大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年11月28日 | 写詩・写歌・写俳

<817> ジレンマの光景

         ジレンマが生じている

        矛盾が生じている

        如何に対処すべきか

        大いに悩むのもよい

        達観するのもよかろう

        だが どちらにしても

        私たちは みな

        このジレンマと矛盾の

            生の真っただ中にいる

    奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき                                                                     猿丸大夫

 この歌は『百人一首』でお馴染みの猿丸大夫の歌である。第一番の天智天皇から第七番の阿倍仲麻呂までが奈良時代以前の詠み人とされ、第五番のこの歌も奈良時代ころの歌と思われる。猿丸大夫というのは猿と一緒に諸国を巡っていたされる下級の宗教者につけられた名とされ、出典の『古今和歌集』には「よみ人しらず」として「秋歌上」に登場を見る。

  奥山は里山よりも奥に当たる深山(みやま)を言うもので、この歌では、奈良の春日奥山辺りが連想される。このほど紅葉の奈良公園を歩いていたら、この歌と同じような雰囲気の鹿に出会った。深まりゆく秋の雰囲気が感じられたのでカメラに収めたのであったが、このとき、奈良公園周辺の鹿を処分して頭数制限をするという方針を奈良県が出したというニュースを思い出した。

  奈良公園の鹿は国の天然記念物として保護され、無闇に捕獲することは出来ない。このような状況下にあることから、鹿は年々頭数を増やし、周辺地にも出没し、田畑などに被害を及ぼすに至って、近隣住民から訴える声が発せられるようになった。また、国の特別天然記念物に指定されている春日山原始林でも鹿の食害によって生態系に悪影響を及ぼす心配があると指摘されるようになった。

  このため、奈良県は捕獲や避妊処置などによって鹿の頭数管理を徹底する方針を打ち出し、このほどニュースにとり上げられた次第である。つまり、鹿を選別して捕獲、または避妊して、頭数を減らすというものである。人間と同じように鹿にもいろいろいて、観光客にすり寄ってエサの煎餅を日がな一日ねだっているようなのがいるかと思えば、人間嫌いでもなかろうが、公園外や山の中にエサを求めて入り行く鹿もいる。果たして、この保護されている天然記念物の鹿をどのように選別し、どのように処置してゆくのだろうか。

                                              

  この奈良公園の鹿について考えを巡らしていたら、ふと、「ジレンマ」という言葉が思い浮かんで来た。この間、仁徳天皇のかまどの煙の歌に触れ、かまどの煙が民の生活のバロメーターで、民の豊かさ、言わば、幸せの度合いを示すものとしてあることを述べたが、同じ民の豊かさをもってある煙でも、中国では悩みの種になっていることが思われた。

  中国の場合は、経済的発展にともない生活が豊かになって煤煙が増えたもので、確かにその煤煙は民の豊かさを示すものであるが、煤煙は人体によくない状況を生み出すというから困りものである。鹿の保護は観光立県、立市を推進する奈良県や奈良市には必要欠くべからざる動物で、手厚くその保護を行なって来た。結果、鹿が増え、弊害を及ぼすようになったわけで、中国の煤煙の問題に似ると言える。煙を減らすには、経済活動を控えるか、煤煙防止の技術的開発を進めるかであるが、一朝一夕には運ばないから、住民は我慢するしかないことになる。所謂、これは中国のジレンマで、鹿の問題は奈良のジレンマということになる。

  中国の問題はさて置き、鹿の問題は、相手が愛されるべき生きものであるという悩ましさがある。この選別して鹿を減らすという奈良県の方針に対し、鹿の愛護会などはどのように考えているのだろうか。かつて、矢に射られた矢鴨がニュースになったことがあったが、そのとき、ある論評子は、この世の中を評して「焼きとり屋で矢ガモ救出を論じるような矛盾を引きずっている。人間社会そのものがカリカチャ(戯画)だからだろう」という風に評していた。

  皮肉な言いであるが、人間は人間の裁量によってことを運ぶ。痛々しく見える矢鴨であろうと、鹿が天然記念物であろうとなかろうと、そこに生きものの命が存在しようとしまいと、その裁量の判断は人間の都合によって行なわれ、ことを処置してゆく。これが現実への対応で、これもこの間、触れたところであるが、人間本意の合理主義によって、ことを行なってゆくということになる。

  ここに悩みが生じないはずはないが、この合理主義がことを進めてゆく決心を促す。人間と接して生きて行かなくてはならない奈良公園の鹿のような生きものたちにとってこれは恐ろしい状況であるが、人間の合理主義は手のひらを返したように凶器を振るって鹿たちに向う。片方の手でエサを与えながら、片方の手に殺意の斧を隠し持つ。果して、論評子の言うカリカチャ(戯画)というのは当を得た言葉に思えて来る。しかし、これも仕方ないのであろうか。現実はみな合理主義に委ねられている。 写真は紅葉真っ盛りな中の鹿。奈良公園で。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿