていた。

 洋一は廃棄場でホームレス(知久寿焼)と音楽を奏で、その横でカヨコが宇宙と交信している。現実と異界の混淆が当たり前のように描かれていた。島田と詩織に勧められて、村田は父を弔う。葬列に連なったのは島田、溝口父子、詩織母娘、ガンちゃん、そしてホームレスだった。

 上記以外に、田中美佐子、江口のりこ、笹野高史らが脇を固めていた。次第に明らかになる山田の来し方、島田が語る「蜘蛛の糸」のエピソードなどがちりばめられていた。カヨコが飼っていた金魚を埋葬するシーンに重なったのは、自殺防止センターの担当者の声(薬師丸ひろ子)だった。

 父の遺品であるスマホの履歴に残っていた番号に電話し、魂の行方を尋ねると、<宙を泳ぐ金魚を見たと話しました。空に向かって泳ぐ金魚を見て、これが魂だと確信した>と答えた。人生の最終コーナーを回った俺にとって、心をスッキリさせてくれる作品だった。
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「密やかな結晶」~小川洋子の預言的ディストピア

2022-10-16 22:33:02 | 読書
 ロクデナシ初老男は昨日、66歳になった。糖尿病の数値が改善され、いよいよ正常の範囲かとぬか喜びしていたが、リバウンドして危険領域に戻った。無職だし、暑い夏にゴロゴロして炭酸飲料をガブ飲みしていたのだから自業自得だ。腰と膝は痛いし、年相応、いや、それ以上に心身の衰えは進んでいる。父が迎えられなかった古希を越せるだろうか。

 引きこもり生活のリズムをつくっているのは読書と映画だ。ブログでも交互に紹介しているが、今回のテーマは小川洋子著「密やかな結晶」(講談社文庫)だ。これまで10作ほど紹介してきた小川作品について、<寂寥、孤独、欠落の哀しみ、喪失の痛みを自由への起点として描き、物語は寓話に飛翔する。精緻に表現される四季折々の移ろいは死の匂いを醸す水彩画の如くだ>(趣旨)と評してきた。

 読み進めるうち、小川の進化と深化に感嘆したが、読了後にネットでチェックすると「密やかな結晶」は1994年発表で、俺が読んだ中で最初期の作品だった。解説の鄭義信(脚本・演出家)によると、小川は鄭との対談で、タイトルの意味について<心の中にある非常に密やかな洞窟のような場所に、みんながそれぞれ大事な結晶を持っているというイメージ>と話している。

 英訳された本作が2年前、ブッカー国際賞の最終候補にノミネートされたことは、四半世紀後の世界を見据えていた慧眼が評価されたことを示している。舞台は遮断された島で、通貨は円だが、コミュニティーでは教会が認知されている。実在しないノーホエアといった感じの島で、物が少しずつ消滅していく。忘却を管理するのが秘密警察だ。

 小川は「アンネの日記」にインスパイアされて本作を著した。秘密警察はナチスのゲシュタボに着想を得たもので、監視される住民に、鄭は在日韓国人である我が身を重ねたという。安倍政権下で進行した秘密保護法、共謀罪、戦争法といったファッショ化、コロナ禍での沈黙は日本社会を閉塞させたが、本作でも住民たちは喪失をおとなしく受け入れていく。

 主人公のわたしは小説家だ。消滅したものを記憶と棚にとどめていた母は彫刻家だったが、秘密警察に連行され、野鳥を観測していた父も亡くなった。鳥、バラ、幾つかの野菜、こまごまとしたものが次々消え、生活が苦しくなる中、わたしを支えてくれたのは生活万端に通じた旧知のおじいさんだった。心のよすがになったのは編集者のR氏である。R氏は母同様、消滅したものを記憶にとどめる少数者だった。

 R氏に好意を寄せるわたしはおじいさんの協力を得て、我が家の隠し部屋にR氏をかくまう。R氏は人生の核、失っていけないものは何かを追求し、自由のためには犠牲を厭わない不屈の男だった。わたしにとって最も大切な小説が消滅した時も、諦めたわたしに書き続けるよう鼓舞する。

 本作で最も印象に残るのは、物事が消えていく現実と、わたしが書く小説nとのシンクロだ。小説の主人公であるタイピストも、最初は声で、次第に感覚と世界を失っていくが、抵抗することなく受け入れていく。島の住民たちも消滅は体の部位に及び、自身が、そして世界まで消えていく。

 「さようなら」とわたしと最後の言葉を交わしたR氏はラストで、外の世界に出ていった。わたしはR氏が籠っていた隠し部屋で消滅する。預言的ディストピアが小川の〝初心〟であったことに驚嘆させられた、そして、俺は考える。自分にとって〝大事な結晶〟は存在するのだろうか。
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「乾きと偽り」~20年を繋ぐクライムサスペンス

2022-10-11 19:25:40 | 映画、ドラマ
 ロシアのウクライナ侵攻は想定外の様相を呈している。ウクライナの反転攻勢にプーチンは追い込まれているが、戦争終結の道のりは遠く、憎悪は増幅している。さらに深刻な戦争、気候変動は悲惨な終末に向かって歯止めが利かない。今回紹介するオーストラリア映画に重なったのが3カ月ほど前にNHKが放映したドキュメンタリー「灼熱の50℃を生きる」(BBC制作)である。

 冒頭で映し出されたのは、シドニーで49度の高温を記録したというニュース映像だ。グーンシェラの山火事で多くの被害が出た。オーストラリアだけでなく、ナイジェリア、イラク、クウェート、モーリタニア、メキシコ、カナダのヒートアイランド現象が紹介される。気候変動で苦しめられるのは、資源を消費する富裕層のあおりを受ける貧困層という主張が繰り返されていた。

 格差と貧困の構図は国家間でも顕著だ。アメリカがコロラド川への放流を止めたことで、隣接するメキシコの街では干魃が起きたが、放流を再開したことで潤いを取り戻す。アメリカへの抗議活動を続けていた老女も感謝して召された。カナダの先住民の一家も、崩壊したコミュニティーの再建を試みている。絶望的な状況でも希望を捨てない人々に救いを覚えた。

 「灼熱の50℃を生きる」では「世界中の熱がオーストラリアに凝縮している」と気象学者が言及していた。人気の観光地である同国の温暖化を背景に描いた映画を新宿シネマカリテで見た。「乾きと偽り」(2020年、ロバート・コノリー監督)で、主人公はメルボルン在住の連邦警察官アーロン・フォーク(エリック・バナ)だ。フォークは20年ぶりに、高校時代の親友ルークの葬儀に参列するため帰省する。

 フォークの車がハイウェイを走る光景に、オーストラリアの広大な自然を実感する。1年近く雨が降っていない故郷キエワラは、乾きだけでなく負の感情が充満していた。絶望を象徴するような事件が起きる。犯人と見做されたのはルークで、妻と長男を射殺後、自らも命を絶ったという結論で捜査は終了する。引き揚げるつもりだったフォークだが、ルークの両親に真相を突き止めるよう頼まれ、地元の警官レイコー(キーア・オドネル)とともに捜査を再開する。

 キエワラはフォークにとって完全なアウェイだった。連邦警察という肩書は反感を生むだけで、一日も早くフォークが去ることを誰もが願っている。裏の事情としては、ルークが早晩手放すはずだった農地を巡る対立があった。加えてフォークは20年前の少女変死事件の容疑者だった。フォークが事件後、父と一緒に街を離れたことも疑惑を深める理由だ。現在と過去、キエワラで起きた二つの事件がカットバックしながら物語は進行する。

 ハイスクール時代、フォークとルークはエリー、グレッツェンと4人組を形成していた。フォークは思いを寄せるエリーの影の部分に入り込めず、焦りと不安に駆られていた。エリーが川で変死したことでフォークに疑いがかかるが、ルークの偽証で捜査の目から逃れた。だが、キエワラの街に「人殺し」と書かれたビラが貼られるなど、住民の目は厳しかった。

 フォークはグレッツェン(ジュネヴィーヴ・オーライリー)と再会し、彼女、そして恐らくルークも、嘘の証言をしたことの罪悪感に苦しんでいたことを知る。エリーの親族との軋轢など四面楚歌の中、フォークに親しく接してくれたのは、最近キエワラに引っ越してきたばかりの小学校校長のホイットラム(ジョン・ポルソン)だけだった。

 容疑者が浮かんでは消えたが、フォークは真実に行き着き、併せて20年前のエリーの死の真相も明らかになった。過去と現在の軛から解き放たれたフォークだが、同じ原作者、ジェイン・ハーパーによる続編「潤みと翳り」がクランクインしたという。公開されたらぜひ映画館に足を運びたい。
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「キングメーカー 大統領を作った男」~光と闇の鮮やかな交錯

2022-10-06 19:52:07 | 映画、ドラマ
 アントニオ猪木さんが亡くなった。10代半ばから新日本プロレスのファンだった俺は後にWWE(当時はWWF)にはまる。アメプロに馴染むにつれ、猪木さんと右腕だった新間寿氏の影響力の大きさを知る。タイガー・ジェット・シンによる新宿伊勢丹前での猪木夫妻襲撃事件など、リング外をストーリーに組み入れる手法はアメリカで踏襲され、nWoなど軍団抗争のルーツも維新軍だ。

 セルフプロデュースという点で猪木さんに匹敵するレスラーはスティーブ・オースチンしか思い浮かばない。虚実ないまぜの内的パワーが漲っていた。エネルギー問題を解決すべく興した「アントンハイセル」で抱えた負債は新日プロ分裂を招いたが、今日的なテーマを見据えたものといえる。毀誉褒貶相半ばする猪木さんだが、希代の風雲児、表現者の死を心から悼みたい。

 上記の新間氏は訃報に接し、「猪木さんは太陽であり、神だった」と述懐している。猪木さんと新間氏に重なる関係性を、史実に基づき描いた「キングメーカー 大統領を作った男」(2021年、ビョン・ソンヒョン監督)を新宿で見た。同監督作は「名もなき野良犬の輪舞」に続いて2度目である。

 気鋭の政治家キム・ウンボムを演じるのは韓国を代表する名優ソル・ギョングだ。「殺人者の記憶法」、「茲山魚譜-チャサンオボ-」など出演作をブログで紹介している。キム・ウンボムのモデルは後に大統領になった金大中(キム・デジュン)だ。ウンボムの理想に共感して陣営に加わったソ・チャンデ役は「パラサイト 半地下の家族」で知られるイ・ソンギュンで、モデルは厳昌録(オム・チャンノク)だ。

 何度も落選しているウンボム陣営には資金が不足している。贈賄や買収が当たり前の地方選挙で勝ち抜くのは厳しいが、チャンデは選挙参謀として辣腕を振るう。「そんなアホな」と笑ってしまいそうなチャンデの作戦のほとんどは実話だった。陣営内でもチャンデに不信を抱く者がいるが、ウンボムとの絆は切れなかった。

 <光が強くなれば、影もまた濃くなるもの。それでも私は先生に輝いてほしい>……。

チャンデのウンボムへの思いが本作の肝台詞だ。チャンデにも政界に打って出るという野望はあったが、若い頃から容共的と批判されていたウンボムが、北朝鮮出身のチャンデを国会に送り出すのは難しかった。巧みなチャンデの策謀で新民党の大統領候補に選ばれたウンボムだが、選挙期間中に起きた事件でチャンデはウンボムと袂を分つことになる。

 不正がはびこった1971年の大統領選挙で、チャンデは与党共和党の現職(朴正熙)のブレーンになり、後の韓国政治に影響を残す戦略を実行する。それは地域間抗争だ。都市部・全羅南北道では金が、慶尚南北道・忠清南北道で朴が勝利と、政策より地域が優先される。選挙の天才と謳われ、KCIAにも誘われたチャンデの悪しき遺産といえるだろう。

 大統領選敗北後、金大中は苦難の連続だった。KCIAによって日本で拉致され、光州事件を主導したとのフレームアップで死刑を宣告される。俺は70年代後半から数年間、日韓連帯の運動に加わっていた。<韓国に民主主義を、金大中に自由を>がメインスローガンで、大学構内で原理研(統一教会)の活動を容認する大学当局への抗議も含まれていた。

 本作では1971年から88年まで時間が飛ぶ。ソウル五輪で沸く街を、杖をついたウンボムが疲れた様子で歩いている。喫茶店で待っていたのは成功者然としたチャンデだ。チャンデとウンボムが語り合うシーンは室内が多かったが、再会の場面は眩かった。チャンデのモデルの厳昌録は86年に亡くなっている。だから、この設定は事実ではない。情を大事に描く韓国映画らしいラストシーンで、画面からウンボムがフェードアウトしてエンドタイトルが流れる。

 光と闇が交錯する政治をテーマに描く韓国映画は多い。手法は異なっていてもウンボムとチャンデが目指した理想は民主主義だった。学生時代を思い出す。俺は<韓国に民主主義を>と叫んでいた。当時、アプリオリに捉えていた<日本は民主主義国家>は今や風前の灯か。
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「輝ける闇」再読~開高健の怜悧な言葉の爆弾に焦がされる

2022-10-01 18:16:28 | 読書
 佐野眞一氏が肺がんで亡くなった。享年75。晩年は盗作問題で第一線から退いていたが、社会と対峙し続けたジャーナリストの死を悼みたい。当ブログで著書を10作以上紹介している。「唐牛伝 敗者の戦後漂流」(遺作?)も充実した内容だったが、感銘を覚えた作品を一つ挙げれば「東電OL殺人事件」だ。

 中立と公平がジャーナリストの生命線なら、対象に強いシンパシーを抱く佐野氏は異端である。佐野氏は<彼女(被害者)は堕落に赴くその過程で、ふだんはマスとして街の底に沈んでいる群衆のひとりひとりから一回限りの生ある「物語」を紡ぎ出していった。彼女がかかえた内面の闇こそが、路上の人びとの「物語」に生彩を与える光源だった>と記している。

 「東電OL殺人事件」の舞台は東京だが、戦地ベトナムで光と闇のコントラストを描き切った小説を再読した。開高健の代表作「輝ける闇」で、40年以上のインタバルがある。学生時代、開高の小説を読むたび、言葉の爆弾に火照った心を冷ますため、部屋を出て夜の街を歩いた。「寒いよ、マイルス」は谷川俊太郎の名言だが、開高の言葉の塊も、熱く、そして冷たかった。

 開高は1964年11月、朝日新聞特派員としてベトナムに赴き、最前線で南ベトナム軍に従軍する。サイゴンでの生活を含めて「輝ける闇」を発表したのは3年後だった。部隊200人中、生存17人というベトコンとの熾烈な戦闘を体験したことは、本作後半に記されている。

 記者として取材を重ね、ベトナム戦争の特異性を明らかにしている。毎日3時間の休戦時間を、政府軍も米軍もベトコンも守る。開高は<真昼の深夜>、<けだるい仮死>と表現している。不正がはびこる政府軍だが、若いベトナム兵に敬意を抱き、文化的な接点が多い米兵とも交遊する。最も親しく接したのは日本の新聞社で助手として働くチャンと、その妹の素娥だ。

 仏教の高僧、クエーカー教徒の米国人、表だって活動出来ない当地のインテリたちと革命、小説、哲学について議論する場面に、開高の見識の高さが滲んでいる。魔法の魚騒動、20歳前後の青年の公開処刑、歓楽街の底にあるアンダーグラウンドなど、積極的にサイゴンを散策したことも窺える。美食家の開高らしく、記者たちとの食卓での交流も綴られていた。
 
 魯迅の言葉を引用し、<革命者でもなく、反革命者でもなく、不革命者すらないのだ。私は狭い狭い薄明の地帯に佇む視姦者だ>と記している。作品に通底するのは自嘲的なトーンで、言葉の矢は日本のインテリにも向けられ、<巧妙な処世ぶりを見せる日本の知識人>と手厳しい。チャンに東京について尋ねられ、<豊富で貧しく、華麗で醜悪、軽薄で精悍な東京は四千㌔かなたにある。けだるくて苛烈な都だ>と心の内で語る。

 ホーチミンについての記述も興味深い。ホーチミンは当地で絶対的な存在として神格化されていたが、蜂起した農民たちを弾圧した史実を詳らかにしていた。帰国後、ベ平連に加わった開高だが、左派との折り合いがつかず運動から離れる。この経緯に重なるのがジョージ・オーウェルだ。「動物農場」を翻訳するだけでなく、評論を発表するなど、オーウェルに敬意を抱いている。オーウェルはスペイン戦争でトロツキー系の義勇軍に参加したが、開高も実際にベトナムに赴くことで、無謬の〝革命神話〟に疑義を抱いたのではないか。

 再読して気付いたのは、素娥との情事の場面の稠密さ、濃厚さだ。刹那的かつ官能的で、手指の蠢きから光と影が交錯する広大で無明な世界に飛翔している。エロチックでありながら、同時に崇高なのだ。俺はかつて<三島由紀夫はモーツァルト、開高健はベートーベン>と評したことがあるが、両者以上の日本語の使い手は存在しないと思う。

 あれこれ記すには力量不足で、日本文学の白眉といえる本作を一読してほしい。鋭敏な開高は、他人の心の内や俗情の在り処を透明なナイフで抉ってしまう。不可視を見抜くことへの恐怖が、酒へ、釣りへと開高を誘ったのだろう。麻痺することで正気を保てたのではないか。

 訃報を知った。亡くなったアントニオ猪木さんについては、次稿の枕で記すことにする。
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