大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年11月19日 | 写詩・写歌・写俳

 

<808> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (47)

       [碑文1]     神奈備の岩瀬の杜の呼ぶ子鳥痛くな鳴きそ吾が恋まさる                                         鏡王女

       [碑文2]     吾去者 七日者不過 龍田彦 勤此花乎 風尒莫落                                           高橋虫麻呂

       [碑文3]      ちはやぶるかみよもきかずたつた川からくれなゐに水くくるとは                               在原業平

  大和の歌枕の名所に龍田がある。『万葉集』をはじめとする古歌に登場する一般には「龍田姫」で知られる紅葉で名高いところであるが、その場所については論議が見られる。今回は、この三基の歌碑に見える「岩瀬の杜」(磐瀬の杜・石瀬の杜)や「たつた川」などとともにこの名所龍田を考えてみたいと思う。

 まず、碑文1の歌は、『万葉集』巻八に見える1419番の歌で、原文表記では 「神奈備乃 伊波瀬乃社之 喚子鳥 痛莫鳴 吾戀」とあり、その意は「呼子鳥よそんなに鳴かないでおくれ、私の恋しい思いが一層つのるから」というものである。この「伊波瀬乃社」は万葉仮名の表記によるもので、磐瀬の杜を指す。この碑文1の歌碑は奈良県生駒郡三郷町のJR大和路線三郷駅近くに建てられ、碑には「岩瀬の杜」と刻まれている。

                   

  この歌に関して言えば、この歌に似る歌が『万葉集』巻八、1466番の志貴皇子の歌に見える。 「神名火の磐瀬の杜の霍公鳥(ほととぎす)毛無の岳(をか)に何時か来鳴かむ」 という歌で、この歌では原文に「磐瀬之杜」と表記されている。ホトトギスは夏の渡り鳥で大和には初夏のころ姿を見せる。碑文1の鏡王女の歌に登場する呼子鳥は、この志貴皇子の歌から想像するにホトトギスと見るのが妥当と思われる。

  鏡王女(かがみのひめみこ)ははじめ天智天皇の妃で、後に藤原鎌足の正妻となり、鎌足の病気平癒のため興福寺の元寺を建て、『万葉集』に四首が収載されている飛鳥時代の歌人である。歌碑に鏡女王とあるのは『興福寺縁起』の記事によったものであろう。因みに鏡女王は天智、天武の兄弟帝に愛された万葉歌人額田王の姉とする説が有力な人物である。歌碑を見るに、一つには歌が実地を踏んで詠まれたものかどうかが問われるところが思われて来る。

  志貴皇子は天智天皇の第七皇子で、のちに追尊され春日御宇天皇と呼ばれ、『万葉集』に六首を残す万葉歌人として知られる。で、二首に詠まれているこの神が鎮座する杜であるが、場所がどこに当たるか、また、同一場所をもって詠まれたものかどうかなどが問われるところとなっている。この杜にホトトギスが来鳴くことは、その昔からよく知られていたのだろう。歌が実地を踏んで詠まれたかどうかは志貴皇子の歌の方にも言える。

  そこで、この杜が何処の杜かというのが論議されることになるわけであるが、一つには生駒郡三郷町立野の「磐瀬の杜」があげられているわけである。鏡王女が同町の信貴山近くに住まいしていたらしいというのが根拠のようである。立野の関屋川と大和川の合流地点にあった杜の伝承地を昭和五十八年(一九八三年)の河川改修のとき、龍田大社の奉斎によって三郷駅西の地に移したという。で、ここに碑文1の歌碑が建てられている次第である。

  これに対し、隣町の斑鳩町では、平群の里から南流して大和川に合流する竜田川の左岸、稲葉車瀬の地に「磐瀬の杜」伝承地の説明板を設置して、この付近にこの神の杜があったと主張している。まだ、ほかにもあるようであるが、説明板によると、竜田川のこの辺りには川底に岩が露出し、これをもって「磐瀬」の名があるという。昔、この地は杜で、その中に祓戸神社という社があり、川で禊をしたという。対岸の三室山とともに、この辺り一帯は神域としてあったようだと説明している。

 また、斑鳩の里の法隆寺と厄除けで知られる松尾寺の中間辺りの山裾に「毛無」の地名が見られることも志貴皇子の歌と稲葉車瀬の地を結びつける要因になっているか。もちろん、地名が先か、歌が先かはわからない。加えて、三室山の南を神南と言い、この神南の地名も根拠の一つにあるかも知れない。ここに歌碑は見られないが、説明板には志貴皇子の1466番の歌が紹介されている。

  次に碑文2に見える歌であるが、この歌は聖武天皇の難波宮造立のため難波に出向く藤原宇合に同行した高橋虫麻呂が龍田山を越えるときに詠んだ長歌の反歌で、このブログの<672>で長歌二首中の一首に触れているので参照されたい。この碑文2の歌碑もJRの三郷駅近くに建てられている。碑文は原文表記によるもので、「わが行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし」と語訳されている歌である。つまり、「我が旅程は七日にも及ばないだろう。龍田の神よ、この桜の花をどうか私たちが帰るときまで散らさないでほしい」と風神である龍田の神にお願いしている歌であるのがわかる。

  なお、大伴家持にこの虫麻呂の歌に類似の「龍田山見つつ越え来し桜花散りや過ぎなむ我が帰るとに」という歌が巻20の4395番に見える。家持が防人を取り仕切る役目の兵部少輔であった時の歌で、防人出発地の難波津へ出向いたときの歌であろう。(追記、この歌に関しては三郷町の龍田古道の三室山公園に平成二十八年に建てられた歌碑が見える)。

  最後に碑文3に見える歌であるが、これは「二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる」という前置きをもって『古今和歌集』の秋歌下に見られる294番の業平の歌で、「ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くゝるとは」と集中にはある。言わば、この歌は実地を踏んで詠んだ歌ではなく、屏風の絵を見て詠んだ歌であるのがわかる。 この碑文3の歌碑は斑鳩町の歌碑を一堂に集めている聖徳太子ゆかりの上宮遺跡公園に建てられ、この「たつたがは」を三室山の裾野を流れる竜田川とする主張がうかがえる。因みに、有名な歌では、『後拾遺和歌集』秋下に見える『小倉百人一首』でお馴染みの能因法師の歌、「嵐吹く三室の山のもみぢばは竜田の川の錦なりけり」がある。

  以上が三基の歌碑についてであるが、碑文2の山に関わる歌と碑文3の川に関わる歌の相違点は、一つに、山の方が桜の花を詠んだものであり、川の方が紅葉を詠んだものであること。また、一つに、山の方が旅の実感によって詠まれている歌であるのに対し、川の方は屏風の絵に想像を加えて詠んでいる点があげられる。

  この詠歌の状況は概して他の歌にも指摘出来るところで、万葉の時代には紅葉もさることながら、龍田は桜の名所であったことがわかる。もちろん、桜はヤマザクラで、ヤマザクラも紅葉するので山の紅葉については桜の紅葉が主であったかも知れない。これに対し、川の紅葉は名を馳せた名所として詠まれており、『古今和歌集』以後の歌に見られ、『万葉集』に見られないのが不思議なくらいである。しかし、歌の内容を見ると、歌枕として現地を踏んで詠まれたものではない歌ばかりである点が厳密な場所の特定につながらない一つの要因になっているように思われる。

  ここで龍田についてであるが、歌に詠まれている「たつた川」は、現在竜田川と呼ばれている生駒山等に源を発し、平群の里を南流して、竜田の三室山の東麓に沿って流れ、塩田の地より大和川に流れ入る川のことであろうかということが色々と論議されているわけである。思うに、竜田川は生駒川、平群川、塩田川という別称でも呼ばれたように、これは大和川にも当てはめて言えることで、昔は一本の川を広汎的に捉えて一つの名称で呼ぶことはせず、川の流れる場所ごとにその場所の名をもってその川を呼んでいたのではないかということが考えられるわけである。

  大和川の存在は『日本書紀』や『万葉集』などにも見られるが、「大和川」の名が固有名詞として登場するのは随分のちのことで、それまでは、その土地ごとに違った名で呼ばれる川だったのではないかということが考えられる。大和川は奈良盆地、即ち、国中(くんなか)の全域に支流を持ち、それらの水を一手に集め龍田(現三郷町)の地から亀の瀬渓谷を経て大阪平野に流れ出ている川で、言わば、その全体像をして言えば、「大和の川」ということになる。

  で、往古はこの大和川を、龍田の辺りでは龍田川の名で呼んでいたのではないかと考えられるわけである。大和川は飛鳥時代のころから舟運が盛んで、龍田には立田の湊(港)があり、亀の瀬の下流にも湊(港)があって、亀の瀬は激湍であるためその間は陸路によって龍田越えをしたのではないかと言われる。で、この一帯の大和川を龍田川と呼び、背後の龍田大社が位置する辺りより西方の山を龍田山と呼んだという説が成り立つことになる。

               

  ここでまた思われるのは、「たつた」が「龍田」、「竜田」、「立田」、「裁田」で見えることから、この字の違いが気になるところである。「立田」と「裁田」は当て字で、置くとして、山では「龍」を、川では主に「竜」を用い、『万葉集』に「竜」の字が見えないことである。言わば、龍田山と大和川の龍田の川には「龍」を用い、支流の竜田川には「竜」を用いて区別したのではないかということが考えられる。

  ここでなお一点思われるのは、万葉当時、桜のなかった吉野山が平安時代以降、桜(ヤマザクラ)が植えられ、桜の名所になり、歌にもよく詠まれるようになったことである。吉野山の桜は修験道の祖、役小角(役行者)によることはよく知られるところであるが、植生の面から見ると、万葉時代以降、竜田川を主にして川沿いの一帯にカエデの類が植えられ、吉野山状況が「龍田」の川沿いに生じたのではないかということが想像されるわけである。

  その後、「龍田」と「竜田」は同じと見られ、紅葉の名所として名高くなり、歌枕として歌にも頻発するようになったのではないか。つまり、紅葉の名所としての「龍田」はこのように考えてもよいのではないかと思われる次第である。もちろん、現在の竜田川沿いの奈良県立竜田公園のモミジは近年補植されたものである。

  写真上段は左から三郷駅近くの磐瀬の杜の敷地に建てられた鏡王女の歌碑、次が高橋虫麻呂の龍田越えを詠んだ歌碑、右は斑鳩町の上宮遺跡公園の業平の歌碑。写真下段は左が大和川を手前にして望む龍田の山並。中腹に龍田大社がある。中央は紅葉が盛りの竜田川(後方は三室山)。右は法隆寺北方の地に建てられている圃場整備完成碑に刻まれた「毛無」の地名。三基の歌碑を見ると、歌碑にも御当地の主張が見て取れる。 訪ひたれば 時雨に濡るる 歌碑の面