<276> 万葉の花 (8) くり (栗、久利)=クリ (栗)
山里や 人影なくて 栗の花
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来たりしものそ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ 巻 五 (802) 山上憶良
『万葉集』にクリは三首に登場し、「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」の反歌を伴うこの憶良の長歌でよく知られるところである。我が子について詠んだ歌で、その意は「ウリを食べればウリを食べたで思われ、クリを食べればクリを食べたでなお一層偲ばれる。ああ、どのような縁でこの我が子は生まれ来ったのであろうか。目の先に思い浮かんでどうしようもなく愛しくなる」というもの。明らかに果実のクリを通して我が子に対する愛が伝えられている。では、後の二首はクリがどのように詠まれているのだろうか。
三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが 巻 九 (1745) 高橋虫麻呂歌集 松反りしひてあれやは三栗の中上り来(こ)ぬ麻呂といふ奴 巻 九 (1783) 柿本人麻呂歌集
虫麻呂歌集の歌は「三栗の那賀(なか)に向へる曝井(さらしゐ)の」までが「絶えず」を導くもので、「水が絶え間なく湧くように、絶えず通おうと思う。そこに妻がいてくれたらいいのに」というほどの意である。一方、人麻呂歌集の歌は、人麻呂の妻が人麻呂に言いかけている歌で、「放たれたタカは一旦マツに止まって帰って来るのであるが、麻呂(人麻呂)という奴は任国に行った切り、一向に帰って来ない」と非難している歌である。
二首ともクリが三栗(みつぐり)で登場するが、これはクリの実が普通一つの毬に三個入っていることを言うもので、三栗の真ん中の栗をよいクリとして「なか」に掛かる言葉として用いている。クリは我が国の文献上初めて登場する『古事記』にもこの例で用いられている。つまり、『万葉集』に登場するクリはすべてが果実によって登場しているわけである。
このように、クリは昔から食用として重視されたことは、『日本書紀』の持統天皇の条に天皇が桑、紵(からむし)、梨、蕪青(あをな)とともに栗の栽培を奨励していることでもわかる。だが、クリはそれよりももっと以前から人との関わりがあった。それは縄文時代前期(五千五百年前)から中期(四千年前)の遺跡とされる三内丸山遺跡(青森市)の直径九十センチに及ぶクリの巨木柱の痕跡が発見されたのをはじめ、石川県など日本海側の縄文遺跡からもクリの環状木柱列などが発掘されるなど、縄文遺跡からクリの木が多用された痕跡が見つかっていることでわかる。縄文文化が一つに「栗文化」であると述べる識者も見られるのはこのためである。
クリはブナ科クリ属の落葉高木で、我が国に分布するものはニホングリと言われるクリで、高さは二十メートルに及び、幹回りも大きいもので直径が一メートルを越え、寿命は二千年に及ぶと言われる。しかし、今の我が国にはこれほど大きいクリの木は現存せず、三内丸山遺跡の復元柱はロシアから調達したものであるという。
で、記紀、万葉の故郷である大和におけるクリの事情はどうであろうかと見てみるに、栽培されるものは多く見られるものの、自生するものに格別なものは見当たらない。以前は低山帯に極めて多く、林をなしていた地域もあったようであるが、戦後の林業政策によってスギやヒノキの大規模な植林が行なわれ、クリ林が伐採されたと言われ、宇陀や吉野地方でその話を聞く。
クリは雌雄同株で、六月ごろ尾状花序を枝々の先にいっぱいつけ、樹冠が白緑黄色に被われるほど雄花を大量に咲かせる。花は独特の匂いを発する蜜源植物として知られるが、その独特の臭いが仇になって、ミツバチ飼育用に多用されているという。なお、クリの花は花序の基部に雌花があり、雄花が沢山あるためか、雌花には興味を示さないようで、虫による花粉の媒介はなく、風媒花である。