決選投票に残った2人には新鮮味に欠けたが、野田佳彦元首相が立憲民主党新代表に選出された。かつて野田政権は安倍政権への露払いに徹していた印象が拭えず、枝野幸男氏は官房長官時代、「(放射能は)直ちに影響はない」と繰り返していた。俺が注目していたのは吉田晴美候補で、岸本区長や女性区議たちとともに〝改革の拠点〟杉並を支える一人だ。今後の活動に期待したい。
映画界で6年ぶりの奇跡と騒がれている「侍タイムスリッパ-」(2024年、安田淳一監督)を見た。先月17日に池袋シネマロサで公開された本作は、ネットや口コミで面白さが伝わり、「カメラを止めるな!」(2018年)を想起させる勢いで上映館を拡大している。俺が見た新宿ピカデリー(シアター2、キャパ300)は6割方埋まっていた。
タイトル通り侍がタイムスリップする。時代は幕末、会津藩士の高坂新左衛門(山口馬木也)は長州藩士の風見恭一郎(冨家ノリマサ)を討てとの藩命を受け、雷雨の中、剣を交える。同行した村田佐之助は風見の峰打ちを食らいもんどり打った。さて、決着という時に刀に落雷し、失神した高坂は140年を経て東映京都撮影所にタイムスリップしていた。服装や髪形に違和感はなく、高坂はオープンセットに溶け込んでいく。
撮影中の時代劇に入り込んだ高坂を気遣った助監督の山本優子(沙倉ゆうの)は、別の現場で頭を打って昏倒していた高坂を病院に搬送する。意識が戻って窓の外を眺めた高坂は街の景色に驚き、元の姿で脱走した。空腹で蹲っていた高坂を助けたのは、時代劇のロケ地に使われている寺の住職夫妻で、知人である優子に連絡する。
侍言葉が抜けない高坂は記憶喪失状態で寺に居候する。優子の口添えで殺陣師の関本(峰蘭太郞)に弟子入りした高坂は、斬られ役として評価されていく。ちなみに最初に関本役にキャスティングされていた福本清三は3年前に亡くなり、エンドロールで献辞が捧げられている。峰は福本の弟子で、主演の山口とも交流があった。
高坂が体験するカルチャーショックが絶え間ない笑いを引き起こすが、本作の肝は<ものづくりの精神>だ。シナリオが面白いと感じた撮影所は、日本の映画とドラマに貢献してきた伝統の力を結集して完成に協力する。時代劇を復興させたいという夢に向け、職人たちが力を注いだ。安田監督は一人で10役以上をこなした。助監督役の沙倉は、実際の撮影でも助監督を務めている。安田は米作りが本業だから、<ものづくりの精神>がスクリーンに息づいていた。
ラストの30分はトーンが異なる。かなり前に撮影所にタイムトリップしていた仇敵の風見は今や大スターで、新作の時代劇で共演するべく、高坂に声を掛ける。撮影は進行するが、自身がタイムスリップした後、会津藩の人々がなめた辛酸を知った高坂は、〝自分だけが恵まれていていいのか〟の思いから、ある提案をし、風見も了承した。存在理由を懸けた闘いに息をのみ、心が潤んだ。
素晴らしい作品に彩りを添えたのは、高坂と優子の心の揺らぎだ。演じる側は50歳と40歳だが、年齢を超越した恥じらいと和みに満ちていた。沙倉は職場にいても目立たないような風貌だが、観賞しているうちに俺も惹かれていく。恋のリアリティーも本作を支えていた。村田佐之助がタイムスリップするラストに笑ってしまった。
王座戦第2局は先手の藤井聡太王座(七冠)が123手で永瀬拓矢九段を下し、防衛に王手を懸けた。75手目までは前例のある将棋で、凄まじいスピードで進行する。永瀬の△76手目9五歩で盤面は止まり、長考の応酬になった。その後は攻防とも藤井の妙手が炸裂し、解説陣を驚嘆させる。藤井の進化は大谷の<51-51>に匹敵する奇跡だ。
今回は将棋好きとしても知られる保坂和志著「ハレルヤ」(新潮文庫)を紹介する。俺と保坂は生年月日が同じで、親近感を覚えた時期があった。「季節の記憶」には他者への寛容さと水平思考が読み取れ、「残響」に綴られた全共闘世代への不信に共感を覚えた。保坂ワールドの旅人になろうかと思ったが、3作目の「未明の闘争」で挫折する。時空を超えて構築された同作を全く理解出来なかった。〝保坂はハードルの高い作家〟というイメージがインプットされ、本作を手にしたのは9年ぶりになる。
保坂は大の猫好きだが、俺はこの間、2匹の熟女ミケ猫に癒やされてきた。帰省した際に寄宿する従兄宅の飼い猫と、彼女が4年前に死んだ後、アパート近くに現れた野良猫で、くしくも名前はともにミーコだ。俺の中で〝猫密度〟が増したことで、「ハレルヤ」にもすんなり入り込めた。本作は2018年に発表された表題作、「十三夜のコインランドリー」、川端康成賞受賞作「こことよそ」と「生きる歓び」(1999年)で構成されている。文字数に限りがあるので、「ハレルヤ」をメインに、「こことよそ」を簡単に紹介したい。
「ハレルヤ」にはミケの花ちゃんとの触れ合いが記されている。保坂夫妻は谷中霊園で蹲っていた赤ちゃん猫と出会う。左目がない猫は花ちゃんと名付けられ、保坂夫妻の懸命なに看護もあって生き長らえる。16歳で右目の視力を失い、17歳でリンパ腫が見つかった。死んだのは18歳8カ月の時である。全編に窺われるのは猫愛で、緊急時には仕事(作家業)を後回しにして対応する。
保坂は猫との30年もの生活で、言葉の限界を知る。<言葉を使うから愚図になる>のだと。花ちゃんら猫は<心によぎった感触を伝えようとするが、人が表す感触は薄められたり、逆になったりする>と記す。「言葉や論理は人間を縛り付け、不自由にさせるものだと思っています」とインタビューで語っていた。花ちゃんは<私たち(保坂夫妻)の気持ちを使って自分の気持ちをあらわすようなことをしていた>と書いていた。保坂だけでなく、猫たちと暮らす人は様々な思いを感じることで救われているのだ。
保坂の観察力に納得するのは、右目しか見えず、晩年には視力を全く失う花ちゃんの体の動きだ。花ちゃんは他の先輩猫と比べても遜色ないはしこさを発揮していたし、視力を失っても記憶に基づく直感で歩き回っていた。猫の視力は0・1~0・2程度というが、野良猫ミーコも空腹時、30㍍ほど先から俺に直進してくることがある。聴覚と嗅覚、そして記憶力に秀でていることの証明で、他の人に餌をもらっている場面に出くわすと、きまりの悪そうな表情をする。その表現力に驚かされるのだ。
「ハレルヤ」には猫と人の生死を超えた連なりが描かれていたが、猫が出てこない「こことよそ」は、もたらされた訃報を軸に、時空をカットバックする保坂独特の世界観が現れていた。ジャンルは重ならないが、音楽への愛着は共有しているし、とりわけ長崎俊一という接点が見つかった。保坂は長崎と友人で映画製作には協力していたし、学生時代は江古田で暮らしていた俺は、日芸時代に長崎が監督した自主映画を江古田文化(1984年閉館)で見ている。インディー時代の代表作「ユキがロックを棄てた夏」や「ハッピーストリート裏」の主演は内藤剛志である。
作品の内容も心に染みたし、同時期に青春時代を過ごした旧友と再会したような幸せな気分を味わった。折に触れ、作品群から選んでいきたいと思う。
少子高齢化が進み、この20年で円の価値が大きく低下したことを考えれば、成長なんて言葉にリアリティーはない。俺が考える日本の問題点は、格差と貧困、ジェンダー(≒人権)、エネルギー(脱原発)で、<みんな仲良く、のんびりやっていこうよ>と生き方の転換を掲げる政治家がいてもいいと思うが、自民党総裁選に立候補した9人の中にはもちろんいない。
有力候補のひとりは小泉進次郎氏だが、兄である孝太郎がイメージチェンジした映画「愛に乱暴」(2024年、森ガキ侑大監督)を新宿ピカデリーで見た。原作は吉田修一で、当ブログでは小説を7作、映画を2本紹介してきた。今稿で計10回目になる。吉田の作品は多岐にわたり、青春小説からサスペンスまで、純文学とエンターテインメントの境界を疾走する。描写は丁寧かつオーソドックスで、行間には濃密な気配が漂っている。映画「愛に乱暴」ではスクリーンから異様な緊張感がこぼれ落ちていた。
主人公は主婦の桃子(江口のりこ)で、以前勤めていた会社が経営するカルチャーセンターで石鹸教室の講師を務めている。桃子の仏頂面が作品の主音で、はなれでともに生活する夫の真守(まもる)を演じるのは、誰かと思えば前髪を垂らした小泉孝太郎だ。ドラマで熱血漢を演じる際とは大違いで、桃子の言葉にまともに答えることもない。セックスレスの仮面夫婦といった雰囲気だ。
母屋で暮らしているのは姑の照子(風吹ジュン)だ。本作には冒頭から不穏な気配が漂っている。照子と桃子は親しく会話しているが、笑顔の影にある底意が表情に滲んでいる。近所のゴミ集積所で火事が頻発し、桃子が餌を与えている野良猫のぴーちゃんが、鳴き声は聞こえるのに姿を見せなくなった。ちなみに、家庭菜園を営む照子は、畑を荒らす猫を嫌っている。酷い生理痛に婦人科を受診した桃子の日課は妊活する女性のツイッター(X)だった。
石鹸教室の存続が怪しくなってきて、桃子は元上司に直談判するがはぐらかされる。出張から帰ってきた真守のキャリーケースをチェックしてみたら、ワイシャツは奇麗に畳まれていた。実家にも居場所はなく、真守に決定的な事実を告げられる。<付き合っている女性が妊娠したから、別れてほしい>と……。真守の交際相手は教師の奈央(馬場ふみか)だった。
桃子の仏頂面がストレス顔へ、そして狂気の色を湛えるようになる。工具店でチェーンソーを購入したあたりから、想定外のホラーに突入したかと思ったが、桃子は猫の鳴き声がする床下を掘り、泥まみれの顔でうずくまる。床下とは桃子の孤独のメタファーだったのか。ネタバレになるから書かないが、照子と真守の会話から、桃子と真守の結婚の経緯がわかり、桃子がチェックしているツイッターの書き手が判明する。女性にとって子供の意味がいかに大きいかが本作から読み取れた。
照子が栽培したスイカを持って、桃子は奈央の元を訪れる。部屋を出た時に聞こえた音も何かを暗示していた。真守は「君が楽しそうにすればするほど、俺は楽しくない」と桃子に言う。愛を乱暴にぶち壊す残酷な台詞だが、桃子にとって救いの言葉は工具店店員の「いつもゴミ集積所を奇麗にしてくれてありがとう」だった。愛について大上段に語りがちだが、そんな些細な気遣いが紡いでいるのだろう。
ラストで桃子は、母屋の縁側でソーダアイスを囓っている。照子は「母屋は売って出ていくから、はなれはしたいようにして」と話していた。桃子が見ていたのははなれの解体だから、違和感を覚えた。桃子は解き放たれた表情をしていた。解体の轟音とチェーンソーの騒音が脳内でシンクロし、冷んやりする余韻が込み上げてきた。
効率的な収益を図る広告アルゴリズムを利用しているのがトランプ支持派で、社会の<タコツボ化>により、人々の分断は進行する。米大統領選に向けてのテレビ討論会で、トランプは<移民は犬や猫を食べている>、<あなた(ハリス)はマルクス主義者>といった愚かしい発言を繰り返した。だが、トランプに一票を投じる人々は〝常識〟と捉えたに相違ない。アメリカだけでなく、フェイク、ヘイト、陰謀論が蔓延する社会に恐怖さえ覚える。
さて、本題……。当ブログで中国の小説を紹介したのは「心経」(閻連科著、2021年12月27日の稿)のみだ。一党独裁、硬直した官僚機構、都市と地方の格差、はびこる拝金主義を穿ち、発禁処分を受ける。中国での文化活動は常に共産党との距離が問題になるのだ。2作目に選んだのは「犯罪通知書 暗黒者」(周浩暉著、稲村文吾訳/ハヤカワ・ポケット・ミステリ)だ。
ネット上での連載で人気を博し、ネットドラマ化された作品は驚異的な再生数を記録しているという。<刊行物を読む>というアナログ活字世代の俺とは依拠する基盤が異なるかもしれないが、夏バテした脳にも言葉はくっきり印字された。<犯罪は普遍的なテーマだから、推理小説は、それが中国のような権威主義的な政治体制下で書かれたものでも文化の違いを乗り越えられる>(要旨)と作者がインタビューで答えていた通り、本作は欧米でも絶賛された。
中国で刑事は公安局所属という括りになっているようで、日本での公安とは異なる。2002年10月、ネットカフェの情報をチェックしていたA市公安局の鄭郝明刑事が殺される。現場に姿を現したのは龍州刑事隊長の羅飛で、管轄外でありながら鋭い分析力で周囲の称賛を得る。奇妙な動きに訝しさを感じたのは捜査本部を仕切る韓灝で、俺も怪しさを感じたが、羅飛こそ周浩暉作品のメインキャラクターで、高村薫作品における合田雄一郎のような存在だ。
捜査本部の主要メンバーには、韓灝と助手的な存在である尹剣刑事、特殊警察部隊隊長の熊原とその部下の柳松、技術顧問でIT専門家の曾日華、警察学校で犯罪心理学を教える女性の慕剣雲と個性的な面々が揃っている。羅飛にとって本件は1884年に繋がっていた。警察学校でともに学んだ恋人の孟芸と親友の袁志邦の爆殺事件と深く関わっているからだ。エウメニデスによる殺人予告が警察の警戒を嘲笑うように実行されていく。
ミステリーだからネタバレは抑えたい。描写は稠密で、様々な切り口から真相に近づいていく。エウメニデスには復讐の女神と慈愛の女神の二つの意味があり、物語の展開にも即している。羅飛と韓灝が抱える懊悩がストーリーの回転軸になっていた。キーパーソンである黄少平の五感が鄧小平に似ていると思ったが、大した意味はなさそうだ。
本作は3部作の序章で、第2部「宿命」、第3部「離別曲」と続く。充実した本作に感嘆するだけでなく、続編の邦訳を待ち望んでいる。
テイラー・スウィフトの恋人はチーフスTEケルシーで、初戦も観戦に訪れていた。テイラーは民主党支持者で、いずれハリス支持を表明するだろうが、トランプ陣営は脅しをかけてくるだろう。メディアを巻き込む空騒ぎにインテリ層は辟易しているはずで、前稿で紹介したポール・オースターに限らず、アメリカの作家でNFLファンを探すのは難しい。オースターの小説では頻繁に野球について語られる。
老人施設に暮らす母と面会するため日帰りで京都に向かうなど、睡眠不足の日々が続いた。暑さも衰えず、脳も溶けそうな状態では込み入った映画を敬遠するしかない。友人が<「キック・アス」に匹敵する超絶エンターテインメント>と評価していた「ポライト・ソサエティ」(2023年、ニダ・マンズール監督)を新宿ピカデリーで見た。パンキッシュでスピード感溢れるコメディーに、屁理屈好きの俺の脳も、タイトルの〝ポライト=礼儀正しい〟とは対極のバチバチはじける展開に踊っていた。
舞台はロンドンのパキスタン人コミュニティーだ。リア・カーン(プリヤ・カンサラ)は自称〝怒りの権化〟の高校生で、スタントウーマンを目指して武道の修行に励んでいる。練習相手の姉リーナ(リトゥ・アリヤ)は画家志望だったが挫折した。カンフーと空手がごっちゃになっている感じもするが、本作を観賞する際には些細なことにこだわってはいけない。男女別学がイスラム社会の基本なのかは知らないが、リアが通うのは女子高だ。親友のクララ、アルバに加え、組み手で圧倒されるボスキャラのコヴァックスも同級生だ。
スナク前首相はインド系だったが、移民というより富裕層に与したことで国民の支持を得られなかった。それはともかく、南アジア系が英国社会に根付いていることは本作からも窺えた。その象徴というべきは上流階級の女帝でゴージャスな装いのラヒーラ(ニムラ・ブチャ)だ。カーン一家は夜会に招かれたが、リーナはラヒーラが溺愛する息子のサリム(アクシャイ・カンナ)の目に留まり、交際することになる。サリムはハンサムな医者で、結婚には申し分のない条件を揃えていた。
この流れに異議を唱えたのはリアだった。姉は自分と同じ変わり者で、上流階級の妻の座に収まるはずがないと考え、婚約を破棄させるため、クララやアルバの力を借りて策略を巡らせるがうまくいかない。周囲は〝仲の良い姉と離れたくないから拗ねているだけ〟と見ていたが、暴走するうち、サリムがラヒーラのために恐るべき実験をしていることを知ったのだ。
遺伝子組み換えやクローン人間作製といったシリアスなテーマを扱いながら、本作は歌って踊るボリウッド的要素を強めていく。とはいえ、ボリウッドに詳しい映画通によれば、貧困や差別など社会性を追求した作品も多いというから、アンビバレントというのも俺の偏見だろう。結婚式でリアが踊るシーンやラヒーラとの対決など、フィジカルな〝軋み感〟が暑気を払ってくれた。予定調和的なラストにも安堵する。
面白かったのは、いかにもボリウッド的なサントラに、ケミカル・ブラザーズや浅川マキの「ちっちゃな時から」が混じっていたことだ。ニダ・マンズール監督はイスラム系のガールズパンクバンドが活躍するドラマで人気を博したという。本作は長編映画デビュー作というが、多様性を志向する作品が期待出来そうだ。
ポール・オースターの死を知ったのはゴールデンウイーク明けだった。遅ればせながら、希有のストーリーテラーの死を心から悼みたい。紀伊國屋書店で訃報を伝えるポップの下に代表作が並んでいて、「幻影の書」(2002年、柴田元幸訳/新潮文庫)を手にした。オースターは1980年代から活躍していたが、なぜか縁がなく、読んだのは「ブルックリン・フォリーズ」、「ムーン・パレス」、「幽霊たち」に次いで「幻影の書」が4作目である。
併せてWOWOWで放映された「スモーク」(1995年、ウェイン・ワン監督)見た。ハーヴェイ・カイテルとウィレム・ハートの共演で、ブルックリンのたばこ屋を舞台に、人々の絆が優しく紡がれていた。原作は「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」で脚本もオースターが担当している。オースターは90年代、複数の映画製作に関わったが、その成果の表れというべきが「幻影の書」だ。
大学教員のデイヴィッド・ジンマ-は飛行機事故で妻子を亡くした。孤独と絶望の淵で喘ぎ、漂流するのがオースター作品の主人公の常だが、他者との扉を閉ざしていたデイヴィッドの再生のきっかけになったのは、サイレント時代の映画だった。監督のへクター・マンは12本を撮り終えた後、姿を消している。デイヴィッドは国内だけでなくヨーロッパにも足を延ばし、映画のコピーを入手する。
オースターの小説を20作以上翻訳している柴田元幸氏は、本作におけるヘクター作品の分析の巧みさを、オースター自身が関わった映画製作の精華と綴っている。へクターの作品は全て短編のドタバタコメディーで、主演も務めている。へクターはラテン系の色男で、業界ではプレーボーイとして鳴らしていた。失踪後のへクターについて手掛かりがなかったデイヴィッドの元に、へクターの妻を名乗る女性から手紙が届く。そして、へクター夫人の使いとして訪れたアルマとの数奇な出会いが物語を加速させていく。
アルマはヘクター監督作で撮影を担当した男の娘で、へクター夫妻とは旧知の関係にあるだけでなく、同じ農園で暮らしている。サイレント以降、へクターが撮った映画には母親が出演しており、へクター夫妻とは強い縁で結ばれていた。出会った夜に恋人になったアルマに誘われ、デイヴィッドは死の床に伏すヘクターの元に向かう。失踪の理由とその後の人生が、伝記を綴っているアルマに、そしてヘクターの一人称で語られる。へクター・マンとは、デイヴィッドとアルマを紡ぐ糸のような存在だったのだ。
映画を含めオースターの作品には5作しか接していないから、全容を語るのは無理がある。〝ストーリーを積み上げて予定調和的なカタルシスに至る〟というイメージを抱いていたが、本作は当てはまらない。ラストで全ては崩壊し、へクターの記憶も記録も灰の中に埋もれていくのだ。無と終焉が滲んでいたが、デイヴィッドは希望を捨てていない。
オースターを読んでいると、言葉の塊が脳内で破裂し、溶け落ちてくるような感触を覚える。読書の愉楽に痺れ、ページを繰る指が止まらなくなるのだ。膨大な数の未読の小説を、折を見て読んでいきたい。