年老いたせいか、しばしば憂国気分に陥る。反逆精神が消えた国に未来はないからだ。日本はいかなる過程で自由を失い、若者の牙が奪われたのか……。活性化策として思い浮かぶのは、カンフル剤としての移民受け入れぐらいである。
小林秀雄は<自由とは制度的な枠組みではなく、それを希求する精神に存在する>(要旨)と記した。その一節に符合する「ペルシャ猫を誰も知らない」(09年/イラン、バブマン・ゴバディ監督)を見た。自由への思いに貫かれた映画である。
民族音楽をテーマに「わが故郷の歌」と「半月~ハーフ・ムーン~」を撮ったゴバディが、一転してロックを取り上げた。主役のネガルとアシュカンは「テイク・イット・イージー・ホスピタル」を率いる恋人同士だ。ポップミュージックを敵性音楽として規制するイランは、ロッカーにとって生き地獄といえる。2人はナデルを仲介にイラン脱出を試みる。
「亀も空を飛ぶ」でクルド人の現実を重厚に描いたゴバディだが、今回は疾走感とテンポ重視でテヘランを切り取っていく。高速道路は渋滞し、高層ビルが立ち並んでいる。携帯電話は普及し、インターネットは国境を越える。NME誌も入手可能だが、バンドは練習場所確保さえままならない。
「CSIニューヨーク」さながらカメラは地下鉄駅構内を走り、メッセージ性の強いラップをバックにテヘランの影が抉られる。最も記憶に残るのは夕景をバックにしたネガルとアシュカンのキスシーンで、イスラム圏らしいロングアイの慎ましさが新鮮だった。
ストーリーは次第にダウナーに転じていく。予定調和的とはいえ、「ヒューマン・ジャングル」でリピートする「ノー・ウェイ・アウト」(どん詰まり)のフレーズと重なるラストに胸が痛んだ。曖昧な部分を確認しようと自宅でパソコンを立ち上げ、衝撃の事実に突き当たる。「ペルシャ猫を誰も知らない」は現実とフィクションが螺旋状の作品だったのだ。
クランクアップ直後、ネガルとアシュカンはロンドンに向かっていた。映画とは真逆の成り行きである。あくまで俺の勘繰りだが、脱出失敗に備えハッピーエンドが用意されていたのではないか。ゴバディは当局の許可なしに撮影を決行し、短期間で事実と物語を超える神話へと作品を昇華させた。〝映画の都〟イランを代表する監督の力量を、本作で再認識させられた。
清楚で知的なネガルに魅せられてしまったが、本作の肝は音楽の素晴らしさだ。テイク・イット・イージー・ホスピタルだけでなく、聴き応えのある様々なジャンルの音楽が作品を彩っている。グラストンベリー出演というネガルとアシュカンの夢は十分に実現可能だが、ニューヨークに移ってライブを積み重ねたら、遠からずオーバーグラウンドに浮上するだろう。
NY派が志向する<デジタルとプリミティヴの融合>を、テイク・イット・イージー・ホスピタルは自ずと体得している。彼らがダーティー・プロジェクターズやグリズリー・ベアと並び称せられる日が待ち遠しい。来日したら? 若作りして最前列に陣取り、陶然とネガルを見つめるはずだ。キモおやじと見られるのは慣れっこだし……。
ロックとは社会を抉る牙であり、自由への翼でもある。抵抗と自由の用い方を忘れた日本の若者が、世界標準のロックを奏でる日は来るだろうか。貧困と格差、そして閉塞を養分にしたバンドが、どこかで産声を上げているかもしれない。
小林秀雄は<自由とは制度的な枠組みではなく、それを希求する精神に存在する>(要旨)と記した。その一節に符合する「ペルシャ猫を誰も知らない」(09年/イラン、バブマン・ゴバディ監督)を見た。自由への思いに貫かれた映画である。
民族音楽をテーマに「わが故郷の歌」と「半月~ハーフ・ムーン~」を撮ったゴバディが、一転してロックを取り上げた。主役のネガルとアシュカンは「テイク・イット・イージー・ホスピタル」を率いる恋人同士だ。ポップミュージックを敵性音楽として規制するイランは、ロッカーにとって生き地獄といえる。2人はナデルを仲介にイラン脱出を試みる。
「亀も空を飛ぶ」でクルド人の現実を重厚に描いたゴバディだが、今回は疾走感とテンポ重視でテヘランを切り取っていく。高速道路は渋滞し、高層ビルが立ち並んでいる。携帯電話は普及し、インターネットは国境を越える。NME誌も入手可能だが、バンドは練習場所確保さえままならない。
「CSIニューヨーク」さながらカメラは地下鉄駅構内を走り、メッセージ性の強いラップをバックにテヘランの影が抉られる。最も記憶に残るのは夕景をバックにしたネガルとアシュカンのキスシーンで、イスラム圏らしいロングアイの慎ましさが新鮮だった。
ストーリーは次第にダウナーに転じていく。予定調和的とはいえ、「ヒューマン・ジャングル」でリピートする「ノー・ウェイ・アウト」(どん詰まり)のフレーズと重なるラストに胸が痛んだ。曖昧な部分を確認しようと自宅でパソコンを立ち上げ、衝撃の事実に突き当たる。「ペルシャ猫を誰も知らない」は現実とフィクションが螺旋状の作品だったのだ。
クランクアップ直後、ネガルとアシュカンはロンドンに向かっていた。映画とは真逆の成り行きである。あくまで俺の勘繰りだが、脱出失敗に備えハッピーエンドが用意されていたのではないか。ゴバディは当局の許可なしに撮影を決行し、短期間で事実と物語を超える神話へと作品を昇華させた。〝映画の都〟イランを代表する監督の力量を、本作で再認識させられた。
清楚で知的なネガルに魅せられてしまったが、本作の肝は音楽の素晴らしさだ。テイク・イット・イージー・ホスピタルだけでなく、聴き応えのある様々なジャンルの音楽が作品を彩っている。グラストンベリー出演というネガルとアシュカンの夢は十分に実現可能だが、ニューヨークに移ってライブを積み重ねたら、遠からずオーバーグラウンドに浮上するだろう。
NY派が志向する<デジタルとプリミティヴの融合>を、テイク・イット・イージー・ホスピタルは自ずと体得している。彼らがダーティー・プロジェクターズやグリズリー・ベアと並び称せられる日が待ち遠しい。来日したら? 若作りして最前列に陣取り、陶然とネガルを見つめるはずだ。キモおやじと見られるのは慣れっこだし……。
ロックとは社会を抉る牙であり、自由への翼でもある。抵抗と自由の用い方を忘れた日本の若者が、世界標準のロックを奏でる日は来るだろうか。貧困と格差、そして閉塞を養分にしたバンドが、どこかで産声を上げているかもしれない。