酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

ルー・リードが切り開いたロックの新地平

2013-10-29 23:38:21 | 音楽
 アサンジ(ウィキリークス創設者)とスノーデンは正しかった。「米情報機関、メルケル首相の携帯を盗聴」という見出しが27日付の独各紙に躍り、怒りが世界を駆け巡る。盗聴は02年から始まり、オバマ大統領公認の下、他のEC諸国首脳にも及んでいたという。秘密保護法成立に邁進する安倍首相の携帯もとっくに盗聴され、公私の秘密はワシントンにだだ漏れになっているはずだ。

 アムネスティ・インターナショナルとヒューマン・ライツ・ウォッチが米軍の無人機による攻撃を国際法違反と告発し、戦争犯罪に当たる可能性を指摘した。国連の潘基文事務総長も苦言を呈するなど、国際社会におけるアメリカの威信失墜は甚だしい。それでも〝アメリカの正義〟にしがみ付く、ナショナリズムを失くした国の行く末を案じている。

 「相変わらず反米的だな」とあきれるムキもいるだろうが、俺が異を唱えるのは、アメリカを、そして世界を牛耳る<1%>である。<99%>は善良な人々で、その中には社会に、そして自身に鋭い刃を向ける者もいる。その代表格といえるルー・リードが亡くなった。享年71歳である。

 <ある世代の前衛は、次の世代のメーンストリームになる>というロック界の格言を証明したのがルー・リードだ。R・I・P、即ちレスト・イン・ピース(安らかに眠れ)……。アンダーテイカーの決め台詞と思っていたが、一般的に用いられているようで、多くのロッカーがこのフレーズで哀悼の意を表している。

 絆が深かったNY派のジョン・ケイルやデヴィッド・バーンを筆頭に、列挙していけばページが埋まってしまうが、中には気の利いた弔辞もある。「ワイルドサイドを歩け」にちなみ、同世代のザ・フーはHPで「これからは穏やかなサイドを歩け」と記していた。意外なようで当然とも思えるのがモリッシーとの交遊だ。モリッシーはファンサイトに、リードと肩を組んだツーショットと合わせ、追悼文を投稿している。

 誰よりも打ちひしがれているのは、異端視されながら共に新地平を切り開いた戦友のデヴィッド・ボウイだろう。ヘロイン中毒などで苦境に陥ったリードを、ボウイは陰に日向に支えていた。リードが「ベルリン」を発表したのは73年だが、ボウイは3年後にベルリンに拠点を移し、「ロウ」と「ヒーローズ」を制作している。

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの1st「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ」は67年3月に発表された。アンディ・ウォーホルのジャケットで有名な本作だが、セールス的には大失敗だった。67年といえばドアーズの「ハートに火をつけて」(1月)、ビートルズの「サージェント・ペパーズ」(6月)が世界に衝撃を与えた。この3枚により、ロックは無限の可能性を秘めたアートになり、歌詞は詩へと飛翔する。

 リードのキャリアで一枚選ぶなら「ベルリン」だ。リード自身が封印を解き、曲順通り演奏したNYでの初演を収録した「ルー・リード/ベルリン」(07年)は感動的なドキュメンタリーだった(08年11月13日の稿)。

 多くの人が追悼のコメントを記しているが、渋谷陽一氏(ロッキンオン社長)のブログは興味深い内容だった。ぎこちない雰囲気でインタビューを終えた翌日、リードは関係者を通して海苔を渋谷氏に贈る。「このアルバムは日本の海苔のようなもの。あのジャーナリストなら理解してくれる」とのコメント付きだったが、渋谷氏にとってリードの真意は謎のままという。

 ロックは形式ではなく、精神であり魂である……。これこそが、リードが後生に遺したことだった。冥福を祈るだけでなく、現在のロッカーの中に、リードの高邁なDNAを見つけていきたい。
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「ダイナマイトどんどん」~爆発するエンターテインメント

2013-10-26 21:39:23 | 戯れ言
 仕事先の夕刊紙の記事に目が点になった。自民党総裁選(昨年9月)時、山本学が同窓(成蹊高校)のよしみで、「安倍晋三総理大臣を求める有志の会」の発起人を務めていたという。山本学の叔父は左派で知られた山本薩夫監督で、当人も共産党を応援するなど、安倍首相とは対極に位置していたはずである。

 高倉健の文化勲章に違和感はないが、辺見庸は数年前、天皇制ヒエラルヒーに取り込まれ勲章や褒章に嬉々とする映画関係者に、「あなたが表現した思想信条はまやかしだったのか」と問い掛けていた。新藤兼人の文化勲章を筆頭に、あの大島渚まで紫綬褒章を受章している。今回記す岡本喜八も例外ではない。ちなみに杉村春子は、筋を通して文化勲章を辞退した。

 「地獄で何が悪い」(10月5日の稿)で、俺は以下のように記した。

 <(「地獄で――」は)野球を映画に置き換えた「ダイナマイトどんどん」(78年、岡本喜八)の21世紀版かと思ったが、予定調和的な落としどころを弁えた岡本と異なり、園は荒々しく限界を突き破る>……

 ヤクザの抗争を背景に据えた「地獄で――」が終盤に差し掛かった時、「ダイナマイトどんどん」が重なったが、両監督の個性の違いもあり、全く異なる結末になった。折しも「ダイナマイトどんどん」が日本映画専門チャンネルで放送されたので録画した。

 本作はヤクザ映画のパロディーで、抗争事件が今も頻発し、野球人気が根強い小倉を舞台にしている。ヤクザ映画へのオマージュがちりばめられた抱腹絶倒のエンターテインメントだ。抗争収拾に向け、警察とGHQが協力して野球大会を開催するという荒唐無稽な設定だが、俺にとって本作は、「フィールド・オブ・ドリームス」と並ぶ野球映画の金字塔だ。

 主演は菅原文太(遠賀川の加助)で、嵐寛十郎が惚けた岡源組親分、金子信雄が敵対する橋伝組組長を演じている。任侠を貫く時代遅れの岡源組、経済ヤクザの橋伝組が、野球で雌雄を決するのだ。タイトルは岡源組のチーム「ダイナマイツ」にちなんでいる。金子の憎々しい演技は「仁義なき戦い」シリーズそのままで、橋伝組は奸計を巡らせて助っ人を掻き集め、素人集団の岡源組を追いつめていく。

 フランキー堺がダイナマイツを指揮する伝説の五味投手、田中邦衛が酒仙投手、藤岡琢也が警察署長、岸田秀が野球賭博を仕切る橋伝組代貸しを演じるなど、錚々たる面々が脇を固めている。野球と恋で加助のライバルになるのは、元ノンプロ投手の銀次(北大路欣也)だ。強面で心の底は見せない銀次だが、ラストで侠気を発揮する。痛快なストーリーは申し分ないが、キャスティングの妙が本作の肝かもしれない。

 男臭い作品に花を添えるのがお仙を演じる宮下順子で、加助、銀次、お仙のストイックな三角関係は任侠映画独特の美学を表している。赤い傘で佇むお仙が印象的で、藤純子の主演作からヒントを得たのだろう。宮下の代表作は翌年(79年)の「赫い髪の女」で、当時も日活ポルノのトップスターだったが、本作では清楚で耐える女を演じていた。加助と留吉(小島秀哉)の決死の斬り込みは、鶴田浩二や高倉健が大暴れしたシーンを彷彿させる。

 岡本は日本で最も戦争に拘った監督だ。「日本でいちばん長い日」、「激動の昭和史 沖縄決戦」など俯瞰の目で描いた大作から、切り口が鋭い「肉弾」、中国戦線を舞台にした「独立愚連隊」シリーズなど、戦争を描いた岡本作品は数多い。本作では五味の台詞に戦争への批判が込められていた。

 当初は野球を〝ガキの遊び〟と見做していた加助だが、次第に魅せられていく。ガキの頃は野球を最大の楽しみにしていた俺はといえばこの10年、クライマックスだけチャンネルを合わせるにわかファンになってしまった。当分の間は、日本シリーズとワールドシリーズを堪能することにする。

 最後に、天皇賞の予想を。強い先行馬の存在はレースを盛り上げる。逃げる⑪トウケイヘイローを⑨ジェンティルドンナと⑥エイシンフラッシュが早めに捕まえにいけば、無欲の差し馬が台頭する可能性も十分だ。その候補と考えているのが⑦ジャスタウェイと⑰ヴェルデグリーンで、この両馬を絡めて馬券を買うつもりでいる。
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フレーミング・リップスの濃密なイリュージョンに酔う

2013-10-23 23:14:13 | 音楽
 中国ではPM2・5の数値が計測不能の状態に達している。翻って日本では台風の影響もあり、福島第1原発から高濃度の汚染水が海に流出した。ともに深刻な事態だが、蔓延する〝沈黙という狂気〟に冒された俺は、以前ほど怒りを覚えなくなった。不感症から脱出するためには刺激が必要だ。〝日本を変える最後の希望〟と当ブログで記してきた緑の党に参加するのも、ひとつの手かもしれない。

 前稿にコメント&トラックバックを頂いたBLOG BLUSさんは先月末、緑の党の定期総会に足を運んだ。その時の感想を読むと、彼らはまどろこしいほど民主的ルールを遵守しているようだ。「民主主義国家ではすべての人々は活動家でなければならない」というマイケル・ムーアの言葉は的を射ている。民主主義とは極めて面倒くさいもので、市民が手順を放棄すれば、権力によるコントロールが待ち受けている。

 昨日(22日)、フレーミング・リップスを赤坂ブリッツで見た。キャリアの長いバンドゆえ、30~40代のファンも多かったが、恐らく俺(57歳)が最年長だろう。3年前は訳がわからないうちに終わったが、今回は新作を中心にCDを聴き込み、Youtubeで映像をチェックして臨んだ。

 前座(ミイラズ)が30分弱で下がった後、セッティングが始まる。何とウェイン・コインが姿を見せ、スタッフの作業を見守り、マイクをチェックしていた。ありえない光景だが、そこは気さくなウェインのこと、自然体で歓声に応えていた。

 ウェインは新作「ザ・テラー」について、「遠い未来に作られた宗教音楽」と評していたが、スモークが焚かれ、瞑想にピッタリな妖しい雰囲気が漂うこと10分弱、サイケデリックな色彩が爆発する。デヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」のイントロで、祝祭的でマジカルなライブがスタートした。

 新作からの曲ではステージが暗転し、ウェインのシルエットか影法師になって揺れる。以前の曲ではウェインの表情が照明でくっきり浮かぶ。印象的なコントラストにバンドの意図が窺えた。覚醒と麻痺が交錯する疑似トリップ体験で、麻薬が解禁されている欧米なら、煙が朦々とフロアに立ちこめたかもしれない。

 同期生として米インディーシーンを牽引してきたソニック・ユースは2年前、サーストン-とキムの離婚により活動を停止した。ソニックスとリップスに共通するのはボアダムズとの交流で、ソニックスは来日時(07年)、ボアダムズと共演している。リップスは昨日、ボアダムズのヨシミについて歌った“Yoshimi Battles the Pink Robots”(アルバムタイトル曲)をセットリストに加えていた。

 メロディーとノイズ、開放感と閉塞感、浮揚感と下降感覚、前衛とエンターテインメント……。数々のアンビバレンツを内包するのがリップスの魅力で、ウェインの囁きが内側から聴こえているかのように錯覚する。光と闇が交錯する濃密なイリュージョンに陶然とし、時が経つのを忘れた。

 アンコール前、スクリーンに「愛」の文字が点滅しながら踊っていた。俺の口をついて出れば「愛」は嘘っぽく響くが、リップスが表現しているのは、限りなく広くて深い純粋な「愛」である。ウェインの優しく潤んだ表情からも、ファンへの強い思いが窺える。

 パティ・スミスとデヴィッド・ボウイは66歳、ロバート・スミス(キュアー)とモリッシーは54歳、そしてウェインは52歳……。超天才の彼らと比べても仕方がないが、超凡人である俺も彼らを見習い、少しは自分を磨いて老いたいとしみじみ思う。リップスの次の来日が3年後だとしたら、俺は還暦を過ぎている。元気だったら、きっと足を運ぶだろう。
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「猫を抱いて象と泳ぐ」~寓意に満ちた小宇宙

2013-10-20 22:49:48 | 読書
 京都で親戚宅(寺)に泊まったことは前稿に記した通りだが、そこで〝老いの理想形〟を見つけた。86歳の叔母である。清掃、木々花々の手入れ、草むしりなど寺の雑用をテキパキこなし、1時間のウオーキングを日課にしている。話題も豊富で、「半沢直樹」と「あまちゃん」について熱く語り、魚や野菜の放射能汚染を心配していた。

 驚かされたのは読書家ぶりである。浅田次郎や五木寛之のファンだが、新聞広告で気になった新刊を、孫に頼んでアマゾンで購入している。帰省時には村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読み進めていた。失礼を承知で「理解できる?」と聞くと、叔母は当然といった表情を浮かべる。早い時期(80年代後半)に離れた俺にはわからないが、純文学の読み手ではない高齢者をも魅了するのが村上の筆力なのだろう。

 僭越ながら、小川洋子の「人質の朗読会」(11年)を薦めておいた。ちなみに俺が帰省時に読んでいたのはチェスをテーマに寓意に満ちた「猫を抱いて象と泳ぐ」(09年、文春文庫)だった。

 主人公はリトル・アリューヒン(以下L・A)と呼ばれるチェスの達人だ。アリューヒン(1946年没)は実在したグランドマスターで、創造的な指し手から「盤上の詩人」と謳われた。L・Aは11歳で自らの意志により成長と止めたという設定で、「ブリキの太鼓」(59年、ギュンター・グラス)にインスパイアされた部分もあるだろう。L・Aはチェスを指し続けるため、体を子供のままにしておかねばならなかった。

 L・Aは誕生時、上下の唇が繋がっていた。応急手術が施され、切り離した唇に脛の皮膚が移植される。剃っても剃っても毛が生えてくる唇は耳目を集め、自ずと無口になったL・Aに、現実世界での友達はいない。L・Aは寝床で、家の壁の隙間から抜け出せなくなくなった少女ミイラ、大きくなり過ぎてデパート屋上で一生を終えた象のインディラに話しかける。

 孤独で才能に溢れたL・Aと社会を結びつけたのはチェスで、バス会社のの管理人で、廃バスで暮らすマスターに手ほどきを受けるようになる。マスターはインディラの暗喩で、バスの出入りにも苦労するほど太っている。マスターとL・Aの対局を、ボーン(駒のひとつ)と名付けられた猫が見守っていた。

 盤下でないと妙手が浮かばないL・Aは、表舞台で活躍する機会を諦め、リトル・アリューヒンと名付けられた人形のチェス盤の下に身を潜めて強豪たちと対峙する。手助けするスリムなマジシャンの娘を、L・Aはミイラと呼んだ。ミイラはL・Aにとって盤上に交錯する夢で、2人の絆が物語の軸に据えられる。定跡やルールといった形への帰依、そして限りなき自由への希求のアンビバレンツが調和し、宇宙のような奥行きと広がりを提示していた。

 人前に姿を現さないL・Aは、本家にちなみ「盤下の詩人」と呼ばれるようになる。チェスを通じて知り合った人々がL・Aに語りかける言葉も、誌的な煌めきと哲学的な響きに満ちていた。

 <チェス盤に描かれる詩は、白と黒、両方の駒が動いて初めて完成する>(マスター)
 <チェス盤の上では、強いものより、善なるものの方が価値が高い>(マスター)
 <自分自身から解放されて、勝ちたいという気持ちさえも超越して、チェスの宇宙を自由に旅する>(老婆令嬢)
 <チェス盤に現れ出ることは、人間の言葉では説明不可能。愚かな口で自分について語るなんて、せっかくのチェス盤に落書きするようなものだ>(キャリーバッグを持つ老人)

 本作だけでなく、小川は欠落の哀しみと喪失の痛みを、自由への起点として描き、成功とは縁遠いささやかな人生に温かい視線が注ぐ。だからこそ読了後も余韻は去らず、優しくなったような気分になれる。

 マスターはL・Aに「チェスは、人間とは何かを暗示する鏡なんだ」と話し、哲学、情緒、教養、品性のすべてがチェスに表れると説く。チェスに似た将棋はどうかというと、現状は理と知を競う脳内格闘技といっていい。チェスでは名人がコンピューターに敗れた。いずれ将棋も同じ運命を辿るだろう。今こそ期待するのは、勝ち負けを超越し、詩やロマンを盤上で表現する棋士の登場だ。
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健康が一番~京都で老いを実感する

2013-10-17 23:22:35 | 戯れ言
 京都で一昨日(15日)、57歳の誕生日を迎えた。俺程度の能力と人格でいまだ東京砂漠を彷徨っていられるのも、悪運と周囲の寛大さのおかげだ。とはいえ、心身と頭の衰えは隠せず、辛うじて決壊を食い止める日々が続く。当ブログについて、忘備録、不善を成さぬためのストッパー(更新は時間を食う)、遺書代わりと書いてきたが、最近はボケ防止の比重が高まってきた。

 俺が今、理想の人生として憧れているのが、古今亭志ん生とジョゼ・サラマーゴだ。自業自得といえぬこともないが、志ん生がブレークしたのは57歳の頃である。サラマーゴは60歳前後で本格的に小説に取り組んだという遅咲きながら、78歳でノーベル文学賞を受賞した。いずれにせよ、凡人の俺には別次元だが……。

 親戚の寺に泊めてもらい、徒歩十数分の母が入居するケアハウスを日々訪れた。環境の変化に慣れ、友人を見つけた母が面白い話をしていた。数組のカップルが仲良く寄り添っていると聞き、「その手があるのか」と閃く。ジジイになった俺が同様の施設に入居し、おばあちゃんの人気者になるには、まず健康でなければならない。終の住み処でひと花を咲かせるという目標に向かって節制してみるか。

 年金が1万6000円減額されたことに母は怒っていた。俺が東京で見聞する出来事をあれこれ話し、「みんな苦しんでるよ」と話しても納得しない。大企業の非情ないじめやリストラ、解雇特区による社員のフリーター化、年収100万時代……。地獄の蓋は開いているのに、社会を支配しているのは〝沈黙という狂気〟だ。母の率直な怒りがむしろ新鮮だった。

 親戚宅を辞し、1泊2日で京都観光を楽しんだ。初日(16日)は嵯峨嵐山で、清涼寺、祇王寺、化野念仏寺、常寂光寺、天龍寺を訪ねたが、観光客はまばらだった。台風18号による浸水から復旧していたが、伊豆大島に深刻な傷痕を残した26号の影響で、京都も朝まで雨が降っていた。多くの方が観光を控え、混んでいなかった分、霊的な荘厳さを感じることができた.

 念仏寺に掲げられていた<俗世間つもり違い十カ条>を以下に記す。

一高いつもりで低いのは教養
二低いつもりで高いのが気位
三深いつもりで浅いのは知識
四浅いつもりで深いのが欲
五厚いつもりで薄いのは人情
六薄いつもりで厚いのが面の皮
七強いつもりで弱いのは根性
八弱いつもりで強いのが我
九多いつもりで少ないのは分別
十少ないつもりで多いのが無駄

 残念ながら、俺は全部当てはまっている。

 きょう17日は清水寺、高台寺、銀閣寺を回った。知名度は低いが、高台寺は各所にガイドを配置し、少ない観光客に故事来歴を説明している。その姿勢に好感を覚えた。その後、今出川通りを歩き、ノスタルジックな気分になった。観光地にも魅力はあるが、俺が惹かれるのは街並みの方である。

 今回の帰省で感じたのは健康の大切さだ。坂と階段がつきものの観光に不可欠なのも健康である。節制を本気で考えている。

 最後に、枠順が確定した菊花賞の予想を。本命は実績から③エピファネイアだが、⑯アドマイヤスピカに注目している。この2頭に⑭サトノノブレス、⑮ユールシンギングを絡めて馬券を買う予定だ。
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ボウイ、キュアー、マニックス~ロックイコンたちの現在

2013-10-12 10:31:37 | 音楽
 これから京都に帰省する。次回の更新は早くても17日か。

 前回の枕で、自身の〝壊れっぷり〟を記したが、ブログの内容も同様だ。以前の稿を読み返し、「俺って、意外に凄かったな」と感心することしきりだ。更新を重ねれば進歩するはずだが、質は明らかに劣化している。これも年のせいにしておこう。

 今回は俺にとってのロックイコンたちの現在を綴りたい。まずはデヴィッド・ボウイから。英国の伝統ある博物館で開催された「ボウイ展」には空前の来場者が訪れたという。軌を一にしてBBCが制作した「ボウイ、5つの時代」と合わせ、WOWOWは5本のライブ映像を放映した。

 上記のドキュメンタリーでは作曲家、詩人、サウンドクリエイターとしてのボウイに焦点を当てていた。「スペイス・オディティ」のレコーディングに参加したリック・ウェイクマンは、「斬新なコード進行に衝撃を受け、ピアニスト冥利に尽きると感じた」と語っていた。ブライアン・イーノやロバート・フィリップらの証言も興味深い。

 <虚>を演じ続けたボウイの<実>を垣間見たのは「戦場のメリークリスマス」(83年、大島渚監督)だった。セリウズ少佐を演じたボウイの贖罪を込めたモノローグは、自身の半生と重なる部分が多かった。ボウイは芥川龍之介のように、いずれ訪れる狂気を恐れていたのではないか。

 ライブ映像のうち、「リアリティ・ツアー」(03年、ダブリン)が出色だった。過剰な演出もなく、56歳当時の素のボウイが自然体でステージに立っている。あらゆる点で壊れている俺と比べ、何と美しい56歳だろうとため息が出る。セットリストの中心は60~70年代の代表曲だった。俺はボウイの笑顔に〝超越者の傲慢さ〟を感じていたが、「リアリティ・ツアー」で浮かべていたのは、ファンへの感謝、音楽への愛、仲間への信頼に基づいた人間ボウイの素直な笑みといえる。若くして神に祭り上げられたボウイは、80年代に聖衣を脱ぎ捨て、90年代以降は崇高な意志を持つ人間になった。

 ロバート・スミス(キュアー)はボウイと親交が深い。そのキュアーの'13フジロックにおけるパフォーマンスがフジ系のスカパーでオンエアされた。内容に納得がいかなかったのは当然で、そもそも3時間のライブを70分に短縮することに無理がある。ダークでヘビーな「ポルノグラフィ」収録曲や初期のヒット曲はカットされていた。

 キュアーとは壮大な迷路、屹立する蜃気楼で、ロバートが愛読するカフカや安部公房の世界に近い。UKニューウェーヴの代表格でありながら、ナイン・インチ・ネイルズ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、グリーン・デイらUSオルタナ/ポストパンク勢から絶大な支持を得ている。フェス仕様で演奏時間が短くなっているバンドには、3時間は当たり前というキュアーの〝ファン愛〟を見習ってほしい。

 マニック・ストリート・プリーチャーズの新作「リワインド・ザ・フィルム」はアコースティックかつ静謐で、憂いと郷愁を秘め、繊細で恬淡とした水墨画のような作品だ。♯6「東京スカイライン」、♯8「大地のように神聖なもの」と日本をイメージした曲が収録されている。「東京スカイライン」の歌詞をライナーノーツ(江口研一対訳)から抜粋する。

 ♪灼熱の太陽の下 たった一人で迷子に 東京の街をさまよい歩き 異邦人感はかなり楽しい なぜかここは第2の故郷のよう 東京のスカイラインを夢見て 空虚さと静寂が懐かしい ノン=コミュニケーションを求める全てが楽しく ロスト・イン・トランスレーション……

 「大地のように神聖なもの」では♪日本の春のように美しく 君の安心で力強い手のようにやさしく……と歌っている。マニックスが春に来日した記憶はないが、読書家の彼らのこと、小説を読んで桜が咲き誇る光景を脳裏に浮かべていたのかもしれない。マニックスは俺にとって、内面を浄める濾紙のような存在だ。近いうちに来日し、新作収録曲をアンプラグドで聴かせてほしい。

 今回紹介したイコンたちは、人間の内面や社会と対峙し、優れた作品を世に問うてきた。彼らを筆頭に、還暦間近の俺にも鑑賞に堪えるアーティストは多い。欧米では、いや恐らく日本でも、音楽と詩の才能に恵まれた若者がバンドを結成し、ロックスターを目指す。アート、表現としてロックの質が向上しているのは当然なのだ。
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「顔のない裸体たち」~ネットの海を漂流する男と女

2013-10-10 20:59:12 | 読書
 昨日朝、出勤間際に定期入れが定位置にないことに気付く。キャッシュカード、クレジットカード、パスモ、健康保険証、各種ポイントカードに現金と、必要なものが全て入っているから、腑抜けの気分で部屋を出た。

 前夜訪れたコンビニ2軒に電話したが、預かっていないという。カード会社と警察に届け出ようとした刹那、記憶が甦った。夜9時半に定期入れから名刺を取り出し、電話したことを思い出したのだ。帰宅すると、部屋にあった。予想と少し違った場所に……。

 この国は壊れつつあると当ブログで嘆いているが、俺自身の崩壊の方がより深刻だ。血糖値は高いし、膝、腰、肩とあちこち痛い。物忘れやボケだけでなく、解離性障害に似た感覚にしばしば襲われる。父は69歳で死んだが、今の俺の年齢(もうすぐ57歳)の頃、バリバリ稼ぎ、遊んでいた。俺は70の坂を越せそうもない。-

 平野啓一郎の「顔のない裸体たち」(06年、新潮文庫)を読了した。三鷹で起きた事件と重なる部分もあるので、リンクさせながら以下に綴る。本作、そして本作を下敷きにした「決壊」(08年)で、平野はネットという檻で増殖し暴走する狂気を提示した。「決壊」については別稿で、以下のように記している。

 <「決壊」における悪魔は、残虐な行為の主体というより、悪意を効率的に伝播して蔓延させる媒体なのかもしれない>……。

 ちなみに、「顔のない――」に登場するのは悪魔もどきだが、三鷹の事件で加害者(池永容疑者)は一線を越えてしまった。本作の2人の主人公は30過ぎで、交際サイトで知り合う。中学教師の吉田希美子と地方公務員の片原盈で、ハンドルネームはミッキーとミッチーだ。

 2人の共通点は存在感が希薄なことだ。希美子について作者は、<彼女は何処か、彼女自身というよりも、彼女を写した写真に似ていた>と記している。巨乳の持ち主だが、顔立ちが地味で、異性を惹きつけることはなかった。一方の盈は、衝動と闘っていることが透けて見え、同性からも異性からも避けられていた。

 池永容疑者と被害者はフェイスブックで知り合った。作中の2人と同様、<ネット恋愛>に分類されるかもしれないが、フェイスブックは透明性が高いツールだから、匿名性の強い他のSNSと同一に論じることに抵抗を持つ人はいるだろう。

 希美子と盈は出会った夜、肉体関係を持つ。盈は女性に対して支配的で、奥手の希美子を思いのまま扱う。〝三島の再来〟と評される平野は、男女の心と体の交わりを精緻に描くことに長けている。本作は「高瀬川」(03年)とともに秀逸なポルノグラフィーといえるだろう。

 盈は希美子の、そして池永容疑者は被害者を撮影していた。2人の男は撮ることで所有欲を満たし、女性を〝自分のモノ〟と錯覚していたのではないか。被害者に拒絶されて池永容疑者は逆上し、ネットに写真や動画をぶちまけた。

 一方の希美子は、盈が投稿したものに触れ、<(モザイクを施された)自分の顔が、見知らぬ匿名の裸体に乱暴に接合されている>と感じた。盈に怒りを覚えたが、膨大なアクセス数と自分の肉体を褒めそやす投稿の嵐に奇妙な優越感を覚える。誰にも気付かれなかった希美子は、ミッキーとしてサイトの〝女神〟になったのだ。

 冗談か本音か、盈が結婚を切り出した時、希美子は別れを意識する。希美子とミッキーは乖離し、盈は希美子には相応しい男ではないと冷静に分析する。結婚の仄めかしは、自分を永遠に所有したいという邪な願望に基づいていると確信したのだ。生じた亀裂に悪い予感がしたが。起きたのは喜劇であり、恥辱の極致だった。悲劇とカタストスロフィーは「決壊」に持ち越され、平野は<分人>というテーゼを世に問うことになる。

 <ネット恋愛>で思い出したのが、数年前の「世にも奇妙な物語」の一編だ。主人公(椎名桔平だっけ)は会社をクビになり、夫婦関係も冷え切っている。夫は妻の名前を使って交際サイトでメールをやりとりする。相手は女子大生のはずが、実は妻のストーカーで、夫は借金を返すため妻殺しを企てる。計画が成就した後、メール相手の正体が判明した。妻の愛を知り、夫が泣き崩れるというラストだった。

 本作、三鷹の事件、そして上記のドラマは、男と女がいかなる絆を築くべきかについて、考えるヒントを与えてくれる。識者は事件についてあれこれ論じるだろうが、嘘っぽく聞こえるに違いない。男女関係は全てのケースが特殊で、メディアが気軽に用いる<交際>という言葉にさえ、明確な基準はないのだから……。

 最後に、村上春樹が今年もノーベル賞を逃した。村上が敬意を抱くギュンター・グラスなど、「ブリキの太鼓」を発表してからノーベル賞まで40年かかった。焦る必要などない。
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第92回凱旋門賞~ジャンヌ・ダルクに阻まれた日本勢

2013-10-07 22:57:53 | 競馬
 先週末(5日)、柳家小三治を目当てに鈴本演芸場に足を運んだ。演目は「甲府ぃ」だったが、ミスが幾つかあり、絶妙な間も影を潜めていた。12月で74歳……。老いを隠せなくなったのかと心配したが、翌日の「うどん屋」は格段の出来だったと聞き、胸を撫で下ろした。今回の発見は隅田川馬石で、粗忽者の主従がドタバタを繰り広げる「松曳き」に引き込まれる。いずれどこかで再会できるはずだ。

 ゴールドシップが惨敗を喫してから8時間弱、凱旋門賞のゲートが開いた。ドイツ最強馬ノヴェリストの回避で日本勢にチャンスは膨らんだかに思えたが、悲願達成はならなかった。前哨戦終了直後、俺は当ブログで以下のように記した。

 <パリっ娘トレヴが(日本勢に)立ちはだかる。今年の凱旋門賞は日仏対決でヒートアップし、仏メディアはトレヴをジャンヌ・ダルクに譬え愛国心を煽るだろう>……。

 悪い予感は的中する。フランスで愛国心が高揚したか定かではないが、2着オルフェーヴル、4着キズナを抑えて圧勝したのは地元の3歳牝馬トレヴだった。スミヨンと武豊の騎乗を批判する声もあるようだが、その辺りは素人ゆえ何も言えない。レースは2分32秒で終わったが、背景には様々なドラマが織り込まれている。今回は武豊を切り口に記したい。

 オルフェーヴルの池江泰寿調教師、キズナ騎乗の武豊はともに心から勝利を願い、万全の準備を整えたはずだ。06年、池江師の父泰郎氏(元調教師)が管理していたディープインパクトは3位に敗れ、レース後に禁止薬物が検出されて失格になる。騎手はもちろん武豊で、キズナはディープ産駒だ。二重の意味で子が父の汚名をそそぐ絶好の機会だったのだ。

 あれから7年……。社台コネクションから三行半を突き付けられた武は、勝ち鞍が激減する。当事者しか知りえない事情もあるはずだが、武はプライドゆえ、2番手、3番手に甘んじることをよしとしなかった。

 競馬を底で支えるやさぐれオヤジは、概して武が好きではなく、「いい馬に乗ってるだけ」と素っ気なかった。ところが、武と社台が絶縁するや宗旨を変える。判官びいきというけれど、コアな競馬ファンにとって、武は奥州に逃れた義経のような存在になる。

 社台といえばサンデーレーシングが、俺のPOG指名馬で今春、物議を醸した。日経賞で負けたら、11年指名馬フェノーメノから蛯名を降ろす予定だったという。フェノーメノは蛯名騎乗で春天皇賞をも制したが、悪い方に転がったのは12年指名馬コディーノだ。同馬をレースで育ててきた横山典を唐突に降ろし、ダービーでウィリアムズにチェンジする(結果は9着)。息子(和生騎手)の名は藤沢和師から1字とって付けたという噂もあるほど昵懇だった横山典と藤沢和師は、今や絶縁状態にある。

 世間に先行して市場原理主義が浸透したのが競馬界だった。絶対的な力を持つ社台との近さがすべてで、格差は拡大し、温かい職人気質は消えつつある。ビジネス優先で競馬サークルには乾いた砂埃が舞っている。

 本題とは関係ないが、凱旋門賞直前、グリーンチャンネルは今年の正月特番「競馬場の達人~番外編」を再放送した。昨年12月、園田競馬場を訪れた武豊にスポットを当てる内容である。撮影当日、「ゴールデンジョッキーC」で全国のトップ騎手が覇を競ったが、選出されなかった武は展望デッキでレースを検討する。

 予想は的中したがタイムアウトで買えなかったレースがあったものの大幅プラスと、眼力はさすがだった。興味深かったのは、武が調教欄やパドックを一切見ないこと。「見てもわからないし、大して参考にならない」がトップジョッキーの本音のようだ。

 園田訪問から約10日後、キズナはラジオNIKKEI杯で3着に敗れ、弥生賞でも5着とクラシックが視界から遠ざかる。WOWOW製作のドキュメンタリーは、「こんなはずでは」と悄然する武の様子を収めていた。その後に何が起きたかは、皆さんがご存じの通りだ。

 冷徹なビジネスヒエラルヒーの頂上から、昔ながらの絆の世界へ……。生きる場所をシフトできた武は、よほど強い星の下に生まれたのだろう。全盛期のフォームを取り戻したという声も強いが、社台になびかず、義理と人情の側にいてほしい。

 最後に、第2クオーターに差し掛かったNFLについて。QBペイトン・マニングがアートの域に達した攻撃を繰り出すブロンコスが51対48でカウボーイズを破り、5戦全勝と最高のスタートを切った。AFCはこのブロンコス、NFCは情の人キャロルHCが率いるシーホークスと今季の贔屓チームが決まる。観戦にも一層熱が入りそうだ。
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「地獄でなぜ悪い」~園子温の境界なき世界

2013-10-05 11:47:51 | 映画、ドラマ
 「アメリカがデフォルト目前」……。これって何? アメリカだけでなく、日本も「板子一枚下は地獄」のようだ。

 菅官房長官は解雇特区導入に前向きだ。派遣労働は規制緩和され、収入と仕事を失くした多くの正社員は、遠からず非正規に転落する。柳井正ユニクロ会長の<年収100万時代>発言は、政府の意を汲んだ世論操作の一環かもしれない。

 仕事先の夕刊紙は反アベノミクスで、<99%>の将来に悲観的だ。孫崎享氏はコラムで<自分たちの生活基盤を切り崩されている人たちが、最も強固な自民党支持層というのも皮肉な話>(趣旨)と嘆いていた。「地獄の沙汰も金次第」で救われそうなのが<1%>といえる。〝消費税増税分は社会保障に充てる〟という約束も怪しくなってきた。朝刊紙は「俺のおかげで増えた税収をどう使うか俺の勝手」との安倍首相の本音を伝えている。

 園子温監督の新作「地獄でなぜ悪い」(13年)を新宿バルト9で見た。トロント映画祭ミッドナイト・マッドネス部門観客賞受賞作だが、まさに〝真夜中の狂気〟賞に相応しい内容といえる。体から血が噴き出すわ首や手首が飛ぶわ、暴力シーンは多いが、遊び心とユーモアにも溢れた〝B級マインド〟の作品だ。

 観賞前日、同世代の記者から「おじさんにはちょっときつい」という感想を聞かされていた。客席を見渡すと、中高年は殆どいない。園監督は若者に支持されているようだが、スクリーンを闊歩する菅原文太や高倉健に胸を焦がした団塊の世代も、本作を十分楽しめるはずだ。

 暴力団の出入り、自主映画製作グループの日常がカットバックする前半は散漫な印象で、「園は壊れたのではないか」と不安を覚えた。中盤以降、2本の糸が絡まってぶっとい導火線になるや、疾走感と高揚感で一気に加速し、ラストでは極彩色の花火が爆発する。園の力業に驚嘆するしかない。

 武藤組長役の國村隼は、主演というよりビーズの結び目に近い。娘ミツコ役の二階堂ふみ、妻しずえ役の友近、敵対する池上組長役の堤真一、映画オタク平田を演じた長谷川博己、修羅場に巻き込まれた公次役の星野源……。バイプレーヤーとしてキャリアを積んだ國村は、周りを輝かせる術を心得ている。二階堂の伸びやかな姿態と目力に魅せられ、堤の怪演に笑ってしまった。

 野球を映画に置き換えた「ダイナマイトどんどん」(78年、岡本喜八)の21世紀版かと思ったが、予定調和的な落としどころを弁えた岡本と異なり、園は荒々しく限界を突き破る。粘っこさは深作欣二に近く、抗争(=撮影)現場に機動隊を引き連れ乱入する木村(渡辺哲)が〝深作署〟の刑事というのも振るっていた。

 園はかつて映画製作集団「ファック・ボンバーズ」を主宰し、名を轟かせていた。グループ名はそのまま本作で用いられている。絶望的な状況でも夢を捨て切れない平田に、園自身が投影されているはずだ。映画への熱い思い、そして映画界への皮肉が平田の台詞に込められていた。

 ♪全力歯ギシリ レッツゴー ギリギリ歯ギシリ レッツゴー……。無意味に思えた伏線も実は巧妙な仕掛けで、物語の回転軸といえるのは小学生時代のミツコが歌った歯磨き粉のCMソングだ。歌詞の原型は、園の詩集に収められているという。任侠映画、ヤクザ映画へのオマージュがギッシリ詰まった至高の〝オタク・エンターテインメント〟に、監督自身の過去も織り込まれている。タランティーノは切歯扼腕しているに違いない。

 前稿で寺山修司展「ノック」について記したが、園も寺山を敬愛するひとりだ。〝けもの道を歩く〟を自らに課す園は、虚実の境界を一足飛びで超えていく。本作に描かれた〝血まみれの地獄〟にカタルシスを覚えた。真綿で首を絞められている現在の日本人の気分もまた、「地獄でなぜ悪い」なのか……。
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寺山修司というシュールな迷宮

2013-10-02 21:39:34 | カルチャー
 <虚>と<実>の境はどこにあるのだろう。安倍首相が消費税アップの会見で示した<実>は、俺の耳に虚しく響いた。年収300万円台の世帯は増税により、年に50万円前後の支出増を強いられると予測する調査機関もある。獣性剥き出しのリストラや雇い止めの横行は、解雇自由のブラック特区の地均しだ。格差の拡大で社会に怨嗟が渦巻けば、<21世紀の血盟団>が結成されても不思議はない。

 先週末、寺山修司展「ノック」(ワタリウム美術館)に足を運んだ。青森時代から天井桟敷まで、寺山の足跡が5部構成で展示されていた。壁には寺山の刺激的な言葉が記され、モニターには実験映画が流れている。小ぢんまりしたスペースに私信、写真、ポスターがちりばめられ、寺山の濃密な匂いが立ちこめていた。ハイライトは約30分の戯曲のリーディング(土日午後6時開演)で、妖しい寺山ワールドに引き込まれた。

 別稿に記したが、俺は先月、「遊ぶシュルレアリスム」(東郷青児美術館)を訪れた。その場で吸収した〝シュルレアリスムの粒子〟が、脳内を飛来し始める。寺山は<虚>と<実>の狭間に遊ぶシュルレアリストだったのか……。仕事先で寺山関連の著作もあるYさん(演劇批評家)に直感を話すと、肯定的な言葉が返ってきた。当人は意識していなかっただろうが、寺山は南米の巨人たちとマジックリアリズムの手法を共有していた。

 タイトルの「ノック」は1975年、阿佐谷で開演された市街劇のタイトルだ。俳優たちが住民宅の扉をノックし、「あなたの平穏無事とは何」と問い掛けるという趣向だ。<実>の生活に飛び込んできた<虚>に戸惑ったのか、多くの人々が警察に通報したという。想像力の翼で飛翔し、虚実の壁を突破する……。これこそあらゆるジャンルで寺山が実践した方法論かもしれない。

 寺山ワールドには無数の入り口があるが、いったん門をくぐると出口が見つからない。そこは<虚>と<実>がないまぜの巨大な迷宮だが、居心地は良く、迷ったままも悪くない。寺山は手が届かない遠い存在だけど、誰しもが親近感を覚える部分がある。俺が寺山と共有しているのは最も好きな小説だ。マッカラーズの「心は孤独な狩人」である。

 肝というべき芝居は門外漢だが、短歌、評論、映画には親しんだ。とりわけ短歌は衝撃的で、幾つのもの句を繰り返して口ずさみ、陶然とした記憶がある。寺山が10代の頃に詠んだ歌を、大家は理解出来なかったという。季節感が希薄で、従来の短歌の枠組みを逸脱していたからだ。歌に詠まれた父と母のイメージと孤独に彩られた心象世界が、その後の表現活動の原型になっているのではないか。

 展示では女性の姿が目立っていた。俺は当ブログで<寺山好きの女性は信じない>と記したが、そんなことを話せば、袋叩きに遭っただろう。寺山好きの3人の友人がそれぞれ、自称寺山ファンの女性に手ひどくフラれた。俺はそのうちのひとりを、以下のように慰めた。いわく「おまえは寺山を血肉化してるけど、あの子にとっちゃ寺山は、夜のうちに消化して排泄する糞みたいなもんなんだ」……。

 同行した知人にとって入り口は競馬評論で、「ノック」で展示物がなかったことに不満げだった。寺山と競馬は恐ろしいほどマッチしていた。幻想とフィクションのプリズムを重ねた寺山の目に、結果を超越した異次元の光景が映っている。グリーンチャンネルの「寺山修司没後30年記念特番」で歌人の梅内美華子さんが興味深い指摘をしていた。寺山は歌と決別した後、競馬評論を始めた。抒情を込める対象だったからこそ、寺山は競馬を文化の域に高めることができたのだ。

 結果として競馬は市民権を獲得したが、寺山自身は市民権と程遠い存在だった。俺が寺山に重ねるのは、映画監督、詩人、小説家として活躍したパゾリーニだ。ともに、<実>の裏側に潜む<虚>の輝きを抉り出した。世に出てから30年、疾走し続けた寺山は47歳で斃れた。迷宮の出口の鍵は失われたままである。
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