酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「おみおくりの作法」~ささやかな死を写す水彩画

2015-01-31 03:57:04 | 映画、ドラマ
 前稿の冒頭で記したが、シャルリー・エブド紙襲撃に抗議するデモの光景が、加工されて世界に配信された。首脳たちは民衆とともに行進しなかったという真実を、俺は想田和弘氏のウェブマガジンで知った。森達也氏がこの件について、29日付朝日新聞朝刊に寄稿している。

 世界の歪んだ構図を端的に示すフェイクを深刻に受け止めている人は少ない。感性が鈍いから? それとも問題意識が低いから? 対テロへの同調圧力が強まる中、森氏は<立ち位置の違いが受け取り方の違いになって表れている>と記していた。俺は想田、森両氏と近い位置に立っているが、そこはきっと人影もまばらな曠野だろう。

 権力は人々の立ち位置を誘導する。マインドコントロールから逃れるためには、前稿で取り上げたピーター・バラカン氏が持つ複眼とバランス感覚が必要だ。ポーランド系ユダヤ人のバラカン氏は親族を収容所で亡くしている。であるにもかかわらず、いや、だからこそバラカン氏は、シャルリー・エブド紙の風刺画掲載に異を唱えたのだ。

 イスラム国に囚われた湯川さんが殺害され、後藤さんの生死が世界の耳目を集めている。2人のケースは特殊だが、死はしめやかに、ひっそりと訪れる。無名の人の最期を淡々と描く「おみおくりの作法」(13年、ウベルト・パゾリーニ監督/英伊合作)をシネスイッチ銀座で見た。公開直後ゆえ、ストーリーの紹介は最小限にとどめたい。

 主人公のジョン・メイ(エディ・マーサン)はロンドン・ケニントン地区の民生係で、行旅死亡人、身寄りのない死者に真摯に向き合っている。故人の人生を知るために旅をし、宗教を特定する。弔辞を書いてBGMを選び、ただひとり葬儀に参列する。情熱の源は自身の孤独で、死者たちこそがジョンの友達だった。

 ジョンの日常は整頓された部屋そのままに無駄がなく、食事や服装も決まっている。慎重に道路を横断するシーンの繰り返しが、結末に至る伏線になっていた。ジョンは突然、部署統廃合を理由に解雇を伝えられる。クビを言い渡した上司役は、「ブロードチャーチ~殺意の町」で殺害された少年の父親を演じたアンドリュー・バカンだった。

 ジョンの最後の仕事は、自宅近くで亡くなったビリー・ストークの人生を追うことだった。ビリーはアルコール中毒で、遺体が発見された時、夥しい腐臭を放っていた。ジョンはアルバムに残された少女の写真を手掛かりに、ビリーの足跡を辿っていく。

 抑制されたジョンの生き方と対照的に、激情家のビリーは煌めきと暗転を繰り返しつつ転落していった。波瀾万丈憧れたのか、ホームレスと酒を回し飲みしてビリーの素顔に迫るなど、ジョンはささやかな逸脱を楽しんでいた。弔いから解放されたモノトーンの人生に、仄かな明かりが灯る。

 ジョンの心象風景を表現するように、背景の色彩が赤みを増していく。俺はハリウッド的な結末に期待した。ささやかな幸せを手に入れ、ついでに膨大な知識を生かしてクイズ王になるとか……。待ち受けていたのは哀切な予定調和で、生きる意味を問い、生者と死者の繋がりを描くラストに、鼻をすする音が周囲から洩れてきた。俺もまた亡き妹、施設で人生を終える母に思いを馳せ、涙腺が緩んだ。

 原題の「スティル・ライフ」は静物画という意味らしい。本作はささやかな死を写す、ロマンチックで心に染みる水彩画だった。別稿(1月17日)で絶賛した「トラッシュ!」とともに、早くも今年のベストワン候補である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「表現の不自由展」で、バラカン氏のバランス感覚を学ぶ

2015-01-27 23:23:19 | 社会、政治
 シャルリー・エブド紙襲撃を受け、大規模なデモがパリで開催された。その先頭に40カ国を超える政府首脳が立ち、民衆とともに抗議した……と伝えられたが、フェイクだったことが判明した。

 英インデペンデント紙は、<首脳たちは〝安全地帯〟で腕を組んだものの、民衆と行進しなかった>と明かした。APやロイターもグルだった可能性が高い。この件に関心のある方は、想田和弘氏(映画監督、作家)のウェブマガジン「観察する日々」をご覧になってほしい。

 「デモクラシー・ナウ!」ウェブ版では、ジェレミー・スケイヒル氏(インターセプト共同創設者)が「集結した首脳たちは全員、言論の自由に敵対している。パリで起きたのは偽善の大騒ぎ」と斬っていた。確かに、<民衆とともに>という意識と程遠い輩といえる。

 英国から来日して40年になるピーター・バラカン氏(音楽評論家、キャスター)が、開催中の「表現の不自由展」(2月1日まで、ギャラリー古藤)でトークイベントを行った。各メディアで紹介されたこともあり満員御礼だった。

 中国や東チムールの慰安婦の写真、韓国の慰安婦像、昭和天皇のコラージュや戯画、現在の日本を抉る彫刻、放射能汚染を訴えるサウンドスケープ、強制連行された朝鮮人の慰霊碑の写真、九条俳句……。この間、展示中止、掲載拒否、撤去処分の憂き目を見た作品群が並んでいる。「表現の不自由展」は、現状を危惧した人たちによる手作りのイベントだった。

 バラカン氏の原点は、来日によって異なる文化に出合ったことではないか。60年代のロックは英国の空気を変えたが、何より影響が大きいのは69年に放映がスタートした「モンティ・パイソン」だという。同番組ではBBCにもかかわらず、女王や権力者を嘲笑の対象にした。後の英国コメディーも、「モンティ・パイソン」の気風を引き継いでいる。

 その感覚のまま来日したバラカン氏は当初、「危ない奴」と見做されたという。大抵の英国人は王室に遠慮せず、敬語も付けない。皇室批判がタブーの日本とは真逆だが、バラカン氏は欧州スタンダードを押し付けることはしない。英仏流の風刺の精神は他の文化圏、とりわけイスラム社会では受け入れられないはずだ。

 前稿にも記したが、バラカン氏は「シャルリー・エブド紙は風刺画掲載が引き起こす事態を予測できたはず。私が編集部の一員だったら間違いなく掲載に反対した」と語っていた。むろん、その点について、自身が正しいとは主張しない。表現の自由はどこまで許容されるべきか、笑いの対象をどこまで慮る必要があるのか……。自由やユーモアを語る際、避けて通れない奥深いテーマだ。

 バラカン氏は現在の日本を、9・11直後のブッシュ政権下に重ねていた。その目に、居丈高に振る舞いながら自信なさげな安倍首相、有形無形の圧力を予定調和的に受け入れる自粛ムードが異様に映っている。

 日本人は〝形ばかりの中立〟を好むとバラカン氏は指摘し、その典型に記者クラブ制度を挙げ、結果として「東京新聞以外は均質化してしまった」と語っていた。最近の傾向で気になるのは「日本よいしょ」、「日本に生まれてよかった」という風潮で、とりわけ民放のバラエティーに顕著に表れているという。

 メディアの偏向を批判する声も強いが、内側にいるバラカン氏は至ってクールだ。スポンサーの意向に従うのは暗黙のルールだから、逸脱しようと思えば、上記の「デモクラシー・ナウ!」のような形をとるしかないと考えているのではないか。

 バラカン氏がキャスターを務めていた「CBSドキュメント」で、主要スポンサーを批判する内容がオンエアされた。当スポンサーはその回だけ降り、次回から戻ったという。局の意向について、洋楽は自由に選曲できるが、邦楽には多少の自主規制があることを、RCサクセッションを例に説明していた。

 ヘイトスピーチについてバラカン氏は、英仏独の実態を例に挙げ、差別や排他主義は欧州でも大問題になっていると語る。根底にある格差と貧困を改善することが解決への第一歩と考えているようだ。

 全体として感じたのは、バラカン氏の謙虚さ、バランス感覚、そして複眼的で柔軟な発想だった。テロを未然に防ぐとの名目で、英国は「1984」が描いた超管理社会になったと指摘する声が強い。祖国の現状をバラカン氏はどう考えているのか質疑応答で聞いてみたかったが、挙手する人が多かったので諦めた。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「税金を払わない巨大企業」~モンスター退治のための必読書

2015-01-24 14:48:11 | 読書
 湯川、後藤両氏がイスラム国の人質になっていることを知りつつ、安倍首相は有志連合支援(2億㌦)を打ち出した。<日本は戦争をしない国>を前提に活動してきた後藤氏、<日本を戦争する国>に導こうとする安倍首相……。両者の対照的な立ち位置もあり、様々な切り口で語られているが、仕事先の夕刊紙(G紙)は後藤氏の〝自己責任〟に言及し、<後藤氏は当地の事情を把握した上でシリア入りしたはずで、身代金支払いはテロへの屈服>と主張していた。

 次稿で「表現の不自由展」について記す予定だが、トークイベントでのピーター・バラカン氏の発言が、上記の論調とそのまま重なった。私は勇気がないと前置きし、バラカン氏は「シャルリー・エブド紙は風刺画掲載が引き起こす事態を予測できたはず。私が編集部の一員だったら間違いなく掲載に反対した」と語っていた。

 人質事件がどのような結末を迎えるにせよ、<戦争する国>に向かうのか、<戦争しない国>を維持するのか、日本は立脚点を確認する時機を迎えた。俺はもちろん後者を支持する。

 緑の党東京本部の新年会で、三多摩在住のYさんと話す機会があった。痴呆症で窃盗を繰り返す人、アル中で転落した人、出所したばかりで仕事がない人……。落ちこぼれた人たちを簡易宿泊所に定住させる活動に、Yさんは従事している。行政への怒りや正義感だけでなく、Yさんは一人一人に〝愛すべき理由〟を見いだしている。人間賛歌に感動すると同時に、アラカンになって尊敬すべき仲間に出会えたことに喜びを覚えた。

 Yさんの言葉の端々にも窺えたが、格差と貧困こそ日本が抱える最大の問題だ。アメリカ映画に頻繁に描かれているが、<戦争する国>の前提は、兵隊になることが生活安定の選択肢になる社会である。格差と貧困が排他主義を助長し差別意識を育むことは、世界の共通認識といっていい。

 複眼的に格差と貧困を捉えるため、「税金を払わない巨大企業」(富岡幸雄著、文春新書)を読んだ。富岡氏は国税庁職員を経て現在は中大教授だ。通産省研究会座長や政府税制委員を歴任した税のオーソリティーが、日本の税制の矛盾――法人優遇と消費税――を抉っている。

 政治家、メディア、経済評論家によって、誤った刷り込みが意図的になされている。第一に、<日本の法人税は高い>……。本書はタイトル通り、大企業の実効税率がいかに低いかをデータで示している。例えば三井住友フィナンシャルグループの納税額は300万円(利益は1479億8500万円)、ソフトバンクは500万円(同788億8500万円)……。まさに驚愕の数字だ。

 上記2社だけでなく、本書には実効税負担率の低い巨大企業が数多く登場する。安倍首相の「法人税減税は国際的競争力を維持するために必要」は、声高に叫ばれる大嘘なのだ。本書を一読(立ち読みでも)された方は、〝獣の心を持つ錬金術師〟に怒りが込み上げてくるだろう。右派は〝非国民〟呼ばわりが大好きだが、複雑な手法を用いて〝脱税〟し、富を国家に還元しない企業こそ、そのレッテルに相応しい。

 誤った刷り込みの第二は、<日本人は貯金が多い>……。内閣府の最新の調査で、家計貯蓄率が初めてマイナス(1・3%)に転じたことが判明した。所得が減ったため、貯金を取り崩さないと生活が成り立たない状況になっている。庶民にとって強烈なボディーブローになる消費税10%アップは先送りされたが、富岡氏は本書で「消費税は廃止が当然」と強調していた。

 <増税分を年金制度と福祉の充実に充てる>は空手形で、介護報酬引き下げ、配偶者控除廃止など、安倍政権は弱者切り捨てに余念がない。富岡氏はG紙のインタビューで、興味深いデータを提示した。導入(89年)以降、消費税による税収の累計は282兆円で、同期間の法人3税の減収分は255兆円になる。庶民が企業の利益を負担している構図が浮き彫りになった。

 本書によれば、グローバル企業に支配されつつある先進国に、適正な納税を求める動きが広がっている。〝グローバルタックス〟とでも呼ぶべきだが、各国の協調が条件になる。米オバマ大統領が打ち出した富裕層増税も、その一環かもしれない。

 20代の頃から〝気分は反体制〟だったが、それでも社会に根付く倫理、良心、矜持に幻想を抱いていた。俺は甘かったというべきか、今や眼前の敵は罪の意識なく人々の生き血を啜る貪欲な政官財だ。モンスター退治の第一歩が実効ある法人税増税であることを、本書は教えてくれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憎しみの連鎖、辺野古、セガサミー、民主党、NFL~真冬の雑感あれこれ

2015-01-20 23:18:38 | 戯れ言
 大豊泰昭さんと斉藤仁さんが相次いで亡くなった。共に俺より年下で、早過ぎる死といえるが、濃密な人生を送ってこられたのだろう。卓越したアスリートたちの冥福を心から祈りたい。俺などいつ死神の目に留まっても不思議はないが、残された時間を前向きに生きることが、召された同世代への供養になる。

 昨年入会した緑の党は俺の気質にピッタリで、多様性を尊重し循環型社会を志向している。東京都本部の新年会では、杉並区議選(4月)に出馬予定のKさんと話が弾んだ。<緑の党はリベラルや左派の結集に向け、接着剤、緩衝材になるべき>という俺の空論を、若いKさんは日常活動で血肉化している。

 イスラム国が邦人2人の殺害予告をネットに流した。アイデンティティーの浸潤を是とする俺にとり、<憎しみの連鎖>は思考の埒外にある。シャルリー・エブド襲撃への抗議は国境を超えて広がっているが、エドワード・スノーデン(元NSA、CIA局員)はイスラエル移民省とモサドの近年の暗躍を示唆している。欧州でイスラム教徒の活動が目立つようになれば、イスラエルに移住するユダヤ人が増加する……。これがイスラエルの狙いなら、パレスチナ収奪はさらに厳しいものになるだろう。

 テロとは少数派だけの行為ではない。安倍政権の辺野古移設強行は、まさに国家によるテロだ。スノーデン同様、闇を透視する天木直人氏(元外務官僚)は昨年、<今後10年のアジア情勢の変化、日本国内の反米感情の高まり、米国内の批判を勘案し、アメリカは辺野古移設を断念する>(要旨)との見方を提示していた。

 セガサミー里見会長宅に銃弾が撃ち込まれた。里見氏はカジノ法案のキーマンと目され、安倍首相、小泉元首相らと親交が深い。カジノ議連最高顧問に石原慎太郎、小沢一郎両氏が名を連ね、警察関係を筆頭に各官庁にも顔が利く。野球部はプロに人材を送り込む都市対抗の常連で、里見氏自身は長嶋茂雄氏と昵懇だ。次々に高額馬を購入し、遠からずGⅠ馬のオーナーになるだろう。

 3・11後の東電が典型的だが、メディアはそれぞれタブーを抱えている。出版社系の週刊誌(現代、文春、新潮など)は作家のスキャンダルはスルーするし、スポーツ紙や芸能誌にとってジャニーズ、吉本、AKBはアンタッチャブルだ。上記のコネクションに加え、セガサミーは莫大な広告宣伝費をばらまいている。事件の真相に迫る記事は期待薄だ。

 民主党新代表に岡田氏が選出されたが、国民の目は冷ややかだ。この四半世紀、政局(数合わせ)が優先されて野合が繰り返され、政治家もメディアも政治ウオッチャーも理念を語らなくなった。この動きを主導したのが小沢氏で、体現したのが民主党といえる。13年の参院選、昨年末の衆院選の際、平野啓一郎と柳家小三治が<今回は共産党に投票した>と語ったことは、当ブログで記した通りだ。

 民主党が自公に対抗する結集軸になるためには何が必要か……。政局のみで永田町を泳いできた連中には、正解が見つけられなかった、いや、正解を出した長妻氏を支持しなかったというべきか。リベラルを掲げた長妻氏は<最大のテーマは格差と貧困>と立候補時に語っていた。長妻氏の理念が党全体に浸透すれば、平野も小三治も、そして多くのリベラルの有権者も、次回の国政選挙で民主党に投票するはずだ。

 週明けはNFLのチャンピオンシップを堪能した。大逆転のシーホークスと粉砕したペイトリオッツと、ゲームの中身は真逆だったが、スーパーボウルは俺の、いや、全米の期待通りの組み合わせになった。キャラが対照的な両ヘッドコーチは、16年越しの因縁のドラマに組み込まれた。〝史上最高のスーパーボウル〟のキックオフ(日本時間2月2日午前)が待ち遠しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「トラッシュ」~世界の鼓動に震える秀作

2015-01-17 12:10:59 | 映画、ドラマ
 サザンオールスターズが年末ライブでの演出を謝罪した。周到に準備した上での確信犯と思えるだけに、腰砕けは残念でならない。事務所前での右派の抗議活動も理由のひとつだろうが、〝物言えば唇寒し〟の風潮がさらに強まることを危惧している。

 昨年末、帰省中の新幹線でサンドイッチの大部分を床に落とした。横に座っていたのは10歳前後の少年である。俺は「もったいないな」と照れ笑いし、袋に入れてトラッシュボックスに向かった。この話を従兄弟にすると、「あまえはアホか。『もったいないな』言うて食うのが正しい教育や」と叱られた。

 フィリピンの貧困救援に尽力している従兄弟は、衛生信仰に縛られた日本を笑い飛ばしている。以前から交流があったフィリピンでは、2年続きの台風による水害で、どん底状態で暮らす住民が多い。従兄弟は先日、地元の高校生を引率して被災地を訪れた。法事で帰省する来月、世界に触れた少年たちの感想を聞いてみたい。

 新宿シネマカリテで先日、「トラッシュ! この街が輝く日まで」(14年)を見た。スティ-ヴン・ダルトリー監督作品では「ダロウェイ夫人」(ヴァージニア・ウルフ)をモチーフにした「めぐりあう時間たち」が鮮明に記憶に残っている。

 「トラッシュ」は衝撃作「シティ・オブ・ゴッド」と同じくリオデジャネイロのスラムが舞台だ。ブラジルで昨年、「W杯より生活」を掲げたデモが広がった。来年は同市で五輪が開催されるなど経済発展が喧伝されているが、本作はブラジルの貧困と腐敗を鋭く抉っている。

 ラファエルとガルドはともに10代半ばで、ゴミ拾いを生業にしている。上前をはねるのは地元のボスと警察だ。少年たちはある日、悪徳政治家の秘書(ワグネル・モウラ)が身を賭して入手したメモを拾った。2人はストリートチルドレンのラットを仲間に誘い、革命がスタートする。

 キーになる局面で類まれな才能を発揮するトリオをサポートするのは、神父(マーティン・シーン)とオリヴィア(ルーニー・マーラ)だ。マーラは役柄そのままケニアでNPOを立ち上げ、貧困救済に携わっているという。反警察意識が強い地域住民の後押しもあり、少年たちは真相に迫る。聖書を用いた謎解きも見応えがあった。立ちはだかるのは警察で、フェデリコ(セルトン・メロ)は汚職政治家の意のままに動いている。

 信じること、怒り、正義、自己犠牲、連帯、そして革命……。日本で死語になりつつある言葉が、スクリーンで煌めき弾けていた。俺は<日本で無数のタコツボを繁殖させ、結果として統制のツールになっている>とインターネットに懐疑的に記してきたが、本作では自由への起爆剤になっていた。

 <全ての人が街頭に出て抗議すれば、世の中は変わる>というメッセージ、少年たちがゴミ集積場に札束をばらまくラストシーンに心が熱くなる。本作はまさに<世界の鼓動を感じる映画>で、「未来を生きる君たちへ」、「ある愛へと続く旅」に匹敵する作品だ。

 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの「アモーレス・ペロス」にも世界の鼓動を感じたが、同監督の「バードマンあるいは(無知がもたらす奇跡)」がアカデミー作品賞にノミネートされた。4月の公開を楽しみにしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「薄氷の殺人」~宿命の愛に彩られたサスペンス

2015-01-13 23:27:36 | 映画、ドラマ
 あの喧騒は何だったのか。小泉元首相のバックアップで細川元首相が都知事選立候補を表明したのは、昨年1月14日だった。あれから1年、ご両人はフェードアウトしたが、長く険しい闘いは続いている。

 佐賀県知事選では保守が分裂し、自公が推す候補が敗れた。農協問題とTPPも背景にあったようだが、緑の党は県民参加の県政、地域の自立と循環型経済、脱原発を軸にしたグリーン革命を掲げた島谷候補を応援した。

 3万3000票弱で3位と厳しい結果に終わったが、嘉田前滋賀県知事、三宅洋平氏らが緑の党代表とトークイベントを開き、加藤登紀子、木内みどりら文化人から支持のメッセージも届いた。リベラルや左派は結集しつつある。俺は怠け者の会員だが、統一地方選では貢献したい。

 慰安婦問題で捏造したと攻撃された元朝日記者が、文藝春秋を名誉棄損で告訴した。上記の都知事選に出馬した宇都宮健児氏ら人権派弁護士が大弁護団を結成する。別稿で紹介したが、中村文則が歴史修正に異を唱える短編を発表し、人間国宝の柳家小三治は正面から安倍政権を批判した。紅白でのサザンのパフォーマンス、NHKのネタ介入を明かした爆笑問題など、陰鬱な空気に抵抗する動きが少しずつ広がっている。

 有楽町で先日、「薄氷の殺人」(14年、ディアオ・イーナン監督)を見た。中国・香港合作で、薄幸の女ウーを演じたグイ・ルイメイは台湾を代表する女優と、中国語圏の粋を結集した作品といえる。前稿で紹介した「6才のボクが、大人になるまで。」を抑えてベルリン映画祭金熊賞を獲得したこともウリで、客足は順調だった。公開直後なので、アバウトな感想を以下に記したい。

 監督自身はオーソン・ウェルズに敬意を抱いているのか、「第三の男」(1949年)、「黒い罠」(58年)にインスパイアされたと語っている。ダークな色調はアンリ=ジョルジュ・クルーゾーにも通底しており、1940~50年代の映画に親しんだ方には堪らない作品だと思う。

 さらに「殺人の追憶」、「哀しき獣」といった、業と性に根差した韓国映画からの影響も窺える。独裁、言論弾圧を経た両国(中国は今も?)ゆえか、闇の奥に潜む眼差しが本作にも漲っている。

 1999年夏、華北地方で男のバラバラに切断された遺体のパーツが、十数カ所の石炭工場で発見された。幾つもの都市をまたいでいるため、運搬可能な者が容疑者に浮上する。妻に逃げられたばかりのジャン(リャオ・ファン)も捜査に加わるが、決定的なミスを犯し、事件も迷宮入りする。

 5年後の冬、社会の裂け目から転落したジャンは〝哀しき獣〟になっていた。目だけがギラギラした酔っ払いの保安員で、悪い目ばかりが続けて出る嘲笑の対象だ。スクリーンから凍えるような寒さが、ジャンの心象風景として伝わってくる。

 再会した元同僚から知らされた事件の情報に閃いたジャンは、憑かれたように被害者の妻ウーを追い始め、夜陰に息を潜める漆黒の魂は、次第に手繰り寄せられていく。ジャンの魂の成分は孤独、絶望、そして狂気。ウーの魂は恐怖と贖罪でかたどられている。2人が観覧車に乗るシーンが印象的で、ロマンチックな「白日焔日=昼の花火」の原題にマッチしていた。

 劇場を出た後、吉田拓郎の「舞姫」を口ずさんでいた。歌われる舞姫が、薄幸なウーに重なったからである。本作はフィルムノワールの系譜を引く重厚なサスペンスであり、宿命と情念に彩られたラブスト-リーでもある。二色の糸を織り成したディアオ・イーナンの才能に感嘆するしかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

煌めきを永遠に焼き付ける「6才のボクが、大人になるまで。」

2015-01-10 13:46:57 | 映画、ドラマ
 今回のテーマとも関係はあるが、大人になる意味を考えてみた。むろん俺自身、アラカンなのに大人でないことは弁えている。年頭の抱負に<格好悪くはみ出す>を掲げるなんて、日本の〝いい大人像〟とは対極だ。

 欧州で20代を過ごした友人は、「日本の大人よりフランスの5歳の子供の方が、遥かに自分の意見を持っている」と話していた。阿部和重は「幼少の帝国」で、マッカーサーと昭和天皇の身長差が歴然としたツーショットが、日本人の成熟拒否――アメリカを父に、自らは子供のまま――を助長したと指摘している。

 池澤夏樹が「春を恨んだりしない」で抉った<地震も原発事故も悪政もすべて宿命として受け入れる日本人>を、美徳として描き続けているのがカズオ・イシグロだ。長崎出身のイシグロは5歳時に渡英し、ブッカー賞作家になる。作中の登場人物は、理不尽で過酷な仕組みを粛々と受け入れるのだ。まるで現在の日本人のように……。

 日比谷シャンテで先日、「6才のボクが、大人になるまで。」(14年、リチャード・リンクレター監督)を見た。オスカー最有力候補と見做され、前哨戦で受賞を重ねている。

 メイソン・ジュニアを演じたエラー・コルトレーンが6歳だった02年に撮影が始まり、姉サマンサ(ローレライ・リンクレーター)、母オリヴィア(パトリシア・アークエット)、父メイソン・シニア.(イーサン・ホーク)が映画に合わせて年を取る。積み重ねられた感情がナチュラルに伝わってきた。

 オリヴィアは夫と別れ姉弟を育てているが、子供たちは同じ目線で接する父が大好きだった。復縁を願っていたが思いは通じず、母は紳士然とした大学教授と再婚する。明らかに最悪の選択で、離婚後に付き合った軍隊帰りの男ともすぐに別れ、実質バツ3になった。

 父の型にはまらない気質を受け継いだメイソンは、興味の対象を変えながら、柔軟な感性を磨く。性の目覚め、背伸びした自己アピール、不良っぽさへの憧れと、10代の少年にとって成長への栄養素が描かれていた。周りに温かく見守られたメイソンは、多様性を認める姿勢を身につけ、表現を志向するようになる。〝大人の扉〟を開けたメイソンに比べ、母と父の12年はどうだったのだろう。

 母は大学で心理学を教えているるが、自身は〝心理的欠点〟を抱えている。強い男に惹かれる傾向があるが、強さの裏返しは高圧的、支配的だ。無意識のうちに庇護を求めてしまう母は、成熟し切れない大人と言えなくもない。巣立つ息子を悄然と送る母が心配になった。フィクションなのに実在の家族のように感情移入してしまうのも、本作の魅力だ。

 舞台は保守的なテキサスだが、オバマ支持の父とともに、メイソンも選挙運動に協力していた。リベラルだった父だが、再婚相手の両親はガチガチの保守派である。それでも義父母と親しく付き合う父はある意味、日本的な大人になって、周囲とうまく同化している。

 アメリカ映画やドラマに感じていたが、パーティーが生活の基本になっていることが本作でも窺えた。多民族国家アメリカでは、カリキュラムにディベートが組み込まれているという。成果を試す格好の場がパーティーで、母にもメイソンにも新たな出合があった。

 本作は純水のように清々しく染み込んできたが、肝はラストシーンだ。テキサス大に進んだメイソンは、寮のルームメートに誘われハイキングに出かけ、会ったばかりの女の子に、一瞬を大切にすることの意味を話す。煌めきを捉え永遠に焼き付ける写真に憑かれたメイソンらしい言葉だが、俺が真理に気付いたのは10年前のこと。大人になれなかったのも仕方がない。

 ロックムービー的な色合いもあり、ウイーザー、ヴァンパイア・ウイークエンド、キングス・オブ・レオン、ブラック・キーズ、フォスター・ザ・ピープルなど、当ブログで紹介したバンドの曲がちりばめられていた。

 画面が暗転し、映画の中で時が同時進行する画期的な試みにピリオドが打たれた。エンドマークとともにアーケイド・ファイアの「ディープ・ブルー」が流れる。湿っぽい余韻は去らず、メイソンの夢の続きに思いを馳せつつ、帰路に就いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「名人」~川端康成が描く勝負の深淵

2015-01-06 23:39:44 | 読書
 特定秘密保護法施行当日(12月10日)、アメブロが「真実を探すブログ」と「放射能とたたかうブログ」を削除した。ドキュメンタリーの製作現場では既に自主規制が広がっており、猛スピードで言論封殺が進行している。

 ブログで政治や社会をラディカルに斬っている旧友と、話す機会があった。当ブログの読者数が右肩下がりであることを知っている彼は、「俺もなんだ」とため息交じりに話していた。彼は以下のような疑問を抱いている。<アメブロほど露骨ではないが、各サイトとも原発、秘密保護法、辺野古移設、集団的自衛権といった言葉の検索を制限している>と……。

 彼の指摘が的を射ていたとしても、サイト運営者が真実を語るはずはない。「自由からの逃走」はエーリヒ・フロムの名著だが、タイトルそのものの状況が、今の日本の風潮だ。

 さて、本題……。年末年始に読んだ川端康成の「名人」(1954年発表、新潮文庫)の感想を記したい。川端は38年、本因坊秀哉名人の引退碁の観戦記を担当する。対局者は木谷7段だったが、存命中でもあり、小説では大竹7段と仮名を用いている。

 囲碁は門外漢だが、生を削り、盤に魂を刻む対局者の息遣いが、行間から立ち昇ってくるのを覚えた。引退碁から約1年後に名人は亡くなるが、対面した川端は「一芸に執して、現実の多くを失った人の悲劇の果ての顔」と記している。

 日本中の耳目を集めた引退碁は、時代の帰趨を懸けた闘いでもあった。当時は終身名人制で、続く段位は7段である。川端は<名人=日本の伝統と美学の体現者、大竹=合理主義者>の構図を軸に、名人の側に立って筆を進めている。大竹のモデルである木谷は棋界の革新者と見做されていた。

 持ち時間は40時間で、6月下旬にスタートし12月上旬、大竹の5目勝ちで決着する。途中で入院するなど60代半ばの名人に対し、大竹は豪放磊落のイメージがある。壮年による老人いじめと映らぬこともないが、盤外で主導権を握っていたのは名人だった。誓約違反を繰り返す名人に、大竹は何度も対局中止を申し出ている。

 世紀を超えて読むと、川端が描いた絵の下に、別のデッサンが浮き上がり、両者の対照的な個性が明らかになる。無神経な名人と神経質な大竹の闘いともいえ、川端が「現身を失い幽鬼の如き」と表現した名人は、常識から恬然としており、周りの騒々しさを全く気にしていない。一方の大竹の碁を、川端は「暗く細かい悲観派」と評している。

 対局は次第に悲愴の色を帯びてくる。名人の肉体は衰えを隠せないが、大竹も目に見えて消耗していく。直感で打つ名人に対し、長考派の大竹は残り時間が少なくなってくる。それぞれの妻が対局場の温泉街に宿泊し、夫を間近で支えていた。〝絶対に負けられない闘い〟は家族を巻き込む総力戦の様相を呈してくる。

 セルフプロデュースというとあざとい印象もあるが、名人の自然児ぶりは謎めいている。心身は限界のはずなのに、対局後は関係者を将棋や麻雀に誘い、読みに没頭して長考する。時には大竹を誘って将棋に興じていた。ビリヤードや競馬も好む名人を、川端は業に根差した「勝負事の餓鬼」と表現している。

 勝負の岐路になったのは、大竹の121手目だった。美学に反する実利を追求した一着に、名人は「墨を塗られた」と怒ったが、後に「有効な手」と認めていたという。均衡は崩れ始め、川端は名人の敗着を「心理と生理の破綻」と表現していた。

 心地良い緊張感で、一気に読み切った。名人と呼ばれる人の体内には、凡人の与かり知らぬ濃密な空気が流れていることを知る。名人は決して悲劇の人ではなく、超然と生きた自由人ではなかったか。本作をきっかけに川端の他の作品にも触れていきたい。

 併せて伊坂幸太郎の「死神の精度」(文春文庫)を読んだ。映画「重力ピエロ」と「ゴールデンスランバー」は見たが、小説は初体験だった。阿部和重との共作「キャプテンサンダーボルト」に向けた予習の意味もあったが、深い考察と卓越した筆致の上に、物語が構築されていた。阿部とのコラボが楽しみになってきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年頭の抱負~格好悪くはみ出して空気を変える

2015-01-03 23:50:28 | 戯れ言
 年末年始は京都に帰り、親戚の寺に泊まって、母が暮らす施設を訪ねる。ところが今年は、インフルエンザの流行で面会禁止の処置が取られ、玄関口でしか会えない。幸い出るのは自由だったので、母が親戚宅に足を運び、俺とだけでなく、同い年で共通の知人が多い叔母を交えて歓談することになった。

 従兄弟も俺も紅白歌合戦に興味がないので、大晦日はチャンネルを偶然合わせた「ダイナマイトどんどん」(78年)を見た。従兄弟は自民党の元国会議員だが、現在はフリーハンドで環境保護、フィリピンの貧困救済に取り組んでおり、同作で主演を務めた菅原文太に絶大な敬意を抱いている。

 「おまえが会員になってる党(緑の党)は、考えが近い文太みたいな人をトップに据えたら、知名度が上がるのに」と従兄弟は話していた。〝政治のプロ〟の意見だが、政治にはイメージ戦略が必要と言いたかったのだろう。安倍政権を批判した紅白でのサザンのパフォーマンスが話題になっていることを、帰京してから知った。

 30、31日は暖かかったが、年が明けて急激に寒くなる。3日は雪で山陰線、新幹線とも遅れたが、鈴本演芸場初席第三部に辛うじて間に合った。顔見せ興行で各自の持ち時間は短いが、落語は柳亭左龍、桃月庵白酒、柳亭燕路、柳家権太楼、柳家小三治、柳家喬太郎、柳亭市馬の目も眩むようなラインアップで、漫才、奇術、講談、粋曲、寿獅子、紙切りの匠の芸も併せて堪能する。

 トリを務めたのは昨年、小三治から栄えある座を禅譲された愛弟子の柳家三三で、「粗忽の釘」を飄々と演じていた。笑う門には福来るというが、2015年は上々の滑り出しだった。

 
 年頭に当ブログで抱負を記すことが習慣になっている。今年は未年だが、羊のようにおとなしくせず、格好悪くはみ出したい。「いつも格好悪いくせに何を今更」とツッコミを入れられそうだが、俺のいう〝格好悪い〟とは、文太のように旗幟を鮮明にすることだ。

 「寄らば大樹の陰」、「長いものに巻かれろ」が日本人の好みだが、ここ数年、その傾向は強まるばかりだ。バンドが反原発をMCで訴えただけで、バッシングの書き込みが殺到するが、飼い慣らされているのは若者だけではない。立ち位置を明確にすると、「待ってました」とばかり嗤いの対象にする〝中立の物知り〟が、この国の保守化、集団化を支えている。

 昨年暮れに紹介した柳家小三治と中村文則は、政治的メッセージを前面に出すタイプではないが、時の流れに異議を唱えた。紅白のサザンも同様で、現在の風潮からすれば<格好悪い>といえる。だが、台湾、香港、そしてスコットランドでは日本とムードが真逆だ。<沈黙=格好悪い>で、若者たちは自身の思いを鮮やかに示していた。

 日本を閉塞社会にした責任は俺たち中高年世代にある。そのことを肝に銘じ、意識的に格好悪く生きて、<はみ出すこと=格好いい>と空気を変えるために微力ながら貢献したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする