大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年11月15日 | 写詩・写歌・写俳

<804> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (46)

          [碑文]    隠口乃 始瀬山者 色附奴鍾礼乃雨者 零尒家良思母                              大伴坂上郎女

 この歌は坂上郎女が大伴氏の荘園である竹田庄(たけだのたどころ・現在の橿原市東竹田)において稲の刈り取りに当たったとき(多分、検分に立ち会ったのであろう)、の二首中の一首で、『万葉集』巻八の1593番の歌である。小屋に休んでいるおり、東の泊瀬(初瀬)方面の山を遠望して詠んだものと言われる。語訳では、「隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしも」とあり、「東の彼方に望む泊瀬(初瀬)の山は紅葉して色づいている。あの辺りでは時雨が降ったのだろう」という意である。

 今一首の方は、「然(しか)とあらぬ五百代小田(いほしろをだ)を刈り乱り田盧(たぶせ)に居れば都し思ほゆ」とあり、「わずかばかり五百代の田を刈り取って小屋にいれば、都が思われることである」という意の歌である。この歌は、ほんのわずかな田を刈り取るのに都を離れ、遠く来ていることを何となく嘆いているようなところの見られる歌であるのがうかがえる。

 坂上郎女は大伴安麻呂の娘で、母は石川内命婦。稲公の姉で、旅人の異母妹である。十三歳のころ天武天皇の第五皇子穂積皇子に嫁したが、皇子が亡くなり、藤原不比等の子、麻呂の妻となった。だが、麻呂にも死別し、養老のころ異母兄の宿奈麻呂に嫁して坂上大孃と二孃の二人の娘を儲けた。ところが、宿奈麻呂にも先立たれ、旅人が大宰府で亡くなると、大宰府に赴き、旅人一家の世話をするに至り、その後は大伴氏の一族を束ねて行く身になった。

 この間、旅人の子である甥の家持や書持の教育にも携わったと見られ、『万葉集』にも少なからぬ影響を及ぼしたと言われている。集中には短歌七十八首(うち旋頭歌一首)と長歌六首の計八十四首が載せられ、これは家持、柿本人麻呂に次ぐ数の歌で、万葉を代表する女性歌人として知られる。なお、長女の坂上大孃は家持の妻で、都では佐保(奈良市法蓮町)に住まいがあり、邸が坂の上にあったので、このように呼ばれることになったという。

 この歌は左注に天平十一年己卯(七九三年)秋九月に作るとあるから、九州より奈良の都に帰って、佐保に住まいしていたとき、即ち、四十歳前後のころに詠まれた歌と言え、この二首には大伴氏の一族を仕切る家長的な役目を担ってあった当時の郎女の存在というものが垣間見られる。生涯における男性遍歴は貴族社会の中にあって可能ならしめたと言えようか、相聞(恋歌)の多いことで知られるが、人間関係の苦労も絶えなかったと言ってよく、この遍歴の苦労が郎女を強くさせた一面もあるのではないかと、晩年の歌や姿から垣間見られるところで、このときの歌にもその気分が覗えると言ってよい。

                           

 歌碑は、郎女が泊瀬(初瀬)方面の山並を望んで詠んだ竹田庄(現東竹田)近くの桜井市大福の三十八柱神社(みそやはしらじんじゃ)の境内に一基と桜井市初瀬の長谷寺の本堂脇の広場隅に芭蕉の句碑と並んで建てられた一基がある。ともに原文表記による石碑で、三十八柱神社の方は万葉学者犬養孝の筆によるもので、長谷寺の方は作家里見の筆による。

 なお、歌の中の「隠口(こもりく)」は泊瀬(初瀬)にかかる枕詞。「隠」は山に囲まれる意で、「く」は場所を表していると言われる。また、「始瀬」は初瀬で、泊瀬に等しく、泊瀬の「泊」は泊まる意がある。昔は大和川を遡り、初瀬(泊瀬)川に入って、この辺りまで柴舟が上り来たって、ここを最終の泊まりにしたことによるという。つまり、山のつけ根のところに当たる。泊瀬が初瀬であるのは、歌謡曲の「終着駅は始発駅」と同じことである。

  その昔から、泊瀬(初瀬)の山の一帯は紅葉の素晴らしいところだったのだろう。今も長谷寺は花と紅葉の名所で知られるが、昔はもっと美しかったことが想像される。この間、訪れたときは、紅葉の始まったばかりだったが、ときおり時雨があった。写真は左が三十八柱神社境内の歌碑。中央が長谷寺の紅葉。右が長谷寺本堂脇広場の隅にある歌碑。  紅葉の 日々に深まる 初瀬山