大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年06月18日 | 祭り

<290> 率川神社の三枝祭

        ゆりまつり みな皇女(ひめみこ)の 艶やかさ

 十七日、奈良市本子守町の率川(いさがわ)神社の例祭三枝祭(さいくさまつり)が行なわれ、多くの人でにぎわった。率川神社は推古天皇元年(五九三年)に大神神社の摂社として開かれた奈良市で一番古い神社とされる。主祭神は『古事記』や『日本書紀』でお馴染みの神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと・『古事記』では富登多多良伊須須岐比賣命、またの名は比賣多多良伊須氣余理比賣命)で、この姫神を中に挟む形で、左右に父母神が祀られ、子を守る「子守明神」の名でも呼ばれる神社である。

 三枝祭は飛鳥時代の大宝元年(七〇一年)に発せられた大宝神祇令に遡る古くからある祭りで、媛蹈鞴五十鈴姫命が住まいしていた三輪山近くの狹井河(大和川の支流に当たる現在の狭井川)の畔に佐韋(さゐ)と呼ばれる山由理草(現在でいうササユリ)が沢山咲き誇っていて、『古事記』によれば、神武天皇との出会いの場にもなり、結婚に至ったことにより、祭りはこのササユリに因んで、ちょうどササユリの開花時期に当たる十七日に行なわれるところとなり、百合祭りの別称でも親しまれることになった。

 祭りは午前十時半から行なわれ、ササユリで飾られた黒酒(くろき・濁酒)、白酒(しろき・清酒)を入れた樽が奉納された後、昔の衣装に身を包み、ヒカゲノカズラを鬘(かずら)にして、芳しい三花のササユリを手に四人の巫女が「うま酒みわの舞」を奉奏し、神前に華やいだ雰囲気を見せた。午後からは七媛女(ななおとめ)やゆり姫、稚児などが列をつくり、市内を巡り歩いて、艶やかさを見せた。

 三枝祭の「三枝」はササユリが一茎に三つの枝を出して、それぞれに花を咲かせることから三枝・佐韋(さゐ)と呼ばれ、子孫繁栄に繋がると思われたこと。また、「三枝」を「さきくさ」とする見方もあって、「さき」は「幸」で、幸せを意味するものであるというので、縁起のよい花として見るわけである。『万葉集』には「さきくさ」(三枝)の歌が二首見えるが、一首に「春さればまづ三枝(さきくさ)の幸くあらば後にもあはむな恋ひそ吾妹」(巻十、1895・柿本人麻呂歌集)とあり、「春されば」と断っているので、この場合は夏に花をつけるササユリではなく、春に花を咲かせるミツマタ(三椏)であろうというのが定説になっている。だが、ササユリも三枝であるところからこれに重ねて思われる次第である。

 「さきくさ」(三枝)の見える今一首は山上憶良の長歌(巻五、904)で、これには愛しい我が子を中にして親子三人で寝る幸せな光景に「三枝」を比喩に用いて詠まれており、率川神社の御子姫神を中心にして左右に父母神が祀られている本殿の姿に重なるところがあり、この長歌の「三枝」の場合はササユリと見たい思いが人情として湧いて来るところがある。

 このような観点からこの祭りを見ると、「三」という数字がキーワードになっているのが覗える。つまり、この祭りは「三」の縁起によっている。一つには前述の通り、「三枝」の「三」がある。次は率川神社が御子の姫神を挟んで父母神の三神が、一間社春日造・桧皮葺の三殿を本殿とする社に仲良く鎮座し、「三」の数字が見えることで、これは一家の繁栄を示し、「子守明神」としての姿に関わっている。

 次に、率川神社が三諸山とも称せられる三輪山を御神体とする大神神社の摂社であること。ここにも「三」の数字が見える。三輪山の「三」については、私の知識にないが、一例としては、拝殿と御神体の間に三つ鳥居があげられる。これにも「三」の数字が含まれ、やはり三輪山を御神体とする檜原神社の三つ鳥居とともに有名で、この三つ鳥居の「三」にも関心が持たれる次第である。ここでは長くなるので触れないが、三つ鳥居は太陽の運行に関わるとも言われる。

 また、「三」の「み」は実の「み」で、美の「み」でもあり、「み」は巳(蛇)にも通じ、三輪山伝説の祭神が蛇神とされる大物主神(大己貴神・大国主神)であることにも「三」の数字への思いは巡りゆくことになる。  写真は上段左から奉納されるササユリの花で飾られた白酒の樽(モニターテレビによる)、ササユリを手に舞いを披露する四人の巫女たち。下段は市内を巡り歩くゆり姫や稚児たちの一行。