人は老いて先祖返りするという。週1でランチを食べる居酒屋では、有線から1970~80年代の歌謡曲やフォークが流れている。吉田拓郎や甲斐バンドに心潤むことは度々だが、最近では「ざんげの値打ちもない」や「喝采」に涙ぐんでいる。ロックで剥ぎ取ったウエットな感性が、クチクラ化した表皮に漏れ出しているのだ。
ヤクルト、オリックスの健闘に野球少年だった頃の熱が甦った。両チームのポイントは育成力で、とりわけオリックスには今後数年間、チームを支えていきそうなメンバーが揃っている。今回はヤクルトの分析力が上回ったが、息詰まる接戦に野球の面白さを再認識した方も多かったと思う。
「ドクターX」の予定調和的なストーリーに、かつて楽しんだ時代劇の爽快さを思い出している。年金生活間近の俺はともかく、テレビでドラマを見ない若い世代への対応は進んでいるはずだ。世代、国・地域によって好まれるエンターテインメントの質は変わると思う。
映画界も普遍的なエンターテインメントを追求している。新宿で先日、英米合作「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」(21年、キャリー・ジョージ・フクナガ監督)を見た。俺はブログで「2人の10代の女の子、グレタ・トゥーンベリとビリー・アイリッシュが世界を牽引している」と記したことがあるが、主題歌を担当したのはビリー・アイリッシュだった。
トゥーンベリについては肯定的に言動を紹介してきたが、アイリッシュの曲は聴いたことがなかった。あまりのもてはやされ方にひねくれ者の俺は〝怪しさ〟を感じていたが、自身の不明を恥じた。先祖返りは時に、アンテナが錆び付いたがゆえの劣化に通じる。俺の感性は摩耗していたのだ。
アイリッシュの歌唱法を〝オルタナ風脱力感〟と勝手に想像していたが、兄フィニアスと共作する彼女は、繊細でソプラノのハスキーボイスを操る〝大人の歌手〟だった。世界をシンクロする本作のテーマは歌詞に刻まれた通り、宿命的な愛と絆であり、人間に潜む不信と疑惑だった。
俺が映画館で「007」を観賞したのは、ジェームズ・ボンドをロジャー・ムーアが演じた「死ぬのは奴らだ」が最初で、その後は「スカイフォール」、「スペクター」、そして本作が4作目になる。つまり、ダニエル・クレイグこそが俺にとってのジェームズ・ボンドといえる。
封切り終了間近だが、DVDやテレビでご覧になる方は多いと思うので、ストーリーの紹介は最小限にとどめたい。ボンド(クレイグ)は引退し、マドレーヌ(レア・セドゥ)と風光明媚なイタリア・マテーラを訪れた。ボンドとマドレーヌは秘密を抱えていた。ボンドはかつて愛したヴェスパー・リンドの存在、一方のマドレーヌはかつて敵スペクターの娘であること。当地にあるヴェスパーお墓を参った時、襲撃される。
残念だったのは「スペクター」から6年のブランクがあったこと。前作のラストでボンドはマドレーヌとロンドンを去っていく。本作の冒頭でマドレーヌの幼い頃の記憶が提示され、本作は次回作の予告編になっている。M16で新たに「007」の番号を割り当てられ、次回作以降、クレイグを引き継ぐノーミ(ラシャーナ・リンチ)が登場する。エンドタイトルの最後に「ジェームズ・ボンドは帰ってくる」……。
アクシシデント続きで、ダニー・ボイルと脚本家が降板した。コロナ禍で、シナリオも変更されたと推察され、細菌兵器を巡り、ボンド、M16トップのマロリー(レイフ・ファインズ)、ボンドの盟友ライター(ジェフリー・ライター)、敵役のサフィン(ラミ・マレック)、プロフェルド(クリストフ・ヴァルツ)ら豪華なキャスティングで盛り上げる。007御用達の中南米が頻繁に事件の現場になる。
国としての〝ヒール〟はロシアで、マッドサイエンティストはロシア出身という設定だ。最終決戦の舞台が北方領土なのは興味深い。グローバルな舞台設定と心の迷路……。極大と極小のアンビバレンツで紡がれたエンターテインメントを堪能した。
あしたは朝に仕事をした後、2泊3日で入院する。本作のタイトルを和訳すれば「死ぬ暇などない」だが、俺いは死ぬまでどれほどの時が残されているだろうか。
ヤクルト、オリックスの健闘に野球少年だった頃の熱が甦った。両チームのポイントは育成力で、とりわけオリックスには今後数年間、チームを支えていきそうなメンバーが揃っている。今回はヤクルトの分析力が上回ったが、息詰まる接戦に野球の面白さを再認識した方も多かったと思う。
「ドクターX」の予定調和的なストーリーに、かつて楽しんだ時代劇の爽快さを思い出している。年金生活間近の俺はともかく、テレビでドラマを見ない若い世代への対応は進んでいるはずだ。世代、国・地域によって好まれるエンターテインメントの質は変わると思う。
映画界も普遍的なエンターテインメントを追求している。新宿で先日、英米合作「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」(21年、キャリー・ジョージ・フクナガ監督)を見た。俺はブログで「2人の10代の女の子、グレタ・トゥーンベリとビリー・アイリッシュが世界を牽引している」と記したことがあるが、主題歌を担当したのはビリー・アイリッシュだった。
トゥーンベリについては肯定的に言動を紹介してきたが、アイリッシュの曲は聴いたことがなかった。あまりのもてはやされ方にひねくれ者の俺は〝怪しさ〟を感じていたが、自身の不明を恥じた。先祖返りは時に、アンテナが錆び付いたがゆえの劣化に通じる。俺の感性は摩耗していたのだ。
アイリッシュの歌唱法を〝オルタナ風脱力感〟と勝手に想像していたが、兄フィニアスと共作する彼女は、繊細でソプラノのハスキーボイスを操る〝大人の歌手〟だった。世界をシンクロする本作のテーマは歌詞に刻まれた通り、宿命的な愛と絆であり、人間に潜む不信と疑惑だった。
俺が映画館で「007」を観賞したのは、ジェームズ・ボンドをロジャー・ムーアが演じた「死ぬのは奴らだ」が最初で、その後は「スカイフォール」、「スペクター」、そして本作が4作目になる。つまり、ダニエル・クレイグこそが俺にとってのジェームズ・ボンドといえる。
封切り終了間近だが、DVDやテレビでご覧になる方は多いと思うので、ストーリーの紹介は最小限にとどめたい。ボンド(クレイグ)は引退し、マドレーヌ(レア・セドゥ)と風光明媚なイタリア・マテーラを訪れた。ボンドとマドレーヌは秘密を抱えていた。ボンドはかつて愛したヴェスパー・リンドの存在、一方のマドレーヌはかつて敵スペクターの娘であること。当地にあるヴェスパーお墓を参った時、襲撃される。
残念だったのは「スペクター」から6年のブランクがあったこと。前作のラストでボンドはマドレーヌとロンドンを去っていく。本作の冒頭でマドレーヌの幼い頃の記憶が提示され、本作は次回作の予告編になっている。M16で新たに「007」の番号を割り当てられ、次回作以降、クレイグを引き継ぐノーミ(ラシャーナ・リンチ)が登場する。エンドタイトルの最後に「ジェームズ・ボンドは帰ってくる」……。
アクシシデント続きで、ダニー・ボイルと脚本家が降板した。コロナ禍で、シナリオも変更されたと推察され、細菌兵器を巡り、ボンド、M16トップのマロリー(レイフ・ファインズ)、ボンドの盟友ライター(ジェフリー・ライター)、敵役のサフィン(ラミ・マレック)、プロフェルド(クリストフ・ヴァルツ)ら豪華なキャスティングで盛り上げる。007御用達の中南米が頻繁に事件の現場になる。
国としての〝ヒール〟はロシアで、マッドサイエンティストはロシア出身という設定だ。最終決戦の舞台が北方領土なのは興味深い。グローバルな舞台設定と心の迷路……。極大と極小のアンビバレンツで紡がれたエンターテインメントを堪能した。
あしたは朝に仕事をした後、2泊3日で入院する。本作のタイトルを和訳すれば「死ぬ暇などない」だが、俺いは死ぬまでどれほどの時が残されているだろうか。
今読ませていただいて頭が混乱しています。
ボンドは前作でミスター・ホワイトから娘のマドレーヌを守ってやってくれと頼まれて、マドレーヌに会いに行きましたよね?
マドレーヌは、スペクター一味の娘であることをボンドに隠していたのではなく、幼少期にサフィンに母を殺され、自分も命を狙われ、でも殺されなかったことを隠していたのだと思っていました。
間違えていたらごめんなさい。
ご入院されているとのこと。お体どうぞお大事になさってください。