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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「未来を生きる君たちへ」~世界に触れるための想像力

2011-08-29 01:09:39 | 映画、ドラマ
 次の首相がきょう決まる。幾分ましに思える候補は馬淵氏だが、勝算はゼロだ。〝本籍アメリカ〟の前原氏は紳助同様、<反社会的な集団>との関係が囁かれ、永田町では支持が広がらない。

 別稿(8月5日)で予測した小沢神話の崩壊が現実になった。小沢氏は自身の影響力を維持するため、海江田氏を選ぶ。脱原発の民意に反する最悪の選択に愕然とした。今回の流れで、小沢氏が政策より政局の人であったことが露呈した。

 新宿で先日、「未来を生きる君たちへ」(10年、スサンネ・ビア監督)を見た。アフリカの剥き出しの暴力と北欧に潜む密やかな狂気が浮き彫りになる作品だった。主人公のアントン(ミカエル・パーシュブラント)はアフリカの難民キャンプで働くスウェーデン人の医師で、家族はデンマークで暮らしている。

 ソマリアの飢餓がクローズアップされているが、アフリカを疲弊させたのは、グローバリズムと常任理事国の武器輸出だ。世界は確実に歪んでいるが、アントンに出来ることは限られている。伝染病や暴力に蝕まれた者を献身的に診療するだけだ。

 デンマークとアフリカは<天国と地獄>として対比されるのではなく、同じ根を持つ世界の別の貌として描かれている。アントン自身、二つの地での存在の仕方は大きく異なる。アフリカでは敬意を得ているが、デンマークでは家族さえままならない。妻とは別居中で、長男のエリアスは学校でいじめに遭っている。

 エリアスに強い味方が現れる。母を亡くしたばかりの転校生クリスチャンだ。いじめに抵抗できないエリアスと対照的に、クリスチャンは凶暴さを秘めていた。「力には力を」と主張し、自らにも突っかかってくる息子の友人に、アントンは不安を覚える。

 休暇中に生じた波紋は、アフリカで血が滲んだうねりに転じる。正義とは、医師の良心とは、神とは……。アントンが苦悩していた頃、デンマークで思わぬ事態が進行していた。

 人は、そして恐らく国も、癒やしと赦しで憎しみを克服できる……。ビア監督の信念と希望が結末に窺えた。冒頭とラストを含め本作に繰り返し現れるのは、トラックに乗るアントンらをアフリカの子供たちが追いかけるシーンだ。エリアスとクリスチャンだけでなく、アフリカの貧しい子供たちもまた、未来を担う重要な存在であると監督は訴えたかったのだ。

 今年のベストワンと言い切れる本作のキーワードは、「奇跡」(是枝裕和監督)でも重要な意味を持った<世界>だ。父が漏らした「世界」という言葉に、主役の兄弟は戸惑う。「世界って何? どうしたら出会えるの?」……。思案する兄弟に小さな変化が訪れる。

 デンマークとアフリカを交互に描き、俯瞰の目で同時代を捉えた本作は、想像力を駆使して世界と接することの意味を教えてくれる。グローバリズムと資本主義は、笑いながら、食べ物を頬張りながら、他者を殺すことが可能な構造をつくりあげた。想像力を駆使して世界を体感することがすべてのスタートラインだ。冒頭に記した日本の貧困な政治状況を変えるためにも……。

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「日本アパッチ族」~<千里眼のモンスター>小松左京の衝撃作

2011-08-26 01:20:57 | 読書
 島田紳助の引退が大騒動になっているが、ヤクザとの関係で告発されるべき者は無数にいる。例えば、暴力団に反原発派住民を恫喝させた政官財、地上げに使った大銀行と上場企業……。<反社会的な集団=暴力団>を拡張に利用したのが<社会の公器=大新聞>とくれば、ヤクザの定義を改める必要がありそうだ。

 紳助が所属した吉本興業は、大阪パワーの象徴といえる。被差別、在日朝鮮人の集落が点在する大阪では、アイデンティティーの確立と差別の克服が個々にとって大きなテーマになる。〝まずは自分を落とす〟という紳助も守った吉本の喋りの基本は、軋轢と混沌から生まれた知恵なのだろう。

 紳助といえば、チンピラを地のまま演じた「ガキ帝国」(81年、井筒和幸監督)だ。放送終了時のNHKに日の丸が映るや、苛立ったリュウ(紳助)が画面を消すシーンが記憶に残っている。廃品回収業を営む父親(夢路いとし)が、大掛かりな窃盗(リュウが黒幕)に気付いた時、「アパッチや」と吐き捨てるシーンが印象的だった。

 前置きは長くなったが、最初の月命日を迎えた小松左京の初期の長編「日本アパッチ族」(64年)について記したい。

 戦後の大阪を跋扈した鉄屑泥棒を指すアパッチをテーマに据えた作品では、本作と開高健の「日本三文オペラ」が双璧を成す。同時期に大阪で生を享けた小松、開高、高橋和巳は60年代の文壇を疾走した。大阪パワーの継承者といえば高村薫で、差別、犯罪、原発をテーマに掲げ、日本社会と対峙している。

 本作は高度成長期の大阪を舞台にした近未来SFだ。軍国主義が復活して言論の自由が制限され、社会を閉塞感が覆っている。死刑は廃止されたが、権力側は気に入らない者を思いのまま抹殺することができる。主人公の私(木田)も対象のひとりで、失業罪で陸軍砲兵工廠跡地に追放された。

 反体制活動家の脱走計画に協力したものの無残な結果に終わり、餓死を覚悟して横たわる私の前に、鉄を食うアパッチが現れた。仲間に入った私は、ドラスティックな革命の語り部になる。鉄食いの前提は貧困で、スーパーマンの肉体と鉄の意志を得たアパッチは、その排泄物が鉄鋼市場を揺るがすなど、次第に影響力を増していく。

 別稿(7月30日)で「日本アパッチ族」を小松の代表作と記したが、再読した上で最大の衝撃作と改めたい。本作は主人公が心身ともにアパッチに至る過程を進行形で描いているが、当時の小松も青臭く、大阪の匂いと情感が行間から滲み出ていた。

 震災と原発事故を経た現在と重なる部分も大きい。本作の日本はまさに<棄民国家>で、権力に弱いメディアの本質も描かれている。アパッチについて御用学者と真実を語る学者が対立する構図も、原発問題にそのまま置き換えることができる。

 小松を凡百の作家を隔てる志向性は、以下の3点に集約できる。第一は<極大と極小の繋がり>で、梁を一本抜いただけで巨大な伽藍が崩壊するような結末に至る作品が多い。第二は<管理と本能の衝突>で、管理社会に風穴を開けるのは、反抗、欲望、愛といった人間的要素だ。第三は<環境からの逆襲>で、進歩を追求する人類が自然や因習からしっぺ返しを受けるという設定だ。「日本アパッチ族」にはいずれの要素も含まれている。

 地球温暖化、資源枯渇、地殻活動(地震)の頻発、中国の台頭、利潤追求で良識を潰すアメリカ、少子化、携帯コンピューターの端末、人工授精と代理妻 性器整形etc……。小松は過去(歴史)を学び、俯瞰の目で日本を見据えることで、<千里眼のモンスター>となり得た。上記の事象は、60~70年代に発表された作品にも現れていた。

 発見は世紀末と遅かったが、主立った作品を読破できたことに幸せを感じている。俺のお薦めは「夜が明けたら」、「物体O」、「結晶星団」などの短編集(いずれもハルキ文庫)だ。ページを繰る指が震えるほどの面白さを保証する。



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<不気味なほど静かな革命>の惨憺たる末路~民主党という名の絶望

2011-08-23 00:38:24 | 社会、政治
 2回目の反韓流デモが一昨日(21日)開催され、お台場に数千人が集まった。フジサンケイグループとデモ参加者の思想信条はかなり近いはずで、俺の目にこの間の動きは〝右派の同士討ち〟と映る。

 俺の周りにも韓流ファンは多い。同業(校閲者)のインテリ女性たちは、韓流について話し始めると止まらなくなった。鋭い感性を誇る大学時代の後輩F君も、奥さんの影響でドラマにハマったという。映画「母なる証明」や「息もできない」で世界を瞠目させた韓国のこと、秀作ドラマを多数制作していても不思議はない。韓流支持デモが企画されたら、どれほどの人が集まるだろうか。

 先日(20日)、田中康夫議員の番組(BS11)に児玉龍彦東大教授が出演していた。児玉教授によれば、原爆なら放射線量は1年で1000分の1に減少するが、原発では10分の1程度という。福島原発事故で飛散した放射線は広島原爆の約30倍だから、早急に対策を講じないと汚染はさらに深刻になる。児玉教授が国会で訴えた<測定、除染、放射性物質管理を適切に行うための特別立法>の成立を切に願っている。

 国内の世論は脱原発に定まりつつあるが、アメリカの意図は真逆のようだ。天木直人氏(元レバノン大使)はバイデン米副大統領来日の真意を、モンゴルを予定地に日米が進めているおぞましい計画――核廃棄物永久貯蔵所建設――の念押しとブログに記していた。然るべきルートで次期首相候補たちに、「脱原発なんて言うなよ」と脅しをかけた可能性も十分ある。

 前置きが長くなったが、ようやく本題に。俺は2年前の政権交代を<不気味なほど静かな革命>と評した。世の中の変化は大衆運動と同時進行で起きるものだが、当時の日本は極めて静かだった。

 俺は自称ラディカルだが、前回の総選挙では政権交代に期待を寄せた。少子高齢化の歯止め、貧困と格差の是正、アメリカからの独立、公務員制度改革、情報公開、食料自給率アップ……。いずれのポイントでも、自民党より民主党の方が勝っていると考えたからだ。

 だが、俺が第一に願ったのは、政権交代による閉塞感の一掃だった。韓国で10代の少年少女が集会やデモで大きな役割を果たすようになった背景には、光州決起など苛烈な民主化闘争がある。身を賭して闘い斃れた無数の屍の上に自由を勝ち取ったからこそ、活気ある社会が生まれた。政権交代は決してドラスティックではないが、天井を吹き飛ばすぐらいの効果はあると考えていた。

 風ならば向きは変わるが、地殻変動だったら元に戻らない(09年8月31日の稿)……。俺はこう記したが、この2年に起きたのは地殻変動ならぬ地盤沈下だった。民主党はアンシャンレジーム(旧体制)の軍門に下り、野田財務相は大連立を主張するに至る。

 俺が恥じるべきは〝不明〟だろうか。いや、長年にわたる〝無為〟である。国民は自らを超える政府を持てない。マイケル・ムーアは「民主主義国家の住人は、常に活動家でなければならない」という自らの言葉を実践し、アメリカ各地で今春、10万人規模を動員した反組合法デモで主導的な役割を果たした。社会の様々な局面で理不尽を正すという姿勢が定着しない限り民主的な政府を持てないことを、この2年で確信した。

 原発は政官財癒着、天下り、中央集権的発想に支えられ、闇社会まで介在させて地方自治体を腐敗させた。脱原発は生存権に関わるテーマであるだけでなく、民主主義確立と地方分権の道標になるはずだが、代表選に名乗りを上げた者たちは明確なメッセージを発しない。彼らの鎖が、アメリカや経産省が形成する巨大なアンシャンレジームに繋がれているからだろう。

 告示が27日、投開票が29日という日程にもあきれるしかない。一国の首相を拙速に決める手法は、民主主義の放棄である。


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「ナッシュビル」~アメリカを映す群像劇

2011-08-20 09:33:49 | 映画、ドラマ
 スーペルコパは2戦合計5―4で、バルセロナがレアル・マドリードを破った。代表チームでは〝並の人〟メッシだが、バルサでは水を得た魚になる。スポーツだけではなく、人間が能力を発揮できる場面は限られているのだろう。大抵の勤め人は、組織が個々を腐らせる仕組みを経験則で知っている。

 現実はともかく、フィクションでは登場人物すべてが機能することも可能だ。フレッシュなピースを巧みな手捌きで填め込み、巨大なジグソーパズルを完成させたのがロバート・アルトマンだ。群像劇の巨匠が提示した<映画の文法>は、タランティーノやイニャリトゥらにも継承されている。

 新宿武蔵野館で先日、「ナッシュビル」(75年)を見た。70年代のアメリカ社会を映した同作は、「ショート・カッツ」(94年)と並ぶアルトマンの最高傑作だと思う。フェスティバル開催に至る過程と大統領選挙を絡ませながら、登場人物(24人)が織り成す光と影が交錯する。

 舞台のナッシュビルはカントリー&ウエスタン(C&W)の総本山で、歌手を目指す若者が全米から集まってくる。好対照に描かれたのが、ストリップを強制されたスーリーンと、思わぬ形で脚光を浴びたアルバカーキだ。街の象徴はカントリー歌手のヘブンで、思想が近いハル・ウォーカー陣営から選挙協力を要請される。

 現在に直結する当地の宗教事情が興味深かった。有力者のひとりであるレディ・パール(クラブ経営者)は60年代、保守的な街で孤軍奮闘し、ケネディ兄弟への支持を訴えた。彼女を含め中道からリベラルがカトリック信者で、ヘブンら保守派は福音派教会に通っている。

 C&Wを中心に、本作では多くの曲がフルコーラスで歌われる。歌詞が登場人物の心理を表し、ストーリーを展開させる歯車になっていた。エルビス・プレスリーやミック・ジャガーは〝黒い白人〟としてシーンに登場したが、逆パターンといえるのが本作の黒人カントリー歌手トミー・ブラウンで、クラブで同胞に「白い黒人」となじられていた。

 とりわけ印象に残ったのは3人の女性だ。フェスの取材にやってきたオパール(BBC局員)は狂言回しの役割を果たしていた。可憐な歌姫バーバラは主役といえる存在で、淡々と流れるストーリーで〝ドラマチック〟を独り占めしていた。

 もうひとりはゴスペルグループのリーダー格であるリネアだ。夫は大統領選のキャンペーンに奔走する保守派弁護士で、聴覚障害を持つ子供を育てている。アンニュイなしぐさの奥に情熱を秘めたリネアは、フォークグループのトムと逢瀬を楽しんでいる。この恋の純度の高さがいかほどかは、観客それぞれに判断が委ねられている。

 トムを演じたキース・キャラダインに重なったのがカート・コバーンだ。本作を見たカートが、トムの繊細で虚ろな表情、髪形、劇中歌「アイム・イージー」(キャラダイン自身が作曲)の赤裸々な歌詞にインスパイアされた可能性もある。

 翌年(76年)公開された「タクシー・ドライバー」(マーティン・スコセッシ監督)に先行する形で、「ナッシュビル」はベトナム戦争の傷を効果的に抉っていた。バーバラのストーカーであるGIルックのグレンだけでなく、戦場について語るグレンの言葉に表情を変えた謎の青年ケニーも、ベトナム帰還兵であることが窺えた。

 大地震とともにジ・エンドを迎えた「ショート・カッツ」ほど大掛かりではないが、「ナッシュビル」もカタストロフィーで幕を閉じる。2時間40分の長尺も緊張が切れることはなく、いくつかのシーンが今も脳裏のスクリーンに浮かんでは消える。アルトマンの壮大な構想力、俯瞰の目、意志の力、繋ぎの技量に感嘆するしかない。

 俺のアルトマン発見はかなり遅く、「ニューヨーカーの青い鳥」(86年)がきっかけだった。奇妙な設定とブラックユーモアに唸らされた怪作に、ダスティン・ホフマンが脇役で出演していたと記憶していたが、検索してみるとクレジットにその名がない。俺の脳は20年以上前から、既にメルトダウンを開始していたようだ。


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「グランド・ミステリー」~遅れてきた戦争文学

2011-08-17 00:16:48 | 読書
 広島と長崎の原爆忌、お盆、敗戦の日……。この時季になると、テキトー人間の俺でさえ厳粛な気持ちになる。ブログのテーマ探しで本棚を漁るうち、「グランド・ミステリー」(奥泉光著/角川書店)を発見して愕然とした。

 紀伊国屋でハードカバー、文庫本とも絶版と聞かされたのは先月のこと。「残念!」と思ったが、13年前に初版を購入していたことを失念していた。推定15年の余命は、惚けとの闘いの日々になるだろう。

 戦争や軍隊をテーマに据えた作家といえば、大岡昇平、島尾敏雄、野間宏らが頭に浮かぶ。いずれも従軍体験を基に作品を著したが、俺と同じ年(1956年)に生まれた奥泉は〝遅れてきた戦争文学者〟といえる。芥川賞受賞作「石の来歴」(94年)、「浪漫的な行軍の記録」(02年)については別稿(11年3月31日)で紹介した。

 2段組み600㌻弱という長編の主人公は加多瀬大尉(伊号潜水艦専任将校)だ。第一章<真珠湾>で加多瀬とともに語り部役を務めるのが空母「蒼龍」爆撃機整備分隊士の顔振で、二人のモノローグは壮大な構図を示すデッサンになっている。第七章<硫黄島>で邂逅する両者は、太平洋戦争の意味について意見を闘わせた。

 水雷艇「夕鶴」沈没(1934年)から7年、戦果に沸く真珠湾(41年)で奇妙な事件が連続した。蒼龍では整備員が失踪し、帰艦した榊原大尉(爆撃機搭乗員)が不審な死を遂げる。伊号潜水艦では特殊艇乗組員の遺書が紛失した。

 第一章の重厚さからトーンを変え、第二章<東京1942>では軽やかに核心に迫っていく。加多瀬と妹範子のそれぞれの恋を軸に、戦地と東京に章ごと舞台を移す。巧みに配された登場人物は宿命に撚られて太い糸になり、善悪の彼我を超えていく。本作は小説から寓話へと飛躍した。

 夕鶴沈没に端を発したミステリーに加え、奥泉は読者を迷宮に誘う大仕掛けを用意している。海兵同期で中退した昆布谷との再会で、加多瀬は、いや、物語全体が混乱に陥る。第三章<ミッドウェー>以降、生者と死者はボーダレスに行き来し、戦中から戦後に至るパラレルワールドが展開する。

 小説はフレキシブルだが、史実は動かし難いと考えるのは勘違いだ。15日夜にオンエアされたNHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか~戦中編」は「グランド・ミステリー」が描く時期と重なっていたが、「戦前編」(4回、今年1~3月放映)同様、昭和天皇の影が消されていた。

 ピュリッツアー賞受賞作「昭和天皇」(ハーバート・ビックス著/講談社)は、〝戦争遂行者〟昭和天皇を浮き彫りにし、大元帥としての誤った指示が多くの将兵を死に至らしめた経緯を克明に記していた。一方で、朝日新聞を旗振り役にした、昭和天皇を<軍部に利用された平和主義者>と位置付ける作業は完了し、異を唱える声は小さい。史実とはかくも曖昧で脆いものなのだ。

 日本とは、生きるとは、死ぬとは、軍隊とは、殺すとは……。様々な問いを発する「グランド・ミステリー」は、卓越した筆致で綴られ、実験性と娯楽性を併せ持つ作品だ。読む者の心を昇華させる爽やかなラストが用意されている。

 辺見庸は<3・11を経た今、言葉は以前と同じであってはならない>(要旨)と語った。〝遅れてきた戦争文学者〟奥泉だけでなく、池澤夏樹、平野啓一郎、島田雅彦、阿部和重、中村文則らが<第二の敗戦>をいかに血肉化するか注目したい。


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正常性バイアスに縛られて~状況から目を逸らす日本人

2011-08-14 03:37:23 | 社会、政治
 お盆は死者に思いを馳せる時季だ。俺ぐらいの年(54歳)になると、召された同世代の顔が浮かんでくる。高校時代、親しく交友したT君もそのひとりだ。

 ローマクラブ編「成長の限界」に感銘を受けたT君は、16歳でエネルギー問題に取り組むことを決意し、東大から通産省(現経産省)に進む。10年近く前、訃報に触れてネットを検索し、T君が政官界で〝将来の首相候補〟に挙げられていたことを知る。

 「○○(俺の姓)は将来、仕事で下らんことを書き散らかしてるわ」……。T君は俺の未来をほぼ正確に見通していた。仕事ではないが、俺は当ブログで下らぬことを書き散らかしている。15年もすれば、一途でちゃめっ気たっぷりのT君とあの世で再会できるだろう。

 北アフリカや中東で体制を揺るがした民衆の決起、身を賭した中国での民主化闘争、アメリカ各地で州議会を包囲した10万人規模の反組合法集会、現在進行中の英国の叛乱……。3・11以降、反原発デモに多くの人が参加しているとはいえ、日本人は総じておとなしい。

 日本人が<抵抗の力学>を失った理由をあれこれ考えていたが、整理記者Yさんが教えてくれた「正常性バイアス」もヒントのひとつになった。<自然災害、事故、戦争など深刻な事態が待ち受けている時、人間は都合の悪い情報を過小評価する傾向がある>というのが概要で、災害心理学の分野で生まれた定義という。「ペスト」(カミュ著)のリウー医師らのように災禍に立ち向かう者は少数なのだ。

 俺自身にも思い当たる節がある。知人の編集者の失踪や出版社の外注カットなどが重なって収入が激減し、〝公園デビュー〟が間近に迫った時期、俺は生活の質を一切落とさなかった。運だけで崖っ縁から帰還したが、俺はあの頃、正常性バイアスに縛られていた。

 太宰治は「右大臣源実朝」で<平家ハ、アカルイ。アカルサハ、滅びノ姿デアロウカ>と記した。日本人の死生観、滅びの美学を端的に表現した作品と評価されているが、正常性バイアスに照らしてみると別の見方も可能になる。

 日本人は3・11以前から、正常性バイアスに縛られていた。少子高齢化が進行すれば人口は今世紀中、確実に半減するが、政府は有効な手段を講じない。右派は解決策のひとつである移民受け入れに反対するが、英会話が出世の便法になり、韓流が浸透するこの国で、文化的潔癖を主張しても意味はない。

 NHKは昨日(13日)、<福島で1149人の子供を診察したところ、半数以上の甲状腺から放射能が検出された>と報じた。良心的な研究者が警鐘を鳴らした通りの事態が進行している。ようやく日本で公開された「チェルノブイリ・ハート」(03年)を初日に見た友人は、「やるせなくて涙が止まらない」とメールを送ってきた。旧ソ連と日本では面積と人口密度の桁が違う。福島原発から230㌔の東京もまた、ホットポイントなのだ。

 体内被曝の危機に直面している日本の若者の多くは、正常性バイアスに縛られているのではないか。「わたしを離さないで」のキャシーやトミーのように理不尽を宿命として受け入れないことを願うと同時に、俺は罪の意識に苛まれている。全共闘世代と俺たちの世代の転向と無為によって完成した超管理社会が、若者たちを馴致してしまったのだから……。
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日比谷野音で夏期講習~900回記念は制服向上委員会

2011-08-11 03:16:38 | 戯れ言
 当稿が900回目の更新に当たる。800回(昨年10月)からこの間に起きた東日本大震災と福島原発事故については、何度かメーンに据えて綴ってきた。世間に先んじ、ピンポイントを突いた稿も多かったと自負している。

 広島と長崎の原爆忌で、菅首相のみならず両市長も脱原発を訴えたが、流れが定まったと決め付けるのは早計だ。原発をめぐる現状を、上杉隆氏は以下のように記していた。

 <菅首相は孫正義氏から垂らされた「蜘蛛の糸」に捉まり、最後の賭けにでた。その結果、原発推進のアンシャンレジームから総攻撃を受けている。果たして原発利権に汚染された日本の社会構造の大変革は達成できるだろうか>(「週刊上杉隆 ダイヤモンドオンライン」から抜粋)

 アンシャンレジームを構成するのはアメリカ、財界、民主党と自民党、経産省、地方自治体、ゼネコン、大学、メディア、電力総連、警察、暴力団といったところだ。菅首相の後任は〝遺志=脱原発〟を継がず、大連立で逆コースという最悪の道筋を辿るかもしれない。

 昨日(10日)は整理部のYさんに誘われ、日比谷野音で開催された「げんぱつじこ 夏期講習」(制服向上委員会プロデュース)に足を運んだ。出演者の顔ぶれの割に入りはもうひとつで、足し算にならなかった。コンセプトの曖昧さが、盛り上がりに欠けた最大の理由といえるだろう。

 脱原発をすぐさま引っ込めた女優(鈴木杏)もいたが、制服向上委員会は確信犯の少女たち(14~17歳)で、〝21世紀のジャンヌ・ダルク〟かもしれない。とはいえ浸透度はまだ低く、追っかけ軍団風の若者の姿は見当たらなかった。

 高取英、PANTA、中川五郎らが十把一絡げといった趣で壇上に立つなど消化不良の感は否めない。友人であるYさんによると気が変わる可能性もあったらしいが、PANTAは結局歌わなかった。「イギリスみたいにみんなで立ち上がろう」とアジったK DUB SHINEは、一水会シンパという。新右翼と左翼は、原発に関する限り同じ地平に立っている。

 イベントのハイライトは、長谷川健一さん(福島の酪農家)の怒り、悲しみ、慟哭に満ちた報告だった。約15分ほどの短編フィルム「ふるさとを追われる村人達」を撮影したのは土井敏邦氏である。土井氏とはパレスチナ関連の集会で言葉を交わしたこともあった。パレスチナ、福島、そして沖縄はきっと底で繋がっている。地下水脈から迸った奔流が地表を潤す日は来るだろうか。

 K DUB SHINEも言及していたが、英国各地の暴動の映像を見てデジャヴに襲われる。昨年9月、16万人(2日間)を動員したミューズのウェンブリースタジアム公演では、オープニングの「アップライジング」(叛乱)に合わせ、フードを被った若者たちが意気揚々とステージに登場した。グラミー賞授賞式では、同じく「アップライジング」の演奏と同時進行で、若者たちが警官隊と衝突する寸劇が演じられた。二つのシーンを拡大すれば現実になる。

 中2日のペースを守って更新すれば来年6月、1000回に到達する。暴論、極論、妄想の類に付き合ってくださる読者の皆さんの忍耐に感謝したい。実物の俺もまた、他者の寛容と情けで生かされている人間である。

 録画した日韓戦に気を取られながら書いていたら、こんな時間になった。明日、いや、今日は眠気と闘いながら仕事をすることになる。

 
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「127時間」に見るアメリカの内なる辺境

2011-08-08 00:26:51 | 映画、ドラマ
 Youtubeにミューズの最新映像がアップされている。「LA・ライジング」では、主催者レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの思いを酌む熱演を見せた。 マシューは“Hysteria”のイントロでアメリカ国歌を掻き鳴らし、戦争国家を告発する。
 
 ロラパルーザ初日(シカゴ)ではメーンステージでヘッドライナーを務める。開門前に大挙押し寄せたミューズキッズが地元紙に報道されるなど、アメリカでのヒートアップは著しい。同時刻対決になったコールドプレイ(セカンドステージ)を意識したマシューは、「こちらを選んだ君たちは正しい」とMCしていた。

 マシューと同い年(33歳)のジェームズ・フランコ主演作「127時間」(10年)をようやく見た。実話の映画化で、「トレインスポッティング」、「スラムドッグ$ミリオネア」で世界を瞠目させたダニー・ボイルが監督を務めた。ここ一番で流れるシガー・ロスなどサントラも魅力たっぷりで、ポップ感覚に溢れる作品だった。

 アーロン(フランコ)は金曜夜、沢登りやロッククライミングを楽しむためキャニオンランズに向かった。迷子になったクリスティとミーガンをガイドし、パーティーに誘われたが、彼女たちと別れた後、最悪の事態に直面する。岩ともども滑落して右腕を挟まれ、身動きできなくなったのだ。

 〝アンチ携帯音楽プレーヤー派〟の俺は、「それ見たことか」と心で意地悪く呟いた。他者拒絶を表すツールは、剣呑な大自然と向き合う時は厄介者だ。大音響の音楽は、アーロンの鋭い五感と第六感を削いでいたに違いない。

 絶望的な状況下、アーロンはデジカメで自らを撮影しながら心の旅に出る。家族やラナ(元恋人)と過ごした日々が現実と交錯し、心的風景が像を結んでいく。カレッジバスケ会場のシーンが印象的だった。アーロンは喧騒の中、他者と同化できず虚ろな表情を浮かべていた。愛想を尽かしたラナは、アーロンの元から去っていく。

 アーロンと被るのが、「イントゥ・ザ・ワイルド」(07年、ショーン・ペン監督)のクリスだ。ともに都会生活に違和感を覚え、荒野を目指す青年である。アーロンはクリスティに、「フィッシュを聴いてる男に彼女はできない」とからかわれていた。フィッシュとは荒野を目指す青年や非定住者に愛されたバンドで、コミュニティーごと全米をツアーしていた。

 砂漠に囲まれたラスベガスが典型だが、アメリカでは非加工の自然が都市の間近に存在する。風景としての辺境を心に取り込んだ者は、自由を志向する旅人になる。政治的理由で放浪を強いられたケースを含め、ヒッピーやボヘミアンがカウンターカルチャーを支えてきた。Xスポーツを胚胎させたのも彼らのコミュニティーである。

 クリスは召される直前、心の中で家族と和解した。アーロンも家族への冷淡な態度を反省するが、生への意欲を失わない。ぎりぎりの、そして避け難いアーロンの選択を、ボイルはリアルに描いていた。

 「127時間」の深刻なシチュエーションは、日本の現状と決して遠くない。進まぬ瓦礫処理、拡大の一途を辿る放射能汚染、円高、アメリカ国債の格下げ、対立項なく混沌する政治、進行する貧困……。アーロンは「127時間」で答えを出した。日本の砂時計の目盛りは、果たして何時間なのだろう。 
  
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スカパラat大井競馬場、なでしこetc~真夏の雑感あれこれ

2011-08-05 05:24:45 | 戯れ言
 俺を動物に例えたら、地中で息を潜めるモグラだが、マンホールを叩く音には反応する。それが女性なら尚更で、一昨日(3日)、トゥインクルレース25周年記念に沸く大井競馬場に足を運んだ。イベントのメーンは、新ファンファーレを作曲した東京スカパラダイスオーケストラによるお披露目ライブである。

 ゲリラ豪雨が首都圏を襲った一日だったが、8Rスタート時(6時15分)には夕空にうっすら虹が懸かっていた。⑪番のオーバーザレインボから買った人も多かったようだが、7着に終わる。確定成績が発表された後、メンバーが特設ステージに登場した。スカパラには馴染みがなく、実物を見るのは初めてだったが、祭り感覚の〝ハレの音〟に、夏フェスで重宝される理由がわかった。

 紙コップ1杯のビールで酩酊状態に陥ったこともあり、中央の仇を大井で討つには至らなかった。10、11Rでともに1着馬を軸にした馬連を購入したが、ヒモを間違え、マークシートの塗り間違えもやらかした。見知った顔に出食わしたが、彼が誰か思い出したのは、酔いがようやく冷めた帰りのバスの中だった。

 今回は、真夏の雑感を合わせて記したい。まずはなでしこから。丸山桂里奈の歌手デビューなどフィーバーは収まらず、国民栄誉賞受賞が決定した。シンデレラストーリーにケチをつける気はないが、少し心配になっている。前稿で記した東電OLは稀な例としても、人には誰にも小堕落や転落の可能性があるからだ。〝出る杭を打つ〟のが大好きな日本人のこと、好成績を残せなかったり、スキャンダルにまみれたりしたら、持ち上げてきたメディアは叩き役に回る。

 国民栄誉賞の受賞者リストに松本清張と手塚治虫の名前がないのは、共産党支持者だったからだろう。中高生の頃、共産党色を前面に押し出した蜷川京都府知事の応援で、松本と手塚が選挙カーに並んで立っていた。当の蜷川氏が勲一等瑞宝章を受章しているから面妖としか言いようがないが、ともあれ、ある時期まで共産党には、文化の薫りが漂っていた。

 仕事先の夕刊紙は<反菅>が鮮明だ。〝坊主(菅首相)憎けりゃ〟で孫正義氏にも攻撃の刃を向けているが、自然エネルギーへの転換は世の流れゆえ、大局観を誤らないか心配になってくる。読者の不興を買って売れ行きが落ちれば、俺のような外部スタッフなどいつ切られても不思議はないからだ。

 三菱重工&電機と日立はエコタウン構想を見据えて提携を模索し、朝日は<菅+孫連合>支持に舵を切った。脱原発のトップランナーというべき東京新聞で論説副主幹を務める長谷川幸洋氏は、「菅首相が脱原発解散に打って出れば勝機あり」と語っていた。民主党は分裂するだろうが、佐高信、池澤夏樹、坂本龍一らに山本太郎、斎藤和義が応援団になれば、<脱原発グループ>に文化の薫りが味付けされる。

 いまだに菅首相の対立項なのが、3・11以降、有事の人という幻想が木っ端微塵に砕け散った小沢氏だ。新党結成を睨みつつ、党代表候補を選定中らしいが、海江田経産相もそのひとりというから愕然とする。菅首相の<脱原発>に付け焼き刃の感は拭えないが、大義名分のない〝政局の人〟小沢氏に期待することなど何もない。ジ・エンドは確実に迫っている。

 6日は広島、9日は長崎と原爆の日を迎える。昨年まで秋葉前広島市長のメッセージに感銘を受けてきたが、被爆と被曝、核兵器と原発の距離が一気に狭まった今、松井市長が平和記念式典で何を語るのか注目している。原爆といえば、先月中旬の妹からのメールで知ったのだが、吉田拓郎の「夏休み」は投下後の広島を歌った曲という(本人の弁)。

 消えてしまったのは、麦わら帽子、たんぼの蛙、姉さん先生、畑のとんぼ……。改めて歌詞を見ると寂寥感が滲んでいる。今度カラオケで歌う時は声が震えてしまうだろう。福島原発事故で拡散した放射能は、広島原爆の1000倍に当たる。10年後、20年後、30年後、日本の風景から何が消えているのか想像するのが怖い。

 書きたいことはたくさん残っているが、訃報で締めくくる。松田直樹さんの冥福を祈りたい。トップアスリートとして節制し、健診でも危険な兆候はチェックできなかったという。だらしなく無駄に生きてきた俺には松田さんに掛ける言葉もないが、棺桶に入るまで――勘では15年前後――精いっぱい生きるしかない。それが俺にできる死者への唯一の供養だから……。


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「東電OL殺人事件」~背徳の彼方にあるものは

2011-08-02 01:08:52 | 読書
 九州電力と古川佐賀県知事とのズブズブの関係が、メディアで報じられている。「やっぱりな」とため息しか出ないが、3・11以降、「日本はこんなにひどい国だったのか」と無力感に苛まれている国民は多いはずだ。

 3・11以前、国民の信頼を既に失くしていたのが警察と検察だ。折しも東電OL殺人事件で新証拠が提示され、再審の可能性も出てきた。佐野眞一著「東電OL殺人事件」を再読し、警察と検察が共同謀議で冤罪を作り出す過程に、改めて怒りと絶望を覚えた。

 佐野は「巨怪伝」(94年)、「旅する巨人」(96年)、「カリスマ」(98年)、そして「東電OL殺人事件」(00年)と傑作を2年おきに発表する。前3作では他の著書同様、対象と距離を取るアウトボクサーだったが、「東電OL殺人事件」では接近戦のファイターに転じた。

 <経済大国という虚名に胡坐をかき、外国人労働者を3Kの職場でこき使うだけこき使ってきた日本は、間違いなく衰亡にむかうだろう>……。本作でこう記したように、佐野は日本近現代史を縦軸に、日本とアジアの関係を横軸に据え、事件の背景と真相に迫っていく。

 佐野は裁判を傍聴するだけでなく、ゴビンダ被告の郷里ネパールに赴き、友人たちに取材する。暴力的な取り調べ、恣意的な証拠の採用、偽証の強要、情報操作(メディアへのリーク)、証言させないための強制送還……。冤罪を確信した佐野は、警察と検察を告発する。

 発刊時点で、本作は〝勝利宣言〟だった。裁判での検察(警察)と弁護側のやりとりが記されているが、いずれに説得力があるかは明白で、2000年4月、東京地裁はゴビンダに無罪を言い渡す。だが、検察は日を置かず控訴する。高裁で無期懲役が確定し、最高裁は被告の上告を棄却した。ゴビンダは今も異国の地で囚われの身のままだ。

 本作が佐野の他の著書と一線を画しているのは、被害者の渡辺泰子への強い感情だ。年収1000万の東電のエリートOLが夜の円山町に立ち、最貧国ネパールからの出稼ぎ労働者と5000円で寝る。泰子が自らに課した一日4人のノルマが厳しい時は、2000円で売春するケースさえあった。佐野は亡き泰子に接近を試みる。浮かび上がってきたのは、形だけ整った家族であり、泰子が慶大生の頃、50代前半で病死した父(東電幹部社員)への思慕だった。

 何度も拒食症にかかり、世にいう〝女性的〟と遠い容姿の泰子は、奇矯な振る舞いを数多く目撃されている。佐野はもちろん自覚していたが、本作執筆中はそんな泰子に懸想していた。心に留まった記述を以下に紹介する。

 <彼女は堕落に赴くその過程で、ふだんはマスとして街の底に沈んでいる群衆のひとりひとりから一回限りの生ある「物語」を紡ぎ出していった。彼女がかかえた内面の闇こそが、路上の人びとの「物語」に生彩を与える光源だった>

 <私は人間存在の深淵のほとりに招かれた感慨にとらわれ、慄然と立ち尽くす思いだった>

 <泰子はありとあらゆる病巣が巣くった円山町のなかで、画然と屹立する「病の怪物」だった。魂を深く病んだ人間にしか、魂を深く病んだ社会は見えない>

 俺は若い頃、<背徳の彼方の純潔>というフレーズに魅せられた。それはきっと、佐野も落ち込んだ霧深い迷路である。泰子に意味を尋ねたら、表情ひとつ変えず裸になるだろう。



コメント (4)
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