酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「大鹿村騒動記」~原田芳雄の生き様に重なる快作

2011-07-30 07:38:08 | 映画、ドラマ
 エイミー・ワインハウス、伊良部秀輝さん,小松左京さんと訃報が相次いだ。煌めきで世を照らした3人の冥福を合わせて祈りたい。俺に縁があったのは小松さんで、世紀をまたぐ頃、ハルキ文庫から復刊された作品群を耽読した。代表作「日本アパッチ族」を近いうちに再読し、当ブログで紹介する予定だ。

 高岡蒼甫の<反韓流発言>が波紋を広げている。ドラマ、音楽、食べ物と韓流ブームは日本を覆い尽くす感があるが、なぜか世界トップレベルを誇る映画には波及していない。〝甦ったシェイクスピア〟、〝ヌーベルバーグ以来の衝撃〟と世界中で絶賛された「息もできない」(10年)にしても、興行形態は悲惨なものだった。文化は流行に乗り遅れるのだろうか。

 新宿で先日、「大鹿村騒動記」(阪本順治監督、11年)を見た。原田芳雄と企画を進めていた阪本監督が昨年春、シナリオを荒井晴彦氏に依頼した。原田の余命を砂時計で計ったかのように短期間で完成に至った本作は、癒やしと和みをユーモアにくるんだ今年度ベストワン確実の邦画である。 

 本作は劇中劇の要素が濃く、大鹿村で300年以上続く歌舞伎が縦軸、現在進行中の恋模様が横軸になっている。食堂「ディア・イーター」を経営する善(原田)は村歌舞伎の大スターとして長年、景清を演じてきた。道柴役の貴子(大楠道代)は善の妻だったが、夫の親友である治(岸部一徳)と出奔してしまう。

 18年後、2人が公演5日前に大鹿村に帰ってきた。昔のまま? いや、貴子は認知症を患い、記憶が飛んでしまう。こうして騒動の幕は開き、道柴役の一平(佐藤浩市)のケガで、貴子が代役を務めることになる。

 「突然炎のごとく」、「冒険者たち」、「明日に向かって撃て!」など、男2人と女1人の奇妙な三角関係を描いた作品は多い。本作もその系譜に連なるとはいえ、曖昧で生ぬるく、だからこそ心地よい。善と治を頻繁に取り違える貴子を、男2人は戸惑いながら受け入れる。形式に囚われない、柔らかくて温かい絆が示される。

 本作で原田芳雄の<共演者の魅力を引き出す力>を実感する。主役でありながら、周りも光らせるのだ。治との会話は熟練した漫才コンビのようで、刺々しさより親近感が滲んでいる。佐藤との親子共演になる三国連太郎、石橋蓮司、松たか子ら錚々たる面々が脇を固める中、性同一性障害に悩む雷音(「ディア・イーター」店員)を演じた冨浦智嗣が異彩を放っていた。郵便局員(瑛太)への一目惚れが成就するかはともかく、彼(彼女?)は善たちと触れ合う過程で、自らを解き放つ術を身に付けたのだ。

 善と貴子の関係は、景清と道柴にそのまま重なっている。景清は最後まで平家として頼朝に抗うが、道柴は源氏になびいた女という設定である。正気に戻った貴子(道柴)が舞台袖で「許してくれなくてもいいの」と呟くのを受け、善(景清)は決め台詞「仇も恨みも、これまで、これまで」と大向こうを唸らせる。これが本作のハイライトシーンで、舞台がはねた後、少女のように恥じらいつつ善の横に立つ貴子の姿が印象的だった。

 原田芳雄は自由に、正直に、寛大に、開放的に、だが、初心を忘れず生きてきたのだろう。自らの生き様と重なる映画が遺作になるなんて、役者冥利に尽きるのではないか。

 原田と大楠が共演した「ツイゴイネルワイゼン」(80年、鈴木清順)は、日本映画専門チャンネル「原田芳雄自薦傑作選」のラインアップに入っているはずだ。放映に合わせ、当ブログで記したい。

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「老人と鳩」~方南通りに交錯する光と影

2011-07-27 02:43:33 | 戯れ言
 <(原発推進の)〝本籍ワシントン〟 が後任に据えられるのなら、菅首相の逆噴射に期待したい。(中略)脱原発を掲げて解散に打って出れば、俺は一票を投じるだろう>……

 脱電発と切り離せない公務員制度改革や情報公開に消極的な菅首相を信頼しているわけではないが、俺は別稿(6月9日)で以上のように記した。

 「週刊文春」最新号で、2人の味方を見つける。池澤夏樹氏は「ぎりぎりまで居座り、改革を一歩進めてほしい」(引用)と菅擁護を鮮明にし、坂本龍一氏は「菅首相がやっていることは、図らずも誰が原発推進派かをあぶりだすストレステストになっています」と語っていた。

 考え方は似ていても、両氏と俺には、有名無名ということ以上に決定的な差がある。両氏は環境問題全般に造詣が深い<自然派>だが、俺は機能的な都会生活に安らぎを覚える<人工派>だ。俺に脱原発を語る資格があるのか甚だ疑わしい。

 5歳の春、祖父母宅(園部町=現南丹市)から伏見区桃山の公務員官舎に引っ越し、俺を包む光景は一変する。裏手に立ち並ぶ30棟近い無人の団地群を歩いた時、「これが俺の未来だ」と確信した。

 上京して西新宿に佇んだ時、幼い時の感覚が甦った。高層ビル群はまるで墓標のようで、キング・クリムゾンの「エピタフ」を口ずさみつつ、「俺の墓碑銘は無か虚だな」と独りごちた。詩的イメージに浸ってから三十余年、朝は西新宿五丁目駅から大江戸線に乗り、高層ビルに見下ろされながら帰路に就くのが俺の日常だ。
  
 新宿駅を背に方南通りを歩いていくと、損保ジャパン、新宿野村ビル、センタービル、新宿三井ビル、アイランドタワー、新宿住友ビル、ヒルトン東京が視界に入ってくる。ビジネス街に大きな変化はないが、ここ数年、新宿中央公園を超えても高層ビルが次々に完成し、様変わりが著しい。

 徒歩で15分強の中央公園北口から弥生町3丁目のバス停まで、交差する十二社通り、山手通り沿いに見える店を加えて数えたら、スーパー=3軒、コンビミ=8軒、薬局=4軒(大型チェーン店3)、牛丼屋=4軒、中華・エスニック=10軒前後……。その他、洋食系(パブ含む)、弁当屋、和風、飲み屋がひしめいている。

 将棋界御用達の和風レストラン前で、テレビでお馴染みの棋士の顔を見ることもある。有名人といえば、大盛況の立ち飲み屋で経営者のキラー・カーンさんがカウンターに立っている。〝アンドレの足を折った男〟はWWF(現WWE)と週給600万円で契約するトップヒールだった。

 供給過剰に思えるが、入居者、テナントを待つ完成間近の高層ビルも多く、それなりの成算を持っての新規参入だろう。美容室やクリーニング店も目につくが、残念ながら書店がない。WIN5で一発当て、本屋さんにでもなろうかな……。

 俺にとって方南通りの友といえば、缶拾いで生計を立てるホームレス(恐らく)のおじいさんだ。腰は曲がり、いつもブツブツ呟いている。朝だけでなく夜にもすれ違うから、労働時間は極めて長い。そのおじいさんの周りに、鳩が集まっている。米粒やパンくずを与えているからだ。

 光が射さない大都会の底、おじいさんは不可視の存在として生き、地震の被災者のように気遣われることなく死んでいく。凡百の映画では描けない「老人と鳩」の美しいシーンを目の当たりにしながら通り過ぎる俺もまた、罪人のひとりなのだ。
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死を清澄に描いた「BIUTIFUL ビューティフル」

2011-07-24 03:55:57 | 映画、ドラマ
 中村とうようさんが自ら命を絶った。享年79歳である。中村さん率いる「ミュージック・マガジン」は民族音楽にページを割き、〝純ロック〟の「ロッキンオン」と対峙していた。長年ロッキンオン派だった俺だが、ここ数年、嗜好が変化した。他のジャンルと境界線を共有することにロックの可能性を見いだしたからだ。

 アーケイド・ファイア、グリズリー・ベア、ダーティー・プロジェクターズ、そしてPJ・ハーヴェイの最近の作品に、中村さんが見据えた<ロックの未来>が息づいている。奥深く幅広く音楽を理解し、ロックジャーナリズムを確立した巨人の死を悼みたい。

 日比谷で先日、「BIUTIFUL ビューティフル」(10年)を見た。レンタルDVDなどでご覧になる方も多いと思うので、全体的な印象を記したい。

 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは同時進行する複数の物語をピースにし、再構成しながら巨大なジグソーパズルを完成させてきた。共時性をテーマにした「アモーレス・ペロス」(99年)、「バベル」(06年)で世界を瞠目させたイニャリトゥだが、「ビューティフル」では横軸から縦軸に構成を変えた。<過去―現在―未来>を交錯させながら、死の意味を問いかけている。

 主人公ウスバルを演じるハビエル・バルデムの繊細な演技が、本作の肝になっている。舞台はバルセロナだが、名所旧跡の類は映らない。搾取と差別の街で、ウスバルは〝独りヤクザ〟として生計を立てている。

 イニャリトゥは10代の頃、「生きる」(黒沢明)に強い感銘を受けた。<死とは何か、限られた時間を知った者はいかに生きるべきか>と自問し続けたイニャリトゥは、本作で長年の思いを形にした。

 末期ガンで余命2カ月と宣告されたウスバルは、絶望と恐怖を昇華し、死後に希望を見いだそうとする。だが、「死ぬまでにしたい10のこと」(03年)のアンのようにスムーズに事は運ばない。宝物である娘と息子を託すため、別れた妻マランブラとよりを戻そうとするが、葛藤は激しくなるばかりだった。

 俺ぐらいの年(54歳)になると、死は背後で微笑む影になる。俺の理想の死のイメージは濾過だ。<濾紙に人生の汚濁を残し、ピュアーな水がフラスコにひたひた落ちる>……。こんな風に死を迎えられたらビューティフルだが、ウスバルの手は生業で汚れていた。がんに蝕まれながら、人生の汚濁を直視せざるをえない事態に襲われ、罪の意識に苛まれる。

 ウスバルは不法入国の中国人やセネガル人、霊媒師とおぼしき女性と交流し、光が射さない街を闊歩する。<ダークサイド・オブ・バルセロナ>というべき本作の背景には、スペイン現代史の過酷な現実があった。ウスバルの父は60年代、フランコ政権の弾圧を受け、身ごもった母を残して逃れたメキシコで客死したという設定になっている。

 冒頭とラストに登場する若い男は、恐らくウスバルの父だろう。「フクロウは死ぬ時、嘴から毛玉を吐き出す」という台詞が、過去(父)―現在(ウスバル)―未来(娘)の魂の結び目になっていた。旧作と比べ動きは少ないが、重厚で抑制が効き、心の底に沈んでいく作品だった。
 
 イニャリトゥは本作を父に捧げている。奇しくも俺が本作を見たのは父の誕生日(20日)だった。父は公務員時代、変わり者として鳴り響いていた。閑職に追いやられるや役所中庭で日曜大工に励み、仕事関係の警察署では父からの電話を恐れるなど、逸話に事欠かない。スケールの小さい俺を、父はあの世で笑っているだろう。


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怜悧さとちゃめっ気と~悪童レジー・ミラーの魅力

2011-07-21 00:45:23 | スポーツ
 肉牛は端緒に過ぎず、米、野菜、果物、乳製品、魚も既にセシウム汚染の連鎖に組み込まれているはずだ。放射能だけでなく、少子高齢化、貧困率上昇と憂慮すべき事態が同時に進行しているが、<恐るべき非日常>はいつしか<温い日常>と中和している。

 日本の現実を抉るキーワードを一昨日(19日)、整理記者Yさんが教えてくれた。「正常性バイアス」である。悪い変化を感知しないでおこうとする傾向(バイアス)を人間は秘めており、間近に迫った危険を座視し、現実逃避、判断停止に陥ってしまうというものだ。

 Yさんはその日午後、原田芳雄の死に打ちひしがれていた。反骨の演技者の死を心から悼みたい。観賞予定の遺作「大鹿村騒動記」に加え、日本映画専門chの特集「原田芳雄 自薦傑作選」で放映される代表作を紹介するつもりだ。

 夏バテ、なでしこフィーバーに、五十路らしくない迷いの日々を送っている。ブログはネタ切れ状態だが、今回はJスポーツで放映された「バスケットボール~ウイニングタイム前後編」について記したい。レジー・ミラー(インディアナ・ペイサーズ)と宿敵ニックスとの戦いを描いたドキュメンタリーである。レジーが試合終盤に得点を重ねるさまは悪魔憑きで、技術だけでなくトラッシュトーク(挑発的言葉)でも敵を揺さぶった。

 姉のシェリルは米国史上屈指のバスケット選手だ。高校時代までワンオンワンで勝てなかったレジーだが、姉相手にトラッシュトークを磨く。シェリルは「レジーは手の届かない背中のかゆみ。かきたくてもかけず頭にくる」と話していたが、国中の目が注がれる中、レジーの餌食になったのがジョン・スタークス(ニューヨーク・ニックス)だった。

 ニックスの本拠地マジソン・スクエア・ガーデン(MSG)はニューヨーカーにとってバスケの聖地で、スパイク・リー(映画監督)が最前列で試合を盛り上げる。一方のインディアナにとってバスケは〝州技〟で、高校選手権の会場には4万もの観衆が詰め掛ける。大都会のニューヨーク、田園地帯のインディアナ……。ニックスとペイサーズの試合は州のプライドを懸けた戦争で、血が滴るレアなステーキにスパイスを垂らすのがレジーの役割だった。
  
 番組ではMSGでのニックス戦に焦点を絞る。93~94季のカンファレンスファイナル(CF)第5戦で、レジーは第4Qだけで25点を挙げ、大逆転をもたらした。だが、〝ミラータイム〟が認知された試合は、序章に過ぎなかった。

 アリがフォアマンをKOしたキンシャサの奇跡、マンチェスターUがロスタイムの2得点でバイエルンを下した98~99季のチャンピオンズリーグ決勝、コルツが18点のビハインドからペイトリオッツを逆転した06~07季のAFCチャンピオンシップ……。これらの衝撃に匹敵するのが、94~95季のCF第1戦だった。

 第4Q残り18・7秒で、ホームのニックスが105―99とリード。安全圏のはずが、次の5・5秒の間にレジーが3ポイントを2本決めて同点にする。スタークスがフリースロー2本を外すなど敵のミスが重なったが、レジーの連続8点でペイサーズが奇跡の逆転を果たす。

 ニックスの大黒柱だったパトリック・ユーイング、レジーに何度も辛酸を舐めさせられたスタークスが当時を振り返り何度も証言するが、語るうちに笑みがこぼれてくる。世間では宿敵と目されたスパイクとレジーだが、両者には交友があり、意識的に盛り上げていたことも言葉の端々に窺える。悪童と見なされたレジーだが、憎めないキャラクターだったに違いない。

 レジーは怜悧さとちゃめっ気を併せ持つスポーツエンターテイナーで、悪戯っ子のような語り口も楽しかった。疎遠になってしまったNBAに、レジーのような魅力ある個性派はいるのだろうか。

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シャーベッツat赤坂BLITZ~シャープでナイーブな世界に浸る

2011-07-18 06:41:43 | 音楽
 俺は〝みんなと一緒〟が好きではない。震災後の「がんばろう!日本」に乗り切れず、個の重要性を説く小出裕章氏や辺見庸氏の言葉に共感を覚えている。そんなひねくれ者の俺でさえ、なでしこジャパンには胸キュンで、リアルタイムで決勝を観戦する。勝利の瞬間、日本中の〝みんなと一緒〟にガッツポーズをしていた。

 ゴールを〝奇跡的〟に外し続けるアメリカ、耐え忍ぶなでしこ……。120分の死闘は、想像を超えたドラマだった。リードを許しながら追いつくなでしこで、一昔前の日本女性の面影を残す澤の存在感が際立っていた。延長12分の同点ゴールは執念が成せる業だろう。プライドとスピリットを世界に示したなでしこに、心から拍手を送りたい。

 一昨日(16日)、10周年記念ギグ(JCBホール)以来、3年ぶりにシャーベッツのライブに足を運んだ。浅井健一は新たな支持者を着実に獲得しているようで、若者たちが大挙して赤坂BLITZに詰めかけていた。

 ブランキー・ジェット・シティでデビューして以来、浅井はこの20年、様々なユニットで30枚近いアルバムをソングライターとしてリリースしてきた。その都度、ツアーで全国を回り、社長業の傍ら新人バンドをプロデュースする。加えてデザイン展、絵画展の開催、詩集や小説の出版とフル回転の日々だ。

 金属疲労を指摘する声が出るのは当然で、俺も「才能が尽きたかな」と感じたこともあった。そんな不安を一掃したのが、ソリッドで研ぎ澄まされたPONTIACSの1st「ギャラクシー・ヘッド・ミーテイング」と、淡色でダウナーなシャーベッツの新作「フリー」だ。46歳の浅井は〝理想的な老い方〟を提示している。

 水彩画集のような「フリー」を聴き、浅井の創作の秘密に触れた気分になった。浅井は脳裏のスクリーンに映るデザイン、絵、ショートフィルムに、詩とメロディーを重ねているのではないか。「フリー」収録曲「リディアとデイビッド」の詩にイメージが膨らみ、複数の絵が浮かんできだ。浅井が9月に出版する絵本に、「リディアとデイビッド」というタイトルの童話が掲載されていても不思議はない。

 3年前のJCBでのライブは、<サイケデリックなメランコリア>というキュアーへのオマージュがこもったコンセプトが窺えたが、BLITZでは自然体だった。新作「フリー」から8曲が演奏され、代わりに「サリー」、「メリー・ルー」、「シベリア」、「タクシー・ドライバー」といった代表曲がセットリストから外れていた。とはいえ、2回のアンコールを含めた2時間のパフォーマンスは、シャープでナイーブなシャーベッツの世界を余すところなく表現していた。

 俺がシャーベッツに期待するのは、アコースティックセットでのライブだ。シャーベット名義で実質的に浅井のソロといえる1st「セキララ」は、日本語で歌われたアルバムで白眉というべき作品だが、殆ど演奏されない。「セキララ」収録曲を中心に「ナチュラル」、「フリー」からダウナーで繊細な曲をピックアップしたライブを心待ちしている。

 今回実感したのは年齢だ。開演前から3時間弱、立ち尽くした体が悲鳴を上げていた。10月に55歳を迎えるから当然のことである。年内のライブ予定は、震災で延期になった11月のナショナルのみ。来年以降は2階のシルバーシートでおとなしく参加したい。

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「顔のない軍隊」~個別性から普遍性への飛翔

2011-07-15 03:09:00 | 読書
 なでしこジャパンのにわかサポーターになった。結果だけでなく、U17代表とともに〝バルセロナ的〟と評されるなど、プレーの質も絶賛されている。地盤沈下が目立つ日本だが、サッカーの土壌だけは肥沃になりつつあるようだ。

 菅首相の脱原発宣言に、周辺は冷ややかだ。枝野官房長官は「首相の思い」と補足したし、原発推進者の与謝野経済担当相は否定的な発言を繰り返している。〝隠れCIA〟と揶揄されるほど親米派の長島議員も、アンチ脱原発を鮮明にして蠢いている。

 イタリアが国民投票で脱原発に舵を切った時、菅原文太は「脱原発で日独伊三国同盟を」と提案した。なるほどと思いつつ、「もう一度、負ける?」との予感が頭をよぎった。米、英、中国、仏、露からなる原発推進<ABCFR包囲網>は戦前同様、かなり強大だ。スポーツは時に代理戦争の様相を呈するから、なでしこにはぜひ、決勝でアメリカを破ってほしい。

 先日、「顔のない軍隊」(作品社)を読了した。作者のエベリオ・ロセーロはコロンビア出身でガルシア・マルケスの再来と評されるが、謳い文句に惑わされるつもりはない。当のマルケスとバルガス・リョサが絶賛した「ロサリオの鋏」(10年4月24日の稿)は、マヌエル・プイクばりのシャープな台詞に乗って疾走する愛の寓話だった。かつて南米の地に咲き誇ったマジックリアリズムの胞子は風に乗って海を渡り、サルマン・ラシュディらインド系の作家に継承されたのではないか。

 本作の舞台はサン・ホセ村だ。周辺にコカ畑が広がり、政府軍、左翼ゲリラ、パラミリターレス(右派自警団)が麻薬利権を巡って入り乱れる。戦火の村では命の値段が下がる一方で、誘拐が相次いでいる。元教師のイスマエル老の目を通し、悲惨な状況だけでなく、コロンビア人の習性や感性が自嘲とユーモアを交えて語られていく。

 イスマエルの日々の楽しみは、隣人のヘラルディーナと養女グラシエリ-タの姿態を覗き見することだ。教師時代からの趣味だが、理性で欲望を抑えてきた。窃視を楽しむ老人は、ヘラルディーナの酷い最期を目の当たりにし、狂気の淵に追いやられる。

 行政と警察は撤退し、緊迫の度が増していく。知人たちは殺され、連れ添ったオティリアが行方不明になる。仲睦まじくはなかったが、妻の不在でイスマエルは孤独に苛まれ、幻視と幻聴に襲われる。譫妄状態で村を徘徊するイスマエルは、正気の頃は無縁だった聖性に近づいていく。

 「顔のない軍隊」に重なったのは、集団に潜む闇と相互監視を抉った映画「密告」(43年、クルーゾー)、人間の尊厳と不可視の恐怖との闘いを描いた「ペスト」(47年、カミュ)だった。3・11後の日本とサン・ホセ村にも大きな違いはない。行政は機能不全に陥り、情報は意図的に改竄されて報じられている。最大の共通点は、人々が宿命を粛々と受け入れていることだ。

 特殊な状況を描いた「顔のない軍隊」だが、読み進むにつれ壁が壊れていく。物語を個別性から普遍性へと飛翔させることこそ作家の力だと、本作で再認識させられた。



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「奇跡」~世界と出会った少年たち

2011-07-12 01:00:35 | 映画、ドラマ
 先週7日は七夕だった。被災地、とりわけ福島の子供たちがどんな願いを短冊に託したのか検索してみる。「原発がなくなりますように」、「放射能が消えて遊び回れますように」と書いた子供たちは、先生に書き換えを命じられたという。暗澹たる気分になった。

 子供の夢、希望、願いを描いた映画を見た。是枝裕和監督の「奇跡」(11年)である。人間の業、日常の裂け目をテーマに掲げた前作「空気人形」(09年)は不条理なメルヘンだったが、「奇跡」は普遍性を志向したエンターテインメントである。

 壊れた家族が元に戻ればいいのに……。母(大塚寧々)と鹿児島で暮らす航一(前田航基)は、離婚した両親の復縁を切に願っている。福岡で父(オダギリジョー)と暮らす弟龍之介(前田旺志郎)と連絡を取り合ううち、ある計画を思いついた。ちなみに航基と旺志郎は漫才コンビ「まえだまえだ」として活躍する兄弟で、わがままなリーダータイプの航一、気配りできる龍之介を自然体で演じていた。

 九州新幹線の全線開通当日、上下の一番電車がすれ違う瞬間に凄まじいエネルギーが発生し、目撃した者の願いが叶う……。そんな噂に乗った航一と龍之介は、仲間を連れて川尻駅で合流する。7人の冒険は是枝版「スタンド・バイ・ミー」といった趣で、エンドマーク後も寂寥感と喪失感が刺さったままの「誰も知らない」(04年)と異なり、温かな余韻が去らない作品だった。

 父母の離婚の理由は、父の経済力のなさだった。定職を持たずバンドを続ける夫に、妻は愛想を尽かす。航一と同居する祖父(橋爪功)も夢を追い求める菓子職人で、孫のつれない反応に怒ったりする。前半は主人公の兄弟に感情移入できなかったが、物語が進むにつれ距離が縮まっていくのを覚えた。

 父が龍之介にポツリと漏らした「世界」がキーワードだった。世界って何? どうしたら出会えるの? あれこれ思案するうち、航一と龍之介に変化が訪れる。新幹線がすれ違う時、彼らは当初のものと別の願いを叫んでいた。

 冒頭とラストで、航一の目を通した桜島が映し出される。光景は同じだが、航一の心は同じではない。友情を知り、大人たちもまた切なさを抱えていることに気付いたからだ。小さな<我>から、調和すべき<世界>への懸け橋が、おぼろげながら空に浮かんでいた。

 冒頭に記した福島とは大違いで、阿部寛、長澤まさみが演じた先生は生徒の気持ちをしっかり受け止めていた。童心を失わない他の大人たちも〝ルール違反〟の共犯者で、内に秘めたやるせなさと悔いを少年たちに投影していた。タイアップ作品ゆえ微温的だが、絆を問う是枝監督の眼差しを十分に感じた作品だった。

 本作を見た後、少年時代の願いを記憶の底で探ってみたが、何も見つからない。俺の中で以下のような抽象的な夢が像を結んだのは、20代になってからである。

 <名誉、地位、金とは無縁で、社会の片隅で泥池に棲む山椒魚のように、ブクブク泡を立てている>……。

 どうやら俺は、夢を実現したらしい。「少年よ、〝小志〟を抱け」と叫びたくなった。


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俺が生きているうちは死なないで~老化する日本に思うこと

2011-07-09 08:36:57 | 戯れ言
 古川佐賀県知事と岸本玄海町長の〝素性〟を、仕事先の夕刊紙が暴露していた。九電社員(玄海原発PR館館長)を父に持つ古川知事にとって、原発推進は2代にわたる念願だったのだ。岸本町長の実家は玄海原発を米ビツにする岸本組という。「ここまでくると茶番」とその記事は結んでいた。

 〝確信犯〟の2人に比べ、海江田経産相の言動に怯えが窺える。やらせメール事件に関する記者会見で真鍋社長は、メモを手渡されるや主張を変えた。海江田経産相と真鍋社長は操り人形で、薄汚れた〝利権の複合体〟が黒子なのだろう。
 
 3・11以降、原発をめぐる政官財の癒着、利益誘導型の地方自治の実態が次々に明らかになった。変化の兆しを期待したが、逆コースへの風が吹き始めている。少子高齢化に歯止めを掛けられない日本は、肉体だけではなく、精神の老化も著しい。

 3・11は<リセット⇒再スタート>の機会だったが、自浄能力は失われ、誰も新しいテーゼを提示しない。政治の混乱を横目に、霞が関が力を増大させている。象徴的なのが古賀茂明氏(大臣官房付)の現状だ。改革を主張して民主党政権で冷遇され、経産省からは退職を要求されている。

 想像力低下も老化の特徴だ。福島の子供たちの尿からセシウムが検出された。体内被曝は半世紀後の国の成り立ちを危うくする事態だが、政府は基準値を下げようとしない。「ニュースの深層」に出演した山田真氏(小児科医)によると、福島では危険を訴える母親たちの声を封じ込めるようとする動きが露骨になっているという。節電と同様、ファシズムが静かに進行している。

 もう、あかん。日本よ、俺が生きているうちは死なないでくれ……。これが正直な気持ちだ。俺がこの国の死を意識したのは、若者の間で<KY>が流行語になった数年前だ。空気を読むという相互監視の習慣は、奴隷にこそ似つかわしい。若者が逸脱、突破、反抗の特権を放棄した国に待つのは緩やかな死である。

 かく言う俺も、凄いスピードで老化している。体力、気力は萎え、両親から受け継いだ健忘症は惚けの領域に迫りつつある。こんな俺が、周りから、とりわけ女性からどんな風に見えているのか興味があったが、同年齢(54歳)の友人が先日、痛い体験をした。

 会社員時代に獲得した資格と人脈を生かして独立した彼は、同じくバツ1で10歳下のキャリアウーマンと親しくなり、プロポーズする。勝算はあったものの答えは「ノー」で、強烈な言葉でKOされた。彼女いわく「わたし、あなたを介護するつもりはないの」……。

 地位、金、男っぷり、高級マンション、車……。俺にないものを手中に収めている彼でさえ、恋愛対象ではなく要介護予備軍だった。俺の周りには魅力的な女性が多いが、目に見えるプラスポイントが何もない俺など、彼女たちとって〝不可視〟の存在なのだ。このことを自覚し、暴走にブレーキを掛けるしかない。

 俺のような凡人は枯れていければ御の字だが、老化のお手本といえば石川淳だ。日本語の使い手として評価を確立したが、齢を重ねるごとにスト-リーテリングを重視するようになり、65歳で「荒魂」、81歳で「狂風記」を著した。脱皮を繰り返して高みに到達した石川だからこそ、先輩の永井荷風を<進歩も変化もない>と斬る資格があった。石川にとって老いるとは、ポップかつ自由になることだったのか。失敗作も少なからずあるのは、変革者の宿命である。

 ロッカーにとって老化は克服困難の課題だが、浅井健一(46)には感嘆するしかない。ブランキー・ジェット・シティでデビューして以来、20年で28枚のアルバムをソングライターとして発表しているが、金属疲労は感じない。最近の2枚、PONTIACSの「ギャクシー・ヘッド・ミーティング」とシャーベッツの「フリー」では、虚飾と加工を削ぎ落とした生の音が痛く切なく心に響く。来週の赤坂ブリッツが楽しみだ。




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「光の指で触れよ」~再生のために〝正しく壊す〟

2011-07-06 00:12:09 | 読書
 「電力の選択」(全8回、朝日新聞)は、<電力会社の「支配」を解き、自然エネルギーを柱にした新産業を育てなければ、日本は世界の潮流から取り残されかねない>と警鐘を鳴らして連載を結ぶ。環境破壊で名を成す中国が、いつの間にか風力、太陽光発電で世界有数の生産国になっていたことにも驚かされた。

 書店では自然エネルギー関連の本が山積みになっている。公安の監視対象だった(今でも?)小出裕章氏の「原発のウソ」が、右寄りの扶桑社から出版されてベストセラーという奇妙な現象まで起きている。世論はエコを志向しているが、<アメリカ―政官財―地方自治体―メディア―闇社会>が築いた原発癒着の壁は、この国に巨大な影を落としたままだ。

 池澤夏樹は早くから自然エネルギーへの移行を説いていた。別稿(4月15日)で「すばらしい新世界」(00年)について記したが、今回は続編の「光の指で触れよ」(08年)を紹介する。まず別稿の訂正を。主人公の天野林太郎を東電社員と決めつけていたが、続編と合わせて読むと〝東電に風力発電機を搬入する企業の高名な設計者〟が正解だ。

 日本で風力発電が浸透しない理由を長男森介の親友に問われ、「政府にその気がないから。国民にそのための合意がないから」と林太郎は答えた。「原発には厖大な資金を投入しているのに、風力への補助はまことに薄い」と言葉を続け、国策と非国策の格差を嘆いている。

 倦んでいた林太郎に事件が起きた。同僚の美緒に告白されて3年、視察に訪れた福島で、轟く雷鳴に自制を砕かれる。若い美女に懸想されるという幸運に堪えられる男はいないが、父の福永武彦だったら罪の意識と深淵を追求し、異なる結末に林太郎を導いたはずだ。

 池澤に強い敬意を抱く角田光代が本作の解説を担当している。別稿(6月21日)で紹介した角田原作の映画「八日目の蝉」と「光の指で触れよ」は、恐らく底で繋がっている。「八日目の蝉」で希和子と薫は妻子ある男と不倫する。<ともに女性を欲望の対象としか考えない優柔不断で冷酷な男を選んだ>と俺は記したが、二人の男と林太郎の成分は90%変わらない。大きな違いは、林太郎が<正しく壊す術>を身に付けていたことだ。

 妻のアユミも同様だ。夫の恋を知った時、5歳の可南子(愛称キノコ)を連れて欧州へ旅立つ。「すばらしい新世界」で理想の家族として描かれた天野家が、林太郎(東京)、アユミとキノコ(欧州)、森介(新潟の全寮制高校)と離れ離れで暮らすようになる。

 人間とは、夫婦とは、家族とは、教育とは、国家とは……。再生と癒やしに向け、様々な問いかけが提示される。興味深いのは、3・11の3年前に発表された本作に、<日本的システム>の行き詰まりがあらゆる角度で記されている点だ。アムステルダムを訪ねた森介に、アユミは日本社会の不自由さを以下のように話す。

 「(日本では)みんながね、自分と他人の間の距離を測っているの。物差しで。他の人からあんまり離れていけないって、いつも計測している」……。

 林太郎とアユミが遠く離れてオルタナティヴな生き方を模索するうち、正しく壊れた家族は同じ未来を共有するようになる。自然との共生、既成の家族を超えるコミュニティーという両親の志向を森介も共有し、天野家は大地に深く根付いていく。

 別稿(6月21日)でも記したが、<正しく愛すること≒正しく壊すこと>だと思う。正しく壊せば再生の道は開ける。現在の日本が抱える最大の問題は、原発癒着の壁を正しく壊せないことではないか……。

 などと偉そうに書いたが、悲しいことに俺自身には壊すものはない。これから築けばいいって? 気力も体力も衰えた今、徒労に終わるのは確実だ。



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「ブラック・スワン」が抉る表現者の孤独と狂気

2011-07-03 03:01:49 | 映画、ドラマ
 東京電力は<原発抜きでも電力供給は大丈夫>とのデータを公表していたが、3・11以降、真実は塗り潰される。節電がいつしか〝義務〟になり、クーラーをガンガン使えば非国民呼ばわりされそうだ。

 生存権と言論の自由の確立、闇世界を含めた癒着からの解放、原発マフィアからの独立……。脱原発は決して<ワンイシュー>ではなく、この国の構造に深く関わり、格差と貧困ともリンクしている。次期総選挙では各党がマニフェストの第一に据え、国民に信を問うべきだ。

 節電キャンペーンを主導するNHKだけでなく、動きが怪しいメディアも多い。最新号の「週刊文春」と「週刊新潮」は、口裏を合わせたかのように〝孫正義叩き〟に打って出た。脱原発を謳う橋下徹大阪府知事も、遠からずターゲットにされるだろう。

 新宿で先日、「ブラック・スワン」(10年、ダーレン・アロノフスキー監督)を見た。緊張が全編途切れないという点で、「告白」(10年、中村哲也監督)に匹敵する作品だった。
 
 設定と切り口は異なるが、スランプの脚本家を描いた「バートン・フィンク」(91年、ジョエル・コーエン監督)が重なった。孤独、狂気、周囲との隔絶に苛まれつつ表現を志している人は、「ブラック・スワン」に深く共感するはずだ。

 舞台はニューヨークのバレエ団だ。「白鳥の湖」上演に当たり、演出家のトマ(ヴァンサント・カッスル)はニナ(ナタリー・ポートマン)をプリマに選ぶ。もう一人の候補は新人のリリー(ミラ・クニス)だった。「ブラック・スワン」はこの3人を軸にした秀逸な<劇中劇>で、「白鳥の湖」のストーリーは現実に浸潤し、冷たい舌になってニナを舐め尽くす。

 フィギュアスケートに無関心ゆえ、パブリックイメージで語るしかないが、ニナを浅田真央、リリーを安藤美姫に置き換えれば両者の違いが際立ってくる。宿命に弄ばれる清純な白鳥、悪魔にも魂を売る妖艶な黒鳥……。白鳥だけならニナ、黒鳥だけならリリーが適任だが、一人二役のプリマはアンビバレントな個性を演じ切らなければならない。

 性的な意味も含めたトマの特訓、奔放さに裏打ちされたリリーの豊かな表現力、過大な期待を掛ける母との確執、一線を退くことになったジル(ウィノナ・ライダー)の絶望……。繊細なニナは「役に潰される」という母の言葉そのまま狂気に憑かれ、現実と幻を行き来するようになる。

 詳細に描かれるニナの肉体の軋みが、本作の肝かもしれない。爪先立ちを繰り返す足首は悲鳴を上げ、指は酷く変形している。無意識のうちに引っ掻いた背中から血が滲んでいる。肉体と精神に治癒不能の痛みを抱えたニナにとり、ラストは唯一の自己救済の手段だった。

 「ブラック・スワン」以上に表現者の精神と肉体を残酷に抉っていたのは「鬼の詩」(75年、野村鐡太郎監督)だ。落語家の桂米喬をモデルにした小説(藤本義一原作)の映画化で、ホラーを超える凄惨で鬼気迫る映像に、俺は何度も目を背けていた。

 弱小ブロガーの俺でさえ、テーマをひねり出せない時や筆が進まない時、軽度の狂気に襲われることがある。分野が何であれ、世界を瞠目させる表現者の苦悩が凡人の想像を超えたものであることを、「ブラック・スワン」は示している。


コメント (4)
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