大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年06月25日 | 祭り

<297> 天満宮の鷽替え神事

      青梅の 未熟にありて 瑞々

 菅原道真の誕生祭に合わせて25日、奈良市菅原町の菅原天満宮で鷽替えの神事があった。道真が一月七日、大宰府東部の天満山に登って住民と一緒に悪霊祓いの祈祷をしていたとき、ハチの群が襲って来たので、みんな逃げ惑ったが、道真がくじけずなおも祈祷を続けていると、今度はウソ(鷽)の群が現われ、ハチを退治した。で、道真も山に登っていた住民もみんな無事だった。

 この出来ごとの謂われによって天満宮ではウソ(鷽)という鳥を神の使いとして大切にした。で、太宰府天満宮では鷽替えの神事が行なわれるようになったという。天満山のウソ(鷽)の話は嘘のようであるが、真(まこと)であったことから「鷽」が「真」になるということであろう。お参りしたときに買った木彫の鷽を参拝者同士が交換しあって、鷽(嘘)が真に変わるということで今に伝えられているという。

 言わば、ウソ(鷽)が穢れを取り去って幸運と安泰をもたらすというわけで、近畿では藤井寺市の道明寺天満宮でも行なわれているが、菅原天満宮でも五年前から行なわれるようになった。この神事は冬に行なわれるのが通例であるが、菅原天満宮は道真の生誕の地であることから、道真の誕生日に当たる六月二十五日に行なうようになったという。

 この日は、二百人ほどが訪れ、鷽替えの神事に参加した。まず、「かえましょう」「かえましょう」の掛け声とともに誰彼となく番号のついたウソ(鷽)入りの箱を取り換えっこし、宮司の引く番号と手元の箱番号とが一致した人に景品が当たるということで、景品によって何回か行なわれ、最後にホオノキで作った奈良一刀彫のウソ(鷽)が当たった人に手渡され神事は終わった。

 写真は左から、太鼓の合図で、鷽替えの始まり。二、三、四枚目は鷽を交換する人たち。次は当たりを発表する係の役員。最後は大きなウソ(鷽)が当たったたぶちさんと宮司(いずれも菅原天満宮で)

                      

 

 


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2012年06月24日 | 写詩・写歌・写俳

<296> 夏の吉野山

        墓道に 蛍袋の 花多し

  大和も梅雨のただ中、田植えもほぼ終わり、早苗が日に日に青みを増す今日このごろ。農作業も一段落したか、宇陀市の岩神社では夏まつりが行なわれていた。今日は花の探索でそんな六月の吉野山に出向いた。今ちょうどアジサイの花の時期で、下千本の七曲がりでは見ごろ。観光客もその辺りに集中し、蔵王堂より上の上千本辺りは閑散とした状況だった。

 さらに上は奥千本。どこまで行っても葉桜の緑、自然の花に興味を持っている我が花追い人には植えられてあるものにはあまり興味がなく、見ごろのアジサイにも「咲いている。咲いている」と谷を見降ろしながら通り過ぎた。この天の邪鬼には代わりに道端や山の中へ目をやって、珍しい花に出会うとカメラを向ける。山に入る横道などがあると、花追い人の悲しい性で、その先に何か咲いているかも知れないという氣になって入って行く。今日はホタルブクロの咲く道に入ったが、その先は墓地で、行き止まりだった。

 ホタルブクロはキキョウの仲間の多年草で、白い筒形の花を提灯のように下向きに咲かせる。典型的な梅雨どきの花で、この花を見ていると、植物にも知恵があると感じられる。写真を撮っている間、しきりにハチの類が来て花の中に入り込むのを見た。蝶は来ない。蝶はアザミの花が大好きなようで、モンシロチョウが群れる光景を見た。 ホタルブクロのほかには、ノアザミ、キツリフネ、ボダイジュ、イヌビワ、サカキなどを撮った。 写真は左からキツリフネ、ボダイジュ、イヌビワ、サカキ、ノアザミ、ホタルブクロ。

  切れ目なく 続く葉桜 吉野山

  五月雨を 集めて濁る 吉野川

  山川の 吉野の里も 夏に入る

  水無月の 吉野 水分神社かな

  葉桜の 吉野も吉野 吉野山

                     


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2012年06月23日 | 万葉の花

<295> 万葉の花 (14)  ひめゆり (姫由理)=ヒメユリ (姫百合)

       姫百合の 紅一点の 原野かな

   夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ               巻 八 (1500) 大伴坂上郎女

 この歌は巻八の「夏の相聞」に登場する歌で、集中ひめゆりと見える歌はこの歌一首のみである。このひめゆり(姫由理)が現在いうところの固有種のヒメユリ(姫百合)かどうか、ササユリではないかという意見もある。そこで少しこのひめゆり(姫由理)について考えてみたいということで、ユリとは別に項を立ててみた。

  現在のヒメユリは、山地の草地に生え、希に見られるユリである。高さが大きいもので八十センチほどになり、花は鮮やかな朱赤色で、七月の初めごろ上向きに開く。本州の東北南部以西、四国、九州に分布し、大和にも自生するが、私が知る限り、今は奥宇陀の曽爾高原に見られるのみである。という次第で、奈良県においては絶滅寸前種にあげられ、自生の消滅が懸念されているユリである。

 大和の地でよく見られるササユリは花の姿がやさしく、快い匂いもあり、女性的で、「万葉の花」(11)でも触れたが、中部以西に分布し、六月ごろ開花する。最近、少なくなったが、一昔前までは林縁や山足などでよく見られた。また、大和ではよく見られるヤマユリも自生するのをよく見るユリであるが、こちらは花が大きく、このユリに姫の姿を想像する観賞者はまずいないと言ってよい。

 そこで『万葉集』に見えるユリを今一度検証してみると、この「ひめゆり」(姫由理)の歌に合致するものとしては、「道の邊の草深百合の」と表現された歌が二首、「夏の野のさ百合」と詠まれた歌が二首あることがあげられる。これに加えて、現在のヒメユリが当時から「ひめゆり」という名で呼ばれていたかどうかということがある。

 これは『万葉集』に見えるつぼすみれと現在のツボスミレの例にも言えることで、混同を来たす。現在のツボスミレは万葉のつぼすみれから来ているものではないというのが常識になっていることを思えば、ヒメユリについてもそこに考えを巡らせる必要があろう。

 これを思うと、『万葉集』のひめゆりは現在のヒメユリと繋がりの根拠に乏しく、単に女性的なユリの表現として「ひめ」(姫)が冠せられたとも考えられる。こう考えるならば、ササユリが候補になっても何ら不思議ではなくなる。だが、歌の表現は微妙で、時代が下って鎌倉時代に登場して来るヒメユリは「百済野のちがやが下の姫百合の」と詠まれていて、「ちがやの下」ではササユリは考え難く、この歌の姫百合は今のヒメユリに重なるところがある。

 このように見て来るとどちらのユリと見るべきか結論し難くなるが、はっきりしないこういう場合は、「この歌の場合、夏草の繁みの中に埋もれながら、埋み火の下燃えのように咲いている真っ赤な「姫百合」の花を考えてこそ、生きた表現となるのではあるまいか」という『萬葉植物歌の鑑賞』(中根三枝子著)の見解のごとく、ロマンを優先するのが、文芸作品の鑑賞法としてはよいのではないかということが改めて思われる次第で、私も大伴坂上郎女の詠んだ相聞のひめゆりは現在いうところのヒメユリに傾く。

 これは、竹久夢二の「宵待ち草」などにも言える。ヨイマチグサなどという植物は存在せず、マツヨイグサか、それともオオマツヨイグサかなどと議論されるのと似ている。文芸上では、作品の心持ちが優先されるわけであるから、その辺りを考慮してかかる必要がある。『富嶽百景』(太宰治)の月見草が典型的な例としてあげ得る。

 大伴坂上郎女は大伴家持の叔母で、姑でもあり、集中には八十四首が見える。万葉を代表する女流歌人で、相聞の歌に秀でており、この歌の前後にも、「暇(いとま)無み来ざりし君に霍公鳥(ほととぎす)われ斯く戀ふと行きて告げこそ」という歌があり、「五月の花橘を君がため珠に貫く散らまく惜しみ」という歌も見える。

 ひめゆり(姫由理)の一首は「夏の野の繁る草に埋もれて咲くヒメユリのように、相手に知られない片恋というのは苦しいものです」という恋の心を訴える歌であるが、曽爾高原の広い草原にこのヒメユリの紅一点の花を見ていると、鮮やかなだけにかえってそこには孤独の深さが感じられ、『萬葉植物歌の鑑賞』が指摘するように、郎女の相聞の思いを彷彿させる。

                                                        


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2012年06月22日 | 万葉の花

<294> 万葉の花 (13)  あぢさゐ (安治佐為、味狹藍)=アジサイ (紫陽花)

          紫陽花の 藍あざやかな 雨の朝

   言問はぬ木すら紫陽花諸弟(もろと)らが練のむらとに詐(あざむ)かへけり                 巻  四 (773)   大伴家持

  紫陽花の八重咲く如くやつ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ                          巻二十 (4448)橘 諸兄

  『万葉集』にアジサイの見える歌はこの家持と諸兄の短歌二首のみである。家持の方が相聞、諸兄の方が宴席の歌で、ともに挨拶の歌である。家持の歌は難解歌で知られるが、「ものを言わない木でさえ、アジサイのように美しく装って私に見せる。ましてや人の一筋縄ではいかない心にはあざむかれる(惑わされる)ことではある」というほどの意か。諸兄の歌は「アジサイが幾重にも花をつけるように、いつまでもいてください。我が君よ。私は見ながら偲ぶことではあります」というほどの意に読める。

 家持と諸兄は中央政界にありながら、権力の中枢から外れる立場で、ともに『万葉集』に携わり、極めて近しい間柄であったと見られ、歌におけるアジサイの用い方にも何か共通するところがうかがえる。アジサイは野生のものでなく、庭に植えられているもので、一緒に見たこともあったのではないか。そんなこともこの二首からは想像出来る。

 ここで、当時のアジサイが思われて来るが、アジサイはユキノシタ科の落葉低木で、日本原産のガクアジサイを母種とする園芸種であると言われる。ガクアジサイは日本列島の太平洋側の海岸地方に自生するようであるが、私には庭のガクアジサイしか目にしたことがない。改良されたアジサイは花の額の部分の装飾花ばかりが発達したもので、それが毬状になって豪華に見えるわけである。アジサイは日本から中国に渡り、西洋にもたらされ、近年、それが改良されて逆輸入されて来た。所謂、セイヨウアジサイで、今やこの花が主流で席巻している。

 では、このアジサイがいつごろから見られるようになったかであるが、万葉のころはまだガクアジサイであったという。だが、アジサイの語源に藍色の集まった花の集真藍(あづさゐ)の転じたものとする説があることや諸兄の歌の「八重咲く」の表現から察するに、私には、既に万葉のころ、今のアジサイには及ばないものの、その原形のような花が見られたのではなかったかということが想像される。

 また、大和におけるガクアジサイの野生が見られないのも疑問点である。家持ら万葉人が目にしたアジサイは果たしてどんな花で、どこからもたらされて目に出来たのか。時代が下って平安時代にもアジサイは歌の中に出て来るが、ホタルなどと抱き合わせに詠まれ、「八重咲く」の表現は見えない。

 ここで、大和に自生するアジサイの仲間(アジサイと名のつく植物)を見てみると、ガクアジサイによく似たヤマアジサイがあり、これは低山から深山まで分布し、よく見かける。また、装飾花のないコアジサイがあり、これも山地で多く見受けられる。蔓状に他の木などに絡んで生育するツルアジサイも深山に多く、大和南部の山地でよく見られるヤハズアジサイもあげられる。タマアジサイは紀伊半島の南部に自生するようであるが、大和に分布するかどうかについては、私には不明で、出会っていない。

 ここで注目されるのがヤマアジサイであるが、万葉時代のアジサイがガクアジサイであるという推定がなされるのであれば、ヤマアジサイでは不都合なのであろうかという意見も出て来る。大和に自生するものが多いというヤマアジサイの分布における利点を考えるとき、なぜ、ヤマアジサイは万葉のアジサイの候補にのぼって来ないのかということが私には思われる。

 因みに、アジサイはドイツ人医師シーボルトが日本妻の楠本滝の名をもって「オタクサ」と名づけ、世界に紹介したことはよく知られる。大和にはあじさい寺で有名な矢田寺(大和郡山市)をはじめ、アジサイの名所がいくつか見られる。写真は、左からアジサイ、ガクアジサイ、ヤマアジサイ、ツルアジサイ、ヤハズアジサイ、コアジサイ。

                          


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2012年06月21日 | 万葉の花

<293> 万葉の花 (12)  あづさ  (安豆左、安都佐、梓)=ミズメ (水芽)

             みずめ咲く 花の辺りの 暖かさ

      梓弓引きて許さずあらませばかかる戀には逢はざらましを                 巻十一 (2505) 柿本人麻呂歌集

     置きて行かば妹ばまかなし持ちて行く梓の弓の弓束(ゆつか)にもがも             巻十四 (3567)     防    人

 『万葉集』にあづさと見える歌は、上記の二首を含む長短歌三十三首で、くれなゐ(ベニバナ)の三十四首に次いで、植物中十九番目に多い登場数を誇るが、すべての歌が梓、梓弓、梓の弓と材を弓に用いていたことによって詠まれた歌ばかりで、花にかかわる歌は一首も見えない。

 冒頭にあげた二首を見ると、2505番の歌は「もし心を引き締めて許さなかったら、今のこんなに苦しい恋には逢わなかったろうに」という意になり、3567番の歌は「このまま妻を置いて防人に行ったならば、私は恋しくてたまらないから、妻は私が携えて行く弓の束になってくれたらいいのに」という意に解せる。

 このように、歌におけるあづさの扱いは、枕詞や序の一部に用いられているものが多く、2505番の歌のように、弓を引くことから来ている「引く」にかかわるものが十二首、弓の上端から来ている「末」にかかる歌が九首で、そのほか「音」、「春(張る)」、「よら」などにかけて用いられ、3567番の歌のように梓弓を直接的に詠んだ歌も見える。

 ここで、このあづさという弓材がいかなる木であるかということが思われることになるが、これには昔から諸説があって見解のわかれているのがうかがえる。その諸説を列記すると次のようになる。貝原益軒の『大和本草』によるキササゲ説、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』によるアカメガシワ説、屋代弘賢の『古今要覧稿』によるオノオレ説、白井光太郎の『樹木和名考』によるミズメ説などがあげられる。

 弘賢のオノオレは中部以東に分布し、大和には見えず、蘭山のアカメガシワはひさきで登場し、ひさきと弓の絡む歌が見えないので、これらはあづさに等しいとは言い難い。次に益軒のキササゲはノウゼンカズラ科の落葉高木で、中国から古くに渡来し、川岸などに野生化して見られたであろうが、弓に用いるほど多く生えていたとは考え難い。という次第で、消去法によれば、あづさは白井説のミズメということに落ち着く。

 ミズメはオノオレと同じカバノキ科の落葉高木で、別にアズサの名が見える。また、ヨグソミネバリにもアズサの名があり、ミズメは水芽で、樹液が水のようであることからの名であるが、その樹液がサルチル酸のような異臭を放ち、夜糞のようだというので、ミズメの別称にもあてられ、ミズメとアズサとヨグソミネバリが一つに繋がり、同一樹種であることが言える。

 ミズメは本州の岩手県以西、四国、九州に分布し、大和にも多く、材は緻密で堅く、建築や器具材として評価され、弓材にも損色はない。よって、『万葉集』に登場する梓弓のあづさなる材はミズメということに落ち着く。ミズメは雌雄同株で、春先に葉の展開と同時に開花し、雄花は尾状に垂れ下がり、雌花は短枝に立ってつくのが通例である。

 因みに、キササゲにもアズサの名があるから混同するが、梓弓はこれではないように思う。それよりもキササゲには「雷の木」という別称があって、この木を植えておくと、雷避けになるというので、貴重な建造物を有する社寺に植えられていることの方が知られる木である。昔は地震や台風などに匹敵するほど雷は恐ろしい自然現象で、大和には、斑鳩の法輪寺三重塔が落雷によって焼失した事例がある。

 興福寺(奈良市)の国宝館の傍に一本のキササゲが見られるが、境内地には五重塔もあり、これは雷避けの役目を担っているように見える。また、ササゲのような長い鞘に入った果実は利尿などの薬用にされるが、興福寺のそれは枝にいつまでもぶら下がっているので、その用にはないと思われる。六月ごろ花冠の内側に模様のある淡黄緑色の花を円錐状につける。写真はミズメの花(垂れ下がっているのが雄花、雄花の上が雌花、左)、キササゲの花(中)、アカメガシワの花(雌雄別株で、これは雌花、右)。