つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

なぜ共産主義者はお金持ちが多い?

2023-06-29 | Weblog

丸谷元人さんのメルマガより


あなたは、この日本人政治家が
誰かわかりますか?

・本給とは別に、本の印税など数千万円の収入
・自宅は約1000坪の大豪邸
・専属の料理人やボディーガードが在中

これは岸田総理ではありません。

最近、マイナンバー制度で
"何かと話題"の河野太郎でもありません。

その正体、それは、、、

日本共産党の不破哲三。


(出典:日本共産党HP)

戦後、彼は共産党の幹部として、
絶大な権力を有していました。

しかし、
ここで不可解な疑問が残されています。

共産党と言えば、

「格差のない、平等で
 平和な社会を実現する」

という理念を掲げているはず…

そんな世界を目指している共産党幹部が、
一体なぜ、貴族のような暮らしを
謳歌していたのでしょうか。

地方の若い共産党職員が、
200〜250万円の給与であることを考えると、
不破の待遇は破格でしょう...

一体なぜ、共産党幹部は自ら格差を
生み出していたのでしょうか。

その答えは、共産党の始まりである
ソ連の裏側を見れば明らかでした…


ソ連崩壊を機に、
急激に衰退した共産主義…

イタリアやフランスも
共産党を解体させる一方、

日本共産党は今も政界の中枢にいます。

そして、彼らは未だに
ソ連から教わった共産主義の
メカニズムに則って政治を進めています。

しかし、私たちは共産主義そのものを
どれだけ理解できているでしょうか。

実は、共産主義の不都合な真実は、
戦後から巧妙に隠されて続けてきました。

なんと、GHQによる占領政策の過程で、
共産主義に関する本は次々と焚書に…

これらの本の共通点は、
「共産主義の矛盾や疑問が書かれていた」
ということ…

つまり、共産主義に否定的な本ばかりが
焚書にされてしまったのです。

その一方で、
共産主義者が書いた本の多くは、
焚書を免れていました。

これでは、
"GHQは反共産主義の本を処分した"
と言っても不思議ではないでしょう。

一体、GHQ内部では
どんな取り決めがされていたのでしょうか。

そこで、共産主義とGHQの
黒い繋がりを探ると、

この謎を明らかにする、
1つのカギが見つかりました。

それは、マッカーサーの情報参謀が行った
GHQ内部の告発…

戦後当時、彼は
『総司令部への左翼主義者の浸透状況』という、
極秘文書を書き上げていたのです…


戦後間も無く、
私たちは共産主義の一面しか
見ることを許されませんでした。

その結果、日本の学校教育は、
共産主義を礼賛する左翼的な
「日教組」が支配…

さらに、日本のマスコミやメディアも、
左翼思想を持つ人たちが牛耳る始末…

それだけでなく、
日本共産党を含む多くの共産主義者が、
日本政治に巧妙に入り込んでいます。

つまり、このままでは
安保闘争や学生運動がなぜ起きたのか、
その真相は永久に闇の中…

そればかりか、日本政治を
裏で操る共産主義者の謀略に、
私たちは一生
気づくことができないでしょう…

しかし、なぜ、
突如として共産主義が生まれたのか…

そして、共産主義が世界に広まることで、
一体誰が得をしているのか…

歴史の闇に葬られた謎を
一つずつ暴いていくと、
ある事実が浮かび上がりました。

それは、、、
共産主義を生み出した黒幕は、
今も私たちを騙し続けているということ…

実は、グローバリズムや多様性といった
言葉を隠れ蓑にして、
私たちの生活に浸透してきています。

写真は、モネの池近くのアジサイ

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日本人はクジラの供養塚を建ててきた

2023-06-27 | 講演会

伊勢雅臣氏のメルマガより


我が先人たちはクジラの命に感謝して無駄なく利用し、
その上でクジラの霊が成仏するように祈ってきた。

■1.クジラに供養塚を建て、戒名を与えてきた日本人

 捕鯨は江戸時代には日本各地で盛んに行われていたが、
捕鯨の港の近くのお寺には、必ずと言って良いほどクジラの供養塚や墓がある。
さらに、捕れたクジラ一頭ずつに戒名をつけ、供養している所まである。

 昔からクジラを利用してきた国々は多いが、
このようにクジラの霊を供養してきたのは、日本だけである。

 また、我が国ではとれたクジラは肉だけでなく、
骨はかんざしや櫛に、ヒゲは楽器に、内臓は各種の薬に、
というように、すべての部位を利用してきた。

 我が先人たちはいただいたクジラの命に感謝して無駄なく利用し、
その上でクジラの霊が成仏するように祈ったのである。

 これとは対照的なのが、アメリカの捕鯨である。
19世紀中葉には、アメリカの捕鯨船は日本近海までクジラを捕りに来て、
そのために1万頭ほどもいたセミクジラは1千頭ほどに激減したと言われている。

 それも灯油や機械油とするために、
体重の10パーセントほどしかない脂肪をとるだけで、
残りの肉も骨も内臓もすべて海に捨てていた。

 アメリカ国内で石油が発掘されるようになると、
捕鯨は衰退し、今度は一転して
「クジラを捕る民族は野蛮だ」「クジラがかわいそうだ」と言い始める。

 その変わり身の早さは別の問題として、
日本人にはクジラに対して、他国民にはない、
格別な思い入れがあった事を知っておく必要がある。


■2.縄文時代からクジラを食べていた日本人

 日本人とクジラとのつきあいは、有史以前に遡る。
8千年から9千年前の縄文時代の貝塚から、
たくさんの鯨類の骨が出土している。

 たとえば縄文時代の前期から中期のものと
言われる長崎県平戸市にあるツグメノハナ遺跡の貝塚からは、
たくさんのクジラやイルカ、サメなどの遺骨が出土している。
クジラの解体や皮剥などに使ったと思われる石器も出てきている。

 興味深いのは、クジラの骨の加工品も出土していることだ。
箸のような突き刺す物や、首飾り、腕輪などの飾り物である。

 日本列島の近海は、北からの親潮、
南からの黒潮が合流するので、もともと多くの魚が集まる。
それを追いかけて、クジラがやってくるので、
日本近海は世界で有数のクジラの多いところなのである。

 海流に乗ってやってきたクジラが湾内に迷い込み、
浅瀬に乗り上げて動けなくなることも少なくなかった。
縄文時代には、こうしたクジラを捕獲していたと思われる。

 弥生時代に入ると、船を使って、
湾内に迷い込んできたクジラを捕獲する、
より積極的な捕鯨が行われたと考えられている。
長崎県壱岐市の原(はる)の辻遺跡から
出土した約2千年前(弥生時代中期後半)の
甕棺(かめかん)には、捕鯨の絵が残されている。

 興味深いことに、縄文時代、弥生時代ともに、
複数の集落から同じクジラの個体の骨が出土していることが判明している。
すなわち、クジラが一頭揚がったら、
かなり広い範囲の集落に肉が配られ、近隣で分かち合っていたようだ。


■3.久治良(くじら)、勇魚(いさな)

 古事記、日本書紀、風土記、万葉集など、
日本で最初の文献類にも、すでにクジラが登場する。

 古事記には神武天皇がクジラを食べたという記述がある。
原文ではクジラは「久治良」と表記されている。

「常陸国風土記(ひたちのくに、ふどき)には、
現在の茨城県久慈(くじ)郡の地名は、
そこにある丘のかたちがクジラに似ていることから、
「倭健命(やまとたけるのみこと)が久慈と名付けた」とある。

 クジラは勇魚(いさな)とも呼ばれ、
クジラをとる人を「いさなとり」と呼んだ。
「いさな獲り 海の浜藻の、、、」と、
「いさなとり」が海にかかる枕詞になっている歌が、
日本書紀に出てくる。

 万葉集でも
「いさなとり」という枕詞を使った歌が12首もあり、
当時の貴族階級の生活に、クジラが浸透していた様子が窺われる。

 奈良時代には仏教の影響力が強く、
肉食禁止令が出るほどであったが、
海で獲れるクジラは「勇魚」、
すなわち海の魚と考えられていたため、
制約はなかったようだ。

 平安時代にはクジラが捕れると、
その肉を塩や醤油、味噌につけて京に送った。
これを京の都に住む貴族や上級武士たちは、好んで食べていた。

 室町時代になると、文献の中でクジラの記述が飛躍的に多くなる。
当時、位の高い貴族や武士の宴会では、
「式三献」という儀式があった。
杯が酌み交わされてから、
海の物、山の物、野の物、里の物という順に食べ物が出てくるのだが、
海の物の中では、鯛(たい)、鯉(こい)に次いで鯨肉が出てくる。

 室町末期に書かれた『四條流包丁書』という料理書には、
食材としての魚の格付けが載っているが、そこでは最高の鯉の次がクジラなのである。

 クジラは普通の魚よりもずっと味が濃厚で、
活力源となるタンパク質や脂肪も豊富である。
おいしく、栄養源としても優れた食材として、珍重されていた。


■4.江戸時代には鯨食が庶民にも広まった

 江戸期になると、庶民の間にも鯨食が普及していった。
当時の江戸の町を描いた絵を見ると、居酒屋の軒先に「鯨」と書かれているものがある。

 元禄時代に刊行された『本朝食鑑』は、さまざまな食べ物が登場するが、
「毒がなく、最も人の体に良くて美味しいものは何かといえばクジラである」と書かれている。

 江戸時代中期には、
『勇魚取絵詞(いさなとり・えことば)というクジラの専門書も出版されて、
クジラの種類、捕り方、解体の道具と方法、部位の名称などがすべてまとめられている。
その付録の『鯨肉調味方』には、クジラの67の部位のすべての調理法が記述されている。

 一般的な食べ方としても、生で刺身として食べる、鍋で煮て食べる、
その他、ハリハリ鍋や、味噌で煮込んだクジラ汁など、調理法のバリエーションも非常に多かった。

 特に鯨肉は米食との相性も良かった。
米には味噌漬けや醤油漬けなどのしょっぱいものが合う。
味噌や醤油のうまみはグルタミン酸によるものだが、
そのうまみをクジラのイノシン酸は美味しく引き立てる。
イノシン酸の多い鰹節が、醤油の味を引き立てるのと同じ作用である。

 米を主食とし、醤油や味噌を多用する日本人の食生活の中で、
鯨肉はまことに相性の良い食材だった。

 

■5.捕鯨技術、保存技術の進歩

 鯨食が庶民にまで普及したのは、
供給面の発達と、保存・運搬方法の進歩による。

 正徳3(1713)年ごろに出版された
『和漢三才図絵』は絵入りの百科事典だが、
そこには日本列島の地図が載っていて、
各地方の捕鯨地が記されている。
現在の佐賀県呼子、和歌山県太地、北海道松前、
長崎県五島列島などが捕鯨の中心地であった。

 井原西鶴の『日本永代蔵』には、
和歌山の太地にいた「クジラ突き(クジラを銛で打つ人)」の名人、
太地角右衛門をモデルにした男の話が出ていて、歌舞伎にもなっている。
この男は約60メートルのセミクジラをしとめて、
前代未聞の大きさであると書かれている。

 その後、この太地で、丈夫な麻で造られた巨大な網を使った捕鯨法が考案された。
何隻もの船で沖合に、小学校の校庭ほどの大きな網を張り、
クジラをここに追い詰めてから銛で突いて弱らせ、
網船で引っ張ってくるという捕鯨法である。
これは歴史的に見ても、世界中どこにもない、日本独特の捕鯨方法であった。

 これによりクジラは逃げる事もできず、また沈んでしまうことも防げるので、
捕鯨の効率が飛躍的に高まった。この捕鯨法は全国に広まっていった。

 また各地で捕鯨のための組織「鯨組」が成長していった。
鯨組を構成するのは、海上での捕鯨従事者、陸上での解体、加工、運搬従事者、
采配する親方などを含めて中規模組織で7百人程度。
太地では3千人もの規模があった。
当時としては、銅山などとならんで、
鯨組はもっとも大きな産業組織ではなかったかと言われている。

 保存技術の進歩もあった。獲れたクジラを塩漬けにすると、
長期間、保存できるが、塩のために水分が抜けて、かさかさになってしまう。
それを防ぐために稻わら(荒いむしろ)で巻くと、水分が保存される。
これでおいしさを何ヶ月も保てるようになった。

 海から取れる塩も、また稻わらも、
我が国には無限にあったので、この保存方法は、まことに好適であった。

■6.「いただきます」という言葉は日本人だけのもの

 冒頭に述べたように、全国の捕鯨地のお寺には、
たいていクジラの墓や供養塔がある。
このようなクジラ供養が始まったのは、
鯨組ができて発展していった1700年頃からである。

 人間が生きるためとは言え、
クジラを殺し、食べる事に対して、
申し訳ないという気持ちがあったからであろう。

 どうか成仏して欲しい、という気持ちで、クジラ一頭一頭に対して、
位牌をつくり、供養塔を建て、戒名をつけた。
このような文化を持つ国は日本以外にはなかった。

 考えてみれば、米にしろ、パンにしろ、肉や魚、野菜にしろ、
人間が食べるものは、すべて生命あるものである。
そういう命をいただく事によって、我々の命は成り立っている。

■7.食物連鎖の中で生かしていただいている

 捕鯨反対の理由の一つとして
「クジラを殺すのは可哀想だ」と言う声があるが、
クジラ以外の牛や豚や羊や鶏は殺しても可哀想ではない、
というのは理屈が通らない。

 植物しか口にしないベジタリアンがこう言うのなら、
まだ分かるが、極論を言えば、植物にも命がある。
すべての動植物は、食物連鎖の中で他の命をいただきながら、
自らの生命を保っているのである。

 我々の先祖は、
自分たちもこの食物連鎖の中で生かしていただいている、
という感覚を持っていた。

それがクジラの墓を作り、
またすべての部位を無駄なく使わせていただいてた、
という行為に現れている。


■8.忘れ去られた「いただきます」の知恵

 明治以降、西洋諸国から近代的な捕鯨方法が導入された。
遠洋まで出かけられる大型船で、捕鯨用の大砲や銛を備え、
それまでの網捕り方式とは比較にならないほどの
大量のクジラが安全確実に捕れるようになった。

 我が国も、この近代捕鯨法を導入し、
世界有数の捕鯨国にのし上がった。
捕鯨が全世界の海洋で競って行われるようになり、
各国が捕鯨数を競い合う
「捕鯨オリンピック」なる言葉までマスコミで使われるようになった。

 この近代化の過程で、
日本人は「いただきます」の心を忘れ去ってしまったようだ。
クジラへの感謝の気持ちも、その成仏を祈る心も忘れ、
ちょうどアメリカの捕鯨船がクジラの脂だけとって後は捨ててしまったように、
クジラを大量生産・大量消費の「資源」としてしか考えなくなったようだ。

 そして多くの捕鯨国が、
こうした姿勢で世界中の海洋で捕鯨競争に奔走した結果が、
クジラを一時、絶滅の危機にまで追い込んだのである。

 欧米流の考え方では、
地上の資源はすべて人間のためにあるとして取り尽くしてしまうか
それを防ぐために聖域として一切の利用を禁ずるか、
の二者択一の発想しかないようだ。

これは、あまりにも単純な発想である。

 クジラの命を感謝して、
無駄なくいただきながら共生を図る。
日本古来からの「いただきます」の知恵を今こそ思い起こすべき時ではないか。

写真は友人から頂いたお菓子。

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モネの池

2023-06-25 | 岐阜県

 かねてから約束していた関市の通称モネの池に息子が連れて行ってくれました。岐阜県内でもかなり離れていてわが家からは50kmはあるでしょうか。駐車場の県外の車が多いのに驚きました。ネットで広がったようで、前から気になっていた所でした。池には、「名前がない池」(モネの池)と、書かれています。

 確かに橋らしきものもあるし、水深80cmの池は自然に湧き出る水は美しく、大きな鯉も泳いでいます。睡蓮もちらほら。小さい池に人がひしめきカメラを構えている中に私も加わりました。もともとは神社の放生池だったようです。池に行く途中もよかったです。別の水路にはカルガモが泳いでいるし、モリアオガエルも産卵しています。田のあぜには、アザミもさいているし、近隣のアジサイは満開ですし。

 せっかく美濃市を通るのですから、30年ぶりに美濃和紙の里会館にも入りました。前よりリニューアルされていました。10年前、美濃和紙がユネスコの世界遺産に認定されたからでしょう。ほとんど人はいなかったのですが、モネの池よりこちらに来てほしかったです。手すき和紙を少し買いました。文化祭に出品する用紙が要るのです。

 いつものように三人で食事をしていると、そこへ娘夫婦が入って来たのでお互いにびっくり。近くの店ですから、こういう偶然もあるのですね。私は15年ぶりでしたが、昔通りまずまずの美味しさでした。

 ところで昨夜のブラタモリは、関ケ原。先月合戦記念館に行きましたが、その場面も撮影されていました。ここでも断層の話題が出て勝敗に結びついているようで面白かったです。島左近と黒田長政との鉄砲での戦いはどちらも断層の道を利用していました。あの戦いで寝返った小早川は一段と高い位置で勝敗のなりゆきを眺めて優勢な方につきました。地形が勝負に影響がありました。大谷吉継は最初優勢でしたが、小早川の裏切りに会い自害。6時間で決着がつきました。

 この場所は、1000年前から東山道、伊勢街道、北国街道の交差する交通の要衝であることから戦いの地に選ばれたことは岐阜県人の私も知りませんでした。1000年続く旅館も健在です。関ケ原から関東、関西に分岐されます。来週は木曾三川、どうやら近くの木曽川でも撮影されたようです。

 

モリアオガエルの卵

カルガモ(モネの池とは別の水路)

 

 

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がんばっ展 8

2023-06-24 | 文化

 今年も短歌会の伏屋さんが、隣町の画廊での「がんばっ展」に出されていますので、乗せていただき拝見しました。もう8年目。指導者のY先生にも初めてお目にかかり、お話させていただきました。

 伏屋さんは前から絵本製作をされていたのですが、今回もお孫さんにかなの書き順を指導するための絵本を展示されていました。仮名ばかりでなく、その文字が頭に着く国の旗なども描き、子供が興味を持つよう考えられています。絵画ばかりでなく、絵本も応用されていることは素晴らしいです。

 Y先生は一時体調を崩されましたがお元気になられ、指導を続けておられます。アボカドのラベルもそのまま絵に貼られ、アイディアに驚きました。以前ラジオの岐阜FMわっちにも出演され、それを聞いたことをようやく話せました。伏屋さんが録音して短歌教室で聞かせて下さったのです。

 いつものようにモーニングを頂き、おみやげに去年約束したパイナップルリリーも頂き、玄関に飾りました。家庭菜園の胡瓜と人参も頂き感謝でした。乗せて頂いたご主人と夫婦二人三脚で新鮮な野菜を生産しておられます。人参まで種から育てておられます。夫も30年前に蒔いてみましたが全く発芽しなかったです。その原因がこの日に教わり分かりました。25日まで。案内状の絵も伏屋さん作。 

 

絵本

パイナップルリリー

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音楽療法 8

2023-06-23 | 文化

 昨日は雨天でしたが、いつものように濱島先生を迎え、ミニバイオリンコンサートを開きました。雨にふさわしい楽器として、レインスティックという珍しい物を示され、一人ずつ試してくださいと言われました。この太い棒の中はくり貫かれていて中に種が入っているため、棒を動かすたびに雨が降るような音が出ます。バイオリンの曲にあわせて動かして楽しみました。他にもたくさんの楽器を所持しておられるらしく、「これから順に紹介していきましょう」と、言われ、楽しみです。

 最初は雨天に会う、「雨ふり」。次はひばりの「愛燦燦と」。それからリクエスト曲に合わせて、ゴセックのガボット。そして、ブラームスのハンガリー舞曲が演奏されました。突然ハンガリー舞曲を希望してもアイパットから伴奏の楽譜を選び、無線で伴奏に繋げられるのです。便利な時代になりました。よく来ていただくOさんは、春にはベートーヴェンの「春」をリクエストされ、今度もタイミングよくこの曲を所望されました。

 即興でそのスピーディな曲が演奏されて、素晴らしかったです。日頃はシーンとしている老夫婦だけの我家はこの日ばかりは明るい贅沢な雰囲気に包まれました。

 

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原爆の必要性?

2023-06-22 | Weblog

ダイレクト出版株式会社のメルマガより

日本に原爆が投下された
  “本当の理由”はなんでしょうか?

原爆投下の理由といえば、

「日本の本土決戦を避けるため」

「戦争の長期化で予想される
 数十万人の犠牲者を救うため」

だと言われています。

私たちも学校やテレビ、新聞などで
そういった教育を受けてきましたし、

実際に、原爆投下の数日後、
日本は降伏することになります。


しかし、、

歴史の細部を見ていくと、
どうにも辻褄の合わない事実が
見つかるのです…

例えば、、


アメリカは日本の降伏意思を知っていた

実は、原爆投下が決定するしばらく前から、
日本は降伏する意思を示していました。

実際、日本はソビエトを通じて、
降伏条件の調整を進めていました。

さらに驚くことに、
アメリカはその事実を知っていたのです。

つまり、アメリカは、
「日本が降伏しようとしている」ということを
認識していたということです。

にもかかわらず、原爆は投下されました。

それによって、広島では約14万人、
長崎では約7万人の命が奪われたのです。

そして戦後は、原爆投下が
なぜか「正義」であるかのように、
教え込まれているのです…


原爆が投下された真の理由とは?

では、一体なぜアメリカは、
日本に原爆を落とす必要があったのでしょうか?

その秘密を解くカギは、
教科書で書かれているような
“大局の歴史”ではなく、

むしろ“細部の歴史”を見ていくことで、
真実が明らかになってきます。

例えば、米軍関係者たちは、
このような発言を残しています。


原子爆弾の使用が
戦争を終えさせたのではない。

ロシアの参戦がなくても、
あるいは原爆の使用がなくても、
二週間以内には終わっていた。

― カーチス・ルメイ将軍


日本との戦いは
原爆で勝ち取ったものではない。

実際、日本は、広島が破壊され
世界が核戦争の到来を知る以前から、

あるいはロシアの参戦以前から
講話を模索していた。

つまり原爆は、
戦争終結の決定的要因ではない。

― チェスター・ニミッツ提督


あの残虐な兵器の広島・長崎への使用が、
物理的な対日戦争で果たした役割は
ないと思っている。

日本はすでに敗北し、
降伏の用意ができていた。

科学者やその他関係者が
とにかくやってみたかったんだろう。

この計画には巨額な資金が
注ぎ込まれていたから。

― ウィリアム・リーヒー提督


これらの発言から、原爆投下は、
「早期に戦争を集結させるため」
という理由ではなく、、

むしろ原爆開発に携わった関係者が
「やってみたかったから」という
動機が浮かび上がってきます。

実際に、広島にはウラン型、
長崎にはプルトニウム型の原爆が使用され、
彼らはその違いを検証しようとしていたようです。


このように、真実の歴史を理解するためには、
教科書で書かれるような“大局的な歴史”ではなく、
むしろ“歴史の細部”を紐解く必要があります。

そして、歴史の細部を紐解いていった先には、
ごく少数の指導者や軍幹部たちの
エゴや人間ドラマによって、
歴史が動かされていることに気づきます。

原爆投下の例では、
教科書のような美しい筋書きはなく、、

むしろ一部の人間たちの“好奇心”によって、
20万人以上の日本人が殺されたという
歴史の真実が浮かび上がってくるのです。




 

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東北大学、中国に加担?

2023-06-20 | Weblog

ダイレクト出版メルマガより

「東北大学には3名の中国人が
スパイとして潜り込んでいます」

こう語るのは、
経済安全保障アナリストとして
活躍されている、平井宏治先生。

2021年10月に
中国が、最先端兵器
“極超音速ミサイル”の開発に
成功した裏には、

東北大学が
関係しているというのです…

一体どういうことなのか?
平井先生はこう語ります。

中国が実験した
「極超音速ミサイル」に使われた技術は、

東京大学、日本大学、名古屋大学、
東北大学、九州大学、東京工業大学の
いずれかから流出した可能性が高いです。

特に、東北大学には3名の中国人が
スパイとして潜り込んでいます。

そのうちの一人は、
中国の軍事企業に所属している
中国人技術者です。

その中国人を助教授に就任させた
東北大学は、研究費を支給。

この研究費だってもとは税金です。

それだけでなく、
JAXA(宇宙航空研究開発機構)の
関連施設に出入りさせていました。

この助教授は、中国に帰国したのち
極超音速ミサイルの開発に携わっています。

極超音速ミサイルの技術は極めて複雑です。
これまでの中国の技術で
開発できるとは到底思えない。

東北大学やJAXAから盗まれた
わが国由来の技術が、
「極超音速ミサイル」に軍事転用されている。

自国の危機を自分たちが招いていることに、
危機感を持ち、対応する必要があるのは
間違いありません。

いかがでしたか?

中国の驚異的な進歩の裏にあった、
大学の技術漏洩…

さらに平井先生は、

「このような技術流出は
東北大学だけの問題ではない。
日本の多くの大学に共通する、
もっと根深い原因がある」と語ります。

平井先生の語った、本当の課題とは…
一体どんなものなのでしょうか?


PS.
講義の後半では、
平井先生にこんな質問をしてみました…

Q1
ソフトバンクと中国の
繋がりについて知りたいです。
アリババ関連など、
非常にきな臭いと思うのですが…

Q2
Panasonicはかなり中国企業と
仲がいいように思います。
Panasonicの技術が、中国軍事に
利用されている可能性はありますか?

Q3
株式会社ジャパンディスプレイ(JDI)が
中国HKCとの提携を決定しました。
この決定のせいで、
日本の高度な技術が漏洩しませんか?

などなど。

高度な技術や、
膨大な個人情報を持っている
日本の有名企業を例に、

実際の現場で起こっている
中国の手口があるのです。

写真は娘から届いた父の日のプレゼント

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Vive la Chanson! Gifu de Chanson!

2023-06-19 | 文化

 昨日は遠藤伸子さんが特別ゲストの池畑慎之介(ピーター) と、高橋良吉さん、堀江ゆかさんとともに岐阜でシャンソンというコンサートを開かれましたので、予定通り友人とぎふ清流文化プラザに行きました。

 ピーター人気と言いましょうか。満席。私もこの人の歌を聴くのは、初めて。こんなに歌唱力があるとは知らなかったです。女装などしなくても十分人気が出たと思います。越路吹雪そこのけの実力です。サントワマミーなど聴くときは。

 デビューして55年。モノクロテレビの時代には九重佑三子と間違えられたりしたとか。岐阜は初めてというので、金華山にもロープウエイで登り、岐阜城をめざされたとか。しかし時間不足で城に入らずユーターン。でも岐阜大仏は見られたとか。日本三大仏の一つとも言われているのに知る人は少ないのが残念です。三大仏の一つ、鎌倉大仏に礎石が残っているのに大仏殿はありません。それが津波で失われたとは知らなかったです。言うまでもなく三大仏の筆頭は東大寺の大仏。岐阜の大仏は銅でなく、竹ひごと紙です。

 彼は九重佑三子より芸能界で生き延びています。8月で71歳ということで、おじいになるのか、おばあになるのか分からないという冗談に爆笑。おじばと呼んでくださいと言われ、また爆笑。私のこれまでのイメージは、「乱」という映画に出られていたことだけでした。実力派歌手ですのに。

 

 

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公民館短歌会 187

2023-06-17 | 短歌

 梅雨の中休みの昨日、予定通り岐南町南町民センターで、187回目の短歌会を開催しました。白内障手術のため一人欠席。会の始まる前にHさんが6枚の花弁をもつ十薬の花を持参してくださいました。前回の歌会で八重の十薬を歌った作品があったからです。十薬はどくだみのこと。この花は、おまけに葉まで斑入りというめずらしさ。押し花にして保存しておきたいです。Hさんは自宅庭から難なくみつかったそうです。欠席者には、添削し郵送します。歌話の資料も同封して。

 歌話は、母をテーマとした歌を六首とりあげました。万葉集の防人の歌、明恵上人、良寛、暁烏敏、斎藤茂吉、美智子上皇后陛下です。

子に告げぬ哀しみもあらむをははそは(木偏に乍と 葉)の母清やかに老い給ひけり   上皇后陛下

 お母上を詠まれています。ははそはは、母の枕詞。美智子様は妃教育で五藤美代子さんから一対一で和歌を学び、暗記の宿題もすべてこなして、こういう枕詞も習われました。子供のころからピアノとかあらゆることが身についていたのですが、和歌だけまだでした。

十億の人に十億の母あるも我が母にまさる母ありなんや   暁烏敏(あけがらすはや)

 暁烏敏は、俳句も虚子から学んでいました。歎異抄の著書が多く、講演活動もよくして、時代の寵児となった僧侶でした。父を10歳で亡くし、母子家庭でした。母を亡くなしたとき370首の歌を詠みました。

たらちねの母が形見と朝夕に佐渡の島べをうち見つるかも   良寛

 良寛の母は、佐渡島で生まれ、16歳で出雲埼の廻船問屋・橘屋に嫁ぎ良寛を生みます。出雲埼から朝晩望む佐渡島は、母そのものだったのでしょう。

モロトモニアハレトヲセミ仏ヨキミヨリホカニシル人モナシ  明恵上人

上人は、幼い時両親を亡くし、終生母を慕って拝んだ国宝の仏像にこの歌を刻みました。鎌倉時代はまだ仮名がなくて、カタカナでした。

 

今月の一首

母の日にカサブランカの香り乗せアレンジフラワー嫁より届く  Mさん

 

6弁のどくだみ

昨夜息子から届いた父の日のプレゼント

 

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ワサビとわさびの歴史

2023-06-15 | 講演会

 昨日も岐阜市立図書館メディアコスモスで、サンサンの会が開かれました。テーマは、「ワサビとわさびの歴史」。講師は岐阜大学准教授山根京子先生。恐らく日本でトップクラスのワサビ研究家であると思います。著書も販売されていたので購入しました。「わさび日本史」です。

 わさびのルーツを求めて単身中国の雲南省まで探検するという凄さ。普通の人では真似は出来ません。標高3000メートルでも中国ではまともな登山道路もロープウエイもありません。毒蛇など野生動物もそこそこにいて。

 中国のワサビは辛くなくて、日本のものと外観は似ていても別のようです。DNAの検査でそのことが判明。ゲノムの解読でこれまでの説を覆すことになりました。中国から入ってきたという説が覆されました。日本固有種であったのです。日本のワサビは中国原産というこれまでの説は覆されたことになります。世界の30種あまりのワサビは殆ど中国原産とか。

 わさびの最初の日本の文献には飛鳥時代の木簡。日本の食卓に多く提供されるのは1600年代から。伊豆で栽培されるようになったからです。あらゆる文献と書画から追跡されています。ここまでの仕事をしながらも、家庭を持ち、子育てもされているのが素晴らしいです。インスタグラム、ツイッター、ブログも書かれています。「わさび日本史」は、文一総合出版発行。272頁。

 

手作り水ようかん

著書

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