つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

Kさん宅へ

2024-03-31 | わが家
 昨日は、誘われて町内のKさん宅を訪問しました。室内も素敵でしたが、庭のアーモンドの花が満開でそちらから撮影させて頂きました。我が家にも20年位前、種苗会社から取り寄せて植えていたのですが、果実は一個収穫しただけで数年後枯れました。ところがこちらでは毎年たくさん収穫して利用されているそうです。イタリアのような温暖なところしかダメかと諦めていたのに・・・木が元気なころは毎年桜の時期と同じころに美しい花を咲かせていました。

 ステンドグラスの電気スタンドも手作りで、配色も好ましかったです。隣室との境のガラス戸にファッション画のイラストを貼ってあったのも目隠しらしく、グッドアイディアでした。天井からモビールのように飾ってあるのも素敵で、イラストと共に一枚頂いてしまいました。こういうものを店で見つけられるのも心身とも余裕のある証拠だと思いました。最下段の写真はトイレの窓。内側に透かし模様の障子紙がはりつけてあり、独特の雰囲気を醸し出しています。写真にはうまく撮れなくて残念ですが。



アーモンドの花



スタンド


デザイン画のイラストを目隠しに



頂いたモビール


頂いたデザイン画の左半分


トイレの窓


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8歳で米国留学に旅立った津田梅子 2

2024-03-30 | Weblog

■5.「一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければ」

 帰国してから梅は、ランマン夫人あてに、こんな手紙を書いています。
__________
 父は先日、私のために費やされたお金の話をしました。その額は、日本で一家が豊かな暮らしをするに充分なほどのもので、それを国が出したのだと言いました。
だから私は一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければなりません。[大場、129]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 仙は、捨松と梅を連れて、文部卿(文部大臣)の福岡孝弟(たかちか)に挨拶に行きました。福岡は二人が日本語がもう忘れていると知って、こうため息をつきながら、言いました。
__________
 それなら女の御雇外国人と同じだな。大金をかけて十一年も留学させるくらいなら、御雇外国人を何人も呼べたであろうに。黒田どのは女子留学生を、開拓使の宣伝に使ったのだな。帰ってきてから何をさせるかも考えずに。[植松、p146]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 帰国時に、こういう考えの人物が文部行政を見ていたのが、二人が活躍の場を与えられなかった原因です。しかし、二人の「一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければ」という志は、こんなことではへこたれません。

 やがて、渡米の際に岩倉使節団の一員として同じ船に乗り合わせた伊藤博文から、その妻や娘に英語や洋式作法を教える家庭教師役を頼まれました。すると、他の政府高官の夫人たちからも「私も」「私も」と次々に希望者が殺到しました。さらに華族女学校が開校すると、伊藤の紹介で教授として迎えられました。


■6.「日本人であることを忘れないように」

 やがて、梅は、日本の女子の高等教育の確立こそ、自分の使命だと考えるようになりました。政府は英語教育者の資格制度を設けましたが、試験を受ける女性はほとんどおらず、そのための教育をする学校もありませんでした。国立の女子師範学校は教員養成はしていますが、英語の分野はありませんでした。梅は女性の英語教師を育てる専門学校を作ろうと志ざしたのです。

 梅の凄いところは、その志をとことん実行してしまう力量です。まず、自分の学校を創立する前に、私学を運営するためには、せめて捨松と同様の大学教育を受けなければと考えました。

 しかし、すでに国費で10年以上、留学しているので、もう一度と頼むわけには行きません。そこで、一回目の留学の時に知遇を得ていたモリス夫人に相談しました。夫人は東部知識人社会に有力な人脈を持っており、話を聞いた新設の女子大学の学長は授業料の免除と寄宿舎の一室を与えてくれる約束をその場でしてくれました。

 また、華族女学校の校長からは、二年間の留学期間中、給料をそのまま支払い続けるという計らいを受けました。こうして、梅は明治22(1889)年7月、20代半ばで二度目のアメリカ留学に旅経ったのです。


■7.「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」を目指して

 帰国後の明治30(1900)年、梅は36歳にして「女子英学塾」を創設して、世間を驚かせました。年俸800円(国会議員が年収2千円)の華族女学校教授の地位を投げ打って、つつましい日本家屋を借り、わずか10人の塾生を、ほとんど無報酬の個人教授の形で教え始めました。

 梅が目指したのは、今日の津田塾大学でも継承されている「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」でした。開校式では、次のように述べています。
__________
専門の学問を学びますと兎角(とかく)考へが狭くなるやうな傾があります。………英語の専門家にならうと骨折るにつけても………完(まっ)たい婦人即ち allround women となるやうに心掛けねばなりません。[大場、2,397]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 明治日本が独立を維持し、国際社会に伍(ご)していくためにも、狭い英語の専門家ではなく、男性と対等の立場で力を合わせる全人的な人格を持つ女性が必要でした。そして、それこそ黒田清隆や父・仙の目指したものでした。

 梅の授業ぶりにも、この志がよく現れています。当時、梅から直接教えを受けた岡村しなという女性のこんな思い出話が記録に残っています。

__________
・・・・・・先生は、アメリカは好きだけどね、・・・・・・頭に染みこんだ・・・・・・日本のspirit、………日本人であることを忘れないようにせい、英語をしゃべることは何でもない、日本のspiritを忘れるなって。それが偉いところで、先生の。本当、たしかにそうなの。それを頭にたたきこまれた。[大場、2,599]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 帰国時に文部卿が言った「女の御雇外国人」では、こういう教育は望めません。「自分は日本人である」という自覚と愛国心をしっかり持ってこそ、国のために本腰を入れた貢献ができるのです。梅が育成した日本女性たちは、祖国否定のアメリカかぶれでも、男性と対抗しようとするフェミニストでもありませんでした。


■8.周囲の無私の恵みのお陰で

 女子英学塾を創立してからは、梅を応援するアメリカの夫人たちから、次々と信じられない額の寄付が寄せられました。梅は塾運営のための経費をアメリカと日本の賛同者たちの寄付に頼り、その依頼で、月に300通もの手紙を書いた時もあったといいます。

 自分は年俸800円の華族女学校教授の地位を投げ打って、ほとんど無給で塾を続け、寄付金は生徒の奨学金にあてて、貧しい小学校卒業だけの生徒も受け入れていました。そして梅は、その一人ひとりに寄り添って、細やかな、しかし厳しい指導を続けて、一人前の英語教師として育てていったのです。

 そうした梅の無私の姿勢に共感して、多くの人々が無私の思いで梅の志を助けてくれたのです。数え年わずか8歳で渡米し、帰国後は理想の学校を創設するという志を実現した梅の一生は、厳しい寒さの中でも凜と花を咲かせた梅の木のごとく見えます。しかし、その梅の木は祖国という土壌からの養分や、太陽の光、アメリカからの風など、豊かな恵みを一身に受けて、見事な白梅を咲かせることができたのでした。
(文責 伊勢雅臣)
写真は光受寺の白椿


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8歳で米国留学に旅立った津田梅子 1

2024-03-29 | Weblog
伊勢雅臣氏のメルマガより

■1.「父上ッ」

 明治15(1882)年11月20日、客船アラビック号がサンフランシスコから20日余りの航海を経て、横浜港に入ってきました。11月の太平洋は雨や雪の日が多く、来る日も来る日も黒雲の下を帆を張って進んできましたが、ここ横浜では冷たい風が吹きつけるものの空は青く澄んでいます。

 横浜港はまだ大きな船を横付けできる埠頭がなく、アラビック号は海岸から少し離れた場所に錨を降ろし、下船する人々は艀(はしけ)船に乗り換えて上陸します。22歳の山川捨松と18歳の津田梅はようやく順番が回ってきて、甲板から艀まで鉄製の梯子段をスカートの裾を気にしながら降りていきました。

 艀船が乗客で一杯になると、船頭が艪(ろ)を漕いでアラビック号から離れます。そこにもう一隻の艀船が陸から近づいてきました。その中に、見覚えのある、体格の良い中年の男がいました。男は船べりを掴んで、大声で呼びかけてきました。「梅ッ。梅だなッ」

 次の瞬間、梅は夢中で叫びました。「父上ッ」

 すっかり忘れていた日本語が、自分の口から飛び出したことに、我ながら驚きました。数え年わずか8歳で、この横浜港で父と別れてアメリカに留学し、11年の歳月を経てここに再会したのです。


■2.「おなごをアメリカに留学させたら」

「いっそのこと、おなごをアメリカに留学させたら、どうじゃ?」

 女子留学生派遣は、この北海道開拓使次官・黒田清隆の一言が発端となりました。開拓使ではすでに男子留学生の第一陣をアメリカに送り込んでいました。それを女子にまで拡大しようというのです。

 黒田は北海道開拓の指導者育成のために学校を作る計画を進めており、その教師役として招聘した地質学者トーマス・アンチセルが女子のための学校も設けては、と提案しました。開拓は夫婦揃ってなすべきであり、その影響でアメリカでは女性の地位が高い、とアンチセルは説きました。

 黒田はすぐに賛同し、さらに「いっそのこと」という冒頭の言葉が出てきたのです。黒田は一瞬、目を輝かせてましたが、すぐに表情を曇らせて、「じゃっどん、希望する者がおらんな。まして娘となると、親が手放さんじゃろう」

 そこに「うちの娘では、いけませんか」と声をうわずらせて言ったのが、黒田の通訳を務めていた津田仙でした。仙は英学塾を出て、幕府の外交方に務めており、アメリカにも行ったことがありました。そして、アメリカでの農家の豊かさや地位の高さに目を見張り、西洋技術を導入して、日本の農業を豊かにしたいという志を持っていました。

 維新後、西洋野菜を作り始め、そこから北海道開拓を志す黒田清隆に見いだされて、通詞をするようになったのでした。仙はやがてアスパラガスの缶詰販売などで成功し、その財をつぎ込んで、農学校を開きます。

 訪米の経験からも、ぜひ自分の娘を送り出したいというのは自然な気持ちだったでしょう。しかし、それは数え10歳の琴という娘でした。「幼すぎますか」と聞く仙に、「まあ悪くはなか。西洋の礼儀作法も身につけさせたか。じゃで幼い娘を送って、長く留学させたらよか」。男子の留学は4、5年だが、その倍はアメリカに居させたい、と言います。


■3.「見てごらん、あんな小さい子まで。親は鬼だね」

 仙は胸を高鳴らせて、家まで走って帰りました。しかし、琴は子供のいない兄夫婦に養子に出していました。その兄は大反対。琴にも話しかけて見ましたが、母親に後ろに隠れてしまって、「そんなところに行かないッ」と大声で泣き叫びます。

 その時、仙は背中に視線を感じて、振り返ると、琴の妹、梅と目が合いました。梅は無口ですが、読み書きも記憶力も琴をしのぐものがあります。
__________
梅、おまえは賢い。だから、わかるような。これは、おまえのためになることだ。おまえが行ってくれれば、父を助けることにもなる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 梅はかすかに頷きました。母親の初が慌てて「やめてくださいッ。こんな頑是(がんぜ)ない子に、わかるはずがないでしょうッ」 しかし、もう仙には兄の怒声も、女たちの金切り声も届きませんでした。

 後に、梅はこう語っています。
__________
 私は本当は、アメリカなんか行きたくなかった。遠い知らない国に行くのが怖かった。怖くてたまらなかった。それでも父上のためと思って、我慢して船に乗ったんです。向こうでだって、つらいことを山ほど我慢してきたんです。立派になって帰ったら、父上が喜んでくれると信じて──[植松、3,664]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 横浜からの出発の際には、見物人からは聞こえよがしに、「見てごらん、あんな小さい子まで。親は鬼だね」という声も聞こえてきました。新聞記者たちは最年少の梅を取り囲んで、「言葉も通じない国に行くんだよ。それでもいいのかい」と意地悪く聞きます。梅は腹立ちを抑え、思い切って大きな声で答えました。
__________
 私の父上は英語が上手です。私もアメリカで一生懸命に学んで、大きくなったら父上のようになります。[植松、603]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 記者たちから「ほう」という感嘆の声が漏れました。仙が近づいてきて、梅の前でしゃがんで言いました。
__________
 梅、立派だった。おまえは立派に答えた。父は心から、おまえを誇らしく思うぞ。梅、元気で行って来い。泣かずに行くのだぞ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そういう父のまぶたには、涙がにじんでいました。


■4.5人の女子留学生

 梅は5人の米国女子留学生たちの一員でした。吉益亮子(かぞえ15歳)、上田悌子(同15歳)、山川捨松(同12歳)、永井繁子(同9歳)、津田梅子(同8歳)です。このうち年長の吉益亮子と上田悌子は健康を崩し、途中で帰国しています。10年以上もの留学を無事終えたのは、山川捨松以下の3人でした。

 山川捨松は東部きっての名門女子大学ヴァッサーカレッジを優秀な成績で卒業しました。帰国後、参議陸軍卿・大山巌の妻となり、鹿鳴館で上流階級の婦人たちに西洋の作法を教えたり、日本で最初の慈善バザーを開いたりしました。日露戦争に際しては、アメリカの週刊誌に投稿して、寄付金を集めたりもしました。[JOG(745,747)]

 永井繁子は同じくヴァッサーカレッジの音楽科を捨松や梅より1年前に卒業し、後に海軍大将となる瓜生外吉(うりう そときち)と結婚。夫の協力を得て、女子高等師範学校教授として英語を、東京音楽学校教授として音楽を教える多忙な人生を送りました。

 そして、津田梅子は子のないランマン夫妻の家に下宿し、実の娘のように可愛がられ、私立女学校を卒業しました。帰国後は、上記の二人にも助けられながら、女子英学塾、現在の津田塾大学を創設します。

 この三人の人生を見ても、大胆な日本最初の女子留学生派遣は日本の近代女子教育の確立に大きな功績を残したと言えるでしょう。

写真は今年のしだれ梅



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岐阜市の自動運転バス・岐阜新聞岐阜文芸

2024-03-26 | 岐阜県
 昨日は友人が岐阜市の自動運転バスに予約してくれたので、4人でJR岐阜駅から岐阜高島屋まで乗りました。時速20kmは法律で決められていてスローペースです。3Dの情報に従い、決められたコースを走ります。信号は自動的に読み取り止まりますが、違法駐車の車はリモコンで追い越す必要があります。これを操作する人が一人必要です。初めての乗物はわくわくするものです。車マニアの気分を味わいました。一人で乗るのはつまらないし、この年でそういう仲間の存在が嬉しいです。これから5年間運行されます。高島屋の11階で昼食を頂き、楽しく会話し帰途につきました。車体はフランス製。定員10名。岐阜市では繁華街を走りますが、他市ではローカルな地域を走るとか。そのため他市から試乗に来る人が多いそうです。

 昨日の岐阜新聞岐阜文芸欄に初めて投稿した短歌が掲載されました。もともとは大和町短歌大会に入選した伏屋さんが、岐阜新聞短歌欄に選者をされている小塩氏から投稿を勧められ、私も皆さんに投稿を促したことに始まります。勧めた以上は私も従うことにしたのです。昨日は二つも冥途のみやげができました。




岐阜駅前をスタート


旧県庁前にはもう桜が


ランチ


岐阜新聞岐阜文芸欄


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HIMARIx吉田恭子ヴァイオリンDUO

2024-03-23 | 文化
 昨日は予定通りHIMARIさんのヴァイオリンコンサートが岐阜サラマンカホールで開催されました。何の混乱もなくスムーズに入場できました。友人が1時頃来て整理券8人分をとって下さったおかげでした。開場30分前に4列に並んだだけ。列の前にエランガ先生の次男のスワン君がいたので、色々話しました。18年前、可愛い赤ちゃんのころ英会話教室に連れてこられて以来です。彼の名前は、スリランカのシンハラ語からでなくサンスクリット語からとられていて、白銀という意味であることなどなど。
 おかげさまで比較的よい席が確保できました。開演に先立ちソロブチミストの表彰式があり、その会長の岐阜大学の学長さんが二列前の席におられましたし。

 HIMARIさんは、ブルーグリーンの衣装に同色のリボン。ポニーテールの髪をゆらせて超絶技巧の曲を難なく弾きこなし、世界的ヴァイオリニストの面目躍如たるものがありました。お母上の吉田恭子さんのトークも抜群でした。素晴らしい音楽一家の一面を見せて頂きました。ショスタコーヴィチに始まり、モーツァルトのホ短調、ベートーヴェンソナタに進みました。休憩後は赤色のドレスに替えられ、リボンも赤色。とても可愛かったです。タイスの瞑想曲もなじみがあり、よかったです。アンコールは、愛の挨拶も含め、4曲。最後の挨拶もかわいかったです。ソロプチミストの表彰式は別の衣装ですので、3着準備されたようです。帰りは4人で夕食をすませ帰宅は9時になりました。
 最下段の写真は、当日撮影を許可されていなかったのですが、エランガ先生から後日送られてきたものです。
 










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はまちゃんの音楽療法コンサート

2024-03-20 | 文化
 昨日は岐阜市内のクララザールで濱島先生と鎌田さんのコンサートがありましたので、友人に乗せて貰い出かけました。題して「オンラインサロンはまちゃんの音楽療法ラストコンサート」。ラストと言っても最後と言う意味でなくて、オンラインが最後という意味合い。これからはインスタグラムもされるそうです。
 オープニングは、アニメの主題歌、「もののけ姫」と「君をのせて」。それから卒業式シーズンに合わせた5曲。春の花をイメージした3曲。ご自身で作曲されたオリジナル曲に葉加瀬太郎さんの「情熱大陸」。アンコールは、中島みゆきの「糸」でした。
 濱島先生は、バイオリンを習われてから今年は40年というアニバーサルの年。これからも楽しみです。You-Tubeの「はま風チャンネル」を見てほしいそうです。我が家での演奏はいつもラフなジャケット姿ですが、この日はスーツで決められました。ピアニストの鎌田さんは、赤系の艶のある生地のシャツ。あの演奏が、リハーサルと全く異なるとは、いつも息のあっている証拠です。
下はYou-Tubeです。
https://l.facebook.com/l.php?u=https%3A%2F%2Fyoutube.com%2F%40user-tr4yj8gn7v%3Fsi%3DjxEYCyxuvRP5-yHi%26fbclid%3DIwAR1FEPJf6o3n0ucPy3V_g-Rk88G7mRt06rr6bCzmHhYYZV6VFGKQhjoXlX0&h=AT2FWb-yOo2R_KPXv_p7RTntVnYzxSnKcnu09mb_P3gUAw1viH7GYuzftYebSOYKEMnVxwj5O5GWI6VxU5y8N1pHMsyByzgdG--UsGXSqe9cQGRg3RcPorihQ5JAtfngX2yC8g




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西濃歌謡運輸

2024-03-18 | 文化
 昨日は総合在宅医療クリニックで、コンサートが開かれましたので、友人と出かけました。徒歩1分です。遠い西濃地方から歌手とギタリストと、ベースの女性が来られ、それに茶菓コーヒーまで出して頂き恐縮しました。
 60歳代らしい歌手は、「見上げてごらん夜の星を」、「ムーンリバー」に始まり、昭和の歌を披露。「いい日旅立ち」、英語で「テネシーワルツ」も歌われました。更に、「北の宿から」、などなど。ピンクレディーの歌は、振り付けもして。アンコールは、沢田研二の「勝手にしやがれ」でした。患者に対するサービスの一環でした。西濃運輸は都市対抗野球でよく知られた会社ですが、このトリオとは無関係。トリオの名前は、西濃歌謡運輸ですが。
 この医療クリニックでは、毎月第三日曜日は、「びすたーり」と称して出入り自由の日があります。ネパール語で「ゆっくり、のんびり」という意味合い。


茶菓を頂きながら歌手を待ちます


西濃歌謡運輸のメンバー
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澄乃会書展

2024-03-17 | 文化
 このほど大垣市スイトピアセンターで澄乃会書展を開かれた清水澄園さんは古い友人です。10年位前、短歌会のMさんをご自宅に案内した時、書道一筋の彼女の姿を見たMさんはその後弟子入りをしました。書展のことはMさんから聞いていたのですが、直前に親友が倒れて入院する事態となり、行けずじまいになったのです。その友人と大垣で会い書展を見ることにしていたのに。
 無事終わり、Mさんから歌会の日カタログを借りたのでアップすることにしました。書道一筋で米寿を迎えられ、書展を開催。何度も日展に入選され、作品も拝見しています。ある年は妹さんも入選し、姉妹同時入選は初めてと、新聞にも出たそうです。あちこちに素敵な書跡の石碑があります。
 清水さんはお父上も書道の達人で、ある日東京から来た人が、その筆跡を見て、上京を依頼しました。毎日東京で国の文書を書いているうちに終戦となったそうです。おかげで兵役を免れ、芸は身をたすくという諺とおりでした。



日展入選作品


米寿記念の作品


学校などから依頼された石碑
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公民館短歌会 195

2024-03-16 | 短歌
 昨日は一気に春が近づいたような温かい日和の中で、いつものように岐南町南町民センターで短歌会を開きました。昨日の歌話は、大河ドラマの影響を受けて、紫式部の歌を取り上げました。その前に伊勢大輔のよく知られている歌にも触れました。今の季節にも合うので、
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな

 この歌は落語のモチーフにもなっているようです。落語と言えばどうやら岐阜が発祥地らしく、策伝大賞選考会も毎年岐阜で行われます。策伝は岐阜生まれ。そのことをもう50年以上も前に研究し、論文を出されている愛知の人があります。会員のMさんの高校時代の恩師です。
本題の紫式部の歌
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな

今月の歌
「お帰りと言いそうだね」いふ吾子は物言はぬ祖母にそっと「ただいま」 Hさん

写真はシンビジウム


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音楽療法 17

2024-03-15 | わが家
 昨日もバイオリニストの濱島先生を迎えミニコンサートを開きました。最初に「いい日旅立ち」を、次は先日のコンサートを思い出し、シューベルトの「野ばら」をリクエストしました。ソプラノで聞いた曲をバイオリンで。この歌は60年前大学時代ドイツ語の授業で習ったもので、懐かしかったのです。続いてウェルナーの「野ばら」も頼みました。どちらも授業で習いました。調べて頂いたらどちらもドイツ人の作曲家。ウエルナーのことは知らなかったです。昨年二度も「春の海」をリクエストしたのに、また頼みました。この時期限定ですから。
 先日聴きに行ったCas'Applausi Hall のこともよくご存じでした。HIMARIさんのチケットもせっかく頂かれたのに、その日は収録があるので行けない、人にあげましたと、言われていました。
 濱島先生は猫がお好きで二匹も飼っておられます。FBにもありましたので、コピーしました。我が家に迷い込んでいる猫も撮影しておられました。これは私が撮影したもの。前にどこかで飼われていたらしく、人になついています。我が家に誰かが捨てたようで、餌は与えています。




濱島家のネコちゃん




これも濱島家のネコちゃん


我家の迷いネコ
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