種から育てたものは冬に枯らしてしまい、これは苗をネットで購入したものです。バラ科。西アジア原産。4000年くらいの栽培歴史があり、日本へは明治はじめ導入されたのですが、気候が合わずあまり栽培されていません。
種から育てたものは冬に枯らしてしまい、これは苗をネットで購入したものです。バラ科。西アジア原産。4000年くらいの栽培歴史があり、日本へは明治はじめ導入されたのですが、気候が合わずあまり栽培されていません。
上と下の写真と、亡父が植えたベニコブシ(紅辛夷)。長らく小型のモクレンと思ってきたのですが、リンクしているフクちゃんのブログ(3/24) で名前が分かりました。最下段は、シデコブシ。モクレン科。
ベニコブシは、別名をヒメシデコブシ(姫四手辛夷)といい、落葉小高木。本州中部の東海地方を中心とした限られた範囲に分布する日本の固有品種です。花びらが白いシデコブシ(四手辛夷)の変化したもの。ただ一般には白からピンクのものまで包括してヒメコブシ、シデコブシと呼んでいるようです。
名前の由来は、花の色が淡紅色ということからベニコブシと名付けられました。
シデコブシは5mに満たない低木で、コブシの八重とも思われるような細い12~18弁の白花をつける可憐な花であり、本州中部に自生。ハクモクレン(白木蓮)が中国の貴婦人としたら、このシデコブシは日本婦人の可愛らしさを感じさせると外国で紹介されたりします。漢字では幣辛夷も書きます。シデ(四手)とは神事に使う玉串のことで、細めの花びらから連想したもの。
変種のベニコブシの名は、幕末から明治初期にかけての植物学者伊藤圭介博士を記念して、牧野富太郎博士が命名されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/16/f53455f2d332065730668c1bb93b1a80.jpg)
ベニコブシ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/cb/7b1b6bab10751a7117ff83210645a8fe.jpg)
シデコブシ
日本脱出
昨日の英会話も、やはり気になる震災の話へ・・・Eranga先生の母国はスリランカ。以前は週一度だった母国への定期便が、最近は毎日になったようです。キャンセル待ちの人が1700人程。それほど日本にスリランカ人がいるはずはなく、つまり、日本人が脱出待ちをしているのです。否、日本人に限らないかも・・・いやはや大変な事態になってきました。
先生のボランティア向け通訳は、順番待ちで3ヶ月くらい後になるそうです。
ネットで確めて見ると、地震後中国人は日本脱出しようと成田に殺到していて、渡航費は32万円に跳ね上がっているとか・・・(写真下、上の写真は日本脱出で混雑する空港・ネットより)
日本のリッチな人が香港のホテルを予約しているので、空部屋もないというからこれもまた驚きです。
被災地は今朝も氷点下。死者・行方不明は、28000余名になってしまいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/3d/133ccd14d573f19bae5cfcbb5e7a0263.jpg)
東電原発
昨日の記事についてのコメントでAK-63さんが関電に対する批判をされていたので、リンクしているドイツのpfaelzerweinさんの記事(3/26)をコピーしたいと思います。
ずっと暗い情報でしたが、この日に限り光が少し・・・という状況です。写真は、照明が点灯した福島第1原発1号機の中央制御室。(ネットより・3/24)
「話しは後先になるが、今回の事故で当初から問題となった福島一号機のGEの設計士の談話が載っていた。マルガレート・ハーディングがロンドンのジャ-ナリストで「ネーチャー」のブラムフィール氏に語った内容である。そこで、彼女は地震発生時に一号機の制御室にいた東電の管制官の判断を賞賛して英雄としている。
つまり、地震直後に迅速に対応したようなので、更なる大事故が防げたと言うものである。具体的には、電源が切れるブラックアウトのあと冷却システムが不能となり、圧力・温度共に急上昇して50トンに及ぶウラン燃料が完全に破損する事態だったと言うのである。最初のパレッツが高炉の底に落ちて溶解をしだした、この時点が分水嶺であったとする。この時点でなにも対応出来ていなかったならば、既に制御棒で核分裂は抑えられていたに関わらずその量から更に大きな発熱をして危険な状態に至っていただろうとされる。
そこで、全く盲滅法に消防車のポムプで水を注入してはどうかと言うアイデアが管制官に浮かんだのだと。しかし、もはや高炉のなかの圧は高く、水は炉には至らなかった。そして地震発生後24時間たって空気を抜くことで炉内の圧を下げたのだと。そして、燃料棒の酸化による水素ガスから建屋を完全に崩壊する爆破となったことをシュミレーション通りに示している。その後、他の原子炉も同じようになることは想定内であった。
ザッケーローニ監督の会見を観た。明らかに見えない敵に怯えている。今後東京で試合をやるとかになれば病気を理由に全日本のコーチを辞去することは間違いないであろう。全日本チームの最大の敵は関東での試合だろうか?国立競技場などは今後数年間は国内試合向けの地方競技場としてしか使えない。東京には大物はよほどの物好きでない限り誰も行かない。」
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/e644a4bcdc9c90f7710c5179e7ad2cc6
ご自分の家は無事だったのですが、周囲の被災者のため、炊き出しで毎日お忙しいようです。余り話しても電話代を考えると・・・早めに切りました。
写真は、大地震から2週間孤立していた石巻市から船で一時間かかる孤島の炊き出し。(ネットより) 地震で定期便もストップしていたようです。
暴走している原発を、かたずをのんで見守る日々ですが、まだ震災被害者の数さえ掴めない状況です。その上、震災地に非情なこの寒さ。きびしい試練です。いつもの年なら早い桜だよりが聞かれる頃なのに・・・
もうこうなると神の思し召しを願うしかありません。
気になるのはいつ来るかも分からない東海地震。30年も前から名前が先につけられています。濃尾震災から120年。東南海地震から66年。この地区にいつ起こっても不思議はありません。また、糸魚川ー静岡活断層の地震があるという説も・・・三重県も危ないという人もありますし・・・東日本大震災に連動されたらひとたまりもありません。こちらも神のおぼしめしを・・・
関西がとりあえず安全ということでしょうか。1000年に一度の震災が済んだので・・・
東日本大震災も1000年ぶりとか・・・
昨日までの死者・行方不明者は27000余名になってしまいました。
先生は仙台市青葉区のご出身で、内陸のため津波もなし。ご両親はすでに他界されていて、ご親戚にも怪我も犠牲もなかったそうです。若林区は被害が大きかったようですが・・・皆心配していたのですがやれやれです。
でも犠牲者を思うと、自分たちばかり喜んでおられないと言われていました。
驚かれていたのは免震構造の家。あの激震でも棚のものすら落ちなかったそうです。
先生は、東北大学を出られてから岐阜大学に勤務され、ずっと岐阜にお住まいです。セミナーの時は雑談をされないので、年一度の先生を囲む懇親会ではいろいろ質問が出ます。最近の懇親会については、2010.11.12にupしています。
写真は陸前高田市の地図。(ネットより) 生徒仲間のTさんの親類が陸前高田にあるようですが、被害はゼロ。100年前の津波ので家を失った時、山すそに移転。そこに家を建てられたのです。南三陸町では75cmの地盤沈下があったようです。
6年前、津波に襲われたスリランカでは地盤沈下のため、海岸近くに建物を造ることは禁止されているそうです。日本ではどうなるのでしょうか。
それよりも、原発事故の動向が気になる昨今ですが・・・被爆した人もあり・・・
昨日は、死者が9370名。行方不明者を含めると26000余人。ますます被害が拡大してきました。
2005.10.28にupしている、述懐は、120年前の濃尾震災のあとに家訓として書かれたものですが、東日本大震災のあとであるだけにこれにも関心もあるようでした。写真の左端は、もうすぐ90歳のAさん。刀剣に詳しいので私も勉強になりました。
写真は見学後の離れ座敷での茶話会。5/19には、岐阜学習センター最高齢Aさんの90歳誕生日のお祝いの会があり、誘われました。彼は常に向学心が高く、手本とすべき人です。
濃尾震災のことは長らく岐阜以外の人には忘れられていたのですが、16年前の阪神震災の後は、岐阜県本巣市の根尾谷地震断層観察館にも人が訪ねるようになりました。同じ規模の震災だったからです。でも今回の東北関東大地震はこれをもはるかに上回り、昨日現在では、9532人死亡。行方不明者を含めると、25000人余。濃尾震災や阪神震災の4倍です。
昨日、何を送ろうかしらと考えてもなかなか思いつかず、激震地のHさんへは幾許かの見舞金に決定。郵便局の受付の女性も送り先が、宮城県栗原市とあるのに驚いて、無事かどうか尋ねてくれました。そして、「日にちは相当かかりますよ」と念をおされました。
シーボルトは、1796.2.17 にドイツに生まれ、西洋の医学をはじめ、科学や文化を我が国に伝えるとともに、我が国の近代化に大きな足跡を残しました。1996年は、「日本研究家」としても知られているシーボルトの生誕200年に当たることから、 日本、 ドイツ両国において各種記念行事が行われたようです。
切手の意匠には、シーボルトの肖像と、彼がヨーロッパにおいて紹介したとされているナツヅタを描いています。(写真上)
リンクしているドイツのpfaelzerweinさんによれば、この切手も日独交流150周年切手と同様、ドイツでも発行されたようです。
シーボルトと言えば、日本人女性との間に生まれた娘のイネを思い出さずにはおられません。シーボルトが国外追放(シーボルト事件)のため、苦難の人生を送りました。女医になろうと教えを乞いに四国へ・・・ところが不埒な四国の医師により子供をみごもらせられ、一人で娘を出産。妻ある恩師に裏切られたのですから、言葉では言い表すことが出来ないほどの屈辱だったことと思います。医師の妻は察して、子を引き取ると申し出たのですが、イネは毅然と断り自分で育てたのです。楠本イネは、幕末から明治時代にかけての日本最初の西洋医としての女医でした。(月刊・ハーストーリーより)
下は、昨日届いた激震地(宮城県栗原市)のHさんからの葉書。表には、「東日本大震災には暖かいお励ましのお電話ありがとうございました。やっと水も電気もつき大丈夫ですのでご安心下さい。『生きている』だけで本当にありがたいです。彼岸の入りですね。墓参りしてきました。」と書かれています。
宅配も郵便も復活したようですので、何かお送りしたいと思っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/60/cfce4b50c957552d5f21af9b03d89286.jpg)
先日昨日手紙を書いて貼ろうとして、ようやくあの記事の意味が分かりました。もう殆ど使用した後ですが、薬師寺のものが残っていたのでupします。10枚セットの一枚が、薬師寺であることに今頃気付きました。9枚はドイツの景色。(殆ど世界遺産) 薬師寺も世界遺産です。上の写真はドイツで発行された薬師寺。下は日本のもの。(レーゲンスブルグ旧市街と薬師寺)
薬師寺は何度行ったか忘れるほどです。仏像、特に聖観音像は比類ないほど美しいし、花会式も見たことがあります。西塔再建の写経もしましたし・・・最初は中学の修学旅行。(岐阜市立の中学は東京でしたが、我々付属中は関西でした) まだ金堂も西塔も再建されていなくて、ひなびたお寺でした。あの頃の方が懐かしいです。今は余りにも絢爛豪華すぎて・・・
ここ10日間のpfaelzerweinさんの記事を読むと、原発事故の怖さが迫ってきます。日本のメディアとは異なる記述です。
でもリンクしているzooeyさんの原発の記事(3/20)は、明るくて救われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/86/0d5825e0643958440566db776f01b530.jpg)
とすると、我々の最も気になる東海地震も予兆があるということなのでしょうか。
公民館にも震災募金箱がありましたので、協力しました。近くのコンピニにも設置してありましたのでこちらも・・・写真は昨日の雪の仙台上空より。(ネットより)
昨日で、死者6539人となり、阪神震災の犠牲者(6434人) を超え、戦後最悪となりました。行方不明を入れると、16893人。
昨日の一首
地震後のすさまじき津波見つめゐる陸をのみこむ海の逆襲 Mさん