放送大学の友人Sさんから、ある方の和綴じの歌集を頂きました。「竹馬抄」。昭和28年発行。著者は及能謙一氏。東大出の学者で、横浜市大医学部の前身の横浜医専初代学長。もう旧制中学の頃から作歌をされていて、その頃有名な竹柏会に入っておられました。歌集の序文は、佐佐木信綱。序歌は、これも著名な太田水穂。
及能氏は、大卒後ベルリンに留学。さらに米国旅行。4人の娘さんのよき父でもありました。初孫が男児であったことも大きな喜びでした。戦争中は娘婿さんの出征もあり、悲しみの歌も見られます。戦後は職を辞し、奥様との静かな日々でした。
現代のエリートは、時代のせいでもあるのですが、この人の真似は出来ません。医学者が歌を詠み、水彩画を描き、歌集を出版することは叶わない時代です。
Sさんは、和綴じが気に入ったことと、見返しの雀の絵が目に止まり、古書店で買われたそうです。でも、もう見ることもないのでと、私に下さいました。感謝です。
歴史が感じられる歌を挙げてみます。
わが前に妻が据えたる三つ組の朱の盃まづあけにけり (昭和6年のお正月)
リンカーンの像を見返へれば雪の上にわがふみし靴の外に痕なし (ワシントン)
みんなみの海になだれてベスビオは今もさりげなく煙吐き居り (イタリア紀行 このころまだ火山の煙が見られたようです)
埃及の砂漠の砂にわがかげも駱駝のかげも共に短し (エジプト紀行)
ほがらけき冬の朝霧とよもしてサイレン鳴りぬ皇子生れたまふ (昭和8年 平成天皇出生)
口ばたにいれずみ蒼きメノコひとり湖を見て居りかたへに立ちて (このころアイヌの婦人も見られたようです)
牡丹画くと臙脂をときて筆とりてつつしみ心白紙にむかふ (絵の心得もおありです)
花といへば棺の上にもりあげし紅き蓮の花の見たりし (原三渓の告別式)
新しく造営なりし神宮の檜のかをりむねにしみ入る (伊勢神宮遷宮の年 昭和15年)
小さなる四つの島にひしめきて生きる八千万のひとりかわれは (昭和26年の人口はこの数字でした)
見返しの雀
太田水穂の序歌
以前「甲骨文字について馬の上に掲げてある額のことです。」
と頂いておりまして、関係者のお返事を待っておりましたところ、なんと専門的な内容のプリントが沢山届き驚いております。
私は「あの文字はどんな用具で書いたのか」と伺いたかったのですが?
matsubaraさまにお返事が出来なく失礼致しておりました。
あの時の説明です「甲骨文字の十干十二支の字体と代表的な異体字、および対応する現在の文字を示す。
殷代には十二支は動物と関連づけられていなかった。
当初の十干十二支は日付を表すものであったが、のちに年数などの表示にも転用された。」と表示されていました。
私の先生に用具を伺いましたら「筆よ」と。
又、用紙は先生自らすいた物だそうです。
以上、お返事にならないと存じますが遅くなりましてゴメンナサイ。
また詳しく甲骨文字のことも説明していただき
ありがとうございます。本格的に学ばれて
いる先生ですね。
ここまではなかなか聞くことができません。
十干十二支をいつも年賀状に用いています。
用紙までご自分で漉かれたとはすばらしいです。
先生によろしくお伝え下さい。