酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「ペルシャ猫を誰も知らない」~全編を貫く自由への思い

2010-08-29 03:09:37 | 映画、ドラマ
 年老いたせいか、しばしば憂国気分に陥る。反逆精神が消えた国に未来はないからだ。日本はいかなる過程で自由を失い、若者の牙が奪われたのか……。活性化策として思い浮かぶのは、カンフル剤としての移民受け入れぐらいである。

 小林秀雄は<自由とは制度的な枠組みではなく、それを希求する精神に存在する>(要旨)と記した。その一節に符合する「ペルシャ猫を誰も知らない」(09年/イラン、バブマン・ゴバディ監督)を見た。自由への思いに貫かれた映画である。

 民族音楽をテーマに「わが故郷の歌」と「半月~ハーフ・ムーン~」を撮ったゴバディが、一転してロックを取り上げた。主役のネガルとアシュカンは「テイク・イット・イージー・ホスピタル」を率いる恋人同士だ。ポップミュージックを敵性音楽として規制するイランは、ロッカーにとって生き地獄といえる。2人はナデルを仲介にイラン脱出を試みる。

 「亀も空を飛ぶ」でクルド人の現実を重厚に描いたゴバディだが、今回は疾走感とテンポ重視でテヘランを切り取っていく。高速道路は渋滞し、高層ビルが立ち並んでいる。携帯電話は普及し、インターネットは国境を越える。NME誌も入手可能だが、バンドは練習場所確保さえままならない。

 「CSIニューヨーク」さながらカメラは地下鉄駅構内を走り、メッセージ性の強いラップをバックにテヘランの影が抉られる。最も記憶に残るのは夕景をバックにしたネガルとアシュカンのキスシーンで、イスラム圏らしいロングアイの慎ましさが新鮮だった。

 ストーリーは次第にダウナーに転じていく。予定調和的とはいえ、「ヒューマン・ジャングル」でリピートする「ノー・ウェイ・アウト」(どん詰まり)のフレーズと重なるラストに胸が痛んだ。曖昧な部分を確認しようと自宅でパソコンを立ち上げ、衝撃の事実に突き当たる。「ペルシャ猫を誰も知らない」は現実とフィクションが螺旋状の作品だったのだ。

 クランクアップ直後、ネガルとアシュカンはロンドンに向かっていた。映画とは真逆の成り行きである。あくまで俺の勘繰りだが、脱出失敗に備えハッピーエンドが用意されていたのではないか。ゴバディは当局の許可なしに撮影を決行し、短期間で事実と物語を超える神話へと作品を昇華させた。〝映画の都〟イランを代表する監督の力量を、本作で再認識させられた。

 清楚で知的なネガルに魅せられてしまったが、本作の肝は音楽の素晴らしさだ。テイク・イット・イージー・ホスピタルだけでなく、聴き応えのある様々なジャンルの音楽が作品を彩っている。グラストンベリー出演というネガルとアシュカンの夢は十分に実現可能だが、ニューヨークに移ってライブを積み重ねたら、遠からずオーバーグラウンドに浮上するだろう。

 NY派が志向する<デジタルとプリミティヴの融合>を、テイク・イット・イージー・ホスピタルは自ずと体得している。彼らがダーティー・プロジェクターズやグリズリー・ベアと並び称せられる日が待ち遠しい。来日したら? 若作りして最前列に陣取り、陶然とネガルを見つめるはずだ。キモおやじと見られるのは慣れっこだし……。

 ロックとは社会を抉る牙であり、自由への翼でもある。抵抗と自由の用い方を忘れた日本の若者が、世界標準のロックを奏でる日は来るだろうか。貧困と格差、そして閉塞を養分にしたバンドが、どこかで産声を上げているかもしれない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あなたに似た人」~暑気払いはミステリーで

2010-08-26 00:38:00 | 読書
 今敏監督が亡くなった。享年46歳である。5本の長編にテレビアニメ「妄想代理人」(WOWOW)と、偶然にも俺は全作品に触れていた。安部公房や筒井康隆に通じる独特の世界が失われたのは残念だ。早すぎる異才の死を心から悼みたい。

 厳しい残暑が続いている。頭だけでも冷やそうと短編集「あなたに似た人」(ロアルド・ダール/早川文庫)を読んだ。主調音は<賭け>で、<愛の不毛>がスパイスとしてたっぷり振り掛けられている。

 進学、就職、恋愛、結婚、子供の教育方針、家購入といった重大事から、保険、病院、旅行先の選択に至るまで、人生は丁半バクチの連続だ。すべてに順調な〝勝ち組〟から、「どうしてこんな人(会社、家)を選んでしまったのか」と悔恨の日々を過ごす〝カモ〟まで格差は大きい。社会とは鉄火場と同義だからこそ、賭けをテーマにした作品はたやすく普遍性を獲得するのだ。

 本巻収録の作品について、簡単に紹介したい。

 賭けの現場における〝勝者の驕り〟は疑ってかかるべきだ。自らの懐は痛まないという仕組みか、安全を保障するトリックが準備されているからだ。「味」と「南から来た男」は、賭けに興じる者の欲望と狡猾さを暴いている。「わがいとしき妻よ、わが鳩よ」では倦怠期夫婦が仕掛けた悪戯で、賭けに憑かれたカップルの姿が明らかになる。

 「海の中へ」と「クロウドの犬」は、追い詰められた男たちの身を賭した〝一点突破、全面展開〟の試みを描いている。「告別」は恋という賭けに敗れた老批評家の復讐譚だが、鮮やかなドンデン返しが用意されていた。

 芸術的価値が高い刺青を背中に持つ老人の選択は果たして……。「皮膚」には作者の審美眼がちりばめられている。ファンタジーとSFの要素を併せ持つ「音響捕獲機」と「偉大なる自動文章製造機」、パブリックスクールの封建制が興味深い「韋駄天のフォックスリイ」など、読み応え十分の作品が揃っていた。

 国籍と性別は異なるが、ダールは同世代のパトリシア・ハイスミスとともに愛の不毛を追求した。ちなみにハイスミスは潔癖症、ダールは浮気性と主成分は別物っぽい。「おとなしい兇器」と「首」では夫婦の亀裂が剥き出しになるが、松本清張の盗作に気付いた前者が、本巻最大の衝撃だった。

 「おとなしい兇器」(1953年)の6年後、松本清張が「凶器」を発表する(「黒い画集」収録)。ダール版では凍ったラム、清張版では硬くなった餅が夫を殺めた。ともに凶器が刑事の胃に収まるというプロットだから、完全な盗作である。大発見に悦に入ったが、ネットで調べたら多くの人が指摘していた。後の巨匠も当時は駆け出しの新人作家である。賭けに出たとしても不思議はない。

 「チャーリーとチョコレート工場」(05年、ティム・バートン)の原作者であるダールは、児童文学者としても名が通っている。宮崎駿は熱烈なファンで、そのエキスを作品に取り入れているという。今回の出会いをきっかけに、折を見て他の作品も読んでみたい。

 いい加減に見える俺だが、競馬や麻雀では情けないほどの小心ぶりを発揮する。競馬では最も健全な〝少額投資の中穴派〟ゆえ、本命党のような破滅はありえない。麻雀も見切りが早く、下り打ちを厭わぬ堅実派だ。賭けの場面の方が、本当の自分に近い気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「赤目四十八瀧心中未遂」再見~俺が追う蝶はいずこに

2010-08-23 00:38:19 | 映画、ドラマ
 仕事先では夏季休暇(5日)を交代で取る。普段から効率的に作業を進める職場だから、〝マイナス1〟は俺のような外注スタッフの身にもズシリと響く。ヘロヘロになった先週末、重い体に鞭打ってポレポレ東中野に向かい、「赤目四十八瀧心中未遂」(03年、荒戸源次郎)を見た。

 本作は俺にとって〝21世紀のベストワン〟で、別稿(07年1月17日=http://blog.goo.ne.jp/ck1956/e/1160ef9235cac8cf08f9b6e20aa05ac1)にも記している。阪神・淡路大震災後から7年後の尼崎を舞台に描かれた作品で、今回がスクリーン初体験だった。32㌅のモニターとは見えてくる世界がまるで違う。物語は体内にしまった小箱から滲み出て、全身を温かく濡らしてくれた。

 最終回前にセッティングされたトークショーで、荒戸監督は針のように鋭く、毒を含んだ言葉を飄々と吐いていた。寺島しのぶが原作者の車谷長吉氏に「映画化されるなら私が綾を演じたい」と働き掛けたのは有名なエピソードだが、大西滝次郎が生島与一役をゲットする経緯を荒戸監督はユーモアたっぷりに紹介していた。

 普通に仕事をしながらブログを書けば、質は必然的に劣化する。まずは自分でも驚くほどハイレベル(手前みそですいません)の前稿(上記アドレス)を一読してほしい。本稿はあくまで追記という形である。

 冒頭とラスト、赤目四十八瀧を生島と綾が彷徨う場面に、蝶を追う少年がインサートされる。荒戸監督が「胡蝶の夢」をイメージしていたことは明らかで、生島にとって、舞う蝶は寄る辺なき自らの、そして綾のメタファーなのだろう。

 道行きが心中に至らないことは、生島が駅構内で綾を待つ2時間のうちに決まっていた。「来ないでくれ」のモノローグからも死への怯えは明らかで、生島の心情を察した綾は〝最後の食卓〟で、「あんた、あかんやろ」と呟いた。

 下駄の生島、ヒールの綾は微妙な距離を取りながら山を歩く。水面に浮かぶ綾、瀧に落ちた下駄、雅楽の舞台、灯篭流し、花火と、現実と幻想が光と闇に交錯し、俺もまた映像に溶けていくような感覚に包まれた。

 今回の発見の一つは生島の表情の変化だ。山中で時折、生島の目に殺意に似た禍々しさがよぎる。<心中しない>という綾の決意を知った時、その表情は柔和になり、ラスト近くで初めて笑みを浮かべる。

 ♪「死にましょう」女の瞳の切っ尖に 「死ねないよ」淋しさだけが押し黙る……。吉田拓郎の「舞姫」(作詞/松本隆)と重なる部分もあるが、「愛があれば心中なんかしない」という荒戸監督のコメントが示唆的だった。<心中は愛の究極形ではない。互いを強く思うからこそ未遂に終わった>というのが、監督自身が伝えたかった作品の肝なのだろう。

 借金で失踪していた時期もあった監督、分身である生島そのままに漂流して社会の底を這っていた原作者、失恋の痛みに苦しんだ寺島、焦燥感に苛まれた大西……。幾つもの負の情念に磨かれているからこそ、本作は神話的輝きに到達しえたのだ。一つ一つのシーンや台詞の数々に、無常感、切なさ、儚さが漲っていた。

 荒戸監督は冗談ぽく「生島は綾を思い続けるけど、綾はすぐ忘れちゃうよ。男は女々しく、女は雄々しいんだから」と話していた。一般論としてはその通りだろう。<背徳の彼方の純潔を体現する綾と勢子ねえさん(大楠道代)は、普通の女性が持ちえない清冽な魂を持っている>なんて幻想を抱く俺は、まだまだ蒼いのかもしれない。
 
 俺は今も、幻の蝶を追っている。傷だらけの優しい蝶は、どこで舞っているのだろう。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アーケイド・ファイア~心惑うダウナーなアンサンブル

2010-08-20 00:37:11 | 音楽
 スカパーで〝世界最高のフェス〟グラストンベリー'10の総集編を満喫した。レイ・デイヴィス、ジャクソン・ブラウンらロックレジェンドと、ヴァンパイア・ウィークエンド、MGMT、グリズリー・ベアらNY派が競演する。温故知新の匙加減も絶妙だった。

 フレーミング・リップスの祝祭的なパフォーマンスに、来日公演が待ち遠しくなる。遅まきながら発見したバンドも幾つかあるが、近日中にCDを購入し、当ブログで感想を記す予定だ。

 タワーレコードで先日、アーケイド・ファイアのアルバムをまとめ買いする。すべて輸入盤ゆえ、バンドについて基本情報がない。ちなみにウィキペディアには、<オルタナをベースに、重層的でクラシカルなアレンジと陰鬱な歌詞で独自の世界を展開する>と紹介されていた。

 ロックは決して複雑ではない。いや、複雑に感じてはいけないはずなのに、体内に蓄積した質と量によって聴こえ方が違ってくる。NY派もそうだが、〝最先端〟と称されるバンドを聴いてもリバイバルと感じるから不思議だ。年を取ったせいかもしれないが、アーケイド・ファイアも同様だった。

 「懐かしい」が1st“FUNERAL”の第一印象だった。泥臭くてアマチュアっぽく、バンドというより流しの楽団ってムードがある。「この感じ、誰かに似ている」と痒みを覚え、〝正体〟を探ろうとするのだが、候補があまりに多すぎる。ニック・ケイヴ、ピーター・ハミル、モーマスといったソロ系のアーティストが浮かんでは消えた。

 1stから曲のクオリティーを上げたのが、2nd“NEON BIBLE”だ。狂おしい♯4~リリシズムの背後に妖しさを秘めている♯5~ストリングスの使い方が効果的で陰翳くっきりの♯6~一転して吹っ切れた感じの♯7……。組曲風の流れは圧巻で、3枚の中では一番の愛聴盤になりそうだ。ジョイ・ディヴィジョンっぽいイントロからプリファブ・スプラウトを想起させる男女ハーモニーに転じる♯10も聴き応え十分だ。

 最初の2枚で迷路を彷徨っていたが、3rd“THE SUBURBS”で靄が晴れた。ダウナーさは変わらないが、ボーカルも濾過したようにスッキリし、ポップかつナイーブで疾走感も十分だ。「こりゃ、メジャーの音だ」と思ったら、全米、全英チャートでともに1位と一躍ブレークしていた。

 3枚のアルバムを繰り返し聴いたとはいえ、雑食系のアーケイド・ファイアは、いまだ茫洋としてクリアな像を結ばない。最大の理由は、彼らのパフォーマンスに触れていないことだ。ライブは凄まじいという評判で、<ミュートマス+ダーティー・プロジェクターズ>が俺の描くイメージだ。ブートレッグDVDを入手して、その魅力に近づきたい。来日公演にも期待する。

 聴くロックから見るロックへ……。Youtubeの普及でトレンドは変わっている。CDよりDVDがバンドの質を映す時代の申し子がMUSEだが、“As usual”にベストパフォーマンスを求められることは大きなプレッシャーに違いない。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島菊次郎最終講演会~志を受け継ぐ者はいずこに

2010-08-17 00:48:50 | 社会、政治
 「遺言Part3~福島菊次郎最終講演会&写真展」(14日、府中グリーンプラザ・けやきホール)に足を運んだ。「写らなかった戦後3/福島菊次郎遺言集~殺すな、殺されるな」出版記念を兼ねた催しである。

 味の素スタジアムで行われたEXILEのライブに向かう10~40代の女性で、行きの京王線はすし詰めだった。不良少年たちの憧れというのは、俺の勘違いだったらしい。天皇即位20周年を祝う曲を作るぐらいだから、ファンもおとなしそうに見えた。

 講演会には300人前後(推定)が詰めかけた。この手のイベントには珍しく若者の姿が多かったのも喜ばしい限りである。山本宗補氏を進行役に、2時間半弱(ビデオ、写真の映写を含む)の間、89歳の福島氏は痩せた肉体から熱い言葉を迸らせた。主題になったのは戦争である。

 福島氏は反体制、弱者の側で権力と対峙してきた。怨念を重ねて焼き付けるから、その写真は目を背けたくなる力を秘めている。福島氏と姿勢が重なる辺見庸氏は、詩文集「生首」で以下のように綴っている。

 <この国は貧民から権力者まで、上から下までびっしりと裏切り者によってのみなりたっている。(中略)あられもない内応のプロたち、とめどない転向者たちの群れ。内通者たちの楽園。語の肉からの剥離を毫も意に介さぬ者ら>……

 福島氏は数少ない例外のひとりで、阿修羅の如く闘い続けながら、表現者として存在することの罪悪感に苛まれてきた。82年、自らの活動が時代の流れを止められなかったとの自責に駆られ、無人島生活を始める。昭和天皇と同時期にがんを患い、「このままトンズラさせてたまるか」との思いで〝現役復帰〟し、「戦争責任展」で全国を巡回する。

 <平和主義者の昭和天皇は、軍部の暴走で無理やり戦争に引きずり込まれた>が通説になりつつあるが、福島氏はピュリツアー賞受賞作「昭和天皇」(ハーバート・ビックス/講談社)の論調に近い。戦争首謀者だった天皇が国体護持のため無条件降伏を先延ばしした結果、二つの原爆が落とされた経緯を、講演会でも糾弾していた。

 戦争末期に召集された福島氏は、「肉弾」(岡本喜八監督)さながら〝人間爆弾〟として敗戦を迎える。敗戦といえば思い浮かぶ<宮城で民衆が頭を垂れる写真>は、エキストラを集めて8月14日に撮影されたという。<責められるべき天皇に対して民が謝る>というトリックは、戦後一貫して踏襲された。

 福島氏はある被爆者との出会いによってキャリアをスタートさせた。モルモットにされた被爆者、行政の冷酷な対応への怒りに加え、七三一部隊の免罪などを重ねて論を進める。その福島氏が一市民として祝島の原発反対運動に関わっているのは当然の成り行きだろう。エコを国策の如く掲げる日本だが、最も環境を破壊し、効率も最悪の原発に警鐘を鳴らす者は、ことごとく公安の監視対象になる。唯一の被爆国の哀しい現実だ。

 一瞬を捉える匠であり、著作も極めてシャープな福島氏だが、高齢であることを勘案しても、講演は取りとめない印象を受けた。福島氏は論理を超えた情念と感性の人で、激しい怒りの底にあるのは限りない優しさではないか。

 質疑応答コーナーで、共産党員らしき女性が「素晴らしい日本共産党について、福島さんはどうお考えですか」と質問する。聴衆の殆どは俺を含め<反日共>のはずだから、その女性は明らかな〝K・Y〟である。
 
 福島氏が論理の人なら、「共産党は三里塚闘争に取り組む者を過激派呼ばわりしていましたね。60年安保以降、常に闘いの場にいなかったのが共産党です」と切り返し、会場から喝采を浴びただろう。だが、福島氏の対応は温かかった。

 <平和(憲法)を守れ>と説き続けた共産党と対照的に、福島氏は<日本は戦後、常に戦場に在った>と認識していた。だからこそ米軍基地や兵器産業の実相に迫る写真を撮ることができたのだ。

 <勝てなくても抵抗して、未来のために一粒の種でもいいから撒こうとするのか、逃げて再び同じ過ちを繰り返すのか>……。講演会のパンフレットに記された福島氏の〝遺言〟を真摯に受け止める者はいるだろうか。一粒の種がたわわな花実を咲かせることを願ってやまない。

 別稿(8月2日)に記したように、福島氏の〝遺言〟はMUSEが最新作“Resistance”で示した<俺たちは力尽きたけど、志を継いだ者が世界を変革するだろう>というテーマと一致する。だが、彼らに過大な期待を託すつもりはない。〝ロック産業の救世主〟と目されるようになったMUSEは巧みに転向し、世の中をスイスイ渡っていくに違いないからだ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「海に帰る日」~静謐で繊細なレクイエム

2010-08-14 06:44:47 | 読書
 「地獄だよ、日本は。生ぬるい地獄」……。

 「ハゲタカ」(09年)で最も印象に残る台詞は、高齢者所在不明問題への俺の感想と符合する。兵庫県など近畿地方に事例が集中している理由は、阪神・淡路大震災の影響ではないだろうか。いずれこの国は、〝凍える地獄〟になる。俺など孤独死は確実だが、戸籍や血縁に縛られない<新しい家族の形>を見つけて生き延びたい。

 死を巡る喧騒のさなか、05年度ブッカー賞受賞作「海に帰る日」(ジョン・バンヴィル)を読んだ。現在と過去がカットバックし、静謐かつ繊細に綴られるレクイエムだ。本作に競り負けたのは「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ)だが、両作には相通じるトーンがある。

 イシグロの作品は日本人の死生観と感受性に貫かれた<英語で書かれた日本文学>だ。「わたしを――」の枠組みは壮大でSF的だが、登場人物は粛々と宿命を受け入れていく。「海に帰る日」の主人公マックスも、諦念と内省の日々を過ごしている。

 本作を読みながら、デジャヴに囚われていた。志賀直哉? 少し違う。記憶の底や壁を突くうち、是枝裕和監督のデビュー作「幻の光」(宮本輝原作)に辿り着く。主人公のゆみ子は少女時代の祖母の失踪、夫の自殺と、生と死の曖昧な境界でこちら側に取り残される。

 「海に帰る日」のマックスも少年時代、唐突な死を目の当たりにする。その場面は妻を亡くし、孤独の度を増した数十年後、鮮明になって甦った。マックスはグレース家とひと夏を過ごした海辺の町を訪れる。

 活発な少女クロエ、双子の弟のマイルス、下卑た感じの父カイロ、魅力的な妻コニー、双子の家庭教師ローズ……。これがグレース家の構成だ。家庭の温かさを知らなかった少年マックスは、ヤドカリの如くグレース家に入り込む。コニーによって愛と性に覚醒したが、ガールフレンドになったのは娘のクロエだ。

 時空を行き来し、マックス自身の家庭についても綴られる。妻だけでなく娘とも心は通わず、何もかも懐疑的に語られる。<人生はそこから立ち去るための準備期間にすぎないのかもしれない>との独白に、死への傾斜が端的に記されていた。

 眩く描かれるグレース家は裕福で何の問題もないように思えたが、どこか歪んでいる。クロエはマックスを動揺させるローティーンの誘惑者で、いちゃつく恋人たちの傍ら、口が利けないマイルスが黒子のように張りついでいた。

 グレース家は既に壊れていたのか、マックスの一言で亀裂が生じたのか、ささやかな冒険が偶発的に悲劇を招いたのか……。俺なりの結論はあるが、本作に〝正解〟は記されていない。

 ゆみ子は光の糸に導かれて深海から上昇し、再婚して暮らす海辺の町で安寧と癒やしを得た。対照的にマックスはひたすら底へと沈んでいく。想定済みの結末のはずが、ラストに巧妙かつ滑稽な二重の仕掛けが用意されていた。

 「海に帰る日」は映画「トト・ザ・ヒーロー」のように、レクイエムでありながら人生賛歌の側面も持つ。生と死が織り成す綾を優しい視線で描いた作者の力量に感嘆するしかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しい彼女が部屋にやって来た

2010-08-11 00:44:29 | 戯れ言
 そんな物好きがどこにいる? 蓼食う虫も好き好きで……と言いたいところだが、残念ながら彼女とは人間じゃない。パソコンである。

 前の彼女と出会うきっかけは競馬だった。02年秋、菊花賞とJCダートで大穴馬券を的中させる。奢る、貢ぐがサラリーマン時代の最高の趣味だった。愚かしい散財の後、残った金で自分にパソコンをプレゼントした。

 それから8年、毎日のように彼女を慈しんだ。04年暮れに退職してからは1年半ほど引きこもりが続き、彼女の比重は高まる一方だった。タッチし過ぎて手指が痺れ、「胸郭出口症候群」になったこともある。彼女は俺の孤独、小心さ、性根の卑しさ、スケベさといったマイナス面を知り尽くしていた。長所もと言いたいところだが、胸を張れる点など一つもない。

 そんな彼女に今春、変調の兆しが訪れた。画面が急に暗くなったり、立ち上がらなくなったり、意味不明のメッセージが表示されたり……。最初は一過性だった症状が、頻繁に現れるようになる。

 落っこちたら、データ復旧は難しいという。早く買い替えるに越したことはないが、俺は大きな問題を抱えていた。 女性、酒、ギャンブル以上に機械が苦手だから、新しい彼女の搬入ならびに最低限の設定は電器屋に頼むしかない。簡単な話? いや、人を部屋に入れるためには大掛かりな準備が必要だったのだ。

 06年秋、俺は公私両面において強烈なパンチを食らった。その威力は凄まじく、プライドをズタズタにされて、孤闇に沈み込む。整えておく必要がなくなった部屋は、心のままに荒んでいった。

 「さあ、掃除だ!」と号令を掛けても前に進まない。W杯期間中はオランダの頑張りでテレビに釘付けで、その後はフジロックという大イベントが控えていた。このままではいけないと、自分にプレッシャーをかける。設定した期日が先週末だった。

 開拓農民というと大げさだが、どこから手を着けるべきか途方に暮れた。そのうちリズムをつかみ、<捨てる⇒しまう⇒掃く⇒拭く>を突貫工事でやり遂げた。獣の棲家は人間の住まいに見えるようになったが、いつまでもつかといわれれば……である。

 メールアドレスを移動し忘れたり、プリンターの接続に手間取ったりと失敗も多々あったが、ピチピチで敏感な新しい彼女で初ブログを更新できそうだ。Dr.コパの風水じゃないが、部屋を奇麗にしたら、どこかの方角から人間の女性がやって来るなんて妄想に耽ってしまった。懲りない男である。

 mixiがようやく復旧したようだ。イライラした人、多かっただろうな。






コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロック雑感あれこれ~今野氏の自殺、バンド・オブ・ホーセズetc

2010-08-08 03:48:42 | 音楽
 旧聞に属するが、今野雄二氏の訃報に衝撃を受けた。遺体発見(2日)の数日前に自殺したという。今野氏はロキシー・ミュージック、トーキング・ヘッズ、ニュー・オーダーらに肩入れし、創造性と想像力、プリミティヴとデジタルの融合に価値を置いて論陣を張った。

 フジロック'10ではロキシーがグリーンステージ2日目のヘッドライナーを務め、ヘッズのDNAを受け継いだバンドが大挙参加したが、今野氏は苗場に足を運ぶことなく召された。癒えることのない孤独と絶望に苛まれていたのだろうか。
 
 奥行きと間口の広さで文化を語ること、時に過剰な思い入れを持つこと……。俺が今野氏に学んだのはこの2点だった。慧眼と先見性に満ちた文化人の死を悼みたい。

 バンド・オブ・ホーセズのシークレットギグに参加した。場所は「スペースゆう」のプラネタリウムである。7番目に受け取った整理券は、実は席番号で、最前列の一番端という最悪の場所に座る羽目になる。開演ぎりぎりの来場者が最高の席をキープするというありえない状況に、俺は〝教育的効果〟を踏まえて抗議した。

 現場を仕切った若い男女2人が、興行の常識をわきまえていないのは明らかだ。打ち上げの席で「キモいオヤジが訳わかんねえこと言ってきたよ」なんて話の流れになっていたら、彼らの会社は生き馬の目を抜く競争に勝ち残れないだろう。

 肝心のライブだが、場所柄を勘案すればアンプラグドになるのは仕方ない。プラネタリウムとロックのコラボは全くの期待外れで、バンドは闇の中でただ演奏していた。メンバーが30分ほどで袖に消えて明かりがつくや、後ろの席の青年が「なめてる」と一言。まさに同感である。

 整理券を求めて並ぶファンの横、メンバーは愛嬌を振りまくことなく素通りしていた。ロッカーの基本はサービス精神で、連中が無名である以上、笑顔で挨拶するとか進んで交流するのは当然ではないか。不手際が目立ったイベントの進行のみならず、違和感を覚えたのは俺だけだろうか。

 彼らの最新作「インフィニット・アームス」はあまりに聴きやすい音だ。俺にとってロックというより睡眠導入剤で、薄めのシガー・ロスといった印象である。ついでに、最近購入したCDについて感想をまとめて記したい。

 NYの新星ドラムスのデビュー作は、バンド名から想像するイメージと異なり、キャッチーな玉手箱だ。ヴァンパイア・ウィークエンドとMGMTのいいとこ取りだが、さすがの俺も流行の音に食傷気味になっている。

 フジロックでスケールの大きさを見せつけたローカル・ネイティブスのデビュー作「ゴリラ・マナー」は、ビートとメロディーの混淆、静と動のバランスも絶妙の快作だった。今後が楽しみなバンドである。
 
 来月に新作が出るマニック・ストリート・プリーチャーズの来日公演のチケット(11月)をゲットした。誠実さとインテリジェンスで比類なきマニックスは、俺の萎んだ魂さえ熱くしてくれるに違いない。ヴァンパイア・ウィークエンド(10月来日)はパスすることにした。グラストンベリー'10のフル映像を見て、CDからのプラスアルファを感じなかったからである。

 ロックファン復帰元年、新鋭を中心にいろいろなバンドのCDを聴いたが、総じて草食系にシフトしている。時には消化不良を起こしそうな濃いバンドにも出会いたい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「パリ20区、僕たちのクラス」~多様性の強みと弱み

2010-08-05 02:51:17 | 映画、ドラマ
 岩波ホールで先日、「パリ20区、僕たちのクラス」(08年、ローラン・カンテ)を見た。日本でいえば中学2、3年に当たるクラスを描いたドキュメンタリータッチの作品で、カメラが校外に出ることはない。

 本作を見る前、いや、見終えてからでもいいが、日本人として留意すべきテーマは二つある。第一は人口減を前提にした将来の移民問題、第二は失われた若者の活力……。両者は底で繋がっていると思う。

 多様性を国に置き換えれば多民族性だが、そこには強みと弱みが相半ばする。最も強みが発揮されるのはサッカーで、最たる例は'98W杯を制したフランスだ。南アで躍進したドイツもゲルマン魂とは無縁の人種構成になっている。ちなみに本作で生徒たちがサッカーについて議論する場面では、各自のアイデンティティーが浮き彫りになっていた。

 多民族国家には格差拡大など様々なマイナス面が、一時的にせよ生じる。異なる価値観、文化、習慣、指向性、宗教をいかに克服し、コンセンサスを形成していくのか……。「パリ20区、僕たちのクラス」は壮大な試みを教室に置き換えて描いている。

 20区は貧困な白人や移民が住む地区らしい。多民族によって構成されたクラスの担任は、白人の国語教師フランソワだ。黒人といってもルーツはマリだったりモロッコだったりで、カリブからの移民の子もいる。俺が白人に一括りしていた中にも東欧系、アルジェリア系、トルコ系の生徒がいるはずだ。アジア系も2人いて、そのうちのひとりである中国系のウェイは、クラスで一番まじめな生徒だが、ビザが切れた母親の強制送還が迫っている。

 フランソワも他の教師同様、悪童たちにお手上げ状態だ。対話を軸にした授業で融和を図ろうとするが、スレイマンの退学問題でも有効な方策を見つけられずに生徒の期待を裏切り、舌禍事件まで起こしてしまう。

 多様性を克服する方策は、徹底した上意下達か、寛容さに基づくコミュニケーションだと思う。フランソワは〝教師〟として一段上から接するが、〝人間〟としての貌を晒すことはなかった。生徒たちはフランソワの優しさに気付いていたはずだが、当人は中途半端な管理者として振る舞ってしまう。パチッとショートせず漏電状態のまま、クラスは学期末を迎えた。

 起承転結はなく、エンターテインメントとは遠い作品だ。翌年もすべて〝未解決〟のまま流れていくことが暗示されている。移民に反対の人は本作に描かれた混乱を見て意を強くするかもしれないが、俺は少年少女の自己主張の強さに羨ましさを覚えた。

 もし、このクラスに日本人の少年がいたら……。先生の言いつけを守る模範生として悪童から疎んじられるだろうが、次第に日本人特有の親和性を発揮してクラスの紐帯になるかもしれない。俺が移民受け入れに期待するのは、〝他者〟との出会いが確実に個を強くするからだ。

 「パリ20区、僕たちのクラス」に描かれた学校の形は、日本と大いに異なる。成績判定会議に生徒代表が参加する場面には驚かされた。自由と民主主義が隅々にまで行き渡っても物事はうまく運ばないことを、本作は示している。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨中のフジロック'10~音楽とピクニックを満喫した日

2010-08-02 03:02:54 | 音楽
 3年ぶりにフジロックに参戦した。今回も初日のみの日帰り強行日程である。単独行の予定が、旧知の女性が同行を申し出る。女子高生風に言うと「チョー雨」で濡れ鼠になりながら、4会場で7バンド――移動中を含めれば9アーティスト――のパフォーマンスを満喫した。

 本数の少ないシャトルバス、リストバンド交換所までの長蛇の列……。主催者の不手際は明らかだが、若者たちは怒るどころか、「ASH、見たかったね。もう1時間前の電車にすればよかった」なんて反省していた。

 越後湯沢駅到着から4時間、ホワイトステージのローカル・ネイティヴスからスタートする。ウエストコースト出身のバンドだが、音はNY派に近い。キャッチーなメロディーとアフロビートが混ざり合い、ハーモニー重視する〝歌心〟も十分だった。

 グリーンステージでミュートマスに度肝を抜かれた。熱くて骨太、泥臭くてリリカルというのが最新作「アーミステス」を聴いた印象だったが、ステージを動き回る奇想天外なライブを展開する。J・P・ベルモンド風の渋いフロントマン、ポール・ミーニーを筆頭に、アヴァンギャルド志向のパフォーマー集団で、シューゲイザーの薫りにEMFを連想した。チャンスがあればもう一度見てみたい。

 ホワイトステージに戻り、ジャガ・ジャジストを見る。夕闇が迫る頃、ダイナミックなアンサンブルが苗場に響き渡る……はずが、豪雨が開放感を削ぎ、音を閉じ込めてしまった気がした。早めに切り上げ、迷いつつ奥へと進む。

 通りかかったフィールド・オブ・ヘヴンで、テイラー・ホーキンスのユニットが演奏していた。歓声とともに後方から人が駆け出したので、まさかデイヴ・グロールの飛び入り……と思ったが、勘違いだった。

 辿り着いたオレンジコートで、ダーティー・プロジェクターズを見る。NY派ではイチ押しで、ライブの素晴らしさは別稿(3月19日)に記したが、彼らもジャガ・ジャジスト同様、雨が災いしたのかもしれない。広い会場へとステップアップする時まで、魔法はとっておけばいい。奏でる音が大自然と融合して化学反応を起こし、プリミティブで祝祭的な空間を現出させる……。そんな瞬間を体感できたら幸いだ。

 次はフィールド・オブ・ヘヴンのサンハウスだ。めんたいロックの先駆けで、30年以上の年月を経て再結成した。同行者は最前列で再会を楽しみ、俺は後方で伝説との一期一会に浸っていた。

 イギー・ポップ風の上半身裸だけでなく、柴山俊之の歌詞にも驚かされた。ルースターズに提供した歌詞から繊細な文学青年と思っていたが、サンハウスの曲の多くは初期ツェッペリンばりのあけすけなセックスソングである。柴山は不良性とナイーブさを併せ持つロッカーなのだろう。ちなみにリードギターは鮎川誠だ。

 グリーンステージへのぬかるんだ山道は、まるでタイムマシンだった。〝ロックの現在形〟MUSEは武道館と位置を変え、最後方でまったり楽しむことにする。バンドが幼鳥から怪鳥に至る過程を〝父性愛〟をもって眺めてきた俺が、今更「史上最高のライブバンド」と〝身内〟を褒めても仕方がない。今回は穿った角度からMUSEを論じる。

 MUSEはTPOに応じてセットリストを変える。日本のファンを〝暴れ系〟と誤解しているのか、グラストンベリー'10の時以上に尖がっていた。草食系の日本の若者は抒情を好む。HPで募ったフェスごとのリクエストで上位を占めた“Bliss”は、今回もなぜか演奏されなかった。

 マシュー・ベラミーとケイト・ハドソンとのゴシップに胡散臭さを覚えた。ケイトの前の恋人A・ロッド(ヤンキース)は、マシューとタイプが全く違う。ケイトはFBIかCIAに因果を含められた〝女工作員〟ではないか。

 MUSEは年間30近くのフェスでヘッドライナーを務め、欧州でのスタジアムツアーをウェンブリー(2日で16万人)で締めくくった後、春の折り返しで北米ツアーを敢行する。〝第二のMUSEを探せ〟が存亡の危機に瀕したロック業界の合言葉で、彼らは遂に米チケットマスターとビルボードのトップアイテムになった。

 アメリカのファンはとりわけ若く熱狂的だ。アリーナに集う2万人が、“Uprising”と“Knights of Cydonia”でマシューのアジテーションに唱和する。「アメリカ当局が9・11を事前に知らなかったはずはない」と断言したマシューは、テロリストの心情を慮った曲(4thアルバム収録)まで作った。

 最新作“Resistance”は、ジョージ・オーウェルの「1984」を下敷きに抵抗を謳うトータルアルバムだ。<俺たちは力尽きたけど、志を継いだ者が世界を変革するだろう>という、白土三平の「カムイ伝」や「忍者武芸帳」に重なる世界観を提示した。

 資本主義独裁主義者にとって、〝危険思想〟が若者に浸透するのは由々しき事態だ。レイジのようにジワジワ締め付ける? それともジョン・レノンのように抹殺する? MUSEにそこまでの影響力はなさそうだから懐柔しようと、ケイトを送り込んだ。効果てきめんで、マシューは次回作で自らの内なる世界と向き合いたいと語っている……。

 なんて妄想に耽っているうち、夜行バスは5時前、新宿西口に着いた。自宅までの距離はグリーンステージからオレンジコートまでと大して変わらない。同行者と別れ、酷使した膝を労わりつつトボトボ歩いて帰った。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする