<794> 狂気の光景
読みさせる『悪魔の辞典』 逆説の真(まこと)と独り秋冷の室
現代文明は、もしかして、一種の狂気の世界を物語るものかも知れない。自然を変造して成り立っている世界。例えば、これはあまりよい例ではないかも知れないが、高速道路、超高層ビル。このビル群を縫うように街の上を縦横に道路が走り、その道路には車がびっしり。江戸時代の人間がこんな風景を想像したとしたら、空想も空想、まさに狂人として扱われただろう。
順応性に富む人間は、この現代の風景に慣れ親しんで普通の光景として見ている。しかし、慣れ親しんでいるゆえに感覚が麻痺し、異様とも感じないことが起きる。これは穿った言い方かも知れないが、ときには江戸時代の人間に立ちかえって、現代文明、つまり、現代の風景にも接して見ることが必要ではないかと思えて来ることもある。
病人は日夜を問わず看病を要する。だから、病院は年中無休の二十四時間稼動の体制でなくてはならない。この要請の下に私たちの世界、現代文明は成り立っている。しかし、この必要欠くべからざる要請にエゴとか欲望といったものが贅肉のごとく付着し、世界をややこしくしている。その中にどっぷり浸かっているものにはわからないかも知れないが、第三者的耳目で見聞すれば、現代の状況が狂気と受け取れることもある。核兵器などはその典型であろう。人類がいつその狂気に気づき、核兵器の廃絶に向かうか、これは現代文明が問われているところである。
つまり、狂気は狂気の中にいると、狂気に慣れて狂気に見えなくなり、狂気でないものが逆に狂気に見えて来る救い難い状況に陥る。例えば、狂気でないAは狂気のBが狂気に見える。これはごく当然のことだが、狂気の世界にあっては狂気のBが狂気でなく、狂気でないAが狂気に見える。そういうBの狂気が正常であると思われる世界にAが居続けなくてはならないとしたら、AはBと同様、狂気になるか、狂気と闘うかだが、闘えば当然理不尽が強いられるから、どちらにしてもAにとっては居心地のいいものではなくなる。
狂気が特異なケースで、刺激的過ぎるというならば、病気と言ってもよかろう。病気がなお言い過ぎだというなら非常識ぐらいでもよい。とにかく、このような人の世の状況を生き抜くためにアンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』なども現れた。こういう善悪錯雑とした人の世においては、『悪魔の辞典』のような逆説的言質も効用となる。では、辞典(郡司利男訳)を繙いて、一、二点わかりやすいところをあげてみたいと思う。例えば、次のようにある。
幸 福 〔名〕 他人の哀れな境遇を静観するうちに込み上げてくる、気持ちのよい感覚。
うわさ 〔名〕 他人の名声を抹殺する者たちが愛用する武器。
この逆説的光景で言えば、最近では、世界を騒がせている米中央情報局(CIA)並びに国家安全保障局(NSA)の元職員エドワード・スノ―デンによる情報暴露の問題があげられる。各国に対する当局の個人情報収集の状況が彼によって明かされたわけである。米国は直ちに彼を情報漏洩の容疑者として身柄の拘束にかかったが、彼は逃走し、現在ロシアに滞在している。
彼は、以後も、ときに触れて自分の持っている情報を小出しにして公にし、このほどは、当局がドイツのメルケル首相の携帯電話を盗聴していたことを暴露した。このため、米国はドイツの怒りを買うと同時に、国際的不信を増す仕儀に至った。ドイツは米国に敵対している国ではない。ドイツの不信感は当然ながら起きる。米国のやり方は誰が見ても、仁義のないやり方であることが言える。米国にとっては憎くきスノ―デンであるが、この問題を客観的に考えると、彼の採った行動を責めるばかりは出来ない。これは前述したような狂気の問題と同じ構図にあるからである。
Aはどちらで、Bはどちらと言えるか。米国の極端なまでの情報収集癖は、何でも知っておかなくては安心出来ないという強迫観念的精神疾患に酷似している。即ち、米国の状況は狂気の類。つまりは、現代的精神の病に陥っていると言っても過言ではない。ドイツの怒りは当然であるが、私などは、米国の深刻なまでのこの精神状況にむしろ哀れを感じる。
正義を胸中に抱いて不義を働いた彼は、狂気の沙汰なのか勇気の誉まれなのか。強権力の不正に立ち向かうその姿は一種英雄的にも見えるが、果たして、世界は彼をどのように評価しているのだろうか。どちらにしても、この暴露の光景は世界における狂気の図の一端を物語るものと言ってよいように思われる。 写真は『悪魔の辞典』。