酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「ムーン・パレス」~3代を紡ぐ孤独と流浪の糸

2022-04-28 22:40:09 | 読書
 先日、「グレタ ひとりぼっちの挑戦」(2020年)を見た。阿佐ヶ谷地域区民センターで開催された「ゼロカーボンシティー杉並の会」連続企画第2弾である。会のメンバーではないが、主催者と繋がりがあり、会場整備に協力した。〝社会復帰〟の一環というべきか。

 グレタ・トゥーンベリのスタートは15歳の時、気候危機を訴えるためスウェーデン国会近くで始めた座り込みだった。国連、EU議会、各国議会で「あなたたちは何もしていない」とリーダーたちを問い詰めるグレタの言葉は清々しい。「アスベルガー症候群は私の誇り」と語るグレタは、コミュニケーションが苦手で、学校で仲間外れにされていたが、孤独だからこそ真実を追求し、同じ日に世界で700万人が街角に出る奇跡を導けたのだ。

 昨年8月、脳梗塞を発症した。幸い早期の入院で症状は治まり、今は何とか本を読むことは出来るが、視力の衰えで、読書は〝楽しい苦行〟になった。生きる意味を重く問いかける小説を読了する。ポール・オースター著「ムーン・パレス」(1989年、柴田元幸訳/新潮文庫)である。オースター作品に触れるのは別稿(2020年10月5日)で紹介した「ブルックリン・フォリーズ」以来、2作目だ。

 同作で描かれていたドロップアウトと流浪に加え、「ムーン・パレス」には孤独が加わった。本作は自伝的要素が濃いといわれるが、主人公(聞き手)のマーコ・スタンリー・フォッグ(MS)は作者同様、ニューヨークのコロンビア大の学生だ。<それは人類がはじめて月を歩いた夏だった>の書き出しで、舞台が1969年であることがわかる。タイトルの「ムーン・パレス」は大学近くに実在した中華料理店という。

 MSは幼い頃、母エミリーを交通事故で亡くす。育ての親だったビクター伯父は全米を転々とするミュージシャンだったが、蔵書を残してこの世を去る。MSはドロップアウトし、セントラルパークでホームレスになる。徴兵への忌避感があった可能性もあるが、MSは他者との距離が測れない。〝孤独癖〟の源流が、後半に明らかになる。

 MSを救い出したのは、大学での唯一の親友ジンマーと中国系のキティだった。ジンマーとは没交渉になり、キティとは恋人になる。MSが偶然見つけた仕事は盲目で車椅子の気難しい老人、トマス・エフィングに本を読み聞かせるという内容だったが、聞き取りに変わり、MSはエフィングの数奇な人生を書き留める。エフィング死者と認知されたことで名前を変え、欧州に向かう。

 アメリカの小説や映画に親しんでいる方は、<辺境への旅>というパターンの作品に出合ったことがあるはずだ。「ムーン・パレス」にもその要素はある。思い出したのは映画「イントゥ・ザ・ワイルド」(07年、ショーン・ペン監督)だ。主人公クリスはエリートの道を捨て、流浪を選ぶ。クリスは復帰の道を遮断された。

 一方のMSは全てを剥ぎ取られた後、微かな光明を見いだした。<夜空に上っていく月に僕はじっと視線を注ぎ、それが闇のなかにみずからの場所を見出すまで目を離さなかった>……。「ムーン・パレス」はこのように締められる。月で始まり、月で終わる〝青春ロード小説〟だった。MSはアメリカの果てに行き着くが、ホームレス時代は心の最深部まで沈み込む。ともに<辺境への旅>だった。

 オースターは本作をコメディー小説と評している。粗筋だけを紹介すると、偶然が重なり過ぎるご都合主義と思われるかもしれない。エフィング=ソロモン・バーバー=MSの孤独と流浪の糸に紡がれた物語が寓話の域に飛翔したのは、稠密かつ濃厚な描写による。俺にとって本作は伽藍と楼閣で、65歳になって小説を読む至高の快楽を味わえたのは幸いだった。

 将棋の叡王戦第1局は、藤井聡太叡王(5冠)が挑戦者の出口若武六段を93手で破った。今期初戦の内容は完勝だった。藤井そして出口ら若手棋士も将棋で<辺境への旅>を続けている。彼らの戦いを見守りたい。
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「ひまわり」~戦争に引き裂かれた至高の愛

2022-04-24 22:55:31 | 映画、ドラマ
 仕事がなくなり、引きこもっている。地上波、CS、そしてBSで「相棒」の再放送を見る機会が増えたが、反町隆史が加わった「シーズン14」以降、終盤近くまで思い出せないことが多い。認知症で記憶力が落ちているのだろうが、逆に若い頃の出来事が鮮明に甦り、フラッシュバックすることもある。

 前々稿「ジョージ・オーウェル」、前稿「親愛なる同志たちへ」、そしてロシアのウクライナ侵攻……。この流れで「ひまわり」(1970年、ヴィットリオ・デ・シーカ監督)を見た。同作は2020年、50周年HDレストア版として復活した。ウクライナの現状を鑑み、チケット代の一部が人道支援に回されている。

 ここで話は大きく逸れる。吉野家常務の早大での人権・ジェンダー問題に関わる発言に愕然とさせられたが、<吉野家>と<ひまわり>がショートして、一本の線になった。1970年代後半、吉野家は女子大生にハードルが高かった。そのためか、サークルの後輩女子に〝吉野家デート〟を申し込まれる。

 おいしそうに食べ終えた彼女を映画に誘おうとしたが、踏みとどまった。候補は名画座で上映中の「ひまわり」である。俺と別の日に見た彼女に感想を尋ねると、「ソ連の女性の足が太かった」……。40年以上経って新宿武蔵野館で「ひまわり」と再会を果たした俺は、〝足が太い〟に目を凝らしていた。

 今更ネタバレを気にする必要もない名作だ。第2次世界大戦後、ジョバンナ(ソフィア・ローレン)はソ連に出征後、帰還しない夫アントニオ(マルチェロ・マストヤンニ)の消息を知るため役所を訪れた。情熱的なジョバンナ、アフリカ戦線行きを控えたアントニオはナポリの海岸で出会い、瞬く間に恋に落ち、結婚したのだ。

 12日の特別休暇では物足りない。策を弄して精神疾患を装うがたちまち露見し、アントニオはソ連に送られる。別れの場所はミラノ中央駅だった。一瞬に紡がれた永遠の愛をヘンリー・マンシーニのテーマ曲が表現していた。アントニオの死に納得出来ないジョバンナは、同じ部隊に所属した帰還兵にアントニオの状況を聞き出し、スターリンの死後、ソ連を訪れる。

 省庁やイタリアのチームが遠征したサッカー場などを訪ねたジョバンナは、ひまわりが咲き誇るウクライナの村にたどり着く。その下には、ソ連兵、イタリア兵、そして戦争に巻き込まれた住民の死骸が埋まっている。埋葬を命じたのはドイツ軍だった。悲惨な戦争の記憶を養分に、鮮やかな花弁が太陽を追っていた。

 村民に示したアントニオの写真から、ジョバンナはある家に案内される。そこに暮らしていたのはマーシャ(リュドミラ・サベーリエワ)と幼い娘だった。母娘と駅に向かったジョバンナの前に姿を現したのはアントニオだった。肝というべきシーンで、俺はマーシャの足に注目していた。世界のトップ女優であるソフィアと比べるのはアンフェアで、女優、バレリーナとして活躍したリュミドラの肢体にケチのつけようはなかった。

 帰国したジョバンナの元、アントニオがやってくる。ラストもミラノ中央駅のプラットホームだったが、俺は「二人でやり直そう」と話すアントニオの気持ちに違和感を覚えた。ジョバンナとアントニオに未来はない。2人には子供がいるから、責任がある。目眩く愛と、ささやかな幸せ……。人は後者を選ぶしかないのだ。

 俺自身、優柔不断で時に決断を避けてきた。だからこそ、「男はうじうじしてはいけない」というマッチョ的な感性に縛られている。「ひまわり」同様、戦争によって運命を狂わされた「浮雲」(成瀬巳喜男監督)に入り込めなかった。「浮雲」のゆき子がジョバンナに、富岡にアントニオを重ねてしまう。俺は強い女性に憧れる質なのだ。

 戦争や圧政は愛を切り裂き、人を絶望の淵に追い込む。そのことは今もウクライナ、イエメン、ミャンマーなど世界中で起きている。人は無力だが、時に声を上げるしかない。
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「親愛なる同志たちへ」~思想と愛の狭間で倒立する世界

2022-04-20 20:56:20 | 映画、ドラマ
 近くのスーパーへ行くと、セルフレジ導入で風景が一変していた。行きつけの松屋でもワンオペの時間帯が増え、調理、配膳だけでなく、ネット注文やウーバーにも対応する店員の働きぶりに感心させられる。同時に、省力化(人員削減)が業界の喫緊の課題であることを実感した。
 
 将棋名人戦第2局は2日目に後手の渡辺明名人が優位を拡大し、132手で斎藤慎太郎八段を押し切った。来年の名人挑戦者を争う順位戦の日程が決まる。羽生九段はB級1組での初戦、同じく降級した山崎隆之八段と指す。藤井聡太5冠は開幕戦で佐藤康光九段とで相まみえる。将棋連盟が新設した名古屋対局場のこけら落としは、愛知県出身の藤井戦か。若き天才棋士が及ぼす経済効果は計り知れない。

 ロシアのウクライナ侵攻、そして前稿のテーマは「ジョージ・オーウェル」……。この流れで今回は「親愛なる同志たちへ」(2020年、アンドレイ・コンチャロフスキー監督)を紹介する。84歳と高齢のコンチャロフスキーは、ハリウッドに移った時期もあったが、本作は国内で製作された。モノクロの映像が登場人物の心象風景を浮き彫りにする。

 前々稿で記した「英雄の証明」にも感じたが、権力と芸術の関係は一筋縄ではない。「親愛――」の背景はソ連時代に隠蔽された「ノボチェルカッスク事件」だったが、プーチン政権は上映を認めている。ノボチェルカッスク事件とはフルシチョフ政権下、ロシア南西部(ウクライナ国境沿い)の国営機関車工場で起きた大規模なストライキだ。

 本作は62年6月1日から3日間の物語で、不倫密会シーンから始まる。共産党市政委員会メンバーのリョーダ(ユリア・ビソツカヤ)は上司のコズロフ宅で逢引きしていた。父(セルゲイ・アーリッシュ)、娘スヴェッツカ(ユリア・ブロワ)が待つ家にいったん帰り、市場に向かう。そこでリョーダは苦しむ庶民と対照的に、共産党幹部の特権でたばこや贅沢品を手に入れる。
 
 スターリン批判(1956年)で世界を震撼させたフルシチョフだが62年当時、農業政策の失敗でソ連国内は深刻な経済危機に陥っていた。食料不足と物価上昇に起因する給与カットで国民の不安が広がり、機関車工場で工員が立ち上がる。共産党地区本部前に5000人もの労働者が集結した。一室で会議中だった委員会のメンバーはパニック状態に陥る。

 呆れてしまうのは会議の空虚さだ。報告事項に内実はなく、「共産党の方針通りに進捗しています」と事なかれ主義で進む。そこにストライキの一報が入り、<理想の国でこんなことが起きるはずがない>と建前論に終始し、地区の党書記、軍上層部にとどまらず、クレムリンからも中央委員がやってくる。

 興味深いのはリョーダと家族との会話だ。独ソ戦で祖国防衛に尽くしたリョーダはスターリンを今も信奉している。彼女にとってフルシチョフなど、死後にスターリンを批判しただけの臆病者に過ぎない。父はコサックにノスタルジーを抱いている。コサックとはウクライナ語で、ウクライナと南ロシアに存在した軍事的共同体で、父はその制服を着ている。コサックは帝政ロシアに近く、父は革命後のソ連に否定的だ。

 娘のスヴェッツカはスターリン死後の社会を満喫し、ソ連は民主主義国家だから、抗議しても捕まることはないと信じている。工場労働者にシンパシーを抱き、デモに加わっていることを直感したリョーダは娘を叱責する。自由を巡る母娘の考えは決定的だった。

 事態はデモ隊への無差別銃撃で一変する。リョーダは地区本部屋上に上がっていくKGB狙撃手を目撃した。軍は<国民に銃を向けない>という最低限のルールに縛られていたが、KGBは異なる。プーチン大統領がKGBの対外情報部員であったことを再認識する。リョーダ宅にスヴェッツカの捜索に現れたのはKGBのヴィクトル(アンドレイ・グセフ)だった。

 ヴィクトルはリョーダと同世代で、考え方は近いが脱力感に蝕まれている。リョーダは拡大会議で「デモ参加者には厳罰を」と主張し、上層部に高く評価された。だが、娘の安否を気遣い、お仕着せの思想は血の通った情に溶けていく。スヴェッツカの行方を捜すうちに、リョーダとヴィクトルの心にケミストリーが起き、世界が倒立する。車内で一緒に歌う曲が印象的だった。

 ウクライナ侵攻と言論統制にそのままリンクする本作に、ロシアの人たちはどのような感想を抱いたのか関心がある。ささやかな愛と絆に勝るものはなく、それを壊すのが戦争なのだから……。
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「ジョージ・オーウェル」~人間らしさを問いかける作家の生き様

2022-04-16 11:09:32 | 読書
 ロシア軍の無差別殺人と性暴力が告発されている。人間を犯罪者、獣にする戦争を忌避するのが人間の尊厳を守る条件であることを。憲法9条を掲げる日本人は肝に銘じるべきだ。ウクライナ侵攻に重なったのが、別稿(2020年8月30日)で紹介した映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」である。

 1932年から33年にかけ、スターリンは計画経済の成果を改竄するため、ウクライナの農作物を強制的にモスクワに送る。1000万超の餓死者が出たジェノサイド(ホロモドール)を告発したのが英国人記者のガレス・ジョーンズだ。「赤い闇――」はガレスに触発されたジョージ・オーウェルのモノローグで始まった。

 今回はオーウェルの生涯に迫った「ジョ-ジ・オーウェル」(川端康雄著/岩波新書)を紹介する。サブタイトルは<「人間らしさ」への讃歌>で、オーウェルの生き様を自分なりに消化して記したい。俺が初めてオーウェルを知ったのは高校時代の英語の副読本に掲載されていた「象を撃つ」だった。

 再会したのは福島泰樹の第1歌集「バリケード・一九六六年」(1969年)に収録された短歌<カタロニヤ讃歌 レーニン撰集も売りにし コーヒー飲みたければ>だった。「カタロニヤ讃歌」(「カタロニア讃歌」)はオーウェルがスペイン内戦で共和国政府側の義勇兵として戦った際のルポルタージュ。加わったのはトロツキーを信奉するPOUMだった。

 レーニンの死後、スターリンは後継者争いに勝ち、亡命先のメキシコでトロツキーを暗殺する。POUMは共産党に弾圧され、オーウェルは拘束を逃れ英国に戻ったが、暗殺の危険を感じていた。上記のガレスは35年、取材に訪れた満州で銃弾を浴びた。ソ連の秘密警察に通じた者による犯行とされている。


 スペインでの経験が「動物農場」と「一九八四年」を著すスタートラインになったばかりでない。時に共産党やその支持者に<反共主義者>のレッテルを貼られた。著者は共産党のキャンペーンに騙された例として石川達三を挙げている。石川はソ連と中国を訪問後(56年)、<「一九八四年」というのは悪い小説だ。大変なデマゴーグである>と記した。だが10年後、オーウェルが自由と抵抗を叫ぶ若者のアイコンになったことは、バリケード内で闘った福島の歌に詠まれた通りだ。

 本書を読んで感じたのは、オーウェルの下降志向だ。著者は<自分が生まれ育った階級からの亡命者>と評しているが、インド警察(赴任地はビルマ)に勤務するなど上昇と関係のない職を選ぶ傾向があった。ライフスタイルも上品さを嫌い、肉体労働に就いたり、野宿をしたりするのも平気だった。自然や動植物への愛着は「動物農場」執筆に繋がっているし、大衆文化への関心も「一九八四年」に生かされている。

 ジャーナリストとしてキャリアをスタートさせたオーウェルは、ビルマ、スペインでの体験、労働者階級への取材で<社会という枠組み>を後景に据えないと納得いく作品が書けないと考えていた。さらに興味深いのは自己評価の低さである。オーウェルは天与の才ではなく、友人や知人たちとの交流、そしてジャーナリストとしての見聞が作家としての自分を育ててくれたと考えていたのかもしれない。

 ビルマで英国の帝国主義的な振る舞いに忌避感を抱き、右派的な愛国心と一線を画しながら<ナショナリズム>は否定しない。その延長線上で〝自身と対極〟とした上で、戦時内閣を率いたチャーチルを評価している。一方のチャーチルも社会主義者を自任するオーウェルの「一九八四年」を絶賛している。

 オーウェルはバルセロナを訪れた時、<希望が無気力やシニシズムよりもふつうである社会>に感銘を覚えた。オーウェルにとって人間らしさの第一は自由だったが、別の意味での人間臭さを体現していた。過剰さや誤解を生みやすい言動、そして〝恋愛中毒〟ぶりも本書に紹介されている。

 オーウェルなら今、ジャーナリストとしてウクライナに飛んでいるだろう。そして、限りない自由を表現する小説を書き上げたはずだ。
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「英雄の証明」~普遍性を追求したイラン映画

2022-04-11 22:47:22 | 映画、ドラマ
 別稿(3月24日)を<あしたNPBが開幕する。(中略)注目選手はロッテの佐々木朗希だ。ダルビッシュ級の声が本当なのか確かめたい>と締めた。佐々木の完全試合は衝撃だった。柔らかでしなやかなホームから投じられる160㌔超の直球と落差あるフォークの組み合わせで、19三振を奪いながら投球数は105……。解説者の言を待つまでもなく、同様の快挙を今シーズン中にも達成しそうな勢いだ。

 ロシアのウクライナ侵攻が世界の空気を変えつつある。原発ルネサンスと軍備増強を掲げ再選を目指す中道右派のマクロン大統領だが、1回目の投票で得票率は27・6%にとどまる。極右のルペンは23・4%、急進左派のメランジョンが21・95%だから、フランスの政治は〝健全な三極体制〟のようだ。ルペンとメランジョンはともに不公平に苦しむ中下流層に支持されている。決選投票でマクロンが負ける可能性もある。

 当ブログで繰り返しイラン映画を称賛してきた。新宿シネマカリテで先日、イランを代表する監督のひとり、アスガー・ファルハディの最新作「英雄の証明」(2021年)を見た。カンヌ映画祭でグランプリ(パルム・ドールに次ぐ第2席)に輝くなど、世界中で高い評価を受けた。

 ファルハディ監督作は「彼女が消えた浜辺」に次いで2度目だった。同作について、<欧米化された登場人物は一様に非イスラム的で、ストーリー的に必要とさえ思える祈りのシーンも、意識的? にカットされている>と当ブログで記した。既に出国し、英雄の証明」は国外で撮影したと思い込んでいたが、イラン・フランス合作だった。

 かつて確執を抱えていた当局とファルハディは和解していたようだ。検閲を逃れるために工夫を凝らし、寓意によって物語を神話の領域に飛翔させるというのが俺の勝手なイラン映画の解釈だったが、「英雄の証明」には当てはまらない。〝不自由な宗教国家〟イランの特殊性がテーマではなかった。

 主人公のラヒム・ソルタニ(アミル・ジャディディ)は刑務所に収監中だが、休暇を取って自宅に戻る……。そんなことが可能なはずがない。でも、イランでは許されていた。ラヒムが告訴されたのは借金問題で、解決すればすぐに釈放される。故郷に帰ったのも策を講じるためだった。ロケ地のシーラーズ(イラン南西部)で、遺跡の多い街である。ラヒムが冒頭で仮構のような建物を上っていくシーンが記憶に残っている。

 ラヒムが頼ったのは姉マリ(マルヤム・シャーダイ)と義兄ホセイン(アリレザ・ジャハンディデ)だ。親身になってくれる婚約者ファルコンデ(サハル・ゴルデュースト)がバッグを拾ったことでストーリーは急展開する。中には17枚の金貨が入っていた。ラヒムにとって負債を軽減するチャンスだったが、前妻の父バーラム(モーセン・タナバンデ)との示談交渉が決裂した。親族間の軋轢を収め埋められなかったラヒムは、ある決断をする。金貨を持ち主に返すことにしたのだ。

 ファルコンデ、そして吃音症の息子シアヴァシュとの再スタートにとって必要だったが、イスラム世界に生きる者が持つ倫理観、とりわけ男性がこだわる名誉に基づいて下した決断はSNSを通じて国中の話題になり、ラヒムは一躍〝正直者の囚人〟ともてはやされ英雄視される。慈善団体も寄付金を募り、順風満帆の未来が開けたように思えたが、悪意の書き込みがラヒムの足をすくっていく。

 国によって風景は異なるが、悪意の塊となったSNSの奔流に逆らうのは難しい。後半に進むにつれ、既視感を覚えた方もいたはずだ。この国で起きていることと同じだと……。「英雄の証明」は世界が直面している普遍性を追求している。〝イラン映画らしさ〟を感じたのはラストだ。ファルハディの「彼女が消えた浜辺」でも、〝オチ〟は見る側に委ねられていた。イラン映画独特の匂いに安堵した。
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「ベルファスト」~瑞々しい少年の表情の先に

2022-04-07 22:11:16 | 映画、ドラマ
 園子温監督だけでなく、右腕といわれるプロデューサーによる性加害が報じられている。榊英雄監督による性暴力問題で「ハザードランプ」が公開中止になった。是枝裕和監督は西川美和監督らと連名で、性加害が起きやすい映画界の体質を指摘し、<はるか以前から繰り返されてきたが、勇気を持って声を上げた人により、表に出るようになった>(要旨)とコメントしていた。
 
 ここ数年は粗製乱造気味だったが、「冷たい熱帯魚」、「恋の罪」、「ヒミズ」、「希望の街」など園監督作を紹介してきた。それにしても、俺が敬意を表した人たちの多くは〝セクハラ体質〟を抱えている。改革派首長として世界で注目された朴元淳元ソウル市長はセクハラを告発されて自殺する。コスタリカの非武装中立を推進したサンチェス元大統領、広河隆一氏(デイズジャパン元編集長)も晩節を汚した。

 製作過程で性暴力がなかったと願いたいが、新宿シネマカリテで「ベルファスト」(2021年、ケネス・ブレナー監督)を見た。シェイクスピア俳優として評価が高いブレナー監督の自伝的作品である。モノクロで撮影したのは、ベルファストの空と街の色合いを再現するためで、監督のノスタルジックな心情と重なっていたからだろう。

 本作を理解するには背景を知らなければならない。舞台は1969年のベルファストで3年後、英国軍が無防備のデモ隊に発砲し、13人の死者が出た「血の日曜日」事件を起きる。直後、当時不仲を伝えられたジョン・レノンとポール・マッカートニーがそれぞれ英政府を非難する曲を発表した。ともにルーツはアイルランドである。本格的な紛争に至る空気が醸成されていることが本作で窺えた。

 「北アイルランド紛争の歴史」(堀越智著)には、<IRA=テロリスト、英国=仲介者>の刷り込まれた構図は誤りであると記されていた。プロテスタントが多数を占める地域では20世紀初頭から英政府公認の下、王立警察とスペシャルズ(私兵組織)がカトリックを弾圧していた。「差別撤廃」と「市民権獲得」を掲げた公民権運動が広がり、プロテスタントや労働組合も結集したが、英国は強硬姿勢を貫いた。

 前置きが長くなったが、「ベルファスト」について簡単に紹介する。69年9月、穏やかなベルファストの街に緊張が走る。プロテスタントの一団がカトリックの家を襲ったのだ。プロテスタント一家の9歳のバディ(ジュード・ヒル)の目が不安に怯える人々を写し出す。瑞々しい少年の表情が印象的だった。父(ジェイミー・ドーナン)、母(カトリーナ・バルブ)、兄ウィル(ルイス・マカスキー)の4人家族で、近くに住む祖父ポップ(キアラン・ハインズ)、祖母グラニー(ジュディ・デンチ)とも家を行き来している。

 歴史的に貧しい英国北部を反映し、父はロンドンに出稼ぎに行っている。ギャンブルで借金を作っているが有能なので、上司から引っ越しを勧められている。母は控えめだが後半、毅然とした態度を見せた。祖父はユーモアとウイットに富み、祖母は豪快さと繊細さを併せ持っている。父はプロテスタントのギャング団のリーダーと確執を抱えており、一家は残るか去るかの選択を迫られる。

 本作が世界各国で注目を浴びた理由の一つは、<支配階級のイングランド人、貧困状態にとどめられているアイルランド人>の構図が、全世界に敷衍したからだ。アメリカでもイングランド系の多くはエスタブリッシュメントで、アイリッシュは警官が多い。映画「トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング」では、オーストラリアでも同様であることが描かれていた。

 ロシア人とウクライナ人は親近感を抱いていたといわれるが、ベルファストでもプロテスタントとカトリックは隣人として交遊していた。ともにサッカーに興じ、同じ学校に通っていた。バディは同級生のキャサリンに恋していた。彼女はカトリックだが、父は全く気にしていない。そんな当たり前のことが許されなくなる背景に、信仰について深く考えたことがない俺は、何らかの作意を感じてしまう。

 ヴァン・モリソンの楽曲が作品に和みを与えてくれる。シリアスな状況の下、温かなホームドラマに、家族と絆の意味を考えた。
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春の雑感~モラトリアム、猫、中央公園、桜にスカイツリー、そしてウクライナ

2022-04-03 23:17:01 | 独り言
 仕事を離れて1カ月……。すぐに職を探すつもりはなく、当分は怠惰な日々を過ごすだろう。部屋の契約は1年後に切れるから、次の住処を探さなければならない。キリギリスのモラトリアムは続く。

 帰郷も候補のひとつで、合わせて猫を飼いたい気もするが、簡単ではない。「岩合光昭の世界ネコ歩き」に登場する猫たちは押しなべて活動的で、飼い主宅から散歩に出て、2時間歩き回るなんてザラだ。海外だけでなく日本でも、自然と街にマッチしている。愛嬌と野生を併せ持つ猫の本質を理解していないと共生は難しい。

 部屋の近くで2匹の野良猫を見つけた。ふてぶてしかった茶トラは最近、可愛い声で鳴いて俺を見る。空腹なのだろう。もう一匹の黒猫は俺が近づくと後ずさりする。テレビの特番では、3年間餌を与え続けてようやくタッチできたというケースが紹介されていた。猫も人間同様、個性は様々だ。

 桜の時季、近場の新宿中央公園で桜を愛でるが、公園自体の変容に驚かされる。園内にレストランとカフェが出来て、サラリーマンやOLの憩いスペース、子供たちの遊び場になっている。同公園といえばかつて犯罪の匂いがする〝アンダーワールド〟で、ホームレスもたむろしていたが、今やすっかり〝浄化〟されている。以前を懐かしく思うのは俺の暗い感性ゆえか。

 冬が戻ったかのような31日と1日、隅田川公園と上野公園で桜を観賞した。桜に儚さを重ねるのが日本人独特の感性だが、脳梗塞で昨夏入院した俺自身、肉体的にも経済的にも先行きが覚束ない。2011年の東日本大震災と原発事故、翌年の妹の死で、俺は無常観に囚われている。あと何回、桜を見ることができるのだろうか……。そんな感傷に浸っている。

 桜観賞の合間に浅草に泊まり、スカイツリーに初めて足を運ぶ。膠原病と闘っていた妹はスカイツリーに関心を持っていた。退院後、小康状態を保っていたが、開業5日後に召される。母に妹の額入りの写真を渡され、「スカイツリーからの眺めを見せてやってほしい」と頼まれていた。遂に母の願いを叶えた。しかも4月1日は妹の誕生日である。

 「ETV特集 ウクライナ侵攻が変える世界」(NHK・Eテレ)を見た。道傳愛子キャスターがスベトラーナ・アレクシエービッチ(作家),ジャック・アタリ(思想家)、イアン・ブレマー(政治学者)の世界を代表する知性にインタビューし、自由と民主主義をキーワードにソ連崩壊後を読み解く秀逸な内容だった。

 アタリとブレマーの俯瞰の巨視には感嘆させられたが、心に迫ったのはベラルーシ人の父、ウクライナ人の母を持ち、ソ連崩壊時にはモスクワに滞在していたアレクシエービッチの思いである。今回はアレクシエービッチの言葉に絞って紹介したい。ルカシェンコ大統領独裁に抗議する民主化運動の先頭に立ったが、弾圧と健康悪化もあり、現在はドイツで暮らしている。

 アレクシエービッチは<民衆的視座>の方法掄で、独ソ戦、アフガン侵攻、チェルノブイリ原発事故の実相を、兵士、市民、被曝者への聞き取りによって明らかにしていく。何より女性に寄り添うアレクシエービッチは祖母に大きな影響を受けた。

 終戦後、<ソ連軍=英雄、ドイツ軍=憎むべき敵>との〝公式見解〟が教科書に掲載されたが、祖母は<子供たちにパンを配ったドイツ兵もいた>と孫に伝える。アレクシエービッチは情報統制と洗脳を<ロシアは深い昏睡状態に陥っている>と評していた。

 ソ連崩壊時、周囲のみんなが「自由だ!」と叫んでいたが、アレクシエービッチは<自由を知らない人間が収容所を出て自由になることはない。プーチンと周辺の哲学者と宗教家はかつてより悪い収容所を構築した>(要旨)と感じている。併せて国民に警鐘を鳴らさなかった民主派(自身を含め)の力不足を省みていた。本作の最後、道傳キャスターは<この30年の無関心と不作為によって現状に至った>と結んだ。思い出したのは2017年3月の来日時に制作された「アレクシエービッチの旅路~チェルノブイリからフクシマへ」(NHK・BS)である。

 福島訪問を終えたアレクシエービッチは東京外大で講演し、<あなたたちの社会には「抵抗の文化」がありません>と語った。そして若者たちに<孤独でも「人間」であることを丹念に続けるしかない>と提言する。プーチンを批判するのは当然だが、私たち一人一人が自分の周りを変えていくことが、世界を変える第一歩なのだ。
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