つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

秦野市より

2021-10-31 | 短歌

 月見草会員の秦野市に住むSさんから、秦野たばこ祭メモリアルフレーム切手が贈られてきました。短歌誌の月見草は原則として誌代は無料。会員の皆様からはいろいろ届きます。短歌作品は添削してから掲載しています。

 秦野市は、「はだの」市と読みます。まだ足を踏み入れたことはありませんので、その昔たばこの栽培がさかんであったことは知りませんでした。それを記念して「秦野たばこ祭」が開かれているようです。たばこ音頭という歌もあり、賑やかな様子が伝わります。その切手と、「日本の風景シリーズ第一集」を使う前にアップします。Sさん、いつもありがとうございます。

 秦野煙草音頭は、昭和23年、神奈川県煙草耕作組合連合会の創立25周年記念の一環として、中山晋平作曲、小島喜一作詞により発表されました。たばこ祭は、74年もの歴史があるようです。

 

 昨夜のブラタモリは、信長、秀吉、家康、三英傑の町づくりと言うテーマで、再び岐阜が登場しました。信長は岐阜の町づくりの基礎を作り、川湊の整備、直線道路の建設など進めました。また、楽市楽座で経済の発展を担いました。2017.12.3にも書いていますが、その時の再放映場面も多かったです。大阪の街並みは秀吉の発案で、名古屋の街並みは家康。それが基礎となり江戸の街並みも出来上がりました。そういう観点から見ると面白かったです。

 

 

 

鵜飼は接待のため

信長楽市楽座制札

 

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午(うま)歳生まれは強運すぎる人

2021-10-28 | 

 「午(うま)歳生まれは強運すぎる人」の著者は勿論午歳。1954年午歳生まれの大和古流21世当主の友常貴仁氏です。香道、茶道、剣法、弓道まで文武百般を継承する家柄で著書多数。夫が知らぬ間に買っていて、断捨離の寸前で私が見つけて読みました。夫の干支は午でなくて、寅。私と長男が午歳であるため買っていたのでしょうか。

 確かによいことずくめが書いてあり、面はゆいです。午歳は、楠木正成、織田信長、大伴家持、藤原定家、日蓮、千利休、左甚五郎、関孝和、福沢諭吉、松下幸之助、本田宗一郎、田中角栄、チンギス・ハーン、カール大帝、ニュートン、ショパン、メンデル、ルーズベルト、レーニン、金正日と続きます。それに聖徳太子まで。

 考えてみればこれは全部男性です。でも著者は女性では秋篠宮紀子さま他を挙げておられます。わが家の長男と同じ年で、この年は丙午とかで、騒がれて、私は生むまで陰で「女だったらどうする気」とささやかれていたそうです。昭和41年(1966)年は、まだそういう時代でした。事実この年は出生数が低く、息子のクラスの人数も極端に少なかったです。この本によれば八百屋お七の丙午の話はいいがかりで何の根拠もないそうです。プラス思考で書かれているのがよいと思います。馬頭観音とか絵馬とかのいわれも詳しく書かれていて面白かったです。午歳の男性が読むと勇気が与えられます。

 一つ気がかりなのは、著者はまだ60代のはずですが、調べてみると、書かれいてるブログが4年前でストップしたまま。どうされているのでしょうか。

 

 

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後世に伝えたいこと

2021-10-25 | Weblog

元陸上自衛隊 陸将:福山隆先生のメルマガより

今からおよそ100年前、

世界は欧米(ヨーロッパやアメリカ)の国々が支配していました。

彼らは、主に白色人種(肌の色が白い人種)で、世界中に植民地を持っていました。

そして、有色人種を差別して、奴隷のように扱っていたのです。 

結果、1900年時点でアジアの独立国は、日本とタイ王国のみ。

地球上にある陸地のほぼ全ては白人が支配しているといえる状態でした。 

まさに、人の価値が皮膚の色によって決められていた時代。 

もはや有色人種は人間以下の存在として見られ、

高いノルマを課し、それを達成できないものは家族の前で指や手足を切り落とす...

そのような残虐な行為が当たり前のように行われていました。

しかし、大東亜戦争前のインドネシアは、

豊かな農地と資源を抱えたオランダ最重要の植民地として、

350年もの間、支配されてきました。

それだけに搾取も生やさしいものではありません。

人口わずか0.5%のオランダ人が

インドネシア全財産の3分の2を独占するという有り様で、

インドネシア本来の住民たちには

食糧も行き渡らない状態になってしまったため、

多くの村で餓死者が続出し、平均寿命は35歳にまで低下しました。

ある村の人口は33万人から12万人に、

また違う村では8万人から9,000人にまで人口が減少...

このままでは、インドネシア人は全滅してしまう...

しかし、圧倒的な力を持つオランダ人の前ではどうしようもありませんでした。

これは12世紀前半、クディリ王国のジョヨボヨ王が残した次のような予言で、

「我が王国は、どこからか現れる白い人びとに何百年も支配されるだろう。

しかしやがて、北の方から白い衣を身に着けた黄色い人びとが

白い人びとを追い出してくれる。

黄色い人びとは我が王国を支配するが、

それは短い期間で、トウモロコシの花の咲く前に去っていく…」(ジョヨボヨ王の予言)

つまり、インドネシアを苦しめる“白い人びと”を、

北からやってきた“黄色い人びと”が追い出してくれると言い伝えられていたのです。

いつの日か、"黄色い人々"がインドネシアを救ってくれる...

人々は藁にもすがる想いでその予言を信じ続けました。

一方その頃、世界史を揺るがす大事件が起きていました。

1941年12月8日。大東亜戦争が勃発したのです。

戦時中、アメリカによる石油の全面禁輸によって窮地に立たされていた日本。

食糧も、資源も、お金も底をつきそうでこのままでは敗戦必死...

そこで石油を確保するために狙いを定めたのが

アジアのインドネシアにある油田地帯でした。

日本軍はすぐさまインドネシアへ侵攻を開始。

当時の日本軍といえば、日露戦争で世界最強のバルチック艦隊を打ち破り

アジアの中でも唯一、欧米と肩を並べられる存在として数えられていました。

日本軍侵攻の噂を聞きつけた当時のインドネシア人は、

もしかしたら日本人こそが予言の"黄色い人"なのかもしれない...

そんな淡い希望を抱き始めました。

空から現れた無数の人影白人を9日間で打ち破った「黄色い救世主」

そしてある日、インドネシアの人々が空を見上げると

空から無数の人影が降りて来ました。

それこそが白い落下傘を身にまとった黄色人種である、無数の日本軍兵士たち。

日本軍部隊を見た住民は、

 「まさに伝説の白い布をまとった黄色い救世主だ」 と狂喜しました。

そしてインドネシアに降り立った日本軍は、オランダ軍をわずか9日で撃破。

インドネシアを350年もの間続いたオランダ軍の支配から解放したのです。

「絶対に勝てない相手」だった白人を見る間に駆逐した日本軍は、

インドネシア中で熱狂的に歓迎されました。

しかし、事はそう上手く運ぶわけではありません...

実は中には、日本軍が来たことを

快く思わないインドネシア人がいたのも事実でした。

「予言なんて信じられる訳が無い」

「支配者が変わっただけで、

俺たちは一生奴隷のような生活を送るだけだ」

と、不安げな声もありました...

しかし日本は、インドネシアにおいて学校を作り、

わずか3年半もの間で、10万人もの行政官を育成し

それまでオランダ語を強要されてきた住民たちに

インドネシア語を使わせ、自国の歴史を学ぶよう命じました。

つまりインドネシア人に、民族の誇りと自信を持つ事が

独立への第一歩であると教育したのです。

さらに、オランダ軍が禁止していた軍事訓練を施し、

インドネシアを防衛するための軍隊まで結成。

これは現地住民に武力を与える行為ですが、

日本はインドネシアを独立させるために必要な協力を惜しみませんでした。

そして、1945年8月15日。

大東亜戦争に敗れた日本軍は、インドネシアから撤退する事となります。

その隙を見て、オランダ軍がインドネシアを取り戻そうと再び進軍...

「喜びも束の間、インドネシアはまたもや、白人たちの植民地になってしまうのか...」

しかし、日本軍が去ったインドネシアは

かつてのただ従うだけの貧弱な国家とは全く違いました。

日本軍に育て上げられたインドネシアの軍隊が

オランダ軍に立ち向かっていったのです。

さらに、先頭に立っていたのは敗戦を迎えたはずの日本兵たち。

その数なんと、2,000人。

なんと彼らはインドネシア人達に、

「我々は日本には帰らない。 

我々にはこのインドネシアの独立を果たす義務と責任がある。」と言い、

残った弾薬をかき集めて自分達が軍事訓練をした

インドネシア人達に渡し、共に戦ったのです。

それを見たインドネシア人の群衆も

「ムルデカ(インドネシア語で独立の意味)」を合言葉に勇気を振り絞り、

共に再上陸したオランダ軍に立ち向かいました。

日本は確かに大東亜戦争で敗けました。

しかし、戦争に敗れてもなお

「アジアを解放する」という理念だけは生き残り、

インドネシアの独立に貢献していたのです。

そして実は、今回のように日本が独立に関与したのは

インドネシアだけに限った事ではありません。

インド、フィリピン、香港、シンガポール、ベトナム、

ラオス、カンボジア、ビルマ、ニューギニア...などなど

日本はアジアの多くの国の独立に関与し、

数百年もの間、肌の色が違うがために辱められ、

惨めな境遇を強いられてきた民たちを救ってきました。

もし日本軍の活躍がなければ、世界は今でも白人によって支配され、

これだけ多くの独立国は誕生していなかったかもしれません。

それまで何世紀と当たり前だった「人種差別の歴史」に

終止符を打ったのが日本軍だったのです。

そう考えれば、日本は人類史を書き換えるほどの

偉業を成し遂げたと言えるのではないでしょうか?

しかし、今の日本では毎年、終戦の日になると、
戦没者の「英霊」に対して祈りを捧げるどころか、周りの国に配慮するという言い訳で首相が靖国神社への参拝へも行かず、
テレビ番組やネットニュースでも、「日本はいかに悪い国だったのか」「いかに愚策を投じていたのか」を終戦の月になるたびに繰り返し訴えています。

写真は笠松町歴史未来館の笠松隕石 (1938.3.31に町内に落下)

 

 

 

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木曽川の河跡湖 トンボ天国 2

2021-10-22 | 岐阜県

 先日は3人で「笠松トンボ天国」の立案をされた箕浦先生のお話を、笠松町歴史未来館の展示写真を見ながらお聞きすることが出来ました。詳しくは、一昨年2/25にも書いていますが、その時の講師の先生から直々にお話を聞けてラッキーでした。友人の一人は先生ご夫妻と親しいのです。あれからも継続して観測を続けられ、多くの貴重な写真を撮られています。トンボばかりでなく、野鳥の写真にも驚きました。ノスリやハヤブサやチョウゲンボウを300mmの望遠レンズで手持ちで撮影されるのです。

 絶滅危惧種のアカイトトンボの写真も絶妙のチャンスを捉えておられます。極小のトンボをよく鮮明に撮影されたかと驚くばかりです。トンボの習性を知らないと写すことはできません。丁度交尾の一瞬を捉えられ、ハンゲショウの花に留まっていました。ハンゲショウは6月に咲くので、時期も捉えられたということになります。

 チョウのように飛ぶチョウトンボはとても美しく一度は見たいものです。アカトンボの羽の色でいろいろ種類があるようで、これも知らなかったことです。撮影された写真は100万枚単位。トンボの飛ぶさまは連続写真で撮影されたようです。最下段の写真は孵化直後のカメムシ。微小な幼虫が卵の殻を囲み、殻からでる液体をなめているようです。企画展「笠松トンボ天国はいま」は、24日まで。

 外来種でせっかくのトンボの湖沼が占拠されていて早く何とか退治してほしいと思います。凄い量のライギョとかカメが・・・

 この日驚いたことは、亡父が昭和10年代に先生のご両親の仲人をしていたことでした。生きていたら110歳になります。不思議なご縁にどちらもびっくりです。聞くところに及びますと、先生のご子息も東大出。家の息子と4年違いでした。

 

 1年遅れで開催されたショパン国際コンクールで日本の反田恭平さんが二位に入賞し、四位は小林愛実さんでした。日本人が二位を獲得したのは、50年前の内田光子さん以来の快挙です。なお、優勝したのはカナダのブルース・リウさんでした。 

 

チョウトンボ

絶滅危惧種のアカイトトンボの交尾 花はハンゲショウ

アカトンボの一種

ハヤブサ

チョウゲンボウ

エナガの親子 雛も大きく育っています

カメムシの幼虫

 

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英会話教室で

2021-10-19 | 学校

 いつも英会話では、授業よりほかのことで耳寄りな情報を聞くことが多いです。コロナ感染数が急速に低下したのは、BCGにも関連があるらしいとか・・・日本人は大方打っていますが、スリランカではそうではないようです。近日中に知り合いに打ってもらおうかと言われています。エランガ先生は精神科の女医でもあるので、そういうことは可能です。先生はその関係の論文も書かれているようです。とりあえず三度目のワクチンは避けた方がよさそうです。

 秋篠宮眞子さまを診察した精神科の医師は、彼女の病名のことで、その世界でかなり認められ、国際精神科学会の副会長の位置に上り詰めたとか。週刊誌ばかりでなくて、そちらでも話題になったようです。眞子さまは、複雑性??という病名だそうです。

 写真は頂き物のシャインマスカットと、昨夜東京から送られてきたヒメアガパンサスと、ホウチャクソウの苗。

 

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朝日より反日な地方紙

2021-10-18 | Weblog

山岡鉄秀氏のメルマガより

先ころ、日本海にミサイル実験を
行った北朝鮮...

そして、何年にも渡り
尖閣への領海侵犯を繰り返す中国...

これらの攻撃は目に見える脅威ですが、、

彼らは、もっとタチの悪い、
私達が意識していないところにも
自然に入り込んでいるようです...


朝刊部数、約100万部。
北海道で圧倒的シェアを誇る
地方紙があります。

「道新」という名称で
地元民に親しまれている、
「北海道新聞」

そんな新聞社が
約30年も前から熱心に
行っていることがあります。
それがなんと、、

北海道新聞は、
中国共産党の機関紙である
「人民日報」と1991年から
交流を行っています。

2011年には、
当時の社長同士が北京で会談。

その際には、
・記者の相互派遣
・広告事業
・電子メディア事業
などの交流強化を話し合ったとのこと。

人事交流までしていたんですね...

当時の北海道新聞の社長は、

「中国で影響力の強い人民日報を通じ、
北海道の企業を中国に紹介したい!」

と提案までしていたとのこと...

もう、北海道一のメディアは
中国共産党にベッタリ...

そんな親中な新聞が、
北海道民には毎日届けられているのです。

そして、中国に染まっているのは
メディアだけではありませんでした。


北海道の先住民族として知られ、
その地位向上と文化の保存・伝承を主張する

「アイヌ協会」
実は、彼らの背後にも
中国共産党の存在があったのです。

彼らは、どんな関わりを
持っているのでしょうか?




キクイモモドキ




中国共産党との交流

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公民館短歌会 169

2021-10-16 | 短歌

 昨日は、3ヶ月ぶりの短歌会を開催しました。8月はいつもお休み。9月はコロナで公民館が使えなかったのです。この間の明るいニュースは、伏屋さんが第145回明治神宮秋の大祭奉祝献詠に歌を出され、佳作入選されたこと。生憎コロナで大会は自粛されますが、記念品と賞状は郵送されるようです。皆さんで拍手をして祝いました。鈴木和美さんに次ぐ二人目入選となり悦ばしいです。今月の歌はその入選歌とします。応募総数は2099首でした。

 歌の添削に入る前に、長塚節の話をしました。これまでに取り上げたと思っていたのですが、まだのようでした。35歳で夭折した歌人ですが、「土」という小説でも知られています。昔読みましたがとても暗くて再読はしたくないです。戦前は飛び級が許されていたので、5歳で小学校に入学できた秀才でした。戦後GHQで飛び級を禁止。日本に秀才はいなくなりました。GHQは、黄色人種の秀才は見たくないので、飛び級をやめさせました。もう戦後76年も経っていれば戻せばいいのに、なかなかそういう訳にもいかないようです。日本人はその後米国に留学しなければノーベル賞もとれなくなりました。今年の受賞者の真鍋氏も留学された人でした。

今月の歌

風涼し庭の楓に幾つもの空蝉揺れて夏終はりゆく   伏屋さん

 

パンパスグラスとギンモクセイ

 

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スペシャルセミナー 10

2021-10-14 | 講演会

 昨日は先月の向田先生のスペシャルセミナーの続きで、二回目。中心的な内容は聖書の創世記にちなみます。何度聞いても奥が深い内容です。その中でも永井隆先生のお話は前から聞いてはいたものの、素晴らしかったです。敬虔なクリスチャンであることは知りませんでした。島根出身ですが、長崎医専で医学を学ばれました。専門はレントゲン科。家は大浦天主堂近く。天主堂は元庄屋さんの敷地に建設されていました。踏絵もそこで行われました。8月9日、この上空で原爆が炸裂しました。

 その爆心地に近い家の台所で、奥様は即死。男女の見分けもつかない状態でしたが、首のロザリオで判明できたようです。小学生のお子さん二人は疎開していたたため命は助かりました。父子家庭で、先生も白血病を患いながら半年後亡くなられます。X線の研究をされていたたーめ、ご自身も被爆されていました。その時の本が「この子を残して」。この本の印税は寄付されました。長崎の鐘の歌や、映画によっても知られています。

 全国で向田先生は講演されていますが、岐阜城にも登られ、そこから見る景色もお好きのようです。なお、先生は高野山の真言宗の僧侶からも講演を依頼され何度も演壇に立たれています。有神論の立場から言うと、仏教もキリスト教も超党派の考えで言うと、同じであるという時代になったということでしょうか。

 

 昨夜からNHK総合TVで始まった「ロコだけが知っている」(ロコとは、地元を愛する人)という番組に岐阜の郡上八幡城が最初に現れたので驚きました。二ヵ所紹介していて前半が郡上八幡城。その売店で働き、城の除草作業もしている青山氏は、城主。青山氏は大学まで東京でしたが、学生時代この城に魅せられ、城の管理の仕事がしたくて、受験。郡上市の職員です。今の東京の青山は、この城主の青山氏の所有でした。

この日の昼食も栗ご飯など季節を意識したもの

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1年ぶりの同窓会ランチ

2021-10-11 | 学校

 昨年8月以来コロナで開かれなかった同窓会ランチ会が、昨日は催されたので参加しました。いつも同じホテルですから従業員も歓迎してくださいます。80代に入った私たちの話題は、まずメンバーの訃報から。だんだん自分の番が近づいているようです。

 ある方は臨死体験をされました。お風呂から出たら突然黒いカーテンが下りてきたように感じ、その場に倒れられました。救急車で病院に搬送され、そのまま手術室へ。一命をとりとめ、心臓手術跡も見せて下さいました。皆我がことのように聞き入りました。彼は昔からスボーツ選手で、10年前まで熟年のマラソン大会にも出ておられたのです。

 メンバーの中には「のぶさまタクシー」の専属運転手のHさんがおられますが、引退されています。大卒後製紙会社に就職。定年後にタクシー運転手をされていました。第二種免許は、運転が好きなため、学生時代に取得。JR岐阜駅から「のぶさまタクシー」に乗れると運が強いと言われていました。信長をイメージしたデザインでした。

 皆さん、歯科医に耳鼻科、眼科に通うと言う中で、Oさんはとてもお元気。電気関係に強くて、動画も作成されています。最近当町と岐阜市内での夕景に、ニニロッソのトランペットの音楽の入った動画が、友人からラインで届いたので、多くの友人にそれを転送していました。とても評判がよいので、聞いてみるとなんとOさんがその動画を作ったのだそうです。私は動画の作者を聞かれるたびに、知り合いの知り合いなどと皆さんに返事していましたが、Oさんと聞き、昨日は驚きました。いつも彼は家庭菜園で珍しい野菜を収穫。その写真入りのを年賀状を頂いています。

 老後は個人差が多いです。

ランチバイキング

二次会でのアールグレイアイスティー

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友人がテレビ画面に

2021-10-09 | 映画・TV・演劇

 昨夜は画家の友人から岐阜テレビに出ると言う連絡を受けていたので、チャンネルを合わせました。殆どローカル放送は見ないのですが、たまにはよいです。今度総理が替わり、総理の似顔絵湯呑制作の業者も忙しそうでした。いつも土岐市の山志製陶所が制作しています。以前東京土産で友人から頂いています。又総裁選には敗れたのですが、少子化相となった野田聖子議員は、岸田総理の隣で濃紺のロングドレス姿で写っているのも嬉しいことでした。

 今年もコロナで岐阜市展は開催されません。高校の同窓生の八代さんは毎年洋画部門に出されています。開催不能と聞いて、せっかくの作品を出せないと嘆いておられました。今年の岐阜市展のために描いたのに、次などと・・・モチベーションが湧かないそうです。もっともなことと思います。いつも彼女の作品は赤が基調なのですが、今年はブルー。幻の絵となってしまいました。市展側のぎりぎりの決定はよくないと思います。

 岐阜出身の日展副理事長の土屋禮二氏は、籠っているので絵を描く時間が増えたと歓迎の様子。都内のアトリエが写されていました。

 最下段の写真は、20年近く前スペイン旅行でご一緒した岩崎氏の記事。彼は90歳を超えてられますが、お元気そうです。彼の記事は、今年2/19にも紹介しています。今回はご縁のあった帝塚山学院大学の同窓会報が先日送られて来ました。英会話グループ・トーストマスターズクラブの初代会長。

 

岐阜市展に出す予定だった作品

土屋禮一氏の都内のアトリエで

似顔絵湯呑

岩崎氏の「英語教育と私」

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