<819> 十一月の終わりに際して
往く秋や ABCD それぞれに
古書を繙いていると、春正月(はるむつき)、夏四月(なつうづき)、秋七月(あきふみづき)、冬十月(ふゆかむなづき)と書かれているのを見ることがある。これは、即ち、旧暦(太陰太陽暦)の暦法によるもので、立春の二月五日ごろが一年のスタートになり、ここが春正月の始まりであるから、四月は夏で、夏の始まりはここ、即ち、現在の五月五日ごろの立夏からということになる。従って、旧暦では、現在の八月五日ごろが立秋になり、七月は秋ということになる。また、立冬は現在の十一月五日ごろで、旧暦で言えば、十月は冬ということになるわけである。
所謂、立春、立夏、立秋、立冬は旧暦、つまりは、暦の上のことで、現在用いている新暦(太陽暦)より約一ヶ月遅れのずれを生じている。新暦を用い始めたのは案外歴史が浅く、近代になってからで、それまでは旧暦を用いていたので、古文書に触れるときはこのことに注意しないといけない。俳句の季語などは多く旧暦によっているから、確かめる必要がある。
ところが、最近はこの旧暦と新暦が絡み合って、この季語なども実に怪しくなっている。菊は重陽の節句に言われるように旧暦の九月九日で、現在の新暦に合わせれば、十月九日ということになるが、菊の花の実感は文化の日の十一月初旬ごろであるから、日月のずれを感じる。これに最近は温暖化の影響が私たちの感覚に加味されて来ているので、実にややこしくなっている。
今年は十月にも夏日があったから一層感覚がおかしくなる。紅葉の季語は秋であるが、大和の平地では今が黄葉の真っ盛りである。今日は十一月の最後の日。明日からは師走である。無季俳句というのもあるが、季語を論法とする俳句では、芭蕉のような紀行文に添えたり、吟行と称してドキュメントして詠む作句などはどのような位置付けになるのだろうと思われて来る。日付からすれば、冬であるが、句に詠まれるものは秋という具合になる。これでよいのだろうか。
師走の紅葉を写生してドキュメント的に作句したとして、これを俳句はどのように捉えるのであろうか、師走という日付で詠んだ紅葉は秋とは言えないから、季語の論法で言えば、このような句は成り立たないということになる。明日、師走を迎えるに当たって、以上のようなことが思われたのであった。今日の大和は小春日和の暖かな一日で、天理市に所用で出かけたが、今、街路樹の銀杏が黄葉した葉を散らしているところで、写真にした。その黄葉の下ではいろんな人々の姿が見られた。私はこの風景を「往く秋」と表現したのであるが、どうなのであろうか。
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黄葉した銀杏を見ていたら、市民から募ったボランティアの人たちがやって来て歩道に積もった落葉を掃き始めた。乳母車の母子が通り過ぎて行く。赤いヘルメットのバイクが走り、赤色灯を点滅しながら救急車が息せき過ぎて行った。銀杏は何かを告げるように天に向って伸びていた。ボランティアの人たち、乳母車の母子、バイクの人、救急車の人。そして、私も、みんな思い思いに存在し、移りゆくこのかけがえのない時を過ごしている。冒頭に掲げた俳句の「ABCD」の「D」は「ABC」を含むみんなという意味を持たせたつもりなので、「D」を「みな」と読んでいただいてもよかろうかと思う。明日は師走。
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