大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年06月19日 | 万葉の花

<291>万葉の花 (11) ゆり (由利、由理、百合、由流)=ユリ (百合)

    百合匂ふ そのかみ山の 色にして

    あぶら火の光に見ゆる我が蘰(かづら)さ百合の花の笑(ゑ)まはしきかも        巻十八 (4086)  大伴家持

 『万葉集』にユリの登場する歌は十首。固有の名で登場するヒメユリを加えれば十一首になる。巻十八の長短歌五首は『万葉集』の編纂者とされる大伴家持が任地の越の国(富山県)で詠んだものであり、大和以外の地に関して詠まれた歌が七首にのぼる。また、ヒメユリを除く十首中、自然に生えているユリを対象にして詠んだものは六首、庭に植えられたものが一首で、切り花であろう宴席によって詠まれたものが三首見て取れる。冒頭にあげた歌は越の国の宴席で詠まれた一首である。

 集中、大和以外で詠まれたユリは越の国のユリが六首と常陸の国の筑波嶺(茨城県)のユリが一首で、大和よりもみなずっと北から東に当たる地方のユリであるのがわかる。残りの三首は大和の地で詠まれたと思われる庭のユリが一首と道の辺のユリが二首で、すべての歌が花に関わるものである。

 ヒメユリはともかく、十首の歌に登場するユリが果たしてどのユリに当たるのかということに興味が持たれる。前項で、奈良市の率川神社の三枝祭を紹介したが、祭りは『古事記』の神武天皇の条の以下の記事に因むもので、百合祭りとも呼ばれるが、この記事のユリに関してはササユリということで、祭りにはササユリが欠かせないものになっている。『古事記』の記事をあげてみると次のようにある。

 ここにその伊須氣余理比賣命の家、狹井河の上にありき。天皇、その伊須氣余理比賣の許に幸行でまして、一宿御寝しましき。その河を佐韋河と謂ふ由は、その河の邊に山由理草多にありき。故、その山由理草の名を取りて、佐韋河と號けき。山由理草の本の名は佐韋と云ひき。

 記事中の「佐韋」は「三枝」(さゐくさ)のことで、三つの枝にそれぞれに花をつける現在でいうササユリであるというのが定説になっている。つまり、大和の三輪山の麓の佐韋河(大和川の支流に当たる現在の狭井川)の辺りには「佐韋」のササユリが一面に乱れ咲いていたことになり、大和のユリと言えば、このササユリが一番にあげられる。

 ところで、ササユリの自生分布は中部以西であって、大和より西に多く見られ、大和より東にはわずかしか見られず、代わりに大和より東にはヤマユリが多く見られる。ともに山足や林縁など人との接触がある環境の下に生えるが、この分布からすれば、越の国でも常陸の国でもササユリは見られず、ユリの中ではヤマユリ、オニユリ、コオニユリ、ヒメユリなどが分布域にあげられ、これらの可能性が強い。で、希にしか見られないヒメユリや色彩の強烈なオニユリの類は十首のうち、どの歌にも想像するに難く、『万葉集』のユリを考察するに、大和以外で詠まれたユリについては、ヤマユリと見るのが妥当のように思われる。

 かつて、ヤマユリとササユリの分布状況から、ユリの植生に国(大和朝廷)の立地を考察したことがあったが、それを少しここで述べてみたいと思う。ヤマユリは日本列島の主に大和より東を生育圏にし、ササユリは西を生育圏にしていて、大和は両者の混生地としてあり、どちらにも生育しやすい土地柄としてあるのがわかる。言わば、私たちと同じ温帯圏に生を得ていることで、この両ユリの状況に人の生活圏をあててみるわけである。

 つまり、両ユリの混生地に国の中心を置けば、国のまとまりを得るという考えである。ここで、『古事記』の神武天皇の条の天皇と皇后伊須氣余理比賣命の出会いが思われる次第で、二人が出会った三輪山の麓の佐韋河の畔に山由理草の佐韋(ササユリ)が咲き乱れていたことが思われる。記事中、山由理草を敢て佐韋(ササユリ)と断っているところが私には考えさせられるところで、これはヤマユリとササユリとを考慮に入れて言ったものではないかというのが私の想像するところである。

 要するに、東征して大和に入った神武は神話で言われるところの天津系であるのに対し、伊須氣余理比賣の系譜は国津系で、二人が結ばれることで西の天津系と東の国津系が一つにまとまることになる。二人の出会いの場に二人を歓迎するごとくに西を表すササユリが咲き、東を意味するヤマユリが咲くという発想がそこには見て取れる。ササユリとヤマユリは花期が半月から一カ月異なるので同時に咲くことは自然の中ではまずあり得ないが、記事のユリに関わる断りは、どちらのユリをも意味するものであることは神話の物語としては可能で、二人のこの地での出会いが国を開く上において意味をなすことになる。

 後にこの地を「まほろば」と呼んだのは、東奔西走して国の安泰を図った悲劇の皇子倭建命であるが、ヤマユリやササユリにとっても植生の分布から言えば、大和は「まほろば」の地に等しいところである。ところが、近年、この「まほろば」の大和の地でヤマユリやササユリの減少が著しく、率川神社の三枝祭でもアナウンスされていた。環境の変化と盗掘によってササユリが少なくなり、この祭りでも集めるのに困難を来たしているというのである。最近の植生調査ではヤマユリもササユリも大和においては希少な植物にあげられ、レッドリストに載るに至っている実態と祭りのアナウンスは一致する。

 この状況は、国を開いた神武天皇にしても皇后の伊須氣余理比賣命にしても歎きの風景に違いなかろう。話を進めるうち、ユリが万葉の花というよりも『古事記』にベースを見る国の立地に関わってあった草花であることに思いが向く。万葉の花としては、家持の植物へのこだわりの一端が見える鑑賞程度に終わるが、これはユリの姿からして何とも惜しまれることであると言えよう。ユリは当時も薬用植物であったはずであるから、その用途としての歌もあって然るべきではないかというようなことも思えて来るところがある。

 写真は左がササユリ(このユリはまだ幼いので、一茎に一花しか見られない。最近、自生のものにこのようなものがほとんどであるのに気づく)。右はヤマユリ(このユリは古株になると一茎に二十個以上も花をつけるものが見られ豪華である)。両ユリとも花の容姿だけでなく、匂いのよいことにも定評がある。