大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年06月22日 | 万葉の花

<294> 万葉の花 (13)  あぢさゐ (安治佐為、味狹藍)=アジサイ (紫陽花)

          紫陽花の 藍あざやかな 雨の朝

   言問はぬ木すら紫陽花諸弟(もろと)らが練のむらとに詐(あざむ)かへけり                 巻  四 (773)   大伴家持

  紫陽花の八重咲く如くやつ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ                          巻二十 (4448)橘 諸兄

  『万葉集』にアジサイの見える歌はこの家持と諸兄の短歌二首のみである。家持の方が相聞、諸兄の方が宴席の歌で、ともに挨拶の歌である。家持の歌は難解歌で知られるが、「ものを言わない木でさえ、アジサイのように美しく装って私に見せる。ましてや人の一筋縄ではいかない心にはあざむかれる(惑わされる)ことではある」というほどの意か。諸兄の歌は「アジサイが幾重にも花をつけるように、いつまでもいてください。我が君よ。私は見ながら偲ぶことではあります」というほどの意に読める。

 家持と諸兄は中央政界にありながら、権力の中枢から外れる立場で、ともに『万葉集』に携わり、極めて近しい間柄であったと見られ、歌におけるアジサイの用い方にも何か共通するところがうかがえる。アジサイは野生のものでなく、庭に植えられているもので、一緒に見たこともあったのではないか。そんなこともこの二首からは想像出来る。

 ここで、当時のアジサイが思われて来るが、アジサイはユキノシタ科の落葉低木で、日本原産のガクアジサイを母種とする園芸種であると言われる。ガクアジサイは日本列島の太平洋側の海岸地方に自生するようであるが、私には庭のガクアジサイしか目にしたことがない。改良されたアジサイは花の額の部分の装飾花ばかりが発達したもので、それが毬状になって豪華に見えるわけである。アジサイは日本から中国に渡り、西洋にもたらされ、近年、それが改良されて逆輸入されて来た。所謂、セイヨウアジサイで、今やこの花が主流で席巻している。

 では、このアジサイがいつごろから見られるようになったかであるが、万葉のころはまだガクアジサイであったという。だが、アジサイの語源に藍色の集まった花の集真藍(あづさゐ)の転じたものとする説があることや諸兄の歌の「八重咲く」の表現から察するに、私には、既に万葉のころ、今のアジサイには及ばないものの、その原形のような花が見られたのではなかったかということが想像される。

 また、大和におけるガクアジサイの野生が見られないのも疑問点である。家持ら万葉人が目にしたアジサイは果たしてどんな花で、どこからもたらされて目に出来たのか。時代が下って平安時代にもアジサイは歌の中に出て来るが、ホタルなどと抱き合わせに詠まれ、「八重咲く」の表現は見えない。

 ここで、大和に自生するアジサイの仲間(アジサイと名のつく植物)を見てみると、ガクアジサイによく似たヤマアジサイがあり、これは低山から深山まで分布し、よく見かける。また、装飾花のないコアジサイがあり、これも山地で多く見受けられる。蔓状に他の木などに絡んで生育するツルアジサイも深山に多く、大和南部の山地でよく見られるヤハズアジサイもあげられる。タマアジサイは紀伊半島の南部に自生するようであるが、大和に分布するかどうかについては、私には不明で、出会っていない。

 ここで注目されるのがヤマアジサイであるが、万葉時代のアジサイがガクアジサイであるという推定がなされるのであれば、ヤマアジサイでは不都合なのであろうかという意見も出て来る。大和に自生するものが多いというヤマアジサイの分布における利点を考えるとき、なぜ、ヤマアジサイは万葉のアジサイの候補にのぼって来ないのかということが私には思われる。

 因みに、アジサイはドイツ人医師シーボルトが日本妻の楠本滝の名をもって「オタクサ」と名づけ、世界に紹介したことはよく知られる。大和にはあじさい寺で有名な矢田寺(大和郡山市)をはじめ、アジサイの名所がいくつか見られる。写真は、左からアジサイ、ガクアジサイ、ヤマアジサイ、ツルアジサイ、ヤハズアジサイ、コアジサイ。