つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

津田梅子と共に渡米した留学生 1

2024-09-01 | Weblog
伊勢雅臣氏のメルマガより

■1.「大和魂はかえって日本女性に宿っていたのか」

 繁子が米国留学に赴かねばならない事を知ったのは、明治4(1871)年、静岡県の沼津で永井家の養女として静かな田舎暮らしをしていた時でした。その時のことを、繁子は後に手記にこう記しています。
__________
 突然横浜の兄からの使い[弟の克徳]が馬でやってきて、政府の命令ですぐ東京に戻るよう、私はアメリカという国に送られるということでした。私どもの驚きを想像してください― 何も知らぬ十歳の少女が未知の国に三年(伊勢注: 実際は10年)もの長い年月を過ごさねばならないなんて。それは1871(明治4)年のことでした。[生田、p35]
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 兄というのは繁子の生家の益田孝です。幕末に、幕臣としてヨーロッパにも派遣され、明治になってからは横浜に出て、外国貿易に着目し、この5年後には28歳の若さで三井物産社長となる傑物です。

 孝は女子留学生募集のことを知り、養女に出していた妹の繁子を参加させたいと、独断で願書を提出して、受理されました。そこで、弟の克徳を沼津にやって、繁子を東京に連れてこさせたのです。克徳はこの2年後に東京海上保険の総支配人となる人物です。

 留学生としてアメリカに送られることを知った繁子の様子を、孝はこう記しています。
__________
 克徳を沼津に送ると、繁子は大喜びで承諾し、父母同胞と別れることを恐れる色もなく、今日とは違い何事も事情のわからない異国への旅なので、故郷を離れるのはもとより心細いことのはずだが、涙一つこぼさず嬉々として出発したのは大胆というか、大和魂はかえって日本女性に宿っていたのか、と思わされた。[生田、p36、伊勢・現代語訳]
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 後に、繁子が語った話では、養母がきつい性格で、永井家の暮らしがいやでたまらなかった、ということでした。異国に旅立つ不安よりも、きつい養母から離れられる、ということが、大喜びの理由であったようです。そんな事情も知らない兄は、なんと大胆な妹かと驚かされたのです。

 繁子の伝記を書いた生田澄江氏は、繁子の性格を「生まれついての柔らかで、しなやかな適応性」[生田、p178]と評しています。この大喜びは、その適応性の最初の表れです。この後も繁子は様々な運命の変転を迎えますが、その都度、見事に適応して、幸運に変えてしまうのです。


■2.アメリカでの「第二の母親」

 アメリカへの出発前に、繁子は山川捨松[JOG(745),(747)]、津田梅子[JOG(1361)]など他の女子留学生とともに、皇后との拝謁を賜りました。皇后からは「よく勉学して、帰国した暁には、日本の女子教育のための婦女の模範となるように」とのお言葉をいただきます。皇后は日本の近代化のためには女子教育が不可欠と思し召され、この5人の女子留学生に期待をかけられたのです。

 渡米後、繁子は東部のコネチカット州ニューヘブンのアボット家に寄宿して、同家の経営する私立学校アボット・スクールに通いました。アボット家では老夫妻のもとで30代半ばで独身のエレン嬢が母親代わりに繁子の世話をし、かつアボット・スクールの校長を務めていました。スクールと言っても、数人の先生が数十人の生徒を教える塾のような規模の学校でした。

 アボット家は、他家に嫁いだエレンの姉妹が孫をつれて遊びに来たり、よく人を招いてご馳走をする賑やかな家風で、繁子はそのなかで伸び伸びと育っていきました。繁子が帰国して20年も経った日露戦争の際にも、エレンからは激励の手紙が届けられていることからも、繁子がこの「第二の母」との深い心のつながりを築いていたことが窺えます。

 繁子のもう一つの幸運は、将来の夫となる瓜生外吉(うりう・そときち)がアナポリス海軍兵学校の入学準備のために、同じくニューヘブンのピットマン家に寄宿したことでした。ピットマン家はアボット家と頻繁に行き来しており、同家の娘の一人は繁子と机を並べて勉強している同級生でした。


■3.日本で最初に西洋音楽を正規の大学で修了

 1878(明治11)年9月、6年のアボット家での生活と勉学の後、17歳になっていた繁子は、ニューヨーク州のバッサー・カレッジ音楽科に入学します。同じ年に、山川捨松も本科の方に入学しています。バッサー・カレッジは、醸造業で財をなしたマシュー・バッサーが、ハーバード大学やエール大学に匹敵する女子大を志して創設したものでした。

 同校はハーバード大学に次いで、女子大学では最初に音楽科を設けた先進校でした。当時のアメリカの上流家庭では、子女のたしなみとしてピアノを習うことが流行していました。繁子はアボット・スクールでもピアノや歌を習っており、音楽が好きになっていたようです。

 繁子はここで、ピアノやオルガン、声楽を習い、かつ音楽理論、音楽史、音響学などの科目を学びました。1年次の終わりには、音楽科の学生が演奏する学内コンサートがあり、繁子もシューベルトのピアノ曲を弾きました。学内雑誌は「ミス・ナガイは非常な繊細さと表現力でシューベルトを演奏した」と称賛しました。

 1881(明治14)年、繁子は3年間の音楽科の課程を終えて、卒業しました。在籍者27名のうち、ストレートに卒業したのは、繁子を含めて4名しかいませんでした。

 学友たちは「繁子は自由時間の半分を診療所で寝ている病気の女の子たちの看病にでかけていた」と語っています。また、繁子と捨松のことを褒めない教授はいなかったといいます。学業成績もさることながら、彼女たちの人柄の良さが繰り返し語られたようです。

 こうして、繁子は日本で最初に西洋音楽を正規の学校で学び、その知識と演奏の腕をもって、日本に戻っていったのです。


■4.文部省音楽取調掛でピアノ教師に

 繁子が明治14(1881)年10月に帰国すると、翌年3月には文部省の音楽取調掛(とりしらべがかり)でピアノ教師として採用されました。明治5(1872)年制定の「学制」による近代学校制度で全国各地に小中学校が設立され、そこでは音楽(唱歌)も正課に取り入れられましたが、教えられる教師もおらず、教えるべき曲目もありませんでした。

 そこで、唱歌を作曲し、音楽教師の育成を図るために文部省内に設けられたのが音楽取調掛でした。設立の中心となった伊澤修二は音楽教育を学ぶために、ボストンのブリッジウォーター師範学校に留学しました。そして帰国後、音楽取調掛を設立し、自ら掛長となったのです。[JOG(715)]

 その2年目に帰国した繁子は、まさに音楽取調掛が必要とした人材でした。繁子は、お雇い外人よりも達者なピアノの腕で、ピアノ専門の教師として、すぐに無くてはならない存在となりました。帰国時の繁子はほとんど日本語は話せませんでしたが、実技中心の音楽教育ではさほど障害にはならなかったようです。

 この点、繁子より1年遅れて帰国した山川捨松と津田梅子が、日本語が話せない事から文部省からもお呼びがかからず、仕事を見つけるのに苦労したのとは大違いでした。繁子は二人の身の振り方を親身になって心配しました。

 二人が日本の女性の地位の低さを嘆くと、「ここはアメリカではないの。日本なのよ」と諭(さと)したりもしました。このあたりにも「生まれついての柔らかで、しなやかな適応性」が感じられます。
写真は毎年自生する朝顔


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2通あったハル・ノート

2024-08-30 | Weblog

田中英道さんのメルマガより

2通あったハル・ノート

1941年11月26日、
アメリカは日本に交渉文書を提示します。

日本での正式名称は
「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」で、

交渉にあたったコーデル・ハル国務長官の名前から、
後に「ハル・ノート」と呼ばれるようになりました。

文書の内容は、アメリカ側が考える
国際秩序の安定策を提示し、

日本に要求をのむよう迫ったものです。
この中には、日本がのむ可能性のない、

・支那大陸やフランス領インドシナ(仏印)からの即時無条件完全撤退
・親日の南京政府に敵対する蔣介石政権支持への転換
・日独伊三国同盟の破棄

などの強硬的な内容が含まれていました。
つまりこれは、日本側に開戦させるための文書
以外のなにものでもなかった
と言うことができます。

ハル・ノートにはもう一通、
ハル国務長官が書いた「妥協案」が
別にあったことはよく知られています。

先の「強硬案」を作成したのは
ハリー・D・ホワイト財務次官補です。

そして、このホワイト財務次官補は、
ソ連軍情報部に内通したスパイでした。

ルーズベルトがソ連と
親和していただけでなく、
明確にソ連側の利害に立って工作を進める人物が
アメリカ政府内にいたわけです。

また、OSSには対ドイツ構想の立案スタッフとして
実際に、ホルクハイマー、アドルノ、マルクーゼら
フランクフルト学派の社会学・人文学者が
加わっていたこともわかっています。

ルーズベルトは「世界の社会主義化」を
目指していました。

OSSは、その目的を暗黙裡に
持っていた戦略組織でした。

OSS「日本計画」は、
階級闘争を起こさせ、軍部を孤立させ、

軍部と人民とは違うという意識を与えて
日本国内を混乱させることを
計画の基本に据えていました。

しかし日本は、計画通りにはならない
国柄を持っていました。


〝奇襲〟だと演出された「真珠湾攻撃」


日本に、OSS「日本計画」で予定されたような
階級分裂は起こりませんでした。

「大政翼賛会」に見られるように、
国難に対しては右派・左派の別なく、
一致団結して動きました。

戦後、「大政翼賛会は軍部に強制された組織であり、
国民を無理やり総動員するための天皇親政だった」
などとよく言われます。

しかし当時は、「一致団結して、国を、天皇を守ろう」
ということが国民の総意でした。

一般人のものも含め当時の日記資料を見れば、
それは明らかです。

ハル・ノートを突き付けられて
大陸からすべて撤退しろと迫られ、

石油を止められれば、日本は国家運営をしていけない
ということを皆わかっていました。

日本海軍は、国内に充満する開戦の気運を
しぶしぶのんだと言ったほうが事実に近いのです。

そして、アメリカは以前から日本を、
開戦せざるをえないという状態に
追い込む工作を続けていました。

大東亜戦争はアメリカが
熱望した戦争であり、

アメリカに脅迫されてやむをえず
日本が開戦した戦争です。

ハル・ノートはアメリカ国民に対しては
ひた隠しにされました。

あらゆる点から見て
理不尽な要求であるハル・ノートは、

そういった交渉を日本に対して
行っていることが表に出れば、

ドイツ潜水艦への挑発行為のように、
国内議会で問題にされてしまうべきしろものです。

1941年12月8日の真珠湾攻撃は、
ルーズベルトによって、
その奇襲性が演出されたのです。

突然、野蛮な、猿のような日本人が
襲ってきたかのように、
アメリカ国民には見えました。

それがまさにアメリカにとっては
「太平洋戦争」の開始であり、

日本にとっては交渉を重ねてきた末での
やむをえない「大東亜戦争」の開始
だったのです。

写真は今年の百日草


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ネパール報告

2024-08-29 | ボランティア
 私たちの海外ボランティア活動のうちネパールから一時帰国されている、Rさんの報告を昨日は聞きました。私が訪問したのは20年位前。そのころ王族同士の殺し合いがありましたが、今は治まっていて、別の人が支配。毛沢東の思想と、マルクスレーニン主義の両方が混在するため、複雑になっています。隣国のインドはそこを通らないと港に行けないこともあり、何かと圧力がかかるし、もう一つの隣国である中国との関係も微妙です。過去には英国に領土の一部を奪われています。
 女性は過重労働を強いられ、出産の日まで働き、畑で出産して片手に農機具をもう片手には赤ちゃんを抱いて帰宅する例もあります。彼女の夫君は、カースト制度のトップ。親戚は僧侶ばかりとか。子供さんの一人は日本留学中。ネパールでは海外留学が多く、日本は目的の国の一つのようです。
 他国から見ると、日本は安全であるし、清潔であるし、何もかも世界一。皆さんは感謝しなければならないと結ばれました。







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サチン君の仕事の中で 2

2024-08-27 | 学校
 昨日の英会話ではエランガ先生のご子息のサチン君の救急救命士の仕事の話を又一つ。今度は工場で作業中に中指と薬指と小指の先端を切断してしまった青年の話です。救急車を呼ぶ前に、機械の一部を壊し、飛び散った指先を取り出すことに始まったそうです。病院では、神経を繋ぐ細かい手術が大変だったようです。無事手術が成功し、元通り指が動かせるようになってご両親の喜びはひととおりではなかったらしいです。こんな手術が成功するのは日本だけのようです。
 食中毒が発生するのは世界で日本だけの現象のようです。不潔な国はありえないとか。

写真は今年のノウゼンカヅラ

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大阪音大同窓会幸楽会岐阜支部演奏会 60回記念

2024-08-25 | 文化
 加納高校同窓会のメンバー久野さんから案内頂いていた大阪音大同窓会幸楽会岐阜支部演奏会に、昨日は友人に乗せて貰いサラマンカホールに出かけました。第60回記念の演奏会です。久野さんは第一回から出ておられます。卒業して60年ですから学生時代からステージに立たれているということです。無論最高齢。中三の高木君が、リストのカンパネラを弾いたのにはびっくり。あのフジコヘミングをも凌ぐ技術でした。久野さんのシューベルトの「ます」第四楽章もとてもよかったです。60回を記念して、最後には全員でハレルヤを歌われました。ハレルヤのハレルはヘブライ語で、ヤは、ドイツ語のイエスにあたるヤーであることを指揮者から教わりました。




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源氏物語講話

2024-08-24 | 講演会
 二カ月前、放送大学のサークルから源氏物語の講話を依頼されていましたので、昨日は久しぶりにお話ししました。平成12年、平成21年に続いて三度目の短歌講話です。二度目の内容は学生ふれあい論集第一号に収められています。テレビの「光る君へ」を視聴されている方も多いので比較しながら話を進めました。まず平安時代の文化、服装、住い、時代背景から。このころの人口は700万人程度。枕草子を書いた清少納言との比較なども。
 源氏物語は世界最古の長編小説です。文字数100万字。原稿用紙なら2400枚。30か国に翻訳。挿入短歌が795首。光源氏も多くの女性と浮名を流しますが、その時代では普通のことでした。紫式部の御主人もすでに3人の妻がありました。娘の大弐三位も百人一首に歌を残しています。

ポスター

源氏物語人物相関図



配布資料


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悼・ 伊丹さま

2024-08-22 | わが家
 ブログを始めた20年位前から、交流のあった風様(伊丹様)が、今月15日に亡くなられました。リンクしていますし、お住まいが隣県の三重であることから、4回ほどお目にかかっています。ラインでの交流もあり、最後は入院されているベッドの上からのもの。肺炎を起され、「寝たきり状態、点滴と、酸素供給などで繋がれていますよ」という最後の言葉が届き、あとは私の返信は既読にならないまま、いたずらに日は過ぎました。それから20日後にご子息様から、ご逝去の通知がラインにありました。
 奥様も昔わが家に来ていただいていますが、気になりながら連絡出来ませんでした。本当にアクティブな方で、あちこち旅行され、ハンドルネームはスイスの村の名前でした。ブログの内容も多岐に及び、楽しみにしていましたのに本当に残念で悲しいです。安らかにお眠りください。享年79歳。     合掌

写真は庭の白いさるすべり。
 

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サンサンの会

2024-08-20 | 講演会
 昨日は午前中は英会話、午後は岐阜市立図書館でサンサンの会があり、忙しく過ごしました。エランガ先生はパリ五輪に行く予定でしたが、急遽取りやめになり別の所へ。代わりにご主人が行かれました。色々聞くと行かないでよかったという結論。セーヌ川は汚かったし、五輪選手を運ぶバスはエアコンもなく、窓は開けられていたというし、食事は野菜だけで肉は有料。水は1リットル700円もするし・・・英国はシェフもついていたそうですが。ネットではあの雨の中の開会式で炎が消えないのは日本だけの技術と世界が称賛していたのに、日本のメディアは伝えていません。これも変です。

 昨日はサンサンの会の講師は元岐阜大学副学長・農学博士の福井先生。定年後は農地を耕し140品目の野菜を作り、出荷されています。堀川ゴボウは京都しか作られていなくて、栽培方法も秘密。自分でそれを研究して作られています。経営も成り立っているのも凄いです。驚いたのは、農薬を使わず、害虫は天敵を活用されていること。例えはアブラムシを駆除するには天敵のテントウムシを飼い、ナスに来る害虫のヒメハナカメムシは、マリーゴールドを植え、そこに飛来する昆虫を活用されています。

 リンクしているokoさまが、読売新聞8/16付けに掲載されていると聞き、講演が始まる前に図書館で見てきました。月見草会員の千葉の石橋さんです。戦死された御父上の短歌をたくさん作られています。


ナスだけでも9種類


害虫駆除のためのマリーゴールド


読売新聞8/16朝刊より
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公民館短歌会 (199)

2024-08-17 | 短歌
 先月の公民館短歌会はコロナに感染していたため、休みしましたので、いつも8月は夏休みですが、昨日は開催しました。猛烈な暑さの中でしたが、和気あいあいと集まって下さり嬉しかったです。歌の添削に入る前に予定に従い、佐藤直子さんの歌集「大和幻想」の中で共感した作品を取り上げ、学びました。家庭菜園をされている人が多くて、次の作品を挙げておられました。

引き出しにしまひしままの花の種蒔くを忘れしことも忘れて
五分ほど草引く筈がたちまちに私を夢中にさせる二時間
生きゆくは楽しとばかり宙返りみみずは何度も腹光らせて
音きしむ箪笥に遺る銘仙の母の丹前縁にひろげぬ
「君は花にやさしい」のひと言に朝のトースト焦がしてしまふ

 3/4にも同じ歌集について書いていますが、私が挙げた作品と皆さんのものとは全く違いました。それでもう一度歌会のテーマとしました。著者の佐藤さんは会員全員に歌集を贈呈下さったからです。

今月の作品
名の通り黒く色づくブラックベリー雨が上がれば収穫をせむ  Hさん

写真は昨日まで盆帰省していた長男との夕食




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日航機123便の墜落から39年

2024-08-16 | 社会
 あの坂本九も犠牲になった日航機123便の墜落から今月12日で39年。御巣鷹山に墜落した直後の場所の情報も二転三転しているし、なぞだらけ。森永卓郎氏もそれに関する本を出しておられ、疑問があることはネットもで言われています。
 一言でいうと米国と日本政府がとんでもなく怪しいということです。なぜ尾翼が壊れたのか、なぜ39年もボイスレコーダーを秘密のままにして公開しないのか。第一発見者が米国側なのに、なぜ調査しないのか。海上自衛隊も関与しているらしいし、証拠隠滅の疑いもあるし。森永氏が公開を求めても強く拒否されているそうです。他の事件と比較すると、強硬にメディアも政府も隠匿しているらしいです。もともとは米国の会社の垂直尾翼の修理失敗かららしいし。日本は何年米国の植民地になっているのでしょう。

 昨日は娘の方の大学生の孫が第三陣として帰省予定でしたが、夕方からの激しい雷雨で、直接東京に帰ってしまいました。この中華弁当を一緒に食べる予定でしたが。


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