酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「鍵泥棒のメソッド」~鮮やかなラストに心が温む

2012-09-29 23:15:55 | 映画、ドラマ
 人は大抵、矛盾のモザイク模様だ。俺などその最たるもので、反米っぽいことを書き散らかしつつ、アメリカを体現するNFLやWWEに親しんでいる。その他、自分の中の矛盾を挙げていってもきりがない。

 個人レベルならともかく、矛盾は政治家にとって致命傷になる。橋下徹大阪市長は「竹島共同管理発言」で支持率を下げた。友愛を掲げる鳩山由紀夫元首相なら、「竹島も尖閣も共同管理にして、友好の徴にしよう」と言い出しても不思議はないが、二元論的な橋下氏にはそぐわない。

 27日付朝日朝刊で、安倍自民党新総裁への注文が特集されていた。興味深かったのは鈴木邦男氏(一水会)の発言で、<中国や韓国への厳しい対応を望む声に乗せられず、熱狂を敵に回しても、国益とアジアの平和を重視すべき>(趣旨)と述べていた。一水会は三島由紀夫の衣鉢を継ぐ団体で、鈴木氏は〝本籍ワシントン〟の輩と一線を画す筋金入りのナショナリストだ。だからこそ排外主義を否定し、左派やリベラルと反原発集会を主催している。

 さて、本題。有楽町で先日、「鍵泥棒のメソッド」(12年、内田けんじ監督)を見た。売れない役者の桜井(堺雅人)、裏稼業で名を馳せるコンドウ(香川照之)、カタログ誌編集長の香苗(広末涼子)が織り成す後口の爽やかなコメディーだった。日中に亀裂が入る前、上海映画祭で脚本賞を受賞し、トロント映画祭で上映された際には笑いが絶えなかったという。日本人が当然のように受け入れるシーンや台詞が、海外では〝くすぐり〟になるケースもあるのだろう。

 3人が均等の主人公で、堺、香川、広末の魅力が引き出されていた。曖昧な笑みで心情を表現する堺に桜井はハマリ役である。公共料金も払えず、女性に愛想を尽かされた桜井は人生にピリオドを打とうとする。身を清めるために行った銭湯で、思わぬ事態に遭遇した。洗い場で転倒して記憶を失ったコンドウの鍵を盗み、入れ替わったのだ。

 感情の起伏が少なく、〝恋愛処女〟風の香苗が職場で結婚を宣言する。交配相手を捜すブリーダーのように男性を物色する香苗は、今の日本において特殊ではない。俺にとっての理想形、即ち<平凡に思えた身近な異性がある瞬間、光を帯び、眩しい存在になる>は時代遅れで、恋愛もまた、演出と数量化が過剰なゲームになっている。

 本作のキーワードは「努力と勤勉」だ。突然リッチになった桜井と、どん底に突き落されたコンドウだが、人生への取り組みの差で再逆転の様相を呈していく。象徴的なのは、桜井の部屋のビフォア&アフターだ。コンドウと香苗のミスマッチに思える接近も、相手の中に自分の美点(努力と勤勉)を見いだしたからである。

 とりわけ光っていたのは香川で、記憶を必死に取り戻そうとする桜井と、怜悧なコンドウを演じ分けていた。絡まった糸が化学反応を生み、内に秘めていた矛盾と謎を発見した3人は、新しい人生の旅に滑り出していく。荒川良々、森口瑤子らが脇を固め、吉井和哉の主題歌「点描のしくみ」も作品にマッチしていた。スローテンポの嫌いもあるが、その分、ラストの鮮やかなドンデン返しに心が和んだ。

 最後に、スプリンターズSの予想を。尖閣問題を重ねて香港馬の取捨を考えるのも一興だし、台風の影響で馬場悪化も考えられる。「鍵泥棒のメソッド」みたいにうまく嵌ればいいけど、鍵が多すぎて途方に暮れる難解なレースだ。的中は諦め、1分超のドラマを楽しむことにする。◎⑦リトルブリッジ、○④サンカルロを軸に、内枠の人気薄を絡めて買うつもりだ。


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国から州へ後退した日本~怒りモードで政治を眺める

2012-09-26 23:13:16 | 社会、政治
 公共心のない振る舞い、自らが被った不利益、プライドが傷つけられた時……。人が怒るポイントは様々だが、俺がカチンときた最近の例を、以下に挙げてみる。

 その一。大渋滞に巻き込まれたバス。コースは迂回しているし、ターミナル駅に着くのはいつのことやら……。「途中下車させてくれませんか」と丁重に頼むサラリーマンに、運転手は「出来ません」の一点張り。その対応に憤りを覚えた。

 その二。目覚まし時計を買いに訪れた家電量販店。時刻が大きな数字で表示されるアナログタイプを見つけて店員を呼ぶと、「在庫がありません」……。展示物を商品扱いしないルールに固執する姿勢に疑問を覚えた。

 その三。日付が変わった頃、新宿駅地下道を大江戸線新宿西口駅に向かって歩いていた。すると、意外な光景が……。連絡口にシャッターが下りていて、前に立つガードマンが「この時間は地上からしか入れません」……。外は凄まじい雨(24日)。腹が立って仕方なかった。

 運転手、店員、ガードマンに非はないが、<杓子定規なルール、融通が利かない対応>に俺はカチンときた。怒りモードのさなか、民主党代表選に続き、自民党総裁選の結果が出る。政治は血肉化した言葉をもって論じるべきで、たまにデモや集会に参加する程度の俺が何を語っても説得力はない。今回も枕にとどめようと思ったが、予定を変更し、以下にまとめて記すことにする。

 野田再選を<経営失敗でシェアを落とした社長が居座るようなもの>と前々稿で記したが、安倍再登板には笑ってしまった。石破氏が党員票の過半数を得た時点で、身を引くのが筋ではないか。とはいえ、〝安倍首相〟に期待できる点が一つだけある。それは日中関係の改善だ。小泉元首相時代に生じた亀裂を、創価学会との強いパイプを利用して緩和したのが、首相当時の唯一の功績だった。

 読者の皆さんは会社、サークル、団地やマンションの自治会、地域のコミュニティーなど様々な組織に属しているはずだ。そこで足の引っ張り合いや一部の暴走を目の当たりにしても、「まあ、しょうがないか」と黙っているに相違ない。かつて怪物や魔物が闊歩した政界だが、今では身近な組織と変わらぬレベルに堕してしまった。事を荒立てなくないという意識の裾野が、<我々の民主主義>の頂上を形成しているのだろう。

 野田、安倍両氏に加え、橋下大阪市長が次期首相の有力候補だ。「国の顔がこれでいいの」と嘆きたくなるが、果たして日本は国だろうか。東京新聞は以下のように伝えている。

 <アメリカは将来を含め、日本が脱原発に移行することに反対の意思を明確にした。野田内閣はアメリカの意に沿い、「2030年代に原発稼働ゼロ」を明記した閣議決定を見送った>(要旨)

 アメリカは露骨な内政干渉で、脱原発の国民の願いにストップを掛けた。最大の敵の所在が明らかになった以上、反原発デモの矛先は今後、アメリカ大使館にも向けられるだろう。若い頃はナショナリズムを忌避していた俺でさえ国を憂えてしまうが、上記の報道に、大半の日本人は怒っていない。日本は既に国ではなく、アメリカの51番目の州だからだ。次の総選挙は州議会選挙で、次期首相は州知事ということになる。

 脱原発を主張していた橋下氏もおとなしくなった。「大阪府市エネルギー戦略会議」は休止され、古賀茂明氏や飯田哲也氏ら有志が、脱原発への道筋を独自に議論する場になっている。仕事先の夕刊紙には「同会議は今や橋下批判の発信源」と記されていた。安倍自民党新総裁への接近、公明党との選挙協力、東国原氏ら魅力のない候補擁立、不毛な公開討論会が報道されたことで、維新の支持率は急落した。流れからいけば、<自民―公明―維新>の連立政権が成立する可能性が高い。

 小沢氏の控訴審が結審し、11月12日に判決が出る。無罪の可能性は高いが、それだけでなく同氏は、現状にニンマリしているのではないか。中道・保守で脱原発は、国民の生活が第一とみんなの党のみである。民主党からの更なる脱党者も期待でき、一定の影響力を維持できる可能性が出てきたからだ。

 とはいえ今の小沢氏が、リベラルやラディカルとの提携を視野に入れるほどの包容力や感性を持ち合わせているとは思えない。原発を争点化し、具体的な目標を掲げる脱原発連合体が、総選挙前に結成されることを切に祈るのみである。
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ペシミズムに彩られた「星々の蝶」

2012-09-23 23:16:22 | 読書
 革新性と衝撃度で「悪童日記」(アゴタ・クリストフ)と「蟻」(ベルナール・ウェルベール)を超える小説は稀である。再読した前者については、別稿(7月27日)で記したばかりだ。「蟻」もいずれ再読する予定だが、今回は06年に発表されたウェルベールの「星々の蝶」(NHK出版)を紹介する。

 1990年代前半、ニューサイエンス関連の書物が店頭に並んでいた。量子力学や宇宙物理学を老荘思想や禅に重ねて説くというのがそのアプローチで、「タオ自然学」や「踊る物理学者たち」は純粋文系の俺に科学の魅力を教えてくれた。ブームが後退した時期(95年)に邦訳された「蟻」を、ニューサイエンスの残滓と誤解した人も多かったはずだ。

 「蟻」3部作に加え、人類の始まりに遡及した「われらの父の父」、死後の世界と宗教の本質に迫った「タナトノート」と、ウェルベールは刺激的な作品を世に問い続けている。哲学と科学を融合させた小説の数々で、ウェルベールは<フランスが生んだSFの鬼才>との評価を確立した。

 「星々の蝶」の主人公は宇宙開発局で企画選考を担当するイヴだ。創造力と想像力の塊だが、職場で本領は発揮されていない。見栄えのしないバツ1で不器用なイヴは、自らの運転ミスで国民的アイドルを地獄へ突き落してしまう。世界大会を連覇したヨットチームの操舵手エリザベートである。

 体の自由と名声を失ったエリザベートは、引きこもりの日々を送る。加害者と被害者の溝を埋めたのが、イヴの父ジュールが遺した計画だった。星の光で飛行する宇宙船という壮大なプランは政府機関に却下されたが、大富豪ガブリエルが実現に協力する。末期がんに侵されたガブリエルにも夢が必要だったのだ。

 蹂躙された倫理、偽りの正義と神に唆された人々、環境破壊、幅を利かす核兵器、蔓延する新種ウイルス……。酷薄な世界を変えるため、巨悪と闘うべきかもしれないが、イヴは真逆の道を選ぶ。〝最後の望み〟は逃避で、「星々の蝶」と命名された宇宙船は21世紀版「ノアの方舟」になる。地球の生態系を維持するため、「星々の蝶」は県に匹敵するまで規模を拡大していく。

 本作は離陸に至るまでの「夢の影」、1200年超の旅程を綴った「宇宙に浮かぶ街」、目標地点到達後の「見知らぬ星」の3部構成になっている。操縦士に任命されて輝きを取り戻したエリザベートは恩讐を超え、イヴと心を通わせていく。だが、父の自殺の背景を知るイヴが最も重視するのは、感情に囚われない節理であり、「星々の蝶」を動かす光だった。

 新世界はいかなる原理原則に貫かれるべきか……。イヴは鼠ではなく、蟻の行動様式に学ぶ。鼠は利己的で攻撃的な気質を、蟻は団結的で相互補完的な志向をそれぞれ象徴する。支配欲に衝き動かされた権力者と、自由より服従を望む大衆……。旧世界(地球)での過ちを繰り返さないためにも、14万人超の乗組員は慎重に選抜された。

 果たして「星々の蝶」は理想郷として成立しただろうか。第2部以降、物語はダウナーなムードに沈んでいく。本作で思い出したのが、ウェルベール同様、物事を俯瞰の眼で捉える故森毅京大名誉教授の蟻についての洞察だ。

 <働き蟻、普通蟻、怠け蟻に3等分し、働き蟻だけ集めた〝精鋭軍団〟をつくってみると、なぜか勤勉度は33%ずつになる。怠け蟻だけの〝窓際集団〟も結果は変わらない。人間だって似たようなもの>……。

 公共性、節度、協調性に価値を置く〝精鋭軍団〟が乗り込んだ新世界で、戦争、独裁、殺人、略奪、自然破壊といった負の歴史が再現され、生きて目標の星に上陸したのは、イヴが想定してように、一組の男女だけだった。「猿の惑星」に通じる強烈なアイロニーを覚える最終章である。他のウェルベール作品には一条の光が射していたが、「星々の蝶」はペシミズムに覆われている。作者は既に、人類に絶望しているのだろうか。

 本作はフランスで25万部を売り上げたが、韓国では40万部の驚異的ベストセラーになった。日本で無名に近い作家が、隣国で熱烈に支持される。これもまた、ウェルベールに纏わる謎のひとつだ。
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「コッホ先生と僕らの革命」で童心に返る

2012-09-21 22:54:34 | 映画、ドラマ
 経営の失敗でシェアを大幅に落としたら、社長は株主総会を待たず身を引く。スポーツ界でも同様だが、常識が通用しない集団が存在する。野田首相の続投を圧倒的多数で支持した民主党は自浄能力を失った。矜持や恥の意識といった美徳は見る影もなく、あとは滅びるのみである。

 マイケル・ムーアは「すべての市民が活動家でないと民主主義は崩壊する」(論旨)と主張している。その言葉に照らせば、俺もまた無為の誹りを免れない。たまに集会やデモに参加し、競馬で儲けた不浄の金を運動体に寄付する程度の俺が、あれこれ能書きを垂れても説得力ゼロだ。

 さて、本題。「最強のふたり」に続き、TOHOシネマズシャンテで「コッホ先生と僕らの革命」(11年、セバスチャン・グロブラー/ドイツ)を見た。前者は土曜ということもあり超満員、後者はウイークデーでガラガラと客の入りは大差だったが、作品の質の高さは拮抗していた。いずれご覧になる方のためにも、興趣を削がぬよう感想を記したい。

 舞台は1974年のドイツ北西部の街ブラウンシュヴァイクだ。当時のドイツは日本と密接な繋がりがあった。ドイツ統一後も覇権を拡大したヴィルヘルム1世と鉄血宰相ビスマルクのコンビは、維新後の日本にとって格好のお手本だった。憲法、教育、社会主義者弾圧など、模倣した部分が大きかったし、〝成り上がり〟の心情を共有していた。

 服従と愛国心が強調される教育現場に、異分子が登場する。オックスフォード留学を経て帰国したコンラート・コッホ(ダニエル・ブリュール)が英語教師として赴任した。進歩的な校長の〝実験〟を頓挫させようと、後援会長と教師たちがスクラムを組む。

 教室には反英感情とエリート意識が蔓延していた。コッホは生徒たちのイギリスへの偏見を砕こうとするがうまくいかない。ボスであるフェリックス(後援会長の息子)は、労働者階級に属するヨストに陰湿ないじめを繰り返す。「共産党宣言」(マルクス)から三十余年、フェリックスは社会主義を恐れる父の意見を無批判で受け入れていた。同じブルジョワでも、企業家精神に溢れるオットーとその父とは気風が好対照だった。

 コッホが生徒に伝えたかったのは、屈服せず自由に考えること、仲間意識、そしてフェアプレーだ。黒板とチョークに限界を覚えたコッホがサッカーを授業に取り入れるや、空気が変わる。練習を通じて自主性、抵抗の精神、友情が生徒たちに芽生えてきた。小柄なヨストが抜群の才能を発揮する一方、フェリックスにも差別意識を克服する機会が訪れた。

 大きな枠組みの中で、普遍的な感情と様々な伏線が一本の糸に収斂し、ラストのカタルシスに繋がる。しみじみとした余韻が去らない佳作だった。コッホと生徒たち勇気ある試みは、ドイツサッカー隆盛の礎になる。

 コッホ役のダニエル・ブリュールは、同年(1978年)生まれのガエル・ガルシア・ベルナルとともに新時代を担う俳優だ。邦題に「革命」が付いているのは、「グッバイ、レーニン!」、「ベルリン、僕らの革命」、「サルバドールの朝」など政治性、社会性を帯びた作品に出演しているからだろう。

 <サッカーは国民性と感性の象徴>といわれるが、日本はサッカーでもドイツと縁が深い。デットール・クラマーは<日本サッカーの父>と呼ばれ、奥寺や香川など多くの選手がドイツで才能を開花させている。この絆を反原発でもと、俺は繰り返し当ブログに記してきた。

 本作を見ながら、童心に返っていた。子供の頃、三角ベースで遊ぶことがどれほど楽しかったか。「ホームラン」と小躍りした刹那、ガシャーンと破裂音……。親と一緒に平謝りしたが、被害者も大抵優しかった気がする。野球とサッカーは、子供を夢中にさせる魔性を秘めている。

 「童心に返らずともずっと子供」……。そう言われたら身も蓋もない。五十路半ばにして、物忘れと幼児化は進行する一方だ。
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「最強のふたり」~異質なものが生むケミストリー

2012-09-18 23:53:45 | 映画、ドラマ
 <ナショナリズムはならず者の最後の隠れ家>というサミュエル・ジョンソンの警句が、中国の現状を抉っている。日本への憤りは教育により継承されているが、自国のチベット侵略をどう捉えているのか若者たちに聞いてみたい。共産党独裁下の言論弾圧や格差拡大に対する怒りのカムフラージュとして、反日が用いられているという分析もある。

 デモ拡大を深刻に報じるニュースに違和感を覚える。日本の新聞やテレビは2年前、政府がストップをかけたのか、国内各地で起きた数千人規模の反中国デモを黙殺した。参加者の憤慨は3・11以降、我が身に降りかかる。ある時期まで日本のメディアは、反原発デモを意識的に無視していたからだ。これらの事実が日本の民主主義のレベルを物語っている。

 フランスがプチブームだ。フォワ賞を制したオルフェーヴルの〝狂気〟が、凱旋門賞で爆発することを期待している。朝はバゲットを食べ、夜はフランスの鬼才ベルナール・ヴェルベールの「星々の蝶」を読む。先週末に見たフランス映画が'12ベストワン候補に加わった。

 上映館はいずれも満員札止めの「最強のふたり」(11年)は、前評判に違わぬ傑作だった。事故で首から下が麻痺した大富豪フィリップ(フランソワ・クリュゼ)と、モロッコから移り住んだドリス(オマール・シー)の友情を描いた作品で、監督・脚本にはエリック・トレダノとオリヴィエ・ナカシュの2人がクレジットされている。

 映画館、DVD、テレビでご覧になる方も多いと思うので、ネタバレは極力避け、感想を以下に記したい。

 この2年、記憶に残る欧州映画を挙げれば、「パリ20区、僕たちのクラス」、「ソウル・キッチン」、「預言者」、「さあ帰ろう、ペダルをこいで」、「ル・アーヴルの靴磨き」、そして「最強のふたり」となる。共通点は移民問題を背景に描いていることだ。

 切り口は様々だが、底に流れるのは楽観主義だ。人種、宗教、生活習慣、伝統の決定的とも思える差異を、社会と個人は克服できるという希望を軸に据えているからこそ、見る者の心を揺さぶる。

 「最強のふたり」のフィリップとドリスは、格差の象徴でもある。自家用機を持つフィリップが、モロッコからの移民でスラムに住むドリスを介護人に雇う。ドリスは介護と無縁で、刑務所暮らしを経験している。

 俺は別稿(9月9日)で、<「価値観と世界観」、「異質なものへの理解」を採用基準のメーンに据え、従順ではなく逞しい個を集めれば、日本企業復活の道は開けるのではないか>(論旨)と記した。むろん、個人と企業を同列に論じるわけにはいかないが、退屈しのぎでドリスを雇ったことが、フィリップを、そして一家を変えていく。異質なものとの出会いと理解こそがケミストリーを生むきっかけになるのだ。

 ドリスは粗野で教養がないという設定だが、右脳人間で物事の本質を直感的に把握する能力がある。縦ではなく横の目線で接するから、正直な物言いで人々の心を和ませることができるのだ。フィリップの誕生会での会話や、ラストの髭剃りのシーンなど、ドリスの台詞には意外なほどの知性が溢れていた。

 障害者の性についても率直に描かれ、ドリスがオペラに噴き出したり、自ら絵筆を取ったりと権威を笑い飛ばす場面も爽快だ。個性を際立たせる音楽の用い方も絶妙で、二人がハングライダーに興じるハイライトシーンでの「フィーリング・グッド」(ニーナ・シモン)も映像にマッチしていた。オープニングとラストが繋がる構成も見事としか言いようがない。

 本作は笑いが途切れぬ至高のエンターテインメントで、人生のヒント、愛の意味、ユーモア、皮肉がたっぷり詰まっている。作り話ではなく実話に基づいているというから驚きだ。人生には奇跡の邂逅があるらしい。偏見や先入観で目が曇り、チャンスに気付かないこともありうるが……。


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「シールズ」に甦る青春の風景~グリズリー・ベアが織り成すカラフルな世界

2012-09-15 15:31:11 | 音楽
 ここ数日の報道で、旧連合国(英米仏)が日本の脱原発に強い懸念を抱いていることが明らかになった。<2030年に原発ゼロ>なんて絶対許さないと言いたげだ。菅原文太の「今こそ反原発の日独伊三国同盟じゃ」は、原子力コングロマリネットの存在を炙り出している。

 至言あれば妄言あり……。石原伸晃幹事長の「汚染された土壌の保管先は福島第1サティアンしかない」との発言に絶句した人も多いだろう。オウム真理教がサリンを製造したのはサティアン、原子力村が放射能をまきちらしたのは福島原発……。石原氏が図らずも浮き彫りにしたのは、スケールの差こそあれ悪の構図だった。

 朝夕涼しくなり、読書に親しむ夜長となる。書物との間にケミストリーを生むBGMを挙げれば、「君に捧げる青春の風景」(アズテック・カメラ)、「パシフィック・ストリート」(ペイル・ファウンテンズ)、「ムーヴィング」(レインコーツ)、「ウエーティング」(ファン・ボーイ・スリー)、「ザ・ハーティング」(ティアー・フォー・フィアーズ)、「マカラ」(クラナド)etc……。

 80年代のUK勢に加え、ダーティー・プロジェクターズ(DP)の「ビッテ・オルカ」とともにローテーションに加わったのが、グリズリー・ベアの「ヴェッカーティメスト」(09年)だ。「ブルーバレンタイン」のサントラを挟み3年ぶりに発表された「シールズ」は、'12ベストアルバム決定と断言できるクオリティーの高い作品である。

 グリズリー・ベアはDP同様、ブルックリンを拠点に活動している。NY派と一括りにしがちだが、①前衛性とサウンドスカルプチャー、②無境界ポップ、③ハーモニーの復権と、目指すものは様々だ。ちなみにグリズリー・ベアは②と③を志向している。富裕層出身で名門大に通うインテリが意識的にドロップアウトし、表現手段としてロックを選んだケースが多いこともあり、NY派には商業的成功より個性と質にこだわる傾向が強い。

 ロックファンはバンドを測る基準を持っている。俺が今使っている〝物差し〟は<トランジスタラジオに堪え得るかどうか>だ。ビートルズの「シー・ラブズ・ユー」に魔法をかけられロックに目覚めた俺にとり、原点復帰というべきか。スタジオで加工し尽くした音を、莫大な費用を投じてステージで再現するバンドが増えた。YouTubeの普及で、ロックは〝見る〟が主流になりつつある。グリズリー・ベアとDPが新鮮だったのは、手作り感が肥大化へのアンチテーゼに思えたからだ。

 「シールズ」は全体としてメロディアスで表情豊か、街角のラジオから流れていても耳に残る芯のある曲が詰まっている。「奇跡の名盤、30年ぶりに再発」と帯に記されていても違和感はなく、明らかにアナログ志向だ。メランコリック、リリカル、アンニュイ、エキセントリックが程良く調合された珠玉のタペストリーに、甘酸っぱい青春の風景が甦った。

 スタジオライブを見た感じでは地味な印象だが、実際に見てみないとわからない。3年前に来日しているが、当時は名前さえ知らなかった。スマッシュかクリエイティヴマンが呼んでくれることを期待している。

 「シールズ」と併せ、解散の噂もあったブロック・パーティーの4年ぶりの新作「フォー」を購入した。おかしな書き方だが、彼らの魅力である〝やり場のないどん詰まり感〟満開のダウナーなアルバムだった。ブロック・パーティーとともに贔屓にしてきたキングス・オブ・レオンも、雲行きが怪しくなっている。

 マンサンやザ・クーパー・テンプル・クロースを筆頭に、俺が肩入れするとロクなことがない。俺はバンドにとって疫病神だが、唯一の例外は怪鳥に成長したミューズだ。俺の〝物差し〟からは外れてしまったが、肉親の情で応援している。
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「何もかも憂鬱な夜に」~生と死の深淵に迫る中村ワールド

2012-09-12 23:50:23 | 読書
 グリーンピースが先日、回転寿司(首都圏10店舗)の抜き打ち調査の結果を発表した。千葉県産マイワシからセシウムが検出されたという。日本では過激派とみられがちなグリーンピースだが、広範な環境保護活動で国際的に認知されている。残念なことに、過激と目されているのは日本政府の方だ。基準値の1000倍超の高濃度放射性物質を海に放出した咎で、<海洋テロ国家>の汚名を着ている。

 回転寿司といえば、「アトミック」チェーンをご存じだろうか。54店舗のうち、食中毒の頻発で営業中は3店のみ。「アトミック」で使用する高価なコンベア、鮮度管理システムが生む利権のせいか、労働者を切り捨てる冷酷な財界首脳も妙に優しい。「アトミック」倒産を主張していた威勢のいい連中もたやすく懐柔された。

 悪魔や妖怪が徘徊する夜、心の糸が溶けて弛緩していた。この間に読んだのが「何もかも憂鬱な夜に」(09年、中村文則/集英社文庫)で、作者にとってターニングポイントと評される作品である。

 読む年齢で小説の印象が変わることは、当ブログでも記してきた。修行の一環として接したドストエフスキーを四半世紀後に再読したら〝至高のエンターテインメント〟で、ページを繰る指が止まらなかった。一方で50歳を過ぎて読み返した漱石は「それから」がピークで、思春期に感銘を受けた「こころ」を筆頭に、以降の作品には入り込めなかった。

 中村の作品は若い読者にとって、世界観を築くための血肉なのだろう。感性がクチクラ化した俺だが、いまだ〝10代の荒野〟を彷徨っているせいか、登場人物の心情に寄り添うことができる。魂の汚れを多少なりとも落とす石鹸のようなものか。

 主人公は一様に社会に対して違和感を抱き、安寧と秩序からの疎外を自覚している。ズレと軋み、皮膚感覚で中村に重なるのは椎名麟三と島尾敏雄だ。本作の主人公(僕)は孤児で、施設を出た後、刑務官として働いている。作者自身がどう意識しているかは別にして、亀山郁夫東外大学長は中村の作品を<ドストエフスキーが追求した課題を現在の日本に甦らせた>と評価している。本作でも、主人公と自殺した友、死刑確定間近の未決囚との対話をカットバックし、生と死の深淵に迫っていた。

 鳥を呑み込んだ蛇の記憶、夢か現か判然としない海辺の全裸女性の遺体……。プロローグで描かれる二つのイメージは、原罪の徴とも受け取れる。そして、第1章冒頭のあの人の言葉「自殺と犯罪は、世界に負けることだから」に連なる。

 中村の作品には、状況と構造を把握した絶対的な人間、否、人間を超越した存在が登場する。本作におけるあの人は、孤児である僕を見守る施設長だ。他の作品の現れる悪魔的個性と比べ、優しく〝人間的〟な守護者といえる。中村の来し方は知らないが、それが邪悪であれ、横暴であれ、〝父性〟への憧れが作品に滲んでいるように感じる。

 幼い僕は自殺を試み、今もぼんやり死を考える。激情して殺人に一歩手前まで近づいたこともある。あの人は僕の内に潜む狂気と、「自殺と犯罪」への傾向を見抜いていた。冒頭の言葉は僕を思いとどまらせる歯止めになっている。10代で自殺した真下、殺人を犯した山井は僕の分身といえ、彼らとの対話は、もう一人の自分との葛藤と読み解くことも出来るだろう。ちなみに真下とは恵子とのいびつな三角関係、山井とは幻の兄弟関係が重ねられている。物語のメーンではないが、死刑についての作者の考えも織り込まれていた。

 〝暗く救いのない小説〟と勘違いされそうだが、中村作品は意外なほど読後感が爽やかだ。ラストは破滅でも絶望でもなく、ある種の予定調和とカタルシスが用意されている。本作の恵子は常識の範疇だが、欠落し喘いでいる女性たちも魅力的だ。俺を含め、同じ沼で溺れているような親近感を覚える読者も多いはずだ。新作の「迷宮」についても、年内には感想を記したい。

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個の強さと和~NFLに見る日本再生の可能性

2012-09-09 23:30:47 | スポーツ
 俺は夕刊紙で校閲を担当している。仕事を忘れて読み入ってしまうことも多いが、その最たる例は春名幹男早大客員教授の週1の連載だ。7日付では<ロムニー共和党大統領候補=イスラエル・ネタニヤフ首相=米軍需産業>の利権の構造を指摘していた。さすがCIAウオッチャーである。

 苦手な経済面――得意分野など何もないが――のトーンは極めて暗い。シャープを筆頭に崖っ縁企業が俎上に載せられ、「次はNEC」が専門家の共通認識になっている。だが、サムソンを抱える韓国も深刻な経済危機に瀕しているという。「富が環流する先はアメリカ」などと書くと、俗流陰謀論に堕してしまうのだが……。

 日本企業に復活の可能性はあるだろうか。門外漢の俺など何を言っても説得力はないが、長期的な処方箋を挙げれば<採用基準の変更>だ。〝無菌の温室〟と化した大学から〝一流の奴隷〟を抱え込んできた企業が、世界で競争力を失うのは当然である。「価値観と世界観」、「異質なものへの理解」を採用基準のメーンに据え、従順ではなく逞しい個を集めれば、再生の道は開けるのではないか。

 前置きは長くなったが、今回はNFLについて。<NFL=すべて数値化する成果主義の象徴>と見做す方も多いが、長年見ているうちに別の貌に気付く。数字にこだわりつつ、数字を超えるものを志向するのがNFLなのだ。過去の因縁や軋轢を日程に組み込むなど、リーグが率先してシナリオを練り、メディアがフォローする。女神の気まぐれで楕円のボールは揺れ、一試合にハリウッド映画数本分のドラマが凝縮されていることもある。

 河口正史氏(解説者)は49ersのロースター入りにあと一歩まで迫った。自らの経験を踏まえた河口氏の分析を参考に、NFLの本質を記してみる。第一に、<NFLは社会主義>。サラリーキャップを守るため強豪チームは中心選手を放出し、完全ウエーバーのドラフトで下位チームは好素質のルーキーを指名する。NFLは欧州サッカーやMLBに見られる格差と無縁で、均一の条件下、戦略と戦術で覇を競うのだ。

 第二は、<NFLは強烈なコネ社会>。サラリーマン時代、俺の会社も成果主義を導入したが、結果的に〝コネや情実を正当化〟するツールになってしまった。そもそも本家アメリカが、コネと情実が罷り通る社会であるから仕方ない。ホワイトハウスの閣僚、大企業重役にはコネだけで選ばれた失敗者が雁首を揃えているが、結果が知れ渡るスポーツ界はそうもいかない。NFLは実績の上に成立するコネ社会で、ヘッドコーチ(HC)は一族郎党(各ポジションのコーチ、スタッフ、息のかかった選手)を引き連れ新天地に乗り込む。もちろん、成績が冴えなければまとめてクビだ。

 第三は、<NFLに息づく和の精神>だ。和といっても、日本とは色合いが違う。個の強さと異質な要素のぶつかり合いの上に成立する和だ。「プロジェクトX」では、覚醒した窓際社員や不良社員が確執を克服して会社を救う経緯が紹介されていたが、同様のことはNFLでも頻繁に起きる。その典型が07季と昨季のNYジャイアンツだ。チーム内に不協和音が渦巻いたが、シーズン最終盤に一つにまとまる。辛うじて進出したプレーオフで番狂わせの連続を演じ、スーパーボウルを制した。多くの解説者が口を揃えるように、「NFLで最も大事な要素はシーズン後半のケミストリーとモメンタム」なのだ。

 洞ケ峠ではないが、俺はシーズン中盤までプレーぶりを観察し、その年に応援するチームを決める。密かに注目しているのは、〝HC失格〟の烙印を押されたターナー率いるチャージャーズの踏ん張りだ。どん底からの逆襲に期待したい。もう一チーム挙げれば、フィッシャーをHCに据えたラムズである。ラムズは99季、わずか1ヤードの差でタイタンズを下し、スーパーボウルを制した。当時の敵将がフィッシャーだから話はおのずと盛り上がる。

 シーホークス・キャロルHCにまつわる感動的な実話が、「開幕特番」(GAORA)で紹介されていた。USC時代の教え子が不名誉な罪で刑に服していたが、冤罪であることが明らかになる。キャロルがその選手をトライアウトに招いたことが全米中で報じられた。〝カレッジでは超一流、NFLでは並のHC〟と評されるキャロルだが、情に溢れたエピソードをきっかけに、チーム内でケミストリーが生じるかもしれない。

 既に伏線は張り巡らされた。スーパーボウルまで至高のエンターテインメントを満喫したい。俺がアメリカ人だったらと想像してみる。週末はひたすらカレッジフットとNFLを観戦し、ラスベガスのブックメーカーに膨大な金額を寄付する……。そんな姿が目に浮かぶが、あくまで仮定の話だ。ひねくれ者ゆえMLBやNHLのファンになり、NFLを無視している可能性だってある。


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「生きものの記録」~黒澤明が突き付ける狂気の徴

2012-09-06 23:41:25 | 映画、ドラマ
 テレビ画面に狂気が滲んでいる。永田町の住人は最近、カメラ目線で〝信念らしきもの〟を語っているが、騙され続けた結果、エックス線を備えた目に、彼らの病状と本音が透けて写る。連中は国会議員の地位を守るためだけに蠢く獣なのだ。

 霞が関に操られ原発維持に尽力した細野環境相が、イケメンという理由だけで民主党代表候補に推されている。これぞまさに狂気の沙汰だ。橋下徹大阪市長も馬脚を現しつつある。脱原発の看板を下ろし、新鮮と程遠い安倍元首相、東国原前宮崎県知事との連携を図っている。TPP賛成を掲げながら、TPP反対の急先鋒である松野頼久議員と組むのも常人には理解不可解だ。そんな橋下氏を持ち上げるメディアに、正気の欠片もない。

 正気と狂気……。日本人は今、どちらに近いのだろう。<3・11>以降、正気と狂気の切り分けが変わったことは、岩井俊二、塚本晋也、園子温らの作品に表れている。WOWOWで「生きものの記録」(1955年)を見て、改めて衝撃を受ける。テーマは<放射能を巡る正気と狂気>で、当時35歳だった三船敏郎が70歳の中島喜一を演じている。一代で富を築いた喜一は、放射能の脅威に怯え、ブラジル移住を決断した。

 安穏に慣れた家族は、喜一を準禁治産者に認定することを裁判所に申し立てる。喜一には複数の愛人がいて、認知問題も抱えていた。本作は愛憎、打算、葛藤に満ちたホームドラマでもある。雷鳴に怯えた喜一が婚外子の赤ん坊に覆いかぶさり、かえって泣かせてしまうシーンに、「KOTOKO」(11年、塚本晋也)が重なった。同作は<3・11>を意識的に織り込んだ作品で、主人公の琴子(Cocco)は喜一同様、精神病院に送られる。

 55年といえば俺が生まれる1年前で、画面から零れる昭和の薫りにノスタルジックな気分になる。当時の邦画に感じるのは老いの形だ。志村喬が等身大で表現する成熟に、自身の青さが恥ずかしくなる。志村が演じる原田は調停委員として裁判に関わるうち、<放射能を巡る正気と狂気>に惑い始める。「日本の鳥や獣がこれを読んだら逃げ出すだろう」と、「死の灰」の感想を息子に話していた。

 原爆投下から10年、核や放射能への忌避感は<3・11>後の現在以上に国民に浸透していた。幼い頃、核実験後に雨が降ろうものなら、幼稚園や小学校は集団下校になった。レインコートに傘の完全防御態勢である。「水爆がどこに落ちようが、放射能は日本の上に流れてくるんですってね。毛が抜けて、骨が腐って」……。愛人の父の言葉に不安と怒りが増した喜一は、家族を集め最後の説得を試みた。

 愛人の父の台詞を裏付けるのが、「ヒバクシャ~世界の終わりに」(03年、鎌仲ひとみ)だ。秀逸なドキュメンタリーで肥田医師は、チェルノブイリの事故と特定地域(北海道、東北、北陸)における乳がん患者の死亡数、中国の核実験と日本国内の乳幼児死亡率の関連をデータで明示していた。

 「こんな時代では安心して仕事もできない」……。黒澤作品で音楽を担当していた早坂文雄が、ビキニ環礁での水爆実験についてこう漏らした。その言葉にインスパイアされて黒澤は本作を撮ったが、早坂は完成を待たず病に斃れる。黒澤と早坂による<音と映像のパラドックス>でまず浮かぶのが「生きる」(52年)の名場面だ。がんを宣告された主人公(志村)が下りる階段を、華やいだ若者たちが上がっていく。本作ラストに、早坂へのオマージュが込められている。母子と交錯して精神病院の階段を下りたのは、またも志村だった。

 「この患者を診ていると、正気でいるつもりの自分が妙に不安になる。狂っているのはあの患者なのか、こんな時世に正気でいられる我々がおかしいのか」……。喜一の担当医は原田にこう語る。公開後半世紀を経て、沈黙と無関心が狂気の徴になった。この国を覆う狂気は、<政官財+メディア>に従順な羊の群れに潜んでいる。
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「白の闇」が問う人間の深淵

2012-09-03 23:22:53 | 読書
 アニメ映画「アシュラ」(ジョージ秋山原作)が今月末に公開される。HPトップに躍るキャッチフレーズは「眼を、そむけるな」……。飢饉と戦乱の世、我欲に囚われた人々は獣と化し、地獄さながらの光景が現出する。1970年夏、「少年マガジン」で連載がスタートしたが、PTAなどのバッシングで翌年春に打ち切られた。結末をスクリーンで確認したい。

 「眼を、そむけるな」の内なる声に叱咤され、「白の闇」(95年、ジョゼ・サラマーゴ/NHK出版)を読了した。構想は骨太で、表現も冴え渡っている。ミステリーの要素も濃い寓話であるにもかかわらず、〝自主的打ち切り〟を何度も試みた。繰り返される<地獄さながらの光景>に、内なる軟弱さが悲鳴を上げたからである。

 雑踏で起きた異変が物語の起点になる。車を運転して男が突然失明し、その男を自宅に送った帰りに車を失敬した男、最初に見えなくなった男を診察した医者、その患者が連鎖的に白の闇に襲われる。原因不明の伝染病と見做した政府が失明者を隔離した精神病院は、瞬く間にキャパを超えた。病院内の混乱は、全世界の縮図として描かれる。

 語り部は失明を唯一逃れた医者の妻で、当初はそのことを隠していた。ちなみに、登場人物には名前が一切ない。本作の設定と重なるのが「ペスト」(カミュ)だ。発表時(1947年)の時代背景から、<ペスト=ファシズム、立ち上がる人々=レジスタンス>と読み解く識者が多かった。

 「白の闇」の帯には辺見庸の推薦の言葉が記されている。いわく「私たちはすでに、心の視力を失っている」……。「ペスト」の翌年、オーウェルは「1984」を発表した。「白の闇」は進行形の管理社会への警鐘であり、カミュとオーウェルへの半世紀後のアンサーと捉えることも出来る。だが、作品から滲んでくるのは、寓意より生々しく吐き気を催すようなリアリティーだった。

 理不尽と非条理がはびこる病院で、医者夫妻、最初に見えなくなった男とその妻、サングラスの娘、斜視の少年、白内障の老人は強い絆で結ばれる。医者の妻は唯一目が見える者として、食料の分配をめぐる不正、女性たちへの暴力と闘うが、生きるために屈従を受け入れようとする者が大勢を占めた。

 警護兵が全て視力を失ったこともあり、隔離されていた者は病院から解放される。医者の妻は仲間を導いて外の世界に出る。人が獣化する中、〝人間らしい心を持つ犬〟も加わった。街では、病院の混乱をスケールアップした事態が進行していた。倫理や公共心は<誰も見ていない状況>で急激に劣化する。そのことのメタファーといえるのが、所構わず排泄された糞尿と悪臭だ。路上に転がった遺体に野犬とカラスが群がる光景は、「アシュラ」さながらである。

 「ペスト」では人間の尊厳が謳われ、リウー医師の元に自己犠牲を厭わぬ者が集まってくる。<自分ひとりが幸せになることは恥ずべきことかもしれない>というランベールの言葉に胸を打たれた。原罪とは何か、神は存在するのか、勇気ある者が斃れる現実に神はどう応えるのか……。深遠なテーマをカミュは提示していた。

 「白の闇」でリウー的存在なのは医者の妻だが、人間不信と絶望の方が大きい。ハイライトというべき教会のシーンが視力回復に繋がるが、作者の意図を十全に理解することは出来なかった。訳者(雨沢泰)あとがきによれば、本作には「見えることについての考察」(04年)と題された続編がある。旧に復してから4年後、首都で選挙が行われ、80%以上の有権者が白票を投じた。陰謀の主犯と疑われるのが「白の闇」の医者の妻という。併せて読めばサラマーゴの作意が浮き彫りになるはずで、邦訳を待ちたい。

 1922年生まれのサラマーゴは無神論者のポルトガル共産党員で、新聞記者を失職した75年、専業作家を目指す。スタートは遅かったが60代、70代で問題作を次々に発表し、若い頃から世界的名声を得ていたギュンター・グラスに1年先んじて98年、ノーベル文学賞を受賞する。

 60代で花開いた表現者で思い出すのが古今亭志ん生だ。サラマーゴと志ん生の生き様は俺にとって理想だが、真似をするのは絶対に不可能だ。あまりに長く怠惰で不摂生な時間を過ごしたせいで、既に生ける屍状態である。
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