大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年11月12日 | 写詩・写歌・写俳

<801> 作 歌

     不束に齢を重ね来し旅の今宵もひとり歌ならぬ歌

 歌は、過ぎ去ったこと、つまり、思い出を懐かしみ詠むものか。現在の喜びとか悲しみとか、そういう実感を詠むものか。それとも、未来に思いを馳せ、憧れとか不安とかを詠むものか。また、想像を膨らませて詠むものか。『万葉集』を基にしてある膨大な歌に目を見開きながら、私も歌を作って来た。その先人の膨大な歌に教示を乞いつつ、見よう見まねで。しかし、ほとんど独善的に齢を重ね、歌を作って来た。そして、歳月の数だけ、時の贈り物のごとく一首一首を積んで来た。数えれば二千首にはなろうか。そして、なお、加えるべく歌を作っている。

   千五百番三千首 我が一首 鴫立つ沢も 紅葉も欲し

                                              

 悲喜苦楽、喜怒哀楽のその数をして歌を重ねて来た我が人生の旅の途次、決意をもって立ったこともあったが、歳月は過ぎ、それも遙か彼方のことになった。いまはどれほどであろうか。今宵もまたその歌に執着し、ひとり歌ならぬ歌に意を通わせている。哀れというべきか、それとも、奇しき縁というべきか。いや、天命かも知れない。いやいやそうではあるまい。不束に生きて来た証にほかなかろう。それが私の歌である。それで、これからの歌作りについては、そこそこになどとは思わないが、そこここに見えるごく普通の人と同じく、ごく普通に淡々と生き、読人不知の意をもって、作歌出来ればよいと思っている。

   この身より出づる歌とは つまりその 触れてありける感に基づく

   身の熱の力を恃む 言の葉の言葉の矢数そして意を射る

   半濾過の我にしてある我の歌 苛烈にありし百首歌もまた

   そこそこになどとはつゆも思はぬが 淡々と生きゐられればよし

 この一文は六十路半ばのころのものである。今、古稀にある。この間に心筋梗塞という大病を患い、体力に自信のあるべくもなく、だが、少々の気力をもって多少ながらも作歌、作句に当たり、天命を過ごしている今日このごろである。 写真は紅葉(イメージ)。