大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年06月16日 | 万葉の花

<288> 万葉の花 (10)  あしび (安之婢、馬酔木)=アセビ (馬酔木)

       馬酔木には あるは哀しき 物語

    礒の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといはなくに                               巻 二 (166)  大来皇女

 「あしび」は『万葉集』の長短歌十首に登場する。「あしび」はアセビ(馬酔木)の古名であるが、今でも「あしび」と呼ぶ人は多い。アセビは常緑低木で、本州の東北地方以西、四国、九州に分布し、近畿の一帯には極めて多く自生し、庭木としても利用されている。枝先に十五センチほどの円錐花序を出し、春になると白い小さな壷形の花を鈴なりにつけ、木によっては樹冠がその花で被われる。ときに紅色がかった花も見られるが、自生するものは概ね白い花を咲かせる。

 『万葉集』の十首中、九首までが花を詠んだ歌で、「おしてる 難波を過ぎて 打靡く 草香の山を 夕暮に 吾が越え来れば 山もせに 咲ける馬酔木の あしからぬ 君をいつしか 行きて早見む」(巻八 1428・詠人未詳)とあり、「かはづ鳴く吉野の河の瀧の上(へ)の馬酔木の花ぞ末に置くなゆめ」(巻十 1868・詠人未詳)ともあり、また、「三諸は 人の守る山 本辺(もとべ)は 馬酔木花咲く 末辺は 椿花咲く うらくはし山ぞ 泣く子守る山」(巻十三 3222・詠人未詳)ともあって、歌は草香の山、吉野の河、三諸といった山の名や川の名を伴なって詠まれている。

  これを見ると、草香の山は現在の生駒山付近であり、吉野の河は吉野川であり、三諸は神の山三輪山で、万葉の当時から大和平野周辺の青垣の山々にアセビが多く自生し、春にはその白い花が見られたことが想像出来る。『奈良県樹木分布誌』(森本範正著)によると、大和における樹木の分布状況の中で、アセビはほぼ全域に自生分布しているのがわかる。これはアセビが奈良公園の一帯のみならず、各地に満遍なく見られることをいうもので、『万葉集』の歌からうかがえるアセビの大和における見分と一致することが言える。

 で、当時から大和の人々はアセビによく接し、花に意識が及んでいた。花の登場しない冒頭にあげた大来(大伯)皇女の一首にしても私には『萬葉植物歌の鑑賞』(中根三枝子著)が指摘するように、この歌も花を意識に置いて詠んだものと察せられる。

 歌は「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む歌二首」の題詞をもって詠まれた中の一首で、「うつそみの人にある吾や明日よりは二上山を弟背(いろせ)とわが見む」に続く歌であるが、左注があって「右の一首、今案ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし、疑はくは、伊勢の神宮より京に還る時、路のへに花を見て感傷哀咽してこの歌をつくるか」と言っている。

 大来(大伯)皇女は、天武天皇を父とし、持統天皇の姉、大田皇女を母とする同母弟の大津皇子が天武天皇なき後、天武天皇と持統天皇の子である異母弟に当たる草壁皇子との確執によって、謀叛の嫌疑をかけられ、死を賜ったとき、伊勢の斎宮として伊勢にあった。事件後、皇女は急遽帰京することになるが、左注は二首中の「あしび」の一首がこの旅に際して詠まれたものではないかと言っているわけである。

 ところで、大津皇子の死は朱鳥元年十月三日のことであり、皇女が帰京したのは史の伝えるところによると十一月十六日であるから、左注にいう「路のへに花を見て」とは自然でなく、左注が誤りと見なすところとなり、問題にされた。しかし、ここでなお考えを巡らせたのが中根の説である。

 つまり、中根の言うところは、少し長くなるけれども、次のようである。「馬酔木は、一般の花と違って、すでに夏ごろから蕾をつけ、来春咲くものであれば、十一月にはかなり顕著な蕾をつけていたに違いなく、皇女が、これから花開かんとする固い蕾をびっしれつけた馬酔木の枝に、無惨にも奪われたあたら有為の若き命を、唯一無二とも願む最愛の弟を思い重ね、感傷哀姻したということは充分考えられることである。そのように考えると、「伊勢神宮より京に還りし時の歌」なる左注の言も納得できるのである」と。

 この中根の説はアセビという常緑低木をよく観察しているものと言える。所謂、蕾も花に属するわけで、歌を見るに「咲ける馬酔木」とは言わず、「生ふる馬酔木」と表現しているところからもそれが察せられ、アセビの咲くころに二上山に埋葬したとする説に異を唱え、左注にいう「移し葬る歌に似ず」を納得出来る注として汲んでいるのである。

 私も、蕾を花と見て、「生ふる」と表現した大来(大伯)皇女の歌の表現を中根が言うように理解するのが妥当であると考える一人である。大来(大伯)皇女の歌は『万葉集』にわずか六首、すべてが弟の大津皇子に関わる歌であるが、アセビの登場を見る冒頭にあげた歌など一連の悲歌は『万葉集』を代表する歌として後世にも語り継がれるところとなった。

 この歌を帰京の旅の際に詠んだ歌とする方が「感傷哀姻」して詠んだ皇女の思いに叶うと言え、心情を述べる抒情歌たる短歌の特質が最も発揮されたものとして見ることが出来、こう見る方が鑑賞の上でもよいように思われる。帰途は伊勢街道であったに違いなく、大和と伊勢を分かつあたりはアセビの多いところでもあり、その点でもこの悲歌は帰京の旅の途次に詠んだものと察せられる。

                                 

   写真は左から花芽を出したアセビ(十月初旬)、鈴なりに花を咲かせるアセビとアセビの花のアップ(いずれも三月中旬)。