大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年06月01日 | 写詩・写歌・写俳

<273> 穂 麦 畑

           生命の ありあることを 思はしむ 麦の穂波の 輝けるなり

 地球上の数えきれない生きもの、動物も植物も今生きているすべて、これらは地球誕生よりこの方、気の遠くなるようなはるかな時、人類で言えば二百万年近くを引き継いで来た生命体である。そして、今を生きるこの生命体は、また遙かな時の彼方へ新たなる生命体を送り継いでゆく生命体でもある。食うものも食われるものも、その意味で言えば、みな等しく生き継いでゆく生命体の中の一つである。一面に色づき輝く穂麥畑の穂の広がりを眺めながらふとこのようなことが思われた。

 昨日亡くなった身内も、絶滅の最後の一頭であったと思われる日本狼も、化石からしか想像出来ない恐竜にしても、すべては生き継いでゆく生命体の一つであった。そして、恐竜の時代があったように、今まさに人間の時代があるということであろう。しかし、恐竜が示しているように、人間の時代が永遠であるという保障はどこにもなく、永遠はまさに幻想と言ってよいと思える。もしかしたら、人間の後は、昆虫の時代かも知れない。それは誰にもわからないことであるが、とにかく、今ここにあるのは生き継いで来たものたちがそれぞれに関わり合いながらそれぞれに営みをもってある姿だということが言える。

   我という 一躯一雄 ここにあり 縁のまさに 不可思議の中

 そして、私という人間がいまここにいる。引き継いでゆくべき生命体として。それにしても、縁というのは如何なるものか。南方熊楠がいう錯雑たる因果と因果の総体であるとする説明はわからないでもない。つまり、この世が因果と因果の総体にして繰り広げられる生きものの存在する場であること、そういうことであろうと思われる。来し方、行く末、過去から未来に移りゆく生命体のその間の刹那一瞬の関わりにおけるところ。私という一個の存在はそういう立場にいる縁の器と言えよう。

 もうすぐ穫り入れられる穂麦の輝きは、私たちになくてはならない糧の一つにほかならない。また、我(私)という個体と同じ生命体であり、その生命の輝きであって、時と所を共有してあるものと言うことが出来る。そして、ここにある縁は敵対する縁ではなく、恩恵をもってある縁であって、穂麦の一面に広がる風景には、それゆえであろう、何か心安さが感じられるのである。写真は大和平野に広がる穂麦畑。左の写真の山は三輪山。