<137> 冬 樹 の 影
長々と冬樹が影を引きにけり眺める我も 影を引く身
レオナルド・ダ・ヴィンチの「太陽は決していかなる影をもみない」という言葉については元日の初日の項で触れたが、これに加えるところ、私たちというのは影を引くもの、即ち、影を有し、影を知る位相(立場)にある存在であることが指摘出来る。この影を有する位相(立場)において私たちの営みはなされていると言える。 即ち、私たちの喜怒哀楽も、悲喜苦楽も、みなこの影を有し、影を知るものの位相 (立場)にある営みの中に現われる。これが真理であって、私たちはこの真理の中に生きている。
レオナルド・ダ。ヴィンチの言葉からすれば、 太陽は夜を知らないことになる。 しかしながら、月は夜を知っている。つまり、太陽は強烈な支配者であるが、夜の事情を知らない。これは影を有する私たちにとって、 実に厳しい存在で、有無なくあると言わざるを得ない。月がやさしいのは影の部分を知る存在だからである。
私は、嘗て、私たちに太陽領と月光領のあることを思い巡らせたことがあった。 太陽領は影を引く者たち誰ものあこがれであろうが、生半可には近づけない。近づけばその偉大なる激しい力によって焼き滅ぼされてしまう。月光領はその相対の反面にあり、 やさしい存在で、私たちを癒してくれる。しかし、その局面がつのってゆけば、 凍てつく極寒に至り、凍え死を免れない。
私たちはそういう両極に対しながら 影を引きつつ生きていると言えよう。 この位相(立場)こそが私たちの真の姿である。そして、 人生の結論からして言えば、 太陽領に焼かれて死ぬか。月光領に凍えて死ぬか、どちらかであろうが、生きてあるということは、太陽領と月光領の接線上にあって両域に関わりながらあるということで、 影を有するものの位相(立場)がここに思われる次第である。