エイミー・ワインハウス、伊良部秀輝さん,小松左京さんと訃報が相次いだ。煌めきで世を照らした3人の冥福を合わせて祈りたい。俺に縁があったのは小松さんで、世紀をまたぐ頃、ハルキ文庫から復刊された作品群を耽読した。代表作「日本アパッチ族」を近いうちに再読し、当ブログで紹介する予定だ。
高岡蒼甫の<反韓流発言>が波紋を広げている。ドラマ、音楽、食べ物と韓流ブームは日本を覆い尽くす感があるが、なぜか世界トップレベルを誇る映画には波及していない。〝甦ったシェイクスピア〟、〝ヌーベルバーグ以来の衝撃〟と世界中で絶賛された「息もできない」(10年)にしても、興行形態は悲惨なものだった。文化は流行に乗り遅れるのだろうか。
新宿で先日、「大鹿村騒動記」(阪本順治監督、11年)を見た。原田芳雄と企画を進めていた阪本監督が昨年春、シナリオを荒井晴彦氏に依頼した。原田の余命を砂時計で計ったかのように短期間で完成に至った本作は、癒やしと和みをユーモアにくるんだ今年度ベストワン確実の邦画である。
本作は劇中劇の要素が濃く、大鹿村で300年以上続く歌舞伎が縦軸、現在進行中の恋模様が横軸になっている。食堂「ディア・イーター」を経営する善(原田)は村歌舞伎の大スターとして長年、景清を演じてきた。道柴役の貴子(大楠道代)は善の妻だったが、夫の親友である治(岸部一徳)と出奔してしまう。
18年後、2人が公演5日前に大鹿村に帰ってきた。昔のまま? いや、貴子は認知症を患い、記憶が飛んでしまう。こうして騒動の幕は開き、道柴役の一平(佐藤浩市)のケガで、貴子が代役を務めることになる。
「突然炎のごとく」、「冒険者たち」、「明日に向かって撃て!」など、男2人と女1人の奇妙な三角関係を描いた作品は多い。本作もその系譜に連なるとはいえ、曖昧で生ぬるく、だからこそ心地よい。善と治を頻繁に取り違える貴子を、男2人は戸惑いながら受け入れる。形式に囚われない、柔らかくて温かい絆が示される。
本作で原田芳雄の<共演者の魅力を引き出す力>を実感する。主役でありながら、周りも光らせるのだ。治との会話は熟練した漫才コンビのようで、刺々しさより親近感が滲んでいる。佐藤との親子共演になる三国連太郎、石橋蓮司、松たか子ら錚々たる面々が脇を固める中、性同一性障害に悩む雷音(「ディア・イーター」店員)を演じた冨浦智嗣が異彩を放っていた。郵便局員(瑛太)への一目惚れが成就するかはともかく、彼(彼女?)は善たちと触れ合う過程で、自らを解き放つ術を身に付けたのだ。
善と貴子の関係は、景清と道柴にそのまま重なっている。景清は最後まで平家として頼朝に抗うが、道柴は源氏になびいた女という設定である。正気に戻った貴子(道柴)が舞台袖で「許してくれなくてもいいの」と呟くのを受け、善(景清)は決め台詞「仇も恨みも、これまで、これまで」と大向こうを唸らせる。これが本作のハイライトシーンで、舞台がはねた後、少女のように恥じらいつつ善の横に立つ貴子の姿が印象的だった。
原田芳雄は自由に、正直に、寛大に、開放的に、だが、初心を忘れず生きてきたのだろう。自らの生き様と重なる映画が遺作になるなんて、役者冥利に尽きるのではないか。
原田と大楠が共演した「ツイゴイネルワイゼン」(80年、鈴木清順)は、日本映画専門チャンネル「原田芳雄自薦傑作選」のラインアップに入っているはずだ。放映に合わせ、当ブログで記したい。
高岡蒼甫の<反韓流発言>が波紋を広げている。ドラマ、音楽、食べ物と韓流ブームは日本を覆い尽くす感があるが、なぜか世界トップレベルを誇る映画には波及していない。〝甦ったシェイクスピア〟、〝ヌーベルバーグ以来の衝撃〟と世界中で絶賛された「息もできない」(10年)にしても、興行形態は悲惨なものだった。文化は流行に乗り遅れるのだろうか。
新宿で先日、「大鹿村騒動記」(阪本順治監督、11年)を見た。原田芳雄と企画を進めていた阪本監督が昨年春、シナリオを荒井晴彦氏に依頼した。原田の余命を砂時計で計ったかのように短期間で完成に至った本作は、癒やしと和みをユーモアにくるんだ今年度ベストワン確実の邦画である。
本作は劇中劇の要素が濃く、大鹿村で300年以上続く歌舞伎が縦軸、現在進行中の恋模様が横軸になっている。食堂「ディア・イーター」を経営する善(原田)は村歌舞伎の大スターとして長年、景清を演じてきた。道柴役の貴子(大楠道代)は善の妻だったが、夫の親友である治(岸部一徳)と出奔してしまう。
18年後、2人が公演5日前に大鹿村に帰ってきた。昔のまま? いや、貴子は認知症を患い、記憶が飛んでしまう。こうして騒動の幕は開き、道柴役の一平(佐藤浩市)のケガで、貴子が代役を務めることになる。
「突然炎のごとく」、「冒険者たち」、「明日に向かって撃て!」など、男2人と女1人の奇妙な三角関係を描いた作品は多い。本作もその系譜に連なるとはいえ、曖昧で生ぬるく、だからこそ心地よい。善と治を頻繁に取り違える貴子を、男2人は戸惑いながら受け入れる。形式に囚われない、柔らかくて温かい絆が示される。
本作で原田芳雄の<共演者の魅力を引き出す力>を実感する。主役でありながら、周りも光らせるのだ。治との会話は熟練した漫才コンビのようで、刺々しさより親近感が滲んでいる。佐藤との親子共演になる三国連太郎、石橋蓮司、松たか子ら錚々たる面々が脇を固める中、性同一性障害に悩む雷音(「ディア・イーター」店員)を演じた冨浦智嗣が異彩を放っていた。郵便局員(瑛太)への一目惚れが成就するかはともかく、彼(彼女?)は善たちと触れ合う過程で、自らを解き放つ術を身に付けたのだ。
善と貴子の関係は、景清と道柴にそのまま重なっている。景清は最後まで平家として頼朝に抗うが、道柴は源氏になびいた女という設定である。正気に戻った貴子(道柴)が舞台袖で「許してくれなくてもいいの」と呟くのを受け、善(景清)は決め台詞「仇も恨みも、これまで、これまで」と大向こうを唸らせる。これが本作のハイライトシーンで、舞台がはねた後、少女のように恥じらいつつ善の横に立つ貴子の姿が印象的だった。
原田芳雄は自由に、正直に、寛大に、開放的に、だが、初心を忘れず生きてきたのだろう。自らの生き様と重なる映画が遺作になるなんて、役者冥利に尽きるのではないか。
原田と大楠が共演した「ツイゴイネルワイゼン」(80年、鈴木清順)は、日本映画専門チャンネル「原田芳雄自薦傑作選」のラインアップに入っているはずだ。放映に合わせ、当ブログで記したい。