大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年11月25日 | 創作

<814> 幻想短歌 「若狭恋歌」 (1)

      若狭とは愛する君の青春歌 雲のはたての一筋の紅

 ここに掲げる「若狭恋歌」は、歌人山川登美子の歿後百年に当たる年の夏、学研の徒である私(二十九歳)の心の中に蘇った彼女に寄せる恋歌である。私は彼女を知るうち、彼女の生き方に哀れを思いながらも、言い知れない愛しさというものを抱くようになった。それは不幸をも招き入れる彼女の情のやさしさに触れ得たからに違いない。男と女のこの世で、まこと女性らしい女性として、男が男らしさのために傷つくように、彼女は、女が女らしさのゆえに傷つくことを受け入れ、生涯を通した。私はこうした彼女に若狭の女性のイメージを膨らませ、次第に彼女に惹かれていった。

 私は彼女の歌を何度も読み返した。彼女は恋に敗れ、病気に挫け、負け戦を辿った。その短い人生の歩みの中で、恨み心を詠んだ歌を残すに至ったときも、歌に対する気持ちの素直さに変わるところはなく、歌にその思いを貫いた。これは彼女の生立ちにもよるところであろう。恋に敗れ、病に鞭打たれていった純心な少女ごころの一途さが私の心の中に灯を点し、彼女の女性像を私の理想の形に作り上げさせていったのである。そして、いつしか夢にまで見るようになった。ある春のたけなわなころ、私は彼女の愛する地、言わば、魂の故郷である若狭へ旅をしたのであった。

 ここに掲げた一連の恋歌は、この旅を契機に出来上がっていった彼女への思いによるものである。この募る思いの中で、彼女はそのときどき、私の中に姿を現し、一首一首、私の思いを高鳴らせていった。こうして歌は四十首に及んだという次第であるが、彼女への恋歌を披露する前に彼女の生涯について触れて置いた方がよいように思われるので、以下に彼女の生涯を記して置きたいと思う。

                        

 彼女は明治十二年(一八七九年)七月十九日、福井県遠敷郡雲浜村竹原に、銀行頭取山川貞蔵の四女としてこの世に生を受け、四十二年(一九〇九年)四月十五日に、療養のために戻っていたこの郷里の実家で亡くなった。享年二十九歳。思えば、私は今、同じ二十九歳であるから、私の年齢にして彼女はこの世を去ったことになるわけで、如何に短い人生であったかがわかる。

 その彼女の二十九年間を辿ってみると、明治二十八年、十五歳の春、大阪の梅花女学校に入学し、郷里を離れ、長姉の嫁ぎ先に寄寓し、希望に満ちた学園生活を送った。短歌には以前から親しんでいたが、女学校の卒業前後からいよいよ興味を抱き、三十三年、与謝野鉄幹(寛)が新詩社を立ち上げると同時に入社して、鉄幹や与謝野晶子と運命的な出会いをすることになる。

 以後、新詩社の『明星』に作品を発表するようになり、歌仲間として知遇を得ていた晶子と師匠に当たる鉄幹を巡って恋愛問題を起こしたことは有名で、よく知られるところである。事情を伝え知った父より実家に呼び戻され、その年の十二月に本家の養子である山川駐七郎と結婚し、夫の仕事の関係で上京した。

  情熱的であった晶子は鉄幹との恋愛に走り、上京して、三十四年に前妻と別れた鉄幹と結婚した。これは積極的な晶子が消極的な登美子を退けた恋愛の顛末であったわけであるが、彼女の気持ちからすれば、晶子に鉄幹を譲った形になったわけで、彼女にはこれが一つの転機になった。

 彼女はその後、夫の肺患のため、再び郷里に帰らなくてはならなくなった。夫の病状は療養の甲斐もなく進み、間もなく亡くなった。この不運な状況の中、彼女は再び上京し、日本女子大学英文科予備科に入った。この予備科時代に増田(茅野)雅子と知り合い、『明星』にも作品を出していた関係で、三十八年、鉄幹の尽力によって、登美子、晶子、雅子の三人で合同歌集の『恋衣』を上梓した。 写真はイメージ。  ~次回に続く~

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年11月24日 | 写詩・写歌・写俳

<813> 大和寸景 「大和高原の紅葉」

       紅葉は至れり 子らの声も染め

 所用で宇陀市に出かけた。帰りに大和高原の奈良市都祁方面に回って、西名阪道に出て帰った。宇陀の山間地から大和高原辺りは紅葉が真っ盛りで、まさに錦織りなす季で、日曜日とあって、真っ盛りの紅葉の中、家族連れなども見られ、子供たちの声が静かな山間に聞こえた。

 社寺などで見られる紅葉もさることながら、里山なんかで見られる自然の紅葉も見応えがある。紅葉は「照る山もみじ」と歌にもあるように、日に映えるので、晴天に臨んで見るのがいい。その意味では大和の昨日今日は最高の日和だった。写真は真っ盛りの里山の紅葉(いずれも、奈良市都祁小山戸町付近で)。

                                       

 


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2013年11月23日 | 写詩・写歌・写俳

<812> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (48)

            [碑文]         山常庭 村山有等 取与呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加万目立多都                                      怜( )  國曾 蜻嶋 八間跡能國者                                                            舒明天皇

 この長歌は『万葉集』の巻頭第二番目に登場する第三十四代舒明天皇の歌で、歌碑は「天皇登香具山望國之時御製歌」の題詞とともに冒頭の碑文に掲げたごとく原文表記によって刻まれ、橿原市の天香久山(天香具山・一五二メートル)の西麓に西面して建てられている。語訳によると、題詞は「天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌」となり、歌は「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は」となる。なお、碑文の( )内には忄に可の文字が入る。

 この歌は天皇が大和平野を一望出来る香具山に登って国の様子を望んで詠んだもので、歌によると、人々が生活を営む平野では各所で煙が立ちのぼり、水辺では水鳥が盛んに飛び交っているというもので、この歌からは平和で穏やかな国見の風景が伝わって来る。これは取りも直さず治世がよくいっていることを示すもので、天皇にはこの上ない眺望であったことが、この歌からはうかがえる。

                                                 

 煙については、民のかまどの煙であろう。電化が行き届いた昨今では見られない風景であるが、かまどを用いて煮焚きをして生活していた当時はこの煙が庶民の生活の様子を示すバロメーターのようなものだったことが推察出来る。この天皇の国見に登場する煙の話は仁徳天皇に遡り、『古事記』や『日本書紀』にその記載が見られ、時代を下った中世の『新古今和歌集』には仁徳天皇御製の「たかき屋にのぼりてみれば煙立つたみのかまどはにぎはひにけり」(707)という歌が賀歌冒頭に見える。

 この新古今の歌は記紀の記事に従うもので、『古事記』の仁徳天皇の条には、「国の中に煙発たず。国皆貧窮し。故、今より三年に至るまで、悉に人民の課(みつぎ)、役(えだち)を除(ゆる)せ」とのりたまひき。ここをもちて大殿破れ壊れて、悉に雨漏れども、都(かつ)て脩め理(つく)ることなく、うつはものをもちてその漏る雨を受けて、漏らざるところに遷り避けましき。後に国の中を見たまえば、国に烟(けぶり)満てり。故、人民富めりと為(おも)ほして、今はと課(みつぎ)、役(えき)を科せたまひき。ここをもちて百姓(おほみたから)栄えて、役使に苦しまざりき。故、その御世を称えて、聖帝(ひじりのみかど)の世と謂ふなり」とある。

                    

 つまり、仁徳天皇の歌も舒明天皇の歌も、この国見の歌は民を思いやる皇統が有する精神性に基づくもので、現今にも見受けられることが思われる。東日本大震災の後、天皇皇后は何度か被災地に赴き、被災の惨状を目の当たりにされて来た。また、福島第一原発の事故の終息がつかず、国の借金も増えてゆくばかりの状況下を察せられたのであろう、天皇にはご自分及び皇后の陵墓について、規模をコンパクトにする旨の御意志を述べられたのであった。

 この天皇の御意志は仁徳天皇の国見の歌の精神に通じるもので、徳をもってある皇統の精神性が思われ、『古事記』が伝える仁徳天皇の「聖帝の世」と重なるところがうかがえる。舒明天皇の国見の歌碑を見ていると、民はその天皇の眼差しの下で幸せに暮らしたに違いないと思えて来る。

 だが、ここで一言加えたいのは、こうした天皇の腐心の足許で、自分の懐を肥やす政権亡者がいるという嘆かわしい現状も見られることである。このほども発覚した。選挙応援者から受け取った五千万円をちゃっかり自分の懐に入れ、選挙応援者が刑事事件で立件され始めると、具合が悪いとみたのだろう、この件に頬かむりをするような手立てを取るということがった。これは天皇の心内など嘲笑うがごとき所業であるが、こういう御仁が首都の政治をやっているということに私などはうすら寒さを感じる。この舒明天皇の歌碑を見ながら一方ではこのようなことも思われた。

  上段の写真左は香具山の麓に建つ舒明天皇の国見の歌碑。右は穫り入れの後、田んぼで簸屑を焚く光景(イメージ)。下段の写真は明日香村の甘樫の丘から北方を望んだ大和平野。右後方のなだらかな山が香具山。中央遠くに見える円錐形の山は耳成山。右手前の辺りに舒明天皇の飛鳥岡本宮があった。  新嘗祭 この一年の よき日かな

 

 


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2013年11月22日 | 万葉の花

<811> 万葉の花(114) ほほがしは (保寶我之婆、保寶我之波) = ホオノキ (朴の木)

           朴の花 天に向ひて みな咲けり

   わが背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋(きぬがさ)                                            巻十九 (4204) 恵  行 

   皇神祖(すめろき)の遠御代御代はい布(し)き折り酒(き)飲みきといふ此のほほがしは                         巻十九 (4205) 大伴家持

 冒頭にあげた二首は巻十九に「攀ぢ折れる保寶葉(ほほがしは)を見る歌二首」の詞書をもって見える歌で、4204番の歌には「講師僧恵行のなり」、4205番の歌には「守大伴家持のなり」という左注が見える。講師は諸国の国分寺に置かれた僧官で、国師とも言われ、国ごとに一人置かれた。守は国守のことで、地方の国を任された長官である。

 言わば、僧恵行の4204番の歌は、「わが君(家持)が捧げ持つほほがしははあたかも天子に差しかける青い蓋(かさ)に似ているなあ」という意で、位の高い家持を持ち上げて詠んだ歌とわかる。これに対し、家持の4025番の歌は、「天皇の遠い御代御代には広げて折って酒を飲んだというこのほほがしはであるよ」と、僧恵行の歌を引き取って、まんざらでもない気分で詠んでいるのがうかがえる。

 ほほがしはの見える歌は集中にこの二首のみであるが、何故にほほがしはは折り取られ捧げ持たれていたのだろうか、この二首のみではわからない。宴の儀礼にでも用いたのか。「捧げ持てる」という言い方が礼を意識しているかに思われる。ヤドリギのほよを插頭にして正月の宴に臨んだ歌が家持にある。何はともあれ、この二首には、何かその場の雰囲気というものが感じ取れるようなところがある。

                                            

  ここでほほがしは(保寶我之婆、保寶我之波)なるものが何であるかが問われるところで、『新撰字鏡』によると、「厚朴 九十月採皮陰干 保々加志波」とあり、『倭名類聚鈔』には「本草云厚朴一名厚皮楊子漢語抄云厚木保々加之波乃木」とあるところから今のホオノキであると言われる。

  ホオノキ(朴の木)はモクレン科の落葉高木で、全国的に分布し、丘陵地や山地に見られる。大きいものでは高さが二十五メートル以上になる。樹皮は灰白色を帯び、平滑で、皮目が目立つ。葉は倒卵状長楕円型で互生し、枝の先に集まって車輪状につく。鋸歯はなく、裏面は白色を帯び軟毛が散生する。

  花は直径十五センチほど、黄白色で、芳香があり、五、六月ごろ枝先の葉のつけ根のところに上向きに開く。果実は袋果が集まった集合果で、長さが十五センチほど。秋に熟し、赤褐色になる。材は軟らかいが、狂いが少なく、下駄や版木、刀の鞘、家具などに利用されて来た。

  葉は味噌を載せて焼いて食べる朴葉味噌や鯖寿司を包んで作る朴葉寿司がある。昔はこの葉に食物を載せて食べた。樹皮は陰干にし、煎じて健胃、便秘薬などに用いられて来たが、これについては、『新撰字鏡』に「厚朴 九十月採皮陰干 保々加志波」とあるから、当時既に樹皮が役立てられていたことがうかがえる。 写真はホオノキの花。

 


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2013年11月21日 | 写詩・写歌・写俳

<810> シクラメン

       風邪を引き 室に籠れば シクラメン

 いつもこの時期になると、近所の親しい家から鉢植えのシクラメンが届く。もう随分になると思う。娘さんが花卉農家に嫁いでいるということで、野菜やら何やらいろんなものを頂戴する。シクラメンはその一つで、今年も頂いた。日当たりのいい窓辺に置くと、日が差して、花が鮮やかに見える。花というのは概ね太陽光に映えるようになっている。で、花がみごとだったので、写真を撮る気になって、ブログに載せることにした。

                                              

  人工で育てるシクラメンは観賞が目的の花であるが、大概の花は子孫繁栄を目的に咲く。シクラメンも元を辿れば、虫の仲立ちによって花粉の授受を行ない、それで子孫を増やすのが目的であったはずである。つまり、花はその役割をもって咲く。だから、花は目立たなくてはならない。これが自然の法則に適った花の姿である。花は虫たちを誘うために太陽光に映えるように咲くわけである。言わば、花は目立つように植物が心がけている証と言ってよい。

  ところが、人間は花を観賞する目的で育て、花は本来の役目を逸脱して、人の目を楽しませるように改造されて来たものが多く見られるようになった。シクラメンもその一つだろうが、どちらにしても、花は概ね美しいというのが条件になっている。

  こういう花を写真に撮る場合は、花が映えて見える角度が好まれるわけで、一概には言えないけれども、花は概ね逆光か半逆光気味に撮るのがよい。花が映えて浮き立って見えるからである。もちろん、花だけではなく、太陽光の加減でいうならば、どちらかと言うと、影の部分が写り込まない順光というのは撮影に向いていないと言ってよいように思われる。

  この世の世界は光と影によってあり、影によって光の当たる部分が強調されるので、順光は写真向きではないと言えるわけである。とにかく、窓辺のシクラメンは光に映えて美しく見えるという次第である。 写真は頂いたシクラメン。窓辺に置くと太陽光に一段と映えて見える。