大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年11月08日 | 写詩・写歌・写俳

<797> 雁が音幻想 (2)

          雁が来て燕が去りて紅葉照る 人生論あり 幸福論あり

 私たちが書き起こすものは、大方が自分以外の人に対するメッセージであり、書き起こすことはその意志の行使にほかならない。そのメッセージが膨大な量であることは、書店の書物の山を見ればわかる。この状況は、私たちに自分の考えや思いをほかの人に聞いてもらいたいという気持ちがあるからで、この気持ちがある限り、この状況はずっと未来永劫続くと思われる。

 それで、書き起こされた内容はと言えば、人それぞれであり、千差万別、中には軽薄なものもないではないが、大方は真摯に綴られ、語られていて、そのほとんどに自らの人生哲学が表出されている。読むものは、大上段に振りかざしたものでなくても、その行間には筆者が抱いている思い、例えば、人生論や幸福論が滲み出ているもので、それを読み取ることが出来る。

 このように心を傾け、哲学する人たる私たち人間は、ほかの生きものと、その能力において、大変高等的であるとは言える。しかし、いかに高等的であっても、大宇宙、大自然から見れば、ほかの生きものとそれほど変わるものではなく、ちっぽけな微粒の存在であり、まず、この微粒の一員として私たちの生はあると言ってよい。そして、これをベースに哲学もあるいは芸術も成り立っていると言ってよい。だから、いかに人生論や幸福論を戦わせても、自然を抜きにしては語り得ないということが出来る。

                                

  例えば、四季の移り変わりを考えるに、雁が来て、燕が去って、燃える紅葉の季節を迎えるわけであるが、そんな当たり前のような自然の変化が私たちの生の上にはまずあって、私たちの思い(人生論や幸福論)に微妙に関わっていると言える。で、私たちはこの自然の微妙な変化が私たちの思い(人生論や幸福論)によりよく反映されることを願って止まないのである。そして、この自然と思いが私たちの中で、互いに気持ちよく関わり合うことによって、すばらしい「時」を得る。この「時」こそが私たちの人生における一番すばらしい「時」であるはずで、この「時」を私たちは「至福の時」と呼んでいる。

  この「至福の時」について、私は、春の秋篠寺(奈良市秋篠町)でそれを感じたことがある。白木蓮の花盛りにその花を撮りたいと思って出かけた。花は予想どおり満開で、天気も上々だったので、境内では古木の白木蓮を囲むように人々が三三五五集まっていた。カメラを向ける人、スケッチブックを開く人、俳句のノートに鉛筆を走らせる人、乳母車の家族連れ等々。その古木の一樹の花を囲んでみな「至福の時」を満喫しているように見えた。写真はイメージ。左からモミジの紅葉、マガモ、秋篠寺のハクモクレン。

    至福とは胸裏より湧く快さ たとへば人の眼差しに見ゆ