酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

広河隆一氏、そして小出裕章氏~覚悟を決めた者が放つオ-ラ

2012-02-28 22:51:35 | 社会、政治
 前稿の冒頭、「週刊文春」に掲載された<被災地児童2人に甲状腺がんの疑い>のスクープに触れた。「話した内容と異なる」との医師の抗議を受け、文春とおしどりマコ氏(自由報道協会)が会見を開く。大筋で事実に即しているというのが現時点の結論で、マコ氏は記事掲載を了承する情報源からのメールを提示した。

 マコ氏は「迅速かつ広範囲にエコー検査を実施し、セカンドオピニオンを形成するシステムが必要」と強調する。福島で現在、ファーストオピニオンを牛耳っているのが山下俊一氏だ。ちなみに山下氏の師匠、重松逸造氏はIAEA調査委員長として1991年、チェルノブイリの安全を宣言した。まさに悪魔の系譜だが、彼らに公害や放射能被害を隠蔽させてきたのは、この国の政官財だ。悪魔より悪い輩を、何と呼べばいいのだろう。

 正常性バイアスに歪められた日常に痛い現実を突き付けてくれた朝日ニュースターが、3月末に閉局する。「ニュースの深層」と「愛川欽也~パックインジャーナル」も、新しい局に引き継がれるという。上杉隆氏は降板するようだが……。この1週間、広河隆一氏(DAYS JAPAN編集長)が「ニュースの深層」、小出裕章氏(京大助教)が「パックイン――」に出演した。3・11からここまでの両氏の総括は、奇妙なほど一致していた。

 広河氏は<フリーランスや良心的な人たちが明かりを少しずつ灯してくれたことで、影の部分に少しは光が射したが、もう一度すべてを覆い尽くし、何事もなかったことにしようとする国の動きが凄まじい>と語る。一方の小出氏は<3・11以降、反原発の動きに明るさは見えたが、国は猛烈な巻き返しを始めた。40年で廃炉にすると言い出したら、メディアは一斉に支持した>と憂えていた。

 広河氏はパレスチナとチェルノブイリで、ジャーナリストとしてだけでなく、支援の輪の中に自らを置いている。小出氏は公安の盗聴や尾行など圧力に晒されながら信念を守り通した。冷たい逆風の中、絶望を克服してきたからこそ、ペシミスティックな言葉にも魂の揺らぎを覚える。広河氏は静謐な蒼い焔、小出氏は無限の情念をオーラとして纏っている。
 
 <ガイガーカウンターが3台とも振り切れた。こんなことはチェルノブイリでも経験がない>……。地震発生から2日後に福島入りした広河氏のリポートは衝撃的だった。政府やメディアはフリーランスの報告をデマとこき下ろし、数カ月にひっそりと追認していく。チェルノブイリの実情を日本で最も知るのは広河氏だが、3・11以降、助言を求める政府関係者や学者は皆無だった。

<日本の原発事故を想定した対策を十分に用意できなかったことが悔やまれる>と語る広河氏、集会や講演会で<私たちが無力だったせいで、原発を止められなかった>と聴衆に頭を下げる小出氏……。何に最大の価値を置くかを決め、退路を断っているからこそ、人は謙虚に、真摯になれるのだろう。

 小出氏の説得力ある言葉に再度触れ、心が洗われる。未来を生きる子供たちの健康が何よりも重要なテーマだから、「一基の原発もいらない」「莫大な補償費用や核燃料の処理を考えれば、原発はむしろ割高」と明快に語る。小出氏が感銘を与えるのは、科学的な根拠と同時に、人間としての原点を示すからだ。

 職場の整理記者Yさん(恐らく)が、前稿のコメント欄に鈴木邦男氏(一水会)のリポートを貼ってくれた。杉並の集会とデモ(2月19日)にはラディカル、「素人の乱」、共産党、新社会党、社民党、民主党、保守派の西尾幹二氏、そして鈴木氏と、相容れないはずの人々が反原発の旗印の下に結集していた。可能性を示唆する形だと思うので、ぜひ一読を。

 このままなら次回総選挙は、<民主VS自民VS橋下グループ>の不毛の構図になる。反原発側には、坂本龍馬のようなオルガナイザーが必要だ。シンボルとしての代表に小出氏を据え、スポンサーは孫正義氏ら脱原発の財界人、アート系や文化系の支持者(候補)には事欠かない。政党縦断的に緩やかな集団を形成できれば、原発のみならず、政治の仕組みを変えられるのではないか。
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世界へ通じる道~「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」が示すもの

2012-02-25 20:59:14 | 映画、ドラマ
 憂慮されていた事態が現実になった。「週刊文春」最新号に衝撃のスクープが掲載されている。福島から北海道に避難した児童2人(7歳と4歳)の甲状腺からがんの疑いのある異常が見つかった。チェルノブイリのケースより3年早い報告という。

 山下俊一氏(福島県立医大副学長)が検査にストップを掛けるようメールで指示している。政官財の意を受け、朝日新聞から「がん大賞」を授与された山下氏は、いずれ改悛の情に衝き動かされ、真実と向き合うだろう……。こんなふうに期待していた俺は甘いとしか言いようがない。山下氏はヨーゼフ・メンゲレ、石井四郎とともに〝悪魔の殿堂〟に名を刻むはずだ。

 新宿で先日、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」(11年、アメリカ)を見た。俺はこれまで「ユダヤ人」や「9・11」をテーマに据えたアメリカ映画は避けてきたが、スティーブン・ダルトリー監督作は見逃せない。「ダロウェイ夫人」(ヴァージニア・ウルフ)をモチーフにした「めぐりあう時間たち」(02年)で、ダルトリーはウルフら3人の女性の人生を、時空を超えて鮮やかに交錯させた。「ものすごく――」が提示したのは喪失と再生で、3・11を経た日本人の心情にも重なる作品だった。

 睡眠不足と風邪による発熱で、当日は夢の中で仕事をしていた。映画観賞は厳しかったが、チケットをネットで予約していたので日を改めるわけにいかず、酔生夢死状態で本作に突入する。公開後1週間でもあり、興趣を削がぬよう感想を記したい。

 オスカー(トーマス・ホーン)は宝石商の父(トム・ハンクス)と強い絆で結ばれていた。内向的で探究心旺盛なオスカーの資質を伸ばすため、父は息子と「調査探検ゲーム」に興じる。軸になったのはニューヨーク第6区の存在証明だった。

 家族は9・11を迎えた。オスカーにとり、家に掛かってきた父からの電話をやり過ごしたことがトラウマになり、埋葬された空の棺が喪失感の象徴になった。1年後、オスカーは父の遺物から〝ブラック〟の宛名が書かれた封筒を発見する。その中には一本の鍵が納められていた。オスカーは父が与えてくれたヒントと考え、調査探検ゲームを始める。

 500人近いブラックさんを訪ねるオスカーに、同行者が現れた。祖母宅の間借り人になった老人(祖父?)は、ドイツ時代のトラウマから喋れず、メモ帳を介してオスカーと交流する。ニューヨークの宝石商=ユダヤ人、9・11、そしてアウシュビッツとくれば、三題噺は完成だ。「やられた」と思ったが、本作は〝偏見の塊〟たる俺の一枚上を行っていた。連合国軍によるドルトムント絨毯爆撃を9・11に対比させる形で、普遍性を維持していた。

 ラストで洟をすすっている人が周りにいたが、俺には過剰な演出に思えた。別稿(12年1月15日)に記した「永遠の僕たち」(11年)のイーノックの笑顔の方が、公園でのオスカーの独白より生と死の境界を鮮烈かつ簡潔に表現しているように感じたからだ。

 鍵の真実を探す旅により、希薄だった母(サンドラ・ブロック)の深い愛情がクローズアップされる。オスカーが見つけたのは家族の絆であり、<世界>だった。人々の営みや感情をオスカーは身を以って知ることになる。本作に重なったのは、同じく少年が主人公だった「奇跡」(11年、是枝裕和監督)である。父(オダギリジョー)が仄めかした<世界>の意味を問い掛けるうち、兄弟の心は家族だけでなく、まさに世界へと繋がっていった。

 分野を問わず無数の表現者たちが今、3・11がもたらした孤独、絶望、喪失を見据え、癒やし、救い、再生を希求する作品を準備しているはずだ。日本版「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の登場を心待ちにしている。




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猫の日に寄せて~ビートが叩いた「夏への扉」

2012-02-22 23:11:53 | 読書
 きょう2月22日は猫の日だ。子供の頃から犬嫌いで、以心伝心というべきか、俺にだけ吠える犬までいる。その分、猫は好きだが、広言する資格はない。近隣の猫に餌付けしたことから裁判沙汰に至った加藤一二三9段の例を挙げるまでもなく、猫を普遍的に愛するためには、社会との折り合いが必要になる。

 大抵の猫好きは、<自分と接点がある猫>だけを愛し、そこで生まれる濃密な関係を楽しんでいる。俺自身の猫についての思い出もあれこれあるが、今回は「夏への扉」(1956年、ロバート・A・ハインライン著/ハヤカワ文庫)を紹介する。

 小松左京以外、SFを読んだ記憶が殆どないから知識は全くないが、ハインラインはアイザック・アシモフ、アーサー・C・クラークとともにビッグ3と称される巨匠という。SF作家には科学の進歩だけでなく、グローバルな政治力学の変化を見据える巨視も求められる。ウィキペディアで遍歴を読む限り、ハインラインは極右からリベラルまで、時代に応じてスタンスを変えた作家らしい。女性(妻)からの影響が窺える点が微笑ましい。

 膨大な作品群の中で、日本のSFファンに高い人気を誇るのが本作だ。主人公ダンは優秀な発明家で、「文化女中器」、「窓拭きウィリイ」、「万能フランク」、「製図タイプライター」など斬新なアイデアを幾つも形にした。1971年から冷凍睡眠で2001年、タイムマシンで71年に戻り、冷凍睡眠で再度2001年へとタイムトラベルを繰り返しながら、様々な問題を解決していく。時空を飛ぶ映画や小説で問題になるのは、未来や過去の自分との出会いや史実の改変だが、本作では齟齬を来さないよう、細部まで配慮されていた。

 飼い猫ピートが、ダンとリッキィを繋ぐ役割を果たしている。猫といえば牡でも去勢されていても、女性的なイメージが強いが、ビートは〝護民官〟の愛称に相応しいマッチョぶりを発揮する。「じゃりン子チエ」に登場する小鉄みたいに猛々しく、ダンを絶望に陥れたカップルに戦いを挑む。

 小説や映画は、接する時期によってポイントがずれる。本作で印象的だったのは核兵器や原子力に関する記述だ。アメリカは水爆投下で国家存亡の危機に立たされ、ダンは母と妹を失った。ちなみにダンの父は、北朝鮮で洗脳され死に至る。アメリカは逆襲して核戦争で勝利を収めるという設定だが、輸入肉の汚染が言及されるだけで、放射能がもたらす被害は無視されている。それどころか、原子力は未来の万能ツールとして礼賛されていた。

 56年といえば、正力松太郎が原子力委員会初代委員長に就任し、日本が原発建設のスタートラインに立った時期だ。本作にも色濃く反映しているが、ハインラインは戦時中、技術士官として海軍に従軍した。右派政治家とも付き合いがあり、結果としてハインラインは原子力推進派と歩調を合わせることになる。

 ケチを付けてはみたが、本作はあらゆる要素が詰め込まれた読み応えあるエンターテインメントだ。復讐譚であり、社会批評でもあり、70年前後のヒッピーイズムまで織り込まれていた。だが、本作が支持される最大の理由は、ロマンチックなラブストーリーとして成立しているからだと思う。

 来年以降も猫の日に合わせ、猫小説を読むことにしよう。「ジェニイ」、「夢先案内猫」、「内なるネコ」など候補は多いが、森繁久弥の名演が光った「猫と正造と二人のをんな」の原作(谷崎潤一郎)も忘れちゃいけない。

 老後は郷里に帰り、猫とともに悠々自適で暮らしたいと考えている人は多いはずだ。半世紀前は可能だったのに、今ではそう簡単じゃない。こんな21世紀を予測したSF作家は、果たしていただろうか。
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「キツツキと雨」~緩くて温い土壌で生まれた優しさ

2012-02-19 22:16:18 | 映画、ドラマ
 上杉隆氏が「ニュースの深層」のキャスターに復帰していた。14日のテーマはチベットで、焼身自殺で中国に抗議する僧侶の映像に怒りと衝撃を覚える。ゲストのラクバ・ツォコ氏は「22人が焼身自殺を試み13人が死亡、残りの9人は警察や軍に連行され生死は不明」と語っていた。

 中国共産党ならぬ〝国家資本主義〟党の言論封殺は徹底しており、「反」「集会」といった言葉はたちまちネットから消去される。<資本主義⇒社会主義>が正しい道筋と考えたマルクスは、最初の革命候補地としてイギリスとドイツを想定していた。超格差社会の資本主義国中国で、革命の条件は整った。IT時代の毛沢東は現れるだろうか。

 寡聞にして中国映画の現状は知らないが、弾圧を逆利用した傑作が生まれるケースも多い。前稿で紹介した「彼女が消えた浜辺」で揚がった水死体を、検閲側は「神の教えに背いた者」と誤解? したはずだ。「灰とダイヤモンド」も同じ構図で、マチェークの死は権力者にとり<反逆者の哀れな末路>だったが、観客の感じ方は異なる。その散り際は美学に昇華して神話になり、世界中で語り継がれた。

 前置きは長くなったが、本題に。新宿で先日、「キツツキと雨」(11年、沖田修一)を見た。弾圧や検閲とは無縁だが、進んで自由から逃走している緩くて温い日本の土壌にピッタリの映画といえる。沖田監督の前作「南極料理人」と似たトーンで、心を癒やし、ほぐしてくれる作品だった。

 ストーリーや感想を以下に記すが、ネタバレの部分もある。いずれご覧になる方は、読むのをここで止めてほしい。

 主人公は木こりの克彦(役所広司)と、映画監督の田辺幸一(小栗旬)だ。2年前に妻を亡くした克彦は、仕事を辞めた息子の浩一(高良健吾)に手を焼いている。一方の幸一もまた、克彦の目に気合不足の若者と映る。ある種の父性愛からか、克彦は幸一の映画に協力するようになる。実と仮想の2人の息子と克彦を繋ぐツールの一つは将棋だった。

 本作の舞台は、旧来のコミュニティーが維持されている山あいの村だ。克彦の号令の下、ゾンビ映画の撮影に村人たちがこぞって参加する。ゾンビと一見ミスマッチに思える豊かな自然には、小泉八雲が魅せられた物の怪や行き場のない霊が宿っている。ゾンビ映画には格好のロケ地で、撮影は村を挙げての大イベントになる。

 ゾンビ映画の設定は荒唐無稽だが、生と死の境界線と至高の愛を描いている。だからこそ、妻を亡くしたばかりの克彦にとって、映画は〝自分のもの〟になった。自然と日々接する克彦の経験と知識が、雨のシーンで発揮されるラストが印象的だった。

 幸一のおどおどした態度に違和感を覚えた人も多いはずだ。カメラマンや俳優に軽んじられ、ポツンと離れて弁当を食べている。沖田監督が「気の弱い僕自身の反映」と語っていた幸一だが、克彦や村民との交遊で表情も明るくなっていく。クランクアップした時、スタッフと村民は気持ちを一つにした<柔らかな結晶体>になっていた。

 前作同様、後日談の描き方がいい。平田満、伊武雅刀、嶋田久作、そしてヘボ老優役の山崎努ら実力派が脇を固めていた。ラッシュ上映に誘われた時の克彦が典型だが、セリフや表情の逆を行って次のシーンと繋がる<逆手の話法>が多用されているのを見て、「丹下左膳余話 百萬両の壺」(1935年、山中貞雄)を思い出した。

 沖田監督作は、韓国映画のように鋭く重くはない。ハリウッド映画のように大掛かりでもない。イラン映画のような寓話性もない。それでも俺は、気分をスッキリさせてくれる消化剤を求め、次回作を映画館で見るだろう。

 最後に訃報を。「春との旅」(10年)が記憶に新しい淡島千景さんが亡くなった。享年87歳、映画黄金期を支えた女優の死を悼みたい。芸者蝶子役を熱演した「夫婦善哉」(55年、豊田四郎)は同年公開の「浮雲」(成瀬巳喜男)の陰に隠れる形になったが、俺の評価は真逆である。気丈さと脆さを併せ持つ蝶子、優柔不断なダメ男の柳吉(森繁久弥)……。淡島さんは天国で、ペーソス溢れる夫婦を森繁と楽しく演じているに違いない。

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「彼女が消えた浜辺」~ミステリアスで神秘的な寓話

2012-02-16 22:25:00 | 映画、ドラマ
 核開発疑惑でイランへの圧力は増すばかりだ。2度の原爆投下を悔いることがないアメリカ、イラクと同じ轍を踏みたくないイラン……。スケールは異なるが、悪同士のチキンゲームは当分続く。

 ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマを経験した日本は、<原発にせよ兵器にせよ、すべての核を放棄すべし>と国際社会に発信すべきなのに、アメリカの顔色を窺っている。イランがホルムズ海峡封鎖を実行すれば、最も影響を受けるのは外交力ゼロの日本というのも皮肉な構図だ。

 遠くて近い国イランで圧政の下、優れた映画が次々に生まれている。先日、WOWOWで「彼女が消えた浜辺」(09年、アスガー・ファルハディ)を見た。

 当ブログではアッパス・キアロスタミ、モフマン・マフバルマフ、バフマン・ゴバディら、〝映画の都〟の巨匠たちを紹介してきた。イラン映画の特徴は、物語が神々しさを纏う奇跡の煌めきを提示すること。「彼女が消えた浜辺」は芸術性を保ちながら、サスペンス色の濃いエンターテインメントで、日本公開時(10年秋)に見逃したことが残念でならない。

 マフバルマフやゴバディの作品と異なり、「彼女が消えた浜辺」は国内で大ヒットした。国民の普遍的な感覚に沿っていることが<検閲逃れ>の理由なのだろう。とはいえ、裕福で欧米化された登場人物は一様に非イスラム的で、ストーリー的に必要とさえ思える祈りのシーンも、意識的? にカットされている。以下に、簡単にストーリーを。

 日本でいえばお盆のような時季、2台のワゴンが海辺の別荘に向かう。学生時代の友人たちとその家族で、主要な登場人物はセビデー、アーマド、エリの3人だ。イランは男性上位という先入観はあるが、ロックをテーマにした「ペルシャ猫を誰も知らない」(09年、ゴフティ)でも、主役ネガルは活発な女性だった。本作でもリーダー役は女性のゼビデーで、子供が通う保育園の先生エリを連れてきた。ドイツで離婚した傷心のアーマドの再婚相手としてである……と書いたが、彼女の真意は言葉と裏腹に謎めいてくる。

 本作は表地と裏地が異なる生地で織られたペルシャ絨毯だ。ゼビデーは巧みな織り手だが、想定外の事態が起きる。少年が沖合に流され、同時にエリも消えたのだ。エリは少年を助けようとして溺れたのか、ひとりでテヘランに戻ったのか、計算ずくで身を隠したのか……。ゼビデーの台詞から準備されたシナリオは想像できても、打ち揚げられた水死体をどう捉えるかは見る側に委ねられている。

 イスラム的な結婚観が、本作の背景にある。進歩的イラン人にとっても結婚は神聖な儀式で、男の面子も重要な位置を占める。恋愛遍歴、バツの数、出来ちゃった婚、不倫が当たり前の日本とは土壌が大きく異なる。ババ(悪い男)を引きそうになった女性が軛から逃れるためには、命懸けの決断が必要になる。

 本作のハイライトは、エリが画面から消える直前、少女に頼まれて凧を揚げるシーンだ。表情から慎みが消え、嬌声を上げながら凧を揚げるエリは、少しずつ海に近づいていく。「行かなきゃ」と糸を少女に返し、舞う凧がアップになった刹那、鈍い音が響いた。

 ファルハディ監督の次作「別離」(11年)は、ベルリン映画祭で主要3部門を含む5冠を達成する。今春公開を心待ちにしているが、当のファルハディにも弾圧が及んだ。「国外にいる映画関係者が帰国して、イランで活動できることを願う」(論旨)との発言が当局の怒りを買い、新作の撮影許可を取り消されたのだ。ゼビデー役のゴルシフテ・ファラハニも海外組(パリ)のひとりである。

 「別離」は恐らくアカデミー賞外国語映画賞受賞の栄誉に浴するだろう。<自由を希求するイラン人監督が受賞>というニュースは、政治的な色彩を帯び世界を駆け巡るはずだ。ちなみにマフバルマフは、「イラン映画が高い芸術性を維持しているのは、ハリウッドと無縁だったから」と語っていたのだが……。

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俯瞰の目で記された「私小説」~水村美苗が穿つ日本

2012-02-13 22:43:24 | 読書
 土に還る日が近づくにつれ、感性が和風化している。池澤夏樹、カズオ・イシグロ、小川洋子らが創り上げる個性――自然やコミュニティーとの調和を重視し、包容力がありオルタナティヴ――にアイデンティティーを抱いている。

 3・11以降、柔軟で温かい日本人独特の感性が浸潤し、この国の空気が変わることに期待したが、ベクトルは逆だ。猛威を振るっているのは、石原慎太郎都知事や橋下徹大阪市長ら居丈高の<アメリカ型二元論者>である。彼らと日本人観が真逆の俺は、滅びゆく少数派なのだろう。

 日本とは、日本人とは、そして今後の日米関係は……。間口は狭いのに、ページを繰るにつれ奥行きが広がっていく「私小説」(水村美苗著、95年)を読み終えた。副題に“from left to right”とあるように横書きで英語の会話も多い。著者は1951年生まれで、中学1年の時、父の転勤で家族とともにニューヨークに渡った。本作はまさに私小説で、事実に即したストーリーは美苗と姉奈苗との電話のやりとりを軸に、時を行きつ戻りつする。

 別稿(10年12月14日)で紹介した「本格小説」(02年)では、延々と続く美苗のモノローグで、60年代の水村一家の生活が語られる。アメリカに馴染めなかった美苗のその後が、舞台は同じニューヨーク、時を80年代に移して語られる。

 姉妹の男性遍歴は対照的だ。アメリカナイズされた奈苗は数え切れないほど恋に落ちるが、一つとして成就しなかった。一方の美苗は堅く生きてきたが、結婚を前提に同居していた「殿」が日本に帰り、独り身だ。不安で寂しい姉妹はともにニューヨーク在住だが、昼夜問わず電話で話す。父は意識がない状態で病床に伏し、母は若い男とニューヨークを去った。かつての団欒は見る影もなく、<家族という存在は罪の念をひきおこさざるをえない何物かと化して居た>のである。

 <私にとっての日本が、ひたむきな望郷の念の中で化物のように膨れ上がっていった>美苗だが、日本を肯定的に見ていない。感じるのは<発展することによって露呈されてしまう貧しさ>で、<大国になればなるほど精神が矮小になる国、どこを向いてもうすら寒い女の写真と狎れ合いの言葉が宙を舞う国>と吐き捨てる。鴎外の「舞姫」や三島の「鹿鳴館」の引用も効果的だった。  

 美苗が執着するのは日本語で、大学院の口頭試験を区切りに、20年ぶりの帰国を決意する。日本語で小説を書くためだ。父をどうする? 彫刻家を目指している奈苗の未来は? 母は果たして? 渡米20年、水村家に変化の兆しが訪れた。

 美苗の目に映るニューヨークは興味深い。貧富と階層の差は夥しいが、悪いことばかりではない。特筆すべきは、キリスト教に基づくチャリティー意識、他人の目に拘らない自由さだ。教育も充実している。理解度によって編成される少人数クラスで、劣っていた美苗の英語力は飛躍的に伸びた。

 だが、人種の壁は越えられない。ハイスクール時代、合コン的デートで、奈苗の相手にあてがわれたのはコリアンの少年だった。奈苗と付き合ったドイツ人、イタリア人、ハンガリー人、食い詰めたポーランド出身の今の恋人ヘンリックも、いずれアメリカ社会に同化する。だが、黄色人種はそうもいかない。<平等な日米関係>なんてありえないことを、著者は肌で知っている。

 <外では白い雪があふれるほど降っているのだが、黒い夜をさらに黒く染めていくように思える。死の鏡のような沈黙がアパートの内も外も支配していた>……。

 姉妹だけでなく、ハイスクール時代の友人レベッカも、狂いそうな孤独に震えている。他愛のない会話で始まった私小説は、ラストでは凍えるような闇に覆われていた。仄かに射す一条の光は、家族の再生だろうか。

 水村の処女作「續明暗」(90年)は未読だが、「明暗」の続編の形を取っているという。俺は主立った長編を読了後、<漱石は「それから」がピークで、以降の作品は読まなくていい>(論旨)と当ブログで記した。水村の目に触れたら、一笑に付されるに違いない。


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「パール・ジャム20」~ずしりと響く骨太の音

2012-02-10 22:55:13 | 音楽
 石原都知事は俺も署名した「原発都民投票」を否定し、条例を作らないと語った。アメリカでは原発再開が決まり、実現に向けたマネーゲームが始まっている。3・11から11カ月、俺の中でも世界でも、フクシマが風化しつつある。来月には頻繁に取り上げるつもりだ。

 昨秋、期間限定で公開された「パール・ジャム20」を見逃した。その後、パール・ジャム(PJ)が妙に気になり、棚に埋もれていたCDやDVDを取り出すや、たちまちハマってしまう。これまで魅力に気付かなかったのか不思議でならないが、今では通勤、仕事、ウオーキングの最中に“Corduroy”、“Given To Fly”、“Even Flow”、“Do The Evolution”、“Go”が混然一体となって脳内スピーカーで鳴り響いている。

 WOWOWがオンエアした「パール・ジャム20」は、20年のバンド史と神髄に迫る秀逸なドキュメンタリーだった。活気と創造性に満ちた80年代シアトルのロックシーンを捉えたお宝映像も収録されていた。

 PJが悲しみと絶望を乗り越えたバンドであることを知る。前身のマザー・ラブ・ボーンの未来への扉は、フロントマンだったアンディの死で唐突に閉ざされた。残されたストーン・ゴッサードとジェフ・アメンは、再出発を期して模索する。「ボーカル募集」に応じたのがエディ・ヴェダーだ。

 エディは当時、サンディエゴで警備員をしていた。20代半ばまで埋もれていたエディはシアトルにやって来た当初、自分の殻に籠もっていたが、次第に才能とエゴを発揮していく。奇跡の邂逅が怪物を育んだのだ。 エディはフー信奉者で、本作には「ババ・オライリー」のカバー(ロラパルーザ'92)が収められている、

 PJは<フーからキャッチーさを消し、重低音を増したバンド>といえる。連想するのは、稲妻が光る鈍色の空、レンブラントの絵、野間宏やコーマック・マッカーシーの小説だ。灰褐色の世界で、エディの野性の声が人生の影や孤独をシャウトする。歌詞が生命線になっており、言葉の壁がある日本ではブレークしなかった。

 同時期に1000万枚以上のアルバムを売ったニルヴァーナとPJはライバルと見做された。カート・コバーンの「PJは商業主義に走った」との発言が物議を醸したが、後に和解している。カートとエディがハグするシーンが感動的だった。カートとエディの資質は極めて近い。カートはドラムセットに体当たりしたり楽器を壊したり、エディは鉄骨によじ登って落下すれすれのパフォーマンスを見せたりと、異なる方法で自己破壊衝動を表現していた。

 カートの死を真摯に受け止め、ニール・ヤングの姿勢に触発されたPJは、ファンの立場で商業主義に闘いを挑む。干されることも覚悟し、ハイパー資本主義に毒されたロック業界の仕組みそのものに異議を唱えたのだ。かなりの逆風は受けたはずだが、チケットマスター「ボイコットツアー」(95年)以降も、CDの売り上げ、動員力とも高い数字を維持している。

 権威を否定する姿勢も一貫している。グラミー賞授賞式でエディは「これが何を意味するのか分からない」と発言した。9・11以降は、一気に保守化したアメリカの空気に警鐘を鳴らしていた。扮装込みでブッシュをコケにした曲をニューヨークで演奏し、大ブーイングを浴びていたが、屈する様子はまるでなかった。

 「イントゥ・ザ・ワイルド」や「96時間」に描かれていたが、アメリカには定住せず放浪するボヘミアンが数多く存在する。「イントゥ――」の主題歌を担当したエディだけでなく、他のメンバーもボヘミアンが好むサーフィン愛好者だ。ラストでファンがPJのライブに足を運んだ回数を競い合っていた。PJは<来たら見る>ではなく、<旅をして見る>ボヘミアンに愛されるバンドなのだろう。

 フジロックはストーン・ローゼスとレディオヘッド、サマソニはグリーンデイとメーンアクトが早くも決まった。PJが来日するならフェスしかないが、実現は難しそうだ。心身の衰えが著しい55歳は、ここのところライブから足が遠のいている。4月のモリッシー(Zepp Tokyo)がロック卒業記念になるかもしれない。


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第46回スーパーボウル~スポーツを超えた豊饒なサスペンス

2012-02-07 23:10:24 | スポーツ
 第46回スーパーボウル(ルーカス・オイル・スタジアム)はジャイアンツが21対17でペイトリオッツを下し、4年ぶりに戴冠する。同じカード、第4Qの逆転劇、ザ・キャッチの再現と、デジャヴを覚えた人も多いだろう。終了前の3分間は1秒当たりのツイート数が平均1万件を超え、視聴率も47・8%(ワールドシリーズの5倍弱)と驚異の数字を挙げた。

 NFLは至高のエンターテインメントで、注目度が低い試合でも、ハリウッドのシナリオライターでさえ書けないストーリーがぎっしり詰まっている。知と理を重視するアナリストは多いが、勝敗の帰趨を決するのは直感、野性、瞬時の閃き、そして運命の悪戯だ。今回のスーパーボウルは、幾筋もの伏線が張り巡らされた豊饒なサスペンスだった。

 競馬記者Kさんの計らいで、初めてラスベガスのブックメーカーと勝負する。爆発力が確実性を上回るとみて、<1~6点差でジャイアンツの勝ち>にベットし、ビギナーズラックで的中する。筋金入りのアンチ・ペイトリオッツにとり、最高のフィナーレだった。

 俺がペイトリオッツを嫌う最大の理由は、ヘッドコーチ(HC)のベリチックとQBのブレイディが神格化されているからだ。選手が失敗すると、解説者は「ベリチック(ブレイディ)の意図を理解していない」と分析する。確かにブレイディは神々しい。第2Q後半から第3Q前半の約8分間、15回連続パス成功で2TDと記憶に残る司令塔ぶりを発揮する。

 だが、最後に輝いたのはジャイアンツQB、イーライ・マニングの方だった。舞台はイーライの兄ペイトン・マニングがQBを務めるコルツの本拠地だ。武豊と幸四郎ほどではないにせよ、〝賢兄愚弟〟の典型と評されてきたマニング兄弟は今季、大きく明暗を分ける。偉大な兄ペイトンはケガでシーズンアウトとなり、放出が噂されている。評価が定まらなかったイーライは、〝ペイトン・スタジアム〟で兄を超える2度目のスーパー制覇を成し遂げた。

 両HCがともにパーセルズ門下でかつての同僚というのも因縁だが、ジャイアンツHCのコフリンは〝神様〟ベリチックの後塵を拝していた。1990年代後半、ジャガーズをリーグ屈指のチームに育てながら、スーパー進出を果たせなかったコフリンは、徹底した規律と管理が選手を萎縮させ、プラスアルファを引き出せないタイプだった。「大一番で勝てない」と断言していたコフリンが2度目のスーパー制覇……。俺の目は何事についても節穴らしい。

 今回のスーパー直前、記者会見で「どうして円くなったのですか」と聞かれ、「本を読んで成長したから」と煙に巻いていたが、経緯はもちろん違う。ジャイアンツに移ったコフリンは、悪童たちの反抗に手を焼き、還暦になって以前のスタイルを捨てる。頑固一徹から対話路線への転換がケミストリーを生み、4季前の大番狂わせを呼んだ。

 今季も似た構図だった。順当に勝ち上がったペイトリオッツ(13勝3敗)に比べ、故障者続出のジャイアンツは苦難の道のりだった。9勝7敗とシーズン10勝未満のチームがスーパーボウルを制するのは初めてのこと。2季前の千葉ロッテマリーンズと重なる断崖絶壁からのチャンピオンだった。

 両チーム合わせて100人前後のロースターのうち、4年前に在籍していた選手は22人(ペイトリオッツ7人、ジャイアンツ15人)という数字に驚いた。HCとQBは同じ顔ぶれで、戦略、戦術、哲学に変化はない。それでも主力の顔ぶれは全く異なる。NFLの選手生命の短さ、消長の激しさを改めて思い知らされた。殆どの選手は、蛍のような煌めきを残し、表舞台から去っていくのだろう。笑いを誘うミスも事なきを得たジャイアンツRBブラッドショーは果たして4年後、現役を続けているだろうか。
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「ヒミズ」~若者に再生を託した21世紀の「罪と罰」

2012-02-05 23:11:29 | 映画、ドラマ
 混迷を深めるシリアの五輪代表が、アジア最終予選で日本を破った。シリアイレブンの心境、多くの血が流れた当地の国民の思いを想像するのは難しい。スポーツは時に、スポーツを超えることがある。今回の試合は、その典型的な例といえるだろう。、

 五十路も半ばに差し掛かると、心身の至るところにガタがくる。肩と右膝に慢性的痛みを抱え、血糖値や中性脂肪はとっくに危険数域だ。そこに某女性から、ミッションが発せられる。<加齢臭を緩和せよ>と……。

 不摂生と不衛生を貫いてきた俺の内部は、公害で汚濁した川のようにドロドロ状態だ。臭いを根から断つのは不可能だが、薬局で中年の女性店員に相談すると、「うちの主人も愛用してます」とあるスプレーを薦めてくれた。早速購入し、新宿で園子温監督の新作「ヒミズ」(12年)を観賞した。

 「冷たい熱帯魚」(11年)、「恋の罪」(同)にリアルタイムで触れ、たちまち〝急性子温中毒〟になる。録画した「愛のむきだし」(08年)にもノックアウトされた。主演の染谷将太(住田祐一役)と二階堂ふみ(茶沢景子役)は、ベネチア映画祭で獲得した新人賞(マルチェロ・マストヤンニ賞)に相応しい熱演だった。心の闇と崩壊をテーマに映画を撮ってきた園監督は、3・11を契機にシナリオを大きく書き換え、石巻ロケを敢行する。被災地の地獄絵図をカメラに収めながら、救いと再生を2人の若い主人公に託していた。

 「冷たい熱帯魚」はブルーリボン賞、報知映画賞、キネマ旬報で監督賞や作品賞を受賞したが、園監督の評価は海外の方が高かった。作品の色彩は東欧映画に近く、キリスト教的な倫理観が底に流れているからだろう。各作品には悪魔的人間が登場する。「ヒミズ」では染谷の父(光石研)、茶沢の母(黒沢あすか)が該当するが、悪魔を超える天使が存在した。悪魔の領域に踏み込む寸前の染谷の前に、茶沢が立ちはだかる。

 住田祐一と茶沢景子は中学のクラスメートだ。ともに不幸な家庭に育っているが、志向性は正反対だ。住田は絶望から殻にこもり、茶沢は希望の灯を掲げて住田に接近する。罵り合い、頬を打ち合う2人の激烈で清浄な魂が相寄り、叫び、涙を流しながらともに走るラストに至る。一瞬と永遠の愛を提示した本作は、21世紀の「罪と罰」で、神話、寓話の域に達した青春映画といえるだろう。

 ボート屋を営む住田家の周りに、震災被災者が小屋を建てる。破壊された街に夜野(渡辺哲)が立ち尽くすシーン、住田がピストルを自分のこめかみに当てるイメージが繰り返しインサートされ、作品の主題を際立たせている。被災者たちが若い2人を見守る様子に心が和んだ。

 吹越満、神楽坂恵、モト冬樹、でんでん、窪塚洋介、西島隆弘、吉高由里子ら豪華な面々が脇を固めている。園監督と親交が深い宮台真司がテレビのコメンテーターを演じ、反原発を説いていた。ネオナチの売人が画面に向かって「原発万歳」と叫ぶ戯画化されたシーンは、ストーリー上で重要な位置を占めていた。
 
 泥と絵具でペイントされた顔で、悪を抹殺せんと彷徨う住田に、「EUREKA」(01年、青山真治監督)の直樹(宮崎将)が重なった。異世界への旅立ち、自殺願望、罪の意識の表れと受け取り方は様々だろうが、ともに「気狂いピエロ」の影響が窺える。「恋の罪」では田村隆一の詩が作品の主題を示していたが、「ヒミズ」ではヴィヨンの詩の一節が、住田と茶沢の心を繋いでいた。

 会場に明るくなった時、「頑張れ日本がテーマだね」と感想を語る声が後ろから聞こえてきた。「ちょっと違うな」と思ったが、俺の方が少数派かもしれない。「ヒミズ」は立ち位置によって像が異なる蜃気楼なのだろう。
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トム・クルーズの野性が光る「ミッション・インポッシブル」

2012-02-02 23:18:37 | 映画、ドラマ
 昨日(1日)、将棋のA級順位戦が一斉に行われ、羽生2冠が8連勝で名人挑戦権を獲得した。「将棋界で一番長い日」(3月2日)の注目は降級争いのみと、興趣が削がれた感が強い。

 最終局を待たず勝ち越しを決めた屋敷9段の健闘は見事だった。史上最年少でタイトル獲得した〝お化け屋敷〟だが、順位戦で停滞し、昨年ようやくA級入りを果たした。「一切勉強しない」との発言は、無頼派のイメージを守るためのポーズだったのか。研究を積み重ねたからこそ、40歳で再度ピークを迎えることが出来たのだ。

 3・11以前は公にされなかった<地震発生確率>が、毎日のように報じられている。異なる数字を集約すれば、<首都圏で4年以内に直下型地震が起きる確率は70%>となる。マスメディアは終末を予言するカルト教団の機関紙のようだ。放射能汚染と地震に先行し、崩壊は既に、個人の精神や生活に染み込んでいる。

 俺はスーパー、コンビニ、100円ショップの密集地帯に住んでいる。どの店も入りは悪く、夕方でもレジで長く待たされるケースは少ない。明るい店内、愛想のいい笑顔、そして大量に余る商品は、被災地の窮状や世界の飢餓とどう繋がっているのだろう。ありふれた日常の光景に狂いと軋みを覚えるのは、俺自身の内面の崩壊、そして肉体の老いのせいなのか……。

 「ミッション・インポッシブル~ゴースト・プロトコル」(11年、ブラッド・バード監督)が、悪い予感をしばし忘れさせてくれた。第1作でフェルプス(TVシリーズ「スパイ大作戦」のリーダー)を裏切り者に仕立てたことに憤りを覚え、二度と見ないと決めていたが、封印を解いた。第4作は「ダイ・ハード」と「スピード」に匹敵する爽快なエンターテインメントである。

 古今東西、映画で走る男を挙げればきりがない。まず思い浮かぶのは「フレンチ・コネクション」のジーン・ハックマン、そして「卒業」のダスティン・ホフマンか。ナ・ホンジン監督作ではハ・ジョンウとキム・ユンソクが野獣のように闇を駆け抜けていたが、本作のトム・クルーズは、知性と野性を併せ持つランナーだった。ハイテクを前面に押し出した本作だが、息遣いと鼓動がビートを刻み、飛び散らんばかりの汗がスクリーンを濡らしていた。

 ロシア、ハンガリー、ドバイ、インド、ラストのアメリカへと場面を移しつつ、複数の糸が一本に収斂していく。ユーモアとチームスピリットも織り込まれていた。核戦争をテーマにした本作には、広島と長崎も台詞に登場する。唯一の被爆国日本もまた、陰の舞台と考えていい。「スパイ大作戦」から核を扱ったエピソードをピックアップし、参考にしたことが窺える。

 「スパイ大作戦」を彷彿させたのが、ドバイでの客室入れ替えだ。テレビシリーズでIT部門を任されていたバーニーばりの作戦だが、コンピューターや科学装置を用いるという発想が当時の敵になく、IMFチームの圧勝に終わるケースが多かった。俺は10年ほど前、「スパイ大作戦」の全171エピソード(1966~73年)をスカパーで見た。後半に進むにつれ、アメリカの国策に沿ったストーリーが増えていくことに気付く。

 中南米のとある国、革命で権力を握った指導者は、危険な武器を輸入して自由主義国家を脅かしたり、独裁で民衆を苦しめたりする。もっともらしい理想を説く指導者の風貌は、ゲバラやカストロに似ていた……。フェルプス(ピーター・グレイブス)らは現地に飛び、ミッションを実行する。「スパイ大作戦」にとって、ドラマを通しての洗脳もミッションの一つだったのだろう。

 世界中でヒットするためには、独り善がりは禁物だ。細部まで計算され尽くされた本作は、人間の感情や心理に至るまで破綻がなく、結果としてグローバルな普遍性を獲得している。グローバリズムもこんな形なら、もちろんOKだ。


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